「いぎ……あぁ! あああああああ!!」 悲鳴。鈍い音。悲鳴と悲鳴が織り交じり、灰色の世界がどろどろと真っ赤に染まっていく。 自分に近い年齢の少年が一人、足から大量の血を流して地面に倒れているという嫌な光景。 あれは……ダメだ。いや、何がダメなのか自分でもよくわからない。 血の色と血の臭いが意識に充満し始めて、口の中に広がる鉄の味。 何もかもが断たれた世界で、彼は絶叫を上げ、嘔吐した。 夢がただ只管に赤く染まる。ただ只管に締め上げていく。ただ只管に、蝕んでいく――  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜      半透明の道標  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「チ、チチ!」 「…………」 「チチ……」 「…………」 「チッ!!!」   ガブ 「〜〜ッ!!? ってぇなおい!! こらチリ! 起こしてくれるのは嬉しいけど噛むな!!」 鮮やかな青い空を昇り始めた朝日が照らし始める頃。 強烈な閃光が眼球を貫くものの、少年としてはそんなものより、 自分の頭に齧りついたその子ネズミを何とかすべく起き上がる。 「おいちょ、チリ! 俺はもう起きてるっての! めちゃくちゃいてぇから放せ! ちょっと刺さってるぞおい!」 青空よりも鮮やかな水色の毛が、純白の下地の上で踊っている。 こいつはどうも自分が悪夢を見ていることがわかるらしく、よくこうして前歯を突き立てて叩き起こすのだった。 少年の朝は大体こんな感じだった。いつも騒がしくてうるさい朝。 とある森の中。さざめく木々。あらゆる場所から感じる野生の息吹。ムックルが顔を出して引っ込む青と緑の世界だった。 「あ〜いつも通り寝覚め悪っ。朝飯にすっか。フカ、水汲んできてくれ。チリは俺と薪拾いな。変なもん拾うなよ」 「ギググ」 「チ!」 パチリスのチリはよく変な物を拾ってくる習性があり、たまに迷惑することがある。 眠っていたリーシャンを鈴と勘違いして拾ってきて、チリーンたちにやたらと騒がれたこともあるし、 一番大変だったのはフワンテだ。爆弾風船振り回してそれはもうお祭り騒ぎだった。 シンオウ地方の朝は季節的なものもあって少し冷えた。上着を羽織りなおして薪を集める。 チリが集めてくる量なんてたかが知れている。今日の朝飯は自分にかかっているともいえた。 いや、フカも問題か。あいつも地味にいろいろ問題を抱えてくることが多く、 あいつが水汲みに失敗したらこの寝癖だらけの茶髪もなかなか直らない。 「……遅いなあいつ」 「チチ」 朝飯の用意……といっても至極簡単なものだが。 あとは水の到着を待つだけなのだが、水汲みにいったフカがまだ戻ってこない。 腕時計は既に九時を回っている。いい加減腹も減ってきた。何してるんだ、あのバカ鮫は。 「チリ、このハムみんなで分けて食ってろ。俺はフカを捜してくる」 荷物からハムを引っ張り出して立ち上がろうとして。 その拍子に荷物から零れた銀色の薄いケースが地面に転がり、陽光の中で眩しく光る。 それは今までの旅の中で手に入れた苦労の証。自分たちの力が認められた証。 まだ半分しか入っていないが、それでもみんなとの思い出が詰まった大切な物。慌てて拾おうとして。 何かが目の前を横切った瞬間、ケースは塵も残さず消えていた。 ……暫し硬直。ようやく口から出たのは確認だった。 「……なぁチリ、今ここにバッジケース落ちてなかったっけ」 「チ」 「だよな、落ちてたよな? ……消えてね?」 無駄に確認したくなる今日この頃。 とりあえず目の前の物体が見えなくなるほど老化しているつもりはないし、 あんな目立つ色の物体を見失うほど寝ぼけていない。 とりあえず健全で健康なつもりである。不意にチリが大きく鳴いた。視線が自然と空へと移る。 肌色と橙色の羽を四枚、昼に近づきつつある陽光を背に青空を飛んでいた。 一瞬理解できなかった。ただそこにいたのは森でたまに見る蓑蛾ポケモンのはずだった。 問題は、そいつが短い手で自分のバッジケースを持っているということだ。 「な……っ!? 俺のバッジケース! おいこらそこのガーメイル!  俺のバッジケース返せ! 今ならチャージビーム一発で許してやる!」 既に攻撃する気満々の少年。それはそうだろう、自分たちの血と汗と涙の結晶を奪われたのだから。 だがケースを奪ったガーメイルはというと、暫し少年たちを見下ろしたあと。 何事もなかったかのように飛んでいった。当然ケースは持ったまま。 少年は憤怒していた。準備していた朝飯を素早く片付けて荷物を背負う。 