彼方に峻険な山々が連なる、広大な平原だった。茶色の地面に芽吹いた緑は艶やかに濡れ、陽光を弾いてキラキラと煌めいた。今まさに新しい季節を迎えんとする大自然の真ん中に、場違いな赤い点がうずくまっていた。
 それは小さな生物だった。赤くて丸い体から、小さな手足と三角の耳が突き出しており、頭頂部からは二枚の葉っぱが生えて風にひらめいている。本来ならば可愛らしい草の精のような姿をしているその生物は、しかし今、全身みじめなほど傷だらけで、泥に汚れており、頭の葉っぱは千切れて半分無くなっていた。
 厳しい野生の世界において、自分の行為が自殺にも等しいことを、小さな生物はよく分かっていた。こんなに見晴らしの良い場所で隠れもせずにじっとしているなんて、天敵に見つけて下さいと言っているようなものだ。今ここに獰猛な肉食生物が現れたりしたら、絶好の朝食とばかり、あっという間に食べられてしまうだろう。
 ただその過ちを正すには、小さな生物はあまりにも傷付き過ぎていた。頭上から大きな影が落ち掛かってきたことにも気付くのが遅れた。はたと顔を上げてそれっきり、小さな生物は凍り付いてしまった。
「ふん。珍しい、こんなところにハネッコが落ちているとはな」
 思い描いていた恐怖を形にしたような、恐ろしい顔の大きな生物が、自分を見下ろしていた。



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日溜まりの詩

−You and I.−

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 その生物は、ハネッコの何十倍も大きな体を持っていた。鼻の上にはドリル状の一本角があり、灰色の肌は岩のように硬質化して、ゴツゴツとした鎧で全身を覆ったようだった。大きな口から覗く鋭い牙にハネッコは縮み上がった。ここで食われてしまう以外の可能性は考えられなかった。しかし大きな生物は、足下でぶるぶる震えているハネッコを投げ下ろすように見詰めたまま、一向に動こうとしない。ふん、ともう一度鼻を鳴らして、大きな生物はハネッコに尋ねた。
「こんなところで何をしている。お前達は、いつも何十匹もの群れを作って、上空を風に乗って移動していたんじゃなかったか」
 ハネッコは泣きそうになった。大きな生物の声は、低くて太くて、蔑むような調子を含んでいるように思われた。恐ろしかったが、答えないわけにはいかない。ハネッコは震える声で、懸命にこれまでのことを説明した。
 大きな生物の言う通り、自分達は風に乗って空を飛べること。
 自分も今まで、多くの仲間と一緒に旅をしていたこと。
 昨日の夜遅く、突然の嵐に巻き込まれたこと。
 上空で運悪く雷に打たれ、この平原に落ちてしまったこと。
 そして仲間達は、傷付いて飛べなくなった自分を見限り、この地へ置いていったこと……。
 ただしその理由が、この辺り一帯が『魔王』と呼ばれる滅法強くて凶暴なサイドンの縄張りであり、長く留まってはいけない危険地帯として有名だったから、ということは言わなかった。
 たどたどしいハネッコの説明を、サイドンは黙ったまま聞いた。それから少し間を開けて、
「お前はもう、二度と空を飛べないのか」
 と尋ねた。ハネッコは首を振り、太陽の光をたくさん浴びて、葉っぱが元通りに生え揃えば、もう一度風を捕まえて飛び上がることが出来る、と答えた。心の中では、その前に食べられてしまうだろうな、と思っていた。
 突然、頭を鷲掴みにされてひょいと持ち上げられた。いよいよだ、と覚悟を決めたハネッコの顔に、生臭い鼻息が掛かった。サイドンは笑うでも威張るでもなく、淡々と言った。
「ならば傷が癒えるまでここにいるといい。俺といれば、他の敵に襲われることも無いだろう」

