鳥居の道標




 暗闇の中で、一人の男が蝋燭に向き合って瞑目し、座禅を組んでいた。
 音も無い小さな呼吸の度に蝋燭の炎はゆらゆらと形を変え、男の額に薄く汗を滲ませている。

 男は、名をワタルといった。
 『ドラゴン使いのワタル』と言えば、カントー地方では知らぬものはいないとも噂される凄腕のポケモントレーナーである。普段は同地方の内陸に位置するシロガネ山の麓――セキエイ高原で修行に明け暮れている。
 彼はセキエイ高原に本部を置くカントーポケモンリーグにおいて、リーグ殿堂入りの是非を査定するための監査官、通称『四天王』としての役割も担っていた。彼を含めた四人の敏腕トレーナー全員にポケモンバトルで勝利する事によって、ポケモンバトルの能力を評価されると共に、カントーポケモンリーグの歴史に名を刻む、つまり『殿堂入り』する事になるのだ。

 コン、コン。

 不意に、静寂に包まれていた部屋に小さなノックの音が響いた。瞑目したままのワタルの片眉がぴくりと動き、真一文字に結ばれた口が、威嚇するような低い声を紡ぎ出す。
「誰だ」
 胆力の無い人間なら、この一言で恐れをなして逃げ出しているだろう。あるいは、抜き身の刃のような鋭さを秘めた彼の瞳を一度でも見れば、彼が只者ではない事を、誰しもが本能的に察するに違いない。
 しかし、プシュン、という稼動音と共に、部屋の扉は躊躇無くあっさりと開かれた。ひょっこりと顔を覗かせたのは、齢七十は越えていようかという老婆だ。枯れ木のような痩せた顔立ちに深い皺が影を作り、廊下の薄暗い灯りも相俟って、得体の知れない、不気味な印象を醸し出す。
「……。キクコか」
 ワタルは顔を上げる事もなければ、瞑目した瞳を開こうともしない。しかしその声は研ぎ澄まされた精神がそうさせているのか、あるいは相手がキクコと呼ばれたこの老婆だと確信している為か、どこまでも落ち着いた、静かな声音だった。
「お邪魔だったかね」
「瞑想中だ。悪いが静かにしてもらえると助かる」
「そうかい。夜更かしは身体に毒じゃよ。最近はめっきり寒くなってきたしのぅ」
「心配せずとも、すぐに眠るつもりだ。それとも、何か用か?」
「うんにゃ。歳を食うと夜中でも便所が近くなってね。廊下を歩いてたらアンタがまだ起きていたみたいだったから、声を掛けてみたまでさ」
 そう言って、キクコは肩をすくめてみせる。ワタルを前にして物怖じする様子もないこの老女こそが、ワタルを含めた四天王の一角を務めるトレーナーなのだ。
 その場を去るのか、キクコは『じゃあの』と短く言うと、扉の開閉パネルへと指を伸ばした。
「――待て、キクコ」
 間髪入れずにワタルが口を開く。
「なんじゃい」
「俺に用があるんだろう。灯りも漏れない部屋の中で人が起きているかどうかなど、誰が分かるものか」
 言い終わるよりも早かった。臍の前で組まれたワタルの指先が目にも留まらぬ速さで動き、傍らに置かれていた機械球――モンスターボールを掴む。
 あっという間、わずか五秒ほどの時間が経過した時には、ワタルの部屋の中には長躯を青白く発光させた竜のような生き物が、尾の先をキクコへと向けていた。
「フェ、フェ、フェ! こいつは参ったねェ」
 正確には、竜のような生き物――ハクリューの尾は、キクコから僅かに逸れた壁を指していた。キクコが大笑して額を叩くと同時に、その壁に不気味に歪んだ両の眼と、大きな口が現れる。べろりと真っ赤な下を口から覗かせるそれは、シャドーポケモン・ゲンガーだ。影の中なら何処へでも入り込める能力を使って、ワタルの部屋の中へ忍び込んでいたのだ。
「少し前から、気配は感じていた。今日も最初から監視していて、俺が起きているのも承知の上で声を掛けたんだろう」
 断とした口調のワタル。一瞬、ハクリューの尾先から雷光が爆ぜると、途端にゲンガーはその表情を脅えたものへと変化させ、わたわたと壁の陰から飛び出した。キクコの背中に回り込み、彼女の寝巻きを掴みながら顔を覗かせ、ワタルの表情を伺う。
「そんなに怖い顔をしなさんな。二枚目が台無しになっちまうぞ」
「茶化さないでもらおう」
