空の柱の上で

 

 月の光だけが冷たく照らす、いつの時代のものとも知れぬ崩れ落ちた遺跡。

 その瓦礫の間のわずかな隙間に潜り込み、息をひそめて身を隠す少年のすぐ上空を、シュウシュウと不気味な声をあげながら、巨大な緑色の竜が滑るようにくねって行く。
 怒りに満ちた視線は、不遜にも彼の眠りを妨げた人間の姿を執念深く探し続けている。

(……考えが甘かった、のか……)

 少年は、自分の行動を改めて悔やんだ。

 

 その、何時間前のことだろうか。
 南海の強い日差しの下、人里離れた岩場に天高くそびえたつ石造りの塔。その入り口に、一人の少年トレーナーが立っていた。

 苔むした塔の中は薄暗く、どこからか湿ったひんやりとした空気が流れてくる。
 なにやら強いポケモンが住むらしい、と言う程度のおぼろげな噂を聞き、間近に控えた大会のためのトレーニングのつもりで立ち寄ったが、これは期待できそうだ、と彼は思った。沈没船に魚が集まるように、こんな遺跡や洞窟のような場所にはポケモンが多く棲み付く。中には往々にして珍しいポケモンも混じっていたりするものだ。
 少年は期待で胸をふくらませ、仲間たちとともに塔を駆け上がっていった。

 確かに、ポケモンに関しては期待通りだった。

 が、彼は思わぬ伏兵――歩く端から崩れて行く、朽ち果てた床に手こずる羽目になった。懸命に崩落から逃げるうちに、いつのまにか奥へと入り込んでしまった彼が塔の頂への最後の階段を上がりきった時には、もう外は夜になっていた。
 月明かりの下に歩み出た彼は、眼下の眺望に思わず息を呑んだ。

 

 冷たく冴え渡る月光の下には、一面の雲海が広がっていた。

 そして塔は、その広がる雲海のただなかに、比するものも無くそびえ立っていた。

 

 いくら高い塔であっても、山ほどの高さなどあるわけがない。しかしそれは、雲を遙か凌いでそそり立つ高山の頂上から下界を見渡すかのように、壮大で神秘的な眺望だった。

(いや、)少年は思った。

(塔じゃない。山でもない。
 ここは、空だ。……空の高みの、ただなかだ。……)

 そこはもう、人間(ひと)の領域ではなかった。『神域』という言葉が、彼の脳裏に浮かぶ。
 流れる雲の切れ間の光は、キナギの町の明かりだろうか。この海域では、複雑な海流の関係か、よく霧が出るという。その中にごくまれに現れるという、幻の島の伝説もあるほどだ。

 彼は気付いた。これは海面から立ちのぼる霧なのだ。それが、周りの岩場から抜きん出てそびえるこの塔から見ると、まるで、高い空から雲海を見下ろしたように見えるのだ。
 しかし、理屈がわかったところで、その異界の美しさがわずかでも損なわれる訳ではなく、ここが「空の柱」と呼ばれる由来となった光景を、彼は陶然として眺め続けた。

 

 どのぐらい、そうしていたろうか。
 突然の夜風に、彼は思わず上着の襟をかきあわせた。もう戻って休もうか、という考えが頭をかすめたが、せっかく苦労して登ってきたのだから、と、彼は好奇心にまかせて少し屋上を探検することにした。

 屋上はかなり広く、巨大な石造りの柱や壁の残骸が、そこかしこに立ち並んでいた。
 奥には舞台のような場所があり、その上には大きな彫像も置かれているようだ。よく見ようと数歩歩み寄った次の瞬間、その『彫像』の正体に気づき、彼の胸は高鳴った。
 月光の下、一段高くなった台座の上には、まるで神像が祭られているかのように、巨大な深緑色の竜がとぐろを巻き、静かに眠っていた。

「伝説のポケモン?!」
 悲しいかな、珍しいポケモンと見れば捕獲したくなるのはトレーナーの(さが)だ。少年は、深緑色の竜……レックウザに戦いを挑み、荒ぶる自然の猛威そのものと言われる、ホウエンの伝説ポケモンの凶暴なまでの強さを見せ付けられることになったのだ。

 

「行け、ジンライ! 『電磁波』から、『十万ボルト』!」
 ライボルトが得意の攻撃を繰り出した瞬間、レックウザは鎌首を持ち上げ、高く咆哮を上げた。口の中で光球が膨れ上がり、猛烈な閃光がその喉からほとばしって、彼の目を射る。

