「これによる経済効果はこれだけあります。」  中央都市、市議会会議場。そのモニターに表示された数字は、実に魅力的なものだった。  反対派は渋面を作るが反論は無い。  表面上はキレイな顔を作り、ゆったりと高級な椅子に腰掛けた身なり正しい青年・・・少年 と言える年頃に見える青年は、議事進行側にいながら、まるで傍聴席にいるような目で見て いた。  「反論は無いようなので、ここで採決を取る。」  議長の声。  「この案に反対の方。」  パラパラと起立する議員がいる。しかし少数であった。  「では、この案に賛成の方。」  議長の声に多くの議員が立ち上がった。  「では、健康食品としてポケットモンスター“ナゾノクサ”の流通を一部認可するものと する。」  大きな拍手が会場に響いた。  青年“クレオ”は顎をさすった。右手の平に隠れた口は食いしばるように歪んでいた。  ここは世界の中心と名高い中央都市。  都市の中心に、そのシンボルである超高層ビル“サンリーチビル”が建ち、そこから放射状 に建物が立ち並ぶ巨大な都市である。都市の周辺には工場があり空に向かって排気ガスを吐き 出し続ける…。その排気ガスで出来た雲のせいで、この都市には太陽の姿がなかった。コン クリートの樹海の中心で、超高層の“サンリーチビル”が排気ガスの雲の中に消えていく都市 は機械と人々の音…そのうねりの中にボンヤリと浮かんでいた。  クレオは自室―――“情報システム監察官”の部屋に戻った。落ち着いたアンティーク家具 で統一された目立たないが豪華な内装である。  クレオはソファーに体を重々しく沈めた。深く目を閉じ時間をかけて息を吐く。  ―――ため息―――  というにはあまりにも多くの想いが織り交ぜられた吐息であった。  クレオはボンヤリと天井を見つめていたがフラッと立ち上がって部屋を出て行った。  行った先はビルの屋上。太陽に届くとさえ言われるサンリーチビルの屋上であった。  シュボッ  ライターでタバコに火をつける。細く長く吐き出した煙が、霧がかかったかのように屋上を 覆う排気ガスに消えていく。  これが現実…。  屋上は排気ガスに覆われ太陽どころか空さえ見えない。クレオは窮屈なネクタイを緩めた。  都市を統括するコンピューターをハッキング。その後、支配し。ただの不良少年であったク レオは市政のトップ、その末席に加わるまでに登りつめた。  ―――ほんのお遊び―――  クレオにとってはその程度のものだったが、世界の頂点、世界の中心…そこは表世界の象徴 であるビルの屋上が排気ガスまみれであるように腐っていた。  排気ガスに隠れボンヤリと輝く太陽…らしきものを見上げてタバコの煙を吹き掛けた。  これが現実…しょせんこの程度………。  どうしようもない倦怠感にクレオは座り込んだ。  ふと―――。  そこに人影が見えた。排気ガスにぼやけたシルエットは明らかに子供のものである。  子供はひまわりのような姿のポケモンを連れて見えない空を見上げている。  ………月の子かァ………。  その姿を見てクレオがつぶやいた。  この中央、そのトップに出入りできる子供は“月の子”と呼ばれる天才少年“ゴールド”た だひとりであった。もっとも、この展望台は一般も出入り自由で誰でも入ってこれるのだが、 排気ガスまみれになってまで来る人間はまったくと言っていいくらいいない。  結局ここには中央関係者、その中でもアウトサイドの人間だけが出入りしていたのだった。 いつもの面々というやつだ。  月の子がポケモンになにか言っている。  あいつあんなポケモン持ってたっけ?  そんなことを考えながら月の子とポケモンをボンヤリと見ていたクレオが次の瞬間に我を忘 れた。  