シャイニング・ブレイブ 第19章 兆し -So warm, so shine-(4) Side 7 「アカツキ、少し聞いていいか?」 「ん? なに?」 突然訊ねられ、アカツキは振り向いた。 視線の先では、アーサーがナイフを器用に使って、リンゴの皮を剥いている。 彼(アーサーは男の子である)は体格から何から人間に近いポケモンだが、それはアーロンと旅をしていた影響が大きかったらしい。 リンゴの皮を剥くのにもナイフを使うのは、鋭い爪が生えていないため、普通に何かを切ることができないからだ。 思いっきりツッコミを入れてやろうかと思ったが、やめておいた。 アーサーがリンゴを剥いてくれるのは、自分のためなのだ。 食事だけでは足りないだろうと思って、気を利かせてくれている。栄養にまで考えを回しているかは分からないが、正直、物足りなさは感じていた。 昼間はアーサーがリータたちと少し本気になって遊んでいたのを見て、笑い転げたものだ。 マジメなアーサーにジョークが通じないことが多くて、危うく決闘寸前というところまで情勢が悪化したこともあった。 アカツキやライオットが止めなかったら、キサラギ博士の研究所の一角が爆砕していたかもしれない。 それからはいろいろとあったが、アーサーは晴れてアカツキたちの仲間入りを果たした。 リータたちも、アーサーのことを理解して、余計なちょっかいを出してくることもないだろう……アリウスを除いては。 まあ、そこのところまで心配していても仕方がないから、アカツキはキレイサッパリ忘れることにしたのだが。 夕方になって、アカツキはアーサーに車椅子を押してもらい、病院に戻ってきた。 毎日遊びに行けるかどうかは分からないが、看護士の許可を得られれば、極力顔を合わせに行こうと思っている。 夕食を摂って、アーサーの助けを借りてシャワーで身体を洗って、再びベッドの上に。 戻ってきたかと思えば、いきなり問いを投げかけられたのだ。 「皆がしきりに気にしていた、ネイトのことだ」 「ネイトの?」 「ああ」 アーサーは皮を剥き、小さく切り分けたリンゴをアカツキに差し出した。 「ありがと。ん〜、やっぱり剥きたてのリンゴが美味しいな♪ ……で、ネイトの何が聞きたいんだ?」 リンゴの甘酸っぱい味に舌鼓を打ちつつ、アカツキはアーサーに聞き返した。 ネイトのことが気になるのは当然だろう。 明日か明後日に戻ってくるのだから、戻ってきたら仲間として接していかなければならない。 とはいえ、あまり知らない相手と親しくできるほど器用ではない。 残念ながら、それは当人が誰よりも強く自覚していることだった。 リータたちから聞いたところによると、アカツキと一番付き合いの深いポケモンだそうだ。 もっとも、彼女たちとて、アカツキがネイトと暮らしていた頃のことは知らないのだが。 だから、本人から聞くのが一番だった。 夕食を下げてもらった後は、ナースコールで呼ばない限りは看護士もこの部屋に近づくことはない。 どんなことも、気兼ねなく訊けるというものだ。 「そうだな。旅に出るまでのことが知りたい」 「うん、いいぜ」 リータたちから聞けなかった部分を補完するのがいい……アーサーは少し考えてから言ったが、アカツキは事も無げに首を縦に振ってくれた。 余計な考えを抱いて損をした気分になるが、すぐに彼の言葉に耳を傾ける。 「オレがネイトと出会ったのは、五年前なんだ」 「五年前……なるほど、道理でリータたちが知らないわけだな」 「ま〜な♪」 アカツキは得意気に鼻を鳴らした。 リータたちとは、まだ一月から二月程度の付き合いでしかない。ネイトと比べるのは酷だろう。 「それでさ、出会ったのはセントラルレイクの湖畔だったんだ」 「……そこに見える湖のことか?」 「そうだよ」 窓の外に目をやるアーサーに、アカツキは頷きかけた。 夜も更けて、照明などほとんどないセントラルレイクの周囲は真っ暗だった。 月が高くに浮かんでいても、立ち込める雲に阻まれて、太陽から照り受けた冷たい光を地上に注ぐことはない。 「あそこで、アラタ兄ちゃんと父さんと母さんの四人でピクニックしてたんだ。 ピクニックって言っても、大したことじゃなくてさ。 いつも家でメシ食うのも味気ないからって、たまには見晴らしのいいトコで食おうって話になって」 アカツキは意気揚々とした口調で、ネイトとの馴れ初めをアーサーに聞かせた。 その目がキラキラと光を帯びたように見えるのは、果たして気のせいだろうか? 天井から降り注いでくる蛍光灯の明かりだけでは、これほどの光は宿せまい。 ネイトを大切に想っているからこそ、馴れ初めであっても得意気な表情で話せるのだ。 「そこにさ、ひょっこり現れたんだ。 この辺でブイゼルなんて珍しいらしくてさ…… オレはすっげぇガキだったから、そんなの知ったこっちゃなかったんだけど。 で、なんかオレが持ってたサンドイッチを物欲しそうに見ててさ。こっちにやってきたんだ。 オレもいきなりやってきたネイトを見て、なんだか楽しそうだって思って、サンドイッチをあげたんだよ。 ネイト、美味しそうに食べてた」 「子供はいつの時代も好奇心旺盛だからな。だが……おまえらしい話だ」 アーサーはふふっ、と小さく笑った。 初めて見るものにも臆することなく、先入観で物事を考えることなく、自然な態度で接することができる。 余計な情報を与えられていない子供ならではの好奇心だろう。 だが、アカツキはそのまま大きくなったような感じだ。それが彼の良いところなのだから、特に言うべきこともない。 「それでさ、なんかオレもネイトも相手のこと気に入っちまって、すぐに遊び始めたんだ。 あっという間に仲良くなって、ウチに来ることになったんだけど……それからもう五年も経つんだなぁ」 「……途中経過が思い切り飛ばされている気がするのは、気のせいか?」 「気のせいじゃないよ。 だって、すごく人懐っこくて、一緒に遊んでて楽しかったんだから。その時の気分は、今でもよく覚えてる」 「なるほど」 アーサーは満足げに微笑んでみせた。 アカツキらしいエピソードだが、なかなかどうして微笑ましいではないか。 初対面で気が合うという話はよく聞くが、相手のことを知れば知るほどに、自分の価値観や考え方との相違が浮き彫りになってくる。 小さな亀裂が積み重なって、やがては破局を迎えることも、珍しいことではない。 人間同士であれ、人間とポケモンであれ、それは同じだった。 だから、アカツキがネイトと五年間も一緒に仲良く暮らしていたのも、彼らなりの努力が積み重なった結果なのだ。 アカツキの目には、ネイトの笑う顔や、得意気に胸を張った後で空回りした時の呆然とした顔……いろんなネイトの表情が浮かんでいた。 時にはケンカだってしてきた。 水鉄砲で何度吹っ飛ばされて、何度気絶してきたことか…… 絶交だって考えたこともある。 だが、すんでのところで思い留まって、アカツキの方から謝った。 子供の頃から、ポケモンと心を通わせる能力には長けていたから、ネイトはアカツキの謝意をすぐに受け入れてくれた。 紆余曲折があって、五年もの月日を共に過ごしてきたのだ。 ただ単に過ごしてきただけなら、こんなにネイトのことを考えたりはしない。 「……私とアーロン様みたいだな。もちろん、違うのは分かっているが……」 アーサーはアカツキが過去を懐かしみ、未来をネイトと共に歩いていくのを考えているであろうことをすぐに見抜いた。 