「うわあっ!!」

視界が回復した時、傍らにいたはずのライボルトの姿は掻き消えていた。

「……ジンライ? ジンライーっ!!」
 うろたえて周囲を見回す彼の耳に、苦しげな唸り声が届く。恐る恐る後ろを振り向くと、ライボルトは、凄まじい力で背後の壁へと叩き付けられ、虫の息で倒れていた。
「そんな……、そんな、バカな!」
 少年は愕然とした。ポケモンリーグ目指して鍛え上げた自慢の仲間が、一撃で……!

 彼は慌てて他の手持ちを繰り出したが、マッスグマも、オオスバメも、サーナイトですら、大したダメージを与えることはできず、単にその怒りの炎に油を注いだにすぎなかった。

 強烈な反撃でポケモンたちは次々と倒されていく。遅まきながら、無謀さに気づいた彼は、ポケモンを戻して、慌てて逃げようとした。しかし、縄張りを侵され、眠りを妨げられて(いか)るレックウザは、トレーナーをも見逃そうとはしなかった。足がもつれて転んだ彼に、レックウザの巨大な口が、まるで悪夢の中のようにスローモーションで迫ってくる。

 ――真っ二つに噛みちぎられるのか、それとも、跡形も無く消し飛ばされるのか。

 悲鳴を上げることすらできず、少年が恐怖で蒼白になった瞬間、ボールから傷ついたサーナイトが飛び出した。両腕を広げ、全身で彼をかばうサーナイトの放った「サイコキネシス」が、レックウザの発した凄まじいエネルギーと激突し、彼の視界は真っ白になった。

 途方もなく長く感じられた数秒の後、恐る恐る辺りをうかがった彼の目に飛び込んだのは、しおれた花のように力なく崩折れたサーナイトと、混乱し、暴れるレックウザの姿だった。「逆鱗」の後の混乱か、それともサーナイトの渾身の「サイコキネシス」の効果だったのか。いずれにしても長くは持たない。彼は胸が潰れる思いでサーナイトをボールに戻し、歯の根も合わぬまま、手近の瓦礫の陰に這いこんで身を隠したのだった。

 

 あれから、どれくらい経ったのだろう。

 冴え冴えと光る星々は、次第にその輝きを失い、東の空は紺碧から水色へと明るさを増している。まもなく夜明けだ。それでもレックウザは、執拗に少年を捜し続けている。明るくなればいずれ、彼がここに隠れていることはわかってしまうだろう。

(あいつを倒すのは、……無理だ) 少年は唇を噛んだ。

 手持ちのほとんどは、ただの一撃で倒されてしまった。辛うじて致命傷はまぬがれたとは言え、とても戦える状態ではない。特にサーナイトは危険な状態だ。せめて、応急手当だけでもしてやりたいが、この状況では、ボールから出すことすらままならない。

(……そして、逃げることもできない)

 この隠れ場所から出たが最後、人間の足では、階段までたどり着く前に確実に追いつかれる。まして、傷ついたオオスバメにすがって空中に飛び出すなど、自殺行為以外の何者でもない。
 まさに、八方ふさがりの状況だった。

 思考が完全に行き詰った彼は、ついに半ばやけになった。
(こうなったら、一か八か、できる限りボールを投げつけまくってやる!)

 もちろん、捕獲できる確率など話にならないほど低いだろうが、このまま座して最期を待つよりはましだ。……少なくとも、仲間たちを逃がすための足止めくらいにはなるだろう。

 彼は、ポケモンたちの入ったボールを、一つ以外すべてベルトから外した。愛用のバンダナでそっとくるんで、落ちないようにていねいに包む。そして、残った一つ、ジュカインの入ったボールを手に取った。キモリの時から手塩にかけて育て上げた、大切な相棒だ。パーティ内では最速、敏捷さと小回りなら確実に奴を上回る。相性が不利と見て引っ込めたのが幸いし、なんとか無事に残っていたのだ。

(もし、オレが、)彼は、ごくり、と固唾を呑んだ。(……失敗、したとしても)

 垂直の壁や木の幹を平気で昇り降りできるジュカインなら、床が崩れていようが問題はない。助けの得られる所まで、仲間たちを無事に連れ帰ってくれるはずだ。とはいえ、少年が足手まといになっていては、レックウザの攻撃をかわすことは難しいだろう。

