水の都の護り神外伝 水色の絆


 水の都・アルトマーレ。
 海にぽっかりと浮かぶその島には、不思議な伝説があった。
 しかし、それがただの伝説ではなく事実だと知っている者は、そう多くは無かった。

「ラティアス…元気にしてるかな」
「ピッカ」
 この美しい都を襲った、大きく小さな事件。
 あの時から、一年という歳月が過ぎていた。
「なあ。元気にしてるかな」
 アルトマーレへ向かう船の上、ポケモンマスターを目指して旅を続けている少年・サトシは、同じ言葉を、後ろにいる仲間に向かって問いかけた。
「大丈夫よ、きっと」
「うん。女性は逞しいものだからな」
 カスミ、タケシの両方が答えた。
 相変わらず、三人は共に旅をしているのだった。
 ニ人は、不安げなサトシに向かって笑いかける。
「お兄さんのラティオスはいなくなってしまったけれど、ラティアスは独りじゃないわ」
「カノンも、ボンゴレさんも、側にいてくれているんだ」
「ピカッ」
 ニ人の言葉に、船縁に座っていたピカチュウも頷きかける。
「うん…そうだよな」
 それに仲間だっているわよ、というカスミの言葉を受け、サトシは頷いた。
「そう、きっと…大丈夫」
 サトシは段々と近くなってくる、アルトマーレの美しい町並みをじっと見た。
 ラティアスに会ったのも、こんないい天気の、暑い日だった。
「…ただいま」
 そっと呟いたサトシの声を、さわやかな潮風が空高くさらっていった。


「えー!サトシ、水上レースでないのぉ!?」
 カスミが大声をあげた。
「なんでッ?」
 アルトマーレに降り立った三人は、すぐに水上レースの事を知った。
 また参加しようと言い出したカスミに、サトシが首を振ったのが、ことのはじまりだった。
 噛み付いてくるカスミに気圧されながらも、サトシはしどろもどろ答える。
「あ、いや、その…」
「この町の一大行事よ? 去年は出たのに」
「だ、だから…」
 確かに、今日がレースの日なんていうのはスゴイ偶然だろう。
 昨年の優勝者であるカスミが出たがるのも無理は無いし。
 でも。
「…オレ」
「まあまあ、カスミ」
 突然タケシが割り込んできた。
 カスミがジト目でタケシを見る。
「なーに」
「サトシの気持ちも汲んでやれよ。…気になるんだろう、ラティアスのことが」
「!」「あっ」
 サトシとカスミ、ニ人は同時に顔を上げた。
 気まずい顔のサトシと驚き顔のカスミとを見比べ、タケシは頷いた。
「サトシはオレらより、ラティアスと仲が良かったからな。いろいろあるんだろう」
「じゃ、私も行くわよ!」
 ムッとして言い返すカスミを受け流し、タケシは腕を組み空を見上げて言った。
「水上レース。ロッシさん、今年もきっと出るんだろうなぁ」
 ピク。
 カスミが反応したのを見止め、タケシは言葉を続けた。
「腕は上がっているんだろうし、今年はきっとダントツ優勝だろうなぁ。なんてったって去年の優勝者が出ないんだもんなァ。まあ、出たところで勝負になるかどうか…」
「出るわよッ。去年の優勝者の実力、この町にまた見せてやろーじゃないのッ」
 息も荒く、カスミはレースの受付の方へと歩いていった。
「見てなさいっ! …いいわよ、サトシ。あとでまた、メダルを見せてあげるわっ」
「あ、ああ」
 サトシは気合い十分なカスミを呆然と見送った。
「…だ、そうだ」
 そんなカスミを同じように見送ってから、タケシが笑った。
 そしてサトシに言う。
「行ってこいよ。でも、明日はオレらも一緒に行くからな」
「タケシ」
「こっちは任せろ。ピカチュウ、サトシを頼むな」
「ピッカ!」
 そうしてタケシはひらひらと手を振り、カスミが消えた方へと走っていった。
「…カスミ、タケシ」
 サトシは呟いた。
 一旦俯き、顔を上げた。
 アルトマーレの青い空。白い雲。迷路のよううな町並み。
 とても懐かしかった。
「…ありがとう。…行くぞ、ピカチュウ!」
「ピカッ」
 サトシはピカチュウに呼びかけると走り出した。
 それに答えて、ピカチュウはサトシの後を追った。
 町の事は、まるでそれが昨日のことのように鮮明に思い出す事が出来た。
 サトシは走った。
 まずは。


