シャイニング・ブレイブ 第12章 オアシスの街で -The Turning Point-(後編) Side 5 ポケモンリーグ・ネイゼル支部のビルを出たアカツキたちは、ポケモンセンターへの帰路についた。 広場から歓楽街に入り、ジャズやクラシックがけたたましく鳴り響く中、アカツキはトウヤに訊ねた。 「トウヤ。オレが来るまで、サラさんといろいろ話してたんだろ? 後になったら教えてくれるって言ったじゃん。教えてくれよ〜」 サラの手前、トウヤに恥をかかせるわけにはいかないと思って、グッと飲み下していた言葉が一気に吹き出した。 大音響の音楽と、行き交う人たちの賑わい。 普通の会話程度なら、誰の耳に留まることもないだろう。 トウヤはそう判断し、この場で打ち明けることにした。 ミライにも説明しなければならなくなるが、それはそれでアカツキに任せるという手もある。 「そやな。 これから、ソフィア団の連中も攻撃を本格化させてくるやろ。 なにしろ、エージェントが二人も失敗しとるんやから、後がなくなったとしたって不思議やあらへん」 「うん、そりゃそうだな」 現状としては、トウヤの言うとおりだった。 脱走したドラップを連れ戻すため、ソフィア団は腕利きのエージェントを二人、派遣してきた。 しかし、その二人とも失敗しているのだから、ソフィア団にとっては痛手だろう。 少なくとも事態が好転していない以上、後がなくなったとしても不思議はない。 攻撃を本格化させ、エージェントを大勢送り込んでくるか、搦め手から攻めてくるか……どちらにしても、楽観視はできない。 大変なのはこれからなのだ。 アカツキは今自分たちが置かれている立場を再認識した。 ここのところ、ソフィア団の襲撃がないものだから、気が緩んでいたのは否めない。 トウヤの話にハッと気がついて、気を引き締める。 「で、それとこれと何の関係があるんだ?」 アカツキはすぐに疑問符を浮かべた。 現状は現状として、それとどんな関係があるというのか。 カナタが付き添うからには、それ相応の話をしていたのだろうが…… そこまでの想像は浮かぶものの、それ以上を知りたかった。 アカツキの好奇の視線に根負けしてか、トウヤはため息を隠そうともしなかった。 ため息の後で、そっと打ち明ける。 「これから、ソフィア団の攻撃が厳しくなるやろ。 今のままやったら、いくら四天王が二人おっても、分断された日にはそれこそ大変やからな。 せやから、サラのポケモンを借りることにしたんや」 「ええっ!? サラさんのポケモン借りたの〜!?」 「いや、これは俺がトウヤに持ちかけたんだ。必要だと思ったからね」 アカツキが素っ頓狂な声を上げる。 カナタは「それ見たことか」と苦笑したが、事情を単刀直入に説明した。 「トウヤの言うとおりさ。 ソフィア団も、俺とアズサがおまえと一緒にいることを知っているだろうから、分断を狙ってくる可能性も考えられる。 そこで、俺とアズサがついてなくても、多少はどうにかなるようにって思って、サラのポケモンを借りることにしたんだ。 サラも、自分じゃ動けないからって言うんで、そのつもりでいたみたいだけどな。 ……って、いつまで驚いてんだ?」 「いや、いくらなんでもこれは驚くって。 サラさんの……チャンピオンのポケモンを借りるなんて……」 アカツキは驚きを隠せなかった。 当然だろう、他人のポケモンを借りるなど、普通は考えつかないものだ。 増してや、相手はネイゼルリーグのチャンピオンである。 目を丸くするアカツキに、カナタは改めて説明した。 「メタグロスってポケモンは知ってるか?」 「メタグロス……? 聞いたことない」 「鋼タイプの、とっても強くて頼りになるポケモンだ。 サラがトウヤに貸したから、後で見せてもらうといい。詳しい話は……まあ、とんでもなく強いってことで分かるだろ」 「へえ……」 鋼タイプのポケモンと聞いて、アカツキは素直に「強そう!」と思った。 もっとも、チャンピオンのポケモンなのだから、普通のポケモンが束になっても敵わないほどの強さを秘めているはずだ。 それがトウヤの手持ちとして加わったのだから、心強いに決まっている。 この分なら、ソフィア団が奇策に打って出てきても大丈夫だ……そう思えるのは、サラの優しくも凛々しい人柄に触れたからだろうか。 どんなポケモンなのか気になるが、それはポケモンセンターに戻ってから学習室で調べればいいだろう。 というよりも、アカツキはすっかりその気になっていた。 「サラさんのポケモンと一緒に戦えるんだ、なんかすっげ〜!!」 相手を完膚なきまでに打ち倒し、鉄錆味の敗北を突きつけることができるのだ。 苦戦させられっぱなしだったアカツキには、とんでもなく喜ばしいことだった。 どんな技を覚え、どんな戦い方を得意としているポケモンなんだろう……? 