まるで迷路のように描かれた街。その街を突き抜ける蒼き水の運河を、風のように飛翔する影があった。 青と赤のその飛翔体は突如として透明化すると同時に低空を滑空したかと思うと、水面とその上のゴンドラを揺らし、それを楽しむかのようにまた街を一望できる上空へと舞い上がる。 そしてまた上空に、青と赤が広がった。それらが放つ笑い声を帯びて。 神とは常に崇められ、畏れられる存在であり、人々は決してそのそばに自らの身などを置こうとはしなかった。 だが、この島では違った。この島の神は、常に人々のそばに寄り添って、この地を幸せで包んでいた。 ◇   ◇   ◇   ― 『真実と水の都の護神』 ―   ◇   ◇   ◇ 心地よい涼風とわずかな漣だけが立つ穏やかな運河、明るい音楽に美しい聖堂、そして迷路のような町並みのあるこの街。 ――“終わり無き海”、アルトマーレ。 その上空には、優しい護神が居た。 そう、いつでも、どんな時でも、街を見守れるように。 「ねえお兄ちゃん、遊びましょ。今日も例のヤツで。」 「そうだな。じゃあラティアス、いつもの頼んだぞ。」 ――アルトマーレの神は、街の子供と同じように無邪気だった。 心優しき者に、その人の望むものを見せて回る。それが神の遊びだった。 しかし、心悪しき者の前に、その姿を現す事は無い。 ラティアスは、人気の少ない港の端に羽を休めた。そして小さく深呼吸すると、ひとりの少女へと変化した。 それに続きラティオスもラティアスのそばへと舞い降りてきて、少年の姿へと変化した。 「じゃあお兄ちゃん、広場で誰か見つけてくるから、お兄ちゃんはいつもの場所に居てね!」 「分かった、ラティアス。」 そう言うと、“二人”に変化した“二匹”は、それぞれ別の方向へと走っていった。 程なくして、ラティアス、もとい“ラティアスの変化した少女”は茶色がかったセミロングヘアーを軽く涼風になびかせ、大聖堂前の広場を歩いていた。 広場には大きな二本の石柱があり、天へと向かう柱の上ではそれぞれラティアスとラティオスの像が向かい合っていた。 あれが自分達、そしてその内の一人がこうして何食わぬ顔で街を歩いているんだと思うと、彼女の顔からは思わず笑みがこぼれた。 ふと柱のたもとに目をやると、柱に寄りかかりながら何か意味深げに考え込んでいる少年が居た。 龍神の彫刻と一体となった石柱があるこの広場で、少年はどの人間よりも最も鮮やかに少女の目に留まった。 「(この子なら、私達の遊び相手にピッタリだわ。)」 こっそり近づくように歩を進め、少年が背にしている柱の裏側まで来ると、ラティアスはその少年の顔を少年の視線の真正面から覗き込んだ。視界外からの思わぬ出現に、少年は思わず声も無くのけぞる。それでもラティアスは何も言わずに、追撃をかけるかのようにその少年の顔を覗き込む。 突如、顔を覗き込まれた人が驚く。今日の人も、それを含めてラティアスにとってはいつも通り。 ――いや、違った。 「(この子、なにか凄く疑問に感じてる……久し振りだわ、感じ取れるほどのオーラ!)」 何か、少年の放つものをラティアスは感じ取っていた。満ち溢れた疑問を感じられる、それだけがいつもと違っていた。 赤羽の少女が驚きの念を感じた一瞬の後、その少女は少年の手を引いて、突如として広すぎる広場を走り始めた。 走り始めたと認識すると同時に足並みがどんどん早くなっていく。少女の靴が、固い床を打って軽やかな音を響かせる。 少年は、無理矢理なラティアスに引かれるままに駆け出すしかなかった。 街は、果てしなく広かった。 何処に行っても、街並み、路地、運河。 少年は神であるはずの少女に連れられ、細々としてひとつ通りを間違えれば元には戻れないような迷路路地を次々と駆け抜けていった。 果てが無いかのように思われた路地も、とうとう行き止まりを迎えた。両側にはタイルで飾られた家々の壁が並び、路地の果てには背の低く黒い金属のフェンスが立っていて、その向こうには海を臨むことができる。 