くさぶえとほろびのうた




 空の上に吹く風はいつだってあちこちを行き来していて、止まる術を知らないのではないかと言うほどに流れつづけている。実際、私はこの船、つまり風に煽られて動く空の船が、行き先を変えることがあってもじっと止まることはないのを知っている。朝も夜も、雲の上を走りつづけているのだ。ぎこぎこと軋む音を立てて揺れる船。
 私は柵に体をそっともたせ、雲の切れ間を見下ろした。夜の街。光るネオン。宝石を散らした海はこのように見えるのだろうか。人工物だとは言え、この遥か上空から見れば、あの鬱陶しい喧騒も聞こえず、目に眩しくも無く、煌く草原に比べれば劣るが――ビル街と言うのも悪くは無い。あくまで、見下ろす景色だけであるが。

「しかしやっぱり、船の便利なこと便利なこと」
 こんこんと靴底で床を鳴らし、私の主人が隣へとやってくる。私は、どこかのものぐささんにはお似合いですね、と、そちらを半ば睨みつけるようにして見やった。私の機嫌が悪いのに慣れているのか、それとももはや気付いていないのか、彼もしくは彼女は小さく笑った。
「私がポケモン吟遊詩人なんて言うのをやっていられるのも、船のお陰だね」
 吟遊詩人と言うよりは、大道芸人という感じですが。呆れの混じった私の深い溜息をよそに、主人――名をトリヅカと言う――は、黒いつば広帽子を押さえて船の側面をまじまじと眺めていた。柵から乗り出した半身は、私が後ろからつついてやればあっと言う間に落ちてしまいそうなほどの細身。黒いマントは風に靡きながらも長身である彼の体を羽毛のようにしっかりと包んでいた。

「ねえ、ノクタス……」
 櫂の代わりに羽ばたく透明な翼の音。それに重なるトリヅカの声は、いつだって男女の区別が付かないトーンをしている。
「私にはまだ知らないことが沢山ありすぎる」
 それでいて、どの空を飛んでいても同じような事ばかり言う。私は笠をくいと下げて、腕を組み、知らん振りをした。
「次は、どの時代にどの場所で、どんな私として過ごすべきだと思う?」
 それでも私は話を聞いていないわけではない。それを知っているのだから困る。風の波を乗り越えて、船はぎしりと音を立てた。


 海のような輝く飛沫が無い代わりに、空の旅は様々なものを用意してくれている。散る羽毛のような一面の雲。遮るものが一切無い中、輝き続ける月と星。昼には太陽。朝と夕には赤い光。頬を撫でるのは心地よい冷たい風。海図もコンパスも無いこの広すぎる空間で、私はトリヅカと共にはじまりもおわりもない旅を続けていた。
 物心つかない内にもう船はあって、そして私達はその中のたった二人の船員だったのだ。一人の吟遊詩人と、一匹のノクタス。なんと妙な組み合わせであろう。それに、私は彼との旅の記憶を全く持っていないのだ。その点については、どうやら彼も同じらしかったが。不思議なものである。
 しかし、旅は道連れと言うか、住めば都と言うか、石の上にも三年と言うか。結局の所、『なんにもなし』の状態の生き物が『なんにもなし』な船へと放り出されたら、そりゃまあ、生き延びる為になんとかしなければならない。船のあちこちを廻ってみたり、何日も眠らずに空を見つづけてみたり、陸に下りれないものかと試してみたり。しばらく暮らしてみれば、ここでは何も起こらず、何の不自由もしない代わりに、何も見つける事が出来ないと知ることが出来た。しかも私もトリヅカも、『それならそれで仕方がない』と思ってしまう性格だったから、神様の気まぐれかノートの書き間違いか何かだったと納得するより他ならない。納得してしまえば、あとはなんの変化のない日常が待っている。

