川 底 の 夢





 とある汚れた川に、汚れたシャワーズが住んでいました。

 川は、昔はきれいだったのですが、今では緑がかった茶色の変な臭いのする川に なってしまっていました。ここからすぐ上流のところに建てられた工場の汚水のせいで、 きれいな川から、汚い川へと変わってしまったのです。おまけに、その工場の人間が よくゴミを捨てていくので、川底にゴミがたくさんたまっていました。

 シャワーズは毎日川を泳ぎ、流れてくるペットボトルや、水底に埋もれている 空き缶などを拾っては、川原に捨てていました。でも、いくらシャワーズが きれいにしようとしても、ゴミは毎日流れてきて、川を汚すのでした。

『もう、ここには住んでいられないんだ』

『死んでしまうのよ』

『別の住処を探しに行くよ』

 親友のマリルや友達のトサキントや水辺に住んでいたナゾノクサ、みんなみんな、 とっくの昔にみんなどこかにいってしまいました。かわりに、いまでは、川をもっと 汚してしまうベトベターたちが水辺をうろついています。それを毎日追い払い、 川底のゴミを掃除するのが、シャワーズの日課です。
 昔はきれいな身体だったのであろうシャワーズも、今では川と同じような色に なってしまい、健康だったのであろうその身体も、水の毒で弱っていました。 シャワーズは水に近い身体をしているので、毒がひどく肌にしみ込んできます。 毒はじくじくと肌を苛み、ひどい頭痛をおこしますが、シャワーズは諦めずに 毎日川を泳ぎ、なんとかまた川をきれいにしようと頑張りました。


 シャワーズは毎夜、夢を見ていました。夢はいつも同じです。

 シャワーズは川の底から水面を見上げています。ゆらゆらと揺れる陽の日の中を、 ときたま水ポケモンの影が横切ります。雨がふれば水面に波紋の群れが描かれて、 小さな小さな水の振動を肌に伝えてきます。
 降り注ぐ陽の日は心地よくて、通り過ぎるポケモンたちはみな生き生きとしています。 肌をくすぐる水の流れに、軽く身を震わせたその拍子に小さな泡がひとつ生まれて、 一心に水面へと向かいます。それを目で追って、泡が水面に触れた瞬間。

 そこでいつも、目が覚めてしまうのでした。

 夢の景色は、川が汚くなる前の、シャワーズの記憶でした。
 いまでは、そんな景色は見れません。川の底から水面を見上げても、見えるのは 濁った水だけです。目の前を横切るポケモンなどいませんし、うつくしい陽の日も 底まで届きません。かわりにあるものは、流れてくるゴミや、まとわりついてくる 毒のみ。それでもシャワーズは、ひたすら川を掃除します。毎日、毎日、あきらめずに。


 けれども掃除をするシャワーズをあざ笑うかのように、川はもっともっと 汚くなっていきます。流れてくる毒の量も増えて、それはシャワーズの繊細な肌を さらに強く突き刺しました。
 シャワーズは、自分の命が削られているのがわかっていました。
 それに気づかないふりをして、今日もシャワーズは掃除をします。

 昔はしっかりしていた足どりも、今はふらふらです。絶えず頭痛がしますし、今まで 力強く水を叩いていたしっぽは、今では弱弱しく水をかくのが精一杯で、ちょっとのことでも 疲れてしまいます。頭の先からしっぽの先まで、火傷しているようにじくじくと痛み、 手足の感覚も鈍ってきました。ガンガンと大きな石を思い切り振り回しているかのような頭痛は ひどくなるばかり。
 もう、ベトベターを追い払おうとしても、逆に軽くいなされてしまうのです。
 体力には自信があって、今までどうにか頑張れていたシャワーズですが、もう限界が 近いのかもしれません。
 意識すら半分曖昧で、眠っているのか起きているのか、もうわかりませんでした。
 あの夢を見ていなければ起きている、あの夢を見ているのなら眠っている。
 起きているなら掃除をして、眠っているならそうしない。

 ただ、それだけのこと。




 そんなある日、シャワーズがやはりいつものように掃除をしていると、川原にいつもと 違うものがありました。
 目がかすんでいるのでよくわかりませんが、深い青と淡い紫のそれは、どうやら シャワーズと同じ四足のポケモンのように見えました。
 それは、じっとシャワーズを見つめているようでした。不思議と危ないものには
思えなかったので、シャワーズも頑張って目の焦点をあわせてそれを見つめ返します。  それからどのくらい見詰め合っていたでしょうか、それが口を開きました。

