夜の砂漠。 ゴウゴウと砂嵐が吹き荒ぶ中、何頭ものラクダ達と、彼らに囲まれた二つのテントが、打ちつける砂と強風に耐 えていた。テントの中では隊商達が所狭しと寝転がっている。その中でただ一人だけ、十四、五歳ほどの少年がまだ起きていて、外の物音 に聞き耳を立てていた。少年の傍らには一匹のリザードが寄り添い、その尾にともる炎で、少年のようやく髭の生え始めた、まだあどけな さの残る顔をほの紅く照らし出しながら、一心不乱に何かの音を聴く少年の様子を、瞳をころころさせて見つめていた。 同じテント の一人が目を覚まし、その様子に気づく。 「まだ起きているのか、アフマル?」 「サイード」少年――アフマルは、目線でテント の外を示す。「なんだろう……。美しい音色が聞こえるんだ。 サイードが耳を澄ます。荒れ狂う砂嵐――轟音渦巻くその奥深くには、確かにアフマルの言葉通り 、抑揚を繰り返しながら澄みわたる、かすかな旋律があった。二人はしばしの間、その不思議な音楽に聞きほれた。 「聞いたことがあ る」サイードが言った。「あの歌の主を、この辺りの住人は“砂漠の精霊”と呼ぶ。美しく歌いながら砂漠の空を舞い、砂嵐を引き起こす 。ある町の者は幸運の予兆だといい、別の町の者は死霊の歌声だと忌み嫌った」 アフマルは心新たに、またそのかすかな歌声を探し た。同じように歌声を探し始めたリザードが「ぎゃっ」と鳴いた。“砂漠の精霊”はまだ歌っていた……。 オアシス都市、 シーラカーン。砂嵐がゴウゴウと、レンガ造りの家屋を路地を駆け抜ける。 夜闇の中、オアシスの泉が風に波立つ。舞い飛ぶ砂の向 こうには、四角い母屋や塔やドームが成す、巨大な建築物の輪郭があった。王の宮殿である。手前に広まる広大な庭には、砂漠においては 富者の象徴たる緑の木々が豊富に植えられ、そこかしこの木陰にはプクリンやドードリオが吹き付ける砂から身を隠し、眠っていた。 ギリシャ風の円柱がポーチを支え、青や緑のタイル装飾にその周りを彩られた、華やかなのは玄関口。堅く閉ざされたその扉の向こうの 、大きく開けた空間は、来訪の者にその威容を見せつけんと、極彩色の絨毯と壁画とに彩られている。絨毯の導くままに行き、たどり着く 一室は宴の部屋。今宵もそこでは、王が他国からの使節をもてなすための豪奢な宴を催していた。 部屋の隅々を照らし出すランプの 明かり。笑い声。歌声。歌舞音曲を披露する女奴隷や宮廷お抱えの音楽家達を取り囲む、王族と重臣達とに振舞われるのは、ぶどう酒や肉 料理や、贅を尽くしたごちそうの数々。奴隷達が皿を下げ、運び、忙しく駆け巡り、豊満な肉体の女奴隷が、上座に座る王と使節とをもて なしていた。 夜も深まり、獣使いがカメールを操り水芸を披露していた頃。ほろ酔い加減の王は部屋を見回し、熱気も引き始めた様 を見て取った。 「ソフィア!」王は叫び、傍らに仕える女中を見た。「ソフィアはおらんのか」 女中は部屋を見回し、その姿の ないのを確かめると、ランプを手に部屋を出た。 暗い廊下。両脇にはいくつもの四角い闇が口を開く。その暗い部屋を一つずつ見て 回って、最後に一番奥の部屋――倉庫にたどり着いた。 暗闇に、ランプの灯りを差し入れる。中国の磁器。ペルシアのガラス細工。 インドの香木。様々な品々が納められた壷や箱。そして奥、しっかりと木戸が閉められた窓の下、齢十三、四ほどと見える少女が壁により かかって座っていた。ランプが彼女を照らすと、彼女はびくっと身じろぎして目をつぶり、その白くか細い手で光を遮った。 「ソフィ ア様!」 次第に目が慣れてきたのか、少女――ソフィアの瞼が少しずつ開き、ライトブルーの瞳がランプの火を映した。 「こん な所で、何をなさっていたのですか?」 ソフィアはどこか神妙な顔つきで女中を見つめ返した。 「歌を聴いていたの」まだ幼い 声で、ソフィアは答える。 「歌?」女中は怪訝な顔をする。 少女は手のひらを耳にやり、その愛らしい眼の動きで女中にも耳 を澄ますよう促す。壁の向こう。ゴウゴウと砂嵐の音。かすかに聞こえる、美しい旋律……。