一旦気にしだすと、岩が坂道を転がり落ちていくように、加速度的に思考がそのことで埋め尽くされていく。 アカツキがウットリしているのを見て、トウヤは再びため息をついた。 こうなると思った。 とはいえ、説明すると決めたのは自分自身だ。自分で撒いた種だから、こればかりは仕方ないだろう。 今のうちにはしゃぐだけはしゃいでもらって、戦う時にはちゃんと戦ってもらえればいい。 正邪の区別くらい、アカツキならつくはずだ。 トウヤがあれこれと胸中で考えをめぐらせていると、カナタが口を開いた。 「で……どうだった、ネイゼルリーグのチャンピオンは?」 サラのメタグロス――正確にはサラの旦那のメタグロスで、名はロータス――のことよりも、サラ本人の印象について訊いてみた。 一応、カナタからすれば上司に当たるので、彼女の風評についてはそれなりに気にしているのだ。 だが、アカツキの口から返ってきたのは、至極一般的な回答だった。 「なんか、チャンピオンだな〜って感じる人だった。 優しいだけじゃなくて、うまく言えないけど、強さってのを知ってる人だなって思ったよ」 「そうか。そう思ってもらえると、俺としてもうれしいね」 カナタは口の端に笑みを浮かべた。 アズサと二人で四天王に名を連ねた時、サラと初めて出会った。 第一印象としては、なんだか身体つきも痩せ型で、いかにも頼りなさそうなチャンピオンだなあと思っていたが、 話をしてみて、第一印象があくまでも第一印象でしかないんだということを思い知らされた。 アカツキの言うとおり、強さの意味をちゃんと理解し、チャンピオンという立場で為すべきことまで理解している人だと思った。 カナタにとってサラは上司であり、頼れる仲間でもあり、何でも語り合える友のような存在だ。 アカツキは普段から陽気で明るくて人懐っこいが、その実、物事の本質を見抜く目を持っている。 これは、成長したらすごいトレーナーになるかもしれないと、カナタに期待させてしまうほどだ。 「で、サンドバッジはゲットできたんだろ? 明日、レイクタウンに戻るか? それとも、明日一日使って、この辺で遊んでくか?」 カナタは話を変えた。 サラと少し話をしただけだったが、彼女の思っていることはアカツキに伝わっていると見ていいだろう。 それなら、特に多くを語る必要もない。 四天王の青年がそう思っていることなど露知らず、アカツキは「う〜ん」と唸りながら周囲を見渡した。 「CASINO」と大きく描かれたネオンライトが煌き、中からは何やら楽しそうな声や絶叫が聴こえてくる。 興味はあるが、カジノはあくまでも大人の遊び場である。お金がなければ遊ぶこともできないし、楽しめない。 両親からもらったお小遣いは、子供の感覚からすれば十分に大金だが、カジノではほんの一時間遊ぶだけで吸い込まれてしまうような金額だ。 それに、アカツキはギャンブルに興味はない。 遊ぶのは大好きだが、レイクタウンではお金などかけなくても遊ぶ方法はいくらでもある。 公園のブランコや滑り台で遊ぶのもいいだろうし、ただ普通に外で走り回ったりポケモンバトルをしたりするだけでも、 結構退屈しないものだった。 旅立つ前のことに思い至り、アカツキは頭を振った。 「ううん、この辺はなんか騒がしくて、なんか嫌なんだよね〜。 それより、早くレイクタウンに戻りたいな。 ウィンジムでリーグバッジをゲットすれば、オレもネイゼルリーグに出られるんだから」 「ふむ、確かにそうだな」 アカツキの答えに、トウヤとカナタは満足した。 少しくらい遊んでいっても罰は当たらないだろうが、それよりもアカツキは今自分がやるべきことをちゃんと理解している。 子供ながらに、いろいろと考えているのだろう。 ドラップのトレーナーとして、彼を守るという責任がある。 そういった意味では、子供と大人で区別するのは失礼だ。 「そうかあ……あと一つでネイゼルリーグに出られるんやな」 「そうだよ!! もうちょっとで兄ちゃんと戦えるんだ!! あー、早くリーグバッジをゲットしてぇ!!」 アカツキは興奮を抑えきれないように、恥ずかしがることもなく大声で叫んだ。 通行人が振り向いてくることさえ気にならない。 もっとも、アカツキが興奮するのも無理のないことだった。 フォレスジム、アイシアジム、そしてディザースジム。 ネイゼル地方に存在するポケモンジムは四箇所だが、そのうち三箇所でリーグバッジを手に入れたのだ。 最後はレイクタウンの南に位置するウィンシティのウィンジム。 そこでリーグバッジをゲットすれば、晴れてネイゼルカップの出場権を獲得できる。 兄アラタとネイゼルカップで戦う約束をしているアカツキにとっては、最後のジムに今すぐにでも挑戦したいところなのだ。 カジノで遊んだり、シアターで映画を楽しんでいるような状況ではないだろう。 「もう、そこまで来たんやな……なんや、早いなあ……」 鼻息の荒いアカツキの横顔に目をやり、トウヤは感慨深げにつぶやいた。 