私が生まれたのは、育て屋だった。 私は、どうやらポケモン同士の戦いのためにトレーナーが親同士を交配させ、 気がつけば生まれていたようだった。 私が生まれたばかりのロコンだった頃、トレーナーと会った。 今にして思えば、容姿はあまり良くない、ブーピッグか何かに似ていたと思う。 そのトレーナーは私を見て一言 「個体値はいいのに、性格が駄目だな」 意味は良く理解できなかったがそう言われ、 親の顔も良く知らないままに私はボックスに預けられた。 その頃の私は幼かったから、何がなんだかわからなかったが ただ、微かに残る記憶には、タマゴの中に戻ったような風であった。 寂しいだとか、そういうことを感じることは無かったが、快適ではあるにせよ、私は孤独だった。 しばらくして、私は何もわからないままボックスから引き出された。 そして、何も知らされないままどこか別な場所に私は連れてこられた。 後日聞いた話だが、そのトレーナーは誰かに殺されて死んだらしい。 詳しい話は聞かなかったが、口論が発展して揉みあいになったそうだ。 私は、新しいトレーナーの元へやってきた。 そのトレーナーは若い女だった。 恐らく、人間たちにしてみれば、美人、というやつだったのだろう。 良く、人間の男に言い寄られていた。 その女は、私のことを良く理解しようとし、 そして、存外丁寧に私を育ててくれた。 私は、その女が気に入ったし、その女も私のことを気に入っているようだった。 だから、炎の石を使われるときも特に抵抗はしなかったし 私の新しい姿も私自身、すんなりと受け入れた。 大事な試合では、私は何時も彼女に使われた。そして、ほとんど負けることは無かった。 時たま、負けることはあっても彼女は私を責める事は無かったし 私も、彼女と一緒にその悔しさをかみ締めていた。 勝ったときには、彼女と一緒に嬉しさを分かち合っていた。 何故私が前のトレーナーに半ば捨てられていたのかを考えてみて、良くわからないとも思った。 私はこんなにも強いのに、と。少し、うぬぼれていたのだ。だが、それもあまり長くは続かなかった。 私が、偶々ボックスに控えていたときに、女は事故にあい、死んでしまった。 詳しい話は聞かなかったが、車という奴に轢かれたらしい。 私は深く悲しんだ。自分の不運を悔いた。どうせならば、一緒に居れればよかったのにと。 どうせならば、一緒に死んでいればよかったのにと。 しかし、そんな事を長く感じる間も無く、私は、また、良くわからぬまま、新しいトレーナーに引き取られることになった。 次のトレーナーは、男だった。 男は、私が今まで見た中で、一番暗く陰鬱な雰囲気だった。 私は、未だに悲しみを引きずっていたから、あまり乗り気ではなかった。 そのトレーナーもまた、私に多くを期待してはいいなかったみたいだった。 私は、たまにあるバトルに駆り出され、よくわからぬままに負けていた。 指示される私も、そして、男の指示も勝つためのものではなかった。 そもそも、私自身、戦うような気分ではなかったし、男も同様だったみたいだ。 男はよく私に謝ったが、その状況は変わらなかった。 しばらくするうちに、その男もまた死んでしまった。 詳しい話は良く聞かなかったが、どうやら自殺したらしい。 私は、特に何も感じる事は無かった。 精々、人間は何故自分で自分の命を絶つのだろうな、という程度のことだった と、言うより、既に何かを感じる方が馬鹿馬鹿しくなってきていた。 そのトレーナーに何か思い入れがあったわけではなかったからだたというせいも、多少はあったのだろうが。 そして、いつしか私は「持つと死ぬ」といういわくつきのポケモンとなっていた。 気分は良くは無かったが、仕方がないとも思った。 けれど、そんな私を引き取る者は未だ居るようだった。 新しいトレーナーは、老婆だった。 というより、トレーナーとは言い難かった。 老婆は、私を傍において、ただ毎日何かの細工事をしたり 縁側で草木を眺めたり、一緒に外を出ては、散歩をしたりしていた。 この頃の私は、戦いたいと思い直していたので、ある意味ではフラストレーションはたまっていたが それでも、暮らし自体は、悪いものではなかった。 老婆は穏やかな性格だったし、彼女の作る食べ物は大分塩辛かったが、不味くはなかった。 何より、そもそも私はバトルの為に生まれたポケモンだったから こういう生活もあるのだということを知った。 