しばし惚ける女中。だがやがて、はっと正気 にかえる。 「なりませんソフィア様」女中はソフィアの手を握り、かがみこんで、ソフィアの目を見つめて言いつけた。「あれは死霊 の歌声です。長く聴いていると、死に魅入られてしまいますよ」 手を引かれ部屋を出るソフィア。名残惜しげにもといた部屋を振り 返った…… 朝。 砂嵐はとうにやみ、太陽がカンカンと照りつける。砂の海のただ中、物音といえばラクダの足音と風 ばかり。次第に乾きを増していく砂丘の連なりを、隊商達が粛々と行く…… 「うわあああああああ!」 突如、悲鳴が走った。 ぽっかりと開いた、すり鉢状の穴。その穴に足をとられたアフマル。底におちまいと砂の斜面に這いつくばるが、手足を立てても砂 が崩れてしまう。二、三人の男達が穴の周りでざわめき立ち、リザードが主人の危機を前にギャアギャアと何も出来ずただただうろたえて いる輪の中、アフマルの体は徐々に穴底へと落ち込んでいく。 「つかまれ、アフマル!」 駆けつけたサイードが、ターバンをほ どいてアフマルに投げ渡した。アフマルがなんとかそれをつかむと、サイードに周りにいた男二人三人と飛びついて、さらにそれにリザー ドも加わって、四人と一匹の力でよいしょとアフマルを引き上げた。 「大丈夫か? アフマル」 「ああ、サイード。助かったよ、 ありがとう」 無事に引き上げられたアフマルは、ふうと一息をついて隊商の仲間達に礼をいい、また心配そうに駆け寄ってきたリザ ードの頭をなでてやると、たった今自らが落ちかけた穴を見返した。大きく、深いすり鉢状の穴。底には――パッと見た限り、砂の中に黒 い点が二つあるだけのように見えるが、よく目を凝らすと、その「黒い点」は巨大な虫の二つの瞳であった。赤茶けた周囲の砂によく溶け 込んだ体色をしたその虫は、卵のような形の頭を砂の中から出して、アフマルの方をじいっと見ながら、その口――閉じている時はまるで 卵に入ったひびのようなジグザグの線をなすその口を、ぱくぱくとさせていた。 「なんなんだ、あの虫は?」 その不思議な生き 物の動きに魅入るアフマル。サイードも横から、ひょいと穴を覗き込む。 「ナックラーだ」サイードが言う。「前に話したよな? 「ナックラー……。あれが」 しげしげとその姿を見つめるアフマル。口を大きく開くその頭。ふと、アフマルはサイードの“獲 物が来るのを待ち構えている”という言葉の意味を理解し、さあっと血の気が引いた。 そんな時、先を行く隊商の男達が何やらざわ めき始めた。砂丘をひとつ越えた向こう、ざわめきの声に一人また一人と新たな声が加わっていき、やがて叫び声があがった。 「町が 見えたぞ!」 それを聞くなりアフマルはバッと駆け出し、砂丘を駆け上がった。リザードも後をついていく。砂丘の向こうに視界が 開けると、求める景色は飛び込んできた。キラキラと輝く泉。木々と農地のまぶしい緑。漆喰に塗られた白い壁の、箱のような中庭式住居 が所狭しと軒を争い、迷路のような街路を成しており、アラベスク文様に彩られた 「ようやく着いたな」都市の眺望に見とれていると、いつのまにかサイードが追い ついてきた。 「オアシス都市、シーラカーン―――」 隊長が町の総督や市場監督官の許に謁見に向かい、サイード達が 隊商宿で足腰を休めているころ、興奮冷めやらぬアフマルはリザードを連れて、 今までの旅路でいくつもの都市を辿ってきたが、 ふと、傍らを見やると、リザードがいつの間にか姿を消していることに気がついた。またか、と思いつつ辺りを見渡すと 、リザードは思ったとおり、路地の一角の屋台のそばにいて、料理人が調理する大鍋の中身をじっと眺めていた。 「ほら、行くぞ。ザ ード!」 アフマルが呼びかけると、リザード――ザードは、ぎゃうっと鳴いて、名残惜しそうに大鍋の方を振り返りつつ、アフマル のもとに戻ってきた。――先ほどからずっとこうである。路上で調理人の大鍋を見つけるたび、ザードはその近くへと駆け寄り、かといっ てしきりに物をねだるでもなく、ただただよだれを垂らしながら、物欲しそうな目でアフマルを見つめているのであった。 