旋律



 歌、が、きこえた。
 その歌を聴きながら、私は眠りについた。



     ※

 その森は『死の森』と呼ばれ、地元の人間には忌み嫌われているらしい。
 旅の途中でそこを通り掛かった私は偶然耳にしたその噂に興味を覚えた。
 各地に伝わる伝説や民話の類いの蒐集を生業にしている私は、当然のごとくその不吉な名前にも謂れがあるに違いないと考えた。
 案の定、森に隣接する村のポケモンセンターでそれとなく情報を集めて見れば、ありがちな怪談話を聞かされる。
 このような地方の小さな村ではポケモンセンターが寄り合い所の役割も果たすせいか、茶飲みがてらにたむろする古老も多く、様々な事を耳にした。
 複数の人間から話を聞き、それでいて細部に違いがあったりするため、纏めるのには苦労させられたが、その大まかな内容はこんなものだった。
 曰く。

 この森には黒い影が徘徊しており、身の毛もよだつような不吉な歌を歌うのだという。
 そしてその歌を一小節でも耳にしてしまった者は、そのまま森に飲み込まれ、二度と帰らぬ人になるのだとか。
 それゆえに、この森は『死の森』と呼ばれる様になった、と。

 どこにでもあるような話だ。特に目新しいこともなく、類型的な話だった。
 このような人知の及ばぬ深く鬱蒼とした森にはつきものの、大自然への畏怖が根底に流れるような、そんな話。
 なのに、妙に心が揺さぶられたのはどうしてなのだろう。
 気が付けば、私は周囲が止めるのを振り切ってまで、その森に足を踏み入れていた。


   ※


 足を踏み入れたその先は、さながら別世界のようだった。
 光さえ差さず、昼なお暗くするほど繁った枝に覆われて、下生えも疎らだ。
 足下に踏み締める感触は折れた小枝と枯れて半ば腐葉土と化した幾重にも折り重なった葉のそれ。
 森全体を深い森特有のどことなく陰鬱な空気が支配していた。
 時折小さな生き物が駆ける音や、反響して出所不明な何かの鳴き声の他は生命の息吹も感じられない。
 私は松明代わりに出した相棒のリザードと寄り添うようにして道なき道を進んで行った。
 皆が口々に語る『歌』というのを耳にしたいという気持ちがそうさせたのか、奇妙に高揚しており、そのせいで私は気付けないでいた。
 最初、ほとんど意味のない音の羅列でしかなかった鳴き声が、次第に一つの旋律に収縮して行ったことに……。


 ほどなくして道  と言っても殆ど獣道だった  が途切れると、突如として目の前に湖が現れた。
 そこだけは木がないせいか、ぽっかりと分厚い雲に覆われた空が覗き、わずかながらも陽光を差し掛けている。
 私はリザードをボールに戻すと、歩き詰めで疲労した足を休める為、比較的堆積物の少ない水辺を選んで、腰を下ろした。
 背負った鞄を下ろして水筒を取り出すと、私は一口だけ含んですぐに戻す。
 先行きがどうなるかわからないし、目の前の湖の水が飲めるとは限らない。旅の間に培った習性だ。
 それでも随分と乾いていた喉には甘露の恵みにも等しく、人心地付く思いがした。
「……さて、問題の『歌』とやらは、どこまで行けば耳に出来るのやら……」
 足を投げ出し、じっと耳を澄ましてみるものの、それらしい『歌』は聞こえてこない。
 まぁ、昔語りなどそんなものだと苦笑しながら私は何気なく湖の対岸に目を向け、そこに……

「チルタリス…?」

 一匹のチルタリスの姿を発見した。

 澄み切った空の様な水色の羽毛、綿毛の様な翼を持つそのポケモンは『ハミングポケモン』という呼び名でも知られている。又、よく歌を歌っては、旅人を眠らせる事でも有名だった。
 そして今も。
 耳を峙ててみれば、そのチルタリスが小さく歌を奏でているのがわかる。
 私は、安堵しつつ肩透かしを食らった気分だった。
 なんのことはない。
 この森に迷い込んだ人間はチルタリスの歌を聴いて眠りに落ち、そうしてただ単に村人に気付かれることなく去っていただけなのだ。
 恐らく、この森にはもう一つ出入り口があるのだろう。
 私はそう結論付け、おどろおどろしい話の割には拍子抜けする結末だったと思った。
 幽霊の正体見たり、といったところだろうか。村に戻って事の顛末を言って聞かせよう。
 そう思って、私は立ち……上がろうとして、足に力が入らない事に気付いた。
 何度か試してみるものの、腰が上がり切らない。
 これは、チルタリスの『うたう』にやられたかな、と、対岸に視線を戻し……。