ときたまやってくる彼女の孫らしい子供に 尻尾を編まれるのだけが非常に問題ではあったが 毎日を、それなりに良くは過ごせた。 だが、なんとなく予想はしていたがやはり、その生活も終わることになった。 今回ばかりは、私の目の前での出来事だった。 老婆は、日が進むにつれ、床に伏せる事が多くなった。 やがて、老婆は死んだ。 私は、彼女の家族と共にその姿を見守っていたが、死の際の老婆はあまり悲しそうではなかった。 家族は、寿命だったのだろうと、泣いてはいたものの納得しているようだった。 だからか解らないが、私は悲しいとは思わなかった。 やはり、既に慣れてしまったという所為が大きかったかもしれない。 どちらにせよ、私はその後、世話をしきれないから、という理由でまた他人の手に渡ることとなった。 私自身、どうとも思いもしなかったが、子供達は随分惜しんでいるようだった。 次のトレーナーは、少年だった。 はっきりいえば、それまでのどのトレーナーよりも未熟だった。 それでも、どういうわけか彼自身の実力を大分上回っている私を手に入れたことを喜んでいた。 私の「持つと死ぬ」という風評は、既にキュウコン全体に言われ、 一部の都市伝説と化していたから、そこまで気にすることでもなかったのだろう。 良く、友人たちに見せびらかし、その友人たちも比較的羨ましがっていた。 バトルでは、よく使われたが、あまりの指示のめちゃくちゃさに聞く気になれず 私は引っ込められ、結局の所彼はしょっちゅう負けていた。 よく責められたが、知ったことではなかった。 なぜなら、私の相手は、私よりも明らかに弱いものであったし(この程度は自惚れでは無いと思う) 先にも言ったとおり、指示がめちゃくちゃだったからだ。 言ってみれば、攻撃しながら防御しろ、というようなことだった。 それでも、私はそのまま彼の手持ちに居ることが多かった。 レベルの高いポケモンとして、自慢程度の理由で連れられていたのだと思う。 ただ、食べ物だけはしっかりとくれたからその分の働きはしたつもりだ。 少なくとも、彼の数少ない勝利は私の手によるものだった。 やがて、例によってその少年も死ぬこととなった。 どうやら、少年は元々体が弱かったらしく、病気にかかったらしい。 詳しい話は聞かなかったが、あまり勝てなかったことを悔やんでいたようだった。 そういうわけで、私はまた、トレーナーの居ないポケモンとなった。 しばらく、引き取り手の居ない日々が続いた。 ずっと、人間のポケモンである事に慣れていた私は、そのまま野生に帰ることもできず、 とある山の麓にあるポケモンセンターで眠る日々が続いた。 そのポケモンセンターは、とても過ごしやすい場所で 周囲を見ると景色は美しかったが、私にとってはあまり意味の無いことだった。 しかし、ある日、私はあるトレーナーと出会った。 そのトレーナーは若い男だった。 私は、私が今までであったどのトレーナーよりも変わっているように見えた。 その男は、私を見て「ああ…これは可愛いキュウコンさん」と、言った。 男は、笑っていたが、からかっている風ではない。 可愛い、などと言われなれているはずも、あるわけがない私は、どちらかといえば腹が立つような気もしたが 不思議と感じたものは悪いものでもなかった。 暫く男はそのポケモンセンターに滞在した後、何の抵抗もなく私を引き取った。 私の境遇を少しは聞いていたが、話半分という様子だった。 もっとも、話された物自体が、大分かいつまんだ形になっていたが。 どうやら男は私のことを一方的に気に入っていたようだった。 私は、傍目に見てもあまり愛想の良いポケモンとはいえなくなっていたので 第一印象のみで見ればその要素は無いように思えたが、それでも私のことを気に入ってくれたようだった。 私はそれに対して何かを抱くようなことは無かった。 むしろ、曲りなりとも私が積み重ねてきた強さを見てのものかと、邪推すらしていた。 男と行動を共に始めて解ったが、男はとても変わった人物だった。 恐らく、私が今まで出会ったどんな人物よりも変わっていた。 まず、男は良く笑っていた。 常にと言ってもいいぐらいに、何が楽しいのかと思うほど笑みを絶やすことは無かった。 そして、私に良く語りかけてきた。 今までのトレーナーだって、多少は何かを話しかけてくるものだったが、私にはそれに返す術は無かったので ほとんど無視する形になっていたが、その男は特に何も気にすることは無かった。 