ヒマワリのようなポケモンが空に向かって両手を広げると、途切れる事の無かった雲が割 れて、青空と―――太陽が姿を現したからだ。  月の子は陽光に眠るように目を閉じ、春のように微笑む。  叩きつけられるかのような太陽の熱と光、月の子の翳りのないやわらかな笑顔に自分がどれ だけ闇に深い人間かを見せ付けられたかのような気持ちになってクレオは愕然とした。  混乱  怒り  悲しみ  後悔  そのような感情が表現できない複雑さと苦悩で激しくうずまき、クレオは心を屈した。  やがて―――。  屈した心の闇から、ある衝動が首をもたげた。  欲しい………。  あのポケモンを…なにをやっても欲しい!!  ―――気が狂った―――  自覚はあったがそんなものどうでもよくなってしまっていた。自分の知的で冷静な部分が奥 に引っ込み、代わりに狂った自分が表面を支配した。拳銃を抜いて子供を脅す。  「そのポケモンをよこせっ!」  理性が警報を鳴らす。  ―――そんなことしてどうなる!?この地位を追われるぞ!不良だった過去をデータで改ざ ん出来ても、今ここでやろうとしている犯罪はもみ消せない!!―――ぬるま湯につかりすぎ てクレオも地位にしがみつく腰抜けとなっていた。お遊びのつもりが命がけ…クレオが失望し ているのは、なにより自分自身に対してかもしれない。  なにより―――。  敗北―――すでに敗北していた。それをクレオは痛いほど分かっていた。自分はあのポケモ ンを手にしたとしても技を使わせることは出来ないし、月の子を撃つ事も出来ない。  太陽は手に入らないのだ…決して―――。  自分の衝動による行動―――その処置すら出来ずにクレオは………拳銃にすがり付くかのよ うに震えていた。―――誰かどうにかしてくれ―――痛切な思いでクレオは叫ぶように祈った。  拳銃を突きつけられ、月の子も震えていた。でも、怯えながらポケモンをモンスターボール に戻し、差し出した。  「こっ…交換だ。」  震える裏返った声。そんな声にすら怯え、クレオは拳銃を盾にするかのように押し出した。  「中央都市の下水道の地図と交換だっ!」  意外な…クレオにとってはまったく予想外なゴールドの言葉。  驚きとともに、クレオの肩から力と緊張が抜けていった。  「これでいいか?」  月の子と呼ばれる少年“ゴールド”は頷いた。地図と中央都市の下水道を設計した技術者の 住所…それを書いたメモを持って。  情報システム監察官の自室でクレオは憑き物が落ちたようになって冷静にデータを打ち出 した。横でゴールドがキマワリにクレオがご主人さまになったことを諭していた。  ポケモンの強奪にデータの不正入手……どちらもリッパな犯罪だ。キマワリに手を振って出 て行くゴールドにクレオは少なからず興味を持った。だが…追いかけることも、なぜデータが 必要かも聞きもせず屋上を目指した。  屋上は再び排気ガスに覆われていた。クレオはモンスターボールを投げてキマワリを呼び出 し命令した。  「キマワリ、日本晴れだ。」  キマワリは頷き、天に向かって両手を広げる。  「うおおおおおぉおおーーーっ!!」  割れていく雲にクレオが叫んだ。  ヒャハハハハハ  現れた青空と太陽の姿に喜び、狂ったように笑い出す。  キマワリが心配して新しいご主人様の顔をうかがった。すると……  キマワリは不思議そうな顔をした。  ガタン ガタン  荷台がゆれる。  灯り取りの小さな窓から光が細々と差込み、荷台の中を照らす。薄暗い荷台の中には十数匹 のナゾノクサが身を寄せ合っていた。中央により食品として認可された一部のナゾノクサた ちだ。その運命を知ってかナゾノクサたちは怯え、震えていた。  扉が開いた。