「カスミは何処に行ったんだ?カスミ、カスミ…」
 カスミを追っていったタケシは、人ごみの中を奔走していた。
「ん。どこ…あっ」
 ある路地へ入る道を通り過ぎかけたタケシは、慌てて立ち止まり、引き返した。
「こんなところにいたのか」
 路地の壁に背をもたせ、カスミが俯いて立っていた。
「探したんだぞ。こんなところに、何して」
「…悔しい」
 一言、カスミが言った。
 タケシは溜め息をついた。
「カスミ」
「わかってるわよ。別に、そんな」
 カスミはぷいと顔を背けて言った。
「…でも…」
 タケシはポンポンと、俯くカスミの頭を軽く叩いた。



「ここ、だよな」
 静かな広場。
 木がそよぎ、あたたかい日差しがそこを照らしていた。
 サトシは、ゆっくりと水飲み場まで歩いていった。
 ピカチュウが一足早くそこにいて、落ちる水の滴を見つめていた。
「ここで、カノンの姿をしたラティアスに…会ったんだよな」
 サトシは蛇口を捻った。
 水が勢い良く吹き出した。
「ピカ」
 ピカチュウがその水の中に頭を突っ込む。
 とても気持ちよさそうに、水を浴びる。
 その様子を微笑みながら見ていたサトシは、ふと顔を上げて。
「…!」
 驚いた。
 階段の上。
 一番上から彼らを見下ろしている存在。
「っ、あ―――――」
 サトシが声を上げた途端、ピカチュウが顔を上げた。
「ピカ?」
 微笑んでいた。
 サトシは呆然と立ち尽くす。
 少女は、微笑んでそこに居た。
 しばらくの、沈黙。
 いや、現実ではほんの一瞬だっただろう。
 しかしその一瞬は、とてつもなく大きく、ゆっくりなものに感じられた。
 その一瞬の後、サトシが再び何か言おうとした途端、少女は踵を返した。
「! 待っ――」
 サトシはすぐに駆け出し階段を駆けあがっていった。
 その横をピカチュウが駆ける。
 しかし、階段を上りきった先。
 空の開けたところに、少女は居なかった。
「…ラティアス?」
 呟いた。
 答えるものは無い。
 開けっぱなしの蛇口から流れ落ちる水が、悲しく音を立てているのが聞こえる。
「…っ…」
 サトシは眉を寄せた。
 唇をかみ締める。
 ピカチュウが、空を仰ぐ。
 青い空。
 泣きたくなるほど青い、空。

