決断 〜最後にして、最初の……〜 ――生まれ育った場所に戻れない代わりに、大切な友達との思い出を取るか。 それとも…… ――どうせ忘れ去ってしまうなら、その思い出を捨てて、生まれ育った場所へ帰るか。 普段なら簡単に決められることでも、僕は迷っている。 今の僕に、時間がほとんど残されていないと、分かっているのに。 遮るもののない夜空に、キラキラと淡く輝く小舟が浮いている。 眼下には雲の絨毯。 濃紺の空に、ポツンと浮かぶ丸い月。 神々しくも、残酷なまでに冷たい輝きを放ち、雲の絨毯を照らし出している。 どこへ向かうとも知れない小舟に、僕は乗っている。 それと、舳先にもう一人。 船頭は背筋をピンと伸ばし、前をじっと見つめている。 僕が迷っていることなど、知らないのかもしれない。 知っていたとしても、それは僕が考えることだからと、あえて気にしないよう努めているだけかもしれない。 どちらにしても、この迷いに答えを導けるのは僕だけだ。 月夜の空を行く小舟。 行き着く先は……僕が元いた世界だ。 そう、僕はポケモンの世界から、人間として生きていた世界へ帰る途中。 正直、どんな人間として生きていたのか、記憶がない。 どうやら、この世界に喚び出された時に、記憶が一切合財吹き飛んでしまったらしい。 この世界で生きている以上、元の世界での記憶は不要だ…… 船頭は、そう言っていた。 そして今、僕は『覚えていない』時間を送っていた場所へ戻ろうとしている。 でも、本当にそれでいいのか、迷っている。 目をつぶれば、大切な友達の笑顔が浮かんでくるんだ。 どんなに忘れようとしても、まぶたの裏に焼きついた明るく優しい笑顔は消えてくれない。 いっそ、完膚なきまでにぶち壊し、忘れられたら、どれだけ楽になれるだろう。 思うだけで、一向に変わらない現実。 「迷っているんですか?」 「……!?」 不意に、船頭の声が聴こえ、僕は顔を上げた。 鈴の音のような声音は甲高く、それでいて鋭さと優しさを併せ持っていた。 いつの間にか僕に向き直っていた船頭の表情は、思いのほか冷淡だった。 サーナイト…… 彼女が、僕をこの世界に喚び、ポケモンとしての生を与えた張本人だ。 僕はこの世界で果たさなければならない役割があるとかで、喚び出された。 最初は何をすればいいのか、どうしてここにいるのか、どうしてポケモンになったのか…… それさえ分からずに、ただ毎日を生きるのに必死だった。 どうすればいいか分からなかった僕の前に、彼が現れた。 ミズゴロウというポケモンになって、何もかも勝手が分からなかった。 人間だって主張しても、当然ポケモンの姿では信じてもらえなくて…… だけど、彼だけはいろいろと複雑な(?)事情を抱えていた僕をありのままに受け入れてくれた。 ヒトカゲの、ガーネット。 ちょっと怒りっぽいけど、根は優しい僕の大切な友達。 彼と一緒だったから、どんな困難も乗り越えられた。 様々な災厄が、元・人間だった僕のせいだとされて、住み慣れた場所を追われ、生きるためには逃げるしかなかった時も。 どうしようもなく絶体絶命の危機も。 だけど、生きていく中で、僕はこの世界での役割……災厄の原因である星の衝突を避けたことで、元の世界へ帰ることになった。 為すべきことを為したのだから、元の場所に帰るのは当たり前。 最後の試練を前に、僕はサーナイトからそう言われていた。 「この試練を乗り越えたら、あなたは元の世界へ帰らなければなりません。 為すべきことを為し、在るべき場所に……人間として暮らしていたあなたに戻らなければなりません」 僕には帰るべき場所がある。 記憶はないけど、どうやら僕は心優しい人間だったらしい。 人から言われただけじゃ実感なんて、湧かないんだけども。 だけど…… 僕は迷っている。 サーナイトの言うとおり、僕には人間として生きていた過去がある。 ポケモンとしてこの世界に喚び出されたからと言って、今までの人生そのものが消えてなくなってしまうわけではない。 頭では分かっているけれど、心では割り切れなかった。 人間として生きていた頃、どんな人と一緒に住んでいたのか。 どんな人生を送っていたのか。 元の世界に戻れば、記憶は自然と蘇る…… いや、この世界で生きていたことを忘れて、今までと変わらぬ生活を送ることになる。 正直、どんな風に生きていたのか気になるけれど、サーナイトの一言が、僕を迷いの中に放り込んだ。 ――生まれ育った場所に戻れない代わりに、大切な友達との思い出を取るか。 ――どうせ忘れ去ってしまうなら、その思い出を捨てて、生まれ育った場所へ帰るか。 人間として生きてきた過去と記憶を消し去って、この世界で生きていくか。 それとも、この世界で生きていた記憶を消し去って、元の世界で、以前と変わらぬ生活を送るか。 迷う僕に突きつけられた、究極の二択。 戻りたい……でも、ガーネットや他の仲間たちとの思い出を捨てることはできない。 僕が元の世界に帰れば、みんな、僕と過ごしていた記憶をすべて失う。 