「むぅ………」  いま私は、難しい顔でパソコンのモニタに浮かぶ数値たちとにらめっこをしている。  おかしい。この結果ではデータに整合性がとれない。  何処かで計算を誤ったのだろう―――いったい何処で?  私はデスクの上で、にわかに頭を抱えこんだ。  フオン、と。  そんな私の顔色を気遣うように、一体のレアコイルが天井のほうから下りてきた。 「ああ……レアコイル。すまないが資料室からB-102845のファイルを持ってきてくれ。過去のデータを参照したい」  甲高い電子音を発しながらくるくると磁石を回転させるユーモラスな動きに、思わず笑みをこぼしながら私が告げる。  レアコイルはすぐに了解してくれたようで、重力に縛られない動きで宙を舞い、部屋を出ていった。  私はそれを見送って、一度大きく伸びをすると、ぐるりと辺りを見渡した。  ここは研究用の個室なので、他には誰も居ない。からっぽだ。  そして気持ちを落ち着かせるスカイブルーの壁紙には、無数の研究資料が貼り付けられている。  ―――落ち着けやしない。  私はうんざりとデスクに視線を戻し、手元のコーヒーカップに口をつけた。  コーヒーはもうすっかりぬるくなっていたが、しみ入るようなほろ苦さが、ふっと人心地を取り戻させてくれる。  ここで軽く自己確認。 「私は―――崎山 大介。タマムシシティ在住で、この研究所で電気工学を研究している、人間だ」  笑い話だが、たまにこうでもしないと、溢れかえるデータの渦に我を忘れそうになる。  決して忘れてはいけない。  私には、支えるべきものがあるのだから。 「……遅いな」  いつまで待っても、資料を取りに行ってくれたレアコイルが戻ってこない。  しびれを切らし、同時に心配がこみ上げた私はのっそりと席を立ち、白壁の廊下へと出た。  廊下の窓からは西日が射し込んでくる。研究室の中で時間を失っていた私は、しみじみとそれを浴びながら歩いた。  資料室は、まっすぐ突き当たって、右側にある。  普通にいけば、資料を探して戻ってくるまでに10分とかからないはずなのだが―――。 「―――レアコイル?」  私は、資料室の入り口で、床に転がったまま動かないレアコイルを見つけた。 【読み切り小説】  ... ひとつだけ ...  急いで私はレアコイルを抱えて、部屋に引き返した。  すぐさま解析用の装置をととのえ、ワニ型のジャックでレアコイルのネジを挟みこむ。  そして、診断プログラムを起動。装置と連結したパソコンのモニタに、状態を映し出した。 「電気エネルギーの不足による機能停止………当面はエネルギーさえ補給すれば何とかなる、か」  が、 「おかしい。レアコイルには、動作に必要な電力の供給を自律的に行う機構がある。こんなケース、通常では………」   必ず何処かに異常がある。そう確信して、私はさらに解析を進める。  先ほどまで熱をあげていた研究は、丸きりそっちのけだった。  今の私を突き動かすものは―――不慮の事態への純粋な好奇心。それも否定できない。  だがそれだけではない。私にとって、このレアコイルは特別な存在なのだ。  どうしても、何とかしてやりたい理由があるのだ。 「……なるほど、わかったぞ」  そうして細かい解析を続けるうち、私はひとつの結論に行き着いた。  レアコイル1体を構成する、3基のコイル。  そのうちの1基に、内部機構の明確な損傷がみられたのである。  私はひととおりの用具を準備し、異常があった1基の解体に取り掛かった。  コイルやレアコイルは、生命であると同時に、機械という物体でもある非常に特殊な存在である。  だから、こうして人の手で整備を行うことが出来るのだ。  表面を覆うカバーを取り外し、内部機構を肉眼で確認する。 「酷いな……これは」  私は渋い顔で、喉をうならせた。  目測よりも遥かに、 内部の損傷は致命的なものだったのだ。  額からこぼれそうになった冷たい汗をあわてて拭き取り、しばし思案をめぐらせる。 「どうするか………これを修復するのは現実的じゃない。 かといって、そのままにしておけば、必ずレアコイル全体の寿命を縮める結果になる……」  その時、私の脳裏にふっと、ひとりの少年の顔が浮かんだ。  