くるる、くるると、ひたすらに踊る一人の少女。  踊りをやめることは許されない。  少女は何時までも、その場所で踊り続ける。  狂ったワルツを、果て無きロンドを。  誰かが鳴り響く音楽を止めてくれる、その時まで……。  “迷いの森”と呼ばれし森。そこを一人の少年が歩いていた。  一度入れば二度と日の目を見ることができないと言われるほど、木々が鬱蒼と生い茂った森だが、  少年は少しも恐れることなく、森の奥へと歩を進めた。  少年が進めば進むほど、森は深さを増し、日の光を遠ざけた。  恐れる理由を持たず、自分が行くべき場所を持つ少年は、行き慣れた道をひたすら突き進んで行った。  しばらく歩くうちに、正面から木の影が消え、開けた場所に出た。  頭上から淡い光が降り注ぎ、陰気な周囲とは対照的に、その場を神秘的に仕立て上げていた。  少年はわき目も振らずに進み続けた。  その目には、光に照らされてほんのりと輝く赤い屋根の家しか映っていない。  歩く少年の耳に、風のざわめきに混じって、弾んだ可憐な音が響いた。  美しい旋律を奏でる、雫の落ちるような音。  聞き慣れたオルゴールの音に、少年は顔を輝かせて、小走りに家へ向かって行った。  茶色のドアは通り過ぎ、白い壁面に沿って右へ曲がると、音の聞こえてくるその場所へとまっすぐ駆けて行く。  白壁の左側を駆けて行けば、やがて少年の目に大きな窓が見えてきた。  閉ざされた透明な壁面に手を伸ばし、少年は足を止める。そうして、その中を覗き込んだ。  キラキラと、音のきらめきが舞い落ちる。  その中では、少年より少し大人びた様相をした一人の少女が、バレリーナのように軽やかにステップを踏んでいた。  いつもと変わりなく、何処からか響くオルゴールの音色に乗って、無心に踊り続ける少女。  少年もまた、いつものように、その姿を食い入るように見つめ続けていた。  やがて、あたりは赤くなる。  空が、木が赤く染まる頃、ひたすら少女に魅入っていた少年は、ようやっと窓を離れた。  家の中では、少女が変わらず踊り続けている。  それを名残惜しそうに見、口の中で小さくさよならを告げて、少年はまたいつもの通り家路につく。  深く深い森の、非現実的な日常。それは毎日繰り返され、そして……。  毎日毎日、少年は少女を訪ねた。  別の時の中で踊り続ける少女を、少年はじっと見つめて、思い続けた。  しかし、優雅に踊り続ける少女の瞳が、窓の外の焦がれる少年を捕らえることは一度も無かった。  少女は己の世界を夢見て踊るばかりで、外界を顧みはせず、少年の思いは日に日に強まるばかりだった。  何時までたっても、そのことは変わらなかった。  どれだけの時が過ぎても、どれだけの月日が経っても、  祈るように見つめ続ける少年の存在さえ知らず、少女は幻想の世界で踊り続けた。  こちらをチラリとも見てくれない少女、それに少年は酷く憤った。  そして相変わらず、己の為にひたすら踊り続けている少女を見た途端、どうにもならない衝動が込み上げ、 少年は石を手に取って、外と内を隔てる窓に叩きつけた。  窓は砕け、辺りにガラスの破片が舞い散った。  降り注ぐ細かなガラスの煌きから目を庇った少年は、ふと気が付けば、何も無い森の中で一人立っていた。  赤い屋根のあの家は何処にも無く、再び向かおうとしても、少年はいつもの様に辿り着くことが出来なかった。  やがて、いつものように周囲が赤に染まった。  血の様に真っ赤な夕焼けに追われる様にして、少年は森を出た。  一度振り返った森は、まるで猛火の中に飲まれてしまったかの様に、赤々と染まっていた。  明くる日、また同じように森を訪れた少年は、再びあの家に辿り着くことができた。  しかし、その家はもう、昨日までと同じ姿をしてはいなかった。  雪のように真白かった壁も、茶色いドアも、何処にも見当たらなかった。  輪郭さえも危ういほど朽ち果てた家が、ただそこにはあった。  目の前の事実が信じられなくて、少年はふらふらと家に歩み寄った。  そっと昨日まで白かった壁の残骸に手をやると、ほんの少し触れただけで、それはボロボロと崩れ落ちた。  少年はその場に座り込んだ。  にわかには、信じられない現実であった。  そんな少年の耳に、あの音が聞こえてきた。  所々音の抜けた、けれども聞き違えるはずのない、あのオルゴールの音色が。  ぽろん、ぽろんと儚く紡がれる旋律に誘われるように、少年はゆらりと立ち上がった。  口許に薄く笑みを浮かべて、毎日訪ね続けたあの窓の部屋へと向かい、おぼつかない足取りで歩き始めた。  あの少女のいた部屋も、すでに原形を残さずに朽ち果ててしまっていた。  窓のあった場所には、白い壁だったものが、悲しく境界線を示しているだけで。  境の内側では、一匹のキルリアが、バレリーナのオルゴールを部屋の中央に置き、その周りをクルクルと無心に舞い続けていた。  幻想的に踊り続けるキルリアに合わせて、色が一部剥げ落ちた陶器製のバレリーナが、何処かぎこちなく回転する。  少年はその様子を、外からじっと眺め続けていた。  ふいに、キルリアの動きが止まった。  何処か遠くの、美しいときを見詰めていた大きな瞳が、みすぼらしい現実へと戻ってくる。  少年が目を見張る中、キルリアの真赤な眼が、少年の姿を捕らえた。  オルゴールがおぼろげに鳴り続けている。少年は、ただ息を呑む。  キルリアはそんな少年に小さく首を傾げると、すっとその真っ白な腕を少年に向かって差し出した。  その顔に、無邪気な笑みを浮かべて。  差し出された白い手に一瞬戸惑った少年だが、すぐにその顔は輝いた。  自分に伸ばされた手を取ろうと、嬉しそうに白い境を踏み越えた。  その足が内へと入った途端、ボロボロの廃虚は元の美しい家へと姿を変えた。  そして白い手を取った途端、キルリアの姿はあの少女へと。  周囲の変貌に少年は驚いたが、すぐに優しく自分を見詰める少女へと溢れんばかりの笑みを浮かべた。  少女もまた柔らかな微笑みを返し、少年の手を取って、再び舞い踊り始めた。  くるる、くるると、オルゴールの美しくも儚げな旋律に乗って……。  その日以来、だれ一人としてその少年の姿を見たものはいない。  ただ、森の中の廃虚で、  手を取り合って楽しそうに踊る、キルリアとラルトスの姿を見たものがいるという。  *** 20040528  *** 20040530 完成  *** 20040616 一部修正