出会った頃は、本当に子供だと思っていた。 一緒に旅するようになって一ヶ月しか経っていないが、その間にずいぶんと成長したものだ。 その過程をずっと見てきたトウヤだからこそ、 アカツキがあと一つリーグバッジをゲットすればネイゼルカップに出場できるという現状に、思うところがあるのだろう。 「せやけど、ネイゼルカップの前にケリつけられたらええなあ……」 だが、ネイゼルカップにばかり目を向けていられないのも事実。 まずはソフィア団からドラップを守ることを考えなければならないのだ。 サラからポケモンを借りられたから、少しは楽観的に構えていられるのだろうが、それでもなかったことにはできない。 何やら物思いに耽っているトウヤには話しかけづらくて、アカツキはポケモンセンターまでの道中、もっぱらカナタと話し込んでいた。 何やら楽しそうに、時々高笑いなど交えながら話していたが、トウヤにはその声も耳に入らなかった。 アカツキが先のことをあまり考えていない分だけ、トウヤがちゃんと考えなければならない。 それが年長者の役目だと思っているからだ。 やがてポケモンセンターにたどり着くと、ロビーでミライとアズサの二人と合流できた。 彼女らが、男性陣が今晩休む部屋を借りておいてくれたおかげで、 「よっしゃ!! んじゃオレ、学習室行ってくる!! 後で部屋に行くから、その時にサラさんのメタグロス、見せてくれよ!! それじゃっ!!」 アカツキはジム戦で精一杯戦ったネイトとアリウスをジョーイに預けると、呆然とする一同を置いて地下の学習室へと駆け下りていった。 止める間もなく、それこそ疾風のような勢いだった。 「…………」 ミライは地下へ続く階段を見ていたが、おもむろに視線をトウヤに向けた。 「……何か、あったの?」 「ん、まあな。 そのことなんやけど、部屋で話したるわ。ここじゃ、人が多くてな……」 「そうね。そうしましょう」 トウヤがしきりに人目を気にしていたようだったので、アズサの提案はすんなりと受け入れられた。 「今までのことを振り返るっちゅー意味でも、みんなでキッチリ話しとかなあかんな…… あいつが戻るまでに、大まかに話しとくか」 アカツキはある程度分かっているだろうから、サラと直接話をしなかったミライとアズサには事情を説明しておこう。 トウヤが胸中で想いをめぐらせていることに気づき、ミライは彼にルームキーを手渡した。 「おおきに。部屋行こか」 「ええ、そうね」 場所を部屋に移してからなら、誰の目も気にすることはない。 サラの旦那のメタグロス……ロータスだって、存分に披露することができるだろう。 アカツキは部屋にやってくるまでお預けになるが、それを承知で学習室に向かったのだから、何の問題もない。 四人は談笑を交えながら、今晩の寝床となる部屋へ向かった。 その頃、アカツキは地下の学習室で一台のパソコンと向かい合っていた。 大都市のポケモンセンターだけあって、学習室の規模は他のポケモンセンターとは比べ物にならなかった。 それなりに混雑していたロビー同様、パソコンの使用率も高く、今までのようにポケモンを外に出して、一緒に勉強することもできない。 ただ、それだとあまりに寂しすぎるので、アカツキはリータだけ外に出した。 みんなの代表である。 「ベイ?」 人の暮らしに慣れていないリータは、人工物で埋め尽くされた学習室の景色に戸惑いを見せたが、すぐに好奇心がパソコンに向いた。 アカツキが何やらプラスチックの小さな塊を操作すると、次々に移り変わっていく画面。 人の暮らしに慣れていないからこそ、見るものすべてが新鮮だった。 ある意味、ネイトとは似て非なる反応だろう。 リータがパソコンの画面を食い入るように見つめていることに気づき、アカツキはニコッと微笑んだ。 そうやっていろんなものに興味を向けるのは、いいことだ。 「ん〜と、メタグロスって言ったっけ……」 学習ソフトを立ち上げて、ポケモンの検索を始めた。 名前やタイプ、一般的な身長、体重、身体の形などで検索することができるのだが、名前で事足りた。 すぐにメタグロスの姿が画面に映し出される。 「お〜っ!!」 「ベイっ?」 現れた姿に、アカツキは歓声を上げた。 リータはいかにも硬そうなポケモンの姿を見て、訝しげに首を傾げた。頭上の葉っぱが、小さく揺れる。 画面に映し出されたのは、全身が少しくすんだ青色に染まった、鉄でできたようなポケモンだった。 真ん中に大きな塊があり、そこから伸びた四本の脚の先には、鋭く尖った爪が生えている。 塊に見えるのが胴体だろうか、白い×点が正面にあって、左右に赤い瞳。口はどうやら胴体の下側にあるらしい。 凛々しい顔立ちと、いかにも硬そうな外見に、アカツキは素直に「強そう!!」と思った。 