 吐き捨てるワタルに、当のキクコはと言えば、一向に悪びれる様子も無く、部屋の扉を開けた時と何一つ変わらない薄い笑顔を浮かべたままである。
「ヒヒヒ。まぁなんじゃ、最近お前さんの様子がおかしかったのでな」
「…………。」
 会話が途切れる。いまだ暗中に座すワタルの表情は、推し量れない。
「何の事だ」
「とぼけても無駄じゃ。と言うか、誤魔化しようも無い事実が出ているからのう。お主のここ数ヶ月の戦績を見てみろ、酷いもんじゃぞ」
 キクコは視線を廻らせ、部屋の隅の棚に固めて置かれた金銀銅、様々な色のトロフィー達を見やった。四天王の地位を得るまでに、ワタルとそのポケモン達がどれだけの熾烈なバトルを潜り抜けてきたかを如実に示した品々である。それらの激戦を経てきたワタルだが、キクコの言う通りここ数ヶ月はその成績が思わしくなかった。  ワタルはポケモンリーグ殿堂入りを賭けた挑戦者の、最後の相手として立ちはだかる。ここ数ヶ月で彼に挑むまでに至ったトレーナーは幾人もいたが、ワタルはその全員に敗北を喫しているのだ。
 部屋の入り口でする立ち話にしては、あまりにも危険な内容だった。
「アタシらも負けてるに違いは無いけどさ、その流れをいつも食い止めるのがお前だったんじゃないかい? まるで堰の切れた河の様じゃ。殿堂入りトレーナーが出るのに問題は無いが、出過ぎるとなればそうもいかん」
 快挙を成し遂げたトレーナーの情報は、必然的にメディアを通じて大衆の耳へと届く。ワタルの実力もあって年に数回達成されれば珍しいレベルの険しき門だけに、これ程の頻度は異常事態と言ってもいい。表面化してはいないものの、視聴者を釣るスキャンダルとして利用されたのも一度や二度ではなかった。
「俺とて、負けようとして負けている訳ではない」
 ワタルが静かに立ち上がる。
 目元に皺を刻んだキクコの瞳が、振り返ったワタルのそれを真っ直ぐに見据えた。
 ワタルはあくまでも淡々とした口調で、
「修行は怠っているつもりは無い。今もこうして、瞑想で精神を研ぎ澄ましてもいる」
「アンタがそれを一ヶ月前から続けているのを、アタシが知らないとでも思っているのかい? ま、気休めにしかならんさね」
 さらりと言い放たれた言葉に、握った拳に自然と力が入る。
「俺にも――理由が分からない。挑戦者は歳も性別もまちまち、使用ポケモンについても傾向があるわけではない。中には明らかに俺の方が力量で勝っているケースもあった」
 気負いも後悔がある訳でも無い。
 ただそこにある結果を単純に受け入れようとして、しかし。
「おかしいと、……不自然だと思うかね。自分の戦績が」
 ワタルは答えなかった。答えられなかったと言ってもいい。
 かつての自分なら、負けても素直に相手を祝福し、明日勝つ事に希望を見出せていただろう。
 しかし、今の自分にはそんな希望に縋る勇気に身を預けるだけの精神の余裕も無いのだ。退くにも退けず、進もうにも活路が見えない。事実、キクコを追い払ってまで続けようとした瞑想に、集中出来ていたとは思えない。
「言うまでも無かったの。フヌケた顔をしとるわい」
 キクコは肩をすくめて見せた。
 だが、状況が穏やかではない事は確かだ。キクコにしてみても、ワタルがこれほどに悩んでいる様子は過去に見た事が無かった。四天王の面々を雇っているリーグ本部は今の所沈黙を保っているものの、この調子が続くようでは四天王の大将からの降格、あるいは四天王そのものからの排除も時間の問題となってくるだろう。  そして、大将がいなくなるような事態となれば、四天王の編成へと話が進みかねない。これはワタルだけの損害で済む問題ではないのだ。隠居を自称しない程度には、キクコも自身の生活に張りを求め続けているのだ。
 ワタルが負ける理由の究明。そしてトラウマからの脱却。これらを同時に解決する方法が、果たして存在するのか。
「ふゥむ」
 いや、存在した。
 何を隠そう、キクコにはこの状況を打破する方法に当てがあった。
 元はと言えば、彼女がワタルのもとを訪れたのも、この方法を提案するためだったのだ。
「少々、荒治療になるのぅ……」
 キクコは一人ごちる。
 まずは、真実を知る所から始めるとするか――。

