とある港の、防波堤で。 満天に煌く星達の中で一際輝く月明かりは、色気ないコンクリートや漆黒の大海原を幻想的に照らしていて、 月光揺らぐ海面を這うように進んでくる静かな潮風は俺の体をなでつつ、穏やかに陸地へと流れ込んでいる。 俺はこの景色をどこまでも見渡して、思った事をそのまま声に出した。 「夢のようだ」   ― flight ― 俺がピジョットのクウに乗って旅を始めたのが20年前で、 初めて空を飛んだ時の俺の感想は、空はとてつもなく寒い、だった。 目的地に着くなり俺は防寒服を買い込んで、それからの旅でも事あるごとにいろんなものを買った。 そして、旅をするにはかなりの物が必要なのだと知り、同時に俺がとても無茶なことをしているとも知った。 それでも俺は旅を続けた。 いろんな所を見てまわったり、今のようにとんでもない絶景を見たりするのは感動したし、 故郷で平凡に暮らしている時とは違い命の危険もあったが、俺がクウを助けたり、クウに助けられたり、 そんな命の共有みたいなものが俺には何より楽くて、クウもそう感じてくれているようだった。 幸せの時間はどこまでも続くように思えた。 ゴーグルを装着し、違和感のないしっくりくるポイントへと微調整する。 「……うん、これでよし。いよいよだな」 俺はいつもと全く同じ、決まりきった手順で防寒服を着込んだ。 何かおかしな所はないか、買い忘れたものはないか、服装と荷物の確認をしつつ、ふと考える。 随分と慣れたものだ。 最初は何がなんだかわからず、この防寒服を着るのにさえ結構時間がかかったが、 もう20年もやってるんだ。慣れて当然、慣れないほうがおかしいか。 むしろ結構な上達っぷりを俺の体は見せている。達人級と言ってもいいんじゃないだろうか。 防寒服早着大会なんかあったらベスト3は確実だろう。 そんなもん無いと思うが。あっても困る。 なんてどうでもいいことを考えながら確認作業を終えた俺は、 あらゆるものを詰め込んでパンパンになったリュックサックを背負い、 横で黙って待っていたピジョット――クウへと振り向く。 「クウ、目的地はわかってるよな。  予報によるとそれほど天候に心配はないはずだが、何度も言うが、気をつけて行く――?」 クウはこちらに顔を向けて話を聞いて、……ないなこいつ。 やや俯いているクウの視線が俺の胸元を通り越して、後ろにある海を潜り海底へと突き刺さっている。 全く焦点が合っていない。 心ここに在らずってのはまさに今のこいつのような状態のことを言うんだろうな。 わかりやすいヤツだ。やれやれ。 俺はクウの不可視ビームみたいな視線を遮るように手を振る。 「おい、見えてるか? 聞こえてるのか? 生きてるのか?」 そう言った途端クウはハッと目を見開き、俺がクウの顔を覗き込んでいるのに気づいてあたふたし始めた。 「ピピピピピッピピピピ」 動揺しすぎだ。どこのピッピだお前は。 「落ち着け。お前な、いよいよって時にそんなんじゃ困る」 「ピ、ピジョォ……」 項垂れるクウ。 平均的なピジョットと比べてやたらとクウはでかいのだが、そんなポーズされるといつも以上に小さく見える。 「んで? 今ボ〜っとしてたのは何か考えてたからじゃないのかね? んん?」 「ピジョッ! ピ、ピ」 どうやら図星らしい。 またもやあたふたじたばた動揺し始めたクウだが、俺のS的好奇心が今度は止めるなと仰る。 その言葉に従い、俺はさらに畳み掛けることにした。 「考えてたことってのは、もしかして今回のフライトに関してのことかな?」 「ピジョォッ……!」 これも図星か。てことは。 俺の顔は多分悪戯小僧のような笑みを表しているに違いない。 「最後だからなぁ、イヤなんだろう?」 「ピピピピピピピッピ」 やっぱりな。ハァーと俺は大きなため息を吐いた。 ……一週間前か。 しかし、終わりというのは誰にでも必ずやってくる。 時間をそんなに遡る必要はない。それは一週間前のことだった。 早朝、いつものように支度を終えた俺はクウの背に乗り、いざ空へ飛び出そうとしていた時のことである。 クウが羽ばたき、その振動を感じながら俺とクウは空へと舞い上がる、はずだったのだが。 俺は違和感を覚えた。おかしい、何かいつもと違うような……。 それはすぐに分かった。違和感の元はクウにあった。 飛ぶのに時間がかかりすぎだ。いつもなら既に結構な高さまで飛んでいるはずだが、どうしたんだ。 