転機編・5 -From now on, From here- その晩。 オレはなんとなく寝付けなくて、森から出てすぐの場所で夜空を見上げていた。 明日、オレは人間に戻る。 ポケモンのまま生きられるならそれでもいいかな、なんて思ってたけど、やっぱりオレは人間として生まれついた。 だから、戻るべきなんだ。 分かってる。 それくらいは、とうに分かってることだ。 でも、やっぱり、名残惜しい気持ちがある。 いろいろと考えが止まらなくて、どうしても寝付けなかった。 夜風に当たれば少しは考えもまとまって、穏やかな眠りにつくことができるかと思ったけれど…… やっぱり、無理っぽい。 はぁ…… 気がつけば口からため息。 人間なら、誰もがこうしてため息を漏らすから、不思議にも思われないんだろうけどさ。 身体がポケモン――しかも雄々しきリザードンとなれば、それこそ考えられない。 気高く誇り高いリザードンにあるまじき行為だろう。 サトシのリザードンに見られたなら、そうなじられて当然だけど、あいにくと誰もオレのことを見てなどいない。 すでに研究所の敷地は静寂に包まれ、夜行性のポケモン以外はすでに深い眠りに落ちている頃。 オレは改めて自分の身体を見回した。 リザードンの身体。 翼が生え、空を自由自在に飛びまわれる。 昼間、ナミや他のみんなを乗せて空を飛びまわった。 ナミのガーネットも交えて、どっちが速く飛べるかって競争もしたけど、当然勝ち目などあるはずもない。 オレがリザードンに進化したのは今日だ。 翼は生えたけど、それなりに意識しなければ空を飛べない。 ガーネットは特別、意識なんてしなくても空を飛べるらしい。この身体になじんだ方が思うように空を飛べるのは当たり前の話。 もしオレがこの身体でバトルすることになったら、空を飛ぶことすらままならないかもしれない。 いちいち意識しなければ飛べないのなら、一瞬の判断が勝敗を左右するバトルで勝利するのは難しいんだ。 今思えば…… 三日前、すべてが始まった。 風邪で寝込んだオレが、ナナミ姉ちゃんが差し入れてくれた薬を飲んだら、身体がポケモンになった。 オレはヒトカゲに、ナミはゼニガメに。 それから三日間。 いろんなことがあったように思えるのは、人間としてではなく、ポケモンとして生きてきたからだろう。 普通に生きてたら経験できなかったこと、見ることができなかったもの、聞くことができなかったもの…… そして、知ることができなかったみんなの気持ち。 人間に戻っても、ポケモンとして生きていた間に見たり聞いたり感じたりしたことは忘れないんだろうか? なんか、ちょっとだけ不安。 身体の細胞が組み替わるんだ。頭だってどうにかなっちゃうかもしれない。 それでも…… オレは人間として生きるべきなんだろう。 人間として……この世界に生まれついたのなら。 ちょっと冷たい夜風を浴びたせいか、少しは考えがまとまってきた。 だけど、あと一つ。 問題はむしろそっちの方か。 「…………」 オレ、ホントは何がしたかったんだろう? ポケモンの身体で何日か生きてみて、ポケモンバトルも自分の身体でやってみて、いろいろと分かったことがある。 ポケモンだって生身の生物だ。 技なんか食らったら痛いに決まってる。 ヌオーとの戦いで、嫌と言うほど痛い思いをしてきた。 本気で死ぬんじゃないかって、人間だった頃には感じたことのない激痛だって味わった。 ポケモンになって、実際にバトルしてみなきゃ、ポケモンの痛みは分からないんだって、思い知らされた。 だから……かな? 分からなくなったんだ。 オレは、このままトレーナーを続けていくことができるのか……ってさ。 知らなかったことを自分の身で思い知って、本当にこのままトレーナーを続けていいのかなって、気持ちが揺らいだ。 人間に戻った後で、トレーナーを続けていけたとしても、みんなが相手のポケモンの技を食らう度に思い返しちまうだろう。 ……オレが、ヌオーの攻撃食らって、死んだ方がマシだって、少しでも思ってしまったこと。 だから、自信がなくなってきた。 ……トレーナーは捨てるけど、ブリーダーまで捨てようなんて思ってるわけじゃないんだ。 オレは最強のトレーナーと、最高のブリーダーになりたいって思ってきた。 両方を極めるつもりでやってきたけど、いつかはどっちかに絞らなきゃいけないってことも分かってた。 だけど、それは「いつかの話」であって、こんなに早く突きつけられるなんて思っちゃいなかった。 ……こんなの、誰にも見られたくないよな……なんて思ってる時に限って、嫌な予感は現実になる。 「バーナー(眠れないのか)?」 聞き慣れた声に振り返ると、ニコニコ笑顔のラッシーがやってきた。 「ガーっ(ああ)……」 ラッシーはオレの傍まで歩いてくると、星の瞬く夜空を見上げた。 ラッシーも眠れないんだろうか…… そう思って訊いてみたけど、首を横に振られた。 「バーナー、バナ、バーナー(アカツキが外に出て行くところを見たんだよ)」 でも、それって眠りが浅かったから気づいたっていうだけの話じゃないだろうか。 さすがにツッコミを入れる気にはなれず、オレはそれで納得せざるを得なかった。 ナミや他のみんなは遊び疲れて深い眠りに落ちている。 ナミは人間に戻るってことに不安も躊躇いもないから、大の字で眠っていられる。 まあ、あいつに不安や躊躇いなんてものがあるんだとしたら、世も末だってことなんだろうけど。 