 サトシとピカチュウは、小さな橋の上まで来た。
 真ん中で足を止め、水路を見つめた。
「この橋だっけか、あいつらに襲われてたラティアスを見つけたのは」
「ピーカ」
「カノンに声かけたのもココだよな」
「ピーカ」
 聡は手摺にもたれ、ただじっと水の流れを見つめた。
 そして、口を開いた。
「なァ、ピカチュウ。今さっきの。あれ、カノンだったのかな。それとも」
 サトシは一度言葉を切った。
 迷いながらも、言葉を紡ぐ。
「…ラティアス、だったのかな」
 水面のピカチュウは、首を傾げた。
「…だよな。わかんねーよな」
 サトシは目を閉じた。
 風の流れ、水の流れ。アルトマーレの呼吸を感じる。
「見た目、まるっきり同じだもんな」
「ピッカー」
 一人と一匹は、同時に溜め息をついた。
 賑やかな歓声が聞こえる。
 サトシは顔を上げた。
 狭い路地の向こうの、開けた水路。
 そこからは大勢の歓声と、強い光が漏れてきていた。
「水上レース、か」
 町の人は皆、今日はその観戦だ。
 そのため、コース以外の場所は本当に静かだった。
「…でもさ、ラティアス達は、別にここに住んでいるわけじゃなくて、寄る、だけなんだよな。あの時のラティアスがいるかどうかなんて…」
 と、サトシは誰かに見られているような気がして、その顔を上げた。
 橋の向こうを見る。
「! カノッ…?」
 路地の奥に佇む少女を見つけて、サトシはがばっと起きあがった。
 カノンと呼びかけ、慌てて口を噤む。
 カノンなのか。
 それともラティアスなのか。
 …まだ、わからなかった。
「あ、あの…オレ、サトシ。覚えてる? 去年ここに来た…」
 恐る恐る、話してみた。
 もしかしたら、忘れているかもしれないし。
 しかし、サトシの言葉の途中で、少女はくるっと背を向けた。
「えっ、あ…」
 少女は路地を駆け、足を止めた。
 振り返り、じっとサトシを見る。
「!」
 言いたい事を理解する。
 けれど、迷う。
 少女が動かないサトシに、首を傾げた。
 ピカチュウが不安げに見上げてくる。
 ………。
 心を、決めた。
 サトシは走り出した。
 少女の元へ。
 少女はニコッと微笑み、また駆け出す。
「…ッ、ラティアス!」
 その様子を見て、サトシは思わず足を止め叫んだ。
 確信した。
 ラティアスだと。
「ラティアス!」
 少女は足を止め、振り返る。
 柔らかな微笑。
 そしてまた、誘うように走り出す。
「…また、連れていってくれるのか?」
 サトシは手を握り締めた。
 そして。
 ピカチュウと一緒に、少女の後を追って走り出した。

「っ、はぁ、はぁ…」
 息を切らせながらも、サトシは走り続けた。
 ピカチュウがサトシの前を行く。
 そのピカチュウの前を行く少女は、息を乱すことなく、軽やかに、飛ぶように、アルトマーレを駆けて抜けていった。
 少女はサトシが足を止めると、同じように足を止め。
 走り出すと、一定の間隔を保って走り。
 サトシたちのことを確認しながら、誘いつづけた。
 あの時のように。
「…ここ、は」
 そして、辿り着いた。
 藤の花のアーチ。
「あの時の」
 ピカチュウはアーチの前で待っていて、サトシが来るとその肩に飛び乗った。
「…ラティアスは?」
 その問いには答えない。
 前をじっと見つめていた。
「ピカピ」
「…ああ」
 ピカチュウに促され、サトシは一歩を踏み出した。
 不思議な花のアーチ。
 サトシは一歩一歩確実に進んでいった。
「…っ」
 アーチを抜けると、光がサトシの目をさした。
 明るい、穏やかな、小さな空間。
 そこに出て、サトシは辺りを見回した。
 小さな水飲み場では、一羽のポッポが水浴びをしていた。
 ポッポはサトシのほうを一瞥すると、空へと飛んでいった。
「ピカピ」
「え?」
 ピカチュウがサトシをつついた。
 サトシはハッとして、その指が指す方を見る。
「あそこ…」
 陰になった、通路の角。
 ありありと思い出せる。
「あそこを、通って…」
 サトシは歩き出し、隅まで来ると足を止め、その場所をじっと見つめた。
 ここを通り、サトシはあの秘密の庭まで行ったのだった。
 ラティアスに誘われて。
「…行こう、ピカチュウ」
「ピカ」
 サトシは息を飲み、壁に向かった。
 …信じた。
 自分をまたここまで連れてきた、あの存在を。
 また、自分は呼ばれたのだと。
「…ッ」
 壁にぶつかる瞬間、サトシはギュッと目を瞑った。
 迷いを振り切り、進んだ。
「ピっ」
 壁は輝き、サトシたちを飲み込み。