◆ ◆ ◆

 コックリさん、という古い遊びがある。
 数字、五十音、『はい』、『いいえ』、『分からない』の選択肢を書いた紙の上に硬貨を置き、複数人の人差し指を添えていく。そして力を抜き、全員で『コックリさん、コックリさん、おいでください』と呼びかける。
 すると、狐の霊が降りてきて硬貨を相談者の意思とは別に動かし、紙に書かれた文字をなぞっていく事で、あらゆる質問に正確な答えを導き出してくれる、というものだ。
 狐の霊――コックリさんは相談者をしっかりと見ているため、相談者はこの時、添えた指を途中で離したり、すべての質問が終わった後にもコックリさんにお礼を言うのを忘れてはいけない。もしこれらの事を失念していると、コックリさんの怒りを買って良くない事が起こると言われている。

◆ ◆ ◆

「――で、俺にそのコックリさんで答えを出せ、と?」
 翌朝。
 キクコの自室へと呼ばれたワタルは、彼女が昨晩の内に用意したのであろう、いくつかの小道具を渡された。『コックリさん』を呼ぶまでのおおまかな手順と説明を受け、日常的に触れる事の多いそれらの道具を腕の中に抱えてはみたものの、およそ現実感の湧く話では無いのが正直な所だ。
 狐の霊。キクコの言葉は、確かに彼女の普段扱っているポケットモンスターの種類からすれば多少ではあるが説得力が増す。ゲンガーを始めとしたゴースト――俗に幽霊と人々が表現する種を好んで使役する彼女であれば、『そういった』類の話題に詳しくても別段不思議ではない。
 しかし、しかしである。
「子供の遊びにしか見えんが……」
 幼い頃からポケモンバトルの修行の為に旅を続けてきたワタルは、必然的にこうした遊びには触れる機会が少なかった。また旅の中で自分の世話を自分でする事を学んでいく内に、いつしかその精神も年齢にそぐわないほどに大人びた物と変わっていった。だからかもしれないが、ワタルにしてみれば、キクコの提案と言えどもコックリさんが自身の苦悩を打開するに見合った効果をもたらしてくれるとは思えなかったのだ。
「それに、……聞いた事がある。結論から言って、こうした遊びは霊とか超常現象の類が関わっているのではない。腕の筋肉疲労からくる物理的振動で硬貨が動いたり、あるいは集団催眠による深層心理が作用する事で一時的なトランス状態に陥って、思ってもいないのに指を動かしてしまうんだ」
「ほぅ? 良く勉強しておるな?」
 キクコが感心した表情を見せた。
 ワタルは言われて初めて自分が饒舌になっているのに気付いたようで、ばつが悪そうに瞳を右往左往させたが、
「少し前に文献を読んだ記憶がある。その、バトル中の精神制御について学ぼうと……」
 にたりと笑うキクコから慌てて視線を外す。
「まぁ、アンタが不審に思う気持ちも分かる。こんな婆の言う事じゃからの」
「……いや、俺は」
「しかしの、ワタル。考えてもみろ」
 その表情が真面目な物へと変わる。
「硬貨が動くにしても、それを支えるお前は筋力ある大人じゃ。何かの働きかけが無ければ普通は動きはしない。あるいはお前の心理がそうさせても、少なくともその影響で否定的な答えを出しはしないじゃろう? 逆にそのような――すべての要因がお前にあるといった答えが出たならば、お前は心のどこかでその可能性を認めつつあるという事じゃ」
「そうかもしれないが……」
 眉を寄せるワタル。キクコはひとつ息を付くと、
「結局は、確かめてみにゃ分からんという事じゃよ。自分でどうしようも出来ないなら、猫の手でも狐の手でも借りんとな」
「…………。」