ある意味、それがハッピーエンドだということも分かっているつもりなんだ。 だけど、ダメだ。 昔の僕がどんな風に生きていたにしても、ガーネットや他のみんなと過ごした時間は、今の僕にとってとても大切なものだ。 たとえ忘れてしまうのだとしても、簡単には斬り捨てられない。 どちらかの世界で過ごしてきたことを忘れなければならないのだとしても。 「あなたは優しいから、迷ってしまうんですね。 でも、選ぶのはあなたです。 辛い決断であることは分かっています。 それでも、あなたでなければ選べない問題なんです」 「分かってる。分かってるけど……」 サーナイトは重ねて、決断を促してきた。 僕でなければ決められない問題だってことも分かってる。 月夜の空を進む舟は、相変わらず雲海の上を音もなく進んでいる。 少しずつ、元の世界へ戻る瞬間が近づいてきているけれど、それがいつなのか、分からない。 一秒先かもしれないし、一時間後かもしれない。 「ガーネット……」 僕は目を閉じた。 この世界にやってきた僕と、ずっと一緒にいてくれた大事な友達。 楽しい時も、辛くて死んだ方がマシだと思った時も、ずっと一緒にいてくれた。 時には励まし、またある時には厳しく突き放されたけど、彼がいなかったら、今の僕はいない。 悪の道に足を踏み入れていたかもしれないし、途中で野垂れ死んでいたかもしれない。 どちらにしても、この世界で僕が僕として生きてこられたのも、ガーネットのおかげなんだ。 元の世界へ戻れるのも、全部…… 大いなる峡谷で別れを告げた時、ガーネットは僕を必死に止めた。 初めてできた友達だから……と。 その時に見せた涙と、あふれるような愛しい気持ち。 トゲのように心に突き刺さって、今も抜けない。 「どこにも行かないで!! オレたち、友達じゃないか!! 人間だろうとなんだろうと構わない!! キミがいなくなるなんて、そんなのは嫌だ!!」 すごくうれしかった。 同時に、ガーネットを残して元の世界に帰らなければならない僕の身の上を呪わずにはいられなかった。 別れを告げて、この舟に乗った後で、サーナイトから二択を突きつけられたんだから。 過去を捨て、友達との思い出と未来を取るか。 今まで生きてきた人生を大切にするか。 どちらを選んでも、結局は後悔が残ってしまいそうだ。 「僕は……」 すぐに選べない僕は、臆病だ。 だけど…… 時間がない。 中途半端に考えて選んだって、絶対に後悔する。 だったら…… どれだけ考えたのか、悩みぬいたのか。 ………… ………… ………… 時間の経過が曖昧だったけど、結局、僕には捨てられなかった。 「決まりましたか?」 顔を上げた僕に、サーナイトが優しく微笑みかけてきた。 考え、悩んで決めた答えにこそ価値があるのだと、物語るように。 「聞かせてください。あなたの答えを」 「僕は……」 わずかばかりの後ろめたさは残っていたけど、後悔として引きずってしまわないように。 僕はサーナイトの優しい笑顔を見上げ、選んだ答えを口にした。 「僕は戻りたい。…………に」 僕が選んだのは…… 「まだあんな調子なのか……?」 アブソルのティルが、惚けた顔でぼーっと空を見上げているガーネットを見やり、やれやれとため息をつく。 彼が元の世界に……人間として生きることを選んだのに、ガーネットの時間だけは止まったままだ。 この集落に住む誰もが、彼が元の世界に戻ってしまったことを嘆き、悲しんでいる。 それでも、立ち止まることは許されない。 時は、常に流れ続けているのだから。 「ガーネット、いつまでそうしているつもりだ? おまえがそんなことをしたって、何が変わるわけでもないのに」 ティルはガーネットの傍に行くなり、厳しい言葉を投げかけた。 「…………」 ガーネットは空の一点をじっと凝視したまま、答えなかった。 もう何日もこんな調子だ。 救助隊への依頼も、滞ったまま。 何をする気力も起きぬほど、ガーネットは彼との別れを悲しみ続けていた。 最初の友達……そして、最愛の仲間だったのだから。 その彼を失ったということは、自らの半身を失ったに等しいことだった。 だが、それではいけないのだ。 「おまえがそうやって何もせずウジウジしているのを、あいつが本当に望んでいると思うのか?」 「……ティルには分かんない。オレが、何を思ってるかなんて」 さすがに鬱陶しく感じたのか、ガーネットは視線をそのままに、言葉だけ返してきた。 仲間を想う気持ちは尊いし、それをどうこう言うつもりはない。 ただ、いつまでも過去に引きずられて、未来へ向かって歩いていくことを忘れてはならないのだ。 「分からないと言うのなら、自分の言葉で説明したらどうだ? 今の自分を正当化したいと思うなら、私を納得させられるような説明を果たしたらどうだ? 今のおまえは、それすらもできない、ただのバカだ」 ティルは心の底から鬼となった。 彼が、ウジウジしているガーネットを見たらどう思うだろう。 