 ハネッコは戦慄した。つまりサイドンは、四六時中自分を監視するつもりであるらしかった。
「そう怯えるな、食うつもりはない。俺は植物の類は好きじゃないんだ。大体、お前のようなチビすけ、食ったところで腹の足しにもならん」
 一気に血の気が引いたことを読み取ったのか、サイドンは早い口調でそう取り繕ったが、ハネッコには最初からそれが嘘だと分かっていた。不覚を取ってこいつの胃袋に収まった仲間がかつて何匹もいたのだ。このサイドンが魔王と呼ばれる所以は力に限ったことではない。時に待ち伏せし、罠を張り、言葉巧みに油断させて、最後には非情にぺろりと平らげる。
 非常食。考えた末、サイドンが今ここで自分を食べてしまわない理由を、ハネッコはそう結論づけた。いずれ腹が減った時、あるいはどうしても他の獲物が捕まらなかった時のため、逃げ出すことの出来ない自分を手元に置いておき、そして……。
 頭をブンブンと振るい、ハネッコは空を見上げた。屈託無く降り注ぐ陽光が少しだけ元気をくれた。そうだ、この陽気が続いてくれるなら、体も葉っぱも回復するのに一月は掛からない。今すぐ危害を加えるつもりが無いのであれば、この執行猶予はチャンスでもあった。どれだけの時間があるのか分からないけれど、何とか飛び上がれる状態にまで回復することが出来たなら。いったん空中に逃れてしまえばもう安全だ……あまりにも頼りない希望だが、ハネッコはそれに賭けることにした。
 嵐が通り過ぎた、冬の終わりの朝だった。食う者と食われる者の共同生活が始まった。


 広大な縄張りのあちこちに、サイドンは幾つものねぐらを持っていた。
 この日サイドンが選んだねぐらが小川の傍の大岩だったことは、ハネッコにとって幸運だった。澄んだ流れで体を濯ぎ、喉を潤し、水分をたっぷり補給したら、日当たりの良い場所でひたすらじっとしている。体力を温存すると共に、光合成を行って自己治癒に努めた。光と水がハネッコの命の源だった。
 もちろん常に気は張っていた。ちらりと横目で窺うと、小山ほどもある岩の上で揺れている逞しい尻尾だけが見えた。
「……お前は風と共に旅をしてきたんだったな」
 地鳴りのような声が落ちてきた。身を竦めながらもどうにか肯定の返事を返すと、サイドンは重ねて尋ねてきた。
「どこに行ったことがある?」
 大概の場所ならどこにでも、とハネッコは答えた。これまでに世界を三周くらいは回ったと思う。ほう、と溜息のような声が聞こえた。感心しているのか嘲っているのか、声だけでは判断が付きかねた。
「ならば……海、というのは、どんなところなのだ?」
 ハネッコは目をパチパチさせた。訊かれた意味が分からなくて、すぐには返事が出来なかった。その沈黙に業を煮やしたのか、乱暴な咳払いが立て続けに聞こえた。
「退屈だからな」

 海というのは、大きな大きな水溜まりのことだ。あまりに広過ぎて向こうが見えないし、とても深くて底も見えない。鱗だらけで手も足もない生物が泳ぎ回っている。空が蒼い日には海も蒼に染まり、空が曇っていると海も暗い色に沈んだ。太陽の光を受けた大海原の輝きには、雨上がりの雫を何百、何千集めても到底及ばない。ただその水は塩辛くてとても飲めたものではないし、頭の葉っぱが萎れてしまうから水浴びも出来ない。だから海は見るためにあるものだ……。