そんなザ ードが、ふと、ピクンッと何かに反応して、その歩みを止めた。ザードはきょろきょろと辺りを見回すと、「ギャウッ」とアフマルの方へ 一鳴きして、ある一方向に向けて走り出した。 「お、おい。待てよザード!」 アフマルもザードを追いかけ、少し狭い路地を駆 け抜けていく。その路地の出口で立ち止まったザードに追いつくと、何やらかすかに、ハープの音が聞こえてくるのに気がついた。音の高 低、大小を繰り返すハープの響き――その旋律には、どこか聴き覚えがあった。そうだ、あの夜サイードが“砂漠の精霊”のものだと言っ た、あの不思議な歌声。そのハープが奏でる曲調は、かの歌のそれとよく似ていた。 アフマルとザードは目を見合わせ、その音のみ なもとを探して進んだ。静かな路地裏。人影もまばら。退屈そうな店主達。あくびをする黒猫。 広場には水汲み場が設けられ、地下水道より湧き上がる水が長方形の池にたまり、周りでは犬猫や鳥達が休んでいた 。いつのまにやらずいぶん近づいてきたハープの音色が響きわたり、水音や鳥の鳴き声が重なる閑閑とした広場。二歩三歩と踏み出して、 その一面を見回すと――水汲み場の向こうに広がる空き地。風に揺れる泉の水面が陽の光を反らし、壁が、地面が、散乱する岩や土くれが 、幻想的な光のさざめきを浴びている。広場に散乱する大理石のかけら――どうやら旧い時代の遺物であるらしい――が積み重なる盛り上 がりから突き出るように生えるのはオリーブの木。その木の下。十三、四歳ほどの少女が、色彩豊かな刺繍が施されたショールとスカーフ に身を包み、ギリシャ風円柱の一かけらに腰掛けて、その小柄な身体に比すれば大きな弓形のハーブを抱え、弾いていた。 光のさざ めきを映す、ほのかに桃色のさした、少女の白い頬。ゆったりしたドレスの袖口からのぞく、白くか細い手首と指が、弦を弾くしなやかな 動き。アフマルは息を呑んだ。しばしの間その場に立ちつくし、見とれていた。 ふと、少女がアフマルの方を向き、目が合った。極 上のトルコ石のような、草原の青空を思わせるライトブルーの瞳。少女はにこりと笑いかける。アフマルはドキッとして、顔を赤らめてた じろいだ。 二人はしばらく押し黙って、見つめあったり照れくさそうに目をそらしたりしていた。先に言葉をかけたのは少女の方だ った。 「あなたは、アラビアの人?」 「あ、うん」少女の流暢なアラビア語に驚きつつ、アフマルは答えた。「ダマスクスから来 た」 「それは、遠いところから……」 椅子代わりの円柱から、重そうに琴を持ち上げて立ち上がろうとする少女を、アフマルは 制止して、自分の方から駆け寄っていく。古代遺跡の残骸と思しき土くれを乗り越えて、近寄って見る少女の姿もまた魅力的であった。そ もそも女の子と会うことに慣れていないアフマルはどぎまぎし、一方の少女の方もまた戸惑っている風で、二人は向かい合ったまま、なん となく居心地わるそうにもじもじとしていた。 そんな二人を見かねたのか、「ぎゃうっ」と鳴くザード。見ると呆れたような顔をし ている。何か言わないといけないと感じたアフマルが口を開く。 「君の、さっきの曲……」 「え?」 「なんだか聞き覚えがあ ったんだ。実は……」 そうしてアフマルは、砂嵐の夜に聴こえた、あの不思議な歌声のことを少女に話した。話をきいているうち少 女の顔がぱっと輝きだし、アフマルを遮って声をあげた。 「まあ! あなたもあの歌声を聴いたの?」 急に立ち上がった少女は 、腕に抱えたハープの重さによろめき、つんのめった。慌ててアフマルがその身体とハープを支える。少女の左肩をつかんだときの、ショ ール越しのふにゃりとした触感に、少年の胸はまたドクンと鳴った。 「ご、ごめんなさいっ……!」 頭一つ分背の低い少女は、 上目遣いでアフマルを見、詫び、アフマルの左手が支えていたハープをすまなそうに抱え戻すと、再び円柱に腰掛けた。向かい合う二人に 、ザードが割り込んでいくように入ってきて、鼻をくんくんさせながら少女のそばに顔を近づける。