〜ワタッコの逆襲〜


 手を伸ばせば届きそうなところを、“彼”は飛んでいった。
 藍色のまんまるな体の、頭の上と両手にこれまたまんまるな白い綿毛。三つの綿毛を巧みに使って風をとらえ、上へ浮かび、下へ降り、 でんぐり返し。くるくると激しく回転を始めたかと思ったら、両手の綿毛をぱっと広げて体勢を立て直す。小川を流れていく木の葉のよう に、風に身を任せながら、雲ひとつない青い空の彼方へ去っていく。
 わたくさポケモン、ワタッコ。
 私は今、熱気球に乗って、彼らの生態を観察している。
 ワタッコはああやって風をとらえて空を飛び、繁殖場所を求めて移動するポケモンだ。その移動距離は非常に長く、時には一度も地上に 降りないまま世界一周してしまうことさえあるという。
 この地方の上空は、この季節、季節風の関係で、多くのワタッコの通り道となることが知られている。観察にはうってつけの場所だ。
 他大学との共同でのワタッコの生態研究プロジェクト。そのメンバーに抜擢されたことは、私にとって幸運だった。
 近くを通り過ぎていくワタッコを、その姿や振る舞いからいくつかのタイプに類別し、記録する。少々退屈ではあるが、熱気球で空を飛 びながら、のんびりと空を飛び回るワタッコたちの姿を眺めるのは、私にとってはなかなか優雅な、心安らぐ時間であった。
 眼下のなだらかな丘陵地帯には小麦畑が一面に広がっている。青々とした穂を下げる小麦の絨毯の上を、時おり風が引き起こす一陣の波 が駆け抜けていく。風の行く方向に視線を動かしていくと、向こうの方には町があるのが見えた。たくさんの建物やその看板。道路を走る 自動車。工場の煙突から立ち上る煙……。手のひらに収まりそうなほど小さく見えるあの町で、忙しく日々を生きている人々の営みのこと を想った時、私はふっと暗い気持ちになった。
 おっと、またワタッコが通り過ぎていった。いけないな。仕事はちゃんとしなくちゃ。

 とっぷりと日も暮れた頃。私は地上に降り、家路についた。
 大学から家に帰る途中には、駅前の繁華街を通る。きらびやかなネオンサイン。店内から漏れ出るBGM。居酒屋や風俗店の客引き。酔 っ払いのケンカ。携帯電話に向かって怒鳴り散らす背広の男性。道の真ん中でたむろする中高生。
「……ったく、部長よォ。ふざけんじゃねえっつうの」
「キャハハ〜、マジ? バッカじゃないの?」
「いらっしゃいませ〜! ただいまサービスさせていただいております」
「はい。はい……。大変申し訳ございません」
「てめェどこに目つけてやがんだ。あン?」
 笑っていても、怒鳴っていても、その裏にあるものは皆同じ。誰もが時間に追われ、疲れきり、いら立っている。
 最近聞いた話によれば、狩猟採集生活を送っていた原始人は、一日にわずか二、三時間の労働で生計を立て、ゆとりある生活を送ってい たという。現代人はその頃に比べ、本質的に豊かになったと言えるのだろうか?
 駅の向かいにそびえる超高層オフィスビルは、自らの創造主であるはずの、ちっぽけでせせこましい人間たちを、逆に威圧しているかの ように見えた。現代社会という名の巨大な機械は、その歯車である人々の心を押しつぶしながら動き続けているかのようだ。
 駅の改札をくぐり、電車に乗り込む。空いているシートに坐って、私はふうっと溜息をつく。ガタン、と揺れて動き始めた電車の中で、 私はワタッコたちのことを想った。私はときどき彼らのことをうらやましく思う。のんびりと自由に空を飛びながら生きている彼らには、 常に時間に追われる現代人のような悩みはないだろう。
 早くまた気球に乗って、彼らに会いに行きたい。

「ふぁ……、ふぁ、ハーックション!」
 その日も気球に乗ってワタッコの観察をしていたら、突然大きなクシャミが出た。風邪かな? ひょっとしたら花粉症かもしれない。今 までは平気だったけれど、突然なるらしいからな。やだな。
 花粉症といえば、昔飲み会で後輩が、「花粉症は自然破壊を続ける人類に対しての、植物からの逆襲だ」なんて言ってて、皆で笑ったっ け。そもそも花粉症というのは、人間の体内から寄生虫が駆除されたことにより、寄生虫に対して働いていた体内の抗体が本来無害である はずの花粉に過剰反応する結果起こるものだ。だから逆襲をしているというのなら、植物よりもむしろ寄生虫たちではないだろうか? サ ナダムシの逆襲。恐怖!
 おっと、くだらないことを考えていたらまたワタッコが通り過ぎていった。今度は一度に二匹だ。それにしても、今日はずいぶんワタッ コの数が多い。観察を始めて三時間で、もう昨日一日の数を超えた。
 そもそも、今年は例年になくここで観察されるワタッコの数が多いらしい。一日の平均の数でいえば、去年の記録の二倍以上だ。
 原因の一つには自然破壊があるという。近年、宅地の造成や無秩序な焼畑などにより、彼らの繁殖に適した日当たりの良い丘陵地帯が世 界規模で減少している。その分、繁殖場所を見つけられずに空を漂い続けるワタッコの数も増えるというわけだ。
 のんびりと悩みなく生きているかのように見える彼ら。しかし、やはり彼らにも彼らなりの悩みというものがあるのかもしれない。
 ひょっとしたら、彼らも人類に対する“逆襲”を考えていたりするのかもしれない――ふと、そんなことを考えた。
 バカバカしいと思いつつも、その考えはいつまでの私の胸に残った。

 今思えば、それは“予感”だったのかもしれない。
 あのとんでもない事件が起こったのは、それから三日後のことだった。

 その日は、観察を始めた時から様子がおかしかった。ワタッコの数が異常に多い。記録しても記録しても、次から次へと新しいワタッコ が現れるのだ。
 さすがに不安になった。何か、異常な事態が生じているのだろうか?
 ふと、私は、山の向こうから大きな雲のかたまりが、こちらに向かってきているのに気がついた。なんだか不思議な色をした、おかしな 雲だなと思った。

 それは雲ではなかった。
 その正体に気づいたとき、私はゾッと戦慄した。

 それは、空を覆いつくさんばかりの、ワタッコの大群だったのだ!