「あと三回くらい日が昇ったら、下りてみようか、ノクタス」
 そう……陸に下りる方法も、なんの切欠も無しに脳裏に刻み込まれていた。はじまりもおわりもない旅には、脈絡も一貫性も無い。本来ならあるべきものがあるような気がして無かったり、そう思わせてやっぱりあったり。失っていたものを取り戻すとか、新たにページが加わると言った感覚が無いままに、それらは日常へ介入してくる。
「今度はどこの誰と出会えるだろう」
 日常のあるべき起伏が欠如している私達にとって、陸での旅は非常に刺激的なものだ。ただ、あまり長く続けたいとは思わないが。ここが私とトリヅカの違いで、トリヅカは陸の知識を集めたいと願っているのに対し、私は船の上で平穏かつ淡々とした日々を過ごしたいと思っている。故に私はいつもトリヅカに引きずられる形で陸へと下りていくのである。

 ちなみに……私の陸嫌いには、ある理由もあって……。私がサボネアだった頃だったか、それともノクタスになりたての頃だったか。陸へと下り旅を続けていた時、他のトレーナーに『そちらのポケモンにニックネームは付いているんですか?』と聞かれた時、トリヅカが即座に『はい、“やきそば”です!』と答えた事にある。これにはトリヅカ本人も相手のトレーナーも噴出し、腹を抱えて笑ってしまった。私は“やきそば”なるものを口にした事はないのだが、たしか人間の食べ物だったと思う。トリヅカがその解答を持ち出したのはおそらく、その直前に『今欲しいものを聞かれたら“やきそば”って答えるよ……』とひとりごちていたことに関係が有るのだろう。笑われたことに苛立ちを覚えた当時の私は、ニードルアームでトリヅカの後頭部を思い切り殴ってしまった。別に後悔をしていない訳ではないのだが、どんなポケモンだって笑われたら腹が立つだろう。それに、反射的にその“やきそば”をニックネームにしたことも、何というわけではなくムッとくる。人間的に言えば、『“せんす”が足りない』。

 そう、陸に下りた時は、体も汚れるし腹も減る。怪我をすることだってあるし、ひょっとしたら命を落とす事もあるのだろう。船で暮らしている私にとって、それは心地のいいものではなかった。勿論得るものもあるのだが、失うものや不快なことを考えれば足し引きゼロなのである。
 例として、トリヅカは腹が減った時には見境無しに何が食べたいと口走り、あろうことかそれを私のニックネームにしてしまうのだ。これを私は“やきそば現象”と名づけている……この前は“わたあめ”だの“はんばあぐ”だの“すてえき”だの(“素敵”とは発音が違ったので、おそらく食べ物のことだろう)、何十通りもの名前で呼ばれてしまった。対戦しているトレーナーが呆気に取られていたのをよく覚えている。
 ポケモンと人間の感覚は違うだろうが、どちらにしろ苦労はしたくないと思うのだ。トリヅカはトレーナーとして、自分の分どころか私の分の体調にまで気を使わなければならないのだから。
 それでもトリヅカは陸に下りたがる。経験を積んで、記憶や思い出を一つでも多くしようとしているのだ、と、本人は言う。確かに吟遊詩人と言う立場からすれば、沢山の記憶を持っていたほうが良いのかもしれないが、“やきそば現象”のレパートリーを増やされるのは困る。いっそのこと、早く一つのニックネームに統一して欲しい。勿論、『“せんす”のある』名前にだ。いい名前を付けてもらうと言う意味では経験も必要かもしれないが、やはりそこは足し引きゼロだ。

 船の上の生き方と、船から下りた時の生き方、どちらが本物の生き方でありどちらの舞台に立っているべきなのか、私は知らない。
 ただ、はじまりとおわりがある旅には、やはり若干の恐怖と言うか、戸惑いがある。どのようなものが最期におわりを告げに来るのか。



 日が三回昇るまでに、そう時間は掛からなかった。船の旅は気楽で退屈だ。時間の流れなんて、考え方次第でどうにでもなる。
 広い甲板の上で、船が着水するのを待つ。私は、雲の中を通り過ぎた直後の景色が好きだ。大陸の形、緑や青に染まった大地がうっすらと霞んで見える所。船はいつだって雲や霧の多い所へと下りる。トリヅカによれば、陸の人々は船が飛ぶ所を見た事が無いから、船がそれを気にしているのだろうとのことだった。
 ざぶんと音がして、大きな風に煽られたのと似たような揺れと共に着水。雲の欠片ではない飛沫が上がる。私は柵から身を乗り出して、水面に映ったにせものの空を見た。波紋の広がる空は、これはこれで美しい。そして、自分の姿も久々に見る。緑と黄緑。黄色い目。ぽっかり空いた口。何とも言えずにぼうっとしていると、広がった波紋で影がくしゃくしゃになった。
 透明な翼が水に浸かり、ゆっくりと船を陸へと近づける。朝霧が気持ちいい。ふと見ると、反対側の柵にトリヅカが居た。羽付き帽子を片手に、水面に映った自分を確認しているらしい。……髪の先からマントまで黒いのだから、あまり気にしなくても良いのではないだろうか。私は柵に背をもたせ、船の側面が陸に近づくまでを待った。空の上でも下でも、待つのは慣れている。

