瞳を閉じようと開けようと、取り巻く世界は一向に変わらない。 果てのない暗闇。いつしか少年は囚われの身となっていた。何故自分はここにいるのか、この闇は一体何なのか、まったく覚えがない。気が付くとこの有様だったのだ。 見慣れた自分の手や足、姿が陽の中に居る時と同じく少年の目に映る。通常の闇では考えられない事だ。少年はますます戸惑った。 ポケッチに目を落とすが【なぞのばしょ】と表示されている。タウンマップに至っては現在地の表示すらない。 フタバから延々と旅を続けているがこんな事は初めてだ。少年は憤慨した。アイツと一緒だ、肝心な時に役に立たないポンコツめ。 途端に足許からザバリと水音が立ち、ぐらりと揺れる少年は驚いて跳び上がった。一瞬不安げだった少年の目が次にキッと睨み付けた先には、 どうやらずっと水中に居たらしい直立姿のずぶ濡れのエンペルト。水と岸との境も分からないこの闇の中で少年はようやく、 自分は今まで波乗りをしていたエンペルトの背に立っていたらしいと気づかされた。―――直後。 しかしその閃きは突如の頭痛に霞み、刹那の出来事に少年はなんだ今のは、 とまるでエンペルトが原因だと云わんばかりに不快を顕わにした顔でボールのスイッチを押した。 一度目。二度目。三度目。 普段ならあっさり戻るはずのエンペルトが申し訳なさそうにゆっくり瞬きし、成り行きを見守っている。少年は渋々動作を止める。 何かの弾みで壊れたのだろうと適当に理由付けし、腰のベルトのズラリと空いたホルダーのうち適当な一つにボールを収めた。 この暗さでは障害物があるかすら、念の為ぶつからないように手で辺りを探りながら歩き始め、はたと少年は立ち止まり「さっさと来いよ!」 後ろ姿をおろおろ見つめていたエンペルトに向かってイライラと言い放った。 歩きながら、少年は記憶の糸を辿っていく。念願のシンオウリーグ挑戦権を取得し、ゲートをくぐった所までは覚えている……が、 そこから先を思い出そうとするとズキズキと頭痛が妨げとなるのだ。 歩いていけばそのうち闇から抜けられるだろうと高をくくっていたが、次第にそれも危ぶまれてきた矢先、 つんのめる少年。しかし伸ばした両手は何かに当たることもなく突き抜ける。 鋭い風音が耳を容赦なく突き刺し、血に代わり破裂した少年の悲鳴が迸った。 落下したその割には不自然な点が目立つ。少年は自分はかなりの高度から落ちたものと思っていたのだが、衝撃もなければ痛みもない。 むしろ相変わらず黒々と目の前に広がる闇に真実落下したのかどうかさえ確かめる術がないために、ひどく失望した。 ずれたハンチングを被り直していると、はるか頭上からの甲高い頭に響く独特の鳴き声に刺激され、少年は反射的に上を見た。 聞き覚えがある、姿は見えないがこれまで何度と無く耳にしたエンペルトの、あいつの情けない声を間違えるはずがない。 やっぱりおれは落ちたのか、少年はそうと分かるとリュックから探検セットを引っ張り出した。 ロープをつたい登っていく。しばらくすると微かだが、上からは光が差し込み始めた。どこへ繋がっているというのだろう。 訝しがりながらも最後は穴の縁に手をかけ勢いよく身を乗り出した。 やっと穴の中から抜け出せた少年の目はみるみる見開かれ、驚愕の表情へと移り変わってゆく。 碧空、蒼海。光溢れる広大な景色の中に闇の一片でも探すよう、食い入るように隅から隅へ視線を走らせた。 幻覚ではないかと目をこすっても、目に染みる太陽も踊るようにうねる海面も何一つ変わらない。 とんでもなく場違いな場所に出てしまったという感が否めない。 少年は状況を一切飲み込めないままに寸前で支配されそうになった混乱を心の奥へと無理矢理押しやり、 ひとまず穴に加えあの闇の空間から抜け出せた事をよしとするとかすかに震える手でポケッチを、 それからタウンマップによる現在地の確認を急いだ。 