光をさえぎる黒い影となった人間たちが入ってきて、ナゾニクサたちを掴み、 運び出していく。ナゾノクサたちは荷受でキレイにラッピングされデパートに並んだ。商品と して―――。  その中に双子のナゾノクサが居た。みんなに比べて姉は大きな体、妹はちいさな体をして いた。そのため、ふたりは抱き合わせでラッピングされ売られていた。デパートには開店と同 時にナゾノクサを求める客で溢れ返り、双子のナゾノクサたちもひとりの主婦に買われてい った。  家に帰った主婦はご近所に自慢してまわり、さっそくナゾノクサ健康食を振舞うことにな った。  母のやさしげな笑顔のままで包丁を片手にやってくる主婦、クサリにつながれた姉のナゾノ クサが妹をかばって前に出た。自分の大きなハッパをもっと大きく広げて見せる。  「まぁ、おいしそう。」  言って主婦は姉のハッパを包丁で切り取った。  食卓で明るく笑い食事する主婦たちの声。  ハッパを失ってグッタリ倒れた瀕死の姉にしがみ付いて泣く妹のナゾノクサ。  夜が来た―――。  月の光が瀕死の姉を照らし出す。すると―――  ハッパが青々と茂った。姉のナゾノクサは立ち上がり、妹にやさしげに笑いかけた。  朝が来る。  朝食にナゾノクサ健康食を出そうと、嬉々として主婦が包丁片手にやってくる。  前に出ようとする妹を押えて姉が再び前に出る。大きくハッパを広げ、せいいっぱいおいし そうに見せる。  「まぁ、おいしそう。」  主婦は姉のハッパを切り取って食卓に向かう。  食卓からは子供たちの明るい笑い声がする。  瀕死の姉に覆い被さって妹は泣いた。  そして夜が来ると姉は復活し、朝がくると食べられた。その繰り返し………  そんなある日こんな会話が聞こえた。  「ねぇねぇ、あなたナゾノクサ二匹持ってるのでしょう?」  「あら奥様、一匹欲しいのでしたらさしあげますわよ。小さいほうで悪いのですけど。」  「あら、助かりますわ。」  ふたりは明るく笑いあう。姉は悲鳴をあげた。小さい妹が同じ事をされたら瀕死ではすまな くなる。  その夜も月が出た。  瀕死から立ち上がった姉は、月に向かって助けを求めた。  大きな声で、助けを求めた。  月に向かって―――  月の子は都市周辺部の工場地帯に入っていった。その外れに廃工場があり、無人と思われる その朽ち果てた建物の内部を奥へ奥へと進んだ。事務室に薄暗い灯りが燈っていて、それを確 認した月の子“ゴールド”が壊れた扉をくぐった。中は工場と同じく朽ち果てた装いで、ホコ リをかぶった机の上に居るチョンチーだけが生きているようだった。  キィ キィ ………  その灯りに照らされてひとりの老人がロッキングチェアーをゆっくり前後に揺らしていた。 義足に義眼、背中につながっているいくつものパイプ……機械に生かされているかのような老 人がそこに居た。義眼がきしむ音を立ててゴールドを見る。  「じいさん……これが分かるか?」  老人と目が合ったとたん用事を切り出すゴールド、机に地図を広げた。いくつかの部分に空 白がある。  「中央都市地下の地図だ、あんたが設計した。」  老人は首を動かすこともなくゴールドを見つめた。今にも消え逝く光がそこにあった。  「まだ逝くな。」  ゴールドの言葉に老人の瞳に光が戻り、命に輝く少年を真っ直ぐに見つめた。  「推測で空白を埋めていく、間違っているところだけ指示してくれ。」  言うと流れるような動きで地図を書いていくゴールド、時々「う」とか「あ」とか言う老人 の声でゴールドが記入に修正をかけていく。チョンチーがそれを照らし覗き込む。その作業は 夜が明けるまで続いた。  朝―――。  鳥の鳴き声がする。差し込む朝日に照らされた地図は完成していた。地図を巻き取り老人を 振り返ると老人は眠っていた。