少年は、半ば呆れ顔で少女に問いかけた。 「キミ、誰? それに僕をこんな所に連れてきて、何の用?」 その言葉に少女姿のラティアスは柔らかな笑みを浮かべると、頬を人差し指で数度叩いて静かに目を閉じた。 すると少女の体は、みるみる内に淡く青い光で包まれていった。やがてその光が消えると、そこに少女の姿は無く、代わりにラティアスが居た。 少年はしばらくぼんやりとラティアスを眺めていたが、突然ハッとすると、また声も無くのけぞった。 突如として光とともに姿を変えた少女。そしてその少女の居場所にある姿は、彼の知っているこの島の神のものである。 と、少年の肩に何かが触れた。あわてた少年が振り返ると、そこにはいつ変身したのだろう、元の姿のラティオスが居た。 この島の神が自分のそばにいる。少年は、とうとううろたえてしまった。 「い、一体どうなってるの……!?」 驚きのあまり少年は視点を一転に定めることすら出来ず、赤と青に交互に目を移す。 その少年の言葉に、ラティアスはクスリと笑うと人間にも分かる言葉で話し始めた。 「驚かせてゴメンなさい。ご存知、アルトマーレのラティアスと、」 「ラティオスだ。宜しくな。」 少年にとってはお馴染みの神様。しかし、当然その姿を直接目にしたことはない。その姿がここにあることの意味を、少年は未だに飲み込めなかった。それに、彼の驚愕はそれだけではなかった。 「わっ、喋った!! そ、それに、何でここに……!?」 「私達だって喋るわよ。私達は、君に、君の好きなモノを見せてあげようと思って君を連れてきたの。」 「君が望むモノを、何かひとつ見せてあげようと思うんだ。さあ、何を望む?」 ラティアスは見るからに呆れたと言わんばかりの表情を浮かべて返答した。 ラティオスも間髪入れずにラティアスの言葉に続ける。 いきなりの質問に、少年は考え込んだ。 が、そう時間もかからずに答えた。 「――僕は、真実が見たいんだ。」 ほう、とでも言いたげな表情を浮かべ、ラティオスは不思議がった。 「真実とは、なかなか面白いものを望むな。なぜ、真実を見たいと思うんだ?」 少年は、ラティオスの疑問を振り払うような、非常に明確な理由を述べた。 「この世界は、嘘ばかり。  どれが本当でどれが偽りなのかだって分からないから……」 嘘ばかり。分かっているのね。 嘘が人を裏切り、嘘が嘘すら裏切る。嘘の連鎖は止まらない。 真実は、いつも向こうに隠されたまま。 その話を聞いたラティアスは興味深そうな笑みを浮かべて即答した。 「いいわ。じゃあ、君の知りたい『真実』を見せてあげるわ。」 前触れなく、ラティアスの瞳がゆっくりと透き通った青に染まっていく。その路地裏も、青に染まっていった。 と、不意に景色が変わる。ここでは見慣れない、大きな海と緑の森林が共存する美しい風景だった。 その風景はまるで空の上から見ているかのようだった。 美しい。なんて美しいんだ。 島から出たことのない少年が見ているのは、いつもの運河や果てしない海、迷路のような町並みや昼下がりのカフェテリアでも、この島の誇る大聖堂でもない。ただその場所には緑だけが広がっていて、空へと伸びるそれが整然と生い茂っている。思わず、溜め息が漏れた。 その緑の彼方、海の方向に視点が持ち上がった。ただ青く広い海の更に彼方に、空と海との境界線が横一線に広がっている。 「“ゆめうつし”。このワザで、私の友達が見ている光景を、自分が見ている光景のように見る事が出来るの。  世界には、こういう美しい景色もあるわ。生物が生きていくこの美しい世界を、私たちは未来に残していく必要がある。それは、分かるわよね。」 その景色が消えると、次はラティオスの瞳が青く染まっていった。 やがて見えてきたのは、別の景色が現れた。 その景色は、先程の景色とは打って変わってかなり荒れ果てていた。赤茶色をした大地がむき出しで、石や岩が散乱しているように見える。 その中に、人間と機械の居並ぶふたつのグループがいがみ合うように対面していた。