『ことのは』 暑い。暑い、あついあつい。 セミは夏を呼び覚ます。多すぎてカウントできない何十和音になって、七年分の思いを叫んでくる。 道端の土に並んで植えられたヒマワリが嬉しそうに太陽を慕っていたけれど、 それと反比例するように、道を歩くわたしの視線はどんどん下に下がっていった。容赦ない太陽の攻撃に目眩がした。 加えて、拭っても拭っても瞼に落ちてくる汗が視界を滲ませていく。 わたしは何度目かの溜息をついた。片手にスーパーの袋をぶら下げ、遅々と足を動かしながら。 今日はタンクトップに短パン、ついでにサンダルも履いて髪も一本に結わいては見たけれど、 暑さはやっぱりどこまでも敵わない敵だった。 足元から遥か先まで延々とアスファルトが続く。帰る場所は未だ遠い。それでも頑張って歩を進めると、 右手の少し先に公園があるのが目に入った。手狭だけれど手入れが行き届いていて、 保護者つきの子どもが数人、奇声を発しながら想像の世界へ漕ぎ出していくのが見えた。 わたしの腰くらいの背丈の子どもが砂場をかけていた。スピードを求めているのに筋肉が追いつかないようなぎこちなさで。 案の定すぐにつまづいた。……大きな泣き声を聞きつけた親が子どもの名前を呼びながら、小走りで駆け寄って行く。 保護者と子どもってのは、切り離せないアイテムみたいなものなんだ。 「……泣き虫さん。なぁ、父さんと約束してくれないか―――」 泣かないための手解きを受けたのは、そう、父親からだった記憶がある。 でも父親は遠い県に単身赴任で行ったきり、もう何年も顔を見ていない。 公園には背の高いヤシの木が幾本か植わっていて、ふもとにはそれぞれベンチが置いてあった。 嬉しいことに、ヤシの葉が太陽を遮っていて涼しそうだった。 ベンチを見ると、殆ど保護者とその保護対象者でうまっていた。 でも、ラッキーなことに一つだけ誰も座っていない所があり、わたしはそれに腰を落ち着けた。 隣に持っていたスーパーの買い物袋をおもむろに置くと、はらりと一枚のメモが中から落ちた。 メモを見て思い出した。 萎れていた思考回路がにょきにょき蘇る。今日、学校から帰ったら机にこのメモが置いてあった。 一年の大半を大学での研究に費やしている母からの久しぶりのメッセージ。ランドセルを放り投げて、 嬉しくって嬉しくって、すぐに開いた。期待を膨らませて読んでみれば、 『バナナ買って来て。実験で使うから  母』 「はあぁ……」 溜息をついた。誰も居ないベンチで手足を大の字にのばして、空を見上げた。夏空には白い入道雲がよく映える。 全てが憎らしい程高かった。遠すぎて届かなかった。 わたしはぼんやりと空を仰いだ。……と、視界の物凄く隅っこに、小さな影が映った。 色は橙……だろうか、尾の先が紅く燃えている。よくわからないけど翼が有って、空の青をバックに悠々と…… 飛行機でもない、鳥の類でもない。……何だろう? 龍、みたいな…… だけど、意識を集中させる前には姿を捉えられなくなってしまった。消えちゃった。 ……なんだ。気のせいかな? わたしの意識は既に違う方向へ走り始めた。遠い空の下に居るであろう兄に思いを馳せた。 兄は野球推薦で遠くの寮に入っている。 瞼を閉じれば今とは違う空が視界に広がる。金属のバットが硬球を打ち返す小気味よい音、上がる歓声、 抜けるような水色の空に浮かぶ入道雲……。白球は空気を斬って大きく孤を描く。 ぱさっ 鳥の羽ばたきのような乾いた音を立てて、白球はグローブに納まる…… ばさっ と思ったら球は見る見るうちに大きくなって、白い翼になって広がって、 バサバサッ 白い鳩になって手内を逃れ、飛び立って雲の中に融け込んで……。 ……。 バサバサバサッ……!!! あ、れ……? ハッと気付いて瞼を開けた瞬間、まず目に映ったのは何かの大きな黒い影だった。 びっくりして思わずベンチから飛びのくと、入れ替わりに毛羽立った緑色がどさどさ落ちてきてベンチを占拠した。 良く見てみればその物体は大きい割りに平たく薄く、鳥の羽のような形をしていた。