悲しむに決まっている。 彼も、元の世界に戻らなければならないと知った時、悩んで悩んで、悩みぬいたはずだ。 ガーネットやティル、その他にも多くの仲間や友達を置いていかなければならなかったのだから。 残された大勢多数より、一人で帰らなければならなかった彼の方が、苦悩は深かったはずだ。 それなのに、ガーネットは我が身を呪うだけで、何の行動も起こそうとしない。 そんなのは、ティルに言わせればただの逃げでしかない。 これ以上にバカらしく、憎たらしい醜態もない。 いつまでも惚けているのなら、それでもいいだろう。 そのまま朽ちるなら、結局はその程度のヤツでしかなかったということだ。 これが最後のつもりで、ティルは言った。 「あいつとの思い出を大事にしたいなら、別れをちゃんと受け止めて、前を向いて歩いていくことだ。 それができないのなら、おまえにあいつのことを考える資格はない。 ……もっとも、私はおまえがどうなろうと知ったことではないがな。 今のおまえがどうなろうと……」 自分でも、バカらしいことを言っていると思った。 しかし、ガーネットがこのまま惚けているだけなら、見捨ててもいいと思った。 旅をしていた頃のガーネットは、リーダーシップを発揮する素晴らしい救助隊員だった。 今はどうだ? 数多の強敵を征してきたとは思えないほど、臆病な腰抜けに成り下がっている。 彼の強さを知っているからこそ、こんなガーネットには我慢できなかった。 「……ダメか」 どんなに言葉を尽くしても、彼を失った心の穴を埋めることはできない。 そんなことは最初から分かっていた。 欠けたものを補えるのは、ガーネット自身でしかないことも。 ただ、信じていたいだけだった。 結局は裏切られる形になったが。 ティルは何も言わず、ガーネットの元から去ろうとした。 こんな腑抜けと一緒にいても、何にもならない。 それなら、別の誰かと共に生きて行く方がいい。 ……と、その時だった。 「ああっ!!」 ガーネットの甲高い声が周囲に響いた。 一体何事かと思ってティルが振り向くと、ガーネットの前に、一体のミズゴロウが音もなく現れたではないか。 一見、どこにでもいるようなミズゴロウだが、身にまとう雰囲気から、ティルもガーネットも理解した。 目の前にいるのは、共に苦難を乗り越えた大切な仲間。 人間の世界に帰ったはずの、愛しい仲間だと。 「レキ!! レキなの!?」 ガーネットは歓喜に打ち震えていた。 信じられない気持ちと、本当に帰ってきてくれたという喜びの気持ちが交錯する。 実は幻で、触ったら音もなく消えてしまうのではないか…… そんな不安が心にこびりついて、どうしても触れることはできなかった。 「戻ってきたのか……?」 ティルも恐る恐る、ミズゴロウ――レキを見やった。 僕が選んだのは、ポケモンとして生きていくことだった。 今までの、人間として生きていた頃の自分を捨てなければならなかったけど。 それでも、僕にとってガーネットやティルはとても大事な存在だから。 こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど…… 僕は『覚えていない過去』よりも、『短い間だけどいろんなものが詰まった思い出』を選んだ。 サーナイトは僕の答えを聞いて、満足げに微笑んでくれた。 「あなたなら、そう言うと思っていました」 どちらを選んでも同じ言葉が返ってきたかもしれない。 でも、僕が選んだのは、大切な友達だ。 人間として暮らしていた頃も、たぶん友達はいたと思う。 でも、覚えてないんだ。 僕はこの世界に残ることを選んだ。 人間として暮らしていた頃の記憶は二度と取り戻せないし、その頃に接していた人からも、僕の記憶は跡形もなく消去される。 本当の意味で、人間の世界で生きていたことが消えてしまう。 痕跡すら残らない。 それでも、僕は友達を選んだ。 過去を犠牲にしても、僕には大事な友達や仲間と歩いてきた思い出は手放せない。 そして、彼らと共に歩いていく未来も。 「レキっ!! 本当に戻ってきてくれたんだ……!!」 ガーネットが、涙をボロボロ流しながら、駆け寄ってくる。 「ああ、やっぱり……」 ガーネットは、僕がいなくなって本当に悲しんでいたんだ。 僕のために、涙を流してくれる人がいる。 やっぱり、僕の居場所はここなんだ……駆けてくるガーネットやティル、ガーネットの大声に何事かと思ってやってきた仲間たち。 過去を捨てるなんて、そんなに簡単なことじゃないけれど。 だけど、僕は自分の決断が正しいことを確信したんだ。 ……僕の居場所は、ここにちゃんと残ってるんだって、分かったから。 楽しい時も辛い時も、一緒に歩いて行ってくれる友達や仲間が、ここにいてくれてるんだって、分かったから。 だから、僕は彼らと共に生きていこう。 生まれ育った世界とは違う世界だけど、彼らとなら、僕は強く生きていける。 いのち続く限り。 決断 〜最後にして、最初の……〜 −了−