 猫の手でも、狐の手でも。
 キクコに言われるがままにコックリさんを始める準備をしながら、ワタルは言葉とは裏腹に、この子供の遊びと称した『儀式』に自分が可能性を見出しているのを感じていた。
 結局の所、自分は第三者の意見が聞きたかったのだ。それだけなら、キクコがその相手でも良かったのだろう。しかし、無駄に成熟した彼の精神はそれを許さなかった。心を見透かされるように、核心に迫る明確な答えを突き付けられるのが怖かったからだ。
 ならば誰の意見なら良いのか――そう考えた時、狐の霊などと言うよほど現実的でない存在に語りかけた方が、この厄介な自尊心は傷付かないで済む。
 子供だな、と思う。
「あとは、コックリさんが入ってくる窓じゃな」
 狐の霊を呼び寄せるにしても、自分のいる部屋の中へ入って来れなければ意味が無い。その為に外と室内を繋ぐ道を作ってやらなければいけないのだという。
 キクコの部屋の西に面した窓を開くと空は塗りつけたような灰色で、風に混じった霧のように細かな水滴が頬をしっとりと濡らした。
「準備はこんなもんじゃな。お前だけでは不安じゃろうし、アタシも一緒にやってやろう」
「その必要は……いや、頼む」
「フェ、フェ、フェ!」
 愉快そうに手招きをするキクコのもとへと歩み寄り、机の上に広げられた用紙に視線を落とす。硬貨の乗せられたそれを見ているだけで、掌にじわりと汗が浮かぶ。
「気持ちの整理は良いかの?」
「……ああ、いつでも」
「よし、では行くぞ」
 ここまで来たら引き下がれない。意を決して、ワタルは肺一杯に息を吸い込んだ。
「コックリさん、コックリさん。おいでになりましたら西の窓からお入りください」
 続けて詠唱。
「コックリさん、コックリさん。いらっしゃいましたら『はい』へ進んでください……」
 ぼそぼそとした二人の声が、次第に空間を静かな緊張感で満たしていく。