 私は気球の上で、呆然と立ち尽くしながら、徐々にこちらへと近づいてくるワタッコたちを眺めていた。アルジェリアだかスーダンだか で、大地を覆い尽くすほどのイナゴの大量発生が起きたときのニュース映像を、私は思い出した。まさにあんな感じだが、こちらは一匹一 匹が体長一メートル弱もあるワタッコ。スケールが段違いだ。
 ワタッコの大群はやがて私の乗った気球を飲み込み、町の上空を覆い尽くした。
 その時、彼らはいっせいに、白い粉のようなものを放出した。空中に放出された大量の粉が、白い煙のようになって、町を飲み込んでい く。
 私の乗る気球もまた、白煙の中に飲み込まれていった。その煙を吸い込んだとき、ぐらっと眩暈がし、私は意識を失っていった。
 次第に遠のいていく意識の中で、思った。


――これは、彼らの“逆襲”なのか?


 ……………。
 …………。
 ………。
 ……。
 …。



 私は夢を見た。

 夢の中で、私は一匹のワタッコになっていた。
 青い空の中。眼下には厚い雲。涼しい風に乗って、私は飛んでいる。
 太陽の光を浴びると、体の中にエネルギーが生じていくのがわかる。
 ああ、“光合成”ってこんな感じなのか。
 とても気持ちがいい。
 ここには、こなさなくちゃならない仕事も、スケジュールも、人間関係のわずらわしさもない。
 私は自由だ。
 風に乗り、海を越え、山を越え、どこまでも飛んでいける。
 いつまでもこうしていたい……



 夢から覚めた時、辺りは朝の日差しに包まれていた。
 気球は小麦畑の真ん中に落ちていた。私は気球のカゴの中からはい出て、しばらく呆然としていた。
 町はどうなっただろう?
 ハッとそのことが気になって、私は町へ向け駆け出した。

 町は静寂に包まれていた。店は営業を止め、車は道で立ち往生していた。エンジンなどは無事なのだが、信号などが全て止まっている上 、あちこちで事故を起こした車が道をふさいでいるので、動かそうにも動かせないらしい。
 駅前の繁華街もまた静かなものだった。ネオンサインは軒並み消え、何のBGMも鳴っていなかった。静寂の町で、人々はきょとんと道 端に立ちつくしていた。皆、これから何をしていいのかわからず戸惑っているようだ。けれど、その表情はどこか穏やかで、すっきりとし ているように見えた。
「一体、何が起こったんでしょうねェ?」
「なんか、ヘンな夢を見ていたような……」
「そこのあなた、大変そうですね……。大丈夫ですか?」
「困ったな……。どうやって家に帰ろう?」
「まァ、何とかなるでしょう」
 背広姿の営業マン。エプロン姿の電気店員。シャレた格好の若者。世代も職業も違う人々が、あちこちで語り合い、談笑し、励ましあっ ていた。
 不思議な時間の流れが、辺りを包み込んでいた。町が全ての機能を停止した今、私たちには、こなさなくちゃならない仕事も、スケジュ ールも、人間関係の煩わしさもない。
 この町は“時間”から解放されていた。

 どうやらワタッコたちのまいた白い粉は『ねむりごな』だったらしい。町中の人間を一晩眠らせた。彼らのしたことはそれだけだ。それ で人間社会のシステムが一時的にマヒするにせよ、すぐに回復するだろうし、人類の自然破壊が止むこともないだろう。
 彼らの目的は、一体何だったのだろうか?

 あれからもう一ヶ月が経った。
 何人もの専門家が、あの事件について様々な意見を述べていたけれど、まだもっともらしい答えは出ていない。
 けれど私は、なんとなくその答えがわかる気がした。多分、この町に生きている人はみんな、同じように思っていることだろう。
 全ての機能を停止した町。あそこで流れていた不思議な時間のことを思い出すと、なぜだか少しだけ晴れやかな気分になる。あの事件が 私の生活に残した痕跡は、それだけだ。
 今日もまた私は電車を降りて、駅前の繁華街を通って大学に向かう。町はもうすっかり元に戻ってしまっていて、人々は皆忙しそうに駆 け回っている。通勤ラッシュの人ごみの中、私はふと立ち止まって、駅前の超高層オフィスビルを見上げた。ちっぽけでせせこましい人間 たちを、威圧するかのように立ちそびえる超高層ビル。私はそのてっぺんに向かってあっかんべえをして、心の中で悪態をついた。

――ざまあみろ!

 駅を出て、自分たちの職場や学校に向かって歩いていく、何千もの人々の波。私もまた歩き出して、そんな人ごみの中の一人へと戻って いった。


 空を見上げる。
 雲一つない快晴の、爽やかな朝だ。


 一匹のワタッコの影がふわふわと視界を横切っていき、太陽の光の中に消えた。




〜完〜



背景画像:風と樹と空とフリー素材さんより




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