伝光雪花 〜デンコウセッカ〜 雪が降っていた。頭上からではなく真横から、凄まじい勢いで吹き付けていた。 確か少し前に見た看板には、確かに二百十七番道路と書かれていたはずだ、たぶん。 その看板と自分の目の僅かな間にも白い塊がびゅんびゅん飛び抜けていたので、見間違いかと言われればはっきりと否定出来ない。 とりあえず、目的地はここで合っている。タイムは自分自身に無理矢理そう言い聞かせた。 「……しかし、とんでもない天気だな……」 雪とは無縁な暖かい町で育ったタイムはそうこぼして、髪の毛についた雪を手で払う。 が、その手を降ろすより早く、新しい雪が髪にへばりついた。思わず溜息が漏れてしまうのも無理はない。 目に映る景色のほとんどが、白一色に塗りつぶされていた。 右を見ても真っ白。左を見ても真っ白。下を見ると、ここまで残してきた一人と一匹ぶんの足跡さえ、際限なく降り積もる雪に掻き消されていた。 「きゅいぃぃっ……」 と、足下を必死でついてきていたパートナーのイーブイが、 雪を乗せた風を真っ向から受けて苦しそうな声をあげるのを聞き、タイムはその小さな体を抱き上げた。 「辛いか、ローラ?」 「きゅ……?」 ローラと呼ばれたイーブイは、質問からひと呼吸おいた後、いつものように首を傾げた。その様子にタイムはやれやれと肩をすくめる。 ローラとはポケモントレーナーをやり始めてから長い付き合いになるが、 いつもマイペースでぼんやりしていて、声をかけても今のように首を傾げられることがほとんどである。 バトル中に指示を出してもワンテンポ遅れて動くことが多く、 一度あまりにぼけーっとしすぎた所為で、ソーナンスに先制攻撃を喰らったこともあった。 「……まぁ、無理しなくていいから、少し休んでな」 ここでローラに倒れられては困る。タイム達がこんな厳しい環境の場所まではるばる足を運んできたのは、他ならぬローラのためなのだ。 タイムはローラの返事を待たずにモンスターボールを取り出し、ローラの額にこつんと当てた。 冷えきっていながらも内からの温もりを感じる身体が、一瞬でボールの中に吸い込まれる。 それを腰のベルトに戻し、タイムは両手で自分自身を抱くようにしながら、再び歩みを進めた。 「にしてもまずいな……。いい加減あれを見つけるか、せめて休めそうな場所を見つけねーと……」 雪の勢いは衰えることを知らず、広い雪原の上を吹き荒れ、視界を覆い隠す。右を見ても真っ白。左を見ても真っ白。前を見ると、 「……なんだ?」 ふと感じた違和感に、タイムは幾度か瞬きをしてもう一度前方に目を凝らした。 白い弾幕の向こう側に、仄かな黄色い光を見た。深い霧の中に一匹迷い込んだバルビートのような、そんな光だった。 タイムの足は、自然と光の方を向く。 何か大きな力に引き寄せられるかのように、タイムはもぎゅ、もぎゅ、というくぐもった足音を残しながらゆっくりと歩みを進めた。 ちょうど百歩ほど歩いた頃、それは突如として目の前に現れた。タイムは立ち止まり、それを見上げながらぽつりと呟いた。 「地獄に仏……雪原に豪邸、ってか」 それはまさしく豪邸と呼ぶに相応しい、大きな建物だった。 タイムが写真でしか見たことも無いような、細部まで美しくデザインされた異国風の造り。 その佇まいは殺風景なバックが手伝ってか、どこか頼りなく、儚い印象を受ける。 大きな窓からこぼれ出る室内の明かりが、どうやら先程見えたバルビートの正体らしい。 その窓の向こうには、人影のようなものがぼんやりと見える。 「場所が場所だからな、誰か金持ちの別荘か? 休ませてもらえりゃいいけど……」 そう独りごちながら、玄関への扉へと続く階段へ足をかける。すると、きぃぃとかすかに軋む音を立てて、扉が内側から開いた。 「あ……」 「旅のお方、ですかな?」 中から現れたのは、黒いスーツに蝶ネクタイを身につけた、いかにも執事をやってますといった感じの初老の男性だった。 呆然と立ち尽くすタイムだったが、男性に手招きされ、慌てて残りの階段を駆け上がる。 「この吹雪の中、迷われてこの館に辿り着いた……違いますかな?」 「え……っと、まぁ、そんなとこです」 「けれどどうして?」と聞いてみると、男性はウインクしながら「あなたのような方は今日四人目ですから」と答えた。 「前の旅人さん達三人も、天候が良くなるまでここで休んでいかれるそうです。あなたもどうですかな? まだお若いとはいえ、無理は禁物ですよ」 タイムは腕を組んで少し考え、腰のボールに疲労が溜まっているローラがいることを思い出し、うなづいた。 「なら、お言葉に甘えて」 「はい。では……」 執事らしき男性はタイムが室内に上がるのを確認した後、ドアを後ろ手に閉め、タイムの背中に向かって微笑みながらこう言った。 「どうぞ、ごゆっくり」 異国風の洋館なだけあって、靴は脱がなくてもいいらしい。 タイムはそのことに軽くカルチャーショックを感じながらも、 執事に借りた真っ白なタオルで頭を乱暴に拭きながら、まずは暖を取れる場所を探した。 周囲では正装した男女が、ワイングラスの乗った白いテーブルを囲んで、立ったまま談笑している。 どうやら、何かのパーティーをしているらしい。 「……こんな雪山でか。物好きな……お、いいもんあんじゃん」 部屋の隅で、赤々と火が灯った暖炉がぱちぱちと微かな音を鳴らしていた。 暖炉の側では誰かが連れてきたのか、精霊ポケモンのフライゴンが一匹身体を丸めて気持ち良さそうに眠っている。 フライゴンはタイムのよく知っているあるポケモンと同じ、地面とドラゴンのタイプを併せ持っている。きっと寒さに弱いのだろう。 タイムはタオルを肩にかけると、ベルトからモンスターボールをひとつ取り外した。 「出てこいよ、ローラ」 「きゅいっ!」 光が弾け、姿を現したローラは、その茶色い体毛をふるふると振るわせる。 突然現れた他者の気配を感じ取ったのか、フライゴンの触覚がぴくりと動いた。 「起こすなよ、折角眠ってるんだから。しばらくそこで暖まってな」 そう注意するが、ローラは今回も首を傾げるのみ。 いまいちコミュニケーションがとれない相棒に溜息をひとつつき、タイムは壁に背中を預け、改めて広い室内を見渡した。 外観から想像したとおりの豪奢な造りである。 天井を見上げてみれば、タイムが両腕を広げたぐらいの直径がありそうなシャンデリアがぶらさがっている。 それでいてただ派手なだけでなく、あちこちに点在する珍しい観葉植物が、きらびやかな室内にアクセントと癒し効果を与えているようだ。 植物に詳しい花屋の息子であるタイムは、 「あんなでかいフィカス・ベンジャミナ、あるんだな……」とまるで呪文のような観葉植物の名前を呟きながら、 一人でしきりに感心していた。 パーティに参加している人の中には、大きなリュックを背負った旅のトレーナーらしき青年の姿もあった。 旅の話でもしているのか、ど派手な宝石をたくさん身にまとった婦人と言葉を交わしている。と、 「あなたは、あの輪の中に入らないの?」 突然横から声が聞こえ、タイムは弾かれるように壁から背中を離した。 見るといつの間にか、さっきのフライゴンの側に、飾り気の無い黒のウインドブレーカーを来たショートカットの女性がしゃがんでいた。 見た目は二十歳ぐらいだろうか。フライゴンの背中を優しそうに撫でている。 「あの……何つーか、あんまり他人と話すの、得意じゃないんで……」 「ふふっ、私もよ。ずっと一人で旅してきたしね」 「んじゃあ、あなたも迷ってここに?」 「そうよ。まったく、こんなに雪が強くなるなんて……ま、そのおかげでこんな豪華な家に泊まれるんだから、逆に感謝しなきゃかもね」 女性はこちらを向いて楽しそうに笑う。そして「よっこらしょっと」と見た目にそぐわない年寄り臭い台詞と共に立ち上がった。 「あ、この子そっとしておいてあげてね、長旅で疲れてるから。普通のバトルの時は頼りになるんだけど、やっぱりこういう寒いとこはダメみたいで」 「分かりました」 「それじゃ、ごゆっくりー」 女性はひらひらと手を振りながら、パーティの輪の中に戻っていった。どうやらテーブルの上に乗っかった色とりどりの果物が目当てらしい。 「ローラ、お前は大丈夫か?」 足下に視線を落とすと、ローラはこちらの心配を他所に深紅のカーペットの上に身体を伏せ、 興味津々と言った表情でフライゴンの寝顔をじーっと見つめていた。テンションが上がっているのか、尻尾をしきりに振っている。 「……おい。