「バナ、バナ、バナバナ、バーナー(君は明日、元の姿に戻るんだろう)」 「ガーっ(ああ、そうだよ)」 ラッシーや他のみんなにはちゃんと事情を説明しておいた。 じいちゃんの言葉は、みんなには正しく伝わっていなかったんだ。 補足という意味で、みんなにちゃんと打ち明けた。 オレとナミは明日、元の身体に戻る――と。 みんな驚いていたけれど、やっぱりアカツキはアカツキじゃなきゃダメだって、ルースが言ってくれたのを思い出す。 やっぱり、オレは人間じゃなきゃいけないんだなって思った。 本当の意味でみんなと共に過ごすべきなのは、この身体じゃない。 人間の、十二歳の少年の身体だ。 「バナ、バーナー(不安なんだろ)?」 「ガーっ、ガーっ(少しだけさ)」 不安はある。 でも、そんなに大きくはない。 いつまでも親父や母さんを騙し続けるわけにもいかないだろう。 親父が昼過ぎに戻ってきて、オレに会いに来た。 戻ってくると聞かされてはいたけれど、本当に会いに来るなんて……オレはマジでビックリした。 でも、オレがビックリしたところで親父にバレるわけじゃないだろうから。 じいちゃんは、オレが風邪を引いてるってじいちゃんから聞いていた。もちろん、母さんも同じだ。 いつまでも風邪なんて言い訳が通じるとも思えない。 明日はちゃんと人間の身体に戻らなきゃ。 オレがこんな風にクヨクヨするなんて、やっぱりダメなんだ。 明日は笑顔で――研究所に行かなきゃ。 みんなに余計な心配をかけたくないし……オレらしくもないから。 「ガーっ、ガガーっ、ガーっ(でも、みんなとこうやって、同じ……ポケモンとしての身体で過ごしたからかな)? ガーっ、ガガーっ(いろんなものが見えてきたんだ。それだけで十分だよ)」 ポケモンの視点で見て。 ポケモンの身体で痛みを感じて。 ポケモンの言葉でみんなの気持ちを確かめて。 普通に人間として生きていては絶対に見えなかったもの、感じなかったもの…… それを感じたから、なおさら迷っちまうんだ。 「ガーっ(ラッシー)」 「バナ(なんだい)?」 「ガーっ、ガガーっ、ガーっ、ガーっ(オレが元に戻っても……戻った後も、よろしくな)」 オレの言葉に、ラッシーは大きく、笑顔で頷いてくれた。 暖かな気持ちが胸に溢れてゆく。 オレは思わず込み上げてくるものを感じずにはいられなかった。 オレ、やっぱ一人じゃないんだよな……ホントは見られたくなかったけど、ラッシー相手に隠し事をしてもしょうがない。 それに、言葉が言葉として通じるのは、今夜が最後かもしれない。 だったら、思い切って人生相談でもしてみるか。 冗談めいた考えに、思わず笑いが込み上げてきた。 ラッシーは「何をニヤニヤしているんだ?」と言いたげな顔で見上げてくるけど、まあ、それはそれでいいや。 「ガーっ、ガーガガーっ、ガーっ(相談に乗って欲しいことがあるんだけど)」 「バーナー(なに、改まっちゃって)?」 相談なんて、初めてだろうなあ。 ポケモンとして、言葉が通じる状態じゃ……さ。 でも、だからこそ聞いてほしい。 オレは思い切って、ポケモンの身体になって感じたこと、それからこれからどうしていくべきか分からなくなっていることを打ち明けた。 ――オレは今までトレーナーとして頑張ってきた。   だけど、ポケモンの身体になって、ポケモンバトルを自分でやって分かったことがあるんだ。   みんな、すっごく痛い思いしてまで、戦ってくれてたんだなって……   オレ自身がそれを理解しちまったから、これ以上トレーナーとして頑張っていけるかどうか自信がなくなっちまったんだ。 ……ホントに、これ以上みんなに痛い思いなんてさせていいのかって。 オレの言葉に、ラッシーは相槌を打ちながら耳を傾けてくれた。 弱腰だってなじるわけでも、聞く耳持たないって言って背中を向けるでもなく。 ただ、普通にオレの目を見て、聞いてくれた。 それだけのことだったけど、なんかすっごくうれしかった。 オレの話を一通り聞いた後で、ラッシーは少し考え込む様子を見せた。 やがて、落とした視線を上向かせ、まっすぐにオレを見やり、 ――それを決めるのはアカツキ、君だろ。   そりゃあ、痛い思いはしてきたけど、それも君のためだって思ったからだ。   でも、君がそう思っているなら……オレたちのことを考えてくれてるんだったら、望んだとおりにやればいいさ。 どっちを選んでも、オレたちは君についていく。 オレは、君の最初のパートナーで、最後までパートナーでいる。 ず、ずるいってそれ…… ラッシーはオレに任せるって言ってくれてるけどさ。 ……だけど、話をしてみて、やっぱり無理だって分かった。 ポケモントレーナーは、ポケモンを戦わせる。 トレーナーに限らず、ブリーダーだって時々はポケモンを戦わせることがある。 でも、ポケモンの痛みを知ってしまったオレに、これ以上トレーナーを続けてくことは無理だって。 オレの顔を見て、ラッシーは何が楽しいのか笑みなんて浮かべてきた。 ――な、なんだよ。 ――難しく考える必要ないって。オレはどっち選んだっていいって思ってるし。 ――あのなあ……そういうんじゃなくて。   ラッシーやみんながあんな痛い思いしてまで、オレのために頑張る必要なんてないんだよ。   ……今まで気づいてやれなくて、ホントにごめん。   オレ、トレーナーやめるよ。ブリーダーになる。トレーナーの分まで、ブリーダーとして頑張ってく。 ――本当にいいのか? ――ああ、決めた。男に二言はないぜ。 正直、迷ってるところはあったけどさ。 でも、みんなにこれ以上、辛い思いはさせたくない。 