 いくらかの時が過ぎた。
「……。動かんぞ?」
 沈黙を破って、ワタルが呟いた。
 言葉が示すように、ワタルとキクコの人差し指で支えられた硬貨は、最初に置かれた状態からぴくりとも動いていなかった。指先は緊張からか少し震えているが、疲れる程ではない。キクコは真剣な面持ちのままだんまりを続けており、このまま答えが出るにも至らないのではないか――ワタルがそんな不安を胸に抱き始めた、その時だった。
「ケケッ」
 驚いて向けられた視線の先で、昨夜彼の部屋に忍び込んでいたキクコのゲンガーが、開け放たれた窓枠から身を乗り出して、好奇心に満ちた瞳で空を見上げていた。その視線は次第に焦点を動かし、最後には部屋の何も無い中空へと定められる。
「やっと来なすったな」
 キクコがやおら面持ちを和らげて言った。
 すると、どうだろう。先ほどまで山の如く動く気配も見せなかった硬貨がするすると場所を変えていくではないか。ワタルが唖然としている間に、硬貨は『はい』と書かれた文字の上へと移動してしまった。
「お美しい尻尾でございますなぁ」
 うっとりとした様子でキクコが呟く。まるでそこに何かが存在しているかのような物言いだ。
「キクコ、お前――見えるのか」
「アタシを誰だと思っておるんじゃ」
 不敵な笑みで返され、ワタルは閉口せざるを得なかった。キクコの恍惚とした視線は先ほどゲンガーが見やっていた一点へ向けられており、キクコの言葉から判断するに、『そこ』には呼び寄せた狐の霊がいる、という事なのだろう。
 まさか、本当に……。信じていなかった訳ではないが、驚かざるを得ない。
「ほれ、折角来てくだすったんじゃ。ちゃきちゃき質問せんか」
「あ、あぁ……」
 キクコに向こう脛を蹴られ、ワタルはようやく我に返った。危うく目的を忘れる所だ。
 小さく咳払いをし、狐の霊がいると思われる空間に語りかける。
「知りたい事がある。俺がポケモンバトルで勝てないのには、何らかの原因があるのか?」
 言ってから、不躾な問い掛けだったかもしれないと悔いたものの、キクコは特に物を言わず、何か異常が起こる訳でもなかった。あったのは、指先の硬貨の位置の変化。

 ――『はい』。

 鼻っ面を、汗が一筋垂れた。口に入り込んだその塩辛い味を感じる余裕さえ、ワタルには消え失せていた。悲しいかなこの時点で、彼には自分の中でこの後進んでいくであろう質疑応答の結末が予想出来てしまっていた。
 だが、質問を止める気持ちにもなれなかった。キクコからも、コックリさんがやってきたら遠慮する必要は無いと事前に教わっていたし、矢継ぎ早に質問を重ねていくだけだった。
「……その原因は、俺の精神的な問題か?」
 ――『はい」。
「俺のポケモンたちに、それと同じような問題は生じているか?」
 ――『いいえ』。
「その問題を、この先解決する事は出来るか?」
 ――『はい』。
 質問に対しての反応は早いものだった。問い掛けが終わると、滑るようにして硬貨が動く。もちろんワタルは指先に力を入れてはいないし、キクコにもその様子は無い。他に理由をつけていくらでも仮説は並べ立てられそうだったが、それを考える事さえ、ワタルには酷く陳腐な事柄に思え始めていた。
「ワタル」
 キクコが囁くように言った。ワタルはそれに、大きく頷いて見せた。
 コックリさんには、是か非かだけではなく、もっと具体的な答えを求める事が出来る。好きな人間は誰かという問いにその名を以って答えるように、ワタルの敗因についてもより具体的に何が原因なのかを答えとして求める事が出来る。
 ここまでの回答から、すでに事の要因が自分に有る事が明確に告げられていると言ってもいい。予想していたとは言え、意外なほどにすんなりとその事を納得し、受け入れつつある自分がいるのに、ワタルは驚いていた。
 しかし――自身の力量不足。恐れはしたものの、目の前にしてみれば何と言う事は無い。むしろ、よっぽど明日へ希望が持てる答えではないか?
 また頑張ればいい。修行をすればいい。
 まだ若い自分には、これから先も伸びしろがあるに違いないのだから。
「真実を、知る時じゃ」
「あぁ。――教えてくれ。俺が負ける理由、それは何だ?」
 いっそ清々しい気持ちで尋ねる事が出来た。これで自分は真に答えを手に入れる事が出来る。そして明日から新たな気持ちで進む事が出来るのだ。
 硬貨が動き出す。その軌跡が示した答えは、

