私が彼と出会ったのは、冬の明朝、暗い海から荒波が押し寄せる冷たい防波堤でのことだった。 ================== ワザワイ −His name is...− ================== 彼は遠目にも分かる酷い傷を負い、冷たい潮風を避けるものもない、平らなコンクリートに横たわっていた。幸い夜勤明けで、充実した医療鞄を一つ携えていたので、私は迷うことなく海岸に降りた。 「近寄るな」 と彼は言い、私は驚いた。気を失っているものと思っていたのだ。 しかし傷は生々しく、全身の至る所から赤い血が滲んでいた。見るに耐えず、かといってこのまま立ち去る訳にも行かなかった。 「私はポケモンの医者だ。せめて消毒だけでもさせてくれないか」 「必要無い。人間は嫌いだ」 その言葉で、私は彼の傷は人間につけられたものではないかと思った。 彼は痛みなど感じていないかのように平然と上体を起こし、体を舐めて自分で消毒を始めた。私は少し離れた所に腰を下ろして、潮風に震えながら彼を横から眺めていた。汚れと血を舐め取られた毛並は銀色を帯びた白に輝き、彼の黒い肌と、鋭く冴えた赤い瞳を一層際立たせた。 「……包帯、使うかい?」 「いらん。人間の臭いのする物が体に纏わり付いているなど御免だ」 そして少し間を置いて、俺の手では上手く使えんしな、と付け足した。私は彼の前足が前足でなく手であることを知った。 「人間。いつまでそこにいる」 全身をひとしきり舐め終えて顔を上げた彼は、まだそこにいる私に目を向けずに言った。表情も声も極めて平静だったが、心底鬱陶しがっている感情が空気を介してはっきりと伝わってきた。一瞬その気配に威圧された事を悟られぬよう、私も努めて平静を装って答えた。 「君を助けるのが私の仕事だから。私に治療をさせてくれるか、君が元気になって立ち去るのを見届けるまで。……あ、あと、私はたしかに人間だが、きちんと名前を持っている」 そして私は彼に自分の名前を告げた。しかし彼はくだらないというように鼻を鳴らしただけだった。 「人間には変わりない」 「君には名前はあるのかい?」 私は尋ねた。返答は期待していなかったが、彼はやはり淡々と答えてくれた。 「……『ワザワイ』」 「災い……?」 名前にしては随分と縁起の悪い響きだったので、私は思わず聞き返した。彼――ワザワイは、顔色一つ変えずに頷いた。 「ええと……それは、自分でつけたのか? それとも誰か……」 「名前など自分で付けるほど欲しいものではない。俺が人間に出くわすたびに、ワザワイが来る、と言われて石が飛んでくる。たまに長い棒や刃物が出てくる事もあるが、ワザワイと言う言葉は毎回同じだ。俺が行けばワザワイが来ると言う。他人が自分を表すのに使う言葉が名前なら、俺はワザワイと言う名前なのだろう」 彼は暗い曇天と海の狭間を見たまま淡々と言った。私は納得し、なるほどと呟いた。 「君達が姿を現すと良からぬ事が起きるという伝承は有名だね」 「らしいな。 伝承など、俺の知ったことではない」 「そうだね」 膝を抱えて頷いた私に、ワザワイは付け加えた。 「その上、俺は喋る事ができる」 「……そうだね」 「人前で喋ると飛んでくる石の数が増える事に、最近気がついた。……不思議なものだな。人間はほとんど全員喋っているのに」 「……」 私はもう、そうだねと同意する元気もなくなっていた。 やがてワザワイはつまらなそうに首を振り、まだ疼いている筈の傷など素知らぬといった動きで立ち上がった。私も慌てて立ち上がった。既に踵を返していた彼は、もう一度だけ振り向いた。 「本当に、消毒もさせてくれないのかい? 包帯も……」 「必要無いと言っただろう。お前には関係無い、……もう俺に話し掛けるな」 私が次の言葉を喉に詰まらせた隙に、彼はさっさと立ち去ってしまった。 しばらく呆然と立ち竦んでいた私は、昇り来る朝日が海原を幸せ色に煌めかせるのを忌むように、そそくさと立ち去る事にした。 ……今更だが、その時ふと、彼はワザワイと言う言葉の意味を知っているのだろうかと考えた。知らないで名前として使っているのなら、それは恐ろしく残酷な事で、知っていて使っているのだとしたら、それはもっと残酷な事に思えた。 それから数週間がたったある日。 じめじめとした長雨が、ここ数日間途切れることなく続いていた。