ふうりんのうたうとき
著:小樽ミオ
ちりん、ちりりん。
夏の風物詩が、透き通った風の中に清らかな声で歌った。
薄青い空にかすかにたなびく白い雲、生い茂る深緑の手のひら。
太陽の歌を紡ぐセミたちの声、縁側でひなたぼっこをする猫。
ごくありふれた、太陽の照りつける夏の日の風景が広がっている。
ちりん、ちりりん。
風が吹くたびに、風鈴たちは自らの歌を思い思いに歌いだした。
緑の木々を背景にした真っ白な網戸だけを残して開け放たれた窓。
その窓辺で夏風に歌う風鈴たちを見つめながら、少年は背もたれのついた椅子に座って本を読んでいた。
その少年は自分の頭の後ろからひょいと本を覗き込んだチリーンに気づくと、そのチリーンの頬をそっと撫でてやった。
ちりん、ちりりん。
チリーンは、どんな風鈴にも負けないような透き通った玻璃色の声で歌いながら、大好きな主人に甘えてすり寄った。
◇ ◇ ◇ ― 『ふうりんのうたうとき』 ― ◇ ◇ ◇
夏風の中、たくさんの風鈴が窓辺で歌っています。
私はチリーン。春にも秋にも、そして冬ですらも、年中風鈴を聞くことが大好きなご主人様のもとで、いつも大切にされて暮らしています。
「チリーン。おはよう」
ご主人様は、自分が太陽よりも早起きの日でも眠そうに目をこすって起きてくる日でも、必ず笑顔で挨拶してくれます。
ご飯を食べるときも、本を読むときも、ゆっくり眠るときも、ご主人様はどんな時でもいつも一緒にいてくれます。
それから、毎日私を膝の上に乗せて、ほっぺたを撫でてくれるご主人様。
そんなとても優しいご主人様に大切にされている私は、ご主人様と一緒にいられること、それだけでしあわせを感じていました。
そうやって毎日のようにご主人様の温もりに包まれていた私は、不自由どころかたくさんのしあわせと一緒に、ご主人様のそばで暮らしていました。
――そんなある日のことでした。
「この風鈴、良いよね」
ご主人様は新しく買ってきたらしい風鈴を、窓枠に引っ掛けつつ呟きました。
私はその言葉に胸の高鳴りを覚えました。
ご主人様の視線は、完全にその風鈴に集中しています。いつもは私だけを見ていた視線が、今は違う。
その風鈴が、いつもは私だけを見てくれているご主人様の視線を奪っている。
そう考えるたびに、鼓動はどんどん高鳴ります。自分自身のことなのに、よく分からないおかしな感覚でした。
――そのとき私は、これが人間の言う“嫉妬”なのだと知りました。
「この色遣いとか、音とか。買ってよかったと思うんだ」
ご主人様はその風鈴の歌声に耳を済ませながら、独り言のようにまた呟きました。
私はその言葉に、もう一度窓際に掛けられたばかりの風鈴を見つめます。
その風鈴は、悔しいけれども確かに、ご主人様ご自身がその姿に惹かれて選んだだけのことはありました。
施された彩色はたった数本の線。それでもその彩色は、控えめながらも確かに煌いて自らを主張していました。
声は玻璃のように透き通った声で、この部屋に誰よりも清らかな声を響かせています。
――強く、自分を狂わせてしまいそうなくらいの、"嫉妬"を感じました。
ご主人様は、風鈴を窓枠にかけてからずっと、その風鈴を見ています。
「私ではダメですか」という疑問と嫉妬が、ご主人様と風鈴を交互に見つめる度にこみ上げてきます。
ご主人様、――私を、私だけを見つめてください――
ご主人様が綺麗な色遣いを欲するなら、美しい声を欲するなら、私はそれに応えますから、どうか――
私はようやく風鈴からご主人様が離れたところで、窓枠からそっと風鈴をはずし、部屋の鏡台へと向かいました。
私はその風鈴に描かれた色遣いを真似て、たどたどしい筆遣いで、一箇所の狂いも無いように出来るだけ繊細に、自分の顔にその風鈴と同じようなお化粧を施しました。
ご主人様は、その風鈴の姿や声がたまらなく気に入った、そう思ったのです。
お化粧だけではなく、その風鈴のような高く清らかな声で歌うことも、試してみました。
でも、ご主人様は私の方よりも、買ったばかりのその風鈴の方に目が行っているようなのです。
幾ら繊細なおめかしをしても、幾ら目一杯に出来る限りの清らかな声で歌っても、ダメでした。
何が私に足りなくて、どうして新しい風鈴の方ばかり見ているのか、気が気ではありません。
私の面倒は、いつも通りに見てくれます。楽しいお話もしてくれます。
でも話し終わってしまうと、気がついたら、ご主人様の目は窓辺で歌う風鈴に向いているのです。
急にご主人様が、私のことをあまり構ってくれなくなってしまったように感じました。
そして、今まで私のことを大切にしてくれていたご主人様が、急に違う人と遠い世界に離れていってしまったように思いました。
じゃあ、私は……? 独りぼっち、なの……?