「俺の名前は、レン。お前は?」 私に名乗る名前など無かった。 そう、私は常に私の種族の名前である「ロコン」だとか「キュウコン」だとか、そういう風に呼ばれていた。 だから、名前を問われること自体が私にとっては少し不思議だった。 それに、もしあったとしても答えられるわけはなかったので小さく首を振って返した。 「そうかぁ。それじゃあ、ヒコ、ってどうかな」 ヒコ。彼の発する言葉の響きは良かった。 私は名乗れなかったが、気に入ったので特に反応を返さずにいると 「じゃ、決まりだね。君は今日から、ヒコだ」 と、また嬉しそうに笑った。 名前で呼ばれるのはすこしだけくすぐったいような気持ちがした。 更に男…レンと行動を共にしてわかったことがある。 レンは、物事を良く忘れた。 人間というのは基本的に記憶力のよいもの──個体差はあるにせよ、そこらの黄色い鼠やらよりかは──だと思っていたが、レンは良く物事を忘れていた。 他者の名前はもとより、たった今のことをも良く忘れていた。 あるときには、大事な試合のことを忘れて、私達の方が忘れて大慌てで試合会場に行った、なんてこともあった。 そして、終わった後、そんなことを忘れたかのように「いやあ、きょうの試合は楽しかったね」 などということをしれとした顔で言って、私達に溜息をつかせていた。 彼の過去の話、というのはその程度のもので、次の日になると昨日の試合のことなんて話さなかった。 それどころか、良く喋る割には彼の昔の体験だとか、そういうことは全く喋らなかった。 忘れていたということもあっただろうし、過去を気にしないという性格もあったのかもしれない。 ただ、私とは反対だとは思った。 私は、今までのどのトレーナーのこともほとんど忘れることは無かった。 だからと言ってどうするという事はない、という点においては、彼と似てはいたかもしれなかったのだが。 レンは記憶力が良くない代わりに、とても鋭かった。 私が考えていることは大抵当てていた。私の嗜好もまるで、私自身がそれを語ったかの様に解っていた。 例えば、私は一時期ボールに入らない生活が続いた所為か、あまりボールの中が好きになれなくなっていたが、 それを見抜いて、レンは私をあまりボールには入れなかった。 また、鋭いせいかバトルでも彼はとても強かった。 私たちの体調をよく理解し、そして、対戦相手の思考すらを見抜き、 私たちへのダメージを最低限に抑えるように、かつ、敵への的確な対処をするような戦い方をしていた。 それが彼の強さだった。多分、彼以外に真似できるようなものではなかったのだろう。 彼の手腕は素晴らしかったし、戦いを通じていつの間にか、私はレンを信頼するようになっていた。 周囲のポケモンたちもまた、レンのことを信頼していたが、それも当然だと私は思った。 ただ、私の名前に限らず、仲間達にも彼自身がつけた名前をよく間違えるのは問題ではあった。 それもまた、私たちの間での笑いを誘う要因になっていたのだが。 いつしか、彼の手持ちの中で一番彼の傍に居るのは私になっていた。 先にも言ったとおり、私はレンの懇意によってボールの外に出されていることが多かったからだ。 しかし、それは私に対して、特別に気に入っていたからとか、そのような深い意味は無かったと思う。 レンは彼自身のポケモンたちに等しく気を配っていたし、手持ちのポケモン全てを等しく好きだったようだった。 私に対して周りから嫉妬とか、そういったものがなかったか、といわれるとそうではなかったと思うが 彼の人柄のせいか、納得もしているようだった。 それぐらいにレンの行動は説得力があるし、そうでなくともレンは素晴らしいトレーナーだと思った。 少なくとも、今まで私が一緒に居たどの人間よりも素晴らしい人間だった。 掛け値なしにだ。私が私でなかったとしても──こんな仮定は無意味だが──私は彼のことを気に入っていただろう。 ある種、彼の元で戦えるというのは、幸せなことだと思った。 なんにせよ、私はほとんど常時外に出され、道すがらも彼と共にしたわけだから、必然的にレンの話を聞くことが多かったのは私に違いはなかった。 と、言ってもレンのする話は他愛の無いことばかりだった。 旅するうちの、先ほどのご飯は何がおいしかっただとか、今の花はきれいだとか 変な形をした雲があるだとか、そういう、本当にどうでもいいようなことをさも楽しげに言っては笑っていた。 