良く良く見てみればそれは、 「ヤシ……の、葉……?」 そろりそろりと近づいて見ても、確かにそれはヤシの葉だった。 ベンチの脇にヤシの木が植えられているから、 いきなり葉っぱが何枚もどさどさ落ちてきても不思議ではないのかもしれない……けど……。 おそるおそるベンチに近づいた。ざらざらとした葉に人差し指が触れたその時、 「うわあぁっ!!」 重なっていた葉っぱ全部がいきなりビンッと垂直に立った。 びっくりしたわたしの喉からは悲鳴に近い大声が出た。 瞬間、自分に周りの保護者や子どもから、驚きや好奇に満ちた視線がじわじわと注がれるのを感じた。 に……にに、逃げなきゃ…… わたしは目前の葉からの逃亡を試みた。腰が引けて格好悪いけど、そんな事公園で気にしていられない。 ベンチに背を向け逃げ出そうとした刹那、 「クウゥゥー」 背後から甘い声が聞こえてきて、ハッとわたしは振り返った。 その時垂直に立っていた葉が小さく揺れて、中から小さな生き物が姿を現した。 その生き物はバスケットボール大の大きさで、パッと見まるで小さな恐竜のよう。 恐竜と言っても草食動物の類に近い気がした。体は全体的にヤシの幹と同じ焦げ茶色をして、 体躯の割りに四肢は短くがっしりしていた。首だけがキリンみたいに長く、顎の下にはバナナのような果物が生っている。 頭部だけがヤシの葉で覆われていて、黒い瞳がその奥から人懐っこそうな光を放っている。 背中からは、体に比べて随分な比率を占めるヤシの葉が四つくっついていた。 「は……」 突然の出来事にわたしが何も言えないでいると、 「ああーっ!!きょうりゅうだあーっ!!」 どこかの子どもの声がそれを代弁した。 気付けばわたしは物凄い勢いでその生き物をベンチに置いてあったスーパーの袋に突っ込んで、 全速力で家路への道をサンダルで駆け抜けていた。 っは……は……は、……はぁっ……はあぁっ…… 玄関の扉を後ろ手で凄い勢いで閉めて、わたしは膝に手をついて背を丸め、荒れる呼吸を整えた。 全力疾走なんて去年の運動会の徒競走でやった以来だ。汗が凄い。 「……っな、ん……だったんだ……」 わたしは出来事の整理を試みた。でも汗の露が絶えず滴り落ちているオーバーヒート状態では、 脳は『暑い』の一言しか考えてくれずそれ以上進めなかった。それでも右手に提げたビニール袋が、 さっき起こった事実を忘れずに突きつけてはいた。 ビニールの中には買ったはずのバナナでは無く、……文字通りくたぁと萎れたヤシの葉の生き物がいた。 「クウゥー……」 「……! どうしたの?!」 慌ててその生き物を抱えあげてみると、見た目に寄らず随分軽かった。葉先が僅かに茶色くなっている。 もしかしたらこのまま本当に萎れてしまうかもしれない。1年生の時に水をあげ忘れて枯らしたアサガオみたいに。 でも、こんな動く植物見たことない。 何をすればいいのか見当もつかないが、とりあえず考える。 形は恐竜みたいだから肉をあげれば……と思ったけれど、冷蔵庫の中の肉のありかを知らなかった。 というか、無い。 草食動物に近い形をしているから、草?……と思ったけれど残念ながら家に植物はもう一つもなかった。 米を食べることは流石にないだろう。……だとするとやっぱり水、かな? 結論に至った次の瞬間には、わたしはその生き物を台所に運び込んでいた。 流しに水を張り、蛇口をシャワーにして上から勢い良くぶちまける。 でもどれだけ流しを水で浸しても、ヤシの葉はずっと萎れたままだった。 あの生き物の本体らしきものは大きすぎる葉に被ってしまって見えなくて、 体に似使わない大きな葉だけが、バナナの皮を剥いて開いたようにシンクから飛び出していた。 わたしは去年、卒業生のために育てたパンジーを思い出した。熱心に話しかけたりしたのに、 水のあげ過ぎで枯れた。しかもわたしのだけ。 もしかしてわたし、植物を育てるのには向いてないのかな……と思った瞬間、 「……クウッ! クウウゥゥ……!!」 