今年で11歳になる、息子の顔だ。  同時に耳からは、甲高いレアコイルの電子音と、それを追いかける息子の無邪気な笑い声が聞こえた気がした。  私は、決断した。 「このコイルを、取り替えるしかないな」    *   *   *  その日の夜遅く、私は街はずれにある自宅へと戻った。  職業がら何日も研究室にこもりきりということも珍しくはなく、今回などは実に数週間ぶりの帰宅だった。  ドアの前で立ち止まった私は、自分は間違いなくこの家の人間であることを己に言い聞かせて、ドアノブに手をかけた。 「父さん、おかえりなさい!」  ドアを開けるなり満面の笑顔で迎えてくれたのは、車イスに乗った息子だった。 「ははっ、ただいま。だけどこんなに遅くまで起きてちゃあ駄目じゃないか」 「ごめんなさい。でも僕、はやく父さんに、ひさしぶりに会いたくて………」  私は思わず車イスから息子を抱き上げた。  愛おしい重み。しかし、  ―――だらんと力なく垂れ下がったままのその両脚。  目にする度に、胸が締めつけられる。  息子がこんな状態なのは、最初からのことだ。  生まれつき脚に障害があり、自分の力で立つことも出来ず、ずっと車イスでの生活を強いられているのだ。  リハビリはしているものの、医者には、今後治る見込みは考えないほうが良いと絶望的な判断を下されている。  考えたくはないが、永遠に息子は、その脚で大地を踏みしめることすらかなわないらしい。  死ぬまで、永遠に。  だが。  息子は今元気で、こうして笑顔を向けてくれる。  それが私にとって、何よりの救いだった。   「お帰りなさい、あなた」  私と息子の声を聞きつけて、妻も玄関先へとやってきた。 「ああ。すまないな、急に帰るだなんて言って」 「何言ってるの。みんなで過ごせるに越したことはありませんよ。ゆっくり休んでらしてね」 「そうするよ」  妻と息子―――大切な家族の笑顔に迎えられ、私は心から「帰ってきた」という気がした。  私はしばらくぶりの一家団らんを満喫し、自室にこもった。  山積みにした読みかけの本を、少しでも片付けないといけないと思い、ひととおり手に取りめくってみる。  が、どうも今は興が乗らず、どれもこれも読み進められない。  やれやれと思っていると、廊下から車イスの車輪の音が近づいてきた。 「父さぁん」  ガチャリとドアが開いて、息子が人懐っこそうに顔をのぞかせる。 「何だ、まだ寝てなかったのか。どうしたんだい?」 「あのね、レアコイルは? 僕、レアコイルと一緒に遊びたいよ」   訊かれて、私はどきりとした。  私が家に帰ってくる時は、いつもレアコイルと一緒だ。そして息子は、いつもレアコイルと遊んでいる。  息子の疑問は必然のものだった。 「……ああ。レアコイルは―――」  しばし躊躇したが、私は観念して机の脇から大きなカバンを取り出した。  中を開けて、動かぬ姿のレアコイルを息子に見せる。  すると息子ははずんだ表情から一転、不安に青ざめてしまった。 「レアコイル………どうしちゃったの?」 「大丈夫だよ」  私は、息子の頭に優しく手を乗せた  そうして、ひととおりの事情を説明する。  息子は、終始きょとんとした様子で、話を聞いていた。 「……取り替える?」 「ああ。レアコイルは3つのコイルが集まって出来ているだろう? そのうちひとつが壊れちゃったから、新しくするんだ。 そうしないと、そのひとつが悪さをして、レアコイル全部がだめになってしまうんだよ」 「…………」 「お前はこいつと小さい頃から仲良しだろう? これからも仲良しでいられるように、父さん必ずしてやるからな」  ―――そう。  息子とレアコイルは、ずっと仲良しだった。  小さい頃の息子は、自分の脚が動かないことで塞ぎこみ、すっかり心を閉ざしてしまっていた。  私や妻の言う事にも頑として耳を貸さない、そんな状態が続いていたのだ。  そういう息子を変えてくれたのが、このレアコイルだったのである。  レアコイルはいつだって息子の側にいて、息子を喜ばせ、閉じた心を開かせてくれた。  今の明るい息子があるのは、このレアコイルのおかげだ。  だから、何としてでも私が修理しなくてはならない。  