私にとっては特に興味深い話でもなかったが、 レンの話を聞いていると私も、レンと同様に楽しい気分になったのは確かだった。 段々と、私は彼と一緒にずっといたいと願うようになってきていた。 そうして、私は楽しく旅を続けることができたが、私には、ある一つの大きな心配事があった。 私の頭の裏には、いつでも、「彼もまた今までのトレーナーと同じ様になってしまうかもしれない」という考えがあった。 私にしてみれば、それはもちろん偶然のことだ。私が何かをしたわけではない。 けれど、それでも。もしかしたら、私のせいで、私が居ることによってなんらかの事象が働いてそうなっているのかもしれない。 そんなことを考えても無駄だと思っても、私は彼と一緒に居れば居るほど、それを思ってしまっていた。 その不安さが──不本意ながら──彼に伝わっていたのか、彼はそんなことを考えている私に決まって 「大丈夫だよ、ヒコ」 と、言ってくれた。 「大丈夫だよ、ヒコ。君の傍には俺がいる。皆も居る」 私を励ますように。 安心させるように。 そして、実際にそういう響きのある声で、いつもの笑顔で言ってくれた。 彼の言葉は、恐らく私が本当に何を危惧しているのかは理解していなかったと思う。 だから、実際にはなんの説得力もなかった。説得力はなかったが、それでも私は安心することができた。 気休めだったかもしれない。 気休めだったかもしれないが、「多分彼は大丈夫だろう」と、思うことができた。 そうこうしているうち、私たちは沢山の勝利を重ねて行った。戦いの場で、だ。 レンはどんどん注目されるようになってきていた。 旅先で行った場所で人が集まってきたり、何かを聞きに来る人も居た。 私が、いつも傍に居るせいか、私は彼の代表的な手持ちポケモンとして紹介されることもあった。 少しだけ、私は他の仲間達に対して優越感を感じることができたが、レンの扱い私に対する扱いは大しては変わらなかった。 と、言って何か別の扱いを求めていたかというと、そうではない。 私は、私の今与えられた立場に満足していた。 仲間と共に、彼をもっと強いトレーナーとして世に知らしめてやるという大それたことも考えていた。 レンは、それでもいつもとはなんら変わらなかった。 いつもどおり、彼のやれることをやっているだけのように見えた。 その姿勢が、私たちにとって出せるだけの力を出すという姿勢にもつながっていたのだと思う。 レンは「何か、勝つために特別なことをしているのですか」と聞かれると、決まって 「いつもと同じことをしているだけです」と少し照れた笑いをしながら答えていた。 私もそうだと思った。 彼はいつでも、彼のままだった。 それが私は嬉しかった。ずっと、私が傍に居れる気がして。 大切な戦いの迫るある夜。 その日は、月が無く星が綺麗な夜だった。 どこかの街の外れの、街を見下ろす高台。 街には、また空と同じように星があるように見えた。 レンは私と一緒に、そこでぼんやりと街の方を眺めていた。 いつもなら景色が綺麗だとか、そういうことを騒いでいたのだろうけど その日は珍しく、物静かな様子だった。珍しいといえば、普段から笑っている彼の表情は珍しく、どこか寂しい、というか力の無いものだった。 彼も、そういう大事な日ぐらいは緊張するのかな、と少しだけ意外に思った。 何時も同じ様な調子で、何時も同じ様に振舞って、戦っていたから。 しかし、こういうのも悪く無いなと思って、私も何も言わず──もっとも、私に語る口などなかったが──一緒に街を見下ろしていた。 「ヒコ」 唐突に、彼が口を開いた。 私は、景色から目を離して少しだけ彼の顔を見上げた。 彼は、私の方を見ては居なかった。ずっと遠くの方を見て、少し目を細めていた。 「俺さ。…家族を置いて、トレーナーを目指してたんだ」 家族。 彼の親か、兄弟か、それとも 「周囲は反対したよ。お前にはやるべき事があるだろうって。お前には無理だろうって。 俺は、トレーナーになるまで、自分に与えられたことだけをやってきた。 ほら…記憶力も悪かったし、はっきり言えば、それぐらいしかできなかったからね」 始めて聞く話だった。 レンは笑っていたが何時にも増して寂しそうな笑いだった。 「だからさ。俺は皆に言ってやったんだ。世界一のポケモントレーナーになってやるって。 