私は、空を、見上げた。  空は青に深く、雲は白く輝いていた。  まるで希望と若さに輝く命のよう…。  しかし私は、深くため息を吐いて、視線を下ろした。  視線は、空を格子状に囲う、電線に引っかかりそうになりながら…。  灰色のコンクリートビルを降りて行った。  そして、薄暗い路地に落ちる。  ゴミにまみれる路地裏の、ビルの壁には、朽ちるままに任せた非常階段が、赤錆びた金属を、 淋しい風に晒している。  その非常階段の、狭い踊り場に、私は居た。  私は、アリアドスの朝露(あさつゆ)。  空に憧れる、毒蜘蛛だ。  〜アゲハントになったアリアドス〜  「なぁ、蜘蛛はなぜ、巣を張って、蝶を捕まえると思う?」  目の前の犠牲者に、私は聞いた。  「あ…、食べる為………でしょう?」  恐怖に震える声で、アゲハントの子供は答えた。  私の巣に引っかかったそのアゲハントは、哀れな程、震えている。  「違うな…。」  私は即答した。  「翼を奪い、飛ぶ為だ。あの、大空を。」  そして私は、鋭い鉤爪を、振り上げて………。  振り下ろした。  鉤爪は、アゲハントに、当らなかった。  狙いを外した鉤爪は、逆に、アゲハントの自由を奪っていた巣を、切り裂いていた。  アゲハントは、命の限り、空を飛んで逃げた。  不思議と、アリアドスの朝露は、優しげな眼差しで、それを見送っていた。  私の巣に引っかかる…、私が張った罠に引っかかるバカとマヌケは、生憎、居なかった。  私は、そんなマヌケを待ちつづけた…。  いつまでも………。  「キャアアアア、助けてーーーっ!」  路地裏の更に奥から、声がした。  私は、飛ぶように、そこに駆けつけた。  そこでは、アゲハントの子供が、私と同じ、アリアドスの巣に引っかかって、足掻いていた。  まるで無力な足掻きを、嘲笑って、巣の主は犠牲者に忍び寄る。  毒を注ぐ為に───。  私は───…。  「俺の縄張りで、なにしてやがる!」  激怒して、そのアリアドスに、襲いかかった。  戦いは───。  私が、勝った。  私の毒の方が、若干、奴を上回ったのだろう。  戦いに傷付いた私は、アゲハントを、奪い損ねた。  戦いのさなかに、破られた巣から逃れて、アゲハントは空を逃げ去った。  ………それを視界の端に見て───。  朝露は、嬉しそうに笑った。  私は…。  私こそが、マヌケでバカなのだろう…。  いいさ。  それで…。  ひとりは、寂しい。  巣に閉じこもるように、朝露は、ひとりぼっち…。  待ちつづけて。  バカとマヌケを。  自分の罠に、かかってくれる、バカを待ちつづけて…。  ひとりぼっち。  ある日、人間が、やってきた。  人間は、言った。  「おまえは、本当に、素晴らしいんだ。だから、俺のポケモンになってくれ。」  そう言って…。  でも、戦いを挑んでは、くれなかった。  駄目だよ?  人間の言葉じゃ、駄目だよ?  俺は、ポケモンなんだ。  ポケモンの言葉で、喋るか。  それとも、戦うしか、心を通じさせる事は、出来ないんだ。  なぁ、人間。  ポケモンに、成ってくれ。  成れないなら、戦ってくれ、俺と。  俺の敵に、成ってくれ。そして、俺より強い事を、証明して見せてくれ。  心も、体も───。  俺より、強く在ってくれ。  そうしたら、俺は───。  俺も───。  俺だって───……。  空を、飛べるはず。  アゲハント達は、朝露の縄張りに、よく集まった。  そこが、安全だったから。  朝露の巣は、ゴミ溜めの路地裏にあって、キラキラと輝く朝露に濡れて、いつも輝いていたか ら。  ひとり寂しい、毒蜘蛛が、自分の巣を琴線にして、奏でる琴の音が───。  優しかったから。  誰も、寄せ付けない。  優しく、哀しい毒蜘蛛───。  アゲハントの錬華(れんか)は、輝く程に美しい蝶だった。  闇に、光の軌跡を残して───。  夜の街を往く、誰もが見止める、美しい蝶だった。  そして、朝露に助けられた、アゲハント…でもあった。  在る日、錬華は、哀しい毒蜘蛛の噂を聞いた。  それは───…。  朝露は、待ちつづけた。  いつまでも、いつまでも。  そして、朝露は、とうとう…。  絶望した。  待ってたって、誰も来ない。  バカも、マヌケも居ない。  ならば───。  こっちから、行こう。  朝露は、巣を、飛び出した。  アゲハントの錬華は、とうとう朝露が、巣を飛び出した事を、知った。  噂話しを聞いた次の日、錬華の前に、朝露が現われた。  変わり果てた、朝露が───。  朝露は言った。  「闇を切り裂く程輝く、美しいお前の羽こそが、俺にふさわしい。その翼をもらうぞ!」  錬華は───…。  朝露の為に、羽を奪われる訳にはいかなかった。  朝露を罪人にしてはいけない。  錬華は、戦う覚悟をした、その時───。  その時には、戦う必要など、ない事を…。  とっくに、知っていた。  「ねぇ、朝露?」  「なんだ?」  「あなたは、もう、アゲハントじゃない。」  そう、巣から…罠を張っていた巣から飛び出した時点で、アリアドスは、羽を持ったアゲハン トに、成っていたのだった。  「そんな…、そんな事が………。」  半信半疑の朝露。  笑顔で、手を取る錬華、ふたりは───。  縺れ合うように、輝きの空に、飛んで行った。  ───どこまでも、高く───。  おしまい