ヤシの下から小さく声が聞こえてきた。そっと葉っぱを持ち上げて中を覗き込むと、 目を細めて嬉しそうにしている小さな生き物の姿が目に入った。 「はは……は、ははっ」 大丈夫だ、本当に良かった。ほっとして思わず笑い声が漏れた。笑いながら、 わたしは気づいたらその生き物に声を掛けていた。 「ははっ……は……あ……ねぇ、君さぁ」 「……クウゥ?」 きょとんとした目で、シンクの中からその生き物はこっちを見返してきた。 『どこから来たの?』『君は何の生物?』『恐竜?』『わたしの買ったバナナ知らない?』  ……聞きたいことはたくさんあったんだけど、口をついて出たのは全く予想外の事だった。 「名前、付けてもいいかな?」 「……? ……クウッ!」 自分で言った発言に驚いている間に、その生き物はご機嫌で返事を返してくれた。 「あ、のさ……サザン、っていうの、どう?  ……わたしのお兄ちゃんが昔入ってたリトルリーグのチーム名、……の、一部なんだけど。 『南の』っていう意味があるって言ってたんだ」 「……クウゥ?」 「……だって君さぁ、ヤシの葉が背中に生えてるから……だから南国っぽいし……」 自信がないから、相手が良く分からないから、最後の方は言い訳するような口調になってしまう。 それでもその生き物は……サザンは、クーッ、と嬉しそうな声をあげて快諾してくれた。 この名前で良いって、認めて……くれた、んだ! 学校で会話することは珍しくないけれど、あまり居心地の良くない家でこんな嬉しい思いをするのは久しぶりだった。 そもそもわたしの他に家に誰か居ると言う事自体、最後がいつだったか思い出せないくらい前の出来事だ。 認められたんだ、という嬉しさが胸の奥から体全体へじわじわ染み出していく。 わたしがリビングへ移動すると、サザンは水滴のついた綺麗な葉をパタパタさせて一緒にくっついてきた。 「ねぇ、サザン。水が好き……なら、君は植物なの? しかも……さ、首に果物みたいなの、なってるじゃん? ……果物、食べたりするの?」 わたしはいつになく饒舌になっていた。 「クウゥーッ、クウッ」 まんざらでもない返事が返ってくる。 「あ……じゃあさ、果物買ってくるよ。……それが好き、なら。サザンが。 また外行く、けど、気にしなくて……いいよ。お母さんに頼まれてたバナナ、も、もう一回買わなきゃいけないし……」 わたしは母からのメモを、今度は大事にポケットに入れた。 玄関に回ってサンダルを履いて、いつものように黙って出かけようとして……気付いた。 あ。そうだ、出かける時って本当は…… 「サ……ザン!」 ドアの前で立ち止まって、奥のテーブルへ声を掛けた。サザンが、なぁに? とぱしぱし目を瞬いているのが見える。 間髪をいれずにわたしは続けた。 「い、いって……き、ます!!」 「クウゥッ!」 言うのが久しぶりすぎて声が震えたけれど、 サザンからは機嫌の良い『いってらっしゃい』が返って来た。嬉しかった。 頬の筋肉が緩んで、ドキドキするような高揚が抑えても抑えても溢れ出て来る。 はやる興奮を抑えきれないテンションのまま外へ飛び出した。 足踏みしながらエレベーターを待ったけど待ちきれなくて、階段を三段飛ばしで駆け下りた。 一刻も早く飛び出していきたくて、それと同じくらい一刻も早く家に帰りたかった。 ―――家に帰りたい。 学校で。帰り道で。友達がそう口にする度に感じたものがある。 青を無理矢理緑としてみているような、なのに誰もそれをおかしいと思っていないような、 なんだかぎこちない感覚……。 何でだろう……学校がそこまで好きだというわけじゃないのに。 「ううん、でも今は分かった……んだ」 呼吸と一緒に言葉を吐き出した。胸の奥に痞えたものが一緒に溶けて、消滅していく。 今なら分かる。そう、わたしは、今まで家に帰りたいと思ったことが無かったんだ。 それは少し寂しい気もした。……でも、違う。今はサザンがいる。 速度を上げる。サンダルでオレンジ色の町を駆け抜けた。 舗道を踏む。飛ぶ。走る。