名前と姿のほかに、一般的な身長や体重、タイプやポケモンの説明が画面に表示されていた。 「えー、メタグロス。てつあし(鉄脚)ポケモン。 身長は1.6mで、体重は……550kg!? うわー、すげえ重量級……」 一行ずつ読んでいくと、画面と実物があまりに違うのだと理解できる。 身長は、今のアカツキよりも十センチ高い程度だろう。ただ、体重に関しては、アカツキと同じ体重の子供が十人集まっても敵わない。 タイプも鋼とエスパーを併せ持ち、体重や見た目から動きの素早さには期待できないようだが、 力や頑丈さに関しては、ほとんどのポケモンに勝てるくらいだろう。 「メタングが合体して生まれたポケモンで、四つの脳を持ってるんだ……スーパーコンピューター並の知能を持ってんのか〜、なんかすげえなあ」 説明を読んで、チャンピオンが扱うのに相応しいポケモンだと感じた。 メタグロスはメタングの進化形で、ダンバルの最終進化形。 人の言葉は話せないが、知能はとても高く、人の言葉を完全に理解することができるらしい。 それだけでもすごいのに、アカツキをさらに期待させたのは、メタグロスが扱える技の数々だった。 自身が持つ鋼・エスパータイプはもちろん、地面タイプから氷タイプ、岩タイプ、ゴーストタイプまで、多彩なタイプの技を使いこなす。 攻撃的な技が圧倒的に多いが、弱点の攻撃を緩和する防御技もいくつか見受けられた。 攻撃面でも防御面でも優れていることを証明するような技の構成だった。 これでアカツキが感動しないはずがない。 「うわー、すっげ〜っ!! こんなにたくさん使えんだ!!」 学習室ではお静かに、という張り紙を入り口で見かけたことさえ忘れるほど、アカツキは声を張り上げていた。 「ベイ?」 対照的に、リータにはよく理解できなかった。 アカツキが何やら喜んでいるのは分かる。その原因が、画面に映し出された屈強な印象のポケモンであることも分かる。 だが、何に対して喜んでいるのかが分からなかった。 アカツキはそんなリータの疑念を払拭するかのごとく、ニコニコ笑顔で頭上の葉っぱを撫でながら、言葉をかけた。 「見たか、リータ。 こんなにいっぱい技が使えるんだ。リータもガンバれば、きっとこんだけの技が使えるようになるんだぜ?」 言葉の意味まではさすがに分からなかったが、アカツキと一緒に頑張っていけば、いつかはメタグロスのように強くなれるということは理解できた。 ――あたしも頑張れば、もっと強くなれるんだ…… アカツキの言わんとしていることは、言葉にこそ出さなくても気持ちで伝わっている。 彼もまた、リータが憧れの視線を画面のメタグロスに向けていることを悟った。 ポケモンの気持ちを掴むのが上手な男の子である。これくらいのことは朝飯前だ。 「大丈夫だって。 オレたちだったら強くなれる。みんなでドラップを守れるようにならなきゃいけないんだからさ。 みんなでガンバろうぜ」 「ベイっ♪」 みんなと一緒なら乗り越えられないものはない。 リータは元気に嘶いた。 不思議なことだが、アカツキと話していると、とても明るい気持ちになれる。 彼の人柄というものもあるのだろうが、それよりは家族のように親しい相手の温もりを肌で感じているからだろう。 「しっかし、サラさんのメタグロスって、きっとたくさんの技を使いこなすんだろうな〜。 よし、そろそろ戻って会いに行くかっ♪」 一般的なメタグロスでさえ、画面に列挙された技の全部とまでは行かなくとも、かなりの数の技を使いこなすのだ。 ネイゼル地方で最強と言っても差し支えないサラのメタグロスともなれば、その他の技さえ使いこなしてしまうのかもしれない。 そう思うと、ゾクゾクしてくる。 一刻も早く会いたい気持ちが募り、アカツキはすぐさまパソコンの電源を落とした。 「リータ、部屋に行ったらまだ外に出すから、今は戻っててくれよな」 リータをモンスターボールに戻すと、大股で駆け出し、学習室を飛び出した。 階段を一段飛ばしで駆け上がり、ロビーに出たところで、はたと気づいて立ち止まる。 「あれ? そういや、部屋の番号教わってなかったな……ま、いっか。 適当に捜してれば着くだろ」 メタグロスのことが気になって、どこに部屋を取ったのか聞く間もなく学習室に直行したが、適当に捜せばたどり着けるだろう。 そう思って、アカツキは運動も兼ねてすべてのフロアの廊下を練り歩くことにしたのだが…… 「アカツキ」 「あれ、ミライじゃん。どーしたんだ?」 突然聴こえてきた声に顔を向けると、ミライが笑顔で駆け寄ってきた。 てっきり部屋に向かったとばかり思っていたのだが、どうしたのだろう? アカツキは意外に思ったが、ミライは彼の前で足を止めると、笑顔を崩さずに切り出した。 「トウヤから事情を聞いたんだけど、ほら、サラさんって人からメタグロスってポケモンを借りたじゃない? どうせだから、アカツキが来てからお披露目しようってことで、迎えに来たんだよ」 「そっか……」 部屋の場所も聞かずに飛び出していったアカツキを案じて、ミライは迎えに来てくれたのだ。 