そう言おうとした俺の言葉は遮られた。体が急に重くなったと思ったら、そこはもう空で、クウはいつも通り飛んでいる。 ……何だったんだ?  羽ばたくクウをためつすがめつするが、何も変な所は見られない。俺の感覚がおかしかったのか? どうでもいいわけではなかったが、力強く空を進むクウを見ていると心配する気持ちが段々薄れてきて、 俺はクウに何も聞かなかった。杞憂だと、判断した。 この判断は、完全に誤りだった。 飛んでから結構な時間が経ち、そろそろ目的地に着く頃かと考えていた時である。 俺は前方に巨大な雲を発見し、その雲の下が霞んでいるのを見て呟いた。 「雨か」 距離はまだあるが、早いとこ高度を上げておいた方がよさそうだ。 「クウ、見えてるな。今のうち上行くぞ」 言って、少し待っていたがなんの反応もない。 「? クウ、どうしたんだ? ……おい、クウ」 胸の奥に針が刺さるような感覚を覚える。 俺はクウの顔を覗き込み、そこに苦悶の表情をする相棒を見た。 「おい! どうした? 気分悪いのか? 返事しろ、クウ!」 とにかく俺は焦った。この旅で一番焦った。 何しろここは海のど真ん中で休めるような所はなく、しかも前方には雨。 一番近くの陸地は、雨の向こう側にある目的地しかない。雲の上を飛べそうにもない。 リュックサックから傷薬やら毒消し等、あらゆる治療アイテムを使ってみるが、全く効果なし。 クウ意外にポケモンは持っていない。どうすればいいんだ。 「くそっ、おい! 目的地まで持つか!?とにかくそこまで持ってくれ!頼む!」 今こうして飛んでいるのも不思議だと思うくらいに、クウの表情は苦で満ちている。 畜生、なんで気づかなかったんだ。朝飛び立つ時も変だったが、その時気づいていれば。声を掛けていれば。 自分の無力さが忌々しい。こんな時に俺は後悔しか出来ないのか。 雨雲はもうすぐそこだ。俺はリュックサックから折り畳み傘を取り出した。体や衣服が濡れて重くなったらヤバイ。 傘をさすとほぼ同時に俺とクウは雨の壁へと突っ込んだ。 不幸中の幸いなのか、クウはなんとか目的地まで飛び続けてくれた。 着くなり力尽きたように倒れたクウを俺はボールへと戻し、全速力でポケモンセンターへと向かった。 老い、だったらしい。 20年も飛び続け、無茶もいろいろやってきた体はもうボロボロだった事をジョーイさんから聞かされた。 それも全く気づかなかった。確かに見た目は前と比べれば変わっていたが……、我慢してたのか。アイツ。 翌日、一晩考えた俺はクウに、次のフライトが最後だと告げた。 で、今日がその最後である。 「しょうがないだろう?お前の体力は限界だし、俺もそろそろキツくなってきた。  このまま旅を続けて、俺達が無事でいられる保証はない。潮時だ」 「ピジョォォ」 またもやがっくり項垂れるクウ。 若い時にはこの旅に命を賭けてもいいとさえ思っていたが、考えというのは変わるもので、今はもうそんな事思わない。 死んでもクウと一緒にいられるかなんて分からない。 いつかは別れるのかもしれない。だが、それはまだ先でいい。 「そういう事だ。このフライトだって本当はやりたくなかったんだが、  お前はやると言って聞きそうにないからなぁ。これでも譲歩したんだ。わかってくれ」 「…………」 ついに何も言わなくなったクウだが、俺は気にせず、さっさとクウの背中に乗った。 クウのでかい背中。おかげで背に乗って飛行するのも不自由はない。 「ほれ。さぁ、行くぞ」 落ち込むクウを軽く叩くと観念したのか、大きく、勢いはやや弱く羽を広げた。 羽ばたき始めるクウの背を見ながら、俺は思った。 俺だって嫌だよ。この背中に乗るのが最後だと思うとな。 やはり時間がかかった離陸からしばらく経った頃。 俺はクウの背中に合わせるように、リュックサックを腹に抱え、落ちないよううまくバランスをとりつつ寝転がっている。 クウの様子なら数十分ごとにチェックしているが、今だ問題はなく無事飛び続けてくれている。 一応何かあったときのために、空路は陸地のそばを通るようにしてあるが。 夜空にぼんやりと浮かぶ月をなんとなく眺めていると、自然と脳が思考を始めた。 飛行中にクウから落ちたことなら何回かある。 その度、クウは素早く俺の下へ回り込んで助けてくれた。 しかし、今回はそうはいかないかもしれないのに、何故俺は落ち着いていられるのだろう。 