マジで余計なことすんなよ」 半ば愚痴るような口調でそう忠告すると、ようやくローラが振り向きこちらを見上げた。 タイムはもう何度目か分からない溜息をつくと、「ほら、来いよ」と腕を伸ばす。 するとローラは途端に瞳を輝かせ、こちらに向かってジャンプし、そして―― 「なっ……!?」 差し出されたタイムの腕を踏み台にし、さらに後ろへと跳び抜けていった。 「お前なぁ……!」 「ぷわっ!?」 少し本気で説教しかけたタイムの言葉を、奇妙な悲鳴が遮った。 背後に目をやると、二本の細い手をぶら下げた紫色の風船のようなポケモンに、ローラがぴょいぴょいと跳びつこうとしていた。 風船ポケモンのほうは困った表情を浮かべて空中をふわふわと漂ってそれをかわしている。 「フワンテじゃないか。久しぶりに見たな」 タイムも思わずフワンテに興味をそそられて二匹の方へと一歩踏み出したが、その一歩がまずかったらしい。 フワンテは驚いて身体を震わせると、部屋の隅に向かって紐のような手をなびかせながら飛び去っていった。 ローラはそのひらひらした動きに気を引かれ、まるで遊んでもらっているかのような喜びようを見せながら追いかけてゆく。 「きゅいっ、きゅいー!」 「おいバカ、やめろって!」 タイムの忠告も聞かず、ローラは追跡の手を緩めない。 和やかに談笑しているパーティー参加者達の足の間を縫って走り、いよいよ怯えるフワンテを壁際に追いつめてしまった。 実はここまで張り切っているローラを見るのも久しぶりなのだが、こんな形で元気さを示されても困る。 「ぷわわー……ぷわっ!」 その時フワンテのすぐ隣で、大きな金色の扉がゆっくりと開いた。 フワンテはこの好機を逃すまいと、部屋に入ろうとした給仕の青年を押しのけるようにしながら脱兎の勢いで飛び出して行った。 「ぅわっ!? な、なんだ!?」 「あ、すみません……ってこらローラ! いい加減にしろ!」 慌てて尻餅をついたもののなんとか手に持っていた高価そうなワインの瓶を割らずに済みほっとしている給仕に向けて頭を下げ、 タイムは二匹を追って急いで部屋を出た。 豪華なリゾートホテルのような広い廊下のど真ん中を、ローラとフワンテは近づいては離れ、近づいては離れを繰り返しながら遠ざかっていく。 端から見れば、まるでじゃれ合っている恋人同士だ。 「……あれか、あのフワンテ、オスなのか? ……いや、たぶんあの紐みたいな手に惹かれてるだけだろうな」 そういえばこの間、店に出していたスズランの花にローラがちょっかいを出そうとして、母親にこっぴどく叱られていたのを思い出した。 普段はおとなしいくせに何かに興味を持つとそれしか見えなくなるという、 イーブイというより最早エネコあたりに近い性質を持っているようである。 雌であるローラは、雌の生まれる比率が極端に少ないポケモンであるイーブイの中ではある種貴重な存在なのだが、 性別云々よりもこんなややこしい性格のイーブイ自体が凄く珍しいのではないかと、タイムは考えていた。 「っと、んなこと考えるよりさっさと捕まえねーと」 タイムはそんな思考から離れ意識をこちら側に戻す。 ちょうど視線の先で、二匹が角を曲がるところだった。見失ってはたまらないと、タイムは走る速度をあげる。 「おいっ!」 壁に手をつけてブレーキをかけつつ、角を曲がる。そしてそこにいるはずのローラに向けて声をかけた……つもりだったのだが、 「はっ!?」 その声に、側にあった木製のベンチに腰掛けていた品の良さそうなおばあさんが、びくりと驚いた顔をしてこちらを見上げてきた。 その膝の上では、一匹のガーディがすやすやと寝息を立てている。 タイムは、慌てて立ち止まり、頭を下げた。 「はぁ……危うくまた心臓が止まるところでした」 「す、すいません! いえ、ちょっと諸々の事情が……あっ」 そこへ先程のフワンテがひどく焦った様子で、 自らの身体と同じ紫色のロングワンピースを身につけたおばあさんの背中の後ろへと身を隠した。 続いて我が相棒ローラが、ものすごく楽しそうな表情を浮かべながら、 おばあさんをなぎ倒そうかという勢いでダイブしようとしていたので、 「お前いい加減落ち着けって!」 咄嗟にその正面に身体を滑り込ませ、小柄な身体を抱きとめた。 「きゅいぃ?」 いつものように首を傾げるローラに、タイムはまたひとつ溜息をつく。 きっとローラは、本当にただ遊んでいるという感覚しか無かったのだろう。 「貴方、その子のトレーナー?」 ローラを戻そうとボールを取り出したとき、不意におばあさんから質問を投げかけられた。 それに気を取られた一瞬の隙に、ローラはタイムの腕をするりと抜けて、床の上へと降り立ってしまう。 「あっ……えぇ、そうです。ご覧の通り振り回されてますけど」 「ふふっ、元気があっていいじゃありませんか」 そう言っておばあさんは目を細める。結い上げた灰色の髪には、白い小さな花を象った髪飾りがちょこんとくっついていた。  「けど、フワンテを怖がらせたし……」 「そんなの気にしないで下さい。キクも新しいお友達が出来たって喜んでいますから。ねぇ、キク?」 おばあさんはそう言って微笑むが、キクという名らしい当のフワンテはおばあさんの背中に隠れたまま、ぷるぷると身体を震わせている。 おばあさんが勘違いをしていることに苦笑しながら、タイムは少しだけ顔を近づけ、キクに謝った。 「わりーな、ビビらせて。もうちゃんとこいつのこと見張ってるから」 言いながら、タイムは腰を落としてローラの頭をぐしゃぐしゃと少し乱暴に撫で回す。 「あなたは、フワンテのことが恐ろしくはないのですか?」 「え?」 タイムは一瞬、おばあさんの問いの意味を理解出来なかったが、すぐにあることに思い当たった。 彼女は恐らく、フワンテに関するある言い伝えのことを言っているのだろう。 フワンテはまんまるな体につぶらな瞳と、なかなか愛くるしい姿を持つポケモンであるが、 その正体は実はあの世からの遣いで、その紐のような手を掴んだが最後、掴んだ相手を決して放すことはなく、 そのままあの世へと連れて行かれてしまう……と、古くから言われているのだ。 しかし、現実主義者であるタイムは、そんな迷信どころか、あの世だとか幽霊だとか、 そういう概念すらも全く信用していない。見かけによらず、論理的に物事を考えるタイプなのである。 なのでタイムは、首を横に振った。 「そんなの、フワンテのことを知らない人らが勝手にでっち上げた迷信じゃないんですか?  うちの近所なんかよく野生のフワンテ見かけるけど、うろうろふわふわしてるだけで人に危害加える様子なんて全然無かったし」 「ぷわわー!」 タイムが言い終わると同時に、いきなりキクが一声鳴いた。初めて聞いた、キクの元気のいい鳴き声である。「自分たちのことを理解してくれて嬉しい、と言ってますよ」と、おばあさんが付け加えた。 「はは、ホントですかね?」 タイムは苦笑し、足下のローラを抱き上げた。ローラはまだ遊び足りないのか腕の中から脱出しようと身を捩るが、そうはさせない。 タイムがきゅっと力を強めると、ローラは少し不服そうに主人の顔を見上げた。 「んじゃ、迷惑かけてすいませんでした」 「あぁ、もう少し……」 立ち上がって歩き出そうとしたタイムに、おばあさんが手を伸ばしてきた。 「……もう少し、お話しできませんか?」 「え?」 タイムは振り返っておばあさんの顔を見る。その表情は、はじめ見た時よりも随分翳って見えた。ような気がした。 先程も言った通り、他人と話すことが苦手なタイムだが、 老人のそんな顔を見ておいて、無視して立ち去ることが出来る程、タイムの心は冷えきっていなかった。 「あー……でも、なんで俺と……?」 「こんな風に言うのは失礼かもしれないけれど、私にもちょうど貴方ぐらいの孫がいてね……。今は遠くに離れてるから話も出来なくて、その……淋しくってね」 「そのお孫さんが俺に瓜二つとか?」 そう尋ねると、おばあさんがクスリと笑った。 「いいえ、全然。そもそも孫は女の子でしたし。歳は一緒ぐらいだと思うけれど」 「なんだ……これで見た目も性格も、ついでに名前まで一緒とかだったらすげぇ運命的だったのに」 自分自身「運命」などというものは信じていないのだが、冗談めかしてそう言ってみた。 「ふふ、本当に」 「なんつーか……気持ちは分かるけど、俺、やっぱ人見知りする質で、他人と会話すんの苦手っつーか……」 何とか体よく断ろうとしたタイムだったが、その時おばあさんのほうから、今更な質問が飛んできた。 「そういえば、貴方のお名前は?」 「え? あぁ、タイムっていいます。