 ―― う、ん、め、い。

 しばし、ワタルの思考は停止した。
 うんめい――運命と、取ればいいのだろうか。
「キクコ」
 落ち着いた声音で問いかけたつもりが、どう聞いても唸りを挙げたにしか聞こえなかった。
 裏切られたとか、そういう事はどうでも良かった。単純に理解が出来なかった。運命という言葉の意味を自分の中で吟味してみても、一向に流れに当てはまった訳が出てこない。運命とはつまり、最初からそう定められている巡り合わせ。すなわち、ワタルがこうして負け続けるのも、元々決まっていた規定事項という事になる。
「これは、どういう事だ?」
「……ふゥむ」
 答えず、キクコは喉を鳴らす。
「興味深い。通り穴になっているという予想は、大方当たっていたという事か。これ自体がデータベースに検索を掛けているようなものじゃが、信憑性の面では若干質に疑問符がつく。しかし従順に受け入れてしまえば、やはり……」
「何を、言っている? 説明を……」
 息も付かずに一人喋り続けるキクコ。そこに普段の飄々とした老女の面影は無く、
「フェフェ、フェーッフェッフェッフェ!」
 唐突に発せられた笑い声。歯を剥き出しにしたその笑顔には、狂気という言葉がぴったりと当てはまった。
「キクコ、どうした? キクコ!」
「分かったぞ、真実が……アタシの予想は間違ってなかった。この世界は、アタシたちは最初から……ァッ!」
「――――ッ!?」
 明らかに異ようなその雰囲気に、ワタルは反射的にその場から飛び退っていた。
 キクコは喘ぐような声をひとつ発し、びくりと身体を痙攣させる。一瞬その痙攣が治まったかと思うと、次の瞬間には足の先から頭のてっぺんまでをぶるぶると震わせ始めた。
「あ、ああッ、あああああ!! ワ、た……るゥ!」
 奇声。数分前まで横で言葉を交わしていた相手の豹変振ぶりに、さしものワタルも動揺を隠せなかった。止まらぬ体中の震動に抗うかのように叫び続けるキクコの姿はまるで何かに取り憑かれたかのようで――――。
 一瞬。
 脳裏を電流のような悪寒が走った。『コックリさん』を始める前にキクコから教わった注意事項が鮮明に甦る。



 狐の霊――コックリさんは相談者をしっかりと見ているため、相談者はこの時、添えた指を途中で離したり、すべての質問が終わった後にもコックリさんにお礼を言うのを忘れてはいけない。もしこれらの事を失念していると、コックリさんの怒りを買って良くない事が起こると言われている。

『……物騒な話だ。何が起こるというんだ?』
『一説には狐の霊に取り憑かれてしまうそうじゃ。まぁ、そんなヘマせんじゃろて』
『フン。お前なら、そんな霊も味方に引き入れてしまう気がするがな』
『フェフェ、買いかぶり過ぎじゃよ――――』