 話している途中でいきなり襲い掛かってくることはないだろうと思ったから、ハネッコは懸命に海の話をした。太陽が南中を回り、傾き始めてもまだ話していた。話の種が尽きたら、同じことを何度も繰り返した。これにはサイドンも気付いたようで、それはもう聞いた、と言う代わりに、相槌の回数があからさまに減った。怒っているかな、とハネッコは次第に不安になってきたが、喋ることはやめられなかった。
 突然、サイドンがむくりと起き上がった。四巡目に突入していた魚の説明をぴたりと止めたハネッコに一瞥をくれると、まるで独り言のように呟いた。
「……そろそろ小腹が空いてきたな」
 あやうく悲鳴を上げそうになった。大岩から降りたサイドンの、ズン、ズン、と重たく響く足音が、次第に近付いてきて、自分のすぐ横を素通りしていった。瞑っていた目をおそるおそる開いたハネッコを振り返って、
「狩りに行く。お前も来るか?」
 残った葉っぱまで抜けてしまいそうな勢いで、ハネッコはぶんぶんと首を横に振った。そんな恐ろしい光景は見ているだけで失神してしまうに違いなかった。だろうな、とサイドンはにたりと笑い、一人で残るのは危険だから岩陰に隠れて待っていろ、と命令した。巨大な後ろ姿が見えなくなっても、震えはなかなか収まらなかった。太陽だけが平然と輝いていた。

 西の空が茜に染まる頃、サイドンはいかにも満足そうな顔をして帰ってきた。大きな手に、幾つかの木の実を携えていた。目をぱちくりさせているハネッコの前にそれらを置いて、サイドンは当たり前のように言った。
「お前の分だ」
 何も言えずに、おそるおそる一口囓る。爽やかな酸味と溶けるような甘味が全身に広がった。夢中で木の実を食べながら、それでもハネッコは、心のどこかがじんじん痺れて痛むのを感じていた。結局サイドンは持ち帰ってきた木の実もハネッコも食べようとしなかった。
 魔王の鎧に覆い隠された胃袋に、誰かの命が新しく収まっていた。

 遠い山影の向こうから、一筋の朝日が差していた。
 ハネッコは目を覚ますと、まず自分がまだ生きていることに驚きと安堵を覚え、次に呑気にも眠ってしまった自分を叱咤した。息を潜めて辺りを窺う。岩のベッドの上で寝息を立てているサイドン以外、夜明けの平原に敵の気配は見受けられなかった。地上での活動には全く適さない手足だが、眠りによって体力はある程度回復していた。暁の闇に勇気付けられ、ハネッコはそろりそろりと足を踏み出し、何も起こらないことを確認すると、今度は勢いをつけて駆け出した。
「……行くのか?」
 低い声が静寂を切り裂いた。振り返ると、薄闇にサイドンの眼光が不気味に際だって見えた。
 どこにも行かない、とハネッコは言った。か細い声で答えるのが精一杯だった。サイドンはじっとこちらを見詰めて微動だにしない。垂れ込めた沈黙が我慢できなくて、どこにも行かない、とハネッコはもう一度繰り返した。ずっとここにいる、と。厳しかったサイドンの眼光が、その言葉に安堵したように緩んだ。
「そうか」
 岩の上で何やらごそごそと動く気配の後、幾つかの木の実が降ってきた。
「朝飯だ。昨日の分の残りだが、木の実は俺の口には合わん」
 少し迷ったが、結局、ありがとう、と言ってから口に入れた。昨日と違う種類の木の実は、少し苦くて、どこか優しい味がした。


 朝と夜が交互に繰り返された。ハネッコの傷は日に日に癒えて、それに合わせて頭の葉っぱも伸びてきた。毎日サイドンは一人で出掛けてゆき、一人分の木の実を抱えて帰ってきた。監視と警戒の関係は相変わらずだったが、毎日続くと奇妙な馴れが生じてくる。緊張の中で弛緩してしまったとでもいうような、腰の据わらない生活が続いた。
 狩りに出る以外の時間の殆どを、サイドンは大岩の上で漫然と過ごしていた。昼夜構わず怠惰に眠り、暇を持て余すとハネッコに旅先の話をせがんだ。壮大な話にも些細な話にも、サイドンは一様の態度で耳を傾けた。岩の上に寝そべり、目を閉じて、もしかして聞いていないのかな、とハネッコが思い始めた頃にようやく相槌を打った。たくさんの話をした。砂糖を振ったような雪化粧の山脈。灼熱と乾燥がはびこる砂漠の砂嵐。密林に咲く鮮やかな花。騒々しい人間達の街。気ままに世界を巡るのびやかな幸せと、それに伴うたくさんの危険。苦楽を共にしてきた仲間達……。

