…… ……… ……目を開いた。 僕の瞳に映し出されたのは深い空の青とその下にどこまでもどこまでも広がる白い雲。 雲の海だった。 その海にも塩水の海で言うところの水平線が見える。 太陽のまぶしい光はあたたかく僕をつつみこんでいた。 ――ここはどこだ? 僕が寝そべったまま、目を半開きにして、まだはっきりしない意識の中そんなことを考え始めたそのとき、 ブオォォーーーーーーーーーーーーーッ! 突然大きな音が鳴って僕を覚醒させた。 その音をともに飛び起きた僕に降り注ぐ水。なめてみるとしょっぱい水。 この音の正体を僕はよく知っていた。 おもわず僕は叫ぶ。 「潮吹きだ!」 大きな音とともにそいつの鼻…噴気孔から勢いよく海水が飛び出す。 そいつの噴気孔、でっかい鼻の穴を目の前にしながら僕は気がついた。 僕はこの鼻の穴の主の上に乗っかっているのだ。 飛行船のようなフォルムのその巨体は僕が知るうちで、 いや、現在知られているポケモンのうちでもっとも大きいもので、 一般的な大きさは全長14メートルと言われる。 14メートルもあっちゃ「ポケット」モンスターじゃないだろうと、 いうツッコミもしばしばさされるところであるがそれはまぁ置いておこう。 そいつの名はうきくじらポケモン、ホエルオー。 ホエルオーの頭の上で、僕は今まさに目覚めたのだ。 ホエルオーは僕が頭の上に乗っていることを気にすることもなく、 いや、むしろ僕が落ちないように気遣っているのか、 ゆっくりとゆっくりと、けれど確実に雲の海を進んでいく。
「それにしてもお前でっかいなぁ!」 僕はその大きさに感嘆の声を上げた。 ホエルオーは大きい、その大きさは誰もが認めるところだが、ぼくが言いたいのはそんなことじゃない。 僕が乗っているこいつの大きさは、今まで見てきたどんなホエルオーとくらべても別格だった。 通常の1.5倍…いや、2倍はあるだろうか…? 「1メートルってこれくらいだよな」 僕は足を開いてその歩幅をメジャー替わりにした。 そして、ホエルオーの頭から尾の付け根まで歩ける範囲で歩いてみて長さを測ることを試みた。 「1、2、3メートル…」 「13,14、15メートル…」 「26、27、28メートル…」 歩けなかった範囲を入れれば30メートルはあるか…? 「……すごい! こんなに大きなホエルオーはカスタニ博士だって見たことがないに違いない!」 僕は興奮して叫んだ。 カスタニ博士というのは、 僕の住んでる島で主にホエルコ・ホエルオーを研究している博士で、この道ウン十年のベテランだ。 博士がこいつを見たら大声でこう叫ぶに違いない。 『すばらしい! 私がいままで見た中で最長のホエルオーだよ!』 僕は小さいころから博士の武勇伝を聞いて育ったクチで、時々博士の研究の手伝いをしている。 気がついたらすっかり博士のあれやこれやを叩き込まれてしまっていた。 僕が数字にこだわるのはこういう理由からだ。科学者ってのは数字を気にする人種なんだ。 空の航海で僕にやれることは何もなかった。 唯一ある仕事といえば落ちないようにしているということ。 あんまり暇なので全長以外にも目測で測ってみて、 ポケットに入っていた小さなフィールドノートに短い鉛筆でそれをメモした。 これも科学者のクセである。 一番最初にはこう記した。 『雲の海を行くホエルオー、全長約30メートル』 ―――― ―――― 雲がつくる水平線。 あたたかく包み込む太陽の光。 僕の瞳には相変わらずさっきと変わらない風景が映っている。 深い空の青とその下にどこまでもどこまでも広がる白い雲。 ――――雲の海。 おおきなホエルオーは相変わらずゆっくりと、ゆっくりと進む。 けれど、確実にどこかに進んでいる。 こいつには目的地が見えているのだろうか。 「なぁ、おれ達どこに行こうとしているんだ?」 ホエルオーは答えない。 否、答えられない。 時々、潮を噴き上げるだけだった。 ブォォオー ブォォオオオー 大きな噴気孔から盛大に潮が吹き上がる。 吹き上げられた水の粒子が太陽に照らされてキラキラと光る。 「それってお前なりに答えてるつもりなのか?」 ホエルオーは答えなかった。僕を乗せて雲の海をただ黙々と進む。 雲の海の中に浮かぶ、小さな無人島。 そこに一人のちっぽけな人間がひざをかかえている。 もしどこか遠くから僕達のことを見ているものがいるなら、僕達はそういう風に見えたかもしれない。 雲の海はこんなにきれいで太陽だってこんなに暖かいのに、なぜかさびしい。 そしてどういうわけだろう、事実、僕はだんだん心細くなってきた。 「おれ、どうしてここにいるんだろう?」 