ゴールドは深く礼をして出て行った。  チョンチーは老人の安らかなで満足げな寝顔を見て―――ゴールドを追いかけた。  情報監査官室。  そのイスに座って机にヒジをつきクレオが虚空を見つめていた。なにをするでものなく、た だじっと見つめていた。卓上にはキマワリの入ったモンスターボールが転がっている。時折そ れに視線を落とし―――クレオは考え続けた。  日が落ちた。  部屋に明かりもつけずクレオは考えていた。  ピッ  そしてとうとう情報システムにおいて全ての権限を持つコンピューターの起動スイッチを入 れて…。  入力した。  “監査官クレオの退任。後任には次席監査官を任命。”  承認  議会の承認を待たずにクレオは部屋を出た。キマワリの入ったモンスターボール、1個だけ を持って―――。  排気ガスの雲がボンヤリと空に浮かんでいる。雲は、眠らない都市の明かりを受けて夜の間 中うっすらと光っている。世界の終わりを告げる夕焼けが永遠に続くかのように真っ赤な…鮮 血を写し出して…。  その雲にぼやけた赤い月が見える―――。  鮮血を流し込んだかのような真っ赤な月は廃墟のビル街を覗き込んでいた。  中央の外周…工場街のさらに外側、そこは誰からも見捨てられたスラム街だった。  月の光で灰色のビルも薄汚れた道路も赤に染まるスラムの大通りに、ひとりの少女が立って いた。  年端もいかない女の子で、手には血染めのナイフをぶら下げている。  ピチョン…。  ナイフの刃から血の滴が落ちる。  道路には何人もの大人が血まみれで倒れていた。  ピクリとも動かない。死んでいるのか気絶しているのか、その判別は出来なかった。  少女はナイフのように鋭い目を細めて薄く笑う。ビルも道路も立つ人も倒れる人も等しく紅 に染まるスラムで…。  「!」  かすかな…本当に聞こえないくらいの、かすかな音で少女が笑みを無くし、鋭い目に冷たい 光を宿す。振り返らなかったが全神経はその物音に集中し、小さな背中は歩みを押し戻すほど の圧力を放っていた。  路地裏から人が現れた。身なり正しい青年であるが瞳に狂気を宿し、手にはクサリを持って いる。警戒もせず少女に近付く―――それがかえって少女の動きを封じた。青年はクサリを差 し出して聞いた。  「これを切断できるか?“切り裂き天使”」  切り裂き天使と呼ばれた少女は予備動作なしに青年…クレオに踏み込んだ。  チュンッ!!  ナイフが一閃し、クサリはマッチを擦ったような匂いと短い金属音を発して断ち切られた。 少女はそのままもう一歩踏み出し、肌の熱すら感じさせる距離でクレオを見つめた。  その手に持ったナイフよりも切れ味のありそうな瞳は闇に深く、吐息が甘くクレオの頬にか かる。  暗闇の瞳…ミルクの吐息………。  クレオは冷たい殺意にマヒする思考で、そんなアンバランスな感想を漏らしていた。  「………ご…合格だ“切り裂き”。さぁ、行くぞ。」  クレオは圧力に押され息苦しい喉に生唾を飲み込み、中央を象徴するビルを振り返って少女 を促す。少女はそれに人間的な反応はしなかった。氷のように冷たく押し黙ったまま、まった く動こうとはしない。  先に歩き始めたクレオが耳を澄ませて少女を急かす。  「ほら…呼んでるぜ。」  その時、少女の研ぎ澄まされた感覚に痛いほど敏感に触れる声が聞こえた。それは月に助け を求めるポケモンの声だった。  少女は一歩………ためらいがちに踏み出した。しかし続く2,3歩は力強く急ぎ足でアスファ ルトを踏みクレオを追う。  「………美由生。」  切り裂き天使と呼ばれ恐れられる少女の声がクレオの背中に当たって、ひび割れに雑草の生 えたアスファルトに落ちた。