「ありがと、ミライ。 オレってば、そそっかしいよな……部屋の場所を聞かずに飛び出しちまって」 アカツキは頬を赤くしながら礼を言った。 そそっかしいという自覚はないが、どこかで間が抜けているんだろう。 「ううん、いいのよ。 あと、ネイトとアリウスの回復、終わったって」 「サンキュー」 ネイトとアリウスのモンスターボールを受け取り、アカツキはミライに連れられてエレベーターに乗り込んだ。 彼女がどうして二体のモンスターボールを持っていたかと言うと、 ロビーに下りてきたミライがアカツキの連れであることに気づいて、ジョーイが渡してくれたそうだ。 エレベーターが動き出し、目的のフロアに到着するまでの間に、ミライがアカツキに話しかけた。 「ねえ、ジム戦どうだった?」 「んー、負けちゃった」 アカツキは窓の外に広がる都会の景色を見やりながら、事も無げに答えた。 「えっ!? アカツキ、負けちゃったの?」 「そりゃあ……オレたちだってガンバったけど、あっちよりちょび〜っとだけ早く戦闘不能になっちまったからな。 そりゃオレたちの負けだったよ」 負けた悔しさなどまるで滲ませない気楽な物言いに、ミライは驚きよりもむしろ呆れてしまった。 とはいえ、負けたことをまったく気にしていないというわけでもないのだろう。 悔やんだところで結果が変わるわけでもないし、後悔するよりも、何がいけなかったのか反省し、次に生かすことこそが正道なのだ。 アカツキは誰に言われずとも、そのことを承知している。 それだけのことでも、ミライは理解するのに時間がかかった。 「そっか……」 ジムリーダーは、普通のトレーナーとは頭何個分も飛び抜けた実力の持ち主なのだ。 毎度毎度挑戦者にリーグバッジをくれるために存在しているわけではない。 そこのところは、ジムリーダーを父に持つミライだからこそすんなりと理解できた。 アカツキが負けるのは当然……と言うと失礼だが、そもそもヒビキとミズキに勝てただけでもある意味奇跡のようなものなのだ。 「じゃあ、次は勝てるように頑張らなきゃね」 負けたことを気にしているだろうから、傷口に塩を塗らないよう気をつけながら言うが、アカツキは彼女の言葉をさっと避わしてのけた。 「まあな。 リーグバッジをもらって良かった……っつーか、あげて良かったって思わせるくらい、強くなんなきゃ」 「へ? リーグバッジ、もらったの? 負けたのに?」 「うん」 またしても、ミライは驚かされた。 アカツキはさも当然と言わんばかりの口調だったが、ヴァイスに諭されるまでは彼女と同じように考えていたものだ。 一般論イコール、『リーグバッジはジム戦に勝利しなければもらえない』。 ミライが呆然としているのを見て、アカツキはこれが普通の反応かと思った。 何しろ、少し前の自分を見ているような気分になったからだ。 このまま驚かれっぱなしというのも困るので、ヴァイスから言われたことをそのままミライに話した。 リーグバッジは、ジムリーダーが『こいつなら大丈夫』と思ったトレーナーに渡すものであり、 ジム戦の勝敗はその基準のひとつに過ぎないこと。 また、ジムリーダーの眼鏡に適った証であり、相手さえ認めてしまえば、ジムリーダーの裁量で渡すべきか決めても良いこと。 父親をジムリーダーに持ちながらも、ジムのことについてはあまり興味のないミライにとっては、驚きの連続だった。 それでも、エレベーターが止まって、外の景色が変わらなくなったのを合図に、彼女は現実に戻ってきた。 「そっか……そうだよね。ジムリーダーが認めてくれたんだもんね」 「おう。だから、なにがなんでもガンバんなきゃな!!」 ミライの言葉に、アカツキはニコッと微笑んだ。 毎度毎度不思議に思うことだが、アカツキの笑顔は、なぜかミライの気持ちまで明るくしてくれる。 彼なら大丈夫……なんとなく、根拠なんてないけど、そんな風に思えてならない。 「きっと、それがアカツキの強みなのよね」 エレベーターの扉が開き、廊下へと踏み出しながら、ミライは思った。 フォレスの森で、助けてもらった恩を返すために旅に同行しているのだが、恩を返すどころか、 彼から教わることの方が圧倒的に多いくらいだ。 何のために恩返ししようと思っているのかすら分からなくなるが、 それでもアカツキたちと共に過ごす時間は、彼女にとっていつしか宝物になっていた。 何も言わなくても、笑顔で相手の気持ちを明るくしてくれる男の子。 だから、今こうして一緒に旅をしていられることに幸福感を見出さずにはいられない。 廊下に出てからは会話もなく、一夜を過ごす部屋へと一直線。 「はい、ここだよ」 「サンキュ♪ 助かった」 部屋に入る前に、アカツキはミライに礼を言った。 