「自分を置き去りにした仲間を恨んでいるか?」
 草の上に並んでひなたぼっこをしていたある日、サイドンにそう尋ねられた。
 突然の質問に驚いて、ハネッコは少し考えたが、素直に首を横に振った。
 強がりではなかった。自分達はひ弱な生物だ。力も素早さもないし、体だって小さい。食物連鎖の下層に位置する生物の多くがそうであるように、自分達もまた、数だけを頼りに生き延びてきた。寄り集まることで身を守り、強力な敵に襲われた時には、最小の被害でその他大勢が生き存えた。個体の集まりというよりは、群れという大きな命の一部という感覚に近かった。
 だから今回も同じだ、とハネッコは答えた。間抜けな一匹のために全員が危険に晒されることはないし、立場が逆なら、自分だって同じようにするだろうと思った。
 サイドンは黙って聞いていた。とっくりと熟考した後で重そうに口を開くと、
「自分が死んでも、より多くの仲間が生き続けることを選ぶのか」
 うん、とハネッコは答えた。
「その場合、自分、というものは、存在しないようなものではないか」
 そうかも知れない、とハネッコは答えた。
「お前は死ぬのが怖くないのか?」
 ……そんなことはない、とハネッコは答えた。例えば今、ふとこの物静かでどっしりとした生物に心を許してしまいそうになったとしても、油断するな、相手は魔王なのだから、と警告を発する自分は、紛れもなく死を恐れているはずだった。仲間と群れていた頃は、自分の命にもっと鈍感だったと思う。考えてみれば不思議な変化だった。一人ぼっちになって、サイドンと向き合って、初めて自分という存在がぽっかり浮かび上がってきた。
 サイドンはむっつり黙り込んでそれっきり、神妙な顔で、いつまでも首を捻っていた。


 頭の葉っぱが元通り生え揃って以来、ハネッコは風が吹くのを待っていた。
 しかし、いざその望みが叶った日、ハネッコはこの地を飛び立つことに躊躇いを感じ、そんな自分に戸惑った。サイドンはいつものように狩りに出ていていなかったし、空は軽やかに晴れていた。全ての条件が整っていた。絶好の飛行日和であるはずだった。
 ハネッコはサイドンの大岩によじ登った。会いに行くことは出来なくても、最後に姿だけでも見ておこうと思った。初めて登る岩の上には心地良い風がそよいでいて、遮るものの無い平原をかなり遠くまで一望できた。だがハネッコは景色を見渡す前に、岩の上に広がる奇妙な模様に目を奪われた。下からは見えなかった黒ずんだ染み。全体的に白っぽい岩にその模様は不自然に感じられた。まるで何かがこびりついたような……。
 流れてくる空気の中に見知らぬ匂いを嗅ぎ取って、ハネッコは岩の染みから目を離した。
 不穏な匂い。すぐ近くまで来ている、と気付いた時には、既に遅かった。
 
 岩の上から叩き落とされ、ハネッコは再び地面に転がった。落下の衝撃を柔らかな下草が吸収してくれたのは幸いだったが、状況は芳しいものでは有り得なかった。首から背中にかけて黒いたてがみを貯えた四本足の生物が目の前に立ちはだかっている。一頭ではなかった。四頭、五頭、六頭もの飢えた生物が、赤い目と涎に濡れた牙をてらてらと光らせている。
 頭の中が真っ白になった。サイドンに初めて出くわした時より何倍も強い恐怖だった。仲間に埋没し、群れの一部として死に直面した時には決してしなかったことを、今のハネッコは無意識にしていた。嫌だ、死にたくなんかない、と心の底から叫んでいた。助けて、と喚いた。
 サイドンが嵐のように飛び込んできた。今にもハネッコに牙を立てようとしていた生物の頭を掴み上げ、大岩に打ち付けて叩き潰した。