 甲板から陸地へと飛び降りれば、船は独りでに霧の向こうへと漕ぎ出され消えていく。
「さあ、ここの地名と時代をしらべなくちゃ」
 トリヅカが地面を靴の先でつつきながらマントを羽織りなおした。大きなハープは地面へと置いてある。長い前髪を耳に掛けるが、さらりと音をたてそうな程に容易くそれは零れてしまう。当の本人は、自分の行動の結果が失敗だったと言うのに、黒い髪を流れるままにして歩き出してしまった。そうであるからこそ、今まで生きて来れたのかもしれないが。


 草むらから飛び出してきた野生のポケモンを適当に蹴散らせば、そうそう経たないうちに街へと着く。
「やあ、こりゃまいった!」
 看板を見もしない内にトリヅカは声を上げた。
「いままでで二番目に好きな街だよ、ここは! 間違いない。あの船め、やってくれるじゃないか。色々な手間が省けた」
 そうして、私に手で行こう、と合図をして、一人つかつかと歩いていってしまう。
 旅をしていると、見慣れた土地に帰ってこれた時の喜びと言うものにも出会う。無論、見知らぬ土地へと踏み出すのも愉快ではあるが。幸い私の主人は難しいポリシーを持っているほうではなかったので、同じ街に何度も訪れたり気に入った場所に長く滞在することも多々あった。
 朝の霧が大分晴れてきた街の、小さなポケモンセンターへと早足で入り込んでしまうトリヅカ。十中八九、今日の宿を取りに行ったのだろう。私も、おいてけぼりには割と慣れた。あの暑苦しいほど長い髪と黒いマントの後姿を追うのは、草むらの中に逃げてしまった餌を捕まえるよりも間違いなく楽だ。素早い割に行動パターンが解りやすいのだ、彼は。ポケモンセンターの扉を潜れば、やはり宿の手続きをしている。ハープはカウンターに立てかけてあった。

「あら、珍しいポケモンを連れているんですね」
 受付に出ていた“じょおいさん”が言う。人間に見えるのだが、トリヅカはポケモンセンターに居るこの人間をいつもそう呼ぶ。人間にも種族があって、その中でもポケモンセンターの受付をしているのを“じょおいさん”と呼ぶらしい。

「珍しいですか、ノクタスは」
「ええ。この辺りには砂漠もありませんし。どちらからいらっしゃったのですか」
「それが、旅に旅を重ねてしまいまして、出身など覚えておらんのです。旅人ならではと言いますか」
「でも、今までに辿ってきた街を調べてみたりすれば、解るんじゃないでしょうか」
「あっちへ行ったりこっちへ行ったり、辿り着く場所は地方もバラバラで。運もあるのでしょうが、何年も街に出れなかった事もありまして、街を線で結んだらこんがらがってしまいます。調べれば調べるほど解らなくなって……どちらにしろ思い出せないんですよ」

 今までの旅でも同じような事を聞かれた事が何度かあった。空で生まれたんですと言えば「まさか!」と言われ、話が面倒くさくなってしまったので、次からは『解らない』と言うことにしてしまった。トリヅカも私も元は人間とポケモンである訳だし、空で生まれたり解らないはずはないのだけれど、実際解らないのだから仕方ない。
 “じょおいさん”はまだ何か聞きたそうだったが、トリヅカが手続きを済ませ書類を手渡すと、会釈をして奥の部屋へ戻っていった。