彼女がいなかったら、本当に全フロアの廊下を練り歩くことになっていただろう。 もっとも、体力に自信があるアカツキにとっては、苦になるようなことでもなかっただろうが。 ドアノブを捻り、扉を押し開ける。 三人用の部屋は広すぎず狭すぎず、落ち着いたインテリアで統一されていた。 調度品も、どこでにも売っているような安価なもので、寝具だって取り立てて高価だったり珍しいものでもない。 ポケモンセンターなどどこも似たようなものだから、今さら驚くことでもないのだろう。 それよりも、アカツキの視線を釘付けにしたのは、部屋の中央で悠然と佇むメタグロスだった。 「うわ〜お♪ ホントにメタグロスだ〜っ!!」 アカツキは喜び勇んでメタグロスに駆け寄った。 傍らに控えていたトウヤとカナタ、アズサの三人は困ったような顔を向け合っていたが、当然アカツキがそんなことを気に留めるはずもない。 なにしろ、彼の気持ちも視線もメタグロスに一直線だったからだ。 「すげ〜っ、やっぱホンモノは違うよなぁ……」 「…………?」 好奇心全開の視線を向けられ、これにはメタグロス――ロータスの方が戸惑いを隠せなかった。 特に表情らしい表情もなかったが、アカツキを見つめ返す視線に戸惑いがありありと浮かんでいた。 一般的に、メタグロス(進化前のダンバル、メタングを含む)は感情表現に乏しいと言われている。 どことなく無骨に映る顔つきが、そう思わせるのだろう。 しかし、アカツキは構うことなく、前から横から後ろから、ロータスを舐め回すように見つめていた。 「サラさんのポケモンなんだよな? うわ〜、なんかマジで強そうじゃん」 見るからに重量級のボディからは、威風堂々とした雰囲気が満ち、相対する者に重圧を与えんばかりだ。 さすがはチャンピオンのポケモンだと、アカツキはしきりに感心していた。 だが、実際はサラの旦那のポケモンである。 いつまでも隠してはおけないので、トウヤはアカツキが落ち着くのを待ってから打ち明けた。 「アカツキ。 このメタグロス、ロータスっちゅーんやけど、サラのポケモンやのうて、サラの旦那はんのポケモンなんや」 「え、そうなの!?」 「ああ」 さすがに、これにはアカツキも目を丸くした。 サラのポケモンだと思っていたのに、フタを開けてみれば、彼女の旦那のポケモンとは…… なんだか上手いこと騙せたような気がして、トウヤは得意気な笑みを浮かべたのだが、 「サラさんに旦那さんなんていたんだ!? うっわ〜」 「……って、驚くのそっちか!?」 ピントがずれた反応に、すかさず肩がズッこけた。 だが、よく考えてみればそちらで驚くのも当然だろう。 サラは傍目から見ても分かるほど童顔だし、語り口も大人というよりはどこか子供じみている。 結婚指輪も填めていなかったし、初対面のアカツキが、彼女が既婚者であると分かる方がすごい。 「まあ、あんまり知られてないことだから、驚くのも当然ね」 トウヤがあれこれと考えていると、アズサが口を挟んできた。 「私たちだって、サラに話を聞くまでは知らなかったもの。 もちろん、すぐには信じられなかったけどね。 一応、ツーショットの写真を見せてもらったことがあるのよ。なかなかお似合いのカップルだったわよ」 「へえ……」 お堅い彼女がそこまで言うのだから、本当に既婚者なのだろう。 サラと話をしてみて、お世辞にも既婚者らしからぬ子供っぽさを感じたので、アカツキは意外に思った。 「旦那さんのメタグロスなんだ〜……ロータスって名前なのか〜」 感嘆のため息をつき、改めてロータスに向き直る。 先ほどのように、いきなり観察を始められなかったので、ロータスとしても驚くことはなかった。 むしろ、でんと大きく構えているようにも見える。 ある意味、重量級ポケモンの強みだろう。 「サラさんのポケモンじゃなくても、なんか強そうだなあ……」 一目見た時、サラのポケモンだと思ったから、強そうだと思ったのだが……どうやら、そうでもなかったらしい。 内面からにじみ出る、威厳にも似た雰囲気。 強さを秘めた眼差しに、アカツキは誰のポケモンであろうと強いのだろうと直感した。 それに、力を貸してくれるのなら、誰だってありがたかった。 力を借りることになるのなら、先に言っておきたいことがある。 「ホントはトレーナーのトコにいたいと思うけど、オレたちと一緒に行くことになって、ホントにありがとな。 なるべくロータスには頼らなくて済むようにガンバるけど、どうしても無理そうな時は、頼んだぜ」 アカツキがニコニコ笑顔で言葉を紡ぐと、ロータスは口を開けて、返事をした。 「ごぉぉぉん……」 金属同士を擦り合わせる音と重低音が合わさったような声だったが、不快感はなかった。 それよりもむしろ、力強くて頼もしい感じさえしていた。 「うん、よろしくなっ」 手を差し出すと、ロータスは頑丈そうな鉄の脚を一本持ち上げて、先端を軽くアカツキの手に触れさせた。 