今までは、トレーナーだから頑張らなきゃいけないって思ってた。 ホウエンリーグに、カントーリーグ。 それから未来でサンダーと戦ったことも含めて。 今まで、本当にみんなを辛い目に遭わせ続けてきた。 知っちまった以上、続けるなんてできるわけないだろ。 ……やろうとしたって、絶対どこかで無理が出てくる。 だったら、トレーナーはここで止めて、ブリーダー一本に絞るってのも手だ。 いつかはどこかで決めなきゃいけないんだから、思い切って決めた方がいいに決まってる。 強引だって分かってるけどさ。 ……でも、もう無理だって分かっちまった。 ポケモンの痛みを自分の身体で理解しちまったんだ……何か、心を折られちまったって感じなんだよ。 もし、ポケモンの身体にならずに、自分の身体でポケモンの痛みを味わなかったら……たぶん、こんな風に思うことはなかったと思う。 だから、かな……? 決めるっきゃないって思ったんだ。 理由なんてない。 直感としか言いようがない。 後悔しないって言いきれないけど、それでも、オレはみんなに元気でいてほしい。 ――決めたんだ。 オレの目をじっと見据えて、ラッシーも理解してくれたらしい。 ――分かった。君の判断に任せる。   君がそれでいいって言うんだったら、そうすればいい。みんなも分かってくれる。 ――ありがとな、ラッシー。それから……ありがと。ずっとオレの傍にいてくれるか? ――言われるまでもない。 ……やっぱり、ラッシーがいてくれて良かった。 オレは明日からブリーダーとして頑張っていくけれど……今まで頑張ってきた経験は無駄にならないはずだ。 トレーナーとしての経験も生かしながら、ブリーダーとして頑張ってく。 未練はある。 否定はしないし、できないさ。 だけど、やるって決めた以上、いつかはちゃんと迷いも未練も断ち切って、立派なブリーダーになってやるんだ。 みんなにはまだ伝えてないけど……もう夜も遅いし、明日、人間に戻れた後で伝えてみる。 もしかしたら、ラッシーが先に伝えちまうかもしれないけど、それでもオレが、オレの言葉で伝えなきゃいけない。 そうと決まれば、やることは一つだ。 「ガーっ(もう寝る)」 オレは一方的に言って、ラッシーに背を向けて歩き出した。 ラッシーは何も言わず、じっとオレの背中を見てた。 振り返ったワケじゃないけど、視線が刺さるのが分かる。 オレは気にしないで歩き続けた。 寝床に戻って、うつ伏せになって身体を丸め、そのまま目を閉じた。 さっきまで寝付けなかったなんて嘘のように、寄せては引く波のように、心地良い眠りが訪れた。 翌日。 ポケモンになって五日目。 そして、ポケモンとして生きる最後の日。 日も昇らぬ早朝に、オレとナミは叩き起こされた。 朝方の空気は冷たくて、じいちゃんとナナミ姉ちゃんはコートを羽織り、吐く息は白かった。 朝早く起こされたのは、親父が行動を開始する前に決着をつけようってことだ。 オレもナミもそれは分かっていたから、じいちゃんと姉ちゃんが黙って差し出した茶色いビンを見ても、驚きはしなかった。 ラベルこそ貼っていないけれど、その中身が何であるかは言うまでもない。 ただ…… 「これを飲む前に、アカツキ、ナミとわしらを乗せて研究所に運んでくれ。その方がやりやすい」 「ガーっ(うん)」 オレはじいちゃんの言葉に頷いた。 ここで飲んで人間に戻っても、じいちゃんと姉ちゃんが研究所まで運ぶのは面倒だ。 だから、研究所の傍まで行ってから薬を飲めば……オレとナミを部屋に運ぶのは簡単だ。 オレは背を低くして、じいちゃんたちが乗りやすいように気を遣った。 刹那―― 「カメ〜っ(またアカツキの背中に乗って空を飛べる〜っ)♪」 ナミが、声を潜めながらも陽気に言った。 オレの背中に乗って空を飛べるのがうれしい……か。 そういや、昨日もオレの背中に乗って、楽しそうにしてたっけ。 あまりにはしゃぐものだから、危うく落としそうになったけど。 それはそうと…… 「ガーっ(早く乗れ)」 オレの言葉に促され、ナミは背中にひょいっ、と飛び乗った。 それから、じいちゃんとナナミ姉ちゃんが慎重に乗る。 首を動かして三人が乗ったのを確認して、翼を広げ飛び立つ。 三人分の重量は百キロを越えているけれど、そんなに重くは感じない。 人間ならかなり大変な重さだけど、リザードンの身体なら『重い』とは思わないな。 湖の向こう――緩やかな丘の上に建つ研究所を目指して、風を切って空を舞う。 身を裂かんばかりの冷たい風。 いくら体内で炎を燃やすことができても、寒いと感じてしまう。 時折身を震わせるけど、じいちゃんたちを地面に落とすわけにはいかない。 ナミなら落ちても甲羅でガードできるけど、生身の人間は落ちたら大ケガだ。 こうやって空を飛ぶのも最後か。 研究所にたどり着き、地面に舞い降りたら……もう、二度とこうやって自分の身体で空を飛ぶことなんて、できないんだろうな。 そう思うと名残惜しさが急にこみ上げてくるけれど、だからといって気の済むまで飛び回っていられるほどの余裕はない。 親父が行動を起こす前に、オレたちが人間に戻らなければならないんだ。 ポケモンとして生きてきた四日間が走馬灯のように脳裏を過ぎってゆく。 考えにふけっている間に、湖を飛び越えて、研究所の前までたどり着いていた。 物音を立てないように(ケンジを起こさないように)ゆっくりと地面に降りる。 翼をたたんで、背中を低くする。 じいちゃんたちが降りて、オレの目の前まで歩いてくる。 