(……オレも、ボールに入れたらな)
 彼は苦笑いしながら、ボールの中のジュカインにささやきかけた。

「ジュナ。オレが合図したら、こいつらを連れて、一気に飛び出して階段に逃げ込め!」
「ジュッ?!」

 お前はどうするんだよ、と言いたげなジュカインの抗議の声には答えず、彼は続けた。

「戦わずに逃げろ! 後はオレがなんとかする。……もし、しばらくしても呼ばなかったら、こいつらを連れて、ポケセンに戻るんだ。いいな!」

「……――ジェーッ!!」

 返ってきたのは、明らかな拒否。

「つべこべ言うんじゃない! 後はなんとかするって言ってるだろ!」
「ジェーェェェッ! ジュッ!」

 なおもジュカインは指示を拒み続け、ボールはガタガタと揺れる。ずっと一緒の相棒だけに、彼の半分自暴自棄な意図に勘付いているのだろう。
 トレーナーに似て普段は乗りのいい陽気な性格のくせに、妙なところで頑固な奴だ、と少年は嘆息した。

「わかった。……わかったから、止めろ! あいつに見つかっちまう!」

 彼は、ジュカインのボールをそっと握りしめ、胸を詰まらせながらつぶやいた。
「ありがとな、ジュナ。……一緒に、脱出しようぜ!」

 とはいえ、どうすれば? 一撃でも喰らえば、それで終わりだというのに。

 少年は薄明の空を見上げた。消え残る星に混じって漂う銀の羽毛のような絹雲は、もうすぐ朝の光で緋色に染まるだろう。……もう、時間がない。彼は焦りながらも必死に考えたが、逃げる手段も、攻撃を避ける手段も、何一つ浮かんで来ない。

「……だからオレはいつも、考えが足りない、って言われるんだよなあ……」

 彼は、深い溜め息をつきながら、常々そう言われていた相手――良きライバルで、……そして、親友でもある、気の強い少女トレーナーを思い浮かべた。

(彼女はもう、待ち合わせた場所に着いてるだろうか)

 彼はわずかな間、目の前の現実を離れ、空の彼方に想いを馳せた。

 

『それじゃ、大会の前に!』
『オッケー! いつものポケセンで待ち合わせなっ!』

 そう、笑顔で手を振りあって別れた、ほんの数日前の事が、まるで遙か昔のようだ。気難し屋の彼女の機嫌を損ねては、よく怒られたことすら、今はほのかに甘い思い出のように思われる。

 もしも自分が、ここでたおれてしまったなら。彼女は、悲しんでくれるだろうか?

 彼は想像しようとしてみて、……思わず苦笑してしまった。
「……駄目だ、こりゃ」

 泣くどころか、浮かんでくるのは『あのバカ、どこで何をやってる!』と、怒りまくる姿ばかりだ。
 それでも、なぜか。手足を縛っていた緊張が、少しだけ緩んだようだった。

(彼女が奴を見たら、どうするかな……って、そりゃやっぱ、欲しがるだろうなぁ)

 女性トレーナーには珍しく、彼女はボスゴドラやグラエナといった強面(こわもて)でごつい(本人に言わせれば、『野生的で格好良い』)ポケモンが好きで、中でも一番のお気に入りがハブネークだ。よく一緒に、ザングースとハブネーク、どちらが強いか、などという他愛もない会話を交わしていたものだ。

『……じゃあ、首根っこにでも噛み付かれたら? 文字通り手も足も出ないじゃないか』
『ハブネークを、そこいらのただの蛇と一緒にしないでほしいな』
 彼女は憤慨するようにフン、と鼻を鳴らした。
『あの子たちの鱗冠(とさか)は伊達に付いてる訳じゃない。あの堅い鱗の束は、牙も、尾も届かない所……武器の届かない所を守る鎧なんだ』

(……武器の、届かない所……?!)

 その瞬間、彼の頭にある作戦がひらめいた。
 彼は、瓦礫の陰から慎重に身を乗り出し、上空のレックウザを改めてじっくりと観察した。

(……行ける!)