もちろん、笑われたけどさ。何を馬鹿なこと言ってるんだって。そんな夢物語って」 夢物語なんかではなかった。 それは明白だ。きっと、彼のことを理解してなかったのだろう。 私は、なんだか良くわからないが、不愉快な気持ちが湧き上がっていた。 「…明日…明日だ。明日勝てば──なれるかもしれない。…そうしたら、皆。認めてくれる、かな」 なれるだろう。 私達が、いや、私がそうさせてみせるのだ。 私は頷いた。 「…なーんて…こんな話しても、面白くないよね」 彼はそういって、いつもの笑いを取り戻した。 そんなことはない。 きっと、世界中がお前を認めざるを得なくなるだろう、と私は思った。 しかし、それは思えば、変調の始まりだったかもしれない。 私たちは、その次の日久しぶりに負けた。 理由は、単純な指示のミスだった。 普段ならばありえないような、同じ指示を二度繰り返す、という。 レンは酷くショックを受けた様子だった。 私も、こんなことは何かの間違いだと思った。 しかし、その日から、レンはそういう事をよく繰り返すようになってきた。 レンは申し訳無さそうに私たちに謝っていた。 もちろん、私は気にしなかったが、気には留めていた。 何故突然こんなことに、と。彼の様子は明らかにおかしかった。 試合の日を忘れることも前にも増して多くなったし、自分が今何をしているのかということすら、たまに忘れるようになった。 周囲の人間もそれに気づいて「少し疲れているんだよ、休んだほうがいいんじゃないか」と言った。 レンもそうかもしれないと思ったらしく、とある街のポケモンセンターで検診を受けることになった。 私は、その検診の間じっと待っていた。 また、あの嫌な予感がしていた。今度は、確実な実感として。 結果は2、3日で出ることとなった。 結果を聞くとき、私は居ても立っても居られず、無理矢理レンと一緒に医師に話を聞いた。 レンは大丈夫だよとまたいつもの調子で言ったが、そのときの言葉は決して、私に安心を与えるものではなかった。 彼は、死ぬような病にはかかっていなかった。 しかし、結果的に彼が死ぬのにはかわらなかった。 病名は私にはよくわからなかったがとにかく、彼は、少しずつ記憶を失い、記憶ができない状態になっていたのだ。 それは、私たちのことはもちろん、彼自身のことも。 医師は、そのうち簡単なこと以外はできなくなるだろうと言った。 レンは、静かに聴いていた。いつもどおりの顔に笑みを浮かべた面持ちで。 自分が死ぬことを宣告されているのと同じ意味だったのに、彼は全くいつもの振る舞いと変わらなかった。 それすらもすぐ忘れていたかのように。 私は、また私のせいかもしれないと思った。なぜ、私が仕えるトレーナーは皆こうなるのだろう。 私に何かあるのではないか。私が何かしたのではないか。 考えても仕方がないことであることは、明白だったが自責の念を消し去ることはできなかった。 それ以上に。それ以上に、私は彼の記憶から消されてしまうのが嫌だった。 紛れも無く、私が彼と共にした時間は私の生きた中でも、長かった。そして、最も意味があるものだった。 それがこれからも続くと思っていた。もちろん、終わりがないと思っていたわけではない。 けれど、それでも、願わずには、居られなかったのだ。こんな形で終わるのは嫌だと。 私は、初めて、涙を流した。 レンはそんな私を見てまた、「ヒコ、俺は大丈夫だから」と言った。 私の涙は、止まらなかった。 レンが良いか、悪いかじゃない。私が、ダメなのだ。 そして、私は、あることに気づいた。 もし、彼が忘れてしまうなら。 これからも彼の傍に居て、彼の記憶を作り続ければいいのだと。 そんな彼を、私が記憶し続ければいいのだと。 その後のレンの決断に、あまり迷う様子は無かった。トレーナーを引退し、私たちを他人に預けたり、逃がすことになった。 私もまた、他のトレーナーに引き取られることとなったが、私は心に決めていた。 そもそも、私は彼を助けたかったし、それに。 私の記憶を、私のことを、忘れないでほしかった。 たとえ彼の中がどんなに変わっても、彼は彼として私の記憶の中に刻み込まれている。 それはきっと、彼が彼として死ぬとしても、そうはならないのではないのかと。 そして、見た目には彼は全くいつもと変わる様子は無かったから。一部では彼が死ぬ、もしくは死んだも同然、という事実を信じたく無かったのかもしれない。 