「アカツキ、どうやら気を遣わせてしまったようじゃな……」 じいちゃんが眼を細めて言う。 「大丈夫じゃ。ケンジの昨晩の食事には睡眠薬を混ぜておいたから、ちょっとやそっとの物音では起きんよ」 「そういうこと」 その言葉に、ナナミ姉ちゃんがニコニコ笑顔で頷く。 「…………」 なるほど…… 睡眠薬を混入したのは姉ちゃんだな――オレはすぐに確信した。 だって、風邪を引いてオレが寝ていた部屋の前にはペルシアンを、天井裏にはアリアドスを配し、 逃げ出したり外に出られないようにしてたんだ。 それくらいのことは朝飯前だろう。 ……もちろん、誉め言葉じゃないけれど。 「じゃあ……飲んで。苦いと思うけど……これも、人間に戻るためよ」 言って、姉ちゃんが蓋を開けたビンをオレに差し出す。同じように、じいちゃんがナミに差し出す。 オレはビンを受け取り―― うっ…… 開け放たれたビンから漂う凄まじい臭いに、オレは顔をしかめた。 「カメぇぇっ(くさ〜い)……」 ナミも渋面になっている。 さすがにこの臭いはキツイらしい。 人間よりも優れた嗅覚だからこそ、この臭いはマジでキツイ。四日前よりもヒドイぞ、これは。 こんな薬を作った製薬会社に一瞬殺意が湧いたけど、オレは意を決してビンの中身を一気に飲み干した。 一瞬の甘味。 直後に広がる苦味。 うげぇ……とっても苦い。 いろいろと薬になりそうな有効成分を抽出して配合したらしいんだけど、良薬は口に苦しってことか。 臭いのみならず、味もかなりキツイ。 でも…… 飲み干した直後、手に力が入らなくなり、オレはビンを落としてしまった。 拾い上げようと思ったけれど、急激な脱力感が全身に広がり、オレは身体を動かすこともできなくなった。 これが、薬の…… 視界がぐにゃりと歪む。 身体の自由が奪われるのとほぼ同時に、意識まで遠のいていく。 これは、あの時と同じ…… だとしたら、本当に人間に…… その場に倒れ込むよりも早く、意識が飛んだ。 「起きて、アカツキ」 声が聴こえる。 一瞬、誰の声かと思ったけれど…… オレは目を開けて、その人物を確かめた。 ナナミ姉ちゃんが笑顔で身を乗り出して、オレの顔をじっと見つめている。 オレは…… そういえば、あの薬を飲んで、そのまま眠っちまったんだっけ。 だとすると、ここは……? オレは身を起こし、室内を見渡した。 四日前、オレが寝込んでいた部屋だ。 当然、内装なんて変わっちゃいないし、家具の配置もそのまんまだ。 でも、妙に懐かしさを感じるのは、ポケモンとして生きていたからで…… 「ん……?」 何か引っかかるものを感じて、オレは自分の身体を見やった。 肌色の手、足。 身にまとっているのはパジャマ。 これって…… 当然のことなんだけど、理解するのにちょっとだけ時間がかかった。 「成功よ。あなたはちゃんと人間に戻れたの。ナミも同じ」 「そっか……戻れたんだ……」 オレはベッドを降り、鏡の前まで歩いていった。 鏡に映った姿は、紛れもなく人間で、オレ自身のものだった。 顔も、背丈も……四日前と変わらない姿がそこにはあった。 オレはホッと胸を撫で下ろした。 ちゃんと人間に戻れたんだ……良かった。 じいちゃんの言いつけを破って進化して、もしかしたら元に戻れないんじゃないか、なんて不安に思ったりもしたけれど…… 戻れたのなら、それ以上にいいことなんて、あるはずもない。 「あれからどれくらい経ったんだ?」 オレは姉ちゃんに向き直り、訊ねた。 姉ちゃんは軽く頷いて、答えてくれた。 「一時間ちょっとよ。 もうすぐショウゴおじさんがここに来ると思うけど…… まあ、人間に戻ったんだから、ポケモンになってたってことを話しても大丈夫よ。 あの人が信じるかどうかは分からないけど」 「そっか……でも、信じるかもしれないよ?」 「証拠が残ってないんだから、問題ないわ」 オレの言葉なら、親父は問答無用で信じるかもしれない。 でも、姉ちゃんの言う通りではある。 信じるにしても、証拠がないんだから。完全な形で証明されることはない。 じいちゃんとナナミ姉ちゃんにとっては、それだけで十分だってことなんだろう。 「人間に戻ったんだな、オレ……」 「ええ」 オレは改めて身体を見回した。 ちゃんと戻ってるし、人間の言葉を話せる。 そっか、戻っちまったんだな。 「なんだか、心の底から満足してないって顔ね」 「……!?」 突然投げかけられた言葉に、オレは驚いて顔を上げた。 姉ちゃんが、困ったような笑みを浮かべている。 「あなたは元から人間なんだから。ポケモンとして生きていくのは無理よ」 「…………」 姉ちゃんの言葉は正しい。 だけど、オレは思っていることを素直に打ち明けた。 「もし、元の身体に戻れなかったら……オレはポケモンとして生きていくのも悪くないって思ってた。 でも、今になって思えば、それって無理なことなんだよな……」 「そうね。実際にポケモンの身体にならなきゃ、分からないわよ」 姉ちゃんは相槌を打ってくれた。 オレは人間として生まれたんだ。 だから、何があっても人間として生きていくしかない。ポケモンの社会に完全に溶け込むことは、無理なんだ。 だって、オレがポケモンになっていた間……意識は人間のものだったから。 完全な形でポケモンになりきるのに、人間の意識は余計なものでしかなかった。 もし人間の意識を捨てることができたなら……それは完全にポケモンになるってことだ。 でも、それは無理だった。 四日間過ごして、それがよく分かる。 