「…!」
 目を開けるとそこは。
「ピカッ」
 ピカチュウがサトシの肩から飛び降り、駆け出した。
 サトシも、暗い通路を全力で駆け抜けた。
 光り輝く出口、そこを抜けると。
「…っ、――」
 緑あふれる、時がゆっくりと流れゆく場所。
 その場所を前に、サトシは何も言えず、立ち尽くした。
 あの時のまま。
 庭は、サトシを優しく招き入れた。
 風が吹きすぎる。
 木々の隙間から、光がこぼれる。
 水が音を立てて流れていく。
 それらの奏でる風景に、サトシはただただ立ち尽くすしかなかった。
「…」
 やがて、サトシは歩き出した。
 庭を荒らさぬよう、静かに、ゆっくり歩く。
「…ラティアス?」
 サトシは呼んだ。
 自分を再び、ここへ連れてきたものの名を。
「ラティアス。いるんだろ、ラティアス」
 サトシは歩みを止めた。
「…ブランコ」
 水路のほとり、そこにある木につるされた、小さなブランコ。
 サトシは近付き、そっと触れた。
「一緒に遊んだっけな」
 ブランコに腰掛け、小さくこいだ。
 前へ、後ろへ。
「…――」
 サトシは足を止めた。
 ブランコが、その振り幅を次第に小さくしていき、止まる。
 サトシは下を向いていた。
 頭をうなだれ、じっとしていた。
「…ラティアス」
 ぽつんと言葉を落とす。
 と、突然。
 タンッ。
「えっ、な、なっ――」
 サトシの乗っているブランコに、誰かが飛び乗った。
 揺れに驚いたサトシがあたふたしているうちに、ブランコは空に向かって揺れ出す。
「ちょ、誰…」
 サトシは上を見た。
 そこにいたのは。
「あっ―――」
 あの時の事が今とダブって見えた。
 そうだ、一緒にブランコに乗ったのは…
「ラティアス!」
 サトシが顔を輝かせて呼ぶと、少女―カノンの姿をしたラティアス―は、ニッコリ微笑んだ。
 そして唐突に。
「え、うわぁっ!?」
 サトシを突き落とした。
 ブランコから落とされ、サトシの体を宙を舞った。
 地面が近づき、ぶつかる、と思った瞬間。
「! …?」
 体が止まる、そして、空高く舞いあがった。
「ラティアスっ」
 自分の体を掴んでいる、本来の姿をとったラティアス。
 ラティアスは一回旋回すると、地面にサトシを下ろした。
「…ラティアス」
 降りた途端、顔を寄せて甘えてきたラティアスに、サトシは答えて抱きしめた。
 一年ぶりの再会。
 サトシはラティアスを離すと、泣き笑いな顔で言った。
「よかった、また会えて。…覚えててくれたんだな」
 ラティアスは鳴いて、サトシの周りを飛び回った。
 サトシはその様子を見て、笑い、そして尋ねた。
「…元気だったか?」