バトルになると相手を切り裂くパワーを発揮する爪だが、軽く触れる程度なら、刺さることもない。 アカツキの笑みを受けてもロータスの表情はまったく変わらなかったが、少し、雰囲気が和らいだような気がした。 「なんや、俺の時はもっと固かったんに……」 「さすがに、ポケモンの気持ちを掴むのが上手だな。俺も見習わなければ……」 「この子のどこにそんな力があるのかしら……」 「やっぱりアカツキってすごいな〜」 アカツキとロータスがじっと視線を合わせているのを見て、四人が四人とも驚いていた。 外野が驚いているのを余所に、アカツキとロータスの会話(?)が弾む。 「ごぉぉ……ごぉん」 「へえ、そうなんだ……ロータスのトレーナーって、いい人なんだな。ポケモンブリーダーなんてやってんだ」 「ごぉぉぉ、ごぉぉ」 「え? オレがサラさんに似てるって? 誰がそんなこと言ったんだ?」 「ごぉ……」 「サラさんが? あんまり似てないと思うんだけどなあ……」 端から見れば、絶対に噛み合っているとは思えない。 しかし、少なくともアカツキとロータスの間では意思疎通が図られているようである。 アカツキはロータスが言いたいとしていることを理解しているし、ロータスも言葉こそ完全には理解していないものの、 アカツキの気持ちは察している。 ある意味、人間とポケモンにおける理想の関係だろう。 何分か会話は続いていたが、区切りがついたらしく、唐突に途切れた。 「ロータスって、すっごくおしゃべりなんだなあ……見た目からは想像もつかないや」 会話が終わった後で、アカツキはロータスが見た目とは裏腹におしゃべりであることに感心していた。 初対面の相手に警戒心さえ抱かずに、しっかりと意思疎通を図れたのだ。 案外気さくな性格で、アカツキからすれば頼れる兄貴のような感じだった。 実の兄であるアラタ、自称保護者のトウヤ、四天王兼お目付役のカナタと、兄貴ならすでに三人もいるが、それとはまた別だった。 ロータスもまた、アカツキにすっかり気を許していた。 話(?)をしてみて、意外と『分かる』人物だということも理解していた。 自分の言いたいことを的確に察し、それに対してちゃんと答えを返してくれる。 自身のトレーナーであるサラの旦那……ポケモンブリーダーの青年にはさすがに及ばないが、それでも大したものだと感心しきりだった。 どんな相手についていくのかと、それこそ見た目にそぐわぬ心配をしていたが、もはやどうでもいいことになった。 「ねえ、どんな話したの?」 アカツキとロータスが二人きりで意思疎通を図っていたのを見て、ミライが興味深げに質問を投げかけてきた。 外野は外野で、入り込めなかったからだ。 何しろ、アカツキがロータスのどんな部分に頷き、答えているのかもよく分からないのだ。 割って入ったところで意味を見出せなかった。 「サラさんがさ、ロータスにオレのことを話してあったんだって。 おかげで結構話しやすくて助かったんだ。 たくさんあるんだけど、ロータスのトレーナーのこととか……サラさんの旦那さんのポケモンなんだって。 旦那さん、ポケモンブリーダーやってるらしくて、今はあちこち飛び回ってるんだって。 サラさんにはロータスが必要だってことで預けられて、今は他の仲間と離れ離れになっちゃってるんだけど、 他のみんなも強いから心配してないって言ってた」 「へ、へえ……」 「そこまで聞き出すとは……」 アカツキが他愛ない口調で答えると、四人はさらに驚きを深めた。 彼の言葉は分かるものの、ロータスは鳴き声やそのアクセントで言葉を判別することが不可能なのだ。 それでもちゃんと意思疎通を図れていたのだから、賞賛に値する。 アカツキにはロータスがサラの旦那のポケモンであることや、旦那がポケモンブリーダーであること、 今は仕事で各地を転々としていること、そしてロータスをサラに預けているということも話していない。 それなのに、ロータス自身から聞き出してしまったのだ。 相応に心を許し合える間柄でなければ、聞き出すことはできないだろう。 そういった意味では、アカツキはポケモンとの意思疎通を図る天才だった。 だが、この分なら説明する必要もなさそうだ。 アカツキとロータスがすっかり仲良くなったのを見て、トウヤはまた一つ、肩の荷が降りたように感じていた。 同時に、弟のように可愛く思える男の子が少したくましくなったような気がして、なぜか胸が痛んだ。 すべてのケリがついたら別れることになると、分かっていたからだろう。 「俺も、ずいぶん乙になったっちゅーこっちゃな……」 おもむろに漏らしたため息は、しかし誰にも悟られることはなかった。 Side 6 「ふ……ふふっ、あはははははははっ!!」 近未来的な研究室に、高笑いがこれでもかと言わんばかりに響き渡る。 