『Turquoise』  海がある。その上に浮かぶ村落から、遥か見渡せる限り広がっている。 朝だった。日光を反射する海の煌きが、起きてからさほど経たない目にはこたえる時間だ。 日差しは既にカンカンに照っている。 僕の体内にある水分は少しづつ塩辛くなりながら、皮膚のあちこちから汗として抽出されていった。僕が踏みしめ進んでいる、 この村の道兼丸太は、朝から太陽の熱をバッチリ吸収していて、なんだか素足に妙なぬくもりを感じる。 僕は一旦立ち止まり、額から吹き出る汗をぬぐいながら、歩いてきた道を振り返った。 最後に見た家からここまで続いている丸太が見えるだけで、他には人っ子一人いない。  熱帯圏の綺麗な海に浮かぶ小さな村。頑張って様になる表現を探してもこれで結構限界な、ここが僕の住んでいた場所だ。 一周しても三十分はかからないだろう。必要最低限以外のものは何も無い。 家は全て、木を組み合わせた台の上に、お揃いのヤシの葉屋根をかぶせた簡素な造りをしていた。 点在する家々を繋ぐのは、村中に張り巡らされた、道と橋の役割を兼ねる丸太のみ。 殆どの家では釣竿や漁網が玄関に飾られている。テレビは何軒かに一つしかなかった。 最もそんなものが必要なのは漁に出る大人くらいで、僕らは見向きもしなかったけども。 ――「とうちゃん、何見とんの?」 「天気予報ってモンじゃぞ。ここいら一帯は穏やかな海じゃけど、カイナに向かう水流は流れも速いからな。念のためじゃよ」 「……ふうぅん」 「大きくなったら分かることじゃ。タークも一人前の男になってな、漁師になったらな」 その言葉に何と答えたのか、今はもう忘れてしまった。だがおそらくは肯定の返事だったのだろう。 父の大きな手で髪をクシャクシャとやられたのは何となく……何となく、覚えていた。  照りつける日差しにめげず、僕は目前に広がる海の青を見据えた。ポケットから小石を取り出す。 人差し指と中指の間にそれを忍ばせ、スナップをきかせて、えいやっと鋭角で波の表面に叩きつけた。 小石はピシャッ、ピチャッと小気味良い音を伴って波の上を跳ねていった。上手くいった。昔と同じだ。 しかしその後石はすぐに、トポォンと間の抜けた音を残して、波間に紛れて見えなくなった。 石が沈んでしまうと、何だか少し寂しくなった。 僕はもう一度だけ小石を放ると、丸太橋の上で座り込んだ。海中に放った両足がひんやりと心地良い。 ちらっと下を垣間見ると、真っ黒でぼさぼさな髪に焼けた褐色の肌、白い笛を首から下げた少年が、 ターコイズ色の海からそっくりそのまま僕を見返してくる。 そいつの瞳はがらんどうで、何の感情も映し出してはいなかった。 自分で見てるのに。自分の顔なのに。 何とか表情を浮かべてみようと試みた。ほら、門出の日だよ、おめでたい。笑え笑え。 だけどぎこちなく口の端が動いたのが見えただけだった。表情とは裏腹に、結構必死になってたんだけど。 その表情さえ波にあしらわれて、最大限の努力も歪む。 「……ちぇっ」 僕はそいつの顔めがけて、小石を放り込んだ。 同心円状の波紋が瞬く間に広がって、すぐに表情を消し去った。僕は膝を胸元に手繰り寄せると、その中に顔を埋めた。 「おい、誰だ? 何やってんだ? こんな時間に」  不意にそんな声が聞こえたのは、どれ位経った時だったろうか。顔を上げると、少し離れた海上に、見慣れたシルエットがあった。 「ん? あれ、ターク……か? お前かぁ!」  幼馴染であり親友である彼は、大きく手を振りながら、いつもと変わらない調子で笑った。 「どしたんだ? 学校ちっとも来ねぇしさ。村じゃお前が出てくって噂で持ちきりだぜ?」  突然の事にあまり思考が働かなかったが、僕の目は彼の首から下がるものを捉えていた。 黒い、手のひらサイズの流線形の笛。……この村のホエルコ使いである証明。 そして僕がもう、永遠に手に出来ないものだ。僕の視線に気づいているのかいないのか、 親友は笛をすっと口に咥えて息を吹き込んだ。 「クウウゥッ」 親友のまたがる尻下で、それに応える声が上がる。円形の柔らかなフォルム。 全体的に紺で、顎から下にかけて辺りだけが、淡いクリーム色をしている。 