影が長く延びてわたしの後をついてくる。 最初とは比べ物にならないくらいの早さで買い物を終えて、あっという間に家路に着いた。 「ただ、いま……」 玄関からおそるおそる声を掛けてみる。……と、クウゥーと言う人懐っこい声がすぐに奥から聞こえて、 わたしはサンダルを脱ぎ捨てると声の方向へ飛んでいった。ヤシの葉を背負った小さな恐竜が足元に纏わり着く。 わたしはサザンを抱き上げた。そのまま爪先立ちでクルクル回って踊った。 フィギュアスケートの選手みたいに。 「ねっ……サザン、バナナの他にね、桃、買ってきたんだ!」 「クウゥゥー!」 感動した声が返ってきた。 桃は絵みたいに綺麗だった。やわらかいクリーム色と桃色が混ざり合ってて……本当に美味しそうだった。 思わずサザンと二人して頬ずりしたら、桃の髭がちくちく刺さって痛くて、ちょっと後悔した。 しかも剥く時に力を入れすぎたりして実がちょっと……結構、がたがたになったけれど、 どうにかこなして二人で食べた。熟した天然の甘みが口の中で溶けて広がっていく。 「んー……!」 思わず感嘆の声が漏れる。 「美味しいね!」 「クウッ!」 桃の果汁を口から滴らせながら、顔を見合わせて二人で笑った。 ―――深々と、雪が降る。 黒い世界の瞼の裏側、ふと目を開けると白色が一面に広がっていた。 道が広がっていた。その上に一軒家とマンションが沢山伸びていた。全員、薄っすらと白い化粧を屋根にはたいている。 ふと記憶の隅で淡い懐かしさを覚えた。 ……ここはどこだろう。 目を皿のようにしてよくよく見れば、何と見慣れた近所だった。 ああ、という納得とともに、さっきまでここが溶けそうな位暑かったことを思い出した。 ……ちょっと急すぎるんじゃない? 雪が吸収しているのか、音が聞こえない。 そして元からなのかわからなかったけど、確かだったのはわたしが『意識だけの存在』だったことだ。 どうやってこの風景を見ているのかは知らないけれど、 地面はそこそこ雪が積もり始めているというのに、わたしの足跡は全く残っていない。 幽霊になったのかもしれない。はたまた知らないうちに死んだ? あるいは夢なのかも。   気付けば夜になっていた。冬の暮れは早い。 街灯の冷たい白がぼんやりと道を映し出していた。わたしはそれを頼りに歩いていた。当ては無い。ただ真っ直ぐ進むだけ。 横に立ち並ぶ家々の窓からは、橙色の温かな光が漏れている。 あそこの家からは焼き魚の匂いがする。あそこのうちはカレーかな。あそこは……何だろう? 空気は身を切るように冷たいのに、感じる鼓動は妙に早くて、体も何だか熱かった。 道すがらの家を通り過ぎる時、温もりのこもった優しい声が耳に届いた。 「―――、ごはんよー」 はーい、と言う声と共に、小さな足音が中から聞こえてくる。 わたしと閉じた窓の中との世界とは、ガラス一枚を隔ててとても遠い。 どこからか吹いてきた小さな風に体を震わせ、悴んだ素手に息を吹きかけて温めた時、 どうしても父親からの言葉を破りたいと思わずには居られなかった。 「……泣き虫さん。なぁ、父さんと約束してくれないか―――」 落葉で寂しくなってしまった枯木のような表情をして、そう言った父の声が聞こえた。 いつの間にか夜はどこかへ過ぎ去り、わたしは家の玄関に立っていた。 遠くの県へ移住する父を、玄関で見送ったのはわたしだけだった。兄も母も忙しかった。涙のような雪が降っていた。 「泣かないように、しよう。父さんも守るから。辛い時はあの時の星空の下を思い出して―――」 父の手が伸びていく。わたしを通り越して、わたしより背の低い後ろの女の子の頭を撫でた。 女の子は腕で涙を拭いながら、黙って泣いていた。……その子の声が聞こえた。 ずるい。不公平だ、父さんは家で一度も泣いたことないくせに。遠ければ、声なんて届きはしないんだ―――聞こえないんだ。 ぞくっと……背筋に冷たいものが走る。 言っても無駄、言っても聞こえない。 ……だって、今更……父さんの転勤が変わるわけでもないじゃん……? わたしがここで何を言っても、どんなにわめいても、何の意味もない……何も変えられないんだ……。 唇を噛む。心に熱いものが込み上げた。それと同時に、わたしは投げ出されるであろう最後の言葉を予知していた。 嫌悪感にも似たその旋律。 ……どうしてわたしだけが、何度もこれを言われなければいけないんだろう。 「行ってくるよ、―――」 わたしの名前を、呼ばれた気がした。 瞬間、目が覚めた。 全身が冷や汗でじっとりと濡れていた。肩で息をつく。頭の芯がぼうっとして熱かった。 慌てて目に手をやった。……濡れていない。約束はまだ破っていない。 部屋は暗く、わたしの他には誰も居なかった。いつもの当たり前の事実なのに、何故か胸騒ぎがした。 それでも夢の続きではないかと思えるくらいの静けさが、心をそっと落ち着かせていく。 そうだ……あれは夢だったんだ。現実はここだ。夏で、夜で、サザンと二人で……。 そう、もう一人で住んでいるわけじゃないんだ。二人で……。二人……。 ……? そしてやっと気付いた。サザンが居ない。隣で寝ていたはずなのに。 長いヤシの葉を器用に自分の体に巻きつけて、おやすみの挨拶を交わしたことまでちゃんと覚えているのに……。 どこ……どこに…… ベッドから転がり落ちるようにして部屋を飛び出す。 リビングの窓が一箇所開け放たれていて、カーテンが夜の風に煽られてはためいている。 全てを理解するにはそれだけで十分で、わたしは玄関のサンダルをつっかけると、外に飛び出した。 サザン! サザンサザンサザン…… マンションの階段は、毎階で踊り場まで一気に飛び降りた。 ちょっとじんじんする足を休めずに、無理矢理最高速度を出していく。 汗が毛先から粒になって飛んでいく。夜の温風に負けないくらいの涼しい風を額に感じながら、 わたしはサンダルの底も真っ青な勢いで夜の通りを駆け抜けた。 足はもっともっと速さを求めているのに、筋肉がそれに追いつかなくてもどかしかった。 物凄い速度で景色が両隣を流れていく。 肺が酸素を求望しているのを押さえつけて、我慢して我慢して、駆ける。眩暈がしそうだった。 口はカラカラに渇いている。喉が痛い。 本当は当てなんてないし、この広い町内どこを探せばいいのかなんて分からない。 証拠なし。だけど、最初から何故か不思議なほどはっきりとした確信が有った。 ―――きっと、出会った公園に居るはずなんだ。 永遠とも数分とも思われる間走り続けた。遠くで一度、低い地鳴りの音がした。 近道をして抜けてきた角を曲がると、一気に視界が開けていく。 ベンチの側には椰子の木が生えている。……ここだ! 公園内には対立する大きな二つの影があった。息切れしている街灯だけが薄らとその姿を照らし出す。 一頭は大きなオレンジ色の翼龍だった。口にはいかにも獰猛そうな牙と、 太くがっしりとした足にはダイヤモンドだって砕きそうな頑丈な爪が生えていた。 けれど一番目を惹いたのは、その尾に燦爛とした炎が灯っていたことだ。 ……その生き物にはどこかで出会ったような気がして、でもどうしても思い出せなかった。 その翼龍に対峙しているのは見慣れた、けれど少し違う生き物だった。 体躯は木の幹のような焦げ茶色をして、その大きさの割りに四肢は短くがっしりしていた。 首だけが少し長く、頭部だけがヤシの葉で覆われている。 そしてその大きさに似つかわしい大きなヤシの葉が、羽根のように背中にくっついていた。 「クオオォォ……ン!!」 鼓膜と地を揺るがす、サザンの一声。相手はそれに応える様に、 「ヴァアアァ!」 低音の鋭い咆哮。龍の咥内が赤く灯る。息を吸い込む音と前後して、赤を纏う橙色の炎を発射した。 「あちっ」 頭の上をかすめた。炎を避けながら、何だか分からないまま、わたしは夢中でサザンの側に駆け出して手を伸ばした。 大きな背中によじ登って、首にしっかりと掴まる。 サザンは大きくヤシの葉を上下に動かした。前に羽根をぱたぱたしていた時とは桁違いだ。 信じられないことに、こんなに大きな体がふわっと宙に浮き始めた。 