少女はザードの頭や首筋を撫でてやっ て、嬉しそうに笑った。 「可愛い子! なんていう名前なの?」 アフマルを見る少女の大きな瞳。先ほどまで少女を覆っていた 神秘のヴェールは薄れ、その下からあらわれた親しみやすい女の子の笑顔に、アフマルも嬉しくなってきて、答える声は少し弾む。 「 ザード、だよ。僕の相棒さ」 するとアフマルは、自分の相棒の名を教えながら、まだ自分自身の名を言っていなかったことに気づく 。すこし照れつつも、言った。 「僕の名前はアフマル。君は?」 少女はにっこりと微笑んだ。 「ソフィア、よ」 ソフィアはアフマルに、彼の故郷であるアラビアや、今まで旅し見聞した諸国の話。また件の“砂漠の精霊”の話をゆっくりとしたいと 言って、自らの家に来ないかと申し出た。男女の別厳しきイスラムの習慣に慣れていたアフマルは戸惑ったが、メッカからかくも離れたこ の東方の地においてはそう大仰なことではないのかも知れない。アフマルは承諾し、ソフィアの足が向かうままについていった。 ソ フィアは、まず広場の近くにあった家を訪ねて、出迎えた老婆に持っていたハープを預けると、街区へと向かった。迷路のような狭い路地 。乾いた風の流れる中を二人は行き、その後をザードがとことことついていく。 行きながら二人は話した。彼女は自分はギリシャ人 であると言った。遠い昔、アレクサンドロス大王の旗印のもと、遥か西方のギリシャの地からやってきて、この地に定住した遠征軍の末裔 であるのだと。果たしてそれ故のことであろうか? 彼女は遠い異国の話をしきりに望んだ。望まれるまま、アフマルは自ら見聞した町の こと、その道々での冒険譚を得意気に語った。活気に満ちた古来からの交易の町、ダマスクス。アッバース家のカリフ様がおわする、 “ アフマルの語りの調子。その移り変わりに全く歩調を合わせて、ソフィアの表情はころころ変わり、喜怒哀楽を映し出す。 ゆったりしたドレスとショールを時折揺らす風は、その下に在るほっそりとした身体の輪郭を、一度には見せず少しずつ惜しみ出ししてい く。表情と共に、その感情を描き出す手と腕の動き。スカーフからはみ出る栗色の髪。背筋を伸ばせば、うかがえる胸の膨らみ。ムスリム であり旅の者であり、ヴェールを脱いだ女性と近づく機会など滅多にないアフマルは、この今まさに幼子の殻を脱ぎ捨て羽化せんとする少 女の瑞々しい肢体の一挙一動に、否応無く惹きつけられるのであった。 ソフィアの言動に気を取られながら歩いていると、アフマル は、自分達が何やら先ほどからしばらくの間、一続きの高い石塀の周りを歩き続けていることに気がついた。市壁……にしては場所がおか しい。この塀は一体何なのか? するとソフィアが、何やらその塀の一角にかがみこんだ。よく見ると、その場所には塀と同じ色に塗 られた、小さな木戸が設けられていた。ソフィアはその木戸を開け、中に潜り込む。なんだろう、とアフマルとザードは顔を見合わせる。 すると、ソフィアが中からひょこっと顔を出して、手招きした。頑丈そうな、高い石塀。中の様子は見当もつかない。アフマルとザードは 恐る恐る、その木戸へ近づいていった。 石塀の小さな穴をくぐると別世界であった。視界の周りが緑に染まった。立ち上がって、辺 りを見回してみる。湿り気を含んだ風が吹いている。木々が計画的に植えられ、草花が生い茂る。水音――風にさざめき、きらきら光るの は泉の水面。そのほとりには、白い漆喰にぬられた壁に、ギリシャ風円柱に支えられたポーチと、タイル装飾に彩られた玄関口を備えた、 大きな邸宅があった。 ここはこの町の生命を支えるオアシスをその中に取り込んだ、邸宅の庭園であるらしい。 ザードがぎゃ うっ、ぎゃうっと、あちこち指差しながら叫び声を挙げる。アフマルもまた呆気に取られて、ソフィアの方を見る。 「あれは、ここシ ーラカーンの王の宮殿よ」 ソフィアは目を伏せる。そして、ためらいがちに言う。 