『なにをしている』

 それの声は、まるで北風そのもののような、不思議な声でした。
 ひんやりとして冷たいのですが、同時に清らかさがその中に感じられるのです。 毒でひりひりする肌にしみこむような声に、痛みが少しひいたように思えます。
 心地よさに目を細めて、シャワーズは答えました。
 声を出すのは久しぶりなので、うまく喋れずに、声がかすれます。

『川を、きれいにしているのです』

 シャワーズのかすれた返事に、北風の声の主はしばらく黙り込みました。
 しがし、やがて、心なしかやや冷たさの増した口調で再び口を開きます。

『この川は死んだ』

『まだ死んでいません』

 北風の言葉に、シャワーズは間髪いれずに返します。
 そんなシャワーズに、北風はあくまで冷たく言いました。

『川の命は尽きた』

『まだ、生き返れる』

『無理だ。この川はもうじき死ぬ』

『死にません! ……』

 シャワーズは声を荒げましたが、そのひょうしに喉に鋭い痛みが走り、ごほごほと 咳をしてむせました。しかし、咳をするのも痛いのです。自然と涙が浮かびます。
 ぜいぜいと息をして、ようやく呼吸が落ち着きました。

『なぜそんな身になってまで、死にゆく川に執着する』

『この川は、わたしの居場所です』

『居場所など、この川以外にもいくらでもあるだろう。
 他のポケモンたちのように川を捨て、旅に出ればいい』

 北風の切り裂くような言葉に、シャワーズは俯きます。

『それでも、わたしには、この川しか行くべき所がないのです。
 道を失ったわたしの、最後の居場所。ここのほかに、わたしの家はありません』

 シャワーズは目を閉じて、過去の記憶を思い返しました。


 むかしむかし、シャワーズは今のように野生ではありませんでした。

 シャワーズには大切なひとがいて、そのひとと一緒に旅をしていました。そのひとは シャワーズをとても大事にしてくれて、やさしく頭を撫でてくれました。バトルで 負けて落ち込んでいるときに、励ましてくれました。特訓して強くなって、もう一度 戦いを挑んでつらくも勝利したときは、一日中そのひとと喜んでいました。
 永遠にこの時間が続くんだと、シャワーズは信じていたのに。

 ある日突然、シャワーズはひとりぼっちになったのです。

 原因はわかりません。
 直前に仲間になった大きくて強そうな新しいポケモンのせいかもしれませんし、 もしかしたら他に理由があったのかもしれませんが、もうどうでもいいことでした。
 ただわかるのは、シャワーズは捨てられたのだということだけ。
 ものすごいショックで、何も考えられませんでした。撫ででくれた手の感触だけを 残して、そのひとはシャワーズを置いていってしまいました。何故、とか、どうして、 とシャワーズは叫びましたが、ポケモンの言葉が通じるはずもなく、そのひとは一度も 振り返ることなく去っていきました。

 太陽が落ちて、また同じ場所に昇るまで、シャワーズはその場にたたずんでいました。
 雨がふりはじめて、雨粒が肌を叩く感触でようやく我に返ったシャワーズは、のろのろと 歩き始めました。目的地はありません。いままでは、あのひとの目的地がシャワーズの 目的地だったのです。そのひとはもういないので、どこへ行けばいいのかもわかりません。
 半ば放心状態で、歩いていました。

 そうしてどれくらいたったのか、最終的にたどり着いた場所が、この川でした。
 何も食べておらず空腹で、体力も限界だったとき、この川の前に出たのです。

 その川にすんでいたマリルは、シャワーズの様子をみかねて、木の実をわけてくれました。 久しぶりに食べた木の実は、捨てられる前の日、あのひとがくれたものと同じでした。
 木の実を食べながら、シャワーズは泣きました。

 それから、シャワーズはこの川に住むようになりました。
 人間の臭いがついている自分を受け入れてくれた川のポケモンたちに感謝しながら、 シャワーズは毎日を過ごしていました。川底から見上げた水面の景色は、シャワーズの悲しみを ゆっくりと洗い流し、癒しました。川が汚れて、他のポケモンたちがみんなみんないなくなって しまっても、シャワーズは川を離れる気はありませんでした。



『夢を見るんです。川底から、水面を見上げる夢を』

 ゆらゆらと揺れる陽の日の中を、ときたま水ポケモンの影が横切ります。雨がふれば 水面に波紋の群れが描かれて、小さな小さな水の振動を肌に伝えてきます。
 降り注ぐ陽の日は心地よくて、通り過ぎるポケモンたちはみな生き生きとしています。 肌をくるぐる水の流れに、軽く身を震わせたその拍子に小さな泡がひとつ生まれて、 一心に水面へと向かいます。それを目で追って、泡が水面に触れ、はじけて消えて。
 あの景色が、いつも心を満たしてくれた。