クレオが振り返り瞳で問うと、もう一度少女が言葉を投げた。  「私の名前は美由生―――。“ミユウ”だ。」  クレオはそれを受け止めるように頷き答える。  「俺はクレオ―――今日からは、ただの強盗だ。」  赤い月はもうひとりの天使を見ていた。  「おまえも終わりだな、ヘビ女。」  同じくスラムの裏路地。大人数でひとりの少女を取り囲み、一歩前に出た乱杭歯の不潔そう な男が下卑た笑いを漏らす。ヘビ女と呼ばれた少し怒ったような顔をしたその少女は、やはり 怒気をはらんだ声で答えた。  「うっせーっ、だまれ、しばくぞ。」  その言葉を虚勢と受け取った男たちが大声で笑い出す。  赤い月が鮮血を落とすスラムで嘲笑を投げる男どもに囲まれた美しい少女は、しかし真っ直 ぐに立ち男たちを睨み付けていた。  「やってみろや、“撲殺天使”!!」  少女のふたつ名を叫び、男たちが一斉に襲い掛かる。  いや―――。  襲い掛かろうとして出来なかった。踏み込んだ足が不動の岩と化した。少女が落としたモン スターボールから現れたのだ―――全長30メートルを超えるであろう巨大なアーボックが。  巨大アーボックは天使に絡みつくように赤い月に向かって伸び上がり鎌首をもたげ男たちを 睨みつけてグルリと首をめぐらした。そのひと睨みで数十人の男たちは完全にマヒして動けな くなってしまった。  少女は肉厚の皮手袋を両手にはめて乱杭歯の男に真っ直ぐ歩み寄った。  ボドムッ!  みぞおちに喰らわせたアッパー。重たい音がして男の体が宙に浮く。フワリと滞空した男の 体に次々と重たい拳が凄まじい力で打ち込まれる。その後、男の目から光が消えるまで男の体 が地に着くことはなかった。  肉を打撃する体の芯から震える音に、マヒした男たちは歯を鳴らして怯え震えた。  数分後―――。  月の流した鮮血にすら染まらない青い瞳を狂気に光らせ、もう動かない肉を見下ろして天使 は荒く息を吐いた。  パチ パチ パチ  そこへ拍手が聞こえた。  「お見事“撲殺の天使”」  振り返るとビルの瓦礫に腰掛けて身なり正しい青年と闇を目に宿した少女が拍手を投げて いた。闇の目をした少女が青年の言った“撲殺”の部分で失笑する。  「黙れ、しばくぞ。」  しばくなどという生易しいものではない。険悪なムードで相対するふたり。その間に入って 青年―――クレオは言った。  「後にしろ。ほら、急ぐぞ。」  闇を目に宿した少女“美由生”はハッと気が付いたようにしてクレオにうなづいた。  「おい、なんだよ、おまえら。」  いぶかしげに少女が言う。クレオは月を振り返る。すると、その月に向けられた助けを求め る声が少女の耳にも届いたのだった。  「行くぞ、撲殺の。」  クレオが少女のふたつ名を変に縮めて呼ぶ。いつも怒った風の顔をさらに怒らせて少女は答 えた。  「あたしの名前は“ミロ”だ。変な名前で呼ぶな。」  少女―――ミロは、付いて行く事が当然であるように初対面の青年“クレオ”に付き従った 。それどころか追い越して立ち止まり振り返って足踏みしながら「どっちに行くんだ?」と聞 いて美由生の失笑を買った。  老人を後にしたゴールドは工場の外れで、チョンチーとふたりでマンホールを見下ろして いた。  ここをくぐりナゾノクサの所へ行き救出する。ゴールドは心を決めていた。それが法を犯す 犯罪行為であったとしても、たとえそれによりポケモンマスターになる夢がつぶれたとしても 、ここでなにもしなかったら―――。  ゴールドは自分が人間ではなくなってしまうと恐れた。  脳裏に憧れのポケモントレーナー“レッド”の顔が浮かぶ。  もう…あなたを追いかける事が出来なくなるのですね。  さみしい気持ちになりゴールドはうなだれた。  