大きい夢って意味で、タイム」 「そう、いい響きねぇ。私はスハマ。この子達は私のお友達で、フワンテのキクと、ガーディのナデシコ」 ……ちなみに、今この瞬間までタイムはずっとおばあさん――スハマの膝の上に乗っていたガーディの存在を忘れていた。 ずっと眠りっぱなしでぴくりとも動かなかったのだから、仕方ないのかもしれないが。 と、自己紹介を終えたスハマは、嬉しそうにポンと手を叩いた。 「はい、これでお互い自己紹介したんだから、もう『他人』じゃないわよねぇ? 知り合いとお話しするのは、大丈夫なんでしょう?」 「なっ……!?」 これが年の功というやつだろうか。すっかり相手のペースに呑み込まれたタイムは、また溜息をひとつつき、再び床の上に腰を降ろした。 もたれかかった壁が、微かに軋む音をたてた。この洋館、見た目の豪奢さにそぐわず意外と年季が入っているのだろうか。 「ありがとう」 「ぷわー!」 スハマはしてやったりとでも言いたげな、とてもいい笑顔をしていた。 フワンテのキクも嬉しそうに空中をくるくると踊る。 その動きにまたローラが反応し、前足を伸ばそうとするのをタイムは無言で押しとどめた。 「……負けましたよ」 正直、普段運動不足にも関わらず会場になってる部屋からここまでほぼ全力疾走して来たため、少し休もうとは思っていたところではあったし、 ローラもどうやら新しい『友達』といたいようなので、仕方なく付き合うことにした。 とは言え、ローラを自由にするとまた大騒ぎになりそうなので、しっかりと身体を抱きかかえてはいたが。 さて、話すと言っても何を話していいのかさっぱり分からず、無駄な沈黙が暫く続いたのだが、幸いにもスハマの方から話題を振ってくれた。 「貴方、旅をしているんでしょう?」 「え? えぇ、まあ。旅ってほど大層なモンじゃないけど」 吹雪の所為で迷ってここに辿り着いた、という話は彼女にはしていなかったはずなので、タイムは一瞬戸惑ったが、 よく考えると、フード付きの厚手の黒いジャケットに、紺色のジーパンというラフすぎる格好であれば、 少なくとも豪華絢爛なパーティに呼ばれた人物ではないことぐらいは誰でも想像出来るだろう。 「どうして、この土地に?」 「それは……こいつの為に」 そう言って、タイムはローラを抱き上げる。こちらを見つめるスハマと目が合ったローラは、例によって首を傾げ、長い耳が揺れた。 「この子の為?」 「そ。こいつを進化させようと思って。この近くに、『深雪の聖岩』っていうのがあるの、知ってます?」 深雪の聖岩とは、この地域にあると言われる、一年中薄い氷の幕に包まれ、蒼く仄かに輝く岩のことである。 その美しさから、珍しいもの好きな観光客が押し寄せてもいいはずなのだが、 何ぶん常に雪景色という厳しい環境にあるため、地元の人間ですら訪れる者はほとんどいない。 しかし一部のポケモントレーナー……イーブイを持つトレーナーにとっては、この聖岩が重要な場所として話題になっているのである。 丁度一年程前、ポケモンの進化についての研究で有名なナナカマド博士の発表によって、 この聖なる岩が持つ特殊な成分がイーブイの周囲に影響を受けやすい特異な遺伝子に変化をもたらし、 今まで指折り数える程の発見例しかなかった氷タイプの進化形態、深雪ポケモンのグレイシアへと進化させるということが判明したのだ。 どうやら、サンダースやシャワーズといった他の形態への進化に必要な、俗に言う進化の石と、 同じような成分をこの深雪の聖岩は含んでいるらしい。 これまで遠出した経験のほとんどないタイムが、故郷からかなり離れたこの雪原地帯、二百十七番道路(のはず)に来た理由、 それは今タイムの手の中でぼけっとしているローラを立派に進化させてやることである。 「だから、今のローラと過ごす夜は、今日で最後かもしれない」 「……よっぽど可愛がっているのね」 「え……まぁ、俺の最初のポケモンだし」 「けれどどうして、そこまで大変な思いまでして、グレイシアに拘っているの? 何か、理由があるのかしら?」 「ああ。グレイシアになって、どうしても勝ちたい奴がいるんで」 タイムはその言葉とともに、故郷にいるライバルの勝ち誇ったような顔を思い出した。思わずローラを抱く腕に力が入ってしまう。 「きゅいー!」 「あ、悪い」 腕の中でじたばたするローラに謝りながら、タイムは話を続ける。 スハマの顔を見ていなかったので、その顔が少し悲しそうに歪んでいるのに、タイムは気がつくことが出来なかった。 「勝ちたいって、ポケモンバトルのこと?」 「ええ。近所に住むライバルっつーか……幼馴染が持ってるガブリアスに、今まで一度も勝てなくて…… 今の俺のポケモン達じゃどうしようもないなって気付いて、それでこいつをグレイシアにしようって思ったんです。ガブリアスは、氷の攻撃に弱いから」 確かにグレイシアは多くの氷タイプの技を使いこなすことができ、その威力も高い。 グレイシアの放つ冷凍ビームや吹雪は、伝説のポケモンの攻撃にも匹敵するとまで言われている。 「ふふ、負けず嫌いなのね、貴方。勝負に勝つためだけにそこまでするなんて」 「う……まぁアイツにだけは……ね。誰にだってそういう相手はいるもんでしょ」 困ったように頭を掻くタイム、すると、スハマが今度は意外な質問をしてきた。 「それで、ローラちゃんはどう思ってるの?」 「え?」 「きゅい?」 予想もしていなかった言葉に、ローラはおろか、タイムまでもが思わず首を傾げてしまった。 そして、一人と一匹は目をぱちくりと見合わせる。 「イーブイはたくさん可能性があるポケモンですもの。ローラちゃんにも、将来こうなりたい、みたいな夢があるんじゃない?」 「……と、言われましても……こいつの夢とか、考えてることなんて、人間の俺に分かるわけが……」 「そんなことないわよ。だって……」 「だって?」 タイムはオウム返しに問いただす。するとスハマはにっこり微笑み、こう答えた。 「だって、二人はとっても仲良しなんですもの。人間だとか、ポケモンだとか、本当は関係ないのかも知れない。 お互いのことを分かろうとする気持ちがあれば、それが強ければ、言葉なんていらないわ」 スハマは最後に「きっとね」と付け加えたが、そう言った顔は自身に満ち溢れていた。 その表情が妙に輝いて見えたことに、タイムは面食らって黙り込んでしまう。 タイムは現実主義者である。科学的に証明出来るもの、実際に目に見えるもの、耳に聞こえることしか信用しない主義である。 言葉なんていらないとスハマは言ったが、言葉で表さない限り、気持ちは伝わらない。 ローラの鳴き声は、いくら愛情込めて耳を澄ませても「きゅいー」だ。 とはいえ、「ポケモン自身も何かを考えている」という部分には納得出来る。 ポケモンバトルでポケモンがトレーナーの指示に従うのは彼らが言葉だけに反応するようプログラミングされているからではなく、 トレーナーの命令を信じ、従いたいと思って動くからである。意思を失ったポケモンは、もはや生き物ですらない。 もっとも、ローラの場合は意思というより本能に近いが。 「……」 タイムは何気なしを装ってローラを抱きかかえ直し、こちらを向かせてみた。 幼い頃から見慣れた、吸い込まれるような澄んだ漆黒のつぶらな瞳がふたつ、じっとこちらを見つめ返してくる。そして、 「……きゅ?」 例によって、首を傾げてみせた。 「わかんねぇよなぁ……」 思わず漏れた、とても小さな呟きだったので、すぐ側にいるスハマにも聴こえていないはずだ。 大きく息を吐いて顔を上げると、さっきまでその辺に浮かんでいたキクが、壁にかかっている色褪せた水彩画の前に移動し、 額縁の向こうに広がるセピア色の花畑に佇んでいるキレイハナとにらめっこしていた。 一方ガーディのナデシコは最初見たときからぴくりとも体勢を変えること無く、 猛る炎のような紅の体毛を一定のリズムで撫でる優しい手に安心しきった表情で眠りについている。 スハマは、果たしてこの二匹の考えていることを読み取ることが出来るのだろうか。 年の功というやつは、現実じゃあり得るはずの無い、テレパシーめいたことまで可能にしてしまうのだろうか。 ふと、スハマがこちらに顔を向けた。タイム自身無意識のうちに、スハマとナデシコの様子を凝視してしまっていたらしい。 「あ、いや……」 「ああ、ナデシコね? この子、ずっと寝たまんまだから」 思わずどもるタイムだが、スハマはタイムの焦った様子には気付かず、独り言のように語った。 「この子、もう随分おばあさんだから。