まるで、自分とアーロンみたいな関係だ。 主従関係ではあったが、互いのことを、他の誰よりも理解している。 相手を理解するという意味では、同じと言っても過言ではあるまい。 「アカツキとネイトは、主従という関係ではないな。 友達……いや、仲間か。どちらにしても、対等な関係に違いはないか」 アカツキは人やポケモンに優劣をつけることなく、平等に接している。 ネイトを除けば、一番付き合いが深いのはリータ。逆に付き合いが浅いのはアーサーだ。 だが、リータにもアーサーにも、同じ態度で接している。 ――仲間なんだからそれくらいは当たり前。 そんな風に言われてしまうとどうしようもないが、そういった当たり前なことがとてもまぶしくて、うれしい。 「だからさ、アーサー」 「……?」 話を振られ、アーサーはハッと我に返った。 どうやら、深々と物思いに耽っていたようである。 『おまえは一度考えを転がすと、なかなか止まらないな。だが、そういったところは嫌いじゃないぞ』 アーロンに苦笑混じりに言われたことを思い出してしまうが、アカツキに気取られぬように努める。 気取られたら、からかわれると思ったからだ。 「オレ、ネイトが戻ってきたら、ぎゅーって抱きしめてやるんだ。 みんなで『お帰り』って言って、飽きるくらいいろんなこと話してやるんだ」 どうやら、先ほどからあれこれ言葉に出していたようだが、まったく聴こえなかった。 アカツキはアーサーが聞いているのかいないのか、特に気にも留めていないようだったが…… さすがに、無視し続けるのもまずいだろう。 「そうだな。そうしてやると喜ぶだろう」 アーサーはアカツキの背中を押す言葉で応じた。 ネイトがどういった経緯でダークポケモンにされたのか、カナタから聞いていただけに、アカツキの言葉は思いのほか堪えた。 仲間を助けるために、自分から凶弾に飛び込んで行ったのだと聞いた。 だから、アカツキがそうしてやったら、ネイトはきっと喜ぶはずだ。帰る場所が残っているという喜びは、何にも代えがたいものなのだから。 期待に胸を弾ませ、輝いた面持ちのアカツキを見て、アーサーは言った。 「それより、今日は疲れただろう。 明日、ネイトが戻ってくるかもしれんのだ。今日のところは身体と心を休めておけ。 そうでなければ、ネイトが戻ってきた時に精一杯暴れられんぞ?」 「うん、そうだな。じゃ、今日はもう寝る!!」 「分かった」 この分だと、今日は夜半まで眠れないかもしれない。 息巻くアカツキの様子を見てみれば、想像に難くないが、明日に備えて、今日はゆっくり休んでおいた方がいい。 たとえ眠れなくても、身体を横たえるだけでも違ってくるものだ。 今の時代に『休める時に休む』という戦士のたしなみを押し付けるのは筋違いかもしれない。 それでも、アカツキにはネイトとの再会に万全の体調で臨んでもらいたいと思っている。 アカツキはアーサーの気遣いを感じていたが、素知らぬフリで横になった。 「電気を消すぞ」 「うん。おやすみ〜」 「ああ、おやすみ」 アーサーがスイッチを操作すると、蛍光灯が消えて、室内は外の闇と同化した。 「ネイト……待ってっからな。早く帰ってこいよ……」 アカツキは目を閉じて、胸中でネイトに呼びかけた。 いつまで経っても、ネイトの明るい表情が瞼の裏に焼きついて離れなかったが、気がついた時には深い眠りに落ちていた。 「…………」 アカツキが寝息を立て始めたのを察して、アーサーはふぅ……とため息をついた。 ポケモンは人間よりも夜目が利くため、暗がりの中でも時間が経てばそれなりに見えるようになる。 思いのほか、寝つきは早かったらしい…… アーサーの目には、アカツキがニコニコ笑顔で眠っているのが映った。 普段は、なんてことのない子供だ。 ある意味、どうしようもない子供だ。 子供の絵空事を信条に掲げて、どうしようもないほど愚直に突っ走っていきそうな危うさを秘めている。 だが、裏を返せばそんな危うさも長所に変わる。 アカツキに、アーロンのような器用さを求めるのは無理だろうし、筋違いであることも重々承知している。 「世話の焼ける主だが、なかなかどうして、悪くないな」 初めてアカツキを見た時には、本当に大丈夫かと、カナタの胸中を疑ったものだが、今は違う。 アーサー自身が、アカツキたちと共に歩いてゆきたいと思っているのだから。 「明日からが本番だな……私もそろそろ休むとしよう」 壁にかけられた時計の針は、夜九時を指し示しているが、時間など関係なかった。 明日、ネイトが戻ってきたら、いろいろと話してみたいものだ…… アーサーは床に腰を下ろすと、ベッドに背中を預けて目を閉じた。 アーロンと共に旅をしていた頃は、もっとひどい状況の場所でも眠らなければならないことがあった。 それと比べれば、この状況は恵まれすぎている。 アーサーは心をカラッポにすると、すぐさまアカツキの後を追って眠りに落ちた。 Side 8 アカツキが眠りについた頃、キサラギ博士はテレビ電話で白衣の研究者と話をしていた。 茶髪を背中に束ねた、いかにも物腰穏やかな雰囲気をプンプン放っている研究者である。 「やっぱり無理なの?」 「手は尽くしたんだけどね」 キサラギ博士の問いかけに、電話越しで困った顔を見せる研究者――リライブホールの開発者・クレイン博士は肩をすくめた。 「残念ながら、ダークオーラの残留濃度が一定以下には下がらなかった。 ボルグが作ったクローズドボール一号(ファースト)は、ポケモンの心理面に与える影響をあまり考慮したつくりになっていなかったらしくてね」 「クレインちゃんがそう言うんだったら、しょうがないわね。 ごめんなさいね、ムチャなこと頼んじゃって」 「いや、構わないよ。 君が心配するのも当然だと思っているからね。それよりもむしろ、僕の方こそ力になれなくて申し訳ない。 ……明日にはそちらに送るよ」 「ええ、ありがとう」 当面の課題は残っているが、問題は概ね解決されたと言ってもいいだろう。 とりあえず、ソフィア団がボルグの力を借りて作り上げたダークポケモンたちの『保護』も、ほぼ解決した。 後は、ノンビリ構えて、ゆっくりやっていけばいいだろう。 ソフィア団関係のことを考えるのも程々に、キサラギ博士は陽気で明るい男の子が明日、ネイトの帰りを出迎えた時のことを考えていた。 「アカツキちゃん、ガッカリしなきゃいいけど。 ま〜、私が考えても仕方ないわね。あの子ならきっと大丈夫だもん」 まだ、ネイトのことは話していない。 明日か明後日には戻ると話しただけだ。 本当のことを隠しているのは、ケガで身体の調子を崩した彼をこれ以上追い込みたくなかったからだ。 どちらにしろ、ネイトが彼の元に帰れば、嫌でも知ることになるだろう。 幸い、今日はアーサーという新しい仲間を連れてきたから、少しくらい落ち込んだって、すぐに持ち直せるはずである。 「ところで、アツコ。 君に聞いておきたいことがあるんだけど」 「……? なに、クレインちゃん?」 考えに耽っているところに声をかけられ、キサラギ博士は心なしか俯き加減な顔を上げた。 電話越しに微笑みかけてくるクレイン博士は「おっとりしているのは君らしい」と話しかけているような気がしてならなかった。 「僕の方でできるだけ調べてみたんだけどね。