親友がもう二度笛を鳴らして、背を軽く撫でてやると、 そのポケモンは体に似付かわしくないほど大きな両鰭を器用に使って、こちらへ進んできた。  誰かとまともな会話をしたのは本当に久しぶりだった。 「……なぁターク、お前さ、本当にこの村出て行くんか?」 親友が僕の隣に座って、開口一番にそう切り出した。 悪い噂は良いものより流布するのが速いと言うが、僕は最近それを痛切に感じるようになっていた。 負った精神的な切り傷も擦り傷も、目に見えない重圧もある。 村で人に出会う度に物言いたげな視線を向けられたりするのはまだ良い方だ。 僕が唯一その決心を打ち明けたはずの実家では、その日から示し合わせたように会話が全く無くなった。 決断の時に追い詰められつつ、その気づまりさに慣れかかってもいた僕は、彼の質問をとても新鮮に感じた。 「本当だよ」 「何で?」 「……ポケモントレーナーになりたいから」 ストレートに尋ねて来る親友につられて、僕の心も何だか正直に動き始めた。相手が息を呑む音が聞こえた。  この村で生まれ育った子どもは大概、共に育ったホエルコを相棒に漁師になる運命にある。 そうでなければ観光案内人になるか、ポケモンセンターなどの村の施設で働く位だ。 最大の理由は村外からの情報の不足だと思うけれど、 遥か昔から続く漁師の伝統が、無意識の内に僕らをこの村に縛り付けているのも事実だと思う。 成長した暁には、兄や父のような漁師になるものだと信じていた。 王道を邁進するほど誇りの持てる道は無い。 例に漏れず、僕も真っ当な道を歩むはずだった。それが立派な大人の証拠だと信じて疑っていなかった。 ……あの日親友に誘われて、大きな町へ祭りを見に行くまでは。 「……やっぱ、まだ忘れられねぇのか?」 「何が?」 「俺がお前誘って、トクサネの宇宙祭りを内緒で見に行ったろ? あそこで見たもんさ」 トクサネとはこの村から一番近い島の名称だ。そこで僕らの目を奪ったものは数え切れなかった。 石垣に瓦を積んだ家並み、走っても飛んでも沈まない土の道。 丸太に加工される前の枝葉が付いた大木、天高くそびえ立つ巨大な宇宙ロケット。 ただ絶海に丸太を浮かべた村落に住む僕らには、到底理解できないものがたくさんあった。 海だけじゃなく、土からも花が咲くことを知った。 「あそこで見たバトルの事だろ? ……忘れない。忘れられるもんか」 「そうだよな……」 祭りで、初めてポケモントレーナーという存在を知った。ちょっとした大会が行われていたんだ。 村ではホエルコの他に、魚や鳥に似たポケモンしか見た事が無かった。そんなものは、とんでもなく狭い常識だった。 バトルでは尾に炎を灯した龍が空を舞ったり、僕の膝下位しかないポケモンが天から雷を落としたりしていた。 戦っているのに、その場に居た誰からも険悪な雰囲気は感じられなかった。 村では誰かがホエルコを使って争うと必ず叱られるのに、この人達はまるで戦いを楽しんでいるみたいだった。 ワクワクする気持ちを掻き立てるこの雰囲気に、僕は虜になっていた。 「そもそも俺が、祭り行こうって誘わなきゃ良かったんかなァ」 親友が、空を見上げて呟いた。僕は笑った。 「……きっと、いつかはこうなってたよ」 「そうか? ……そうかもしれんけどな……」 ふと、僕も親友も言葉を止めた。波が寄せては引く音だけが、途切れずに続いている。 僕は親友の顔を少しだけ覗き見た。彼の瞳は真っ直ぐに自分の相棒を見つめ、顔はいつに無く真面目で強張っていた。 僕は見てはいけないようなものを見てしまったような気がした。 「なぁ、ターク」 「何?」 「お前も自分のポケモン……名前何てったっけ……あ、ほら、オイズ。連れてくんだろ?」 「うん」 目の前を遊泳している彼のホエルコを見つめながら、僕は同意した。 「何か、こう言っちゃ身も蓋も無いかも知れんが……」 親友は、一つ一つ厳選しながら、より自分に近い言葉で語ろうと努めていた。 「俺もあそこでお前と同じものを見たんだよ。ずっと忘れられないし、憧れたし、羨ましかったけど……。でもさ、考えたんだよ」 「うん」 「お前らはどうだか分からんが、こいつは俺の分身みたいなもんだ」 そう言いながら、親友は相棒のホエルコをそっと撫でた。