対面といってもその光景はあくまで俯瞰上の話であり、実際に対面していても相手が点になってやっと見える程度の距離である。 「よく見てて。」とラティアスが言う。 その言葉の直後、左端から一人の男が、何かに恐怖するかのような形相を呈し何か叫びながら走り出した。それは“走り出した”というよりも寧ろ“逃げ出した”というのが適当だった。 直後、視界に真っ赤な閃光がほとばしった。少年はその閃光に思わず目を伏せたが、これは“ゆめうつし”の世界、少年には何も起こりはしなかった。 「な、何があったの……?」 目を焼くような光景に、少年は怯えながら聞いた。 「そこに、爆弾が落ちたの。――この景色は、『戦争』の景色。  平和なこの島では、こんなことはないわ。でもあなたの知らない世界の何処かでは、こういうことが確かに起きている。」 少年は生まれて初めて、戦争というものを目の当たりにした。 両サイドから銃を撃ち合い、撃たれた者は血を流し、うめきながら倒れていく。 車のようなもの――平和な島に住む少年はそれが“戦車”という物であることすら知らない――に取り付けられた砲台が紅蓮の火を噴いた。その延長戦で凄まじき業火が燃え上がると同時に、人間が塵かなにかのように空を舞う。 真紅の血は、留まる事を知らず地に降り注ぐ。 ――何故、こんな争いをするの? ――何故、こんな残酷な事をするの? 見たこともない光景。少年にとって意味の分からない行動により、何故こんなことをするのかも分からないうちに“ゆめうつし”の世界で人が死ぬ。 ラティアスは、少年の表情が悲しみに溢れていることに感づき、慌ててその景色を消した。 悲しい表情の後、少年は、何かを深く考え込んでいるようだった。ラティアスは、少年に言った。 「コトバで分かり合うことが出来ない時……人もポケモンも、武力で争ってしまう事があるの。  ――悲しいけど、これも真実なの。」 ラティアスの悲しげな声に、少年はポツリと呟いた。 「美しい世界がある一方で……こうやって、残酷なことが起きている。  ――この真実を変えるには、どうすれば……? この真実を変えなきゃ、世界が苦しんでしまう……」 少年は問いかけた。 「……じゃあ、身近な所に、その答えを教えてあげる。」 三度目、ラティアスの力によって、また『ゆめうつし』の世界に入った。 今度の世界は、暗い世界であった。瞳が投影する世界の中の小さな光だけが、その景色を探る頼りであった。 「暗い……ここ、地下?」 「そうよ。ほら、見て。」 ラティアスが指す方向には、数匹のゴーリキーとカイリキーが、その数では明らかに人手不足過ぎる大量の荷物を運ばされていた。その重労働に彼らの顔が苦痛にゆがむ。 と、あるゴーリキーが、その重さに耐え切れずに手を離してしまった。同時に荷物はドスンと床に落ち、荷物を持っていた彼はバランスを崩し、荷物もろとも床に倒れこんでしまった。茶色のダンボールが激しい音を立てて散乱する。 その時だった。部屋の片隅に居た男が、鞭を振り上げて、目一杯彼らを叩く。 音は、聞こえない。ただその鞭は明らかに飄々と空を切り、激しく肌を打って跳ね返る。そしてその鞭はまた振り上げられ―― 「ねえ……なんであのゴーリキーとカイリキー達、叩かれなきゃいけないの?  『痛いんじゃないのかな』、とか……『可哀そうじゃないのかな』、そう思わないのかな、あの人間……」 少年の落ち込んだ言葉に、ラティオスは言う。 「“ゆめうつし”は音を伝える事は出来ない。ただ一つ言える事は、この黒い服の奴らは、ポケモンをただの道具としか思っていないんだ。  作業しているポケモンに失敗されれば、作業を指示しているほうにとっては効率が悪くなって困る。だから、罰を与えるんだ。――ポケモンも人間も、失敗する生き物なのに。  やがてああいう暴力を受けたポケモンは、心を閉ざし、凶暴化して、最後は人間を襲う。人間を襲うから、人間は彼らに反撃する。