心細くなってきたのと同時進行でそんな疑問がふつふつと湧いてきた。 いや、むしろなぜ今まで疑問に思わなかったのか。 ホエルオーが雲の海を泳いでいる? 空に浮かんでいる? ホエルオーは海水の海に浮かんでいるものじゃないのか? それとも知られていないだけで空に浮かぶ種類もいるのか? そうだとして、どうして僕がそれに乗っている? 気がついたらすでに雲の海の中、僕はホエルオーに乗っていた。 その前は? その前は何をしていた? ――――思い出せない。 「ここはどこなんだ?」 僕の不安は頂点に達した。その時、 ブオォォオオオーーー! ブオーーー! ブオォォオオオォーーー! いくつもの潮吹きの音が響くと同時に、 僕と僕を乗せたホエルオーを囲む雲の中から無数の潮が吹き出した。 そしてそれに答えるように僕を乗せたホエルオーが最大級の潮を噴き上げた。 ブオーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ! 大量の海水が降り注ぐ。 それを待っていたかのように雲の中から潮を噴き上げていたものたちが浮かび上がって、その姿を現した。 それはたくさんのホエルオーだった。 ホエルオーたちが僕達を囲んでいる。 そのあちらこちらから潮が噴き上がる。 僕が乗っているホエルオーもそれに答えるように何度も、何度も潮を噴き上げる。 まるでひさしぶりの再開を喜ぶように。 たびかさなる潮吹きで僕の服はびしょびしょになった。 「こいつら、お前を迎えに来たのかい?」 僕はまた僕を乗せているホエルオーに話しかけた。 ホエルオーは小さく潮を噴き上げた。 ――そうだ。 そう言っているように思えた。 挨拶にいったん区切りがついたのか潮吹きの数が減り始める。 それと同時にホエルオー達の巨体が雲から離れはじめた。 雲に半分隠れていた身体が徐々にその姿を見せ始める。 そしてどんどん、どんどん上昇していく。 ――こっちだよ、はやくおいで。 そう言っているようだった。 ホエルオーの巨体がひとつ、またひとつ浮かんでゆく。 飛行船の上昇って見たことないんだが、こんな感じじゃないだろうか。 その光景は太陽の光がつくる逆光で神々しくさえ見えた。 きっとこの上にホエルオーの目的地があるに違いない。 だが、僕を乗せたホエルオーは動かなかった。 「どうした? 行かないのか?」 ホエルオーは答えなかった。 そして何か思案しているように見えた。 こうしている間にも仲間のホエルオーたちは1匹、また1匹と雲の海の海面から離れてゆく。 「もしかして、おれがいるからか?」 潮が小さく噴きあがった。 「おれの目的地とお前の目的地は同じじゃないのか?」 今度は潮吹きがかえってこなかった。僕とうきくじらの間に沈黙が続く。 どうしたものかと空を見上げると、迎えのホエルオーたちがもう小さくなってしまっていた。 「そういえば、お前には迎えがいるがおれにはいないみたいだ」 ホエルオーたちが小さくなっていく。 「あいつらはお前を迎えにきたんだ。おれを迎えに来たわけじゃない」 潮が噴き上がる。 「このままお前と一緒に行ってもおれ、一人なんだ」 突然のホエルオーたちの出現で忘れていたが、さっきの心細さがよみがえってきた。 ここはどこだ? どうして僕はここにいるんだ? 思い出せない…わからない。 …思い出したって言えばカスタニ博士のことくらいか。 ああ、そういえば博士はどうしているだろう? 博士だけじゃない。 …両親は? …島のみんなは? ああ、そうか……、自分がどうしてここにいるのかわからないけどひとつだけわかったことがある。 僕は…、 僕は… 「僕は…帰りたかったんだ」 そのときだった。 突然、僕を乗せたホエルオーが大きく身体をくねらせて…そして跳ねた。 それと同時に僕の体は宙に舞い上がる。 僕は体を宙に舞わせながら、僕はホエルオーのジャンプを見た。 それはスローモーションのようにゆっくりに見えて僕の目に焼きついた。 堂々とした、威厳のある……さすがは30メートルの大物だ。格が違う。 ジャンプを終えたホエルオーの巨体が雲の海に突っ込んだ。 その瞬間、雲の粒子が大きく巻き上げられて僕の視界をさえぎった。 何も見えなくなった。 …… ……… ……… …… …… … 「……ル!」 「…ハル! トシハル!」 ……自分の名前が耳に入っていることに気がついて目を開いた。 ぼやけた視界の中に誰かが僕を覗き込んでいる。 「目を開けたぞ!」 聞き覚えのある声。 自分にとってなじみのある声。 「おおいトシハル! 私だ! 私が誰だかわかるか?」 