ホエルコの黒い小さな目が、嬉しそうに細められた。 「この村は、確かに外に比べたらずっと退屈かもしれないし……今はもしかしたら、人生が変わる大きな好機かもしれない。 でもさ、俺が一番初めに思ったのは、俺の都合にこいつを巻き込みたくないってことなんだよな。 ……ホラ、家族や、慣れ親しんだ故郷ともお別れしなきゃならんだろ」 不意を突かれたような気がした。 「……うん」 「そんで、こいつの一生が変わっちまうんなら、俺は……旅に出たいとは思わないし、 ポケモントレーナーになろうとも思えないんだよ」 「……」 あぁ、そうだ。肝心なことを忘れていた。思わぬ動揺が心に伝わって、心臓がドキドキ高く鳴った。 その時、親友の傍にいるホエルコが、クウゥゥと声を上げた。親友がそれを聞き取って、 「ん、うん。そっか……もうすぐ満潮になるらしいぞ」 満潮になると、ホエルコの群れがこの村の近くにやってくる。 僕が幼少時から親しくしているホエルコも、一緒にやってくる。 ……この村内で相棒とずっと一緒に居るには、ホエルコ使いの証である黒笛を持っていなければならない。 「……もうすぐ時間だ。……行かなきゃ」 「決意は変えないんだな。ここでお別れだ」 「うん」 「もう、二度と会えんかもしれんけどよ。……気をつけろよな」  僕は再び歩き始めた。歩いている途中、気づいたら走り出していた。町の端まで行き着くと、海へとそのままダイブした。 空から差し込む白光はオーロラのようにたなびいて、海の底とのコントラストを鮮やかにしていた。 海の息づく音が聞こえた。それと溶け込むようにして、微かな歌声が聞こえてくる。 ……低く、くぐもる様な深い音……クジラの歌だ。ホエルコの雄は、毎年歌を歌う。 曲と内容は毎年変わる。同じ年には、流行っている曲ただ一つを全員が奏でている。 クウゥゥゥ……クイィィ……オォォ… ホエルコの群れの中で、オイズがどこにいるのかはすぐに分かった。長い間一緒に居るんだから当たり前か。 オイズは僕の姿を捉えるとすぐに、嬉しそうに僕の傍までやってきた。僕はオイズの鰭に掴まると、体の全てを彼に預けた。 クイィ……クィィィィ…… オイズが一人で声を発しながら、ホエルコの群れの周りを遊泳し始めた。 これから自分が群れを離れることを分かっているらしい。オイズが歌う。鋭い音が短く、チャッチャッと飛び出した。 続いて長く……そして何度か鋭く、短い音が連続して……それから音は長い尾を引いた。 ため息に似たような声が途中に混じる。何ともいえない、憂愁の響きだった。 彼は歌いながら、海中で仲間の一頭一頭と体を寄せ合い、別れを告げていた。 オイズに掴まっている僕も、一緒に体を寄せられた。 お返しに硬く弾力のある皮膚を撫でたら、小さな黒い瞳が嬉しそうだった。髭元が笑っていた。  最後の一頭との交流が終わると、オイズはゆっくり群れから離れ、水面へと上昇を始めた。 僕は彼の尾鰭を掴んだままで振り返った。ホエルコ達はずっと僕らを見送ってくれた。 一瞬、涙が出そうになった。だんだんと、水の温度が温かくなってきた。海上はもうすぐだ。 「……結局、ホエルコ達以外、誰も見送ってくれなかったな」 村から少し離れた場所で、故郷を振り返りながら僕は言った。期待してはいなかったが、村人の姿も形も見えなかった。 僕の股下で、クオオ、とオイズが慰めるような声を上げた。 「……にしてもさ、ごめんな、こんなことに巻き込んじゃって」 呟くように僕は言った。 「……離れたくなかったんだ。二人で一緒にいるのが当たり前だったから、本当……考えてなかったんだけど……」 オイズは黙って聞いてくれた。 「でもさ、お前も、家族とも……友達とも……もう、会えないかもしれないんだよな。……他の誰でもない、僕のせいで」 深い自責と後悔の念に、押しつぶされそうになった。今更になって。何で。どうして。 どうして、僕はオイズの事を最優先で考えてあげられなかったんだろう。 「ごめん……」 それでも。それでも……一緒に来て欲しいんだ。一緒に旅に出たいんだよ。 そう言って両手で顔を覆ってうずくまる僕を、オイズは両鰭で包んでくれた。 「……」 その優しさが苦しかった。 「……。