「流れ者のグラエナふぜいが。この平原が誰の根城なのかも知らなかったと見える」
 頭部の潰れた死骸を放り捨て、サイドンは悠然と言った。唸り声を上げながら取り囲んでくるグラエナ達をぐるりと見回すと、まだ震えの収まらないハネッコを両足の間に合わせるようにして立った。
「貴様らゴロツキにくれてやる物など何一つ無い。ここから出て行け」
 後ろから一頭のグラエナが飛び掛かってきた。それを尻尾で打ち払い、立て続けに襲ってきた二頭の首根っこを掴んで投げ飛ばした。勢いに乗せて鼻梁の角を突き出すと、その先にいた敵が弾かれたように吹っ飛んでいった。グラエナ達もしつこかった。地面に転がされてなお立ち上がる彼らもまた、自分達の命を繋ぐため、今日の食い扶持を確保するために死に物狂いだった。
 繰り広げられる激しい戦いに為す術もなく、サイドンに守られるまま戦々恐々としていたハネッコは、ふとあることに気がついた。攻撃を受けたわけでもないサイドンの息が随分と上がっている。思い過ごしではなかった。圧倒的な強さを見せつけていたのは初めのうちだけで、戦いが長引くにつれて明らかに動きが鈍り、繰り出す手数も減ってきた。狙いを定めている余裕が無いのか、闇雲に繰り出される攻撃は虚しく宙を掻いた。
 何かがおかしい、とハネッコは今更ながら疑念を抱いた。一度疑いの目で見れば、最初から何もかもがおかしかった。出掛ける時以外は眠ってばかりいたサイドン。食事は必ず自分の目の届かないところで済ませていたサイドン。自分を食べてしまわなかったサイドン……そして、岩の上に零れた黒い染み。
 太い尻尾を振り回した反動に逆に振り回されるようにして、サイドンが体勢を崩した。ここぞとばかりに、グラエナ達が一斉に群がってきた。ハネッコを抱え込んで地面にうずくまり、背中で攻撃を受けながら、サイドンは不意に目を見開いて、びくんと体を痙攣させた。外部からの衝撃ではなく、体の内部から突き上げる痛みに耐えているようだった。乱暴な咳と共に、黒ずんだ血が立て続けに吐き出されて地面を汚した。
 ハネッコは絶句した。サイドンは苦しそうに笑うと、弱々しい声で言った。
「……お前には嘘をついてしまったな。だが、お前を食べる気が無いのは本当だったんだ」
 それは今分かった。狩りに行ってくるなんて大嘘だった。
 もう随分と前から、物を食べられるような状態では無かったはずだ。
 サイドンの体は病魔に冒されていた。

「魔王と言えど、病には勝てないものだ」
 近くを小川が流れている。穏やかな陽気の下、グラエナ達の攻撃は続いていた。一撃の威力は低くとも粘り強い牙が、サイドンの体力を徐々に削り取っていく。
「怖かったよ。情けない話だ。これまで数え切れないほどの命を食らっておきながら、いざ自分が死ぬとなるとたまらなく恐ろしかった」
 ハネッコは未だ動けずに、ただ夢中でサイドンの話を聞いていた。サイドンの腕と背中に抱え込まれた暗くて狭い空間は、外部から完全に守られていた。グラエナ達の鳴き声も、恐ろしい牙の煌めきも、全てが遠い世界のことのように思えた。
「旅のチビすけを拾ったのは、本当にただの気紛れだった。どうせ食うことは出来ないのだから、最後の余興のつもりで居た。……俺はこの縄張りから出たことがなかったから、お前の話を聞いていると恐ろしい気持ちが紛れたんだ。悪くなかった」
 何度も咳き込み、徐々に呼吸する力さえ失っていきながら、サイドンは喋ることを辞めようとはしなかった。これまで言葉少なだった分を取り戻そうとするように、一生分の言葉を使い切ろうとするかのように喋り続けた。サイドンは言った。
「……悪くなかったのは、話だけではなかったがな」
 ハネッコはぽかんと口を開いてサイドンを見た。腕の間から差し込む一条の光に照らされて、サイドンの表情がうっすらと綻んだ。
「誰にも頼らず、ずっと一人で生きてきた。食える者は食ったし、競争相手は追い出した。……初めての二人だったんだ。信じてもらえないかも知れないが、今は死ぬことが、全く怖くない」
 信じないわけがなかった。半分閉じられている目の焦点は既に虚ろで、もしかしたら殆ど見えていないのかも知れないけれど、サイドンはこれまでにない透明な表情をしていた。