一週間前にあれほどの大ピンチがあったにもかかわらず、 こうしてクウの背中に寝転がっていて、しかも安心感まで覚えているのは、 俺が強心臓だからか、単に馬鹿で鈍感だからか、それとも20年培ってきたクウへの信頼なのか。 ……信頼か。そういえば、ホウエン地方だったかな、最後にクウから落ちたのは。 あの時も本気で危なかったな。今思い出すだけでも肝を冷やすと言うか、本当に三途の川を渡りかけた。 それからカントー地方の時も―― 一旦回想を始めると、次から次へと走馬灯のように思い出が脳裏に浮かんでくる。 その有り余る思い出が、まるで溢れ出すように、俺は口を開いた。 「クウ」 「ピジョッ」 すぐ返事が返ってきた。特に問題は無さそうだな。 「……いろいろあったよなぁ。20年前、お前がピジョットに進化して、 同じ時期にたまたま貰った秘伝マシンでそらをとぶを覚えて。 運命だと思った。世界を見て回りたいってのは夢だったからな。 その夢を掴むチャンスだと思ったら興奮して、夜中、誰にも見つからないように家を飛び出して、 何の準備も無しに勢いだけで空飛んでな。無知で無茶で無謀だった。 それでも今こうして元気でいられるのはクウ、お前のおかげだ。 お前以外の鳥ポケモンならいっぱいいるし、お前じゃなくても空は飛べたかもしれない。 だが、そんなことはどうでもいいんだ。お前だから良かったんだ。お前だから楽しかった。だから――」 そこで俺は言葉を切った。 月が消えた。いや、違う。消えたんじゃない。 いつの間にか雲が空を覆いつくしていた。しまった、と思ったらもう雨が降ってきた。 「うわっ、オイオイ勘弁してくれよ」 言いながら俺は折り畳み傘を取り出しつつ、クウに指示を出す。 「クウ、降りよう。このまま飛び続けるのは危ない」 ……反応がない。まさか。やっぱり無理だったのか? 急いでクウの表情を窺う。 「クウ!大丈夫か!? ……?」 クウの顔に感情は浮かんでいなかった。苦しんでいるようには見えない。 なのに何故何も言わない、反応しない。 「おい、我慢ならするなよ。お前は十分飛んでくれた。降りよう、もういいから」 やはり反応なし。無視しているのか? 俺の声が聞こえてないのか? そう思い、でかい声で叫ぼうとして、 「んなっ!!?」 俺はクウから落ちかけた。 俺がバランスを崩したわけではなく、いきなりクウが急上昇を始めたからである。 なんだなんだなんなんだ。何でいきなり急上昇するんだこいつは。 クウは衰えたんじゃなかったのか? それにしちゃ力強すぎないか? ボケたのか? 混乱する俺を置いてけぼりにするように、クウはもの凄い勢いで上へと昇り続ける。 俺は必死にしがみつくことしかできない。 雨をはじき雲を突き破りあっという間に雲の上へと飛び出したところでこれまたいきなり急停止した。 「うおっ! ……ハァ、ハァ。おい! 何なんだ!」 クウは俺の手を振り解き、少し進んだところで止まり、振り向いた。 ――? ……? アレ? 俺の手を振り解き? おれのてをふりほどき? オレノテヲフリホドキ? 落ちる――! 「うわああああああああああ!!…………んん?」 落ちてない。落ちない。どういうことだ。 パニック状態でうまく頭が回らないが、とにかく状況を確認する。 えーと、いきなりクウが急上昇して雲の上へと飛び出し急停止し俺の手を振り 解き少し進んで止まり振り向いて俺を見ていてその俺は原因不明の浮遊状態にある。確認終了。 全っ然わからん。 展開についていけない俺が呆然としていると、クウが近寄ってきて、俺に片方の羽を差し伸べてきた。 何なんだろう、掴めばいいのだろうか。 「うぉっ」 羽を掴んだことを確認すると、クウは俺を引っぱってゆっくりと進みだした。 「お、おい。クウ?」 「…………」 やはり答えない。さっきから何かが、いや、全てがおかしい。 羽を持たない生身の人間が浮いているなんてありえるか? これは無い。というか、あってはならない。 何故こうなった。どこかでエスパーポケモンが俺を操っているとか? 異次元空間に入っちまったとか?  このポケモンという不思議な存在がいる世界ならあり得ないことではないかもしれない。 だが、俺はどちらの可能性でもないような、そんな気がしていた。 不自然な行動。俺を無視して飛び続け、急上昇したと思ったら今度は俺を連れて空中遊泳。 クウは何を知っている? 