 その日はまだ船から下りたばかりで腹も減っていなかったので、私達は軽く眠ってから町を散策する事にした。建物の場所、道の具合……言われてみれば確かに、以前トリヅカが言っていた『二番目に好きな街』の面影がある。
「まだジムは建ってないんだねえ」
 ぐるりと廻って、そんな言葉を口にする。
「“むかしをいまにつなぐまち”。今回ばかりは、未来へ過去を繋ぐ町、か」
 以前にも何度かハクタイシティに訪れた事はあったが、この時代に来るのは初めてだ。ビルの数も断然少なく、緑の多い空の広い街。時間が流れる事で、景色とはこうも変化してしまうものなのだ。私はどちらかと言えば、過去つまり今目の前に広がるハクタイシティの方が好みだ。

 物思いにふけっている私をよそに、トリヅカはまだ満足に塗装もされていない道を進んでいってしまった。まあ、この街から出る事はないだろうから、そう急いで追う必要もあるまい。
 そう言えば、二つほど前にこの街を訪れた時には、少年に出会い楽器の使い方を教えた。もっと前には少女に出会い、お互いのポケモンを見せ合ったり戦ったりした。思い出そうとすればまだまだ出てきそうだ。面白いのは、他の街より断然思い出が多いはずのこの街を、トリヅカは『二番目に好きな街』としたところである。さて、では、一番目に好きな街とは? ……私はいつも、自分にテレパシーが無いことを不便に思っている。そうすれば、この質問をする事も、“やきそば現象”を抑える事だって出来るのに。
 太陽の具合から言って、今は丁度昼時である。“やきそば現象”が起きていなければいいが。“かんぽうやく”の名前なんかを付けられたら一大事である。一体何人の人間に笑われるのやら。


 少し狭い路地で葉っぱを突付いていたトリヅカをポケモンセンターに引っ張っていって昼飯を食わせ、ついでに私も自分の食事を済ませた。トリヅカは……まだ夕方にもなっていないと言うのに、うつらうつらとしている。鳥ポケモン顔負けの早寝人間だ。そう言う私も本来ならば夜行性のポケモンであるのだが、砂漠から離れれば栄養補給も睡眠も十分に取れるので、ゲットされたポケモンとして、トレーナーに合わせる生活を送れるようになっている。ただ、食堂で寝るのは控えて欲しい。私は腕でトリヅカの頭を小突き、寝るなら部屋に戻れ、と目配せをした。視線から私の機嫌を感じ取ったのか、トリヅカは欠伸を一つ残して、席を立った。
「折角だし、暗くなってから寝るよ……散歩でもしようじゃないか」
 人間らしい心がけである。普通の人間、それもトリヅカの歳くらいの人間ならば、夜明前に起きたりなどしない。日が沈んでから眠り、日が昇ってから起きればいいのだ。ついでに言えば、夜出かけるのは勧めない。黒い帽子に黒いマント、黒い長い髪をしている彼は、夜のヤミカラスと同じくらい上手く闇に溶け込んでしまう。私顔負けの騙し討ちが使えそうだ。

 夕方までかけてハクタイの森からテンガン山までぐるりと廻ったが、変わったのは桟橋の具合や道の隣に咲いている小さな草花くらいである。この『今』が『未来』へと繋がっていくのか。果たして、次に訪れる頃にはどれだけの変わり様を見せてくれるだろう。トリヅカは、この近辺にしか咲いていなかったと言われる、未来にはない花を見つけてはしゃいでいた。くれぐれも摘んで帰らないように見張っておかなくては。


 さて……日が落ち始め、空が赤く染まり始めた頃。飽きることなく散策を続けていたトリヅカが、遊具を見つけた子供のような笑顔をぱっと作り、いきなり駆け出した。こう言うときは、その先にあるものを見ればいい――どうやら、ポケモン像のあたりに人だかりが出来ているようだ。私はその傍に近づくと、人間やそのパートナーのポケモン達に棘が刺さらない様、少し離れた場所からトリヅカを探した。

「どんなお祭りをされるんですか」
「この像を囲んで、踊ったり、歌ったり。そちらは旅の方ですね」
「ええ、ここに来るのははじめてで。拝見させて頂いても宜しいでしょうか」