 ハネッコの脳裏には、暖かな日溜まりのイメージが鮮明に浮かんでいた。美味しい木の実と、綺麗な水と、旅の思い出話が全てだった単調な日々。恐怖という色眼鏡を外してみれば、それは確かに、足りない物など何一つ無い、この上なく満ち足りた生活だった。サイドンはもはや漂うような口調になっていた。
「お前は言ったな。己というものは種の一部に過ぎないと。己が死んでも、それ故に多くの仲間が生き続けるのだと……。俺は食らう者だ。これまでお前達の犠牲に生かされてきたのだから、その生き方を否定はしない。生きるために孤独を選んだ俺の生き方が、間違っていたとも思わない……ああ、それでも、」
 言葉が途切れた。呻きとも叫びともつかぬ声が喉から漏れて、濁った血が大量に吐き出された。たまらず悲鳴を上げたハネッコにそっと手を添えて、サイドンはゆっくり微笑んだ。全く怖くないんだ、ともう一度繰り返して。
「最後にお前を……他でもないお前だけを守るために戦えることを、俺は幸せに思うのだ」
 サイドンが猛然と立ち上がった。暗い空間が壊れて、ハネッコの視界に眩しい陽光が満ち溢れた。突然の動作にグラエナ達が一斉に飛び退いた。最初に出逢った時のように、サイドンはハネッコを鷲掴みにして軽々と持ち上げた。暖かな風が吹き抜けて、見上げた空は雲一つ無い快晴、あまりにも澄き通った快晴だった。最後の息を振り絞ってサイドンが叫んだ。
「上空には強い風が吹いている! 空気の流れを感じたら、次にすべきことがお前には分かっているはずだ!」
 グラエナ達が一瞬だけ怖じ気づいた。
 空も、山も、神さえも、魔王の慟哭に怖じ気づくようだった。
 草木を震わせ、大地を穿ち、天空すら突き崩す生命の咆哮の末に、腕を目一杯振り上げて。

「行け、友よ!!!」

 耳元で、ぶぅん、と空気を切り裂く音がした。再生したばかりの頭の葉っぱが千切れそうな勢いでなびいた。
 次の瞬間、ハネッコは空中高くを飛んでいた。慌てて手足を、葉っぱを操る。強い南風が全身を攫い、葉っぱと一定の角度で交わって、小さな体を更なる高みへ持ち上げた。飛べる。懸命に風を捕まえながら、ハネッコは地上を振り返った。ゴツゴツした石ころみたいなサイドンとそれに群がるグラエナ達が一瞬だけ見えて、あっと言う間に視界の外へ流れ去っていった。
 平原のあちこちでタンポポが咲き始めていたことに、この時初めて気がついた。


 彼方に峻険な山々が聳える、広大な平原だった。眼下のタンポポ畑はまるで終わることがないように見える。それでもハネッコは、どんな光景にも必ず終わりが訪れることを知っていた。暖かな気流が、小さな体を前へ前へと押しやっていく。
 寂しくはなかった。悲しくもなかった。ただ、どこまで行けるのかな、とハネッコは思った。再び飛べるようになったところで、空にも危険は一杯だ。たくさんの仲間に囲まれて、危険も自我も曖昧に薄められていた今までの旅とは違う。単独でフラフラしているハネッコなんて、凶暴な鳥達の恰好の餌食だし、また嵐に巻き込まれるかも知れない。サイドンには申し訳ないけれど、明日にでもあえなく果てる可能性は、限りなく百パーセントに近かった。
 
 上空まで届く春の匂いを吸い込んで、ハネッコは眩しい空の蒼に目を細めた。
 怖くなんかない。自分には魔王がついている。




===== END. =====





◆『第二回マサポケ同人誌計画』応募作品



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