高笑いの主は、黒いスーツを着こなし、茶髪をオールバックにした青年――ソフィア団の首魁シンラである。 彼の傍らでは、冷めた眼差しを向ける白衣の青年。 こちらはソフィア団の顧問研究員を務めるボルグだ。 いろいろと思うところがあってシンラに手を貸していたが、まさかこんな子供じみた反応を見せられるとは…… 彼が用意してくれた研究施設は、ボルグが以前働いていた外国のとある地方の施設よりも小ぢんまりとしていたが、 研究を行い、シンラの望むモノを作り出すのには十分な機能を有していた。 表に出ることなく、裏方として徹してきたが、それも今日限り。 契約に従い、シンラの計画を完璧にするための道具を作り出せたからだ。 ボルグの視線の先では、シンラが手にしたモンスターボールを眺めながら笑い続けていた。 ――まるで、欲しいオモチャを手にして喜んでいる子供だった。 だが実際、そんなところなのだろうと思った。 人前では、組織の頂点に君臨する者として相応しい態度を取り続けてきたが、年がら年中そんなことをしていては気疲れするだけだ。 誰も見ていないようなところでは、子供のような素顔を見せるのだろう。 「…………しかし、これで私の仕事も終わりだな。まあ、なかなかに楽しめた。 乾いた好奇心も、少しは潤っただろう」 ボルグはシンラの手にあるモンスターボールを一瞥した。 大きさや形状こそ、普通のモンスターボールと何ら変わらないが、見た目は明らかに異質だった。 むしろ、大きさや形状で辛うじてモンスターボールであることが判別できるようなものだ。 一般的に出回っているボールは赤と白に塗り分けられているが、 シンラの手にあるのは紫と黒のまだら模様で、おぞましく、それでいて禍々しい妖気さえ漂わせている。 脳裏に浮かべた白紙に、そのボールの性能をつらつらと書き記していると、シンラの高笑いが止まった。 声が枯れたのか、笑うことに飽きたのか。 それこそボルグにとってはどうでもいいことだった。 善意も悪意もなく、好奇心の赴くままに研究をするだけだ。乾ききった好奇心を潤すために。 ここでの仕事は終わったが、望めばどんなところででも研究は続けられる。 しばらくは失業者になるだろうが、そんなことも気にならない。 シンラは手にしたボールを腰に差し、ボルグに言葉をかけた。 「顧問、お疲れ様でした。 このボールがあれば、計画の成就は間違いない……今日まで多大なるご教授、ご鞭撻を賜り、ありがとうございました。 深く感謝します」 「いや……私は私のやりたいようにやっただけだ。 君の目的など、知ったことではない。 互いの利益が一致しただけのこと……それだけだろう」 シンラが深々と頭を下げてきたが、ボルグは手で制した。 感謝されるようなことをしたのだろうが、彼自身はそう思っていないし、やりたいようにやっただけだ。 互いの利益が一致しただけ。 ……我ながら、上手い言い回しを思いついたものだ。 余計な情が通い合わない分、後腐れもなく、すっきりとした終わり方になる。 「しかし、この『クローズドボール』の機能は素晴らしい…… いかに屈強なポケモンであろうと、このボールが発する深淵の闇から逃れることはできない……それが、僕の欲しかった機能ですからね」 「まあ、ヨウヤのダークポケモンはそのボールのための布石だ」 「ええ、分かっております。ですが、素晴らしい……」 シンラは口の端に笑みを浮かべた。 闇に染まったボールを見やる眼差しには、狂気にすら似たものが宿っていた。 まるで、狂気がなければこのボールを扱えないと誇示しているかのようだ。 「ダークポケモンのノウハウを凝縮したボールだが、予算と時間の関係もあって、量産はできなかった。 もっとも、君にとっては数など大して関係ないのだろうがね……」 「その通りです。さすがによく分かっていらっしゃる。 ……さて、約束の報酬は口座に振り込んでおきました」 「ありがたい。 それでは、私はこれで失礼させてもらうよ。 せっかく努力したのだ、君の計画が成功すれば良いな。 ……まあ、ここで抜ける私が言えた義理ではないのかもしれないが」 ボルグはコンパクトにまとめた荷物を手に取ると、白衣を翻し、シンラに背を向けた。 「もう会うことはないだろうが、なかなか楽しい時間だった」 「お元気で」 「ああ……」 自動ドアをくぐり、ボルグは研究施設を後にした。 数年間世話になった場所ゆえ、それなりに愛着はあるが、そんなもので満たされるほど、彼の好奇心は薄っぺらいものではなかった。 明るく照らし出された廊下を歩きながら、一考する。 「さて、次はどこへ行こうか……」 ソフィア団の顧問研究員はその任を降り、一介の研究者に戻った。 その彼が次にどこへ行くのか。 それは風に聞いてみなければ分からないことかもしれない。 そして、ネイゼル地方に小さな動乱の火種が燻り始めた。 第13章へと続く……