「だけど、あなたは元に戻れたの。 元気な姿を、ラッシーたちに見せてあげなさい。今のあなたがやるのは……やるべきなのは、そういうことじゃないの?」 「……っ!!」 オレは息を飲んだ。 オレが人間に戻ることを、ラッシーたちは心待ちにしていた。 ポケモンとして接してもらうのはそりゃうれしいだろうけど、やっぱり今まで通り、 トレーナーとポケモンという関係に慣れてしまったラッシーたちなら、オレが人間に戻って、元気になった姿を見たいと思うだろう。 オレが気づく前に、姉ちゃんに教えられた。 「そうだな……そうするよ。ありがとう、姉ちゃん」 「うん。身体は大丈夫そうだし……また後でね」 「分かった」 姉ちゃんはそそくさと部屋を出た。 一人になって……オレはさっそく着替え始めた。 パジャマを脱いで、クローゼットからいつもの服を取り出し、袖を通す。 やっぱり、こうやって袖を通す感覚がいい。 オレはポケモンになりきれなかったんだって思い知らされるけど、元通りの生活に戻れた喜びは拭いようがなかった。 四日ぶりに着る服。 オレは着替えた後、もう一度鏡の前に立った。 「……やっぱり、これが『オレ』なんだよな」 見た目もモノの考え方も子供で……でも、みんなを想う気持ちは誰にも負けない。 青臭くても構わない。 「…………」 鏡の中の自分をじっと見つめて―― 開け放たれたカーテンから柔らかく暖かな朝陽が差し込んできた。 誰が決めたわけではないけれど。 オレはそれを合図にした。 今日から、トレーナーじゃなくて……ブリーダーとしてガンバらなきゃな♪ 人間に戻っても、ポケモンだった頃に味わった痛みを忘れられるわけじゃない。 オレのエゴで、みんなに同じ痛みを味わわせることはできないんだ。 だから、オレはトレーナーじゃなくて、ブリーダーとして、みんなに辛い思いをさせないように頑張っていく。 「さ、行くぜ、アカツキ!!」 オレは頬を軽く叩き、部屋を飛び出した。 ……ちゃんと戻れたことを。これからもずっと一緒にいられるってことを、みんなに伝えたくて。 居ても立ってもいられなかった。 だけど、研究所の敷地に飛び出したところで、オレは声をかけられた。 何気なく足を止めて振り返り―― 「お、親父……!!」 そこにいたのは親父だった。 もうすぐここに来るとナナミ姉ちゃんが言っていたけど、いくらなんでも早すぎやしないか? 人間に戻れたとはいえ、やっぱりポケモンとしての感覚もまだちょっと残っているみたいだ。 昨日、リザードンだった時に親父が顔を見せたんだけど……その時のことを髣髴とさせる。 あからさまに驚くオレに笑みなど向けながら、親父は額に触れてきた。 「風邪は治ったようだな。よかった」 「心配かけちまったけど……大丈夫だよ。もう、平気さ」 「うむ」 どうやら、オレがポケモンになっていたってことは知らないらしい。 二人っきりの今なら、遠慮せずに話してきても不思議じゃなかったからだ。 でも、親父にバレてないとなると、じいちゃんと姉ちゃんが半殺しの憂き目に遭うこともないんだろう。 そっちの意味でも、めでたしめでたし、ってところだろうか。 なんて思っていると、 「そのスカーフは? ずいぶんと汚れているぞ」 「へ?」 親父が首に手を伸ばしてきた。 目を向けると…… げっ!! さっきは気づかなかったけど、赤いスカーフが巻いてあるし!! ヒトカゲになった時に、見分けがつくようにとじいちゃんが巻いてくれたんだけど…… それっきり離すことがなかったから、ついつい忘れてたんだ。 じいちゃんも姉ちゃんも、外し忘れたな……!? 肝心なところで詰めが甘いんだから!! オレがスカーフを巻いているところを…… スカーフを巻いたリザードンの姿は、親父も見たはずだ。下手を打てばバレるぞ、そこから。 どうやって誤魔化そうかと、視線を泳がせつつ考えていると、 「これは俺の想像でしかないんだが……」 そんな前置きをする。 これってもしかして、バレてる? まあ、ちゃんと人間に戻った後だから、証拠なんて残ってない。 論より証拠ってよく言うけれど、その通りだ。 そうなると、バレてるかもしれない。 そうじゃなきゃ、わざわざ前置きする必要なんてない。 「…………」 マジでヤバイんじゃないだろうか? でも…… 一応、想像とやらを聞いてからでも遅くはないだろう。 今さらじいちゃんたちが半殺しにされるなんてことはないだろうし。 オレの胸中で一区切りついたと悟ってか、親父が口を開く。 「おまえとナミはポケモンになっていたんじゃないのか? おまえはリザードン、ナミはカメール。 そのスカーフは、そういうことじゃないかと思うんだが…… それに、親父の態度もどこか余所余所しかったな。何かを隠しているようだった。 あれだけ必死に隠すこととなると、お前の身に何かがあったということくらいだ。 単なる風邪なら、つまらない言葉で繕う必要もなかったわけだしな」 「…………」 マジで当たってるし。 想像なんて言ってるけど、完全に断定してるだろ、それは。 「どうやら、当たりのようだな」 「ああ……」 今さら隠し立てしてもしょうがない。 オレは素直に認めた。 証拠がないんだ、認めたところでそれ以上にはならないだろう。 それに、どうせ認めるのなら、オレの口からすべてを話そう。 その方が、じいちゃんの手をわずらわせずに済む。 「オレ、風邪で寝込んでたんだけど…… ナナミ姉ちゃんが差し入れてくれた、WHOが認めたっていう新処方の薬を飲んだら、身体がポケモンになっちまったんだ」 「ほう……どんなポケモンに?」 