人間でいうと私と同じか、少し下ぐらいかしら? 最近は、お昼の少しの間しか起きていないの」 「へぇ……あの、そのガーディの……」 「え?」 考えていること、本当に分かるんですか? と続けるつもりだったのだが、 土壇場になってなんとなく聞き辛くなり、会話のベクトルを無理矢理捩じ曲げてしまった。 聞いてしまうことで、自分の今までの考えを否定してしまうのが怖かったのかもしれない。 「……ガーディの背中、撫でてみてもいいですか?」 「ええ、もちろん。できるだけ、そっとね」 心の中で苦笑しながら、タイムはナデシコの背中に手を滑らせた。 年老いているためかあまり毛並みは良くないらしく、ごわごわした感触が指に絡み付く。 ガーディは炎タイプのポケモンなので、もっとほんのり暖かいものだと思っていたが、意外にも逆に冷たさを感じた。と、 「……くあぁ」 初めてナデシコが動作を見せた。大きく口を開けたと思ったらそれは単なる欠伸だったらしく、またすぐに眠りについてしまう。 が、その様子をじっと見ていたローラが、その口の中に除く刃のような牙に驚き、尻餅をついてしまった。 タイムとスハマは顔を見合わせ、同時にぷっと吹き出した。 (……考えてみれば俺、こいつの将来を勝手に決めつけてるようなもんなんだよなぁ……) 目をぱちくりさせるローラを見て、タイムは表情を曇らせた。 タイムの両親は花屋を営んでいる。今は亡き母方の祖母がやっていた店を受け継いだのだ。 タイムはそこの一人息子ではあるが、両親とも、タイムに跡継ぎになることを強要してはいない。ま だろくな夢も目標もないが、息子の好きなようにやらせるつもりのようだ。 ……もしも両親に、花屋を継ぐことを決定づけられていたら。 タイムは花が嫌いじゃない、むしろ好きだし、先祖代々(というと大袈裟すぎるが)続く流れが断たれてしまうのは淋しいと思う。 それでも、きっとタイムは反発していただろうと思う。誰であれ、ただ敷かれたレールの上を走ることに退屈を覚えることはあるはずだ。 「なぁ、ローラ」 「きゅい?」 タイムは後ろを振り向かずに相棒に声をかけた。ローラは珍しくすぐに返事をする。 姿を見ずとも、いつものように首を傾げてこちらを見上げているだろうということは簡単に予想がついた。 「お前は……」 「焦ることはないと思うわ」 タイムの言葉は、スハマの呟きによって遮られてしまう。 「私達と違って、貴方達にはたくさん時間があるんですもの。もちろん、今ここでグレイシアに進化するのもひとつの選択。 私に止める権利はないし、たぶん、この子は優しいから、受け入れてくれるでしょう」 ……この人は、ポケモンだけじゃなく人間の心も読むことが出来るのだろうか。 スハマは、タイムの頭の中にあるモヤモヤに霧払いをかけるかのように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。 「だけど、もう少し一緒に過ごして、一緒にゆっくりと考えてもいいかもしれないと、私は思うの。 進化出来るのは一度きりなんでしょう? さっき、ローラちゃんを進化させるのは友達に勝つためだって言ってたわよね?」 「……ええ」 他人の口から改めて聞かされると、その判断がとても身勝手で傲慢なことのように思えてしまう。 タイムは辛そうな表情を浮かべながら、辛うじて小さな声で肯定した。 「ポケモンは戦うことが全てじゃないわ。それに、えぇと……ガブリアス、だったかしら?  氷タイプじゃないとそのポケモンに絶対勝てないってことじゃないでしょう?」 「あ……」 「……あ、ごめんなさいね。何もお説教するつもりじゃなかったのよ? ただ……」 「……いえ、ありがとうございます。目から鱗が落ちたって感じかな。……もう少しだけ、考えてみることにしますよ」 「……そう」 スハマは、安堵した様子で頷いた。 その頭の上に紫の風船が降りてきて、意味が分かっているのかは知らないがこちらもしきりに頷いてみせた。 「あ、そうだ。ちょっと手を出してもらえる?」 「はい?」 言われるままにタイムは右手を前に出す。 スハマは脇に置いていた花柄のポシェットから何かを取り出し、タイムの手を包み込むようにしてその上に乗せた。 「貴方とローラちゃんの選択肢を広げるもの……私には必要ないものだから、受け取ってもらえないかしら?」 タイムの手に握られていたのは、拳大の石だった。琥珀のように透き通ったオレンジ色の石の中で、紅い光がちかちかと燃えている。 「炎の石……? え、でも必要ないったって……」 タイムの視線は自然と下へ落ちる。スハマの膝の上には、相変わらずリラックスした表情のナデシコが横たわっている。 ガーディの進化系はウインディ。イーブイと同じく、進化に石を要する種族だ。 「いいのよ。だって、この子が進化しちゃうと、重くて今みたいに膝に乗せられなくなるじゃない」 本気とも冗談ともつかない台詞と共に、スハマは笑ってみせた。 タイムは彼女に託された可能性の欠片をジャケットのポケットにしまい込み、話題を変えようと明るい声を出した。 「そういや、なんかずっとこっちの話してるだけですね。そろそろおばあさんの話のほうも……」 「タイムさん」 突然後ろから声をかけられ、タイムは若干跳ね上がるように振り返った。 そこには、最初にタイムをこの館の中へと招いた、あの執事が立っていた。 「ここにおいででしたか。お部屋の準備が整いました。こちらへお越し下さい」 「え……もうちょっと、駄目ですか?」 「申し訳ありませんが、この館は消灯時間が決まっておりますので」 タイムがスハマの顔を見ると、スハマはにっこりと微笑み、 「……今日はありがとう。久しぶりに若い子とお話が出来て楽しかったわ」 「はぁ、仕方ないか。んじゃ、続きは明日の朝にでもってことで」 そう言ったが、それに対してはスハマは返事を返さなかった。ただ、柔らかな微笑みをこちらへ向けていた。 「では、こちらへ」 そうこうしているうちに執事が歩き出してしまったので、タイムはローラに声をかけ、その後を追った。 ローラはきちんとタイムの足下に沿って歩く。 途中一度だけ振り返ったが、スハマ達も部屋に戻ったのか、既にベンチには誰の姿も無かった。 相変わらず廊下は豪華で、館というより宮殿といった印象を受ける。天井には等間隔で小さなシャンデリアがぶら下がっていた。 「……」 歩きながら、タイムはポケットを探り、さっき受け取った炎の石を手に取ってみた。 よく磨かれた、夕陽を映す鏡のような表面に、見慣れた自分の顔が映る。 その奥で燃える光は、うっすらと熱を帯び、僅かな温もりをタイムの手に与えた。 ――その時。 ビュッ 一陣の冷たい風が、タイムの頬を叩いた。 「なっ!?」 気がつくとタイムは、ただっぴろい雪原のど真ん中に立っていた。 雪と風が縦横無尽に周囲を吹き荒ぶ。踏みしめていたはずの真っ赤な絨毯は真っ白な雪に変わり、 上を見上げてもシャンデリアは無く暗い雲が空を埋め尽くしているだけ。周囲には建物の影すら見えない。 執事も、ローラの姿もどこにも見当たらない。 「ど……うなってやがんだ……?」 体中にへばりつく雪の冷たさのお陰でかえって平静を保てているが、それでもこの急激すぎる変化にタイムの思考はついていけない。 なんとか状況を変えようと、とにかく前へ足を踏み出そうとしたとき、 「……ん……さん……」 風の向こう側から、空気の流れが織り成す重い音に混ざって何かを呼ぶ声が聴こえてきた。 「た……む……ん……たい……ん」 タイムは顔面を襲う吹雪に思わず目を閉じながらも、必死に耳をそばだてる。 「タイムさん!」 「!」 目を開けると、そこは先程までいた洋館の廊下で、タイムは紅い絨毯の上、シャンデリアの下に立っていた。 自分の姿を見ても、服に雪はついていない。濡れてすらいない。 「どうされましたかな?」 執事が足を止め、心配そうにこちらを見ている。足下ではローラも「どうしたの?」とでも言いたげに首を傾げていた。 「……いや、なんでも」 タイムは再び歩みを進めた。その手には、夕陽色の石が音無く煌めいていた。 「どうぞ、ごゆっくり」 執事はそう言い残し、木製のドアを軋ませながら閉めた。 そういえば、タイムはここに来てから人に会う度に「ごゆっくり」と言われてきた気がする。 その言葉を口にしなかったのは、あのあばあさんだけだ。 パーティ会場とは打って変わって、質素なベッドとテーブル、チョンチーを象った小さなランプが置かれた、地味な部屋だった。 