しかし明るく笑って顔をあげた。  いいさ、ポケモンマスターになれなくたって、だってこれでやっと  僕は“月の子”ではなく、“僕自身”になることが出来るのだから。  ゴールドは前を向いた。  ガンッ!!  何か硬いもので後頭部を強打する音がした。  視界が暗転しゴールドは思った。  なんだ?世界が終わったのか??  そして痛みを覚えることもなく気を失った。  後ろには銃のブリップでゴールドを叩いたクレオがミロと美由生を連れて立っていた。倒れ たゴールドの手から地図を奪い、言う。  「お前に犯罪は似合わねェよ。“月の子”って名前と同じくらいにな。」  オマエ ハ オレ ノ タイヨウ ダカラ  「ありがとう。正義が生きている事を教えてくれて、ありがとう。」  クレオは心の底から声を出した。あるがままでよかった幸せな子供の頃の声みたいに“考え てしゃべる声”ではなく“心から生まれたままの声”だった。裏も表も無い―――珠のように まんまるい声。そしてクレオは無垢な子供のように笑って見せた。  「ホウッ。」とミロが驚きに、ため息をついた。  いけすかない、ただのお調子者かと思ったけど…こんな顔も出来るんだ、コイツ。  ミロは拳に鉛の砂を詰めた特製の皮手袋を締め直した。  コイツに付いて行こう―――その決意を込めて。  美由生は持っていたナイフを抜いて刃に目を落とした。曇った鏡のようになった刃に一瞬だ けひとりで法に立ち向かおうとした少年の顔が写り、次いでその身代わりになろうとする青年 の子供のような笑顔が写った。  ワタシ ハ ナゼ ナイフ ヲ モッテ ナニ ヲ シテル ノ ダロウ…?  ぼんやりと取りとめの無いことを考えた。  キタナイ…。 ステテ シマイタイ…。  ちらりと、そう思った。突然湧き上がった嫌悪感に、手に持ったナイフを出来るだけ自分か ら遠ざけた。ナイフから顔を背けた。  でも―――。  きつく目を瞑って歯を食いしばってナイフを近付けて胸に抱いた。  両手で握り締めた。胸に抱いた。  “Only One”  刃に刻み込まれた刻印。  汚くても、意味が無くても―――ナイフだけが美由生の全てだった。それが美由生の支えだ った。  今更捨てられない…それに―――。  美由生は首をゆっくりと左右に振った。  あきらめ顔で、しかしどこか優しく微笑んで。  美由生が胸に抱いたナイフ“Only One”。美由生が“ダブルオー”と呼ぶその刃―――そ の表にゴールドが、裏にはクレオが写って―――揺れていた。  まるで親しい友達を見るような襲撃者の顔にチョンチーは戸惑い、倒れたゴールドとクレオ との間でオロオロしていた。  三人はマンホールの蓋を開けて入ろうとした。そこでふと思い出したようにクレオはモン スターボールからキマワリを出した。  クレオは膝を地に付き、目の高さを合わせてキマワリを見つめ礼をした。  「太陽を見せてくれてありがとう。太陽なんて本当は存在しないと思っていたよ。」  この街の人間はみなそうだ。  「もういいからな…オレはもう充分だから、オマエは本当のご主人さまのところに戻りな。」  やさしく笑いかけた。自分がこんなふうに笑うことが出来るのだとクレオは内心驚いていた。  キマワリは首を傾げた。大きなハッパの手をクレオに指して頷く。  アナタ ガ ゴシュジン サマ  そして美由生とミロが先行したマンホール。都市の地下―――“闇”に降りるクレオに続こ うとする。  マンホールの入り口でクレオは太陽の花を抱きしめた。  「バカだよ、おまえは…。バカだよ、ポケモンは…。」  クレオは闇の入り口で太陽を強く抱きしめた。  そのふたりを老人のチョンチーがほのかに照らしていた。  