 無謀かも知れない。しかし、挑戦するだけの価値はあるはずだ。再び闘志を取り戻した彼は、包みからもう一つボールを取り出した。

「作戦変更だ。……頼むぜ、ジュナ、トルマリン!」

 

 ポケモンたちに指示を出し、作戦の準備を終えて、少年はもう一度、傷ついた仲間たちの入った包みを手に取った。わずかにためらった後、少女にあてたメモをその奥に押し込む。
 もしもの場合、仲間たちを頼む、とだけでなく、面と向かって口にでもしようものなら、恥ずかしさの余りに顔から「オーバーヒート」が出そうなことまで、勢いで書いてしまったが、永久に伝え損なうよりはまだましだ。……どちらにしろ、彼女がこれを見るようなことになった場合、彼はそんなことを気にできるような状態にはないのだから。

 可能な手は全て打った。
 作戦が予定通りに上手く行ってくれれば、あの竜になんとか対抗できるかもしれない。あと必要なのは、彼自身の技量と根性……そして幸運のみ。ただ一つ残された切り札を祈るように握り締め、彼は改めて意を決した。

(ここは……人間の世界じゃない! なんとしてもオレは、いるべき場所へ帰るんだ!)

 

 

 朝焼けの光がしだいに明るさを増していく中、立ち並ぶ柱の間を低くくねりながら、レックウザは悠然と獲物を待ち構えていた。

 その時、何かが視界の隅を横切った。
 レックウザは反射的にそれを追ったが、それはあの人間ではなく、金色の体に美しい濃緑の眼のトンボのようなポケモン、ビブラーバだった。
 ただのトンボとさして変わらぬ、到底敵せぬ相手と侮り、レックウザは悠然と近づいた。

 巨竜の牙が迫った瞬間、ビブラーバは至近距離からその最強の武器――凄まじい「嫌な音」を叩きつけた。頭蓋骨を直接歯医者のドリルで削られるような強烈な音波攻撃のショックに、レックウザの全身が硬直する。
 同時に、少年を乗せたジュカインが草緑色の矢のように飛び出した。壁を駆け上がり柱を蹴って大きく跳躍し、無防備となったレックウザの背後を取る。背に乗っていた少年は、広げた上着を手に掲げ、レックウザの頸の根元――そのいかなる攻撃も届かない、唯一の場所――めがけ飛びついた。

「喰らえぇっ!」
 少年はレックウザの頭にかぶせるように上着を叩きつけた。上着がレックウザの視界をふさいだ瞬間、少年は袖に通したロープを渾身の力で締め上げ、上着は即席の目隠しと化した。

「オレは、帰るんだ! ……自分の世界に、帰るんだぁぁっ!!」

 レックウザは、少年を振り落とそうと大きく体をくねらせ、己の体ごと壁に叩きつけようとした。しかし彼はロープを必死で握り締め、両手両足でなお堅くその頸にしがみついた。この目隠しはあくまで即席にすぎない。彼が押さえ続けなければ、長くは持たないのだ。

「意地でも……っ! こいつらに、一撃も喰らわさせたりするもんか!」

 巨大な竜の体当たりを受け、遺跡の壁が、柱が、破片となって砕け散る。
 しかし、レックウザ自身の急所である頸を守るべく突き出した角が、逆に少年への直撃をも阻み、鋭い爪も、己の後頭部に必死にしがみつく少年の体には辛くも届かず、空しく空を切った。

 怒り狂うレックウザを、さらに二匹のポケモンが翻弄する。
 ビブラーバに「竜の息吹」で攻撃され、反撃しようとすれば、背後から「リーフブレード」の一撃を食らう。挑発するように鳴きながら逃げ回るジュカインめがけ攻撃を放っても、視界を閉ざされた状態での攻撃は、垂直の壁や柱を自在に駆けるフットワークによって軽々とかわされてしまう。その間に、瓦礫を「穴を掘る」で掘り進んでいたビブラーバが、飛び出して再び攻撃を加え、瞬時に穴の中へ引っ込んで攻撃をかわす。
 一つ一つはさほどのダメージではなかったが、この連係攻撃に、無尽蔵とも思えたレックウザの体力は僅かずつではあったが削られていっていた。

 しかしその前に、凄まじい力で振り回され続ける少年の方が、先に限界に達しつつあった。
 逆落としになったかと思えば、次の瞬間激しく壁にぶつかり、壁や柱への直撃だけは免れているとはいえ、砕けた瓦礫は、容赦なく体中に叩きつけられ続ける。手足はこわばり、感覚がなくなって意識が半ば朦朧とする中、彼は必死に『その時』が来るのを待ち続けていた。

(くそっ! ……まだか? まだなのか!?)