「【うみわれのみち】……?」 呟き、少年は首をかしげる。耳慣れない地名だった。 タウンマップ上は位置を表すアイコンが海上にポツンと表示されているだけだが、 道、とある通り事実少年の目の前には海面すれすれの草の生えた陸地がまるで道のように一筋に長く長く続いていた。 陸地の行き着く先を見極めようとしたが及ばなかった。少年が当然とばかりに徒歩での到達を決意したその時、 エンペルトが小さく鳴いたが、少年はそれを無視して歩き始める。 どこかへ行き着くという保証はない。にも拘わらず、外界から飛んできた辿り着きたいという種が勝手に心に根付いたような…… それは普段胸の奥底から沸き上がってくる欲求とは何か違う気がした。しかし少年は違和感を覚えながらも進まずにはいられないのだ。 エンペルトが背後で鳴いた。鳴き声は、頭痛を招いた。少年は頭をぐしゃりと押しつぶされたような痛みに思わず声を上げ、 振り返りエンペルトを睨み付け――― まるで亡霊のような映像が脳裏をかすめた。 見覚えのある部屋でドラピオンとエンペルトが対峙している……ドラピオンのトレーナー…… ホウエンリーグの四天王の一人……リョウが居る……何か云おうとしている……その前に自分の声が……「波乗り―――」 はっと我に返った。歩き出した頃と変わりなく波の音が迫っては遠ざかる。向かい風がふわりと鼻をくすぐる。 つられるまま少年はふらふらと向き直り、日の光に目を細めて正面を凝視した。芳香は足許からも放たれている。 少年が心穏やかに驚いたことに、道は色とりどりの草花でいっぱいに覆われていた。 ……霧が晴れるように、少しずつ全貌が明らかになってきた。 道は小さな島に続いていた。無数の花に彩られた島へと。 漂ってくる優しい甘い香りが思考を滞らせる。 島が……前方の様子が再び霞み始める。消えないでくれ、少年はたまらなくなり足を踏み出した。 唐突に体の自由を奪われる。自分を肩に担ぎ上げているエンペルトの後頭部を、少年はきょとんと見つめた。 それから急に思い出したように手足をばたつかせ必死に束縛から逃れようとしたが、 エンペルトは進行方向とは逆にもと来た道を一気に戻り始める。離れていく島を見て少年は怒りの形相で喚いた。 しかしエンペルトはさらに足を速めただけで、頑なに走り続けた…… 走り、走り。躓いたエンペルトから少年は投げ出され、転がって止まる。草原に大の字に。そのまま抜けるような空を、流れる雲をぼうっと眺めていた。 喪失感が一分の隙もなく心を占めている。ふと空を背景にエンペルトの不安な面持ちが視界へ飛び込んできた。 体を起こす気力も湧かなかった少年の全身がカッと熱を帯び、跳ね起きる。 「お前のせいで!」 「たどり着けなかった! 余計なことしやがって!」 「気ばっかり優しくていつだって馬鹿だ!」 「弱いくせに……俺の命令さえ聞いておけばいいんだ!」 エンペルトは頭を垂れ黙りこくった。少年は地団駄を踏み髪の毛を掻きむしるが気が済まず、手近な岩にすがりその手で殴ろうと…… 振り上げた拳をゆっくり下ろし、掌を岩の表面にそっと当てた。 滑らかな、鏡のような岩だ。 何故かしら胃がぐらりと揺れ、少年は徐々に平静を取り戻していく。じっと見つめた。どことなくやつれた、自分の顔を。 鏡の中の少年も見つめ返した。何故こんなにも顔色が悪いのか、分からない。いや。分からないのではなく、単に思い出せないだけだ。 理由を必ず知っていると少年は確信し……自分の隣に映し出されているもう一つの影に注意を削がれた。 愕然とした。満身創痍の痛々しい容姿が少年の胸を抉る。慌てて振り返ったがエンペルトは無傷、寂しそうに目を伏せる以外何事もなかったかのように振る舞った。 