天井には一応でっかい照明器具があるが、いわゆる消灯時間を過ぎたからか、暗く沈黙している。 「ま、旅人用の宿泊部屋ならこんなもんか」 タイムはベッドの横に腰を降ろした。思ったより尻は沈まない。その横に、ローラが軽くジャンプして飛び乗って来た。 「……さっきの……幻覚なのか? あんなの、初めてだ……」 ぼすっ、とタイムはそのまま背中をベッドに預け、両手を広げて寝転がった。 視線を窓に写すと、相変わらず外は猛烈に吹雪いていた。……あの幻覚の中の光景が、そこにあった。 「相当疲れてんだな、きっと……旅慣れしてねーし。早いとこ寝とくか」 そう一人ごちて、タイムはモンスターボールを取り出し、それをローラに向け、 「……たまには一緒に寝るか」 そのまま何もせずにベルトに戻した。 ローラはよほど嬉しかったのか、瞳を輝かせてタイムの胸に飛び込んで来た。タイムはその小さな身体をしっかりと抱きしめる。 何故か、炎タイプのガーディ以上の温もりを、その肌から感じ取った。 初めのうちは、風が窓を揺らすカタカタという音が気になり、なかなか眠ることに集中出来ないでいたが、 それでもやはり疲れていたのか、知らぬ間に二人とも、深い眠りについていた。 それからしばらく経ったころ、紫色の丸い影が、室内の何も無い空間からフッと沸き出て来た。 「……ん……?」 タイムは何か右腕に違和感を感じ、目蓋を上げた。寝起きで霞む目を擦ろうとしたが、その右手がくいくいと何かに引っ張られる。 どうやら右手の手首に、黒い紐のようなものが絡み付いているらしい。 タイムはその紐の繋がっている先を目で追い、その正体を見て驚き、完全に目を覚ました。 「フワンテ?」 「ぷわわー!」 黒い紐はどうやらフワンテの腕だったらしく、 フワンテはタイムをベッドから引きずり降ろそうとでもするかのように、懸命にタイムを引っ張っていた。 体重差があるため、タイムの身体はほとんど動かないのだが。 暫くの間訳が分からず、必死な表情のフワンテを呑気に眺めていたが、タイムはふとその姿に既視感を覚えた。 「あ、お前……キクか?」 「ぷわっ!」 大きな声で鳴いて答えたことから、たぶん間違いはないだろう。 あのおばあさん……スハマと共にいた、少し臆病なフワンテのキクだ。 「どうしたんだ? こんな夜中に……って、ゴーストタイプだからむしろ夜の方が元気か。まだ遊び足りないのか?」 しかし、ひたすらタイムの腕を引っ張り続けるその様子に、タイムは自分の予想が間違っていることに気付く。 タイムはスハマとの話を思い出し、なんとかキクの考えていることを理解出来ないかと、その顔を覗き込んでみた。 「ぷわー! ぷわわー、ぷわ!」 あまりに激しく鳴くので、タイムの腹の辺りで蹲っていたローラもどうやら起きてしまったようで、寝ぼけ眼で耳をピクピクさせている。 「ぷわ、ぷわー!」 と、キクはいきなりタイムの腕を放し、部屋の扉の近くへ飛んでいった。力を入れていなかった腕が、白いシーツの上にだらりと下がる。 「……ついて来い、ってことか?」 「ぷわー!」 半ば勘だった……というか、他に可能性が思い当たらず口にしたのだが、キクはこくりと頷いた。 ならばとタイムは両手をついて立ち上がったが、そこで普段なら気にも留めないはずの、あることが脳裏を掠めた。 ――フワンテの正体は実は世からの遣いで、手を掴んだ相手をそのままあの世へと連れて行ってしまう――。 タイムが立ち止まってしまったので、キクは再び紐のような手を伸ばしたが、 タイムはそれを反射的に振り払ってしまった。そしてその自分の行動に、タイムは呆然とする。 「あ……くそっ! どうすりゃいいんだ……」 やり場のない怒りと戸惑いを何かにぶつけるかのように、タイムは悪態をつく。 スハマの話や廊下で見た幻覚のせいか、現実主義者であるはずのタイムの思考に揺らぎが生じていた。 「ぷわー……」 「キク……」 だが、相手の名前を口にした時、タイムは決心を固めることにした。 乱れていた服装を軽く整え、意識をはっきりさせる為に両手で頬を強く叩く。 目に見え、耳に聞こえることだけが正しい。 古くからの伝説から朝のニュースで流れる占いに至ってまで、 迷信めいたものは信用しないタイプのタイムが、ひとつだけ信じてもいいと思っている「迷信めいたもの」があった。それは、 「……菊の花言葉は、『私を信じてください』だもんな。よし、ローラ!」 ベッドを振り返ると、上体を起こしたローラと目が合う。そして、同時に頷き合った。 ……となれば格好いいのだが、案の定、タイムが縦に頷くと同時にローラは首を斜めに傾けた。 「ったく……」 タイムは溜息をつき、左手でローラの首の後ろをつまんで持ち上げると、右手で部屋のドアを開けた。 ギィィ……と、実に不吉な音が室内に響く。 「案内してくれ、キク」 「ぷわわー!」 「……どうなってやがんだ……?」 数刻前にも幻覚の中で口にした同じ言葉を、タイムはもう一度言わざるを得なかった。 ドアを抜けて廊下に出たタイム達が目にしたのが、 「洋館の豪華な内装」ではなく、「限りなくリアルなお化け屋敷」だったからである。 目の覚めるような紅い色をしていた綺麗な絨毯はところどころが破れ、床を剥き出しにさせており、 表面ももはや紅とは呼べないレベルまでくすんでしまっている。 その上にはうっすらと埃が被さり、一歩歩くとまるで雪原のようにはっきりとした足跡がついた。 天井の照明はぼろぼろになってコード一本で斜めにぶら下がっており、 壁には大きな穴が開き、その奥には永遠に広がっているとも思えるような暗闇があった。 「やばいだろ、これ……疲れすぎじゃないか……?」 建物の常軌を逸した変貌ぶりに、タイムはまた幻覚に襲われているのかと、こめかみに手を当てて頭を振る。 思わず棒立ちになっているその間にも、キクは急かすようにタイムの周りをぐるぐると飛び回る。 最初はスハマが体調を崩したのかもとか、それぐらいしか考えていなかったのだが、 どうやら常識レベルじゃないような変化が起こっているようだ。 「きゅいっ!」 いきなり、ローラの長い耳がピクンと跳ねた。 どうした? と尋ねようとした次の瞬間、耳を劈くような悲鳴が聴こえてきた。 人の悲鳴ではなく、建物を支える太い柱の表面に、黒い稲妻が刻まれる音が。 「ヒビが……しかもこんなに派手に……」 タイムの呟きは、また新しいヒビが入る大きな音に掻き消される。 気がつくと周囲は、柱やら壁やら天井やらが崩壊しようとする断末魔が絶え間なく響き渡っていた。 その上、微かではあるが床から、足の裏に振動が伝わってきている。 この現象から弾き出される答えは、信じたくないがただひとつ。 「ここが、崩れる、ってのか……!?」 大きく目を見開いたタイムの目の前を、天井から剥がれ落ちた木の破片が通過していった。 「きゅいーっ!」 地震のような床の揺れが怖くなったのか、ローラが器用にタイムの服をよじ登りその肩の上に乗っかる。 タイムはその震える背中に手を添え、 「ローラ……しっかり掴まってろよ。キク! 行くぞ!」 床の震えを気にすること無く猛然とダッシュした。キクもその脇にぴったりつく。 いろんな場所が軋む音を立てながら、その中でもタイムの足音はよく響いていた。 「どこから脱出すれば……いや、その前におばあさんや、他の人達の避難が先だ!」 曖昧な記憶を頼りに、タイムはひとまずパーティ会場へ向けて走り出す。 床を蹴る度に埃が巻き上げられ宙を舞い、床にいくつも落ちた建物の小さな残骸がかたかたと細かく震えた。 部屋を出て二つ目の角を曲がったとき、 タイムは廊下の真ん中に黒いスーツを着たあの執事がこちらに背中を向けて立っていることに気がついた。 慌てて足にブレーキをかけ、ひときわ埃が大きく舞い上がる。 「おい! 何ボーッと突っ立ってんだ! 早く客を逃がさねーと……」 「……どうされましたかな?」 ゆっくりと振り向いたその男の姿に、タイムは一瞬心臓が止まりそうになった。 彼の胸には、木の杭が……崩れ落ちた柱の一部が、深々と突き立てられていた。 血は全く流れていない。だが、そのことが余計に、恐怖感を演出していた。 更に、埃のせいで見え辛くなっていたのだが、執事の足は膝から下がねじ切られたようになくなっている。 いくら目に見えるものしか信じない現実主義者のタイムでも、今実際に自分の目に映っているものを、疑うことは出来ない。 頭が真っ白になり、口をぱくぱくさせているタイムを執事は虚ろな目で捉えながら、感情の無い声で言った。 「どうかお部屋に戻って、ごゆっくりとお休みください……。