そのせいか、センターに訪れるトレーナーがほとんど無い。私は呑気にデスクに座り、手元の資料をめくりながらお茶を飲んでいた。 不意にドアが開き、ずぶ濡れの少年が飛び込んできた。その装身からトレーナーと思しい彼の顔からは血の気が引いていた。 「すいません、すいません! 誰か来て下さいっ! 俺のポケモンが撃たれたんだ!! 峠の先で……!!!」 「撃たれた?」 「連れてこられないんだ、酷い怪我で、撃った奴がまだ……!!」 少年はパニックに陥っていた。状況説明が要領を得ない。 それは警察に言うべき事だとも少し思ったが、ともかく私は雨具と鞄を携えて、男の子の案内に従った。泥をズボンに跳ねさせながら、私達は坂道を上った。崖とその底にある川が近い。増水しているのだろう、響いてくる水音は激しい。 ……長雨で地盤が緩んでいるのではないか、と言う事が、その時頭の隅をよぎった。 崖沿いの道で黒光りするライフルを携えている男を見た瞬間、私にはそれが非合法のハンターであることが分かった。 男の足元に、一匹のポケモンがうずくまっていた。その毛並はあまりに赤く染まり、それがエネコロロと分かるまでに少し掛かった。 「エルネっ!!」 少年がそう名を呼んだ。微かに反応して身じろぎする辺り、息はまだあるようだが、出血が多過ぎた。 ハンターの男はまず少年の姿を認め、エネコロロのトレーナーが帰ってきたと悟ると、凄まじい剣幕で怒鳴った。 「このクソ坊主ッ! 自分のポケモンだったらちゃんとボールの中に入れときやがれ!! 野生ポケモンかと思って撃っちまったじゃねぇかっ!!!」 そこまで叫んでから、次に私に気が付いた。仰々しい白衣に怖気付いたのか、怒鳴り声が止まった。 「……ポケモンセンターの当直医です。一つ、お伺いしますが」 エネコロロの容態は急を要する事を知りつつ、私は努めて焦りを抑えた。何せ、ハンターは銃を持っていた。 「トレーナーの有無に関わらず、ポケモンの狙撃は特例で無い限り罪になる事を知っていますね?」 「…………」 「ライフルの所持免許を見せて貰えますか?」 「…………」 「一緒に来て下さい。……すぐエネコロロに処置をしたい。命を助けることができれば、貴方の罪も軽く済む……」 「るっせぇえええっっ!!!」 男の怒声と一緒に、ライフルの先端が真っ直ぐ私の方に向いた。 銃口が限りなく真っ黒な闇を包んでいて、私は、本当に銃口って丸いんだな、と思った。 白い毛並が目の前をさっと横切って、銃身の向きを変えてくれなかったら、私は今こうして昔話など語っていなかっただろう。大きな発砲音が鼓膜に刺さり、私は泥の中に倒れた。顔を上げると、すぐ前に鋭い後姿があった。 「ワザワイ……!!」 嬉しさのあまり私は彼に呼びかけた。が、ワザワイは私の事など空気のように無視して、目の前のハンターにだけ紅い眼光を向けていた。 「て、てめえは……! そ、そういや最近街に現れるって聞いたな……とんでもねぇポケモンが流れ着いてきたって、皆大騒ぎだ……」 引きつった笑いのような表情を浮かべて、ハンターは大声で叫んだ。 「悪魔の化身だ!! ……災いが来るぞっ!!!」 悪意の篭った、災い、という言葉を耳にした瞬間のワザワイの表情を、私は今でも忘れる事ができない。 彼は自分の名前の意味を知っている。 はっきりと、そう確信させる表情だった。 気の毒なことにワザワイの表情の変化に気がつかなかったハンターは、嬉々としてライフルに新しい銃弾と火薬を込めた。 「は、ははっ! なあなあ、こういうのなら撃ってもいいだろ、お医者さんよ! こいつは災いを呼ぶんだ、皆そう言ってるぜ!! こいつをブチ殺しゃあ表彰モンなんじゃねぇのかぁ、ケチ臭え罪なんか帳消しでさ、……喰らえよ悪魔野郎!!」 まくし立てるが早いが、ハンターは引き金を絞った。乾いた銃声が崖に響き渡った。 鉛玉に額を撃ち抜かれたワザワイの影分身が、ゆらりとかすんで消えた。 ハンターの背後で空気が渦を巻き、彼は至近距離からの真空の刃を無数に浴びた。 「うギッ……!?」 「そちらの小さい人間。早くこのポケモンを連れて行け」 ワザワイは相変わらず抑揚の無い声で、突然の事態に硬直している少年に向かって言った。 ハンターは唖然としてワザワイを見た。少年も唖然としてワザワイを見た。