 お祭りと言うと“やきそば”を思い出してしまうが、このお祭りはもっと小規模なものだ。群集の一人と話していたトリヅカが爪先立ちをし、私を見つけると、人ごみを掻き分けこちらへとやってきた。
「ここにも、今しか見れないものがあったよ」
 光物を見つけたヤミカラスのような、きらきらした瞳。彼は背が高いから、どちらかと言うとドンカラスに近いのだろうが、挙動はどう考えてもヤミカラスである。巣で羽繕いをしているより、草むらや森を忙しく飛び回っているほうが似合う。
 実際、彼は一羽のヤミカラスをゲットしている。そのヤミカラスも、私と同じように、いつどこで出会ったのかは解らず、いつのまにかトリヅカのモンスターボールの中に入っていた。時期的に言えば私より後に出会ったらしく、だからトリヅカは私をパートナーポケモンとして扱っているのだが、私から見ればむしろヤミカラスの方が物心ついたときからトリヅカと一緒に居たような気がする。だから彼はヤミカラスのような格好をしているのではないのだろうか? やはり、コミュニケーションを取れないのは面倒な事だ。

 やがて、ポケモン像を中心に、人の輪が出来た。手を繋いで踊る者、周りで楽器を演奏する者、ポケモンと一緒に手を叩いて見物している者、色々な人間達が集まっている。毎度思うのだが、彼らも“じょおいさん”と同じく、何かの種族なのだろうか。ポケモンを持つ者持たぬ者、背の低いもの高いもの、元気そうなもの大人しいもの。しかし、私達ノクタスの中にも、背の低いものや高いものなどは存在する。そうしたら、トリヅカや他の人間達は、お互いの事をニックネームで呼んだりしていると言う事なのだろうか。“やきそば”とか。
 丘の上にはポケモン像を囲むように、そして同じく丘を囲むように、沢山の人間達が輪を作っている。いつとも言わない内に音楽が始まり、手拍子と踊りもそれに習うように始まった。使われている楽器も、この時代にしか無いものなのだろうか。踊る人の輪は広がったり狭まったりしてぐるぐると廻りつづける。長い影は丘の下まで届いているだろう。私達は太陽を背にして、丘の下から祭りを眺めていた。
 日が沈みかけても祭りは続き、陽気なれど荘厳な音楽は続いていた。空が紫色から赤色へのグラデーションで彩られ、ポケモン像を照らす。踊りも手拍子も音楽も最高潮。見物客の山から少し離れてその様子を見ている私達にも、クライマックス独特の熱気が伝わってきた。
 日の先っぽまでが森の向こうに隠れ、空に薄く星の影が落ちる。音楽が最後のワンフレーズを奏で、手拍子はもはや拍手と化していた。トリヅカも手を叩いている。私は、最後まで日の光に照らされていたポケモン像を見ていた。夕方から夜に掛けての太陽の光は好きだ。ポケモン像を縁取っていた鈍い輝きはゆっくりと消え、音楽と拍手も小さくなっていく。それが完全に消えた頃、輪を作っていた人間達はお互いの手を離し、ざわざわとした喧騒に変わっていった。

「ちょっと、そこの、旅の方!」
 ふと。像の周りを踊っていた人間のうちの一人が、手を振りながらトリヅカへと声を掛けた。
「なんでしょう?」
 “たびのかた”が他にいないことを確かめるように辺りを見回した後、トリヅカが同じように手を振って答える。
「あなた、吟遊詩人でしょう? 近頃見かけないと思ったけど、まだ残っていたのね。よければ、私達にお話を聞かせてくださらない?」
 他の人間に声を掛けながらこちらへ下りて来た女の人。年齢は、トリヅカより少し上くらい。彼女はトリヅカの手を取って、はいもいいえも言わせない内に「さあさあ、遠慮しないで」と、ポケモン像の丘へとトリヅカを引っ張っていった。トリヅカははいといいえの変わりに「ノクタース!」と叫んだ。半分笑っているから、断るつもりは無いのだろう。私はトリヅカを追いかけながら、彼を引っ張っていってしまうなんて、女の人は凄いなあと思った。目の前ではトリヅカが勢いに負けて転びかけている。