ネイトってブイゼルのトレーナーのこと」 「ああ、アカツキちゃんのこと?」 「うん。僕が昔会った男の子によく似てるなって思ったんだよ。 ほら、僕たちはポケモンジムのホームページにアクセスする権利があるだろう? そこで、君から聞いた情報を元に、ちょっと調べてみたんだけど……」 「へえ。ジムリーダーがわざわざブログでコメントでも出してたの?」 「まあ、そんなところ」 曰く、ネイゼル地方にポケモンジムを構える四人のジムリーダーがそれぞれ、アカツキと思われる対戦者に対するコメントを残していたのだそうだ。 さすがに名前まで出すようなことはないが、キサラギ博士から聞いた特徴と一致するとすぐに文面から見て取れた。 「あなたもそういう趣味があったのねぇ……今度、学会でこっそりバラしちゃっていい?」 「冗談にしては笑えないね。君、そんな趣味あったっけ?」 「女心と秋の空って言うじゃない」 「……本気で笑えないけど、君のことだから、そんなことはしないだろう。 闇雲に敵を増やすようなやり方を、君は一度もしてこなかったんだから。 僕を試すのは止めなよ。仮にも僕は、君の先輩だしね」 「それはお互い様じゃな〜い」 「……まあ、そりゃそうだ」 不敵な笑みを向け合う二人。 端から見れば、研究仲間というより、完全に敵対しているようにしか映らないのだろうが、 裏を返すなら、それは本音をさらけ出し、腹を割って話し合える間柄なのだ。 「で、どんなことが書いてあったの?」 「明るくて、ポケモンからとても信頼されているいいトレーナーだって」 「まあ、当然よね♪」 「君が、ネイトというブイゼルを僕に躊躇いもなく預けてくれたのが分かるよ。 きっと、いいトレーナーになれるね」 「100%間違いないわ。女のカンって、意外と当たるのよぉ〜?」 「ふふ、そうだね」 要は、ジムリーダーたちはアカツキに最高の賛辞を贈っているということだ。 知り合いとして鼻が高いところではあるが、無論、彼が素晴らしいトレーナーになれるかどうかは、これからどんな風に頑張っていくかにかかっている。 今の評価が、必ずしも将来に結びつくとは限らないのだ。 「僕も、あの子には興味があってね。 ……もちろん、変な趣味じゃないよ。純粋に、どんなトレーナーなのか気になって」 「昔会ったことのある男の子に似てるってこと?」 「それもあるけど、君がテコ入れするほどなんだから、ジムリーダーからの評価以上の素晴らしい何かがあるってことだよ」 「……そうねぇ。 できればクレインちゃんと話をさせてあげたいんだけど、しばらくは身体を治すことに専念しなきゃいけないから。 それに、治ったら治ったで、今度はネイゼルカップに出場するから、特訓もガンバらなきゃいけないのよ。 たぶん、私が話してもずっと先になると思うわ」 「そうか……」 事も無げにキサラギ博士が言うと、クレイン博士は肩をすくめた。 朗らかな笑みは浮かべたままで、残念がっているようには見えなかったが、彼なりに残念だと思っているのだ。 テレビ電話越しにでも話をしたいと思っていたが、それが無理となると…… いいことを思いつき、クレイン博士は目を光らせた。 「なら、仕方ないな。 じゃあ、明日にでも僕が直接お届けに参上しようか」 「あら〜、そんなにヒマなの〜? クレインちゃん、リライブホールの有効性と今後の展望っていうテーマで、学会の発表を控えてるんじゃなかった? アシスタントの子が資料をまとめてるって言ってたけど、 出席者に配布する資料とか、パワーポイントの構成は、最後にクレインちゃんがチェックするんでしょ? ここに来るだけの時間はないはずよ?」 「……君には敵わないな」 ピシャリと言ってのけるキサラギ博士に、クレイン博士は苦笑を漏らすしかなかった。 本気で参上してもいいと思ったのだが、尤もらしいことを理路整然と並べられては、撃沈である。 「分かった。明日の朝に転送しよう」 言って、クレイン博士は白衣のポケットからモンスターボールを取り出し、これ見よがしに見せ付ける。 「ええ、お願いね」 ニコニコ笑顔で応じるキサラギ博士。 「あと、一緒にネイトちゃんの分析データも送ってもらえると助かるわ〜。 私があの子に、ちゃんと教えるべきところは教えなきゃいけないから。嘘はつけないから、ちゃんとしたデータに基づいて話したいのよ」 「ああ、分かった。 僕の研究に差し支えない範囲で、一緒に転送しよう」 「さすがに話が分かるわね、クレインちゃん。だ〜いすきっ♪」 「ふふ、お褒めに預かり恐悦至極……」 やはり、抜け目のない女性(ひと)だ。 クレイン博士は大仰に礼などしながら、不敵に微笑んだ。 キサラギ博士は年甲斐もなくキャピキャピはしゃいでいたりするが、それを隠す様子もない。見られて困るものとも思っていないようだ。 尤もらしい理屈を並べて、本当はリライブに関する知識を深めたいと思っているのだろう。 本音を隠して相手から情報を得る……さすがに、学会で幾多の相手と腹の探り合いを繰り広げてきただけのことはある。 普段はおっとりしているように見えて、常に将来の展望を脳裏に思い描いている。 抜け目がなく、向上心の強い女性……それが、クレイン博士がキサラギ博士に抱いている素直な印象だった。 隙あらば、相手の理論や考え方を自分の研究に取り入れて、仮説をより完璧に近づけようと補完しているのだ。 それを『ハイエナのような所業だ』と陰口を叩く研究者もいるが、彼女のことだ……それくらいはとうに知っているだろう。 知りながらも、気にする素振りも見せない。 言わせたいヤツには言わせておけばいい……と、考えているのかもしれない。 他人の長所を取り入れるのは、生きていく上で必要なことだ。自分一人ではどうしようもないことがある。 誰かの力を借りたっていい。 そうでなければ、人がこの世界で生きてなどゆけるものか。 クレイン博士は、キサラギ博士の強かなところが好きだった。 もちろん、恋心などというものではなく、一人の研究者として、純粋に尊敬できるところだ。 「それじゃあ、早速支度をさせてもらうよ。 データ量はそれなりに多いからね。 君が見やすいよう、整理して、加工した上でお送りするよ。お楽しみに」 「ええ、ありがとう。クレインちゃん」 「ああ……」 クレイン博士は笑みを残し、会話を終えた。 ぷつっ、と耳ざわりな音がして、画面が暗転する。 「さぁて、明日が楽しみねっ♪」 キサラギ博士は期待に胸を弾ませながら、受話器を台にセットした。 と、そこへ扉を叩く音が聴こえた。 「キョウコ? 入っていいわよ〜」 振り向く代わりに、すぐ傍に置いてある研究書を手に取った。 ガチャリと扉が開き、研究室にパジャマ姿のキョウコが入ってきた。 キョウコはキサラギ博士の傍にやってくると、口を開いた。 「マミー。明日、ネイトが帰ってくるの?」 「あら、悪い子。聞いてたの?」 「悪いとは思ったんだけどね」 小さく舌を出すキョウコ。 まさか立ち聞きされていたとは思わなかったが、キョウコならそれを正直に申告するだろう。 茶目っ気全開な口調で悪い子と言われても、全然責められている気がしないが、それは母親の無邪気な性格を知っているからだろう。 「それで……」 研究書のページをめくりながら、目も向けずに愛娘に訊ねる。 「どこから聞いてたの?」 「ほとんど最初から」 「そう……正直に申告するなんて、いい子ね」 「悪い子って言ったじゃない」 「立ち聞きするのは悪い子。