私どもは、あなたの安静な、そして永遠の眠りをお約束致しますが故……」 執事が一歩一歩、こちらへと近づいてくる。 足が無いのに一歩一歩という表現はおかしいが、ただ空中を浮遊してくるのではなく、 まるで本当に歩いているかのように、微かに上下に揺れながら近づいているのである。 急がないといけないのは分かっているが、タイムは金縛りに遭ったようにその場を動けないでいた。 みるみる内に両者間の距離は縮まり、ついに執事がゆっくりと両手を伸ばして…… 「ぷわっ!」 ぱしぃっ! キクのしっぺ返しを頬に喰らい、タイムはハッと正気を取り戻した。 迫り来る両手を慌ててかわし、執事の横をすり抜けて再び通路の奥へと走り出した。もう振り返る余裕は無かった。 「……これ、きっと誰に言っても信じてもらえないんだろうな……」 そんなことも考えながら、タイムはローラ、キクと一緒にぼろぼろの洋館の中を駆け抜けていく。 途中あの執事と同じように、ズタズタの燕尾服を来た恰幅のいい男性が、血塗られた赤黒いドレスを身に着けた婦人が、 どうにかタイムを屋敷の中に押しとどめようと襲いかかってくる。 「お待ちなさい……我々と共にもっとゆっくりしていくといい……」 「まぁまぁ、若い人はせっかちねぇ……どうせ急ぐなら私達のように死に急げばいいのに……」  ゴーストポケモンならともかく本物の幽霊と対峙したことは無かったタイムだったが、 ローラとキクが力を合わせてなんとか退け、道を作ってくれた。 やがて、廊下はT字路に突き当たった。右と左、鏡に映したようなそっくりな通路が先へ続いている。 「チッ、こんな道なかったじゃねーかよ……キク、分かるのか?」 そうキクの表情を窺おうとしたとき、ギィギィと喧しい洋館の悲鳴に紛れて、 どこか包容力を感じる優しい声が、左の通路奥から聞こえてきた。 「……こっちへ……」 「ぷわっ!」 「今の声……!」 タイムは『実際に耳に聞こえた』声を信じ、左へと進路を取った。 既に天井の大部分が崩れ落ち、たくさんの破片が折り重なっていたが、それでもしっかりと通路は続いている。 破片の山を踏み越え、もはや何を描いていたのかも判別出来ない程に引き裂かれた水彩画を蹴飛ばし、 まっぷたつにへし折られた木製のベンチを横目に見ながら、タイム達はただひたすらに走った。 だがしかし、その時背後から聞こえた声に、タイムはついつい足を止めてしまった。とても優しく、柔らかい声だった。 「ありがとうね……私の言葉に耳を傾けてくれて……」 「スハマ……さん……」 あれだけ心に残る言葉を貰ったのだ。声の正体はすぐに分かっていた。 だがタイムは、どうしても振り返ることだけは出来なかった。 何故だかは分からない。幽霊が恐いだけなのかもしれない。 あの執事やパーティの参加者達のように、館の崩壊に巻き込まれボロボロになった彼女の姿を見たくなかったのかもしれない。 「急いで、早くこの建物を出なさい……」 スハマの声は、決して大きなものではない。 なのに、全く他の騒音の影響を受けること無く、タイムの耳に、いや脳に、ダイレクトに届いてくる。 「こんな所で立ち止まってないで……貴方達には、明るい未来があるのだから……」 彼女だけは、脱出しようとするタイムを引き止めはしなかった。 むしろ背中を押してくれた。しかしそれなのに、だからこそ、タイムは二の足を踏んでしまっていた。 「俺は……スハマさんを助けられないのか……?」 「とんでもない。私はとっくに、貴方に助けてもらいました。だから今度は私が助ける番……」 「きゅいぃっ!」 ローラが焦ったような鳴き声を上げた。見上げると、天井がかなり歪んでしまってる。板の裂け目が、目に見える速さで広がっていく。 タイムは一言、ぽつりと呟いた。どんな微かな言葉でも、スハマならきっと聞き取ってきれるだろう。 「……ありがとう」 背後で、スハマがにっこりと笑った。ような気がした。タイムは未練を断ち切れるよう充分勢いをつけ、もう一度走り出した。 「さぁ、貴方は、いきなさい……」 最後に残した言葉は、「行きなさい」だったのか、それとも「生きなさい」だったのか。 タイムには分からなかった。ただ、他の多くのことをスハマによって分からされた。 ガラガラガラガラっ! 今までで一番大きな崩落音と振動と共に、後ろから強烈な風が埃と細かい木屑を乗せて吹き付けてきた。 音の大きさで判断すると、発信源は恐らく、あのベンチがあったあたりである。天井の強度が限界を迎え、崩れ落ちたのだろう。 タイムはその音を遥か遠い夢の中のように聞きながら、足を止める代わりに、 ポケットの中の炎の石を握りしめ、もう一度心の中でお礼を言った。 もうほとんど扉の役目を果たしていないドアを思い切り蹴破る。中に入ると、そこはあのパーティホールだった。 テーブルも暖炉も、シャンデリアも観葉植物も、原型をギリギリ留めているかいないかのあたりまで破壊されているが、 奥にある、タイムが初めに潜った大きな玄関を見ても、間違いなくあの部屋だった。 タイムは立ち止まり、息を整えようと肩を上下させる。 あまりに辛そうに見えたのか、キクに心配そうに顔を覗かれ、ずっと肩にしがみついていたローラが、 ぴょんとボロボロになった絨毯の上に飛び降りた。 と、その時突然、 「あら? もうお帰り?」 あの人とは正反対の背筋が凍るような冷たい声が、部屋の中央、ぐちゃぐちゃに積み重なったテーブルの方から聞こえた。 思わず身構えるタイム達の視線の先でテーブルの山はがたりと揺れ、その下から一人の女性が這い出してきた。 短い髪は乱れ、身につけた黒のウインドブレーカーは袖が破れなくなっていたが、その顔には見覚えがあった。 「折角こんな素敵な場所にずーっといられるのに、勿体無いじゃない」 「……残念だけど、俺はもう行きます」 だが女性はタイムの言葉を完全に無視し、ポンと手を叩いた。 「そうだ、ポケモンバトルしましょうよ。私が勝ったら……貴方も私達の仲間になってね」 そう言って不敵に笑い、女性は肌が剥き出しになった右腕を上げた。 すると、何もないはずの空中に、突如突風と共に若緑の翼が忽然と姿を現した。 「フライゴンっ……!」 他の人間達と同じ虚ろな瞳を赤いカバーに覆い、一対の触覚と大きな翼を持つ、虫のような見た目ながらも竜の特徴を備えたポケモン―― フライゴンが、埃を派手に撒き散らしながらテーブルの山の上に降り立った。 あの時女性は、フライゴンのことを「普通のバトルの時には頼りになる」と言っていた。かなりのレベルとみて間違いないだろう。だが、 「もうやるしかない……んだろうな。ローラ、キク、力を貸してくれ」 「ぷわわっ!」 「きゅい?」 頼もしいキクとは違い、こんな状況でもやはり首を傾げるローラだったが、それでも三秒程経って、しっかり頷いてくれた。 「よし、ローラは突進! キクは……相手の動きを見てシャドーボールだ!」 主人の指示を受け、ローラは床に散らばるガラス瓶やら何やらを器用に避けながら、それでもなかなかのスピードで駆ける。 だが、相手の動きはそれ以上に速く、ローラが到達するより先にフライゴンは大きく羽撃き、宙へと飛び上がる。 ローラは吹き飛んできた埃をもろに被り、立ち止まって咳き込んでしまった。 ならばとキクは、飛び上がった相手と同じ高度まで上昇し、紐状の両手の間にエネルギーを収束させる。 闇を極限まで凝縮したような紫黒のそれは、大きな球となって放たれた。しかし、 「アイアンテール」 下方から抑揚の無い指示が飛ぶ。フライゴンは触覚をぴくりと動かしたかと思うと、 大きく身を捻り、鋼のように硬い尻尾の一撃でシャドーボールを打ち砕いた。 そしてさらに、フライゴンの猛攻は続く。 「さぁ、やりなさいフライゴン」 女性がそう口にすると、フライゴンはこちらを威嚇するかのように大きく翼を広げた。 するとそれに呼応するかのように、翼の周りの空間が歪み出す。その異様な光景に、タイムとローラは思わず一歩身を退いた。 空間の歪みは闇の亀裂を生み、そこから絞り出されるように姿を現したのは、茶色い岩石だった。 岩石が、全部で九つ。どれも鋭く研磨され、切っ先とも呼べる突起をこちらに向けている。それはまさに、石の刃だった。 「くっ、そんなのありかよ……!」 「ストーンエッジ……発射」 女性が腕を振り、フライゴンはその動作を真似るように、翼で石の刃を射ち出した。 暗いパーティルームを飛び抜ける刃の流星は、キクを撃墜し、逃げ惑うローラを傷つけた。 「ローラ、キク! 