「ヒトカゲ」 「ほう……ヒトカゲになったのか」 「ああ……」 どんな反応を見せるんだろうと思ったけど……親父は興味津々といった様子だった。 表情も瞳も、おじさんとは思えないほどキラキラ輝いている。 そりゃあ、息子が一時的にとはいえポケモンになったとなれば、それなりにいろいろと気にはなるんだろう。 確かめる術がないから、なおさらだ。 「ヒトカゲの身体になって驚いたけど…… でも、そのおかげでラッシーたちといろいろ会話をすることができたし、いい経験になったって思ってる。 バトルもしたし、進化だって経験した。 ポケモンがこんな風に戦って、生きてるんだなって分かったからさ。 オレ、今までトレーナーとしてポケモンのことを最大限に考えてきたつもりだったけど…… 今思えば、足りなかったものの方が多いかなって」 「そうか……おまえがそう言うのなら、いい経験だったのだろう」 「うん。ポケモンの痛みも知った。それに、楽しさも……」 「では、昨日会ったリザードンがおまえだったんだな」 「一応」 「そういえば、あのリザードンもどこか余所余所しかったような気がするな。 俺の顔を見た途端に、身体を強張らせていた。そうか、あれがおまえだったとはな……」 ニコリと微笑む。 「バトルで進化しちまったんだよ。 進化するなって、これ以上身体の細胞を変えないようにと言われてたんだけどさ。 いろいろとやむを得ない事情というか、不可抗力というか……気づいたら一日でリザードンにまで進化しちまってた。 あんな風にポケモンはバトルをして……痛い想いまでしてオレのために頑張ろうとしてくれてるって分かった」 親父はいつしか、完全に興味に取り憑かれてしまったような、恍惚とした表情になっていた。 聞いてないな、この分だと。 まあ、別にいいけど。 人間がポケモンになる、なんて非常識な事象が実際にあったわけだ。 研究者としてはこれほど探究心をくすぐられることもないんだろうけど…… もしかして……オレは親父の恍惚の表情を見やりながら、ふと気づいた。 じいちゃんとナナミ姉ちゃんとハルエおばさんは怯えてたんだよな。 オレがポケモンになってたってことを親父や母さんに知られたら半殺しにされるんじゃないかって。 もしかすると、それって考えすぎじゃないだろうか? なんとなくだけど、そんな気がしてきた。 「なあ、親父……」 「なんだ?」 ニコニコ笑顔のまま、言葉を返してくる親父。 やっぱり、そうかもしれない。なんとなくが、確信に近づく。 「じいちゃんは、親父に知られると何されるか分からないって怯えてたみたいだけど……親父、そんなことしないよな?」 「当然だろう。 トモコはどうするか分からんが……少なくとも、俺が親父たちに危害を加える理由はあるまい? むしろ、一緒に研究したかったな。面白いことになっていたかもしれなかった」 オレの問いに、親父は深々とため息を漏らした。 「おまえがポケモンになった翌日……か。 親父と電話越しに話をしたんだが、その時にでも打ち明けてくれれば、学会なんてすぐに抜け出して戻ってきたものを…… せっかくの楽しみをフイにしてくれた礼はしなければならんな。 だが、新処方の薬とやらの研究をすれば、おまえがポケモンになってしまった理由も解明できるかもしれんな。 よし、次のテーマはそれにしよう」 「ほ、本気か……?」 「もちろん本気だとも。こんな面白いテーマを放っておくなど、研究者の風上にも置けん」 「…………」 この分だと、本気で新処方の薬の研究をして、その成分が人間に与える影響とかも調べて、 人間がポケモンに一時的とはいえ変化してしまうメカニズムを解明するのかもしれない。 でも、オレとナミは風邪を引いていたし…… そういう『偶然』の要素もあっただろうから、完全な形で解明するのは難しいかもしれないけど、親父ならやってしまうかも。 いや…… そこまでやるのなら、自分もポケモンになろうと、わざと風邪を引くようなことにも…… つまんない考えだけど、ありうるからマジで怖い。 「あ、そうだ」 怖いことを考えたくなくて、オレは強引に話題を変えた。 親父が絶対に食いついてくる、あの話。 「オレさ、ポケモンになってみて、みんなの痛みってのを理解したんだよ。 ……だから、トレーナーとしてガンバってく自信がなくなったんだ」 「うん?」 案の定、親父は眉根を寄せて、訝しげな表情を向けてきた。 「オレ、ブリーダーになる。ブリーダーとしてこれからやってく」 「どういう風の吹き回しだ? 言いたいことは分かるが、早く決めすぎているような気がするぞ」 「みんな、あんな痛い想いしてまで戦ってたんだ。 オレは、みんなが辛い想いしてくれてまでオレのために頑張ってくれてるから、オレも頑張ろうなんて、甘いこと考えてたんだよ。 ……でも、実際にポケモンになって戦ってみたから分かるんだ。 あれ、辛いなんてモンじゃない。 オレが感じたのは、死んだ方が楽だって思える痛みだったから。 ……みんなもそんな痛みを味わってたんだなって考えると、これ以上続けていく自信がなくなったんだ。 それだったら、ブリーダーに賭けてみたいって思ったんだ。 ほら……オレ、一応あの本が手元に届くまで旅に出なかったし」 「ティーナの本か?」 「うん」 「そうか……おまえが決めたんだったら、別に俺は何とも言わん。 研究者以外になりたいと思うんだから、俺が口を出したところでしょうがないだろう」 「まあ、そりゃそうだけど……」 なんか、想像と違うなあ。 