 その時、ピピッ、ピピッ、という電子音が、かすかに彼の耳に入った。

(来た!! ……持ちこたえた!)

 少年はポケットに手を突っ込み、最後の切り札――先ほどレックウザに対峙した瞬間から、ずっとそのデータを刻み込み続けていたタイマーボールをつかみ出した。
 対象の行動パターンを多く記録するほど捕獲率が上がっていくタイマーボール。内蔵メモリ一杯、三十パターン分のデータを記録した時、捕獲期待値は最高に達し、マスターボール以外のいかなるボールをも凌ぐ性能を発揮する。彼はその瞬間を待ち続けていたのだ。

 彼が握り締めたボールを叩きつけようとしたその時、レックウザは遺跡の壁にひときわ強く身を打ち付けた。壁は砕け、大きな瓦礫が彼の頭に激突する。一瞬意識が遠のいて指の力が抜け、ボールは彼の手から落下していった。

「しまった!!」
 彼は必死に身を乗り出したが、その手は届かない。彼の注意が逸れ、手足の力が緩んだ瞬間、レックウザの首が大きく打ち振られ、少年の体は虚空へと投げ出された。

 ジュカインは悲鳴のような叫びを上げた。
 目の前で少年の体は宙を舞い、鈍い音を立てて壁に叩きつけられた。そしてそのまま瓦礫と共に転がり落ち、壊れた人形のように横たわる。
 冷静さを失ったジュカインは、足掻(あが)くレックウザの脇をすり抜け、動かぬ少年の元へと走り寄ろうとしたが、その軌道は、ほんの僅かレックウザに寄り過ぎていた。振り回される長大な尾に胴体を捉えられ、ジュカインはなすすべもなく巨竜の足元に叩き伏せられた。
 連携のリズムが崩れる。慌てて穴を飛び出したビブラーバもまた、目隠しを外そうと首を振るレックウザの顎に弾き飛ばされ、その小さな体は軽々と瓦礫の間に叩き込まれた。
 あっと言う間に、形勢は逆転しようとしていた。

 

 仲間たちの叫びが、生暖かい混沌から少年の意識を無理やり引き剥がす。

「ぐ、……ううっ!!」

 意識が戻ると同時に、痛みの波がどっと押し寄せた。頭の傷はずきずきと脈打ち、呼吸の度に肋骨が悲鳴を上げる。痺れて動かない左腕を押さえ、彼はよろめきながらも立ち上がった。

 霞む視界に捉えたのは、今しも目隠しを振りほどいたレックウザと、その鉤爪の下にぐったりと横たわるジュカインの姿だった。

 氷のような絶望に襲われた次の瞬間、彼は気付いた。レックウザは一瞬目をしばたたいたものの、また目を固く閉じ、苦しげに唸り続けている。目を開けていられないようだ。

「……まだ、完全に運に見放されちゃいない、ってことか」

 彼は肩で荒く息をつきながらも、辛うじて唇をゆがめ、ニヤリと笑った。駄目押しのつもりで、激辛のマトマの実を潰して上着に塗りたくっておいた事は、無駄にはならなかったようだ。例えタイマーボールが無くとも、ハイパーボールならまだ数個残っている。

「これでも、喰らえぇっ!!」

 彼はハイパーボールを投げつけた。レックウザの体が光となって吸い込まれる――と見えた瞬間、ボールはあっけなく破裂し、プラスチックの欠片となって飛び散った。
 彼は手持ちのボールを次から次へと必死に投げつけたが、どのボールもレックウザが入るか入らないかのうちにはじけ、全て空しく欠片となって散らばるばかりだった。

「く……っ! ……駄目か……っ!」

 反撃の手段を失った少年を、今度こそ絶望の(あぎと)が捕らえようとしていた。

 