私はとにかく、彼と共に行くという意思で彼を見上げた。 幸いにも彼はそれを読み取ったのか、私を彼の元へ置いてくれることになった。 私だけは、彼と共に彼の家族の下へ帰ることになった。 そうして、私たちは今、レンの故郷への道を歩いている。 レンは矢張り以前と変わる様子なく、道端でしゃがみこむと、彼にとって面白いものを見つけては私に言い、笑っていた。 「ねぇねぇ、面白いものがあったよ」 私も目を細めて、それに近づいていく。 他愛の無い時間だ。 ふと、レンは道のずっと向こうを眺める。 「もう直ぐ、着くよ。俺の故郷、いい所…ってちょっとだけ覚えてる」 もう。彼の記憶は、大分ところどころが薄れているらしかった。 それでも、そんな状態だからこそ。彼は、それを思い出そうとしているようだった。 以前とは少しだけ違うような振舞いだったが、それはそれで、嬉しいことだった。 「──皆、こんな俺を見たらなんて言うかな」 私は、一瞬足を止めて、目をそらした。 レンのことを知る人間。 レンのことをおそらくは、待っている人間。 そして、レンが思い出そうとしている人間。 私の中で良くわからない、何かの感情が渦巻いている。 なんだろう、この想いは。良くわからないものだった。 レンはそんな私の様子に気づかず、立ち上がると歩き出す。 その感情の正体は突き止められなかったが、私も後についていった。 日が暮れる前には、彼の故郷まであと数時間という街に着いた。 明日には、きっとレンは彼の家に帰れるだろう。 レンは、その程度のことはまだ覚えているらしく、楽しみにしているようだった。 私も、そんなレンを見て悪い気分にはなれない。 そうだ、きっと、彼にとって幸せなことなのだろうから。 明くる日。 彼は死んだ。 朝、起きると彼は全てを忘れていた。 本当に、基本的な、それこそ、服を着るだとかそういったことを除いて、彼はすべてのことを忘れた。 私が誰であるかも。そして、彼自身が誰だったのかも。 当然、彼がどこへ行こうとしていたのかも。 彼自身はどうしていいかわからなくなっているようだ。 というより、困った笑いだけを浮かべて私を見て「君は誰?」と一言言っただけだった。いつものあの声と笑顔で。 最初、私は大きな衝撃を受けたが、今、彼の傍に居るのは私だけ。 私がどうにかしなければ、レンはどうしていいかわからないはずだ。 私は、レンをどうしてやればいいのかを考えた。 選択肢はそう多くは無い。彼を彼の故郷につれていくか、そう考えたときに私はある事を思いつく。 このまま、レンと一緒にどこか別な所へ行けば、彼は私だけのものになるのではないか。 そうすれば、きっとレンとずっと、一緒に居ることができる。 彼が彼でなくても構わない。私が、彼であると知っているのだから。 そうだ、そうしよう 私は、彼と泊まっていた場所を出ると、良くわからなさそうな面持ちの彼の服を引っ張る。 「どうしたの?どこへ行くの」 そう言っていたが、私は、強引に彼をしつこく私の行こうとする方向に引っ張った。 すると、やはり良くわからなさそうな面持ちのまま、彼は私についてきた。 彼と一緒に生きて行くぐらいのことは、私にも出来ると思う。 いや、なんとかしてみせる、と、それだけの覚悟は私にあった。 そうさせるだけの物を彼は持っている。 そうするだけの価値が、彼にはある。 そう。 レンは、私だけのもの。 私は今まで気づかないでいた。 今まで、願いもしないものと環境を与えられてきたが、やっと私は、私の手によって、私が欲しいものを手に入れた。 それが、彼だった。 それに気づいてしまった。 そして、その手段を私は手に入れた。 彼を知っているのは、私だけでいい。 彼の傍に居るのは、私だけでいいのだ。 私は、嬉しかった。 それを察してか、レンも嬉しそうだった。 私は彼を導き、ずっと傍に居る。 そして、彼は私を必要とするのだ。 たとえ、私のことをレンが忘れていたとしても、私はレンのことを絶対に忘れない。 そうすれば、私の生きる間は、きっと、ずっとずっと、生きていることになるだろう。 だから、彼ともっと、長い時間一緒に居て、彼の全てを知る必要がある。 彼の全てを、生かすために。 レンが、道すがら歩く途中、また、面白いものを見つけたらしい。 私は少しだけ口元を緩めて、例によって傍に寄るとそれを眺める。 そこには、青い花が、咲いていた。