大丈夫か!?」 タイムは散らかった床に躓きそうになりながらも、なんとか身体を起こそうとする二匹の元へ駆け寄った。 両者ともかなりのダメージを受けたが、それでも相手は追撃の手を緩めない。 「……とどめ。火炎放射」 フライゴンが長い首を大きく仰け反らせ、息を吸い込む。次の瞬間には、必殺の炎が容赦なく三人を襲うだろう。 タイムは咄嗟に二匹の身体を抱えて後ろに走り出した。その直後、背中にじんわりとした熱を感じる。 タイムが後ろではなく横にかわそうとしなかったことを後悔したとき、その足下を赤い何かがすれ違っていった。 ドンっ! 胸に響く重低音と共に、室内が一瞬、照明が復活したかのように明るくなった。 タイムは、また天井が崩れたのかと思い、慌てて振り向いたが、目にしたのは建物の残骸ではなく、 フライゴンの火炎放射を一身に受け止める四つ足の小柄な獣の後ろ姿だった。キクが腕の中から、驚いたような鳴き声をあげる。 「お前、ナデシコ!? なんでここに!?」 「ゥゥゥ……ワオォゥッ!」 とても老体とは思えない気合いのこもった咆哮と共に、ナデシコは迫り来る紅蓮の炎を振り切った。 「いや、振り切ったんじゃねぇ……受け止めてる!」 見ると、炎のように赤いナデシコの体毛を、更に本物の炎が包み込んでいる。 ガーディは「貰い火」という特性を持つ。 相手の放つ炎のエネルギーを吸収し、逆に自分の力を高めるという炎ポケモンならではの特性だ。 今までポーカーフェイスを貫き続けていた女性の顔が、僅かに歪んだ。 「……全員まとめて吹き飛ばしなさい、フライゴン」 その声に反応したフライゴンは、滑空して高度を下げ床近くまで来ると、高速で翼を羽撃かせ、強烈な風を起こした。 その風は何処からともなく巻き起こった砂を纏い、次第に渦を巻き、こちらへ襲いかかる。 砂嵐。以前タイム達が成す術無くやられた、幼馴染のガブリアスの得意技である。砂の竜巻は、今にもナデシコを包み込もうとしていた。 「危ねぇ、ナデシコ! 炎系のお前じゃフライゴンには分が悪すぎる!」 「ウォウッ!」 ナデシコはちらりとこちらを向いたかと思うと、強く床を蹴り、ぼろぼろの絨毯に黒い焦げ痕を残しながら、自ら砂嵐の中へ飛び込んだ。 さらに、器用に身体を横回転させ、自身が小さな炎の竜巻となる。 ナデシコの火炎車が、フライゴンの砂嵐と真っ向から衝突した。 「あいつ……」 種類にもよるが、撫子の花言葉のひとつに『勇敢』がある。不利な相手に臆せず今のナデシコの様子は、まさにそれだった。 右巻きの竜巻と右巻きの竜巻が互いにぶつかり合うことで、両者の勢いは急激に削がれていく。 初め目に見えない程だった回転が少しずつ緩み、やがて……ナデシコの纏う炎が、消えてしまった。 「!」 だがそれと同時に相手の砂嵐も完全に掻き消え、フライゴンの身体が無防備になる。 一方炎の鎧は失ったものの、ナデシコ自身の突進力はほとんど衰えていない。 技を出し切った直後の一瞬の隙を逃さず、ナデシコは一気に間合いを詰め、フライゴンに跳びつくと、翼の付け根に牙を突き立てた。 「やった!」 「くっ! 早く振り払って!」 苦しそうに身を捩る砂漠の精霊だが、ナデシコも負けてはいない。 身体全体を使って必死にしがみついている。本当に年老いているのか疑いたくなる程だ。 更にナデシコが噛み付いている翼の付け根から、白煙が立ち上り始めた。 ナデシコの牙はただの牙ではない。体内に隠る熱を集中的に注ぎ込んだ炎の牙だ。 「ぷわわー!」 「きゅい、きゅいっ!」 すっかり祈る気持ちになっていたタイムの両脇から、二匹が盛んに鳴き声をあげる。 ハッとしたタイムは腕を放し、パートナーにトドメの指示を送った。 「ローラ、全力でいけ! 突進だ!」 「きゅいぃい!」 先程のナデシコに勝るとも劣らない、猛然としたダッシュで相手に肉薄する。 フライゴンは死に物狂いの抵抗を見せ、ついにナデシコを振り払った。 そして突進を避けようと飛び上がろうとするが、炎の牙によって受けた火傷のせいか、思うように翼が動かない。 「いっけぇぇぇ!」 渾身の一撃が決まった。ローラの数倍はあろうかという巨体がぐらりと傾き、フライゴンは背中から床の上に倒れ込んだ。 大量の埃が下敷きを避けるようにぶわっと舞い上がる。 咄嗟に手で顔を覆ったタイムが再び室内を見渡した時には、既に埃は霧散し、フライゴンも、トレーナーの女性の姿も消え去っていた。 「悔しい……悔しいわ……」という小さな呟きを残して。 「よし……やった!」 タイムが心の中でガッツポーズをすると同時に、木の軋む音と同時に天井から落下してきた梁の一部が床を叩いた。 その音に、タイムは現実に引き戻される。この洋館は、今にも崩壊しようとしているのだ。 タイム達は急いで部屋の隅へと駆け寄る。ついにタイム達と外との間は、大きな扉を一枚隔てるのみとなった。 タイムはゴクリと唾を飲み、把手に手をかける。 しかし、扉を引いても、はたまた体重をかけて全力で押してみても、頑丈そうな木製の扉はびくともしなかった。 その間にも、壁や床は徐々に振動の強さを増していく。この寒さにも関わらず、タイムは額に汗が滲むのを感じた。 「きゅいー!」 突然声を上げたローラは、視線を上方に向けている。 タイムはその視線を追って、思わず舌打ちした。――扉の外枠が大きくひしゃげ、扉を著しく変形させている。 「クソっ! ここまで来て……」 だが、悪態をついている場合ではない。時間はもう殆ど残されていないのだ。 タイムは体当たりで扉をブチ破ろうと、助走の為に一度扉から離れた。そして、 「どりゃぁぁあ!」 十六年の人生で一番の全力疾走だったが、あっけなく扉に跳ね返されてしまった。 痛そうに肩を抑えるタイムの元へ、ローラが心配そうに駆け寄ってくる。 「まだ……まだだ!」 もう一度、助走用の距離をとる。そしてもう一度足を踏み出そうとしたとき、 「ウォウッ!」 「なっ……どうしたんだよ、ナデシコ!」 ナデシコが、タイムのズボンの裾に噛み付いて動かなくなった。まるでタイムが扉へ近づくのを止めるかのように。 「ナデシコ、放してくれ! もう時間が……」 「グルルルル……」 タイムは足を引きずろうとするが、ナデシコは絨毯を踏みしめ、てこでも動かない姿勢を見せる。 ズボンをくわえたまま、ゆっくりと首を振った。すると、 「ぷわわーっ!」 今度はキクが動いた。すーっと揺れる部屋の空中を移動し、扉の目の前で静止する。ちらりとこちらを見た目は、笑っていた。 そして、紫色の身体の奥から、急激に目映い光が沸き上がった。 「なっ……おい、嘘だろ!? キク!」 キクの身体が、どんどんと膨張していく。膨大なエネルギーを、体内に蓄積させている証拠だ。 ナデシコに足を拘束されているタイムは、手を伸ばしながら夢中で叫んだ。 「バカ、焦るな! まだ時間はある! ドア壊すぐらい、なんか他の方法探して……」 無意識のうちに、タイムはスハマと同じことを口にしていた。そのことに、タイム自身は気がついていない。 だが、彼女の遺した言葉が、タイムの考え方に大きな影響をもたらし、心の奥底に染み込んでいたからこそ、咄嗟に飛び出したのだろう。 しかし無情にも、今彼らに与えられた時間は、もうゼロに近づいていた。 「キクーーーーっ!」 ――大爆発。 あまりに激しすぎて、逆に聴力を奪いそうな爆音が辺りを包み込み、 フライゴンの攻撃など比にもならない強烈な爆風が、僅かな雪とともに吹き荒れた。 爆風はナデシコの毛を、棒立ちになったタイムの髪とジャケットのフードをバタバタと暴れさせる。 風圧に耐えられずに吹き飛ばされてきたローラの小さな身体が、丁度構えたタイムの胸の中にすっぽりと収まった。 そっと、ナデシコはズボンの裾から牙を放す。 すこしよろめいたタイムの顔に扉を粉砕され大きく口を開けた玄関から入り込んだ雪が貼り付き、すぐに融けた。 「……馬鹿野郎……!」 「きゅいきゅいーっ!」 だがタイムには感傷に浸る時間さえも与えられなかった。 扉を吹き飛ばしたことで、それまで扉が支えていた部分が脆くも崩れ始め、再び玄関を塞ごうとしていたのである。 腕の中で懸命に叫ぶローラの声が耳に届いたが、タイムの足はまるでセメントで固められたように動いてくれない。 「ウォォォオゥッ!」 突然、タイムは背中に大きな衝撃を覚えた。ナデシコが思い切り体当たりしてきたのだ。 その思いがけないパワーにタイム達の身体は軽々と宙を舞い、階段を飛び越えて雪に覆われた地面の上に転がった。 骨が痺れるような冷たさが、タイムの全身を這い上がってくる。 