−第28話−  腕から脳の芯に向って、鈍く、突き刺さるような痛みが走る。  痛みに目を覚ますと、カンタは崖の下で、うつ伏せに倒れていた。  シトシトと雨が降っている。  山のポケモンセンターから、ふもとのロープウェイに向う道の途中、ガケ崩れが起きた。  落ちそうになったハルノとアヤ。カンタがふたりをつかんで、引き上げた時、今度はカンタ の足元が崩れた。  伸ばした手が、届かなかった。  グングンと遠ざかるハルノとアヤの顔が記憶に残っている。足元には森が広がっていた。  落下の激痛に、長い時間、気を失ったのだろう。辺りはすっかり暗くなっていた。  手探りで荷物を探した。  しばらくすると目がなれてきた。しかし、それはあまり事態を好転させるものではなかった。  「ホーリーだけか…。」  5本のシッポが、はみ出したモンスターボール。  そう、手元に残ったのは、ホーリーの入った…入りきらないモンスターボールだけだった。  ジンジンと途切れる事無くカンタを責めつづける腕の痛み。  カンタは腕を抱いて、近くの木に背もたれ、座った。  動かないほうがいい…。  カンタはハルノやアヤ、シャルペロの事を思って、目を閉じた。  痛みが、カンタの意識を再び暗闇に誘った。  気を失ったカンタ。そこに…。  森の暗闇に、黄色いリングのようなものが見えた。  リングが真っ直ぐ近付いて来る。  それはイーブイの進化系、ブラッキーだった。すぐ隣にエーフィーの姿もある。  その後に、ひとりの少女がやってきた。  頭の上に、イーブイを乗せている。  草色のショートパンツに、同じく草色の裾の短い上着を着て、シャギーの入ったショートカ ットの、どこか冷めた瞳の女の子だ。  驚くべきことに、イーブイの三種の進化系、ブースターとシャワーズ、サンダースも連れて いる。  カンタの傍に来て、ブラッキーとエーフィーが少女を振り返り、声を上げて少女を呼ぶ。  カンタに駆け寄った少女が、その傷だらけの姿に手をかざした。  かざした手が、ほのかな光を発し始める。  「サイコ・ヒーリング。」  その光に照らされると、カンタの傷が、どんどん治っていった。  少女が、カンタを肩に担いで、歩き出そうとする。と…。  ドテンッ  重さに、つぶれてしまった。  地面と強烈なキスをして、真っ赤になった顔を押えて起き上がる。  こりずにカンタを背負う。と…。  ドテンッ  自分が持つ超能力に頼って育った少女は、あまりにも非力であった。  イーブイたちに助けられて、少女は、山奥の森にひっそりと建っている小奇麗な山荘に入っ ていった。  その夜。カンタは高熱を出した。  気を完全に失う事すら出来ず――できていればどんなに楽だったか――。体を焼き尽くすよ うな熱と苦しみに、もだえた。  うっすらとあけた目。  そこに映るのは、シャギーの入ったショートカットの女の子の顔だった。  そして、彼女の顔が見えるたび、苦しみの救いである、ヒンヤリとしたタオルが額に当てら れる。  タオルは、あっというまに熱くなった。  そのたびに、少女はタオルを水に浸し、しぼってカンタの額に乗せた。  その作業は、夜の間中続いた。  朝が来た。  小鳥のさえずり、清らかな朝のひざし。それが、真っ白なカーテンの向こうからやってくる。  かわいらしい少女趣味の部屋。  小さなベッドの上で、カンタは半ばボーっとしていた。  隣に、ベッドのもたれかかるようにして座った女の子と、それを囲んだイーブイたちがうつ らうつらとしている。  起こさないように、ベッドを降りた。  その時、ヒザが支えを失って折れ、崩れるように床に倒れた。  少女とイーブイたちがビックリして、おきてしまう。  カンタの体力が、極度までに、消耗していたのだった。  「立てるわけがないのよ。寝てれば?」  そっけない風を装った声が、少女から投げられる。  言葉とは裏腹に、優しく抱き起こして、カンタをベッドに戻そうとする。  と、ベッドに近付いた時。  「キャッ。」  女の子がバランスを失って、カンタもろともベッドに倒れこんでしまった。  その時、少女の唇が、カンタの唇にフワッと、触れた。  目を開けると、お互いの目と目が合った。  至近距離で見詰め合う少年少女。  見る見る内に、少女の顔が真っ赤になっていった。  パッと離れて、背を向けて、ペタンと床に座る女の子。  沈黙が部屋に満たされた。  「えっと〜…、おまえは?」  カンタの声。少女は背を向けたまま答えた。  「ミキ…。サイキッカーのミキ。」  午後――…。  ホーリーとイーブイたちが、庭の芝生で遊んでいた。  テラスのイスに座って、カンタが見ている。テーブルを挟んで向かい側では、ミキがカンタ を見ていた。  どんなことでも、そのままに、受け入れてもらえそうな、ミキの瞳。  どんなヒドイ事でも、心が乱される事のなさそうな、そっけない風を装ったミキに。  沈黙に押されて、カンタは―――……。今までの自分の人生に起こった全てを、話してしま っていた。  「ふぅん…、そう。」  ミキは、ただ、そう答えただけだった。  