「やっぱり。久しぶりね、サトシくん」
 突然の後ろからの声に、サトシは振り返った。
 目を丸くする。
「……カノ、ン?」
 少し離れたところに、一人の少女がいた。
 サトシは確信が持てないまま、少女の名を呼んだ。
「うん」
 微笑を浮かべて、カノンは頷いた。
「ピカチュウがやってきたから、まさかとは思ったんだけど。元気だった?」
 ピカチュウを腕に抱き、カノンがやってくる。
 サトシは答えた。
「うん、オレは元気。カスミとタケシも。そっちは? ボンゴレさんは」
「おじいちゃんも私も、ちゃんと元気にやっているわ。おじいちゃんは今仕事中なの」
「ふーん。…随分、髪伸びたな」
「うん、まあね」
 サトシの素直な感想に、カノンは笑う。
 カノンは背中まで髪をたらしていた。
 ただ髪を伸ばしただけなのだが、印象が全く違う。
 一目では、きっと気づく事が出来ないだろう。
 何気に背も伸びているし。
「…あれ?」
 髪の長いカノンを見て、サトシは思わずラティアスの方を見る。
「じゃあ、こっちに来てからオレが会ってたのは、全部」
 サトシの視線に気づき、ラティアスが舞い降りた。
 その目の前で、サトシの知る昔のカノンの姿に変わり、抱きつく。
「うわっ」
 突然抱きつかれて、サトシはよろめいた。
 何とか受け止めて体勢を立て直したが、カノンはそんな様子を見てくすくす笑った。
「うん。私は、今はじめてサトシくんに会ったし、それは全部ラティアスね」
「そっか…」
 カノンと話していると、ラティアスが突然離れて空を見上げた。
 まっすぐ、空を見上げる。
「? どうしたんだ、ラティアス」
「…ああ、うん、見てるわね」
「え?」
 カノンの謎な言葉に眉を寄せるサトシの前を、風が吹き抜けた。
「うわっ」
 強風に煽られ、サトシの帽子が空高く舞いあがった。
「な、なんだ?」
「ピカピッ」
 突然の強風に、サトシは驚き言った。
 ピカチュウがカノンの腕から滑り降り、サトシの肩に駆け上る。
「大丈夫よ、サトシくん」
「カノン」
 カノンがラティアスの見上げる空を仰いだ。
 そんなカノンを見ていると、カノンの姿をしたラティアスが寄り添ってきた。
 サトシの腕を掴み、にっこり笑う。
「ラティアス?」
 その腕が空を指した。
「ん? あっ」
 ラティアスの示す空の先。
 サトシがそこを見ると、先ほど飛ばされた帽子が、あっちへふわり、こっちへふわりと、空中散歩をしていた。
 サトシが帽子を掴もうと手を伸ばすと。
「…あれっ」
 掴む寸前、帽子はふわりとサトシの手から逃れた。
 いぶかしみながらも、サトシは再び手を伸ばす。
「…ん?」
 またしても、帽子は伸ばされた手をすり抜けた。
 そのままクルクルと、意思があるかのように風に乗って空を舞う。
 サトシは唸った。
「くっそー。帽子のくせにからかいやがって…」
「ピカピー」
 むきになるサトシにピカチュウは冷めた視線をやった。
 いつのまにか、ラティアスの腕に抱かれている。
 そのラティアスはというと、サトシの奮闘する様子を見て、クスクスと小さく笑っているのだった。
「サトシくん、まだ気づかないの?」
 カノンが苦笑しながらサトシに向かって言った。
「何に?」
 帽子を睨み付けながらサトシは答えた。
 第二ラウンド開始である。
 相変わらず風に吹かれて空を飛びまわる自分の帽子を、サトシは必死の形相で追いかける。
「くそっ、このっ、待てッ」
 帽子はヒラリヒラリと飛んでいく。
 サトシは足を止め、助走をつけて勢い良く飛びかかった。
「このーッ!」
 しかし、届くかと思われたその腕は、空しく宙を掻く。
「…あれ?」
 帽子はサトシの上に舞いあがっていた。
 まじ? と思わず呟く。