一度の葉振りでぐんぐん高度を上げていく。 風を捕らえ、あっという間に公園が小さくなり、上も下も遠くで小さな光が瞬くだけになった。 雲の高度に達して、ごうごうと空気が耳元でうなりをあげる。 わたしはサザンの首に掴まる手に、ぎゅっと力をこめた。クオォォと言う、優しい声が風の向こう側から返って来た。 ふと気配を感じて振り返る。あの龍はわたしたちからやや高度を下げた所を、悠々とついて来ていた。 またあの咥内が炎で明るくなるのが見えた。と、次の瞬間、立て続けに三発炎を発射してきた。 暗闇に映える強力な火力が迫る。先発の二つはヤシの葉を仰いで何とか避けたけど、三発目はもろに葉に当たった。 「サザンッ!!」 思わず叫んでいた。グオオォ、と上で悲鳴が聞こえた。バランスを崩して、あっという間に高度を下げていく。 サザン、サザンとうわ言のように繰り返していたら、気付けば落下の風圧で体が彼からもぎ取られそうになっていた。 必死にサザンの首に掴まり、強すぎる風圧で視界を塞がれながらも、相手の方を睨む……と、 先ほどの高度では気付かなかったことに気がついた。龍の背から見える別の頭……白い髪の毛。 ―――あっちも、人が乗ってるんだ! そして、向こうもそれに気付いたようだった。 大きく口を開けて、精一杯こちらに向って何かを叫んでるみたいだったけど、 もう殆ど目を開けていられなかったから良く分からない。風も凄くて殆ど何も聞き取れなかった。 ただひたすらに落下していくわたし達の側で、空を力強く切る知らない翼の音がした。 髪を結わいていたゴムが巻き込まれて飛んでいった。目を開ける。物凄い勢いで地面が迫ってきている。 空気の音以外に何も聞こえない。……ああ、ここで死んじゃうのか。 何でだろう、怖いとも嫌だとも思わない。そんな感覚は今、存在さえしていない気もする。 ―――せめて最後に、笑っておいたほうがいいのかな? 口元を緩ませる余裕さえある。瞼を閉じる。もう一度。 「―――って! ……待って!! 間に合えぇぇ……ええぇっ!!!」 上から声が降ってきた。必死さを帯びたその声のすぐ後に、ヴァアァァという低い咆哮が聞こえた。 一瞬、空気が燃えるように熱くなり、続いて何かの大きな力によって、重力に逆らっていく。空中に引き戻された。 瞼を開けると、上にあのオレンジ色の翼龍が居た。サザンの体を大きな両足でがっしりと掴み、 更に両腕で彼のヤシの翼を掴んでいた。助かったんだ。 「……良かった……」 龍の上には、さっき空でみたあの白髪の人が居た。 龍の背中から慌てて人間が降りてきた。服装は全体的に黒く、 上着は赤と黒の斬新なツートーンカラーに、下はキュロットのような、裾が広がる長いズボン。 遠くから良く見える白髪をしていたから大人かと思っていたら、わたしと同い年位の子どもだった。 さっきはごめん、人が居るなんて知らなくて、という言葉と共に、彼は手を差し出した。 握り返して和解した後の彼の第二声は、 「……君もトレーナーなんだ?」 と言う言葉だった。 どう見てもその服装はトレーナーじゃないと思っていたので、ちょっと驚きながら、 「……? わたしが着ているのはトレーナーじゃなく、て、タンクトップ……なんだ、よ」 彼は一瞬きょとんとして、ははっと笑った。頭にしている赤のバンダナが声に合わせて揺れる。 「……あ、……違う、違うんだ。服装じゃなくって、さ。ごめん、勘違いさせたなら。  トレーナーっていうのは、ポケモンを育てて、戦わせたりする人の事を言うんだ」 「ポケモン……?」 そうだあのオレンジ色の、尾に炎を灯した翼龍には確か、どこかで…… 「こいつはリザードンって言うポケモンなんだ。 知らない?」 その名前を聞いた瞬間、記憶の一部が今とリンクした。 「……ポケモン、って……ああ、あ、の赤と緑のやつ? リザードン、とフシギバナ……の、パッケージの」 ポケモンは、育てて、強くして、四天王を倒したら殆ど終わりになってしまって、 通信ケーブルで交換したり対戦したりするもので、赤と緑の二種類がある。 