でも、正直に申告するのはいい子。当然じゃな〜い」 「まあ、そりゃそうね……調子狂っちゃうわ」 正直に申告しなかったら、悪い子にされていたのだろう。 キョウコは額に手を宛がい、小さく頭を振った。 母親の性格を嫌というほど堪能してきたとはいえ、いつもいつも、どうして決まってペースを狂わされてしまうのか。 自分のペースを維持することと、相手のペースを狂わせることには、この母親は天才的だ…… とはいえ、最初から嘘の上塗りでごまかす気はなかった。 嘘などつかずとも、わざわざ部屋の扉を叩く必要さえなかった。 「気になったのよ。 あのガキんちょがガッカリしなきゃいいけどって、マミーがそんなこと言うんだもん」 キョウコは口を尖らせた。 仕返しとばかりに、少しだけ恨みを込めた口調で言葉を突きつけるも、キサラギ博士は顔色を変えるどころか、眉一本動かしさえしなかった。 娘が何を言ってこようと問題ない……と、思っているのかもしれない。 「そぉねぇ〜」 何ページか目を通した後で、短く言う。 白衣のポケットから取り出した香木の栞を挟んで、研究書を傍に置いた。 「明日になったら分かるわよ。 ネイトちゃんをアカツキちゃんに返すところに立ち会ったら、分かるから。 今、ここで言ってもいいけど……」 キサラギ博士は「うふふ……」と、小さく含み笑いを漏らすと、 「娘の楽しみを奪っちゃうなんて、悪い母親のすることだもん。 だから、明日まで待ってね」 「ちょっと待てぇぇぇぇぇぇっ!! 楽しみに思うようなことなんか〜っ!!」 「え〜、だってぇ」 「だってぇ……って!! マミー一体トシいくつよ!! そんな子供じみたこと言わないの!!」 大人の自覚ゼロのセリフを吐かれ、キョウコは額に青筋など浮かべながら絶叫した。 この母親が大人の自覚ゼロなのは昔から変わっていないような気がしてくるが、それを責めたところで変わらないことも理解している。 一体、この母親は何を言いたいのか…… たったそれだけのことなのに、なんでこんなに身体も心もホットにならなければならないのか。つくづく疑問の尽きないやり取りだった。 「言えないっていうんだったら、言えないって言えばいいじゃない!! マミーったら、昔っからそうやって回りくどい言い方ばっかりしてさ!!」 「言えないわけじゃないわよ〜」 「だったら言えっ!! 今言えすぐ言えさっさと言えっ!! さあっ!!」 「映画の結末を先に教えちゃうようなものよ? それでもいいの?」 「えっ……」 ありったけの迫力を引き出して凄んでみるが、キサラギ博士はおっとりした態度と口調をまったく崩さず、平然と言い返してきた。 これには、キョウコの方が唖然としてしまう。 映画の結末を先に教えちゃうようなもの……というのが、アカツキがガッカリするようなことだとでも言うのか。 もっとも、キサラギ博士の価値観に塗れた言葉が真実とは限らない。 言葉は、人によって……また、同じ人でも、心理状態によって重みや受け止め方が異なるものなのだ。 「…………分かったわよ」 キョウコは眉を十時十分の形に吊り上げたまま凝り固まっていたが、やがてトーンダウンした口調でつぶやき、肩を落とした。 やはり、この母親には敵いそうにない。 他人のペースを崩し、自分だけは平然としている……ある意味、その神経の図太さが羨ましくて仕方ない。 「明日まで待てばいいんでしょ? ……ったく、眠れなかったら責任取ってよね」 「あなたが深刻になることじゃないもん。 アカツキちゃんにとっては、ちょっと辛いことかもしれないけど……でも、それも一時的なものよ。 その辛さを乗り越えたら、きっと以前よりも幸せな日々が戻ってくるんだもの」 「…………悪い知らせなんだ」 「良いことばかり口にできないのが、大人の辛いところよ」 キサラギ博士は口元の笑みを深めると、小さく肩をすくめてみせた。 「…………」 キョウコは、とんでもない誤解をしていたことに気づいた。 ゴーストポケモンのようにつかみ所のない性格はどうしようもないからいいとしよう。 そういえば、どこかの地方の四天王の筆頭が、どうしようもない天然だと聞いたことがあるから、似た類だとでも思えばいいだろう。 だが、キサラギ博士はネイトが戻ってきたら、アカツキに悪い知らせとやらを話してやらなければならない。 いい知らせなら、そんなことは口にしないものだ。 「あー、やっぱりマミーは大人なんだなあ……普段はガキもいいトコだけど」 改めて、母親の偉大さが身に沁みた。 普段はどうしようもないガキなのに、どうしてこんな肝心なところで大人の考え方を示すのだろう。 普段からそうやっていればいいのに……今さら矯正を求めても、無意味になりそうだからやめた。 驚嘆するキョウコに微笑みかけ、キサラギ博士が優しい口調で言った。 「私も寝るから、あなたももう寝なさいね」 「分かったわ」 「それと……あと、明日になってからでいいんだけど、お願いしたいことがあるのよ」 「なに?」 明日のことなら明日言えばいいだろうに……と、思うでもなく、キョウコはそのままの表情で聞き返した。 「簡単なことよ。 ネイトちゃんが戻ってきたら、すぐにアラタちゃんとカイトちゃんに、ここに来るように頼んでほしいの。 どうせなら、みんな一緒に話を聞いた方がいいと思うのよ」 「あ、そう……分かった。それじゃ、おやすみ、マミー」 「おやすみなさい」 なんてことはない。 キョウコの方が話を通しやすいと思っているから頼んだだけ。 彼女は研究室を出て、自室へ向かった。 「不幸は分け合える人間が多い方がいいってことね。 ……ま、幸せは独り占めするのもいいけど、その逆もアリってことだもんね」 Side 9 ――アカツキが故郷を旅立って52日目。 その日も、目覚めは思いのほか爽快だった。 エチケットを済ませ、朝食も摂り終えて。 アカツキはキサラギ博士から『ネイトちゃんが戻ってきたわよ』との連絡を受けると、すぐさま着替えて彼女の研究所へ向かった。 とはいえ、車椅子を乱暴に扱うわけにもいかず、逸る気持ちを抑えながら、道の先に見えてきた研究所の建屋を凝視する。 「……少し、落ち着いたらどうだ」 車椅子の上で落ち着いているとはいえ、アーサーにはアカツキが逸る気持ちを抑えるのに苦慮しているのが手に取るように理解できた。 今からそんな状態では、後々興奮して息切れして倒れてしまうかもしれない。 そう思って苦言を呈してみたが、 「落ち着いてられるわけないじゃん!! ネイトが戻ってくるんだぜ!? ダークポケモンじゃなくって、元のブイゼルに戻ってんだから!!」 「気持ちは分かるが……」 「アーサーだって、仲間が増えるのうれしいだろ?」 「……!! そ、それはそうだな……」 「だったら、落ち着いてられないっての!!」 「…………そうだな」 撃沈の憂き目を見た。 アカツキはどのポケモンとも同じ態度で、平等に接しているが、やはりネイトの存在は他のポケモンよりもずっと大きなウェイトを占めているのだろう。 何年も一緒に過ごしてきた、家族同然の相手だ。 ダークポケモンという、心に鍵をかけられた戦闘兵器などではなく、 元通りの……家族同然の相手として戻ってきてくれるのだから、それを落ち着けと言う方が不躾かもしれない。 