しばらくして、ミキが、ふと、席を立った。  と…、それを見たホーリーが、なにげなしに、ミキを追いかけた。  山荘の裏は、すぐ山肌にぶちあたり、ほんの少しのスペースに、井戸が掘られてあった。  底の知れない井戸の暗闇を覗き込んだミキ。  と―――…  その目から、涙がこぼれた。  ひとつ、ふたつと、涙がこぼれた。  落ちた涙の水音が、井戸で反響し、音階をつくり、悲しくも美しい調べを奏でていた。  『なぜ、泣いてるの?』  ポケモンの言葉で、ホーリーが聞いた。  {かわいそうだ…。}  テレパシーで、ミキがホーリーに返事を返した。  「カンタが、かわいそうだ。」  と――、振り返ったミキが、驚きに目を大きく見開いた。  しまった―――。  と、いった顔をして凍りつく。  思わず声にしてしまった本音。  それを、ホーリーを心配して追ってきたカンタが、聞いてしまったのだ。  ホーリーを抱きかかえるカンタは言った。  「明日には――、ここを出るよ。ミキさん、本当にどうもありがとうございました。」  他人行儀な言葉。ミキは地面に視線を落とした。  「それが…、いいね。」  悔恨の言葉は――…、かすかに震えていた。  明朝―――……。  「じゃあね。」  短い別れの挨拶。振り返らずに、カンタは行こうとした。  「待って!」  ミキが引き止めた。  「これだけは…、聞いていって。  好きです。  たったこれだけの出会いでしたけど、私はあなたの事が好きです。」  真剣な言葉だった。その言葉に嘘偽りはなかった。  カンタも、真剣に答えた。ミキに失礼のないように。  「俺も――…、好きだったよ。」  ミキが泣いた。  「もう…、過去形なのですか?」  「ううん、今も好きだ。」  「だから――…。」カンタが言った。  「うん、だから――…。」ミキも言った。  「「だから、サヨナラ。」」  ふたりの声は重なったのに――…、ふたりはお互いに背を向けて、歩き出した。  『なんでよ…、なんでなのよ!』  ホーリーは、納得ができないようだ。  前を歩くカンタの後ろで、ブイブイ言っている。  「かわいそうって言われるの、好きじゃないんだ。上から見下されているような気がして。」  同情は、自分の幸せと、相手の幸せを比べるところから生まれる。  そして、幸せに置いて上の者が下の者に言うのだ。「かわいそう。」と。  自分の幸せを自分で決めるカンタにとって、好ましい事ではない。  「それに、俺が俺のままで居る事が、好きな人に悲しい思いをさせてしまう…。辛いよ。」  ミキがミオの生まれ変わりだったかもしれない。  でも、ならばなおさら、辛い思いはさせられない。  『あなたたち、間違ってる!! あたし、ミキを連れてくる。  待ってなさいよ、カンタ! もっとよく話し合いなさい!!』  ホーリーは駆け出した。  ミキはベッドにうつぶせて泣いていた。  イーブイたちが見守るその部屋に、ホーリーが駆け込んだ。  『行こう、ミキ! あたしたちといっしょに!』  {いけない・・・。}  ミキが泣いた。  {あの人に――、いいえ、私は誰にでも心を開いちゃってるから、人の大勢居るところでは 生きていけないの…。}  開いた心のトビラから、人の感情が流れ込んでくる。いい感情も悪い感情も見境なしに。  『心なんて、閉ざせばいいじゃない! どうしてそれをしない! 簡単な事じゃない、心を 閉ざすなんて!!』  ミキは、力なく微笑んだ。そして言った。  {だって、心を閉ざすと――…。  心を閉ざしたら――…。  風を、感じられなくなるから。}  ホーリーも、気が付いた。  心を閉ざしちゃったら―――……。  ―――例え、大勢の人の中に居ても、“ひとりぼっち”だ。  その時―――。  ごうっ!  突然、ホーリーが大空に投げ出された。  いや、頭の中に、大空を飛ぶ映像が映し出されたのだ。  ミキのテレパシー。  大空を、風になって、ホーリーは飛んだ。  地上に、風車の並ぶ草原の丘が見えてきた。  そこに――…、ミキが立っていた。  両手を大きく広げて、全身で風を受けて――…。  ミキは、気持ちよさそうに…、幸せそうに、微笑んでいた。  目の端に――…、少しだけ涙を浮かべて。  ホーリーが、トボトボと、戻ってきた。  木の幹に背もたれて待っていたカンタが、抱き上げようとした。  ガブゥッ!!  ホーリーが、カンタに噛み付いた。  山荘から2時間ほど山を降りたところに、古いバス停留所があった。田んぼの中の、野菜の 無人販売が隣に併設されている田舎のバス停留所だ。地蔵も立っている。  そこで、カンタがバスを待っていた。  と――…、そこにひとりの女の子が、山の上の方から下りてきた。  それは、ミキだった。ただ――…。  額に“デオキシスの目”が貼り付いたイーブイを乗せ、進化系5匹を連れ――…。ミキ自身 の頬にも、“デオキシスの目”が貼りついていた。  神――…。いや、悪魔と戦うという事は、こういうことか。  カンタは、ホーリーを振り返った。  ホーリーが、全身の毛を逆立てて、唸り、吼えた。  つづく