「黙っていてこめんなさい」 ソフィア はアフマルの方を見て、宮殿とその緑豊かな庭園の光景を背に、言った。 「私はこの国の王の、十一番目の妻なの」 今まで の浮かれた気持ちはどこかに吹き飛び、アフマルは戦々恐々とした。幼いとはいえ王妃たるものが、無関係の男を自らの部屋へ招くわけに はまさかいくまい。そもそもこうして話を交わしていること自体が大問題ではないのか。王宮の者の耳に入れば鞭打ちか火あぶりか。アフ マルは先ほどまで騒がしかったザードの口を慌ててふさぎ、周囲に人影はないか怯えながらも、茂みに隠れた小道をかがみつつ進んでいっ た。 青い空の下。水音。鳥の鳴き声。風にざわめく茂みの音。アフマルの心中が穏やかならざるのと裏腹に、庭園の風情はひたすら 穏やかであった。小道は宮殿の窓のひとつまで続いていた。ソフィアがその窓までたどり着くと、その木戸を開け、部屋の中の様子を見回 した。そうすると、ソフィアはよいしょとを乗り越えて、中に入っていく。中に入ってしばらくたつと、中からガチャリと、扉の鍵をしめ る音が聞こえた。 やがて、ソフィアが窓から顔を出し、アフマルを見てウインクし、中に入れ、と手招きをする。アフマルは辺りを 見回して、人影のないのを確かめると、大焦りで窓の中に飛び込んだ。 心臓がばくばく鳴っている。遅れてやってきたザードを中に 引っ張り込み、しばらく窓のすぐ下にぐったりと腰を下ろしていた。荒ぶる呼吸が次第に落ち着いてくると、アフマルは部屋を見回した。 床には複雑な紋様の織り込まれたペルシャ絨毯が敷かれ、隅の壁には大きさや形の異なる三つのハープが立てかけてあった。木製の戸板が 閉じられた扉の近くに、ソフィアは座っていた。スカーフは既に脱いでいて、その長い栗色の髪が投げ出されていた。ショールとドレスも 脱ぎ捨てられ、下に着ていたとみえる白い着物には袖がなく、その小さな肩があらわになっていた。どきりとして視線をそらし、その瞳に 目をやれば、何やら申し訳なさそうに、しゅんとした顔でアフマルを見ている。当然だ。せっかく招待した者がこうも居心地悪そうにして いれば。その心中を察したアフマルは、わざとらしくえへへと笑って、元気そうなふりをする。ソフィアはそんなアフマルの様子に、最初 キョトンとしていたが、やがてくすくすと笑い出した。そんなソフィアの姿、仕草。アフマルはそのひとつひとつにいちいち心を奪われた 。どくん、どくんと、心臓が鼓動し続けている――その鼓動は、先ほどまでのような、恐怖に依るものとは、明らかに違っていた。 ソフィアと目が合った。アフマルの顔はボッと燃え上がるように紅潮し、大きく動揺しながらザードの方を見た。しかしザードはもといた 場所にはおらず、視線を動かすと、何やら窓枠に肘をついて、つまらなそうな顔をして無言で空を見つめていた。 やってらんねえよ 、とでも言いたげであった。 ソフィアは隅に立てかけてあったハープのうち、いちばん小さいものをおもむろに手にとり、ぽろ ん、ぽろん、と弦を弾いた。やがて指慣らしが終わると、軽やかな指使いで曲を奏で始めた。あの“砂漠の精霊”の曲である。 ぽろ ん、ぽろんと奏でられる曲の調べに乗せて、ソフィアは自分が初めて“精霊の歌”を聴いた時のことを語り始めた。彼女が十歳であった時 。ここシーラカーン王の軍勢が、彼女の住んでいたギリシャ人達の町に攻め入り、滅ぼした。市民兵として戦った父親は戦死し、母は兄や 幼い弟達と共に家もろとも焼き殺された。略奪と虐殺が果てた後、広場に少女達が集められ、その中で特に器量のよい娘数人が選び出され 、車に乗せられて、シーラカーンの王宮に運ばれた。生き別れた親族や友達の生死は、今もわからない。 始めのうちは互いに自分達 の境遇を嘆きあい、励ましあっていた娘達。だがしかし、やがて彼女らのソフィアに対する態度は一変する。他の娘達が王子や重臣達の妻 とされた中、もっとも幼かったソフィアだけが王自身の妻とされた。彼女の音楽の才能が気に入られたらしいが、それが他の娘達の妬みを 買った。 華やかな宮殿の生活。しかし彼女は孤独だった。