「吟遊詩人か、珍しいねえ」
「大人だし、ポケモンと一緒なら、まあ大丈夫かね」
「どこかに仕えている訳でもないんだろうし、将来はどうするのかね」
「今時吟遊詩人なんて流行らないよ」

 ……彼が、時代に淘汰され消えていきつつある吟遊詩人という職業を選んだ理由も、私は知らない。この時代にももう既に新聞やテレビくらいはあるのだろう。そんな中、歌と歌詞だけで伝説を残していく詩人達は、確かに流行らない。
 そう思いつつ、トリヅカに追いつくべく丘を登る。幸い人だかりの中には彼らが通った後の道が空いていたので、誰ともぶつからずに登りきる事が出来た。トリヅカはポケモン像の前に立たされ、像と丘を囲む人間の中心になってしまっている。右手でこいこいと手招きされたが、そうされなくても隣に並ぶつもりだ。

「では、始めさせていただきます」

 帽子を脱いで一礼。私も、笠に手を掛けてお辞儀をする。
 トリヅカはポケモン像に寄りかかるようにして腰をおろし、私は右腕を口の前へと構えた。

「まずは……皆さんご存知、『はじまりのはなし』から」

 大きなハープを両手で支え、トリヅカの演奏が始まる。私は草笛を使い、それに伴奏を付けた。どよめいていた群集も、前奏が始まった瞬間から、ぽつりぽつりと口を閉ざしていく。
 トリヅカのハープはホウオウを象ったもので、黄金色をした木で出来ている。翼を休め、長い美しい尾羽を流れるがままに下ろしたポーズ。首も下へと緩やかに曲げており、おそらく眠っている所を想像して描かれたものなのだろう。図鑑で見る険しい表情をしたものではなく、穏やかに全てを包み込むような雰囲気を放つホウオウ。心なしか涙を流しているようにも見えるのだが。
 ほろり、ほろり。羽が舞い落ちるかのような旋律の中に、私の草笛が風となって通り過ぎていく。羽を攫うでもなく、地面へ押し付けるでもなく、優しく舞い上げるように。今までトリヅカは私の草笛を拒んだ事は無かった。何度も何度も合奏をしている内に、だんだんとどのような音がこの語りに相応しいかが解ってくるようになる。
 トリヅカが一言ずつ神話を語っていく。小さな箱から小さな宝石を大事に一つずつ取り出すように。命の生まれる瞬間を、人々の心に刻み込めるように。

「そして次に――名づけるならば、『ハクタイのはなし』を」

 眠るホウオウの変わりに両手を動かし、語るトリヅカ。私はただ草笛を吹きつづける。


  世界の時が繋がる場所。過去から未来へ。未来から過去へ。
  いくら泣いても、時間は流れる。涙を乾かす、森からの風。
  沢山笑って、時間を忘れる。しあわせ告げる、山からの夕日。
  押し寄せる時の波に溺れてしまっても、怖くは無い。
  渦巻く後悔の闇に飲まれてしまっても、まだ大丈夫。
  私にはこの街がある。私が心を忘れぬよう、世界が残してくれた古里――





 翌日の朝の事だ。私は、いつもより遅く起きたトリヅカが、挨拶の次に発した言葉に、少なからず驚いてしまった。
「今日の日が沈むうちに、この街を出よう」
 前回もその前回も、トリヅカはこの街にかなり長く滞在していた。一ヶ月近く居座った事もある。「長く居たい時もあれば、短い間でいい時もある」と言われればそれまでかもしれないが……。はてな、と低く唸った私に視線を合わせ、彼は首を傾げて見せた。
「ここにいてはならぬと誰かが警告しているんだ。さあ、警告があるのなら早い方がいい。船に戻ろう」
 そう言うなり、櫛で簡単に髪を梳かし、さっさと後片付けに入ってしまった。吟遊詩人があまりにも歓迎されない時代などでは、こうして一日足らずで街を出る事もあったが、今回は違う。しかし逆らう気も無いので、帽子を被りマントを羽織ったトリヅカが部屋を出て行くのを追った。ポケモンセンターを出ると、遠目にビルの建設予定地の看板が見える。そして、昨日は聞こえなかった不快な音。エンジン音だ。どこかの木々が倒れる音、足元を見れば不自然に散らばった緑色の葉がある。街の木は間違いなく減っていた。
 時代が移り変わる瞬間に居合わせてしまったのだ。
 街を横切るトリヅカの歩みは間違いなく早足で、今回ばかりは私もそれに着いて行った。昨日の祭りでは見た事のない顔の人間が出入りしていた。時代の変化とはこうも簡単にやってくるものなのだろうか?