私は、努力不足なのだと悟りました。
もっと綺麗なおめかしをして、もっと綺麗な声で歌って……
それに、私はあんな風鈴と違って、「風」が無くたって、歌える!
そう、あなたなんかよりも私の方がご主人様に相応しい風鈴です!
でも、ご主人様は私の意に反して、静かに仰ったのです。
「――なんか最近、お前らしくないよ。なんて言うか、無理してると思う」
私が死に物狂いでご主人様に相応しい風鈴になろうとしていたある時、ご主人様は悲しげな苦笑いをして、私の瞳を見つめながら仰いました。
ご主人様の瞳に映りこむ私、その小さな私の瞳に映りこむご主人様、その繰り返しの合わせ鏡。
今までとは比べ物にならないくらいに、鼓動の高鳴りが厭というほどに感じられました。瞳の鏡に映る私が、だんだん、ぼやけながら激しく揺れ動いて見えました。
どうして? 私はご主人様に、今まで通りにしてほしいだけなのに。
笑わせてあげたくて頑張ったのに。苦笑いなんて見たくなかったのに。
ご主人様が大好きで大好きで、仕方がないだけなのに。
そう思ったら、嫉妬どころではないたくさんの感情がこみ上げてきて、……
いつの間にか、自分の瞳から熱い雫が零れていくのを感じました。
――私は耐え切れずに、部屋を飛び出しました。
私は飛び込んだ部屋のベットで、嗚咽を漏らしました。
悲しいというのか、悔しいというのか、何と言えばよいのか分からない感情に駆り立てられて、私の瞳はただぽろぽろと涙をこぼし続けました。
何故ですか? 私は、こんなにも頑張っているのです。あなたに相応しい風鈴でいられるように、と。ただ、ご主人様と今までどおりに一緒にいたい一心で。
なのに、何もせずともご主人様に見つめられている風鈴が、憎らしくて、妬ましくて。
何故ですか、ご主人様。
ご主人様の傍にいたいだけなのに、どうして?
頭を駆け巡る、ご主人様の、笑顔、えがお、エガオ――
「……リ……ン……
……リーン……チリーン?」
誰かが私の名前を呼びながら、小さな私の体を揺り動かしました。
でも、私の名前を呼んだのも体を揺らしたのも、いつも私が体に浴びている、あの窓辺を吹き抜ける風ではありません。――ご主人様でした。
ご主人様の私を揺り起こす手と声とで、私は静かに目を覚ましたのでした。いつしか泣き疲れて、眠ってしまっていたようです。
ちりん。ご主人様の手に、私は弱弱しい調べを奏でました。
ああ、いつもと変わらない、あたたかくてやさしい手のひら。私はどうして独り眠ってしまっていたのかも忘れ、ただご主人様の手に撫でられていました。
けれどよく思いだしていくと、私は悔しくて、悲しくて涙を流したのでした。――ご主人様が、私の方を向いてくれないから。
そんな嫉妬のあまり、思わずご主人様にブスッとした態度をとってしまいました。間違っていることなのに。ご主人様はハハハと苦笑いをしています。
そんなどこか悲しげな笑顔に、とっさにいつもの私に帰るや否や申し訳ない気持ちで胸が締め付けられて、言葉もなく頭を垂れました。
どうやらご主人様は私が突然涙を零しながら部屋を飛び出したのを見て、しばらく私をそっと眠らせておいてくれたようでした。
見れば時計の針は傾いていて、もう昼下がりの時間を過ぎていました。夏の暑さも私のほとぼりも、少し落ち付いたようです。
「いったい、どうしたんだい? この頃お前が普段とは変で、いつも心配してるんだ。さっきも泣いて部屋を飛び出したし……」
ご主人様は、その手のひらで私のほっぺたを撫でながら言いました。
そこにいたのは、私のことを心配してくれるいつものご主人様。普段と何も変わらないご主人様が、戻ってきてくれたのです。
苦しくて、苦しくて。ご主人様のいない世界なんて、考えられません。私は胸の締め付けを緩めるように、今まで無意識のうちに感じていた嫉妬心を素直に打ち明けました。
快く思わない顔をされることも覚悟していました。けれどご主人様は、黙って私を胸元に抱いてくれました。
――ああ、久しぶりのあたたかさ。いつもそばにあったはずなのに。私はそのぬくもりを、ずっと感じていました。
「なんだかお前らしくないと思ってたんだよ。でも、嫉妬してたなんて気付かなかったんだよ。ごめん、本当に」
ご主人様は私を両手に抱きかかえると目の前へと浮かばせて、頭を下げました。
ご主人様は何も悪くないのに。そんな罪悪感と、自分のことを気付いてもらえた喜びがない交ぜになって、いつの間にかまた雫が零れてゆきました。
左のほっぺたにやわらかな手のひらを感じました。ご主人様は私のほっぺたをやさしく撫でると、「大事なことだから、聞いてほしい」と囁きました。
いつになく真剣な顔をしているご主人様に、溢れ出る涙をぬぐって、私も真剣な面持ちでご主人様の瞳を見据えます。
「あの風鈴に負けたくなくて、……誰よりもボクのことを思って、あの風鈴のような色を真似して塗ったり、無理して声を真似たりたりしたんだろう?」
何から何まで全て図星。やはり私のご主人様は、私のことを全て見抜いていました。それくらい、ご主人様はやっぱり私のことを分かってくれていたのです。
私は恥ずかしさと悔しさ、情けなさと申し訳なさ、沢山の感情に打たれて、必死に唇をかみ締め、震える身体でコクリと頷きました。
笑ってもいない、怒ってもいない、ただ私だけを見据えるご主人様の視線に、私の弱弱しい体は今にもちぎれてしまいそうでした。
「確かに、ボクはあの風鈴の色遣いも音色も好きで、だからあの風鈴を眺めてたし、耳を澄ませてた。
でもいつだって、そばにいてくれるお前のことを忘れたことなんて無かったよ。可愛い笑顔を見せてくれるお前の代わりなんて、ありはしないから。
誰もお前の代わりにはなれっこない。だからボクは、無理せずに飾らないお前が、一番『お前らしい』と思うんだ」
ご主人様が片時も私を忘れていなかったということが分かって、全身の力が抜けていくような思いでした。けれど直後、もうひとつのことに体が強張りました。
「お前らしい」。私らしいって、何?