連日豪奢な宴が催される中、彼女は倉庫の奥深くに隠れて泣いていた。一 点の光も無い、暗闇だけが彼女を慰めた。 “歌”を聴いたのは、それから一年が過ぎ去ってからの、砂嵐の夜だった。暗闇の中、彼 女はその幽かな歌声を見つけた。清かに澄み渡る不思議な旋律。その歌がソフィアの心に誘うさざ波は穏やかに、孤独と哀しみをその内に 融かした。ひとはその歌を“砂漠の精霊”のものだと言った。砂嵐の中に住まい、広大な砂漠を自由に舞い飛ぶ、姿明らかならざる精霊… …。ひとびとの生の営み、国々の栄枯盛衰。全てを超越したその歌の美しさ。彼女はその虜となり、やがて自らのハープで真似るようにな っていった……。 アフマルは声も出せず、話を聴いていた。凄絶な話。悲しみとも怒りともつかぬ感情が湧き上がってきた。 ふと、ザードが窓の方を向いて、「ぎゃうっ、ぎゃうっ」と吼え始めた。一体なんだ、と窓の方を向くと、目つきが悪くくちばしの 長い鳥の頭が、三本ひょろりと首を突っ込んできていたものだから、びっくりしてのけぞってしまった。するとソフィアは演奏をやめて、 その鳥のもとに行った。三つの頭を順番に撫でてやるソフィア。目を細めて嬉しがる鳥達。彼女に何かいいつけられると、右から順に頷い て振り向き、窓から離れていった。アフマルも窓の近くに行って、彼らの去る様子を見送ると、予想に反し、そこに三羽の鳥の姿はなく、 茶色いボールのような胴体一つから三つの首が生えているものだから、またギョッとしてしまった。 「あれはドードリオという鳥よ。 飛べない鳥」アフマルの隣で、ソフィアは言った。「生まれたときからずっと、王宮で飼われているの。この庭園から出たことは一度もな い……」 窓辺に手をかけ、空を見つめる彼女の青い瞳。その姿は、アフマルの胸のうちに今も生き続けるある一人の少年の姿と重な った。ダマスクス近郊の、小さな村の小さな家の小さな窓から、地平線を見つめ、その先にある遥かな世界を夢み、憧れていた少年……。 アフマルは衝動的に、ソフィアの身体を抱きしめた。 「一緒に行こう! ソフィア」 驚くソフィアに、アフマルは言った 。 「こんな宮殿なんて逃げ出して、僕達と一緒に、ずっと先へ。世界の果てまで……!」 その身から離れ、肩を抱く手は少し震 えている。瞳を見つめる少年の子供っぽい 日が少しずつ傾き始めてきた。ソフィアはもう別れの時間だと言い、最後に一曲だけ、歌を披露すると言った。 部屋の隅に置かれていたハープの中で、最も大きく、美しい装飾の施されたハープを抱えて、演奏を始める。ぽろん、ぽろんと鳴り響く 音が、かの“精霊の歌”の旋律を追う。やがてソフィアは歌いだした。その声はまさにかの“精霊”の如く、よく響く澄んだ声。歌詞はペ ルシャ古語らしく、意味は全くわからない。だが、その歌声はアフマルの胸に染み透った。涙が出そうになった。 歌を聴いてい るうちに、いつしかアフマルは夢の世界へと誘われていた。 夢の中で、アフマルは宙に浮かび、一都市の滅亡を上空から眺めていた 。びゅうん、びゅうんと飛び交う石。町を取り囲む投石器が、市壁の中へ大きな石弾を放り込んでいるのだ。大勢の兵士達が屍骸に集まる 蟻のように市壁を取り囲んでいて、市壁の上の守備兵達に向け絶え間なく矢を放っている。やがて門は破られ、馬に乗った兵士達が一斉に 町の中へなだれ込んでいった。男達の断末魔の叫び。女達の悲鳴。あちらこちらから火の手が上がる。歩兵達が略奪と虐殺に明け暮れる中 、赤い軍旗を手にした騎馬兵の一群が向かうのは町の中央の王宮――見覚えがある王宮。それは、シーラカーン王の宮殿であった。 黒煙の上がるシーラカーンの町を後に、太陽がカンカンと照る砂漠を、ドードリオにまたがって逃げていく少女の姿があった。スカーフか らのぞく白い肌。青い目。ソフィアであった。砂を踏みしめ、歩いていくドードリオ……その胴体には矢が突き刺さり、血が少しずつ、そ の細い足をつたって落ちていった。 やがてドードリオは力尽き、どさりと倒れこんだ。ソフィアがその頭を抱きかかえる。 