確認されているポケモンは百五十一匹。それで、殆どの男子が必ず連れているのがミュウツー。 わたしのポケモンに対する知識はそれくらいだった。 バンダナは微笑んだ。 「そう、ポケモン。君が言うサザンも紛れもないポケモンの一種なんだ。 世界にはまだいっぱいいるんだよ。君が見たことの無い種類が。たくさんね」 四百も。五百も。バンダナは確かにそう言った。清々しいくらい当たり前に言い切った。軽い衝撃。 「嘘……ほ……ほ、本当なの?」 「本当だよ! 俺、こう見えてもトレーナーなんだからサ」 にっと笑いグッと親指を自分の胸に付きたてて、バンダナの白い髪が揺れる。 バンダナの下から覗く焦げ茶色の澄んだ瞳が、彼の強い自信と誇りを表していた。 「クオオォォ……ン!」 突然のサザンの咆哮が空気を震わせる。長い首がゆらりと空を示す。 「サザン……?」 思わず彼の方に歩み寄ると、振り向いた頭の、ヤシの葉下から覗く眸と目が合った。 うん、と頷いたような仕草をすると、天に向って大きく口を開け、空気を吸い込んだ。 咥内に大きな眩しいエネルギーが蓄積されていく。 瞬間、光と膨大なエネルギーから溢れ出たまばゆい白が、空中から足元へ凄い速さで広がっていった。 キラキラした光が大気を包み、世界を上から塗りつぶしていく。それは綺麗な光だった。まるで瞬く星のように。 ―――いつの事だったか、町中の夜景を漏れなく逆さにしたような星空を眺めていた。四人で。 「知ってる? 今見える星の光って、実は地球の生まれるずっと前に放たれたものだ、って話」 ふと声がした。芯の通ったこの良く通る声は母のものだ。 「あ、うん。どこか……で聞いたこと、あるかも」 ためらいがちに返事を返したのはわたしだった。 「奇跡のような確率なんだよ。今光がこうやって届いていることも、わたし達が今これを見ているって事も、両方ね」 「きせき……」 「声が遠ければ、聞こえないかもしれない。……でも光は届く。幾つもの奇跡を乗り越えれば、どんなに遠くても必ず届くんだよ」 数物科学の研究院で働く母の言には、科学者らしい説得力があった。 「幾つもの奇跡を乗り越えられたら来られるよ、君も、俺も。どちらでも」 バンダナの声がする。母の声と重なって聞こえる。 「でもここは……俺らが住んで、生きている世界じゃないんだ。知らない所。それは、君も俺らの世界に来れば思うことなんだ」 「ヴァアアァァ」 瞼を焼く強力な白光が、バンダナとリザードンの姿を霞ませていく。目を開けていられない。 それでも二人の声だけは、何も邪魔されずにしっかりと届いた。 それはあれに似ていた。どこへ行ったのかも忘れて、いつだったのかも忘れたけれど……まだ、 まだ、一字一句間違えずにちゃんと覚えている、あの時の星空の思い出に。 「分かる……? 分かってくれるのかな……」 バンダナがそっと言った。きっと、俯いてちょっと言いづらそうにしているんだろう、と思った。 「……だから、サザンもきっと同じなんだ。君は確かにあいつにとって大事な存在みたいだけど、  あいつが本来居る場所はここじゃない。……そういうことなんだ」 ―――「あ、ほらまた一つ、流れ星が落ちてくよ」 今度は優しい父の声がする。何年ももう声を聞いていないのに、鮮明に蘇って来る。 「……えっ、ど、どれ?」 「言ってもすぐ見えなくなっちゃうからなぁ……目を凝らして、よぉく探してごらん」 よぉく、と言われても中々見つからなかった。 「ねぇ、お父さん。……流れ星を見つけたら、どうすればいいの?」 「心の中で願い事をはやく唱えると良いって聞いたけど……うーん、自信ないな。どうだったかなぁ?」 父の戸惑いに、瞬く間に答えを導き出したのは兄だった。 真っ直ぐ空に向って顔を上げ、強い信念を帯びた瞳で真剣に見つめながら、 「ちっげーよ、叫ぶんだ! 遠くまで聞こえるようにっ、願い叶えてくれる所まで!!」 星空の思い出に蘇る最後の言葉の一片が、わたしの背中を一押しした。 