『その景色が、また、見たくて』

 そう、あの景色を、もう一度、もう一度だけ、見たいだけだから。



 北風は、長い間、沈黙していました。
 そして小さく息を吐き、ゆっくりと言葉を紡ぎます。

『だが、もう手遅れだ。……川も、おまえも』

 気がつくと、毒に犯されきった身体はもうほとんど感覚がありませんでした。頭痛も 火傷のような痛みもいつのまにか消えて、水の流れも、北風の冷たさも、何も感じません。
 ただ、どこかぼんやりとした、曖昧な意識があるだけです。

『それでも、最後まで、あがいてみたいと……思うのです』

 シャワーズは、かすかに笑いました。

『川とともに死ぬか』

『そうですね、そうなるかもしれません』

 北風はそれ以上何も言わずに、ふうっと、本物の北風のように、立ち去りました。
 それを見送って、北風の姿が完全に見えなくなると、シャワーズは再びよろよろと 歩き始めます。……もちろん、また、掃除をはじめるために。




 次の日、シャワーズはいつものように水底から、空き缶をひとつくわえて川原に 向かいました。身体の感覚はほとんど消えて、泳いでいるという意識もありませんでした。
 ただ、この空き缶を川原に上げないと、と。その思考だけが、頭をめぐります。
 川の流れに何度も流されそうになりながら、力を振り絞ってようやく川の底に 足が触れて、なんとか水から這い出して、よろよろと数歩足を動かして。

 そこまでが、限界でした。

 一気に四肢から力がぬけて、シャワーズはぐったりと横に倒れます。
 おかしいな、と思って手足にちからをこめても、ぴくりとも動きません。シャワーズは 一歩も動けないどころか、起き上がることすらできなくなってしまいました。
 朦朧とした意識で、まだゴミがたくさんあるのにな、と思いますが、やっぱり手足は 動かなくて、その上、息も苦しい。
 視界は全部白黒で、それすらもだんだんと白が消え、暗くなっていきます。

 しばらく頑張っていたシャワーズでしたが、そのうちに諦めて目を閉じました。
 きっと、このまま死んでしまうのでしょう。
 ならばせめて、自分の命とひきかえに川がきれいになるようにと、シャワーズは祈りました。

 祈りながら、深く息を吐くと、意識がどんどん暗闇に落ちていきます。



『おまえは、本当に馬鹿だ』

 耳元で声が聞こえて、最後に残された力でうっすらと目を開くと、深い青と、淡い紫の、 あの北風が、目の前に立っています。

『だが、他の何よりも清らかな心、確かに見届けた』

 北風の姿が、うっすらと光っているように見えましたが、すぐに目の前が完全に 暗くなってしまったので、もうわかりません。

『その望み、叶えよう』

 その言葉を認識するのを最後に、シャワーズの意識は途絶えました。










 とあるきれいな川で、ポッポたちが水浴びをしています。
 栄養豊かな川の水で育まれた植物たちを寝床にいろんなポケモンが日々を送り、 川の中ではトサキントが優雅な姿で泳ぎます。陽の光はあたたかく、木漏れ日は水面に 反射して、宝石のように水を輝かせました。

 ざばんと高く跳ねたコイキングが、盛大な水しぶきをあげました。そのしぶきを 身体にうけてはしゃいだ声をあげるのは、まだまだ小さなピチューです。そのうしろから、 兄弟分なのであろうピカチュウがやってきました。いくつかの木の実をかかえています。
 ご飯だぞ、と言うピカチュウに、ピチューは泳いでからと元気よく返事をして、えいっと 川に飛び込みます。もうすぐ冬になろうかという季節ですが、今日はそんなに寒くない上に、 陽は天高くのぼっていて、どちらかというと暖かな日でした。

 水面に顔を出したピチューに、ピカチュウが慌てて、遠くには行くなと声をかけます。
 しっぽで水を叩いたり、水ポケモンをおいまわしたりして遊んでいるピチューの様子に、 ピカチュウは本当にわかってるのかと呆れながら、ため息をつきました。
 ふと、ピカチュウは手持ちの木の実に目を向けて、足りないかと悩みます。
 食べ盛りの年頃な上に、あんなに遊びまわっていては、帰ってきたころには お腹がぺこぺこになっているでしょう。木の実数個では足りないかもしれません。
 ちょっと周囲を見回すと、幸い、木の実がなっている木がたくさんあります。 あといくつか木の実をとってこようと、ピカチュウはその場を離れました。
 もちろん、すぐ戻ってくるつもりで。