 この陸に下りてきたときと同じ場所で船を待つ。しばらくすれば霧が深くなり、船が姿を現した。トリヅカはロープを伝って船へと登り、モンスターボールへと私を戻す。そしてまた、甲板へと私を出した。透明な羽が羽ばたく。エンジン音はまだ聞こえる。柵から身を乗り出せば、ビルの土台を作るために材料を運ぶ機械達が見えた。

「さっさと気がつけばよかった」
 トリヅカが呟く。
「あのお祭りは、これがあるから昨日の夜にあったんだ。日が昇る前の祭りは新しいものを受け入れる時を表していて……ああ、嫌な時に居合わせてしまったものだ」
 離陸した船から、ハクタイシティを見つめる。また一本木が倒れた。私は、足の真ん中あたりを切り裂かれた時の痛みを想像した。
「『ハクタイのはなし』は、ずっともっと昔のここを訪れた時に作ったものだ。今更歌詞を変えるわけには行かない」
 船が雲を突き抜ける。私は笠を、トリヅカは帽子を押さえ、柵へと捕まった。空気と風がどこまでも冷たい。
「あの時はハクタイが一番好きだったのだけれどね。もっと未来のハクタイを見て、それからあの町……シダケタウンを見て、順位がぐるっと変わってしまったんだ。時間の流れに逆らう事は出来ないし、どうしようもない。それを忘れていた自分も……どうしようもない」
 私はシダケタウンのことを思い出した。緑色の絨毯、煌く草原。心地よい風と、ゆらめく木々の歌声。あの時の草笛とトリヅカの演奏はよく響いた。ただ、『シダケのはなし』はまだ作っていないが。
「……とんだ『ほろびのうた』になってしまったね」
 トリヅカが苦笑する。雲を抜け、船はふわりと浮き上がった。風の波に乗れれば、あとは時代と地方を行き来する旅が始まる。目に見えないマストが風を孕み、船は出港した。太陽が丁度雲の海から顔を出した頃だ。




 それから何日が過ぎただろう。いや、何ヶ月だっただろうか、それとも何年だっただろうか?
 船が私を置き忘れたのか、私が船を置き忘れたのか。それともトリヅカが私を忘れたのか。
 私は目覚めたら砂漠にいて、地面に足をつけていた。不思議と脳みそはその事に納得していて、身体も過酷な生活に順応していた。何せ、目覚めたら夜で、砂嵐がごうごうと吹きすさんでいたのだ。景色には見覚えがある様で見覚えが無い。おそらく、ここを通ったのは別の時代であるか、昼の時間帯であったのだろう。社交辞令程度に辺りを見回してみたが、船もトリヅカも何も無い。私はぽつんと広い砂漠に放り出されていた。……船の旅のはじまりと同じに。そう、船の旅にも、おおまかなはじまりがあったのだ! だからと言って、こんなにおおまかなおしまいでなくてもいいのに!

 昼の間はじっとして、夜になったら砂漠を彷徨う。ノクタスらしい生活をずっと続けた。日数は数えていない。そんな暇は無かった。迷い込んだ旅人を探すのには時間が掛かるし、いざ食べ物が見つからなかった時は虫を探さなければならなかった。皮肉ながら、様々な時代の戦いの記憶が役に立った。砂漠の精霊でさえ、時間を掛ければその日の獲物に出来るくらいだ。
 怪我をしたり腹が減ったりというのにも慣れた。
 しばらく暮らしてみれば、ここでは何も起こらず、何の不自由もしない代わりに、何も見つける事が出来ないと知ることが出来た。しかも私は『それならそれで仕方がない』と思ってしまう性格だったから、神様の気まぐれかノートの書き間違いか何かだったと納得するより他ならない。納得してしまえば、あとはなんの変化のない日常が待っている。あの船の旅の様に。
 欲しいものをなくしてしまえば、不自由なんてなくなってしまうのだ。
 時々、野生のノクタスに出会う事があった。彼らは草笛を知らなかったようで、少し話した後にその技を教えてやると、驚かれたり喜ばれたりした。彼らもまた、変化の無い日常を送っているのだろう。私は風の波間を眺めるのをやめた変わりに、毎晩毎晩草笛を吹く事にした。そうすると、気付いたノクタスが寄ってきて、他愛の無い会話に付き合ってくれる事が多かったから。時には行く当ての無い人間も寄って来た。そんな時は砂嵐の中に隠れて、彼らが力尽きた後にありがたくご馳走になった。