僕は小さいころ、 この人にいやというほど武勇伝を聞かされたものだ。 しゃべれるか…? 僕は微弱ながら言葉を口にした。 「そんなに大声出さなくてもわかってますよ……カスタニ博士」 博士が大きな声で叫んだ。 「バカヤロウ! お前が船を出したっきり帰ってこなくて島中大騒ぎだったんだぞ! 衰弱しきったお前が見つかったときはもう手遅れかと思ったが……よかった! ほんとうによかった!」 ―― 僕は当分の間、診療所でおとなしくしていることになった。 あれから両親に姉と妹、祖母や祖父、島中の人間が飛んできて、 怒鳴られたり泣かれたり…とにかく騒がしかった。 ここ数日間でそれも落ち着いて、今はゆっくりと過ごしている。 病室の窓の外からはしずかに波の音が聞こえてくる…。 ああ、帰ってきたんだ。 潮に流されて海を漂流していたときはもうだめかと思った。 でも…帰ってきたんだ。 帰ってきたんだ。この島に。 それにしても…あの夢はなんだったんだろう… 僕を乗せて泳いでいた大きなホエルオー、そしてたくさんのホエルオー達… ああ、もしかしてあれかな。 カスタニ博士のホエルオー熱がいよいようつったかな。 そう思って僕は苦笑いした。 窓のカーテンごしに日の光をあびながらゆったりとした気分になる。 そしてまた波の音に耳を澄ます。 その音に耳を澄ましているうちに僕はうとうとしはじめた。 が、今まさにはじまろうとしていた僕の眠りは妨げられた。 波の音に混じってはげしい足音がこっちに向かって近づいてきたからだ。 この足音を僕はよく知っている。 そしてはげしい音とともに病室のドアが開く。 「トシハル! 大変だ!」 ほうらやっぱり博士だ。 僕は条件反射的に返事を返した。 「どうしたんですか博士」 どうせ野暮用だと思って、休養中をいいことにろくに目もあわせなかった。 が、次の博士の言葉に僕は振り向かされる。 「島の漁師がな、漁に出る途中でホエルオーの死体を発見した」 心臓が大きく鳴った。 博士は顔を真っ赤にして目を見開きながら早口で続ける。 「私はそれを聞いてすぐに現場に駆けつけたとも! すでに仏様とは言え、実に立派なものだった。 すばらしい! 私がいままで見た中で最長のホエルオーだよ! くわしい所は後々調べるが私の見立てでは30メートルは越えているな」 さんじゅう…メートル。 心臓の鼓動が早くなっていくのがわかる。 「ここに来る途中で、デボンコーポレーションに 死体を保存できるような特殊なボールを注文したところだ! あんな大物には一生に一度会えるか会えないか…たとえそれが死体でもだ! お前もあとで見に来るといい」 汗がにじみ出た。 「ではこれで失礼するぞ! 調べるべきことが山ほどできたからな。大仕事になるだろう! お前も早いとこ回復して手伝えよ!」 そう言った博士はすでに病室のドアノブをつかんでおり、すぐにも部屋を飛び出さんばかりであった。 「待ってください博士!」 「なんだ、私はいそがしいんだぞ!」 「死因は? 死因はなんでしょうか」 「くわしくはこれから調べる! が、おそらくは寿命だろうな。大往生だよ。 実に惜しい! 生きているうちにお目にかかりたかったものだ!」 そう答えたとき博士は診療所の廊下を走っていた。いや、廊下を走りながら博士は答えた。 博士の足音がだんだん遠くなっていく。 …と、思ったらまた足音が戻ってきた。 ふたたび僕の前に現れた博士は服のポケットをごそごそとかき回しはじめた。 「…忙しいんじゃなかったんですか」 「ひとつ忘れていた」 博士はポケットの中からお目当てのものを見つけたようだ。 そして、それを僕に差し出した。 ちいさなフィールドノートだった。 「お前が発見されたときに預かっておいた。確かに返したぞ」 そして、ノートを押し付けるとこう言った。 「この老いぼれにはいつお迎えがくるかもわからんがお前は違う。 お前はまだ若い。お前はまだまだ生きなくちゃならん。私より先に死ぬんじゃないぞ。 そうしたらお前が死んだときに私が迎えにきてやれるからな」 そう言うと博士はまた鉄砲玉のように去っていった。 診療所にはふたたび静けさが戻る。聞こえてくるものといえば窓の外からくる静かな波音だけだ。 だが僕の心は落ち着かなかった。 ――30メートルの大物… いつのまにか僕の服は汗でびしょびしょになっていた。 汗だらけの服を着替えようと思い僕は立ち上がった。 ストン。 立ち上がったひょうしに何かが落ちた。 ――フィールドノート。 僕はそれを急いで拾い上げ開く。 開いたページにはこう記されていた。 『雲の海を行くホエルオー、全長約30メートル』 |