 鉤爪の下で、ジュカインは意識を取り戻した。つい鼻先に、タイマーボールが落ちているのに気付き、悔しさのあまり全身の鱗を逆立てる。

 その時、瓦礫を跳ね飛ばし、レックウザの背後から一筋の金色の光が矢のように曙光の空に立ち昇った。上空で光はすうっと伸び広がり、見る間に細長い首と尾、雲母のように繊細な翼と触角を持つ竜のかたちをとる。
 生まれ変わったばかりのフライゴンは、自分の力を確かめるかのように、翼をはためかせ数度旋回したと思うと、逆落としにレックウザに襲いかかった。進化後もなお数倍近い大きさの相手にひるまず立ち向かい、一筋の炎を吹き付ける。
 レックウザの破壊の咆哮に比べれば、あまりにもか細く見えるその息吹。しかし、巨竜の注意をひきつけ、隙を作るには十分だった。

 ジュカインはそのチャンスを逃さず、必死に身をよじり、ボールをくわえて飛び出した。しかしその背後を、今一度鋭い鉤爪が襲う。
 背中の種をむしられ、尻尾の葉を舞い散らせながらも、ジュカインはなんとか少年の元へと駆け寄った。息を呑む少年の手の中にすれ違いざまボールを落とし、そのまま力尽き横様に倒れ込む。

「……ジュナ!!」

 今一度、少年の闘志が燃え上がる。仲間たちの気持ちを、無駄にはしない!
 彼は最後の気力を振り絞り、まっすぐにレックウザ目掛け突っ込んだ。至近距離から、その額にタイマーボールを叩きつける。レックウザの巨体は光となって吸い込まれ、ボールは激しく揺れ、警告ライトが明滅する。

「……入れ! 入れ!! 入れぇええ!! ……入ってくれぇええーっ!!」

 爪が食い込むほどに拳を握り締め、必死に祈る少年の目の前で、軽い捕獲モード解除音とともに、ボールの動きが止まり……、
 射し初めた朝陽の中、少年は、泣きたいほどの安堵に満ちた深い溜め息とともに、がっくりと膝をついた。

 

 

 

 午後の日差しが、ベージュ色の病室の壁を暖かく照らす。ベッドの上に半分身を起こした少年は、満身創痍、包帯と絆創膏だらけながら、表情は底抜けに明るい。

「――ってな感じでさぁ。ホント、大変だった」

「まったくもう、無茶なんだから!」

 気の強そうな少女トレーナーは、心底呆れた、と眉を吊り上げた。

「でも、……」
 軽い溜息とともに、彼女の表情が和らぎ、心からの安堵が顔をのぞかせる。

「……帰ってこられて、本当に良かった」

「ま、おかげでトルマリンも進化できたし。結果オーライ、ってとこかな?」
 などと軽口を叩きながら、自分はつくづく運が良かった、と改めて彼は思った。

 もし、一歩間違っていたら。
 彼が横たわるのは、病院のベッドではなく、遺跡の冷たい石の床だったかも知れないのだ。
 命を賭けた戦いは過ぎ去った。空の高みでの死闘を、まるで他愛もない世間話のように語れる平穏なこの時間(とき)が、たまらなく愛しい。部屋の窓から遥か彼方の空を見上げながら、彼は無事自分の世界に戻ってきた実感をしみじみと噛み締めた。

 

 しかしその安らぎは、次の瞬間絶体絶命の危機へと急転した。

 

「それにしてもこの上着、ずいぶんボロボロになっちゃったね」

 少女が上着を振るった拍子に、そのポケットから小さく畳まれた紙がはらり、と舞い落ちた。

「……? あたしあて?」

(しまったぁぁっ! 処分しとくの、忘れてたぁーっ!!)
 少年は、声にならない悲鳴を上げ、滝のような脂汗を流す事となったのだった。

 

 


---THANKS---

 作品中、タイマーボールの設定につきましては、かけるさんの「かけるのページ!」内、「妄想アイテム図鑑」を参考にさせていただきました。

 また、最初から最後まで推敲にお付き合いいただき、ご助力をいただきました岡崎和連さん、及び、No.017さん他、ご助言いただきました皆様にも深く御礼申し上げます。


 以上は、マサラのポケモン図書館製作の同人誌、「COMPASS」に掲載された作品に、横書き表示に対応した行空けをほどこし、若干の推敲および描写追加をした最新版です。
(1箇所をのぞき、ほとんどは「てにをは」レベルです。「COMPASS」とよっぽどのヒマをお持ちの方は、比較してみるのもまた一興?)

 ちなみに、「空の柱の上で」初稿(応募稿)、および制作裏話もございますので、おヒマ+興味のある方はどうぞごらんくださいませ〜。