瞼を開いた。ぼんやりだけど、霞んでだけど、長い首に短い四肢、背中から葉の翼を生やしたポケモンが見えた。 見えた気がした、でもいい。何でもいい。 今まで誰と何回、場所と人は違えど、同じような瞬間を自分は看過して来たんだろう。 いつものように焦って、心臓が高く鳴る。でも汗握る手をぐっと握り締めて、わたしは叫んだ。 「いつか、わたしもそっちに行くよ!……それで、それは必ずなんだ!   待って……なくても、いいし、……忘れても、いいけど……でも!」 湿度を含んだ温い風に混じって、ほのかに淡い南風の香りがする。 「でも、でも……絶対なんだ! わたしは必ず……行くよ、そっちに行くから! 絶対に!!」 上手く言えない。元々喋るのは得意じゃない。 ……でも絶対や必ずを繰り返す間に、おぼろな決意表明の薄皮は形成されていった。 ただそれじゃあ求める物はまだまだ出来そうになくて、わたしは貧相なボキャブラリーから言葉を必死に探していた。 『ありがとう』じゃ当たり前過ぎる…… 『さよなら』じゃ悲し過ぎて、かといって手垢のついた『またね』なんて言いたくない…… どれだって同じだ。いつだってそうだった。言ったら二度と会えない気がしてしまうんだ、だから……。 「きっとまた……会える、よ! ……だからそれまで、しばらくの間……だよ!」 光が急に収縮を始める。空高く一点に向って上っていく。 新しい小さな来光の一片が、幾つもの眠りを背負ったマンションの影から漏れ出ているのが見えた。 真っ白な光に違う時が入り込む。 時間が無い。 クオオォォ……ン、という、少し寂しげなサザンの声が聞こえた気がした。 まだだ。もう見えない。でも、まだ聞こえる。まだ届く! ―――雪の日に旅立った、父の背中が見えた。 桜の舞う日。大きな荷物を背負って、新しい制服に身を包んだ兄の姿が見えた。 暑い日にメモだけ置いて、忙しくまた大学に戻っていく白衣の母の姿が見えた。 思い出す。それだけで胸が焼けるように痛い。呼吸をするだけで体が震えた。 「負ける……もんか……」 ぐっと顔を上げる。手前に見える駐車場の看板まで、もっと、 巨壁のようにそそり立つ団地の向こう側まで……、もっとだ。 薄化粧のような色味を掛け始めた地平線の向こう側、その更に遠くまで……もっと!! 声をあげろ!!届けっ!!! 「サザアンッ!!」 枯れた井戸のような喉から、搾り出すような精一杯。 さよならだけを何度も繰り返すうちに、いつの間にか封印していたその言葉。それは…… 「いって、らっしゃい!!!」 一点に集束した光は、流れ星のような軌跡を描いて掻き消えた。 ―――お元気、ですか? わたしは…… 隔世の感を経たあの日から数ヶ月がたった。 証拠はもちろん何も残っていないし、所々の記憶だって薄れておぼろげになってはいるけれど、 時々ふとサザンの人懐っこい声や、バンダナの笑顔を思い出すことがある。 そこにはどんな理由も理論も不要なんだ。記憶の中に流れ続けているものは、わたしだけが独占できるんだから。 いつかどこかで、モンスターボールを誇らしげに翳し、焦茶色の瞳に期待を宿らせている白髪の赤バンダナとまた会えるに違いない。 もちろん愛しいサザンにも、いつかきっと……絶対、必ず、何が何でも会いに行く。 声が遠ければ、聞こえないかもしれない。 でも、みんな繋がっている。きっと……際涯まで続く空の下で。 その下には研究室が乱立している総合大学があって、茶畑がのどかに広がる地方支部があって、 四方を山に囲まれた寮があって、マンションが好評建設中の開発都市があって…… そして、ヤシの風が薫る異国の南国がある。 声が遠いなら、行くよ。聞こえる所まで。 ――――わたしは、元気です。 ……今度そっちに、遊びに行ってもいいですか。 三文だけ書き付けた残暑見舞いの葉書を、……三枚持った。確認良し。 トントントン、と爪先を当てて運動靴を履き玄関のドアを開けた。前を見る。胸いっぱいに酸素を取り込んで、叫ぶ。 「いってきます!」