月の鮮血は洗い流され―――やさしげなオレンジが温かく―――ふたりをつつんでいた。  主婦はナゾノクサの声で目を覚ました。  悲痛な叫びに神経がイライラとした。ベッドから降りてガウンを羽織る。ナゾノクサの姉妹 の元に行くと姉のナゾノクサが明り取りの窓から見えるボンヤリとした赤い月に向って必死に 叫んでいた。  街にはナゾノクサたちの声があちこちであがっていた。同じくイライラとした人間の「ウル サイぞっ!」という声も聞こえる。主婦もナゾノクサに向って言った。  「静かにしなさい!近所迷惑でしょうっ!!」  小さな声…しかし鋭利な鋭さを持った響きでナゾニクサを刺した。  しかしナゾノクサは叫ぶのを止めなかった。  主婦は腕を組み胸を反らしナゾノクサを見下すようにして言った。  「大人しくしないと親をやめるわよ。」  「逃がす」という言い方ではなく「親をやめる」という言い方は野生でないポケモンに言う 事を聞かせる最も手っ取り早い方法だった。それがポケモンたちにとってどれほど残酷な言葉 か考えもせず、都市では普通に使われていた。  「死になさい。」と言われるよりも残酷な言葉にナゾノクサの心は追い詰められた。妹は呼 吸が止まってしまうほど息を飲んで押し黙った。しかし、姉は黙らなかった。守るべき者が居 たからだ。  更なる大きな声で叫ぶナゾノクサに主婦は手を振り上げて何度も打ち付けた。姉はボロボロ にされて、でも月の光を受けて何度も立ち上がり叫んだ。  「おい…いい加減にしないか。」  聞きなれない声が背後からかけられた。首筋に鋭い痛みを覚えて凍りついた。いつの間にか 近付いていた闇色の瞳の少女に鋭いナイフを喉に突きつけられていた。その向こうにはフォー マルな服装を着崩した青年も居る。手には拳銃が握られている。声はその青年のものだった。 皮膚にわずかに沈んだナイフの切っ先に玉状の血が出て膨らみ、やがて重みに耐えかねて一粒 二粒と落ちる。ナイフよりも鋭い目が影から主婦をネットリと可笑しそうに見上げ、主婦を縫 い付けていた。切っ先はためらう事なく沈みゆく。主婦は叫んだ。  「私はどうなってもいいわ…。でも子供だけは…子供だけは助けてっ!!」  少女“美由生”の手が止まった。大きく目を見開いて驚き怯えるように震える。動けない美 由生と主婦の間に飛び込んでクレオが銃で主婦を殴りつけた。  「なんでだよっ!なんでなんだよっ!!!」  そこに子供たちが飛び込んできた。母である主婦にしがみ付く。主婦は子供たち抱きしめて 強盗から必死で守ろうとする。  歯を噛みしめてクレオ。しかし動けなかった。  「美由生っ!」  クレオの声に美由生の閃くナイフは―――。  ナゾノクサたちのクサリを断ち切った!  クレオと美由生がナゾノクサの姉妹を連れて外に出た時パトカーのサイレンが響いた。 「チッ」クレオが舌打ちする。ミロが守るマンホールまで少し距離があった。  「オイ、コラ。しっかりしがみついてろよ。」  クレオがナゾノクサの姉妹を見て言った。姉妹はうなづいた。  クレオと美由生は走った。サイレンがクレオたちを追いかけた。ふたりはミロが見張るマ ンホールに飛び込んだ。マンホールの底。チョンチーがうっすらと照らし出すオレンジ色の光 の中で三人はお互いの汚れた顔を見合わせ無事を笑った。  三人は下水道を使って他のナゾノクサたちも助け出した。クレオが先導し美由生がクサリを 断ち切り、退路をミロが確保する。急ごしらえのチームとは思えない程に息がピッタリと合っ ていた。  翌日  下水道の果てに三人とナゾノクサたちはやって来た。そこには地肌の露出した少し開けた場 所があり、高い天井から光が差し壁には自然の岩肌が露出してそこから清涼な水がとうとうと 流れ込み汚水を押し流していた。