それに、勝手に興奮して勝手に倒れても、それは本人の責任であって、周囲に責任論が波及することもないだろう。 アーサーは極めて論理的な思考で無難な落とし所を見つけ、考えの岩を落っことした。 大切な相手のことを考えれば、落ち着いていられるはずもないか……増してや、アカツキはまだまだ子供だ。 「まあ、それくらいがいいのかもな……」 いつも落ち込んでいたり、後ろ向きな考えばかり抱いているよりはずっとマシだ。 アーサーは気を取り直し、車椅子を押す手に力を込めた。 ネイトと会うのは初めてだが、アカツキがすごくいいヤツと言うからには、気さくで明るい性格だろう。 アーサーもアーサーで、何気に期待に胸を弾ませながら道を行く。 程なく、二人は研究所にたどり着いたのだが、先客がいた。 早朝を通り過ぎ、ディザースシティではサラリーマンの出勤ラッシュを迎える時間帯。 レイクタウンでは無縁のシロモノだが、そんなことはどうでも良くて。 「兄ちゃんにカイトじゃん。二人とも、ネイトに会いに来たの?」 「ま、そんなトコだ」 「キョウコさんに呼ばれて」 軽く挨拶を交わし、アカツキはカイトの言葉に引っかかるものを感じ取った。 「キョウコ姉ちゃんに?」 「うん、そうだよ」 「兄ちゃんも?」 「ああ。ネイトが戻ってくるから、会いに来いって。あいつ、朝からあんな高慢チキな態度取れるんだから、大したモンだぜ……」 アラタはまだ朝だというのに、隠そうともせずに深いため息をついた。 どうやら、キョウコの高慢な態度を朝から見せ付けられて、少しヘコんでいるらしい。 案外、彼女もネイトが戻ってくると知って、喜んでいるのかもしれない。 いつしか引っかかりも取れて、アカツキは二人と少し話をした。 「思ったより早かったんだな。 たくさんダークポケモンがいたから、もっと長くかかると思ってたんだけど……」 「なんでも、他のポケモンたちはネイトやアーサーみたいに、完全型じゃなかったから、すぐにリライブできたんだって言ってたよ」 「へ〜。そうなんだ〜」 カイトの言葉に、曖昧な相槌を打つ。 意味はよく分からないが、ソフィア団が作り出していた他のダークポケモンたちはリライブを完了し、里親となるトレーナーを待っている最中だとか。 ともあれ、アカツキはキサラギ博士から、アラタとカイトはキョウコから呼び出しを受けたのだから、結果は変わるまい。 「んじゃ、そろそろ行くか。水場で待ってるって言って、おばさんとキョウコのヤツ、二人して先に行っちまったからさ」 「アカツキのこと、オレとアラタさんで待ってたんだ」 「そっか……ごめん、待たせちまったかな」 「いや、そうでもないさ。オレたちも、三分前に来たばっかだし。じゃ、行こうぜ」 「おうっ!!」 気を取り直し、アラタとカイトを加えて敷地へと繰り出す。 太陽が東の地平線から顔を覗かせて一時間近くが経つが、敷地内はひっそりと静まり返っていた。 「……なんか、いつもと違う気がするなあ」 アカツキは青々と広がる草原を見渡し、小さくつぶやいた。 吹き付けてくる風のにおいも、太陽が照らし出す草原の景色も、いつもと同じなのに。 なぜだか、敷地内を包む雰囲気がいつもと違っている。 嵐の前の静けさを思わせるように、ひっそりと……息を殺しているような。 「ミルタンクたちの姿が見えないね。何かあったのかな?」 カイトも、すぐに敷地内の『異変』に気がついた。 レイクタウンの北部に広がる研究所の敷地には、様々なポケモンたちが暮らしている。 研究所の建屋の近くには、ミルタンクやガーディ(今はウインディ)の住処があるのだが、普段なら活動を開始しているはずである。 ミルタンクは黙々と、緩慢な動作で草を食み、やんちゃなウインディたちは土煙を上げながら敷地内を駆け回っている。 そんな、いつもと変わらない景色が、今日に限っては見られない。 本当に異変でも起こったのだろうかと心配になるが、 「いや、そんなことはねえだろ。 本気でヤバイことがあるんだったら、ここのポケモンはともかく、あいつが黙ってねえって。 一帯が爆砕してねえってことは、何もなかったってことだ」 「ああ、なるほど。そう言われてみると確かにそうだね」 「兄ちゃん、冴えてる〜♪」 「へへ、まあな」 「…………」 アラタの言葉に、カイトとアカツキはすぐさま納得したが、アーサーには意味が分からなかった。 言葉の内容は理解できるが、だからこそ一体何を言っているんだという疑問が沸いてくる。 キョウコのことを知らないからこその反応と言っていい。 彼女は何か騒ぎがあると、それに乗じて暴れることが多いのだ。 アカツキはアーサーが戸惑っているのを察して、肩越しに振り返って注釈を加えた。 「キョウコ姉ちゃん、何かあるとすぐポケモンを出して暴れたがるんだよ」 「…………」 なるほど……アーサーは返事の代わりに、小さく頷いた。 キョウコは確かに強気な性格で、ある意味強引で傲慢。 そんな彼女のことを言っているのなら、アラタが発した意味不明な言葉の真意も頷けるというものだ。 「でもまあ、気になるな」 「うん」 キョウコが暴れない程度に、何かがあったのだろう。 一体、なんだろう? ネイトが帰ってきたのに、胸がざわついている。 うれしい気持ちはあるけれど、何かがこびり付いている。 草原をゆっくり進みながら考えてみるが、正体は見えない。 不安……? いや、不安に思うことなんて何もないし。 焦り……? 何を焦るってんだ。そんなモンもねぇ。 どうでもいい自問自答を続けながら行くうち、なだらかな傾斜の先に水場が見えてきた。 アカツキたちを呼び出した親娘は水辺の岩に仲良く腰かけて、こちらを見ている。 待ち侘びている様子だが、キサラギ博士はいつものようにニコニコ笑顔。 対照的に、キョウコは冴えない表情を見せていた。 朝からアラタに高慢チキなところを見せていた割に、ここに来てロウテンションだ。 「ヌオーたちもおとなしいね」 「ああ、そうだな。波も立っちゃいねえ」 キョウコのテンションが妙に低そうなのは放っておいて―― カイトとアラタの言うとおりだった。 二人して、わざとキョウコには触れないようにしているのだが…… 水辺もまた、静寂に満ちた空気に包まれていた。 動作が非常に緩慢で、ノロマだのマヌケだのと不名誉な呼び方をされることも多いヤドンまで、水の中に潜っている。 本当に、嵐が通り過ぎるまで息を殺して待っているようにしか思えなかった。 「でも、ネイトが帰ってきてんだ……!!」 アカツキは、キサラギ博士が手にしているモンスターボールだけを見ていた。 周囲の状況なんて、正直どうでもいい。 不気味なまでに静まり返っていようと、ネイトとガッチリ抱き合って再会の喜びに浸れば、この静寂も打ち破れる。 二人の傍らには、すでにアカツキのポケモンたちが勢ぞろいしていた。 冴えない表情を浮かべているのはキョウコだけで、リータたちは今にもはしゃぎ出したい心を抑えているのが遠目にも理解できるほどだった。 彼らだって、アカツキが到着するまでネイトには会わないのだと我慢している。 トレーナーであるアカツキがここでキャピキャピはしゃぐわけにもいかない。 グッと拳を握りしめ、逸る心を抑える。 爪が皮膚に食い込む痛みが、冷静な感覚を意識の海から浮上させる。 「ま、いいんじゃね? みんな、気を利かしてくれてるのかもしれないからな」 「そうだよね。