腰のボールが全部揃っていること、チリが準備万端で待っていることも確認して。 いざあのガーメイルを撃墜するべく走り出そうとして。ようやく一つ忘れていたことに気付いた。 「ってヤベッ! フカの奴まだ帰って来てな――」 「ギグググア! グアァッ! ギガァ!」 「ホルルル!」「ホルッ! ホルル!!」「ホルゥオオオ!!」 ……嫌な予感がした。いつものことなのにどうも慣れてくれない自分がいる。 フカの風邪をひいたみたいなガラガラ声。これはいい、聞き慣れた声だ。 ただそれがいつもより切羽詰ったような声であることと、聞き慣れない第三者たちの声が混じっているとなると、  ああ、またか。あいつは何時だって問題事を抱えてやってくる。 一匹の陸鮫が両手に抱えたバケツから水を撒き散らしながら走ってくる。 地面の下を潜ったほうが速いのだが抱えたバケツが邪魔になってそうすることもできず、 なぜか彼を追ってくるヨルノズクたちのエアスラッシュを根性で避けているという、まぁどこにだってある光景だ。 いや、駄目だろ。そんな光景頻繁に見たくない。 「あンのバカガバイト! 水汲みに行っただけでなんでヨルノズクに追っかけられてんだ!?   チリ、お前あのガーメイルを追っかけろ! あれなんとかしたら俺も追いかける!!」 「チチッ!!」  いつだって、誰だって。人間なら誰もが夢を見る。  それは寝ている時のことを示すのか、それとも将来の夢のことの差すのか、どちらでもいい。  少年が見た夢。脳裏に焼きついて消えない生々しい光景。  その全部があまりにリアルに近いような気がして、少年は走りながらも身震いした―― コトブキシティという街は、シンオウ地方の中でも大都市の部類に入る規模を持つ。 どの街よりも高いビルと、どの街よりもお洒落な店が立ち並ぶシンオウの中心地。 シンオウ一の大きさを誇るポケモンセンター。ポケモンやトレーナーに密着するテレビコトブキ。 トレーナーの人気アイテム、ポケッチを造ったポケッチカンパニー。 遠いところにいるトレーナーとポケモン交換が出来るグローバルトレードステーション。 彼はこの街があまり好きじゃない。彼自身どちらかといえば田舎出身であり、ゴタゴタした街は苦手だった。 でもまぁうまいものが食える辺りは嫌いじゃない。寧ろそういうのは好きだ。 ビルの隙間から見える青空。自分たちが歩く歩道のすぐ近くを過ぎ去っていく車の数々。 環境を考慮しているとかよく聞くが、いつも通り排気ガスを出しまくっているような気がする。 が、今の少年とガバイトにはそんなことどうでもよかった。 「なぁフカ……お前、あのヨルノズクたちに恨み買うようなことしたのか?」 「ギグアウ。ギグ、ギギ。ギガガゥ、ギグ。ググゥ」 「なるほど。全っ然わからねぇ」 ポケモンの言葉を理解できる人間がいるのかわからない。少年は一応理解できない部類に入る。 幾ら森を全力疾走してヨルノズクの追跡を振り切りそのままコトブキシティまで来ちゃった仲だとしてもだ。  ――既に日は頂点を昇りきり傾き始めている。 「つーかお前の所為で朝飯のみならず昼飯も食ってねぇよ。  というわけで罰ゲーム。一時間以内にチリを捜してこい。オーケー?」 バッジケースを奪って逃げたガーメイルを追っていったはずのパチリス、チリ。 あの道を真っ直ぐに走った場合彼女もこの街に辿り着いているはず。 フカと違って無駄な行動はとったりしない子だが、どうも嫌な予感がしてならない。 (変な夢見た所為だな……クソ) 「チチッ!!」 「あ、チリ」 フカへの罰ゲームがいざ始まろうとした時、前方に見慣れた子ネズミを発見する。 隣のフカが心底ほっとした顔をしていた。 まぁこの巨大な街の中から一時間以内にパチリスを捜せなどという、 理不尽極まりない罰ゲームが逃れられたのだから無理もない。 「チリ、ガーメイルは?」 「チ」 チリが指差した……というか前足は小さくキュート過ぎるので指差したといえるのかどうか微妙だが。 彼女が立っていたのはとある門の前だった。その先を指差している。 「シンオウ……中央総合病院?」 一般の家にはない大きな横長の表札には確かにそう書かれている。 ガーメイルが逃げ込んだと思われる場所はシンオウ一の規模を誇る病院だった。 少年はあまり厄介になったことがないが、それでもその病院がいかにすごいところか、というのはわかった。 「……でっけぇな」 「チチ」 「ギグゥ」 真っ白な門を超えた先に広がる広大な前庭。 職人の手が行き届いているであろう綺麗な緑の芝生と、それを真っ直ぐ貫くコンクリートの道。 門から覗いているだけでも看護師や家族に車椅子を押してもらい散歩する患者が何人も見える。 