初め初めの物語。弐 パターン・サファイア


「ん。もうちょっと明るくなるまで待つか」
「ゴロ」

 街を見下ろす丘の上。
 オレ・サファイアは一本杉の根元に腰を下ろした。
 今は、朝の四時頃だろうか。
 まだ暗い空の高みで、銀色の月が輝いているのが見えた。
 満月だ。
 そんな強い光を放っているわけでもないのに、やけに惹かれた。
 しばし、それに見惚れた。
「…綺麗だナァ。なあ、ゴロウ?」
「ゴーロッ」
 オレの隣で、今さっきであったばかりのパートナー、ミズゴロウのゴロウが頷いた。
 オレと同じように、じっと月を見上げている。


 月と、ゴロウ。

 そして、オレ。


 オレはふうと溜め息をついた。
 ……なんだかなぁ。
 変な気がする。

 今日から一人、今日からポケモントレーナー。
 小さい頃から憧れていた状況が今ここにあるというのが、なんとも不確かで頼りなく感じた。
 けれど、今オレがここにいるのは現実で。
 ゴロウだって、都合のいいオレの幻なんかじゃなくて。
 そうだよ、月がこんなに綺麗に見えるのだって、これが本当の事だからだろ?
 ………ああ、でも、本当に月が綺麗だナァ。
 宝石みたいだ。

「…ルゥ」
 ふと、思い出した。
 宝石。赤い石、燃える石。
 気性の激しい、オレの双子の妹・ルビィ。
 喜怒哀楽が激しくて、見ていて飽きない、吾が愛しの妹が。
 もぬけの殻な自分のベッドを見て、一体どんな反応をするのか。
「……きっとオコリザルみたいになるんだろーなぁ」
 でも、ちょっと見てみたい気もする。
 怒り狂うルゥを想像し、オレは思わず吹き出した。

 と、ゴロウが首を傾げてオレの方を見た。
「ん、ああ、ごめんごめん。ちょっと思い出してたのさ、あいつのことをな」
「ゴロ?」
「…いつか会わせてやるよ。ルゥは煩いからな、覚悟しとけよ」
 心からそう思った。
 でも、それはいつかだ。
 だって、今から自分は行くのだから。
 この先に。ルゥよりも先に。
「な?」
「……。ゴロ」
 オレの言葉に、ゴロウは首を傾げ、それから頷いた。
「…ホントに分かってんのか、お前」
 絶対分かってねえ。
 そう確信しながら、ちょん、とオレはその頬をつついた。
 と、ゴロウはコテッとひっくり返って、楽しそうにオレの手にじゃれ付く。
 ペシペシとオレの手相手に格闘を繰り広げる。
 その様子になんだか楽しくなって来て。
「おーっと、ゴロウ選手、素早いジャブ! 相手に息つく暇も与えませんッ。次に出たのは…メガトンキーック! 破壊力の大きいこのワザ、当たればかなりの大ダメージだぁ」
 オレはアナウンサーのように実況を始めた。
 ジタバタとひっくり返って笑っているゴロウを見てると、こっちまで楽しくなって来るんだ。
「出たー、必殺メガトンキーック! これが決まればゴロウ選手の勝ちが決定しますッ。おっとしかしサファイア選手、これを軽々とかわし、逆に反撃ッ! 空高く舞いあがり、おお、出るか奥義ゴッドバード!」
 じゃれ付かれている手を高く上げ、オレは無防備になっていたお腹をタタタタターッとつついた。
「ゴロゴロ〜!」
 きゃっきゃとゴロウが笑った。
 それを見て、すっごく嬉しくなる。楽しくなる。
「お前、かわいいなぁ」
「ゴロ?」
 さっと抱き上げると、黒い瞳がオレを見返した。
 深く澄んだ目。
 黒真珠みたいだ。
「なあ、ゴロウ」
 ゴロウが首を傾げた。
「あんさ。オレさ、言いたい事色々あるんだけどな。どうも上手くまとめらんねーんだ」
「ゴロ」
「でもな。オレ、お前に会えてよかったって思う。もしかしたら、お前じゃない奴と会ってたかもしれないんだけど、でも、今はスッゴイ、お前に会えて良かったと思ってる。…って、わけわかんねーな」
 オレは膝の上に抱き上げていたゴロウを下ろした。
 顔をのぞき込む。
「だからさ。あの、その、…だな」
 どうにも照れて仕方ない。
 だって、こいつの目を見てると…あまりに澄みすぎてて、なんか…。
「…。まあ、ヨロシク! そんだけ!」
 なんとか言葉を吐き出し、オレはゴロウの様子を伺った。
 理解…してくれてるよな?
「あ?」
 と、目の前に手が指し伸ばされた。
 ちっちゃな手。
 こっちのほうに差し出して、無言で。
「…ああ」
 わかった。そういうこと?
「じゃ、改めて。…オレはサファイア。よろしくな、兄弟っ」
「ゴロ!」
 そうしてオレたちは、パンッ…といい音が出るはずもなく。
 ペチッと手を合わせた。
 その気の抜けるような音に、オレたちは顔を見合わせて笑った。

 フライイングな旅立ち。
 ルゥはまだ寝てる、ハズ。
 すまないと思う。
 けど、オレは今ここに居る。
「よーし。そろそろ行こーか、ゴロウ!」
 オレは立ちあがった。

 まだ明けぬ空
 まだ目覚めぬ世界。
 でも、確かに呼び声が聞こえる。
「…先行くぜっ」
 街を見下ろして、言う。
 聞こえるわけが無い。
 でも。
 …そして、オレは踵を返した。
 もう振り返らない。道の先を見据えて。
 もう始めるから。
 オレの旅。

 空の端に、茜色が滲んだ。
 濃紺が、少しづつ打ち消されていく。
 一日が目覚める。


「それじゃ、始めるか」
「ゴロ!」


 そう、ここがはじまり。