アカツキとは仲がいいし、みんななりにサービスしてくれてるのかも」 アラタが軽い調子で言うと、カイトは大きく頷いた。 たぶん、そうだろう。 アカツキもそんな風に思っていた。 嫌でも高鳴る気持ちを物語るように、心臓がばくんばくんと音を立てて弾む。 少しずつ、再会の時へと向かって進んでいると分かる。 一秒が千年のように長く感じられるのも、感動の再会を強く意識しているからだろう。 まだかまだかと思ううち、アカツキたちは水場に到着した。 「ベイっ、ベイっ♪」 「みんな、おはよ〜」 到着するなり、リータはすぐさまアカツキに駆け寄ってきて、頭上のスパイシーな香りが漂う葉っぱを彼の二の腕にこすり付けてじゃれ付いてくる。 人懐っこい性格は元からだが、ベイリーフに進化してからは、磨きがかかったようだ。 アカツキはみんなの顔を見渡してから、挨拶をした。 みんなして、また今日も来てくれたと、喜びを顔に出していた。 今日もアカツキに会えたから……というだけでなく、ネイトが戻ってきたと分かっているからだろう。 この場だけは、他の場所と違って明るい雰囲気に満ちていた。 いつまでもシケた顔をしていてもしょうがないと思ったのだろうか、キョウコはいつもの得意気な表情を浮かべ、開口一番、こんなことを言った。 「やっと来たわね、あんたたち。 レディーをいつまで待たせる気よ。待ちくたびれて帰ろうかと思っちゃったわ」 すっかりいつもの高飛車に戻っている。 もっとも、それが彼女らしさなのだから、冴えない表情をしている方が『何かあったのか?』と思って心配になってくる。 とはいえ、挑発口調でそんなことを言われて気分がいいはずもなく、アラタはキョウコに鋭い眼差しを送り、言葉を突き返した。 「あのな〜、さっきの冴えない顔を見た後でンなこと言われても、全然説得力ねえぞ」 「うるさいわね!! あたしだってああいう顔することだってあんのよ!! 野蛮人には分かんないでしょーけど!!」 「けっ……心配して損したぜ」 「誰も心配してくれなんて頼んでないわよ。べーっ、だ!!」 何気にアラタの言葉が気になっているようで、キョウコは顔を赤らめて反論してきた。 図星か…… 傍目にもそれが分かるほどだったので、アカツキは笑いを噛み殺すのに必死だった。 ネイトが帰ってくる前の余興にしては、なかなか面白い。 アラタとキョウコが朝っぱらから睨み合っているのを見て、キサラギ博士がポツリ一言。 「あらぁ、朝から仲がいいわね〜。おばさん、裏やしいわぁ〜」 「誰(どぅあれ)が羨ましいのよ!! 誰が!!」 「まったくだ!! おばさんの目って節穴なんじゃねえの!?」 ある意味無責任な一言に、二人して猛烈に抗議するが、それがかえって彼女の言葉を肯定する結果となった。 「…………」 こいつらは、いつもこんな感じなのか? アーサーは目の前で繰り広げられる痴話ワールドに言葉を失っていた。 アラタとキョウコは仲が良い。 アカツキからはそう聞いていたが、なるほど……チグハグなところがピッタリと合っている、といったところだろう。 「それより、おばさん」 このままだったらいつまでも痴話ワールドに浸りかねないので、アカツキはリータの頭上の葉っぱを撫でながら、キサラギ博士に言葉をかけた。 「ネイトが戻ってきたんだろ? 早く会わせてよ!!」 「そうそう!! そのために来たんだから」 「はいはい、分かっているわよ。ネイトちゃん、ここにいるからね」 期待に瞳を輝かせながら詰め寄ってくるアカツキとカイトを手で制し、キサラギ博士はいつもの笑顔で、ネイトが入っているボールをちらつかせる。 「お、やっとネイトのお出ましか」 「そのようね」 口汚く罵り合っていたアラタとキョウコも、いよいよネイトが登場するということで、休戦協定を結んだようだ。 「じゃ、感動の再会タ〜イム♪」 キサラギ博士が何とも間延びした声で言いながら、手にしたボールを軽く頭上に放り投げる。 全員の視線が、ゆっくりと上昇するボールに向けられる。 徐々に勢いを落とし、ピタリと空中に留まった瞬間、ボールが口を開き、閃光に包まれてポケモンが飛び出してくる。 ポケモンが地面に降り立つと、閃光は砕け散り、虚空に溶けた。 そこに立っていたのは…… 「ネイトっ!!」 どこにでもいるようなブイゼル……アカツキのネイトだった。 ネイトはボールから出てくると、ゆっくりと頭を動かし、周囲を見渡した。 どこか覇気のない表情をしているが、いきなり別の場所に出されて驚いているのだろう。 アカツキはネイトに呼びかけると、今自分がどんな状態なのかも顧みず、飛び出した。 「あ、おい!!」 これにはアーサーの方がギョッとした。 四六時中アカツキの傍にいるだけに、彼が今どんな状態なのか手に取るように分かるのだ。 まだ、骨にはヒビが入っている状態。少しでも無茶をすれば、それだけで骨のヒビが大きくなり、やがてはポッキリ折れてしまう。 危うく声に出してしまいそうになるが、代わりにすかさず飛び出して、アカツキの身体を支える。 「へえ、しっかりしてるわね」 アーサーが阿吽の呼吸でアカツキを支えるのを見て、キョウコが眉を上下させた。 ネイゼル地方において、アーサーに代表されるルカリオはかなり珍しいポケモンだということを、知っているからだ。 人の言葉を完璧に理解できる、とても賢いポケモンと聞くが、どうやらそれ以上に賢いらしい。 「ネイト〜っ、やっと帰ってきたんだな〜。おかえり〜♪」 アカツキはネイトの身体をグッと引き寄せると、思いっきり抱きしめた。 ちょっと水っぽいけど、フワフワした感覚の体毛。 空気を詰めた首の浮き袋は、相変わらずテカテカしていていい感じだ。 身体もほのかに暖かく、シンラに捕らえられた後で見られたダークオーラも、今はまったく見えない。 ダークポケモンから普通のブイゼルに戻った何よりの証拠だった。 「みんな、おまえの帰り待ってたんだぜ〜?」 「ベイっ」 「ごぉぉぉ……」 アカツキの言葉に応えるように、リータたちがネイトの傍にやってきた。 だが…… 「…………」 「なあ、ネイト。何ダマってんだよ」 ネイトが何の反応も示さないのを不審に思って、アカツキはネイトを離した。 ……と、不意に気づく。 ネイトはアカツキを見ていない。アカツキだけでなく、誰も見てはいなかった。 「あ、あれ……?」 様子が変だった。 どこからどう見ても変だった。 いつものネイトなら、アカツキの姿を見かければすぐにでも飛びついてくるはずだ。 トレーナーに似て、陽気で人懐っこい性格がとてもまぶしいブイゼルなのだ。 それなのに、今はそんな様子を微塵も見せず、おとなしい。 ダークポケモンの呪縛からは逃れたはずなのだが……一体どうなっているのか。 「なあ、ネイト……ネイト?」 何度か呼びかけてみても、無反応。 無表情で、視線を虚空の一点に留めたまま、じっと動かない。 心ここに在らずと言わんばかりだ。 もしかして、ドッキリ? しかし、ネイトは感動の再会をそんな笑えないギャグでぶっ潰すほど無神経でもない。 「ベイ?」 「キシシッ?」 リータとラシールも、不審に思っているようだ。 まるで、自分たちのことを忘れてしまったような……いつものネイトと、雰囲気がまるで違っていた。 「あれ、なんか様子変じゃねえか?」 「うん。いつものネイトじゃない」 「どうなってんの?」 アラタたちも、ネイトの様子が普段と異なっていることに気づいた。 