「クウ、おい、どこへ行くんだ」 俺はクウを引っぱって止めようとして、羽が思ったより簡単に抜け、慌てて謝ろうとその顔を見た―― 「!」 クウに掴まっていなくてもやはり落ちなかった。 いや、そんなことはどうでもいい。俺にとって今、それが問題ではない。 クウ、お前、何故、 「何故泣いているんだ?」 クウは俺に背を向けたまま見向きもしない。 俺の心に靄のようなものが発生する。なんだこれは。 その靄は、俺にとって何か重要なことを隠しているような気がする。 なんだ、気付け。重要なこと。気付かなければ、絶対に俺は後悔する。 よくわからないが、何故かそんなことを思った。 俺は背中に問いかける。 「何が起こってる? 何故お前は泣いている?  クウ、何か言ってくれ。こっちを見てくれ。クウ!」 クウが振り向いた。 その顔、鋭い双眸の端に、月光で輝く滴がある。 「どういうことだ。お前――」            クウ? 「いや、待て、そうだ、お前……半年前に……」 死んだはずだ。 靄が霧散する。脳裏に沸々と記憶が蘇ってくる。 嗚呼、思い出した。コイツは死んだんだ。 ラストフライトは一年前に無事に終えた。 そう、無事に、何事もなく、こんなおかしな状況にはならなかった。 俺とクウは最後に到着した街で普通に暮らし始めた。 それから半年後――『今』から半年前の朝、目が覚めたらいつの間にかクウは逝ってしまっていた。あっけなかった。 おかげで後悔したよ。最後にクウに言った言葉なんか全然覚えてない。 あまりに日常的会話だったから。 だからずっと思っていた。クウに逢いたい。逢って、伝えたかった。20年間の全てを。 もしかして今、それを伝えるチャンスなのか――? 「ク、……っっ!」 絶句した。 クウの足が、欠けていた。 欠けたその足はまるで削り取られるように、削り取られた部分は砂となって、雲の底へと落ちていく。 時間が無い。 直感でそう悟った。強い焦燥感が俺を襲う。クウは消える。もう間もなく消えてしまう。 コイツはここに居ていい存在ではなかったのだ。それでも戻ってきてくれたのか。 制限時間という条件付きでも。 今この時間、空間は俺とクウのために存在している。 目の前にいるのはもしかしたらクウじゃないかもしれない。だからなんだ。 クウは俺の言葉を待っている。 「クウ。俺は……」 言っていいのか。言ってしまった瞬間、コイツは消えてしまうんじゃないか。 だが言わなければならない。何て言えばいい。 唐突に訪れた好機、俺はメッセージを用意していなかった。 ありがとうさようならじゃあなあばよ元気でな消えるな一緒に居てくれまだ離れたくない。 どれだ。どれなんだ。 次の言葉が最後だ。俺はクウに最高の言葉を送らなければならない。 クウはもう胸の辺りまで消えている。 砂が落ちれば落ちるほど、タイムリミットは近づいてくる。まるで砂時計だ。 その双眸から見つめる視線は俺を真っ直ぐ見据えている。改めて見る月に照らされた顔、素直に綺麗だなと思った。 俺は口を開けた。が、焦りと緊張で声が出ない。 それ以前に、何を言ったらいいのかわからない。 消えていく相棒。もうすぐ顔だけになってしまう。 その口が、僅かに動いた。 「ピジョッ」 ――! 吹っ切れた。 「クウ! ごめん! これしか言えん!!」 俺は盛大に笑っている。そして盛大に泣いている。それでも、盛大に叫ぶ。 「ありがとう!!!」 最後にクウの瞳が見えて、砂は全部落ちていった。 目が覚めた。 ……目が覚めた、ね。 見慣れた天井が見える。そこは俺の部屋だった。 窓から差し込む太陽光が俺の顔に直射しており、めちゃめちゃ眩しい。 「ハァー」 思いっきり息を吐いて俺はグダグダと起き上がる。 上体を起こしたところでストップ。 そのまましばらくボーッとしていると、ようやく脳が活動を始めた。 夢だったのかもしれない。俺の未練たらたらな潜在意識が見せた夢。 だったらなんだというのだろうか。夢か現か、それを確かめる術を俺は持っていない。 確かめることも出来ないのに、夢だ真だと決定付けることなど出来ようか。俺には出来ん。 「……ん?」 そこで俺はようやく手に何か握っているのに気づいた。 「…………」 まぁ、何て言うんだろうね。 真実を確かめることが出来たのだとしたら、それはそれでいいことなんじゃないか。 握り締めすぎてボロボロになった羽を見ながら、俺はそう思った。