信じられない思いで少年がもう一度目を戻すと、やはり鏡の中には傷ついたエンペルトの姿が…… ……脳裏をよぎる場面が次々と転換されていく。部屋が……リョウが…… ……エンペルトが……… 滝……ゲート……ホウエンリーグ一回戦…… ……最後のドラピオン……瀕死のエンペルト……「波乗り―――」…… 「そうだ……」 わなわなと身を震わせ、かすれた声が漏れた。 「……リョウに敗けた。なのに……お前は……」 がくりと膝を突いた。 「そうだ……水が暴走して……俺は……俺たち……」 フタバから始まった彼らの旅の日の記憶。縦横無尽に駆けめぐる、思い出の日々。 最高のパートナーだと信じていたポッチャマ。右も左も分からない新米同士、出会った時から息は必然的に合っていた。 ふたりで幾つも街を訪れ、ジムにも挑んだ。―――やがて初めての敗北を知る日が来た。 二度とポッタイシの負ける姿を見たくないと、辛さと悔しさから厳しく特訓した。報われることもあれば、それでも負けた時もあった。 少年は結果を出さないエンペルトが憎かった。初心を忘れ目先の勝利にばかりこだわるようになり、いつからか何も見えなくなっていた。 挙げ句の果てに――― ああ、完敗だったのに。アイツ、あんなに朦朧としていたのに。あんな状態じゃ、威力も狙いも定められる訳がないのに。 エンペルトを本当に追い詰めたのは、何もリョウのドラピオンなんかじゃない。 一番いたわってやらなきゃいけなかったはずの、この俺なんだ。 ここが何処なのか、少年は遂に理解した気がした。―――それは深刻な現実だった。 きゅう ううん 少年は弾かれたように立ち上がりよろよろ後退する。引きつった顔で声の在処を捜した。 この草原と一続きになっている【うみわれのみち】に今更のように気がついた。異様な光景だ。風も無いのに、道の花が揺れている。 海の向こうから遙々彼らを追いかけて……あれが呼んでいる。呼んでいるのだ。 ぞっとした。恍惚とさせるあの香りもここまでは届かない。逃げなければ、焦る少年はエンペルトへと向き直り、釘付けとなる。 怯えたエンペルトの目が告げていた。一瞬、蒼白となった少年の顔から徐々に決意の色が滲み出す。―――そうか。 「俺だけなんだな」 初めから逃げ道はなかった、と直感した。恐れが渦巻くと同時に、罪悪感にも似た使命感をおぼえた。 エンペルトへの数々の仕打ちを思えば当然の報いだと。不思議なことに喜びすら沸き上がる。アイツは助かるんだ、良かったと。 歩み寄ろうとするエンペルトを「来るな! 絶対来るな!」と乱暴に寄せ付けず、自らは道に向かって歩み出した。 しかし、エンペルトは諦めなかった。回り込み、少年の前に立ちはだかった。負けず劣らず強いエンペルトの眼光に、少年は呆れ、苦笑すら浮かべると同時にある別の感情が呼び起こされた。 ここから先はどう足掻いても自分一人で行かなければならないのだ、別れなければならないのだ、 ……片時も離れることの無かった相棒と、もう二度と会うことはないのだという当たり前の寂しさを。ともに過ごした楽しさを。 せめてもう少し。もう少し早く思い出していれば。だが、もう遅い。 「こんな俺に、ここまで付き合ってくれて」 「ありがとう」 きゅう ううん 薄れる意識と冴える意識の挟間に快く響く呼び声。 旋風が起こり、花弁が一斉に虚空へ舞い上がると、出し抜けに、全ての力が抜けた。 目映い。白い部屋だ、それも病室だと分かるまでに少し時間がかかった。 ナースと目が合い、ご両親に知らせるだのドクターを呼ぶだの興奮して言うと彼女は慌ただしく出て行った。 波に呑まれた拍子にリョウの部屋の壁にでもぶつけたらしく、少年は頭を包帯でぐるぐる巻きにされていると漠然と感じ取っていた。 一方で、少年は傍らの気配をはっきりと感じ取っていた。 独特の鳴き声が彼の為だけに部屋に響く。言葉より先に込み上げた熱い涙が、少年の頬を伝った。