親父の反応は、意外とドライなものだった。 食いつかれるとばかり思ってたんだけども。 でも、賛成も反対もしないんだから、自分で考えて決めろってことなんだろ。 もちろん、考えて決めたことだ。 ……だけど、当分は迷いとか未練とか、捨てきれずに悩むと思う。 それでも、オレはブリーダーになる。 旅に出るその時まで、オレはティーナの本をずっと待ち続けてた。 今になって思えば……オレ、本当はブリーダーになりたかったんじゃないかって。 都合いい話だけどな。 それでも、トレーナーとしてやっていくのはもう無理だ。 「だが、男なら一度決めたことをたやすく覆すな。 おまえなら、いいブリーダーになれるだろう。 ポケモンの痛みを自分の身体で理解して、自分で考えてブリーダーとして頑張っていくことを選んだんだ」 「ありがと。お世辞でもうれしいぜ」 「そんなつもりはないんだがね」 親父の言葉は、何気に胸にグッと来た。 お世辞でもうれしいけど、親父はどうも本気で言ってくれてるらしかった。 おどけるように、大仰に肩なんかすくめてみせてさ。 ……でも、親父にそこまで言われちまった以上、頑張って頑張って頑張りぬいて、トップブリーダーくらいにはならなきゃな。 また『研究者になれ』なんて言われたら困っちまうしさ(笑) ま、ブリーダーとしてやってくって決めたからには、やることは一つさ。 「オレはラッシーたちのところに行くよ。 あ、そうだ。親父、じいちゃんたちには何もしないでくれよ。 ナナミ姉ちゃんだって、オレに元気になってもらいたくて薬を届けてくれたんだから」 大丈夫だとは思いつつ。 けれど、どこか一抹の不安を拭いきれなくて、オレは親父に念を押した。 分かっているのか、いないのか。 親父は大きく頷いた。 「分かっているさ」 まあ、分かってるって言うからには、別にいいんだけど…… オレは気持ちを切り替えて、駆け出した。 人間もポケモンも同じだ。 それは、ちょっと冷たいけど清々しい朝の空気を感じる気持ちだったり、朝陽を美しいと思える感性だったり。 朝陽に煌めく湖を迂回し、ラッシーたちのいる森へと向かう。 朝が早いこともあって、研究所の敷地はとても静かだった。 この分だと、湖の暴れん坊、ヌオーもおとなしくしているようだ。 リザードンだったオレの竜の怒りをまともに食らって、やる気をすっかり削がれてしまったらしい。 やりすぎたかも、とは思うけど、湖の秩序を守るためには仕方がなかった。 早起きな鳥ポケモンたちが空を舞う以外は、目立った動きもない。おかげで簡単に森にたどり着くことができた。 「…………」 ラッシーが好きな空気を存分に吸い込みながら、オレはゆっくりと森を進んだ。 人間に戻ったオレを見たら、みんなどんな表情を見せるんだろう。 素直に喜んでくれるだろうか。 不安なんてないけれど、やっぱり驚くのかな。 どっちにしても、オレが人間に戻ったってことは、みんなに伝えなきゃいけない。 今まで通りの関係を続けていくには、やっぱりオレは人間でなければならないんだ。 それに、これからは違う道に進んでいくことも。 オレの口から、話さなきゃいけない。 言葉は考えてるけど、たぶんどんな状態でも、言うことは変わらないと思う。 考え事をしているうちに、ラッシーの寝床……巨木の傍に差し掛かる。 木の根元に寄り添うように、ラッシーが眠っている。 昨日はいろいろあって疲れているんだろうか、オレが近づいても、まったく気付かない。 オレはラッシーの傍で腰を下ろした。 穏やかな寝顔。 こうやって見てみるのは、ずいぶんと久しぶりのような気がする。 最後に見たのは、一体いつだっただろう? 記憶の引き出しを片っ端から開けてみるけれど、思い出すことができなかった。 「ラッシー……」 オレは小さくささやきかけながら、ラッシーの頭をそっと撫でた。 起きなくても、起きるまでずっとここにいるつもりだ。 でも、ラッシーはすぐに起きてくれた。 目を開けて、首を動かしてオレの方を向く。 オレは素直な気持ちで微笑んだ。 「バーナー……」 ラッシーが小さく嘶く。 その表情には喜びの色。 だけど、ラッシーが何を言っているのか分からなかった。 人間に戻ったことで、ポケモンの言葉を失ってしまったからだ。 でも、何を思っているのかは、表情で分かる。 「オレ、ちゃんと元に戻れたよ。 みんなの言葉は分からなくなってしまったけれど……何を思っているのかは、ちゃんと分かるから、安心していいよ」 「バーナー……」 オレがラッシーの気持ちを察することができるように。 ラッシーもまた、オレの気持ちを察してくれているのかもしれない。 ポケモン同士で話をして、互いの気持ちを確かめ合って……その時から、絆が一層深まったのを感じていたんだ。 だから、確信できる。 「今までよりも……ずっとみんなの気持ちが分かるから。 今までよりも、ずっとずっと頑張っていけると思う。 だから、これからもよろしくな」 「バーナー……」 ラッシーは大きく頷き、立ち上がる。 背中の蔓の鞭を伸ばして、オレの手首に巻きつける。 「なあ、他のみんなはどこに行ったんだ?」 「バーナーっ!!」 返事の代わりに、ラッシーが森中に響くような咆哮を上げる。 耳元で大きな声を上げられて、オレは思わず驚いてしまったけれど……咆哮の意味をすぐに理解した。 というのも…… 「バクっ!!」 「ブーっ……」 「ピッキー♪」 「ラージ……」 みんなが、周りの木陰から次々と顔を覗かせたんだ。 ……って待てヲイ。