 私はそれが大きな思い違いだと知った。

 先程までチルタリスしかいないと思っていたその周囲に、よく目を凝らして見ればそれよりは幾らか小さな黒い影がたむろしているのがわかる。
 不吉なほどに黒い羽に覆われたそれは、その姿は。

「ヤミ、カラス…」

 目を疑う様な光景に、私は息を飲む。
 何故、チルタリスとヤミカラスが。
 体の自由が利かない不安から半ばパニックに陥った私の耳に、次第に大きくなる音が突き刺さる。
 それは、この森に足を踏み入れた時からずっと側にあった、あの鳴き声と同じ響きを宿していた。
「あ……!」
 その事に気付いて、私は思わず呻き声を上げた。
 その頃にはもう、耳を澄すまでもなく、辺り中にたった一つの『歌』が響いていた。
 時に高く、時に低く。むせび泣く様に、呪詛の声を上げる様に。
 それは聴くも物悲しく、それでいて人の不安や恐れ、絶望といった、負の感情を白昼に引き摺り出すような、怖気を震う音色だった。
 この世にこんな旋律があるなんて、知らなかった。
 上半身を起こした姿勢を保つ事すら出来ず、どさりと地面に身を投げ出しながら、私は唇を噛んだ。
 脳髄を揺さぶり、魂を引き裂き、神経を嬲る、その、『歌』。
 人の作り出した『音楽』などでは到底達する事の出来ない、天国の底、地獄の果てのような、めくるめく恍惚と喪失の協奏曲。
 何千何万もの糸がより合わさって、やがて一枚のタペストリーを織り成すように、いつの間にか目に付く範囲を黒々と埋め尽くしていたヤミカラスの群れが、個々の高さでもって、同じ『歌』を紡いでいた。
 そして、その中心には、指揮を取るように、或いは冷静に観察するように、ただ透明な瞳で自らもその『歌』を奏でるチルタリスの姿。
 血のかわりに全身を流れていく錯覚すら覚える程その歌を全霊で浴びているうちに、私は唐突に悟った。


 これは。


 この『歌』は。


 …… ほ ろ び の う た ……。


 死を呼ぶ、鎮魂歌。

 霞んでいく意識と重たくなる瞼を必死に堪えて、私はチルタリスを見つめた。
 淡く光を帯びたその身体をさいごに焼き付け、私は瞼を下ろす。


 ああ……。


 うたが、きこえる……。


 そのうたをききながら、わたしはねむりにおちた。












 気がつくと、私は入ったのとは別の場所にある森の入口で倒れていた。
 朝一番で森に入ったはずなのに、だるい身体を叱咤して見上げた空には、月が浮かんでいる。
 私は長い夢を見ていたのだろうか。森の奥を振り返って自分の記憶を辿る。
 何か、この世のものとは思えない程美しく、それでいて哀しい楽を聴いたような気がするのに、それがどんな旋律だったか、もう思い出せない。
 だが、夢ではない証拠に、湖のほとりで倒れたはずなのに、いつの間にかその身が移されている。
 誰がやったのだろう。
 軽く身動ぎして、私は立ち上がろうとした。
 その時になって、私は自分がその手に何かを掴んでいる事に気がついた。
 そう自覚して見れば、それは柔らかい感触を伝えてくる。
 こわごわと押し開いたその手のひらの上に……、
「水色の、羽…」
 私は目にしたものが信じられなくて、呆然と呟く。
 だがその色彩を見紛うはずがない。それは、あのチルタリスの羽に相違なかった。
 何故かなど、考えるまでもない。あのチルタリスが私をここへ運んだのだ。
 それはきっと、私…というよりは、人間にあの地にいて欲しくなかったからなのだろうと思う。
 わけもなく、私は確信した。
 ならば、あの湖は何かの神域で、彼らはその守り人だったのだ。

 水色の羽を丁寧にしまい込みながら、私はやっとの思いで立ち上がると、森に向かって頭をたれた。


end.

written in 2007.2.3-5