とにかく、僕がこんなじゃ……ね」 迷ってばかりじゃダメだ、バトルじゃ即断が勝負を決めるって言うじゃないか。そう思った。 オイズに相応しいトレーナーらしくありたいと思った。 感傷に浸っている場合ではないんだ。日が高い内に行かなければ、今日の寝床を探すのに骨を折るだろう。 早々に出発の合図をかけようとした。……その時だった。  僕らからそう離れていないところで、慌しく波が揺らぎ始めた。潮がじわじわと高くなってきた。 小さな潮泡が生まれては波に飲まれて消えていく。 ……オォォ……オォォ……ン……  ターコイズブルーの深みから、囁きのような歌声が耳に届いた。小さすぎて、まだ殆ど聞き取れないけれど。 足元のオイズも僕も、ドキドキしながら耳を澄ました。波音を潜るようにして、少しずつはっきりと聞こえてくる。 クウゥゥ……オォォ……オゥオゥウゥ……オォォ…… 「クジラの歌……だ」  聴いたことのないフレーズだ。この近辺のホエルコなら、皆同じ曲しか歌わないはずなのに。 音には年輪を重ねた巨大樹のような深みがある。……僕らでは到底、多分一生敵わない。 例えるなら僕らの歌はオモチャの笛で、この声はパイプオルガンだった。 重厚な悠久の調べだった。声の大きさと比例して、波も段々高くなる。予感がする。  誰が歌っているんだろう。  震えるほどの高揚と好奇心が、僕らを駆り立てていた。  その瞬間は割と早くに訪れた。 不意に轟音と共に巨大なブローが吹き上がった。その潮吹きが海から突き出した岩盤を高々と越えていくのを、 僕らは唖然としながら見送った。それから数秒も経たないうちに、潮の上がった場所の周りに、巨大な影が現れ始めた。 「凄い……」 深い海の底から、ぐんぐんと上昇してくる影がある。おそらく、この声の主だろう。 とにかく大きさが半端無い。僕とオイズが五十集まっても、永遠に足りないんじゃないかと思える位だ。 その巨大さに圧倒されて、思考が全く働かない。ただ見ているだけ。 強大な力が、海を砕いた。白い泡と潮泡の飛沫を全身にまといながら、声の主は海面を割って姿を現した。 体は全体的に水色に近い、海とよく似たターコイズ色。腹部の辺りだけがやや灰色を帯びている。 オイズの体は円形だけど、彼の姿形は楕円に近い形をしている。そして、顎から下に、立派な髭がびっしりと生え揃っていた。 ほぼ無理矢理に彼が海面を割ったので、津波が押し寄せてきた。 何とか踏みとどまった僕らと、巨大な主と、目が合った。 小童め、とでも言いたげにじろりと一瞥された。深い皺が刻まれた瞼の奥に、オイズと同じ黒い瞳があった。  僅かな時間、声の主は海上に姿を現したかと思うと、次の瞬間には思い切り入水していた。 いや、にゅうすいなどと言う生易しいものではなかった。僕らの上に、海が丸ごと降って来た。 海面と波とのサンドイッチになった僕らは、頭からぐしょぬれになった。 巨大な尾鰭が優雅に海面を叩いて……そして、さらに盛大に僕らに水をぶちまけながら、声の主は海下へと消えていった。  しばらく、何も言えなかった。 一体何が起こったのかを考えようとしたけど、思考が萎えていてちっとも埒があかない。 ふと、オイズが嬉しそうにクイィィと声をあげた。僕は顔を上げた。 「……虹だ!」 空高く潮が吹き上げられた場所に、薄い虹がかかっていた。鮮やかな光の七色が、見事なアーチを描いている。 見ているうちに思わず笑みがこぼれていた。 自分でもちゃんと分かった。トレーナーになろうと決めたあの日から、初めて心から笑えたような気がする。 決して他人には褒められない夢だった。今だって、見送りに来てくれる人は誰もいない。 それでもいい。オイズと一緒……二人なら、きっと何とかやっていけるだろう。 目前に広がる大海原には、見える道は一つも無い。進むと決めた方向が、僕らの第一歩。だから、高らかに宣言した。 「航路、東へ! ……出発!」  ねぇ、オイズ。  いつかこの村に帰ってくることがあったら、また二人で声の主に会いに行こう。  クウゥゥ……オォォ……オゥオゥウゥ……オォォ……  海の奥底で、誰かが歌っている。  荘厳で穏健な調べ。悠久の時を経て、歌い継がれる歌がある。  クジラの歌が聞こえる。