最初からいたのかよ!? もしかしたらラッシーは眠ってなんかいなくて、みんなしてオレが来るのを待ち受けていたとか? うー……ここまで来ると、みんなにハメられたとしか思えない。 だけど、なんかうれしい。 みんなしてオレが来るのを待っててくれたんだ。 人間に戻ったオレを待っていてくれた。 それだけで、胸が詰まりそうなんだ。 ラズリーが、リッピーが、レキが、ルースが、レイヴが、ロッキーが。 他のみんなもいる。 まるで誕生日に仕掛けるドッキリだったけど。 今までに感じたことのない大きな喜びで、心はぬくもりに満たされていた。 みんなが走ってくる。 ルースなんて涙目で、抱擁を求めるように手を大きく広げてる。 イタズラが大好きなレイヴとロッキーも、本当にうれしそうな顔を見せてくれている。 みんなとの距離が少しずつ縮まっていく。 そこからはあっという間だった。 みんなが津波のように押し寄せて、オレは押し競饅頭の中心にいるように、揉みくちゃにされた。 みんなして手を出してくるものだから、くすぐったかったり、ちょっとチクッと来たり。 でも、あんまり気にならなかった。 感情が豊かとは言えないリンリも、喜びを最大限に表現してる。 言葉ではなくても、態度で分かる。態度で示すなんて、リンリらしい。 オレは揉みくちゃにされながらも手を動かして、みんなの頭を撫でたりした。 ポケモンとして生きていても、みんなとはこういう風に接することができたと思うけれど…… オレはみんなと、人間として出会った。 だから、これからも人間として、一緒に頑張っていきたい。 種族は違っても、心の奥底にあるものは同じだって、実際にポケモンになって、そう思ったから。 だから…… 「みんな、ただいま」 心の底から出た一言。 やっぱり、みんなはオレが人間でいることを望んでいるみたいだった。 当然だよな。 今までそうだったんだから。 まあ、ポケモンのままでも受け入れてくれてたとは思うけど、違和感はあったに違いない。 「……オレ、ポケモンになって分かったことがあるんだ。 みんな、痛くて辛くて……そんな想いしてまで頑張ってくれてたんだって。 でも、オレのエゴでそんなのを押し付けちゃダメなんだって思ったんだよ。 だから……オレ、ブリーダーになる。 みんなを戦わせたりしないで、みんなと一緒にブリーダーとして頑張っていくことにするよ。 結構あっさり決めちまったからさ……時々は迷ったり振り返ったり、立ち止まることもあるかもしれない。 だけど、オレはブリーダーになる。 ブリーダーとして、みんなを今以上に輝かせる。幸せにするって約束する。 だから、オレと一緒に来てくれるか?」 オレはみんなの顔を順々に見ながら、正直な気持ちを告げた。 森が――静まり返る。 王者たるラッシーの沈黙が正義であると言わんばかりに。 みんな、じっとオレの目を見てきた。 オレの言いたいこと、たぶん伝わってると思うから、考えてるんだ。 今までは、トレーナーとブリーダー、二足の草鞋で頑張ってこうって思ってた。 いずれはどっちかに決めなきゃいけないことも分かってた。 でも、オレがポケモンになって……みんなの痛みを知って、考えを変える機会ができた。 オレが選んだのはブリーダー。 みんなを戦わせるんじゃなくて、輝かせたい。 戦わせることなく、ポケモンを育て、輝かせる……それがブリーダーの真髄だって、ティーナの本にはそう書いてあった。 初めてその記述を目にした時は、なんだそんなの当然じゃないかって思った。 当たり前すぎて、大事だなんて思わなかった。 だけど、今だから……それが分かるんだ。 とても大事で、今のオレにはそれが一番なんだって。 「…………」 沈黙がやけに長くて、痛い。 だけど、答えは一つだった。 「バーナー……」 ラッシーが嘶き、小さく頷く。 構わない―ーアカツキが決めたなら、オレたちはその道を一緒に歩いて行くだけだ。 そう言っているように聞こえてならなかった。 その証拠に、みんなも揃って頷いてくれたんだ。 いきなり進む道が変わっちまったけど、オレが決めたことならと、みんな納得してくれた。 ……こりゃ、みんなの気持ちを裏切るわけにはいかないな。 裏切るつもりもないけどさ。 やるって決めたからには、何がなんでもやり遂げてみせるさ。 ……ブリーダーとしてのライバルもいるし。タケシとか、セイジとか。 あいつらは、オレがトレーナーとして頑張ってた時も、ブリーダーとして突き進んでた。 今はどうしてるか分かんないけど、相当な差がついちまったんじゃないだろうか。 今から追い抜くのは大変だけど、トップブリーダーになるんだったら、いずれは越えなきゃいけない壁だって思う。 もちろん、負けるつもりはないさ。 やるからには勝つつもりでやらなきゃ話にならない。 「みんな、これからもよろしくなっ」 やると決めたからには、さっさとやるか。 オレが伸ばした手を、我先にとみんながガッチリつかむ。 何気に痛かったけど……でも、うれしかった。 これからもみんなと一緒に歩いていけるんだって、分かったからさ。 この選択が間違いじゃないかって思ったり、途中で何度も何度も立ち止まって…… それこそ何度も何度も振り返ってしまうことだってあるかもしれない。 だけど、みんなと一緒なら、乗り越えられる。 それに…… いつかは、オレが少しでも考えて決めたこの選択が正しかったんだって思えるように頑張りたいんだ。 だから、ここから始める。 オレの、ブリーダーとしての人生を。 転機編 おわり