それがレアコイルへの恩返しであり、息子への愛情である。すなわち私の使命だと、信じて止まなかった。  息子だって必ず私の提案を喜んでくれる、そう私は思っていた。  しかし、 「……僕も」  息子は、笑ってはくれなかった。  息子は涙をたくさんこぼし、顔をゆがめて―――泣いていた。  そして、言う。 「僕も、取り替えられちゃうの……?」 「ど、どうして………」  私は目の前の光景が信じられず、戸惑いの言葉を漏らすことしか出来ない。  そうしている間にも、息子の表情はさらに曇ってゆく。  ぽたり、ぽたりと、大粒の雨が止められない。 「だって………僕だって、脚が動かなくて……壊れてるから。父さんや、母さんを、だめにするから……」 「! そんなこと―――」 「僕知ってるんだよ! 僕のせいで父さんたちが大変な思いしてるって! 僕の脚のことでいっぱいお金がかからなかったら、父さんはもっともっと、エラい研究所にいけるんだって……!」  ―――違う。そんなのは違う。  大声で言いたくても胸がつかえて言葉にできない。  まだ幼い息子にそんな思いをさせていたなんて。そんな事に気づかなかったなんて。  私はただ歯を食いしばって、震えながら泣きじゃくる息子を覚束なく抱きしめることしか、出来なかった。  その時から。  私はひたすら悩み続けた。  レアコイルをどうするべきか、どうすることが正解か、わからなくなってしまったから。  レアコイルは、3基のコイルで1つを為す存在。  それ故に、そのうち1基の異常が、ひいては全てへの異常に繋がってしまう。  だから私は、その1基を取り替えればいいと、至極当然に考えた。  だが、3基のコイルで1つということは、“その3基であるからこそ、その1つである”という事でもあるのではないか。  3基のうち1基でも別物であれば、全く別物のレアコイルになってしまう、“掛け替えのない3基”なのではないか。  例えどれかに異常があったって、取り替えることはできない。取り替えるべくもない。  そんな存在なのではないだろうか?  そうだ。それはまるで、私達の家族のように。  息子が、息子であるからこそ、私達という家族であるように。   『コイルやレアコイルは、生命であると同時に、機械という物体でもある』  ―――機械という物体であると同時に、生命<いのち>である。  ならば。  私はどうすればいい?  それならば、私は―――。    *   *   *  あるよく晴れた日のお昼どき。私と息子は、近くの小高い丘の頂へと登った。  もう動かなくなったレアコイルを埋めてやるために。  何度も手動で電力を供給してやって、ようやっと動いていたのが、とうとう寿命がきてしまったのだ。 「きもちいいね、父さん」 「そうだな」  息子の車イスを押して坂を上がる途中、緑の斜面をぬって吹く風が心地よく頬を撫で、私も息子も笑って顔を見合わせた。  ここならば、レアコイルも安らかに眠れることだろう。  妻が縫ってくれた袋に入ったレアコイルを、大きな木陰に穴を掘って埋める。  そうして、ふたりで祈りをささげた。  息子はその時になって急に涙ぐんで、でも私には甘えず、祈っていた。  自分の精一杯の気持ちでレアコイルを送ってやりたい、そう思っていたのだろう。  それから私達はそこで、持ってきたお弁当を食べた。  最初、ふたりの間には何か不思議な沈黙が流れていたが、 「ねぇ、父さん」  不意に息子が切り出した。 「レアコイル、喜んでるよ」  それを聞いた私の胸に、にわかに複雑な思いがこみ上げる。 「そうか……そうだといいな」 「絶対、そうだよ」  息子の真剣な眼差し。  胸からねじれた気持ちがすぅっとほどけてゆく。私はふっと微笑んで、息子の柔らかい髪を撫でてやった。  そして、 「正しかったのかはわからない。でも私は、この選択に誇りを持っているよ」  目の前の掛け替え無い存在を、今しっかりと抱きしめた。 「“いのち”は取り替えられないことを知っている、父親として。お前の、父親としてだ。わかるかい―――」  暖かな陽射しと風に包まれて。  私は息子の名前を、ひとつひとつ噛み締めるように、呼んだ。  その名は―――“絆(きずな)”。  −完−