ソ フィアは空を見た。照りつける陽光が、彼女の身体から水分を奪っていった。ドードリオを抱いたまま、ずっと彼女はぺたりと座り込んで いて、やがて力尽き、倒れた。 シーラカーンの王宮に、赤い軍旗が掲げられる。風が吹き始め、砂嵐が舞い始めた。砂に覆われてい くソフィアの身体。“砂漠の精霊”の歌声が響き渡っていた……。 アフマルは目覚めた。 悪夢から覚めた時に特有の動悸 と不快感とが、彼の身体を痺れさせていた。 まだ頭が働いていないままでいると、突然ザードが、となりで「ぎゃうっ、ぎゃうっ」 と騒ぎ出した。一体なんだと、顔を上げると、アフマルはギョッとした。 崩れ落ちた天井。壁。瓦礫の散乱した床。ソフィアの姿は どこにもなく、廃墟と化した部屋だけが目の前に広がっていた。日はもう大分傾いていて、天井の大穴から射し込むオレンジ色の光が壁に 描く陰影が、物寂しさをいっそう際立たせていた。 乾いた、ほこりっぽい風が吹いている。ふと、風の中に耳を澄ますと、かすかに 音楽が聞こえてきた。ソフィアの奏でるハープの音とは違う――それよりも重い音。あれはウードの音だ。アフマルとザードは、窓――か つて木戸がつけられていた面影はどこにもない、ただの壁に空いた四角い穴――を乗り越えて、音の聞こえる方向――王宮の玄関口の方へ 向かって歩いた。辺りを見回すと、あの緑豊かな庭園の名残はどこにもなく、ところどころに低木と雑草とが無秩序に生えている。オアシ スの泉だけは相変わらずあった。濁った水が風に揺れていた。 王宮の玄関の近くまで来ると、年老いた楽師が瓦礫のひとつに腰掛け て、ウードの弾き語りをしていた。アフマルにも聞き取れる平易なペルシャ語で、叙事詩を――かつてこの町に栄えた王国の滅亡と、都市 の陥落直前に王の計らいで町を逃げ出し、砂漠へと消えた幼い王妃の物語を歌っていた。 じっと立ち尽くしてその歌を聴いていると 、ふと老楽師の目がアフマルの姿を捉えた。 「……異国の方が、こんな所に何の用じゃね?」 アフマルははっとして、宮殿の周 囲を見回しながら尋ねた。 「おじいさん……。ここは一体?」 「ここ?」老楽師は王宮の玄関口に目をやった。「ここはかつてこ の町を統べ、栄華を極めた王の宮殿じゃよ。三代に渡って富を築き、繁栄を謳歌しておったが……。遊牧の民の侵略に遭い、あっけなく滅 びてしまった。もう、二百年も昔の話じゃよ」 「二百年……」 アフマルはその宮殿の玄関口を見た。上半分のほとんどは崩れ落 ち、かつてその周りを彩っていたタイル装飾は剥がれ、ギリシャ風円柱の根元に彫られていた異教の神々の偶像は、その顔が削り落とされ ていた。……つい先ほどに見た在りし日の玄関口とはなんという違いか。その違いは、確かに二百年という歳月の経過を感じさせた。 「では今……」 いやな動悸を胸に、アフマルは尋ねた。一縷の望みにすがるような気持ちだった。「この町の王はどこに?」 「王? 」老楽師は怪訝な顔をした。「今、この町に“王”などおらんよ。バグダードのカリフ様がお遣わしになった総督様ならいらっしゃるがね ……」 アフマル達一行の、シーラカーンへの滞在ももう終わるという夜。 隊商宿の一室に、サイードらと共に寝転が るアフマルは眠れなかった。明日からまた始まる長旅に備えてよく眠らなければならない、という思いがかえって冴えさせる頭で、彼はこ の滞在の初日に出会った、あの不思議な少女のことを思い出していた。 すると、誰かがくいくい、とアフマルの着物を引っ張った。 見ると、それはザードであった。一体なんだ、と見ていると、ザードは「ギャウッ」とアフマルの方へ一鳴きして、部屋の外へ飛び出して いった。 「お、おい。待てよザード!」 アフマルは飛び起きて、ザードを追って部屋を飛び出し、階段を降りる。さらには宿屋 をも出て、夜の路地を駆けていく、ザードの尻尾の炎の光を追いかけていった。 街区から 「ソフィア!」 少女――ソフィアはにっこりとアフマルに微笑みかけた。そうかと 思うと、彼女の姿は建物の陰へと消えてしまった。