 完全に、帽子に遊ばれていた。
 そして。
 ドテッ。
「いてっ」
 地面に落ちたサトシは、打った腰などを手でさすりながら起きあがった。
「あんにゃろ〜」
 帽子への怒りをあらわに、再び勢い良く立ちあがる。
 第三ラウンドの幕が開けるか、と思いきや。
「? ラティアス?」
 クスクスと相変わらず笑いつづけながら、ピカチュウを抱いたラティアスが近づいてきた。
 その腕の中で、相変わらず抱かれたままのピカチュウが、呆れた目でサトシを見ていた。
 サトシに向かって、露骨に溜め息をつく。
「な、なんだよっ、ピカチュウ!」
 と、ラティアスが相変わらず宙を舞いつづける帽子の方へ近づいた。
 そして、すっと手を差し伸べる。
 ピカチュウもラティアスの肩の上で、その差し出した手の先を見つめた。
 そして。
 サトシは仰天した。
「な、なぁ!?」
 帽子が空中で止まった。
 ピタリと制止し、揺れもしない。
 唖然として見つめると、帽子が動きを見せた。
 ラティアスの差し伸ばされた手の上に、落ちる。
 その信じられない光景に、サトシは目も口も丸くした。
「何で気づかないかな、サトシくんは」
 カノンが傍らにやってきた。
 こちらを向き、口をパクパクさせるサトシに、カノンはただ苦笑する。
「風のせいだけで、あんなに飛びまわるわけ無いじゃない」
「ピカチュ」
 向こうから、カノンに同意しているようなピカチュウの声がした。
 二人の声を受け、サトシはがっくりと首をうなだれた。
 しかし、ん? と首をかしげる。
 じゃあ、何のせいで…?
 そこへ帽子を持ったラティアスが駆けてきた。
 ピカチュウも一緒だ。
「うわっ」
 帽子をサトシに深く被せ、ラティアスは笑った。
 そして急に後ろを向き、頷いた。
 疑問に思って口を開きかけたサトシの肩を、後ろから誰かがつついた。
「カノン? ……って、うわっ!!?」
 サトシは文字通り、飛び上がって驚いた。
 同じように、サトシをつついた人物も飛び上がる。
「なっ、なっ…」
 驚きのあまり、声が上手く出ない。
 さっきの帽子程度の驚きではなかった。
 確実に寿命が十年減ったと思うほどの驚きだった。
 サトシは目の前の人物を指して、わなわなと震えた。
「ピカ」
 ピカチュウが興味深げに、その人物に近づく。
 彼は、ピカチュウに気付くと、こぼれんばかりの笑顔で手を差し出した。
「ピッカー」
 ピカチュウは喜んで差し出された手に飛びつき、いつも通りの指定席に居座った。
「ピ、ピカチュウ〜!」
 その光景に、サトシはよろめいた。
 良く知っている。良く知りすぎた光景。
「大丈夫? サトシくん」
 カノンとラティアスと、彼とピカチュウが心配そうにサトシをのぞき込む。
 よくカノンは平気だったよなぁ、と思いながら。
 サトシは起きあがった。
 そうして、彼をまじまじと正面から見据える。
「……」
「♪」
 にこやかな笑顔を返すのは、まぎれもなく自分自身。
 いや、ピカチュウが向こうにいる分、向こうの方が、ずっと“らしい”。
「…カノン〜」
「はいはい。ラティアス」
 耐えられずにサトシがカノンに泣きつくと、カノンはラティアスに呼びかけた。
 ラティアスがもう一人のサトシに肩をすくませる。
 そのサトシは残念そうな顔をして。
「…! ら、ラティオス!?」
 光に包まれたかと思うと、そこには小さなラティオスがいた。
 ラティアスより少し小さい。
 元の姿をとったちびラティオスは、サトシの周りをクルクル飛んだ。
「ラティアスの友達よ。弟みたいでしょ」
 カノンがサトシに言う。
 ちびラティオスは、ラティアスとサトシの周りにまとわりつく。
 ピカチュウはその背中の上。
 小さな空中散歩を楽しんでいた。