 さて、ピチューは、コイキングを追いかけるのに夢中です。
 意外とすばしっこくて、なかなか追いつけないのです。ムキになって追い回している うちに、だんだん岸から離れていることも気づきません。
 もうちょっと。もうちょっとでコイキングの背中に、手が届きそう。けれど。

 突然、コイキングが跳ねました。そのひょうしにコイキングのしっぽに手が触れましたが、 そんなことは今は関係ありませんでした。驚いて身を引いたときに後ろ向きにひっくり返って しまい、ピチューは思いっきり水の中に沈んでしまったのです。
 息ができなくて、ピチューは混乱しました。それほど深いところにいるわけではないし、 水面に出ればいいだけなのですが、混乱した頭では、どっちに向かって泳げばいいのか わかりません。
 頼りになる兄を呼ぼうとして口を開いたら水が流れ込んできて、ますます苦しくなります。 苦しさに目をぎゅっと閉じてしまいました。
 そうこうしてるうちに、川の流れに押されて、どんどん深いところに沈みます。暴れても、 水の流れのほうが強くて、翻弄されて。
 背中が、川底に当たった感触。

 ふと、流れが弱くなりました。

 あれだけ凶暴に流れていたように思えていた水が、やわらかくなったようで。
 不思議に思って、ピチューはそっと目を開けました。

  見えたのは、水面にゆらゆらと揺れる陽の日。冷たい水の中を通り抜けて川底まで届いた その光は、恐怖で冷えていた身体をゆっくりと包みます。
 さっきまではあれほど乱暴だった水が、今は優しく肌をくすぐって、気持ちいい。
 生き生きとした水ポケモンの影がいくつも真上を横切って、水面の光をさえぎります。
 自分の口からこぼれた小さな泡が、一心に水面へと向かうのを目で追えば、やがて泡は 水面に触れ、はじけて消えて、小さな波紋が広がり……

『安心して』

 それにみとれてぼーっとしていると、耳元で、誰かの声がしました。

『岸まで、とどけてあげるから』

 常に一定方向に流れているはずの川の水が、ピチューのまわりだけ、それに逆らっている ようでした。泳いでいないのに、不思議な水の流れにのったピチューは、気づいたら岸に 押し上げられていたのです。

『もう、だいじょうぶ』

 ショックでぼんやりしていたピチューでしたが、その声にはっとして後ろをふりむきます。

 そこにいたのは、水と同じくらいきれいで、透明なシャワーズでした。
 シャワーズは、ぽかんとしているピチューを見てふっと笑います。


 遠くから聞こえてきた焦ったピカチュウの声に、ようやくピチューは我に返りました。
 ピカチュウが、岸に突っ立っているピチューに駆け寄ってきます。
 戻ってきたらピチューがいないので、流されたのだと思って慌てて探しに来たようです。
 だから遠くには行くなと怒鳴りつけるピカチュウに、ピチューはごめんなさいと 深く反省します。ふと思い出して振り向きましたが、もうシャワーズはどこにもいません。
 そこには、流れる川があるだけです。……まるで、川に溶けてしまったかのよう。

 何も無い川を見つめるピチューに、ピカチュウは不思議に思いながら問いかけますが、 ピチューはなんでもない、と言いました。確かに見たような気がするのだけれど、 混乱して見たかまぼろしか何かかなあ、と首をかしげます。

 とにかく無事ならいいのだと安心してピチューの手を掴んで川から上がったピカチュウは、 ふいに今自分達がいる場所を見回して、疑問に思いました。
 ぴったりと真四角に草が生えてないその場所は、まるでなにかの巨大な箱が 突然消えてしまったかのような状態をさらしていました。
 妙に不自然ですが、ピカチュウたちにはその理由はさっぱりわかりません。もしかしたら、 もともとこういう土地なのかもしれませんし。

 おなかすいた、とピチューがピカチュウの手をひっぱると、ピカチュウはああ、とようやく ご飯のことを思い出します。今は土地の不思議よりも、食事のほうが大事です。
 仲のよいピカチュウとピチューは、川づたいに歩いていきました。
 たくさんの木の実で空腹を満たすため。


 その横で、静かに川は流れます。



 ひゅうっと、一陣の北風が、その場を吹き抜けました。












「今日のニュースです。本日未明、タチサ川の上流で稼動していたガルフ社の工場が 突然跡形もなく消えてなくなるという怪事件が起こりました。警察では現在原因を 追究していますが解明には時間がかかりそうとのことです。なお、この工場では 廃棄物の不法投棄が問題になっていたことがわかり、警察では……」







2007.8.21 Misty