苛ついたのか、ワザワイがギロリと少年を睨んだ。 「何をしている。急ぐのだろう? 早く行かんと貴様も斬るぞ!」 少年は震え上がり、エネコロロをしっかりと抱いて転げるように坂を下っていった。 ワザワイは、地面に倒れたまま動けない私には大して興味無さそうに、今度はハンターが取り落としたライフルを見た。 「匂いが好かんな。斬っておいたほうが良さそうだ」 そう呟いて、ワザワイは風の刃でライフルを縦に真っ二つにした。 ハンターは無数にできた切り傷から血を滲ませ、狂気と怯えと放心をごちゃ混ぜにした様子であわあわとうめいた。 「い? ……ひゃ、……しゃ、喋りやがった、のか? ……このポ、ポ、ポポポケモ……!!」 「喋って悪いか。貴様の今の口調より、余程分かりやすく喋ってやっているつもりだがな」 ワザワイはすましてそう言って、二つに割れたライフルをさらに細かく分割する作業にいそしんだ。ハンターの目の前で、鋼の銃身が四つになり、八つになった。十六になった。 「しゃ、人間の言葉を喋るポケモンなんて、とんでもねえバケモンじゃねえか……! や、やっぱり、……殺さなきゃいけねえよ!!!」 男が体の前に何かを掲げて飛び掛かり、体当たりするようにワザワイにぶつかった。 ワザワイの目が、一瞬だけ見開かれた。私は見ていたが、何がどうなっているのか分からずにぼんやりとした。ワザワイが体を振るって男の体を突き飛ばした、その時に初めて、ワザワイの横腹に大きなナイフが深々と突き立っているのが見えた。 「ワザワイ!!!」 「近寄るな。 ……言っただろう、人間は嫌いだ。もう俺に話し掛けるなと」 足元の水溜まりを血の色に染め替えながら、ワザワイの声は何処までも平静だった。うろたえている私のほうが場違いな錯覚に囚われた。頭の中がぐちゃぐちゃに渦巻き、声が出せなかった。 混乱している私を無視して、ワザワイはやはり痛みなど微塵も感じさせない足取りで男に向かった。 「ふむ、嬉しかろう。 ナイフくらいで満足か?」 そう言って、何か言いたげな男に真空の刃を一発お見舞いした。 雨のベールの向こうに、ワザワイとハンターの姿がかすんで見える。大怪我をしているのはワザワイの方なのに、その圧倒的な優位は何が起こっても揺るがないように見えた。 「悪魔、化け物、災いか。 ……そんなに言うなら見せてやろう」 ワザワイが言った。刹那。 私は目を疑った。 辺りの風が急激に渦巻いて、ひたひたと降っていた小雨は雷を交えた豪雨に変わった。立て続けに稲光が轟いた。ごうごうと風が唸り、辺りの草木を乱暴に掻き乱した。……嵐の様相。 ―――― ……災いを呼ぶ……!!? 「……俺達は、災いを呼ぶ力など知らぬ」 白い毛並を真っ赤に染めたワザワイが、ハンターに一歩近付いた。 その分だけハンターは、崖に向かって後退りした。 「だが本当に呼べるなら、それもいいと今は思っている。……俺の呼んだ災いと、共に行くとするか。なぁ人間」 言うが早いが自身も一陣の風となり、ワザワイはハンターに飛び掛った。 ハンターがひぃとうめいてもう少し後退ろうとした時には、ワザワイの牙がその首元に喰いついていた。 雷鳴が轟いた。 緩んだ地盤に亀裂が入り、崖が崩れた。 足場を失ったハンターが、踊るようによろめいた。 揺れる世界の中、ワザワイの紅い眼が一際光って見えた。 ……結局最後の最後まで、彼は私と一度も目を合わせようとしなかった。 「ワザワイーーーーーーッッッ!!!!!」 ぬかるんだ地面に這ったまま、私は目前まで広がってきた深淵に身を乗り出した。 白い毛並が崩れた岩盤ともつれるようにしながら、黒い闇の中へ猛スピードで転がり落ちていく。遠い水音とハンターの断末魔が、私の絶叫と絡み合い、両脇にそそり立つ崖に幾度も反響してから消えていった。 * * * ……あれ以来、私はワザワイに会っていない。 あの嵐は、崖崩れは、本当に彼が呼んだのだろうか。彼はもういないのだろうか? この前、人語を操り、自ら災厄を名乗るアブソルが現れたらしいと人づてに聞いた。海の向こうの遠い街だ。もう随分と月日も流れた。真実を確認する手立ては、私には無い。 それは私の知るあのワザワイであるかも知れないし、彼と同じ哀しみを負った別のワザワイであるかも知れない。 ===== END. ===== 【目次へ戻る】 |