「…ビックリしたぁ。寿命がちぢんだよ」
 元の姿に戻って遊ぶラティアスと、ちびラティオス、そしてピカチュウ。
 その様子を眺めながら、サトシは大きな溜め息をついた。
「カノンも人が悪いよ。何で教えてくれないかな」
 サトシが口を尖らせて言うと、カノンは笑いながら答えた。
「だって、サトシくん、面白いんだもの。変な顔してたし」
「だから人が悪いって言ってるんだけど」
「ごめんってば」
 カノンはまだ笑いながらも、すぐに謝った。
 そして、何かに気付いたように、ある木陰の方を見やる。
 サトシもつられて、そっちを見た。
「…何かあるの?」
「ん、うん、まあね」
 カノンは答えた。
「お父さんラティオスと、妹のちびラティアス。あそこにいるんだけど」
「えっ!? 本当?」
 カノンはその場所を見つめながら頷く。
「うん。最初は警戒して近づく事さえしてなかったけど。ちびラティオスが平気にしてるもんだから、ここまで来たみたい」
「へえ」
 サトシはじっと目を凝らしてその場所を見つめた。
 けれど。
「…わかんないよ、カノン」
 ふてくされるサトシの声を聞いて、カノンはころころ笑う。
「見えるわけ無いじゃない。勘よ、勘。長年この庭の番人やってるから。気配と。あと、今来てるのがあの子達だけ、だからかな」
 サトシはそれを聞いて、何だと息を吐いた。
「見えてて、しかも区別ついてるのかと思った」
「そんなわけないでしょ」
 しばし沈黙。
 ピカチュウ達の楽しい声と、風の音、水の音が、やけに耳に入ってくる。
 静かで、あの時と全く変わらない気がして。
「なあ、カノン」
 サトシが口を開いた。
「ラティアス、…元気そうだな」
「…見て、わからない?」
 サトシは、首を振った。
「…。オレさ、正直、またここに来れるなんて、思ってなかったんだ」
「え?」
 カノンの驚きの声。
 サトシは楽しそうに飛びまわるラティアス達を眺めた。
 もう一度、首を振る。
「あんなことがあったから、もしかしたら、入れてくれないかも、なんてさ」
「サトシくん…」
 空気が、変わった。
 気まずい。
 でも、これは、言わなければならない事。
 いや、聞いて欲しかっただけかもしれない。
 サトシはカノンに話す。
「だって、アレは、オレ達と同じ人間が起こした事件だったんだ。ラティアスが。…また同じ時期にやってきたオレ達を見て、あの事件を思い出して。庭に入れてくれなくても、…会ってくれなくても。…それはそれで、やっぱ仕方ないかなって。本気で、そう思ってた。だからさ。本当に、あの時のままな、カノンの姿をしたラティアスが現れたとき。…迷った。ついて行ってもいいのかなって、オレにその資格はあるのかなって」
 サトシは一息ついた。
 そしてすぐ、また話を続ける。
「結局、ついていった。そしたら、また、来れた。まだ、ちょっと信じられてないんだけどね。消えそうで、怖い」
「………」
「…あのとき、ラティオスは、オレ達の前から姿を消した。…やっぱり、死んじゃった、だと思う。だって、生きてるなら、戻ってくるだろ? ラティアスを一人残していくわけないだろ? あいつを、独りぼっちにしてしまったのは、オレなんだ。人間なんだ。だから」
「ねえ、サトシくん」
 サトシの言葉の途中で、カノンが口を挟んだ。
 草の上に座り込む。
 サトシを見上げ、遊びまわるラティアスを見つめた。
「……一人に見える?」
「…え」
 目を細めて、一言一言、カノンはサトシに語り掛ける。
「確かにね、サトシくんの言う通りかもしれないわ。そうね、ラティオスも死んでしまったのかもしれない。そうしたのは、私達、人間なのかもしれない」
「じゃあ、やっぱり――」
「悲しそうに見える?」
 一言。
 サトシは思わず目を見開いた。
 思わずラティアスの方を見やる。
「悲しそう、かな。どう見える?」
「…ううん。悲しそうには、見えない」