 空に浮かぶ星よりも沢山の夜が過ぎた頃の話だ。私は、いつもと違う心地で草笛を吹いていた。なんとなくだ。
 偶然と言えば偶然、当然と言えば当然。それにつられるようにか、それともそれを目的としてなのか、一人の人間、まごうことなき私の主人が、砂嵐の向こうから真っ直ぐにこちらへ向かって歩いてきた。片手でハープを抱え、もう片手で帽子を押さえ、ぼろぼろのマントをたなびかせて。相変わらずの長髪には砂が絡まってしまっているのではないだろうか。
 これは感動の再会にはほど遠い、寧ろ毎日出会っている人物とまた出会った時の感覚に近いものだ。砂嵐に巻き込まれてばたばたと揺れるマントをそのままに、彼はじっとこちらを見つめながら歩いてきている。私は無論逃げるつもりは無かったし、隠れることも出来ないと知っていたので、そのまま草笛を吹きつづけていた。

「探した気がする。でも、探していなかった気もする」
 私は返事をせず、ただ聞いていた。草笛を止めるつもりは無かったのだ。
「懐かしいメロディだ。それを知っていた時点で、『はじまりのはなし』は私達にもあったと解ればよかった」
 よく見れば。ハープの弦は殆どが切れており、帽子の鍔もぼろぼろである。
「世界はやっぱり終わるんだね。私にはまだ知らない事が沢山あった。あなたには数え切れないほどの迷惑をかけて、数え切れないほどの思い出を貰ったね。でも、それを知らなかった。――他にもあるよ。私の生まれた場所、私が旅に出た理由、船が現れて消えた理由、あなたと出会った訳。まだまだ沢山ある。小さなことも、大きなことも。あなたの名前すら知らなかった私に、世界を知る資格はなかったのかもね――」
 それがなくとも、私には名前など無い。彼は私に背を向けるように腰をおろし、言葉を続けるうちにハープを地面に寝かせ、自分も横になった。
「考えれば次々に出てくるんだ、知らないことが。その答えを見つけようともがいている内に、あなたの答えが先延ばしになってしまって」
 時刻は夜である。トリヅカにとってみれば、太陽が沈んだ後少しでも歩いているのは、苦痛以外の何物でもなかっただろう。それを、草笛の音色を辿って、砂漠を只管歩かせて、それまでずっと自分の無知さを責めさせていたのだ。
「『シダケのはなし』は作らなくて正解だった。私が作ってはいけなかった」
 私も、何度もトリヅカには苦労をさせられた。“やきそば”だの陸での旅だの戦闘だの。もういっそのこと、私の本当の名前は“やきそば”で構わない。それで幾つもの時代を行き来して、それで今まで生きてこれたのだから、おあいこなのではないだろうか。

「そうだな、明日は……日が昇った後に起きるよ。じゃあ、お休み……」

 そう言えば、早寝早起きのトリヅカの寝顔を、私は今日初めて見た気がする。ほんの少しだけ驚いて、私は彼の顔を覗き込んだ。帽子が砂嵐に攫われて、吹き飛んでいく。草笛を吹くのはいつのまにか忘れていた。
 片腕で笠を下げ、なんとも言えずに立ち尽くしていた。あの船は今どこに浮いているのだろう。ひょっとしたら……明後日あたりに、トリヅカだけを乗せて航海を再び始めるかもしれない。私がそこに現れるのはいつになることやら。いや、案外同じ瞬間に、トリヅカと共に出航できるのではないだろうか。何しろ私は、最後の旅でも、パートナーとしてトリヅカの歌を聴いたのだから。