少し距離を取って、食い入るようにじっと見やる。 やっぱり変だ。何かが変だ。 みんなして、懐疑的な視線をネイトに注ぐ。 しかし、当の本人はまるで気にしていない。同じ場所に視線を向けたまま、微動だにしないではないか。 「…………」 やっと、ネイトが帰ってきてくれたと思ったのに。 何かが違う。たぶん、180度くらい決定的に違っている。 それは、ネイトと何年も一緒に過ごしてきたアカツキだから、誰よりもよく理解していた。 ただ、何がどう違っているのか……考えても分からない。分かりすぎて、逆に理解できなかった。 アカツキたちが少し距離を取ってネイトと接しているのを見て、キサラギ博士はため息混じりに言った。 「やっぱり、そうなっちゃったわね〜。 もしかしたら……って思ったんだけどね〜」 「やっぱり……って? どういうこと、おばさん?」 やっぱりの一言に、アカツキは尖らせた眼差しをキサラギ博士に向けた。 ネイトがこんな様子を見せることを、はじめから知っているような口振りだった。 分かっていて、ネイトを外に出したのか……? 要らぬ疑いを抱いてしまうが、それを招いたのは、当のキサラギ博士本人である。 「マミー、もしかして……」 キョウコが横目で、探るように母親を見やる。 「うん、実はね…… ネイトちゃん、ダークポケモンからは戻れたんだけど、ダークオーラの影響が完全に拭えたワケじゃないの」 「どういうこと?」 アカツキはキサラギ博士の言葉に首を傾げた。 アラタとカイトも似たような反応を見せたが、博士はアカツキの目をじっと見据えたまま、言葉を続けた。 ネイトのトレーナーであるアカツキには、事実をちゃんと受け止めてもらいたいという強い決意を込めて。 「今のネイトちゃんはダークポケモンじゃなくて、一応は普通のブイゼルなの。 だけど、心に鍵をかけた力をすべて取り除けたわけじゃないのよ。 そうね……鍵は壊せたけど、扉がさび付いてなかなか開かない状態かしら。 ネイトちゃんはちゃんと物事を考えたりすることができるけど、それを表に出すことが難しい状態なの。 アカツキちゃんと会えて、本当はすごくうれしいけれど、それを表に出せないのよ」 「…………」 「そんなぁ、やっと戻ってきたかと思ったのに……」 キサラギ博士の言葉に、アカツキは返す言葉を失った。 せっかく戻ってきたのに…… ダークポケモンから元のブイゼルに戻っても、まだ元通りのネイトではないなんて。 「なんで……?」 驚きは確かにあったが、同時に納得もしていた。 ネイトが何の反応も示さなかったのは、思っていることを表に出さないのではなく、出せないからだ。 キサラギ博士はそれを理解した上で、あえてアカツキたちをこの場に呼んで、ネイトを外に出した。 きっと、そこに何らかの意味があるのだろうと、アカツキは薄々だが察していた。 アカツキはじっと、ネイトを見ていた。 無表情で、何を考えているかも分からないような態度の、大切な仲間をただ見ていた。 「……でも、ネイトは帰ってきてくれた。元に戻ってないのは悔しいけど……」 経緯はどうあれ、シンラの手によってダークポケモンにされたネイトが戻ってきたことに変わりはない。 ダークポケモンの戒めから解き放たれ、以前とはちょっと違っていても、ネイトがネイトであることに変わりはないのだ。 アカツキが無表情でネイトに視線を注いでいるのを見て、キョウコは胸が痛んだ。 ガッカリするかもしれない……と言っていたが、それはこのことだったのか。 道理で、夜中にテレビ電話でコソコソと話をしているはずだ。 だが、なんとかしてやりたい。 こんな元気のないネイトなど、ネイトではない。 肩を落とすアラタとカイトを余所に、キョウコはキサラギ博士に問いかけた。 「マミー、なんとかならないの?」 「やってみたわ。でも、無理だった」 キサラギ博士は頭を振った。 口元に浮かんだ笑みが、どこか淋しげにゆがむ。 「リライブホールを使えば、大概のダークポケモンは元に戻せるんだけど、中にはそれが難しいポケモンもいるの」 曰く、オーレ地方でシャドーによって作られたダークポケモンの多くは、 リライブホールによって元のポケモンに戻ることができたが、いずれも初期に作られたダークポケモンであるとか。 リライブ不可能なダークポケモンの製造過程の初期段階であったため、 失敗やバグが多く、完全な形でリライブをブロックするシステムが組み込めなかったそうだ。 難しい理論や数式を平然と並べ立てるキサラギ博士だが、彼女の言葉には珍しく熱がこもっていた。 意味が分からなくても、全員が真剣な表情で聴き入ってしまうほどだ。 で、続きはというと…… 後期に作られたダークポケモンについては、初期の段階で発見された失敗やバグを修正し、 リライブをブロックするシステム――通称・ARS(Anti Re-live System)が高度なものになっているため、リライブがなかなか進まなかったらしい。 ポケモンレンジャーのキャプチャを警戒して、キャプチャディスクからの信号を遮断するプログラムも組み込んだそうだが、それは後付けしたものだ。 リライブはポケモンの心の扉を自然な形で――言い換えれば最も負荷のかからない形で――開かせる方法だ。 だが、裏を返せば、リライブは時間がかかるとも言える。 そこで、リライブの時間短縮のために発明されたのがリライブホール。 リライブホールが発明される前は、普通にリライブを進めているだけでも突然ダークオーラが逆流を起こして、 ダークポケモンの身体を傷つけるような事象が度々発生していたそうだ。 自然な形で心を開かせるリライブの進化形……リライブホールでさえ、ネイトの心の扉を完全に開け放つことはできなかった。 ……それが結論だった。 「ボルグちゃんが作ったクローズドボールには、厄介な特性があってね。 心の扉を包む力に暗号がかかっているんだけど、強引に暗号を解除してしまえば元通りなんだけどね……でも、それだけはできなかったのよ」 「なんで?」 「ネイトちゃんの心に大きな負担を強いることになるから。 せっかくネイトちゃんが戻ってきても、アカツキちゃんや、他のみんなとの思い出や記憶が消し飛んじゃったら、意味ないでしょ?」 「あ……そっか」 ネイトを完全な形で元に戻すには、まだまだ時間がかかると、キサラギ博士は締めくくった。 どちらにしても時間がかかるのなら、アカツキや仲間たちと接することでリライブを進行させたい…… クレイン博士からの報告を受けて、キサラギ博士はネイトを彼に返すことに決めたのだそうだ。 「そうなんだ……おばさん、オレたちのこと、そこまで考えて……」 「いつもの元気なネイトちゃんに戻してあげられなくてごめんね。 でも、アカツキちゃんだったら、ちゃんとネイトちゃんを元に戻してあげられるって信じてるからね。 いつもと同じように接してあげて。それが、ネイトちゃんの心の扉を開くことだから」 キサラギ博士が浮かべる笑みは、痛々しげに見えた。 ネイトを元に戻してやれなかったことを悔やんでいるようだった。 確かに、アカツキはネイトがてっきり元通りになって戻ってくるものとばかり思っていた。疑いもしていなかった。 しかし、実際には研究者たちの苦悩があり、悩み抜いた末に不完全な状態で返すことを決断したのだ。 彼らの覚悟は、それこそ並大抵のモノではないだろう。 