そして反撃に対してまた反撃して、……恐ろしい悪循環とは思わないか?」 少年は、またも考え込んでいる。 今度は、先程よりもずっと深刻な表情で。 「人間って……こんなにも……こんなにも、意味のないことを、おかしいことをしているの……?」 「そう思うでしょ? でも、私の知っている、私の大好きな人間たちはそんなに愚かではないわ。」 悲しい表情で問いかける少年とは対照的に、ラティアスはなにやら明るい笑顔を浮かべている。その真意は、その言葉の続きにあった。 彼は相槌を打つように頷き、ラティアスはそれに呼応するようにこう続けた。 「最後にあなたに見てほしいのは、これよ。」 その言葉が聞こえると同時に目の前に広がったのは、どこかの大地のようだった。 森があり、広い草原がある。上空から見下ろすその場所には、美しい色彩が広がっていた。その色彩の中に、ごく小さく点のように映るものがあった。 次第に視界は空から大地へと近づき、その点の正体がはっきりしてきた。 それは、ポケモントレーナーとそのパートナーだった。よく見れば、向かい合うようにしてもうひとつトレーナーとパートナーのグループがある。 片側では満面の笑みが咲き、もう片側では悔しげな、しかしながら満足げな表情が浮かんでいる。 「“ポケモンバトル”。人間とポケモンが互いを高めあう、擬似的な戦闘よ。」 「知っているだろう? 人間とポケモンが互いをパートナーとするんだ。  そしてそのパートナー同士は、それぞれ戦術やワザを体得する。そして培った実力を、同じようにしてきた他の“トレーナー”とぶつけあうんだ。  当然勝てば嬉しいだろうし、負ければ悔しい。だから、もっと強くなりたいと思うんだ。」 青色の神は、そこで言葉を切ると空を見詰めた。 偶然にも、左右にはだかる壁の上空にとりポケモンが二匹舞っているのが見えた。交差するように軌道を描いて飛行する彼らもバトルの最中なのだろうか。 「強くなるためには、実力だけじゃない、パートナー同士強い信頼と絆がなければならないんだ。  彼らはトレーニングや戦闘を通して、互いに喜び、互いに悲しみ、時には互いに喧嘩もする。そういう風に共に経験をすること、気持ちを共有することを通して、強くなるんだ。」 ラティオスは笑顔を浮かべて言った。この島の人間の多くもそうして強くなっていることを知っているから。 少年は知らなかった。身近で度々見かける“ポケモンバトル”の意義を。しかし彼は今しがた、その戦いの意義のひとつを知ったのだ。 明るさを帯びた、興味深げな表情。少年のその表情を見て、青色の神は微笑んだ。 「――さあ、これが『アルトマーレの神』の見せた、真実のひとかけらよ。これを見たら、君は今何をしなければいけないか、分かったでしょ?」 ――少年は迷わなかった。 「――僕、ポケモンを助けたい。一緒に、あのトレーナーみたいに楽しく過ごしたい。  ――苦しんでいるポケモンを助けるにも色々方法があると思うけど……ポケモンの気持ちが分からないうちは、『助ける』なんて息巻いても何もならないよ。  だから、まずはポケモンと友達になるよ。  ――そう、ポケモントレーナーになるんだ! 僕!!」 少年の決意に、神々は微笑んだ。 「急いで決める事は無いさ。また一週間したら、僕らは君に会いに行こう。」 「覚えておいてね、その気持ち。私たちは、嘘偽りなんて言ってないし、見せてもいないから……」 ラティアスとラティオスは地面から数メートルほど浮遊すると、次第に透明になり、青い空の色に混じって消えた。 その向こうだけには、いつも通りのただ青く広い虚空が残された。 「もう、迷ってないよ。僕は、真実を追うから……」 少年は、神々の残した赤と青の羽根を拾い上げ、ポケットに仕舞い込んだ。 空を見上げた少年は、ふと思った。 ――何だか、いつも通りのはずの空がさっきと違って見える、と。 神々の気まぐれな遊びが、類稀なるポケモントレーナーを生んだのは、この瞬間だった。 勿論、まだ誰もそんな事を知る由は無かった――