無理をしないで、飾らないで、自分の持っているものをありのままにさらけ出す。それが、「私らしい」?
私は今までのことをゆっくりと思い浮かべる。私があの風鈴のように振舞ったのは、自分が自分らしさに気付いていなかったから、そういうことなのですか?
その時になってやっと分かったのです、ご主人様は「急に人が変わって、違う世界に行ってしまった」ようになどなっていなかった、と。
そしてそんな風になって、大切な人の前から離れて行ってしまっていたのは、ほかでもない、私自身でした。
ご主人様は、私がご主人様の知らないところで焦燥に身を焦がしていた間にも、いつも私のことを大切な存在として見つめてくれていたのです。
私にとっても、ご主人様は大切な唯一の存在でした。だからこそ、私は気付かないうちに「私」を棄ててまで、ご主人様から離れないようにもがいていたのでした。
けれどそうやって近くにいようと無理してもがけばもがくほど、私の想いとは裏腹に、ご主人様から離れてしまっていた。
そのことにようやく気付いたその時、私はその事実にずたずたに打ちひしがれて、自分でも情けないくらいに止めどない涙をボロボロと零しました。
悔しさや悲しさというより、そんな負の連鎖の中でもがいていた私があまりに情けなくて、情けなくて仕方がなくて。
けれどご主人様は、そんな私でさえもやさしく包み込んでくれたのです。
ご主人様は私の瞳から零れ落ちたたくさんの涙をぬぐうと、またその手のひらで私を撫でてくれました。
もう、どうやって感謝の気持ちを述べたらいいのか分からなくて、私はどうすることもできません。
とにかく、この涙をぬぐってくれる手があるのだからもう泣いてはいけない、と思い、私はもう一度涙をぬぐってご主人様に向かってにっこりと笑ってみました。
ご主人様も、とびきりの笑顔で、私を見つめてくれています。――他に、何を望めというのでしょう。十分すぎるくらいです。
「なあ、風鈴って、風がないと歌うことはできないだろう? 風という助けがあってはじめて音を響かせられて、風鈴という自分の良さを知ってもらえる。
ボクたち人間だって、それと同じことさ。誰かの助けがあってこそ、初めて自分の個性を生かせるんだ」
ご主人様はぬぐった私の瞳を見つめて、そう囁きました。
私が私の歌を歌えるのは、ご主人様の言う「風」のおかげ。
なら、私の風はだれ? ――それは紛れも無く、私の、大切なご主人様。ご主人様のおかげで、私は私の歌を歌える。
「私は普通の風鈴とは違う、私はチリーン。だから私は風なんて無くたって、私の歌を歌える」――今までずっとそう思っていたことは、とんだ思い違いでした。
「だから、これからもボクの傍でずっと、ずっと、歌っていてくれないか?
――飾らないお前が、ボクは一番好きだ」
ちりん、ちりりん。
窓辺に、別の風鈴が歌声を紡ぎました。私が、口にしきれないたくさんの想いを胸の中に感じているうちに。
ご主人様に伝えたいことは数え切れないくらいたくさんありましたが、それは全て私の心にとどめておくことにして、私はとびきりの笑顔を咲かせながら、ご主人様のあたたかな腕の中に飛び込むだけにしました。
たくさんの想いは、言葉にしてご主人様に伝えるにはどうしても恥ずかしかったのです。なにより、口にしなくても、きっと通じ合っているでしょうから。
ちりん、ちりりん。
私は窓辺に歌う風鈴に負けないように、けれど今度は確かに自分だけの歌を、たくさんの愛と誇らしさをこめて歌いました。
――ご主人様。これからも、「ご主人様」という風に包まれて、歌い続けても構いませんか?
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