アフマルは必死に、その姿を追って走った。ソフィアの消えた角を曲がると、アフマル は市門に面した、大通りへと出た。市門に目を見やると、普通この時間帯には硬く閉ざされているはずの門が、何故か少しだけ開いていた 。 アフマルは市門を抜けて、町の外へ出た。目の前に広がる、広大な月の砂漠――そこに、ザードの姿があった。 「おい、ザー ド! なんで逃げるんだ?」 アフマルの姿を確かめると、ザードはまたとことこと歩いて、砂丘の向こうへと逃げていった。アフマ ルが追いかけて、砂丘を駆け上がると――そこには、アフマル達一行がこの町にたどり着く直前、アフマルが足をとられて転落しかけた、 あのすり鉢状の大穴――“ナックラー”の巣穴があった。ザードは、その巣穴の近くにいた。 ザードの視線は、巣穴の近くに突き刺 さっていた、一本の木の幹に向いている。見ると、その木の幹のてっぺんには、なにやら大きな塊がくっついていた。よく見るとその塊は 、一匹のナックラーであった。砂に突き刺さる木の足元を見ると、そのナックラーのものと思われる小さな足跡が点々と、巣穴の底まで続 いている。 アフマルは木の幹に近づいて、アフマルの背丈より頭一つ分くらい低い高さにとまっている、ナックラーの姿をよく見た 。月光と、ザードの尾の炎によってのみ照らされるその姿。じっと見ていると、突然ぴしっ、ぴしっと小さな音がして、背中に割れ目が入 った。割れ目は徐々に広がっていく――そう。このナックラーは、今まさに幼子の殻を脱ぎ捨て羽化せんとする、その瞬間なのである。や がてナックラーの、その卵型の愛嬌ある頭も二つに砕け、中から白く柔らかい、瑞々しい肢体が、まずは頭から、ついで胸、尻を、ゆっく りゆっくりと時間をかけて、抜け出してくる。アフマルは時間を忘れ、その様子に魅入られた。 ナックラーの羽化を眺めながら アフマルは、あの“精霊の歌”と出会った夜、サイードから聞いた話の続きを思い出していた。 ――ナックラーという テントの外の物音に耳を澄ましていたア フマルは、サイードの不意の質問に戸惑った。いや、知らないと答えると、サイードはそのナックラーというのがどんな ――……そうして巣穴の中でじっと獲物を喰らい続けるナック ラーは、やがて時が満ちると穴から這い出てきて、その石のように硬い殻を脱ぎ捨てて、“ビブラーバ”という新たな名を持った ナックラーの中身から出てきた、ふにゃりとした弱 々しげな白い虫は、時を経るごとに、徐々にその体に色がつき、硬くなっていく。複眼が、ザードの尾の火を映す。胸、魚の尾びれに似た 翅の付いた尾――徐々に“ビブラーバ”の形を成していく。そしてその背からは、水に塗れた紙のような、しかし徐々にピンと伸びていく 、二枚の翅が付いていた。 いつの間にか、辺りは暗闇から薄闇に変わっていた。夜明けが近づいていた。やがてビブラーバは、早朝 未明の冷たい空気に、その二枚の翅を誇らしげに広げ、試みにとぱたぱた羽ばたきはじめた。 ――ビブラーバの翅は未熟だ。 夜が明けた。生まれたばかりの太陽の、透明で清らかな光を浴びて、ビブラーバはもうほぼ完全になった その身体を、アフマルの前に現した。艶やかな肢体。振られる尾。頼りなさげに動く、節のついた足。その翅はエメラルドのような輝く緑 色で、時折ブウンッ、と勢いよく羽ばたく。その一挙一動に心を奪われていると、ふと、ビブラーバがアフマルの方を向き、目が合った。 極上のトルコ石のような、草原の青空を思わせるライトブルーの眼……。 アフマルはビブラーバの目の前に、自らの右手を差し出し 、言った。 「一緒に行こう」 ビブラーバはアフマルの顔をしげしげと見た。そしてジジ、と小さな鳴き声をあげると、かつて纏 っていたナックラーの抜け殻からアフマルの腕へ、おそるおそる足を踏み出した…… ――硬い殻にこもり、穴の中でじっと時を待 つナックラーは、 時が満ちればビブラーバとなり、その未熟な翅を広げ飛び立ってゆき、 やがては大空を自由に舞 い、美しい歌声を響かせる、“砂漠の精霊”となるという |