どこからか森の匂いのする風が流れ込み頬を優しく撫でる。 クレオが岩のひとつに手をかけて力を込めて引っ張る。ミロと美由生も力を貸すが全然動か ない。  「オイ、コラ。おまえらも手伝え。」  クレオがナゾノクサたちに言う。姉妹がうなづいてそれに従い、次いで他のナゾノクサた ちが、そしてキマワリもチョンチーも。  「せーっの!!」  ゴーン…。  音がして岩が動いた。そこに自然の洞窟が開いていた。風は森の匂いを洞窟の奥から運んで くる。  「さあ、行きなさい。」  やさしい声はミロのもの。クレオも美由生もうなづいてナゾノクサたちを見る。  「オイ、コラ。もう誰にも捕まるなよ。」  憎まれ口を叩きながら頭を撫でるクレオにナゾノクサは気持ちよさそうに目を細める。  ナゾノクサたちが去った後、三人はその場にクタクタとへたりこんだ。夜通し走り回り警察 と追いかけっこをしていたのだ。無理も無い事なのだろうか。そのままその場に倒れこみ眠っ てしまった。凍りつくような地下の闇の中で―――。  ナゾノクサたちは長い洞窟を抜けようとしていた。向こうに清浄な月の光が見え森のざわめ きが一行を歓迎していた。しかし―――。  ナゾノクサたちは闇を振り返った。そして―――。  「ん…っ。」  美由生が天井から差し込む光に手をがざした。輝きで見えない高い天井を見てここが下水道 の果てであることを思い出す。とんでもないところで眠っていた―――。と、ここで美由生は 自分の体があたたかくやわらかいものに夜の冷気から守られていたことを知る。  「おまえら……。」「あなたたち………。」  同じく目を覚ましたクレオとミロが驚きに声をあげる。  戻ってきてしまったナゾノクサたちが集まって身を寄せ三人を包み温めていたのだった。  クレオがナゾノクサの姉妹を抱き上げ笑いかける。  「オイ、コラ。しょうがないやつらだなァ。」  ヒャハハハハハ  クレイジーに笑う。そして言った。  「おまえらも強盗団“クズハ”のメンバーになるか?」  「ちょっと待った。」  ミロが止めた。美由生もうなづく。「なんだよ?」と問うクレオにミロが言った。  「“クズ”はねぇだろ。“クズ”は。“クスハ”にしようぜ。」    ここに強盗団“クスハ”が誕生した。  「じゃあ、あなたたちにも名前をつけなきゃ。」  美由生は姉妹を抱き上げ新しい名前で呼んだ。光が降り注ぎ床に円を描く広場のまんなかで。  「おねえちゃんが“ジャンヌ”でぇ。妹が“アンヌ”ぅ。」  語尾の母音を伸ばす甘ったるい声で美由生は言った。自分のネーミングセンスにご満悦の笑 みである。しかし姉妹は首を傾げた。  「あれぇ、気に入らなかったぁ?」  違うみたいである。向こうで「オイ、コラ。そっちは、あぶねぇぞ。」とナゾノクサたちを 引率しているクレオの声に反応して美由生の手から離れ、そっちへ向い―――………。  呼んだ?  とクレオを見て姉妹そろって小首を傾げる。  ……………。  美由生はしばし沈黙してからためしに呼んでみた。  「オイ…コラ…。」  ちいさい声でした。でも姉妹はすぐに反応し振り返って戻ってきて―――。  呼んだ?  と美由生を見上げて小首を傾げる。  美由生は理解した。クレオが姉妹に「オイ、コラ。」と連呼していたので姉妹は自分たちの 名前が“オイ”と“コラ”であるとインプットしたのだ。  「えっ?」じゃあ、女の子なのに、この子たち、名前、“オイ”と“コラ”になっちゃ うの!?女の子なのにっ。  美由生のコブシがフルフルと怒りに震える。  「クレオぉーーーーーーーーーっ!!」  美由生の声がこだまする。  都市の地下―――。下水道…闇の世界の果てに  降りそそぐ光の中で―――。  おしまい