「ってぇ……」 タイムは霞む瞳で洋館を見た。もはや止まることのない崩落の最中、原型を留めていない玄関先に、こちらを見つめる影があった。 ナデシコだけではない、道を開く為に自爆したはずのキクも、そしてスハマまでもが、並んでタイム達を見送っていた。 そして程なくして……その姿は、瓦礫の中に消えた。 二百十七番道路を襲う吹雪は更に強さを増し、力なく横たわる一人と一匹の体温を容赦なく奪っていく。 タイムはなんとか上体を起こし、歩き出そうとした。だが、 「くっ……」 落ちた際にどこかぶつけたのか、それともあまりの寒さに感覚が麻痺しているのか、 両手を地面についても思うように力が入らず、身体は逆に雪の中に埋もれていく。 「くそっ、折角……」 一緒に話をしたり、戦ったりしたのはほんの僅かな時間だった。 しかしそのほんの僅かな、しかし濃密な時間は、タイムの価値観に変化をもたらすのには充分だった。 「折角、いろんなことを教われたってのに……!」 言うことを聞かない身体に鞭打って、タイムは無理矢理立ち上がった。しかし途端に強い風と雪がその身体を貫き、タイムの表情を歪ませる。 さらに深く積もった雪に足を取られ、タイムは再び冷たい雪原に倒れ伏してしまった。 腕の中で震えていたか弱いパートナーは雪の上に投げ出され、ポケットから夕陽色に煌めく石が転げ落ちた。 「ローラ……っ!」 「きゅいぃ……」 返事は弱々しい。しかしローラは必死に肢体を動かし、雪を掻き分けながらこちらへ近づいてくる。その様子が、徐々にぼやけ始めた。 「あ……最後、お礼言い損ねた、な……あの、三人に……あり、が……と……」 「きゅい、きゅいぃ!」 「ローラ……今まで、悪かったな。これからは、ちゃんと……お前の心に……耳を、傾けないと、な……」 「きゅいぃー!」 すぐ側までやってきたローラが、身体を揺さぶっているのが分かる。 だが、もうタイムは手足を動かすことも、意識を保つことも難しくなっていた。 吹雪の中、既に真っ白になっている視界の隅で、ローラの鳴き声と共に強い光が生まれた。 それを最後に、視界は暗転し、タイムは意識を手放した。 胸の辺りに、何か生命の温もりを感じながら。 焦る必要はない。 時々立ち止まったり、迷ったり戻ったりしながら、ゆっくり進めばいい。 空は抜けるように青く、ひと欠片の雲すら見当たらない。太陽の光が、地面の花に恵みの光を与えている。 そんな色とりどりの花が咲き乱れる公園の、大きな木の影に置かれた白いベンチに、一人の少年と一匹のポケモンが腰を降ろしていた。 少年は大きく伸びをしながら、隣のパートナーに向かってぽつりと呟いた。 「……なあ、ローラ」 「きゅぁーぅ」 「結局、なんだったんだろうな……」 タイムは一人ごちながら、ローラの頭を撫でる。 全体的に赤みがかった身体はひと回り大きくなり、首回りや尻尾の毛はもさもさとボリュームを増している。 イーブイからブースターへと姿を変えたローラは、気持ち良さそうに目を細めた。 あの後、タイムがようやく目を覚ました場所は、最寄りの町であるキッサキシティにある病院の、雪のように白く、だが暖かいベッドの中だった。 ちなみにその際、隣のベッドに横たわっていた見覚えの無いポケモンが、 こちらを向いて首を傾げたのを見て驚いたタイムは、危うくベッドから転げ落ちそうになった。 医師の話によると、雪原のど真ん中で身体を半分雪に埋めて倒れていたタイム達を、 通りかかった人が見つけてくれ、ここに運ばれたらしい。 身体は危険な程冷えきっていたようで、側にいたブースターの体温が高かったのが、一命を取り留めた要因になったそうである。 「良かったな、イーブイをブースターに進化させていて。仮にシャワーズやグレイシア辺りだったら、どうなっていたことか」 冗談めかして言う医師に、タイムは苦笑を返すことしか出来なかった。 あの雪の中の洋館についての話は、お見舞いに来てくれた同い歳ぐらいの女の子から聞くことが出来た。 黒い髪を三つ編みにした元気の良さそうな子で、どうやら彼女がタイム達の発見者だったらしい。 彼女の話によると、かつてあの地には、とある富豪が立てた豪華な別荘があった。……つまり、今は存在しない。 もう何年も前に、キッサキシティ近辺を大きな地震が襲い、 もともとデザイン性重視で建てられた洋館はしっかりした耐震性能をもってはおらず、跡形も無く崩れ落ちてしまった。 運悪く、その日洋館では多くの客人を招いたパーティが開かれており、その参加者や彼らの連れていたポケモン達、 さらにたまたま吹雪に見舞われて迷い込んできた三人の旅人を含めた、洋館にいた全員が亡くなったという。 ここから先は噂の段階になるのだが、それ以降、洋館があった場所を通りがかった旅人が、 たびたびそこで似たような洋館を目にするようになったという。 洋館に近づいたが最期、罪も無く死んでしまった人々が生きている人間を妬み、 偽りの洋館に引き止め、凍え死にさせてしまうというのだ。いわゆる地縛霊の類だという。 現実主義者のタイムだが、世の常識以上に自らの体験を信じたタイムは、その事実をすんなり受け止めた。 とはいえ、単に寒さで意識を失い、夢を見ていただけとも考えられる。 はっきりとした物的証拠は存在しない。証拠と言えるものは、ローラがブースターに進化していたことぐらいだ。 ちなみに、女の子は早々と帰ってしまったため、「フワンテとガーディを連れた老婆」については尋ねることが出来なかった。 彼女は「事務の仕事が忙しいから」と言っていたが、あの歳でそんな硬そうな仕事をしているのだろうか。 もしかしたら親が会社などを経営していて、その手伝いをしているのかもしれない。 とにかく、スハマ達だけが生への渇望に捕らわれず、むしろタイム達を助けてくれたその理由は、分からず終いだった。 「ローラ、お前がブースターになったのって、もしかしてさ、俺を助けようとしたからなのか?」 「……きゅぁぅ?」 ローラはこちらを見上げそして、首を傾げた。 もちろん、ちゃんとした答えを期待していたわけではない。 しかしあまりにいつも通りなその動作に、タイムは思わず吹き出した。進化して姿を変えても、ローラはローラなのだ。 きっとローラのことだから、転げ落ちた炎の石に興味を持ち、思わず手が伸びただけかもしれない。 「けど、結果的にお前のお陰だもんな。サンキュ」 本当はあと三人程お礼を言いたい相手がいるのだが、それはまた次の機会にとっておくことにした。 「きゅぁぁー……」 心地よいそよ風が吹き、ローラは大きな欠伸をひとつした。その呑気さにタイムは溜息をつきながらも、どこか癒されていた。 「……お前さ、自分が進化したことに気がついてるか?」 「きゅあぅ?」 「ちょっと火ぃ吹いてみろ、前に」 暫くの間、首を傾げたまま目をぱちくりしていたローラだったが、やがてゆっくり向きを変えると、ごうっと立派な炎を吹き出してみせた。 「おお、偉い偉い。……あ、そうだ。ローラ、炎の渦の練習しようぜ。あいつのガブリアスの砂嵐を掻き消せるぐらい強烈なやつ」 「きゅあぅっ!」 珍しくやる気を出したのか、ローラは耳をぱたぱたさせ、ぴょんとベンチから土の上に降り立った。 タイムはその様子に微笑みを零しながら、 「まぁ、焦らなくてもいいけどさ。ちょっとずつ、強くなっていけばいい」 立ち上がって、花畑に囲まれた一本道を相棒と並んで歩き始めた。 赤やらピンクやら黄色やらの暖色が溢れた景色は、あの時の殺風景な銀世界とは雲泥の差である。 ふと、足下にとある花を見つけ、タイムは歩みを止めた。その一輪だけは何色にも染まっていない、雪のように白い小さな花だった。 「……雪割り草、か。……そういえば……」 「きゅあ、きゅあぁぁーぅ!」 いつの間にか大分先へと行っていたローラが、首だけで振り返ってこちらを呼んでいる。 タイムは少しの間雪割り草を見つめた後、小走りでその背中を追いかけた。 (……理由とか、そんなまどろっこしいこと、関係ねーのかもな) タイムはそんなことを思いながら、あの春の日差しのように柔らかな微笑みを脳裏に描く。 あの人は、優しかった。優しかったから、死してなお、黄泉の迷宮に迷い込んだ少年を助けてくれたのだ。 理由を挙げるとしたら、きっとそれなのだと思う。 根拠はない。ただ、現実主義者のタイムが唯一信じるものが、そう告げていた。 タイムはちらりと後ろを顧みる。 雪割り草。別名、スハマソウ。 その花言葉は『慈愛』。全ての者を慈しみ、愛する存在。 END