 ワタルは指先をぴくぴくと動かした。肌に触れるものは何も無い。咄嗟の行動とはいえ、ワタルは指は硬貨を離れてしまっている。キクコの言った言葉が正しいとすれば、
「……ま、さか?」
 信じがたい事ではある。しかし、目の前で起こっている異常に無理矢理にでも解答を用意するならば、他に当ても無かった。汗を吸って背中に張り付いてくる服の重みだけが、そのまま自分の身体に縛り付けられた重りのようにも感じられた。
 刹那、キクコの身体の震えが止まった。しかしそれもつかの間、電源が落ちたロボットのようにうな垂れたキクコの首が、不気味な挙動でワタルに向けられた。その表情は、不自然に歪んだ笑顔。
「ぬ、ぅ」
 その笑みにはあらゆる情緒的要素が抜け落ちていた。ただ笑顔という形を取っているだけで、実は全然関係のない感情表現ですらない『何か』だ。
 乾いた声が喉から漏れる。
「貴様は、何だ。狐の霊……なのか?」
 踏みしめる足に力が入る。油断の無い臨戦態勢。
 キクコの姿を持った『それ』は、無機質な笑みもそのままにワタルを見ている。
 硬貨へと伸ばしたその指先が細かに動いて、紙上の文字を辿った。
 ――『はい』。
「ふざけるな……ッ!」
 言うが早いか、ワタルは腰のモンスターボールに手を掛けていた。が、傍らのゲンガーの瞳が青白く光り、ボールの開閉スイッチを作動させるよりも一瞬早く、その動きを封じ込める。腰に手を回した状態で硬直させられたワタルは歯軋りするしかない。
「どういう魂胆だ? 俺にあらぬ事実を教えて、どうするつもりだ」
 ここに至って質疑応答が適うとは思っていなかったが、硬貨が動くと、同調するようにキクコの口も動いた。
 文面を読み上げるような、淡々とした口調。
「すべては正常でなければならない。データは余計な感傷を持ってはいけない。理由や意義が存在する必要は無い」
「意味が……分からん!」
 一瞬、部屋を闇が支配した。
 否。部屋への唯一の光源である窓からの光が隠されたのだ。狐の霊が通り、静かな雨の風景を映していたはずのそこには、淡いオレンジ色の体躯を持ったドラゴンが逞しいその両腕を胸の前で組み、巍然とした様子で部屋の中を見下ろしていた。
 カイリュー。ワタルの操る最大にして最強のポケモンだ。異常が起こった時の為に、前もって外で待機させ、いつでも呼べるようにしておいたのだ。
「この俺が負けた理由――俺達の力量不足であれば受け入れもしよう。しかし、それが運命だと、あまつさえデータだと!? そんな答えに、恭順など出来るものかッ!」
「狂っているのはワタル、お前だ。単なるデータでありながら、お前は想定されていない自我を持った。我々にとっては誤算。誤算は修正する必要がある」
「まだ、言うかぁッ!」
 咆哮。カイリューの腕が唸りを上げて窓枠へ振り下ろされると、部屋のガラスが一斉に弾け飛んだ。騒々しいが撒き散らされ、狼狽したゲンガーによる縛めが一瞬だけ緩む。その隙を逃さず、ワタルはカイリューの腕へと掴まり部屋から飛び出した。
 このまま飛び去って行方をくらませば、どうしようもないはずだ。四天王の地位は永久に戻ってこないかもしれないが、そんな事を考えている余裕も無い。このまま留まれば、無事でいられるかどうかも怪しかった。
「出せ、カイリュー!」
 言うが早いか、カイリューはその背の翼を滑らかに羽ばたかせた。同時に爆風にも近い衝撃が部屋中を席巻して家具や書籍をなぎ倒し、巨体が空へと舞い上がる。雨模様の空を切り裂き、無表情に立ち尽くすキクコを残して、ワタルとカイリューの姿はあっという間に山の向こうへと消えていった。
「…………。」
 室内”だった”その空間に、静寂が再び戻ってくる。
 気絶し、足元に転がったゲンガーには眼もくれず、キクコは瓦礫と化した窓へと歩み寄った。その瞳は、かつての自室に一切の感情を示す事は無い。そう認識しているかも怪しかった。
 その口元が、静かに言葉を紡ぐ。
「コード適用、関連ファイル及び履歴を初期化します」
 一瞬、遠くの山で雷鳴が轟いた。
 その凄まじい爆音に掻き消され、何か巨大なモノが地表に激突した音に気付いた者は、誰一人としていなかった。



  ▼

 その日も一人のトレーナーが殿堂入りを目指し、四天王に挑戦した。
 四天王の内、順当に三名を打ち破った彼は、勢いも留まる事無く最後の一人、ワタルも撃破した。
 次代を担う敏腕トレーナーが誕生した事に、素直な喜びを感じているのだろう。戦いに敗れても、ワタルの表情はどこか清々しかった。彼は歓喜に打ち震えるトレーナーに歩み寄ると、その手を取ってがっしりと握手を交わし、屈託の無い笑みを浮かべてみせる。
 そして惜しみのない、賛辞の言葉を送るのだった。


  「うう……! くやしいがきみのうではほんものだ!」