 でも、と反論しかけるサトシを制止し、カノンは続けた。
「確かにあの後、ずっとラティアスは元気が無かったわ。旅立つ事もしなかった。毎日毎日、心のしずくの側にいて。見てるこっちも辛かった。痛かった。…でもね。心の傷、心の隙間。それは、一生治らないものじゃないの。治そうと思えば治せるもの。思いと時間次第で、どうにでもなるの。…あの子は、耐えた。悲しみを越えて、あそこまで元気になった。私達が思ってたほど、あの子は弱くなかったの」
「………」
「気にしていないと言えば、嘘になる。でも、もう過去になったの。踏ん切りがついたのよ」
「………」
 口元に笑みをたたえて、カノンはサトシを見上げる。
「それに、一人じゃないわ。仲間がいる、頼りにならないけど私達もいる。一人なんかじゃ、絶対無いわ」
 サトシはじっとカノンを見返した。
「…すごいな、カノンは」
「まあね。私、大人だから」
 すまして答えたカノンは、突然吹き出した。
「なーんて、ね。全部おじいちゃんの受け売り。私もサトシくんと同じだったの」
「なんだ、ボンゴレさんが言った事か。どうりで説得力があると思った」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 笑って、笑って。
 沈黙が訪れる。
「…そうだと、思う?」
 サトシの呟きに、カノンは頷いた。
 サトシは俯いた。
 …カスミやタケシもそう言ってた。
 でも、オレは信じられなくて。
 罪悪感、て言うのかな、それが消えなくて。
 でも、それが本当なんだとしたら。
 本当の事なら。
「…一人じゃ、ない」
「ピカチュッ」
 突然聞こえた、返事のようなピカチュウの声。
 サトシが前を向くと、ラティアスとその上に乗ったピカチュウ、そしてちびラティオスがそこにいた。
「遊ぼう、だって」
 カノンが言う。
 一人と三匹の視線を受け、一瞬サトシは戸惑う。
 けれど、笑って返した。
「…うん、遊ぶか!」
 ピカチュウがサトシの肩に飛び乗った。
 ちびラティオスがサトシの横に擦り寄り、ラティアスも誘うようにサトシの前方を軽く飛ぶ。
「ねえ、サトシくん」
 行こうとするサトシを、カノンが呼びとめた。
「少なくともね、ラティアスは貴方の事を責めたり、嫌ったりはしていないわ」
 サトシはカノンのほうを向き直った。
 喋るカノンを、黙って見つめる。
「…貴方が好きだから、あの日がとても楽しかったから。またアルトマーレに来てくれた貴方を、ここに呼んだのよ」
「…………うん」
 サトシは頷いた。
 向こうから、サトシを呼ぶラティアスとちびラティオスの声がした。
「今行くよッ。…カノン、オレ、明日も来るよ。今度はさ、カスミとタケシもつれて」
 サトシは走り去る祭に、カノンにそう言った。
 カノンは微笑む。
「よーしっ、今日は思いっきり遊んでやるからなっ」
 サトシとピカチュウ達の元気な声。
 それは庭に響き渡り、青く澄み切った空へ消えていった。



 ここはアルトマーレ。
 水の都。
 思い出の場所。

 過去に縛られてはいけない。
 でも、忘れない。
 全てを抱えて、明日へ踏み出す。


 青い空、白い雲、緑の風、白金の日差し。
 ここは楽園。秘密の庭。
 人間とポケモンの、秘密の庭。

                            fin.


★おまけ。

「なあ、カノン」
「ん? なあに、サトシくん」
「あの、さ。去年、船着場で、その…見送ってくれたのって、カノン?」
「見送り?」
「…あ、あの…。いや、ラティアスなのか、カノンなのか、よくわからなかったから…」
「………さあ、どうかしら」
「な、どうなんだよっ。教えろよ〜」
「私かもしれないし、ラティアスかもしれないしー」
「…………カノン〜!」

と、いうわけで。どちらだったのかは、分からずじまいだったそうな。

ちゃんちゃん♪