だったら、他の誰でもないアカツキ自身が、彼らの覚悟に応えなければならない。 「うん、絶対に元のネイトに戻すから!!」 アカツキはキサラギ博士に大きく頷きかけた。 それから、相変わらず無反応のネイトに向き直る。 今はこんな状態でも、ネイトは心の中でアカツキや仲間たちとの再会を喜んでいるはずだ。 それを表に出せないだけ…… 思っていることは、自分もネイトも同じ。 だったら、一日でも早く、ちゃんとした形で意思疎通できるようにみんなでネイトを支えなければならない。 驚きもショックも、一気に吹き飛んだ。 自分が今やらなければならないことを、ちゃんと理解しているからだ。 アカツキがネイトに向ける眼差しは優しく、それでいて並々ならぬ決意に満ちていた。 心なしか、全身からやる気が漲っていて、ポケモンたちはトレーナーの気持ちに触発されたように、表情をキリリと引き締めた。 ネイトの心に過剰な負担をかけたら、記憶や思考能力が壊れてしまうかもしれない。 だから、時間はかかっても、負担のかからない方法を選んだ。 それだけのことだ。 だけど…… 「あーあ、オレたちの方が落ち込んじまってるな……」 アラタは、アカツキたちが一丸となっているのを目の当たりにして、自分たちの方が意味もなく落ち込んでいるだけなのだと見せ付けられた気分になった。 「でも、あいつは昔からそうだっけ…… 嫌なことがあっても、自分にやるべきことがあるんだったら、クヨクヨするよりも先に、やるべきことに手をかけんだよな。 ……ったく、オレもウカウカしちゃいらんねえや」 アラタは頭を振った。 やるべきことなど、それこそ山積しているというのに。 この場にいる四人のトレーナーは、ネイゼルカップに出場する。本気で優勝を目指すなら、時間はいくらあっても足りないのだ。 だが、アカツキだけは二つのハンデを背負っている。 一つは、アカツキ自身の身体が万全でないこと。この状態では旅に出たり、ポケモンバトルの激しい特訓などできないだろう。 もう一つはネイトだ。 ネイトがちゃんと心を開くまで、アカツキはポケモンを育てようと言う気にはならないはずだ。 いくらなんでも、それではフェアとは言えない。 フェアプレーが大前提のポケモンバトルにおいて、ハンデなど絶対にあってはならないものだ。 アラタは、アカツキとネイゼルカップの大舞台で、兄弟の情は抜きに、一人のポケモントレーナーとして正々堂々と戦いたい。 そのためにも、アカツキにすべてを背負わせるわけにはいかなかった。 しかし、考えていることはみんな同じだった。 「よし、オレも一肌脱いでやるぜっ!!」 「世話が焼けるわね。でも、任せっぱなしも癪だわ」 「うんうん。オレも手伝うよ!!」 アラタが言い終えるが早いか、キョウコとカイトも、協力を申し出た。 背中にかけられた心強い言葉の数々に、アカツキは振り返り、思わず涙が出そうになった。 「兄ちゃん、キョウコ姉ちゃん、カイトまで……」 何も言わなくとも、彼らなら手を差し伸べてくれるだろう。 それは分かっていたけれど、自分から「助けて」と言い出すわけにはいかなかった。 今度こそ、自分たちの力でなんとかしなければならないと思っていたからだ。 だけど、力を貸してくれるなら、差し伸べられた手を払いのけるわけにもいかない。 自分たちだけじゃなくて、力を貸してくれる親しい人たちと一緒に、ネイトの心の扉をゆっくりと開け放とう。 協力を申し出てくれた三人の表情は、一様に明るかった。 涙なんて、見せるわけにはいかなかった。 アカツキは小さく鼻をすすると、小さく頭を振った。 「オレたちだけでどこまでできるか分かんないけど、ガンバってみる。 無理かも……って思ったら、力を貸してよ」 「おう、断られても押しかけるからな」 「うん、ありがと、兄ちゃん!!」 アラタはアカツキの眼前に、きつく固めた握り拳を差し出した。 アカツキも笑顔で、同じように握り拳を差し出し、互いに軽く突き合わす。 道場に通っていた兄弟ならではのサインだった。 「いいわねぇ、男の子の友情って。憧れるわぁ〜♪」 ああ……麗しき兄弟愛。 キサラギ博士は黄色い悲鳴を上げながら、表情を綻ばせた。 「あ、あのねぇ、マミー……そういうんじゃないってば……」 母親の突拍子のない言動はいつものことだが、よりにもよって、こういったシーンに反応するとは…… キョウコはげんなりした様子で、ガクリと頭を垂れた。 頼むから、人前で変なところを見せるのはやめてくれ……その一言が口を突いて出そうになったが、寸でのところで堪えた。 そういった言葉を口にすること自体、本気で恥ずかしくなる。 キョウコが一人でキサラギ博士の様子に機敏な反応を示すのを余所に、アラタとカイトはすっかりアカツキに対する協力体制を固めていた。 「よ〜し、そうと決まったら……」 アカツキは荒い鼻息をつくと、アーサーに車椅子に乗せてくれるよう頼んだ。 アーサーは頷き、アカツキの身体を軽く持ち上げて、車椅子に乗せた。 「みんなで散歩しようぜ。その方が、ネイトの気も紛れるかもしれないしさ」 「そうだな。付き合うぜ」 「オレも〜」 やると決めたからには、即・行動開始だ。 アカツキが声を上げると、アラタとカイトがすぐに食いついてきた。 「……!! あ、あたしも行ってあげるわ」 置いていかれてはたまらないと思ったのか、キョウコは少し遅れて、ひどく慌てた口調ですべり込んできた。 「兄ちゃんたちが一緒なら、楽しくなりそうだなっ」 「ごぉっ……」 「キシシシ……」 アラタたちがいようといまいと、ポケモンたちからすれば、アカツキと一緒にいられるだけでいいのだ。 ネイトを元に戻すと言っても、実際にやることと言えば、以前と変わらぬ態度で接するだけ。 何も難しいことではないし、特別なことでもない。 アカツキの身体が全快していない状態では、アーサーに車椅子を押してもらいながら町を散歩するくらいしかできない。 身体が治ったら、ネイトを絡めてみんなでじゃれ合おう。 近い将来の展望を胸中で組み立て、アカツキはリータに頼んだ。 「リータ、ネイトを蔓の鞭でオレの膝の上に置いてくれる?」 「ベイっ♪」 朝飯前と言わんばかりに、リータは蔓の鞭でネイトの身体をそっと絡め取り、アカツキの膝に置いた。 「…………」 蔓の鞭で巻かれても、ネイトは無反応。 もしかしたら、胸中ではくすぐったいと思っているのかもしれないが……反応がないのは仕方がない。 「おとなしいなんておまえらしくないぞ? 悔しかったら、早く心の扉なんか開いちまって、オレに水鉄砲でも食らわせてみろよ。へへっ♪」 アカツキは膝の上でおとなしくしているネイトに意地悪な言葉をかけた。 当然、反応は返ってこない。 ネイトのことだから、胸中では「ちくしょ〜、覚えてろ。絶対に水鉄砲食らわしてやる!!」と憤慨しているに違いない。 「でも、ネイトはネイトなんだ。今はおとなしいだけで……さ」 膝にかかるずしりとした質量が、アカツキに伝えている。 上手く自己表現ができなくても、ネイトはネイトだ……膝からその体温がじわりと伝わってきて、何とも言えない気持ちになる。 膝の上に横たわり、周囲の景色をじっと見ているだけのネイトの身体をそっと撫でながら、アカツキは胸中で誓った。 「絶対、おまえを元に戻してやる。一日でも早く、前みたいにじゃれ合おうな」 第20章へと続く……