二つ設置されている噴水の上を舞うアゲハント。綺麗に刈られて無駄な部分がない木々に止まったムックル。 向こうに見える白い建物もまた立派で、玄関が見える建物を中心に病棟と思われる建物が三つも見える。 「チリ、ガーメイルはホントにここに入ったのか?」 「チ」 どう頑張ってもガーメイルと人間の病院に接点が見つからず、少年は頭を悩ませる。 ガーメイルというポケモンは生物学的にもバッジケースを奪っていくようなポケモンではない。 光物が好きなヤミカラスなら納得できよう。 だが、なぜガーメイルが? チリはここにガーメイルが入っていったところを見ているようだ。 とりあえず門を抜けて歩いていく。平和そのものだった。特に噴水を囲むアゲハントたちが美しい。 (ここの患者のポケモン……とか?) だったら確実に窃盗罪に問われるだろう。ポケモンが勝手にやったのならまた別だが。 もしトレーナーの指示ならば、とりあえず殴ってケース取り返して警察に電話決定だな。 「ふざけるなっ!!」 そうだよふざけるなよ。俺たちの唾液と尿と脇汗の結晶を奪いやがって。 いや、多少下品か。いやいやちょっと待て。今誰が言った? 「チチッ!?」「グガッ!?」 「んあ?」 どう聞いても焦っている二匹。半ばテキトーに彼らの視線を追う少年。 彼らが立っているのは正面玄関の前であり、チリとフカが向いているのはそこから三時方向であり。 少年はぼけっとしながら見上げた。陽光の中、光を反射しまくって無駄に輝く物体が落下してくる。 主役のような大きい物体がギラギラと輝き、その回りを四つの小さな光がキラキラと輝いていた。 一瞬脳みそが停止した。…………ちょっと待て。 「お前がふざけんなァァアア!!」 それはやっぱりバッジケース&苦労の塊であるバッジ四つであり。 そんな大切な物体が三階の窓から投げ出される形で落ちてくるというのは、 どうにも怒りとかその辺りが湧き上がって来る感じがした。ような気がする。 「チッ!」 電光石火を使い一気に飛び掛ったチリが空中キャッチを決める。 「ギガァッ!!」 ヘッドスライディングを決めたフカが見事二個キャッチ。無駄にかっこいい。 「うおっとォ!!」 二匹に負けじと飛び込んだ。伸ばした右手がケースをキャッチし、左手は何も掴んでいなかった。 「ノォオオオオオ!! 残りはどこだ!? 俺たちの汗と血と……え〜となんだっけ。なんでもいいから捜せ!!」 たまに思うのだが、自分たちの主人のセリフはどこか面倒だった。 チリとフカ、その他数名はこの不思議主人にいつも振り回されている。たまに振り回している。 うるさくて面倒な関係ではあるが、トレーナーとポケモンとしての関係も成り立っているのでオーケーだと思う。 芝生の上を四つん這いで目を凝らしまくっているというのは、どこかシュールな光景でもあるが、 「うおっ! ムックルの糞が!!」 ここに断言しよう。こいつが自分たちのトレーナーだ。ちょっとバカだけど。 「……ヤベ、一個見つかんねーぞおい」 もうそれはヤバイというより、…………いや、ヤバイぐらいしか思いつかない。 努力の結晶であるジムバッジ。今までの旅で培ってきた力が報われた証。 そんなジムバッジが一つでも足りないというのは、恐ろしくマズイ状況でもあった。 ジムバッジが足りないということは、シンオウポケモンリーグへの出場権がないということであり、 リーグにて己の力を高めたい彼にとって、リーグに出れないなどとはあってはならないことなのだ。 「……へ?」 目の前に現れた大きな影が、自分が捜し求めていたものを差し出していた。 その姿は自分にとって救世主と変わらず思わず後光が差しているような……というか本当に後光が差している。 背負った太陽が少しずつズレる中、少年はそれを受け取って救世主の顔を見た。 「いやいやどうもどうも。見つからなかったらどうしよ……うかと……?」 岩だった。生きた岩。巨獣の形をした岩が、こちらをじっと見下ろしてくる。 岩盤のような皮膚。鼻先に生えた立派な角。人間の骨ぐらいなら一撃でノしてしまいそうな太い尻尾。 「さ、サイドン……?」 「…………」 病院の中庭に忽然と現われたそのサイドン。 普通なら悲鳴の一つや二つや三つとんでも良さそうだが、周囲をさっと見渡す限り、 悲鳴を上げたり穴を掘って逃げようとしている人はいない。いや、後者はいたら怖いが。 サイドンもここにいることに慣れているのか、バッジを渡すとすぐに踵を返して中庭の隅へと歩いていった。 「な、何よあれ……」 「チ……」 「ガゥ……」 そして、聞こえた。先ほどの声と同じ声が。 「どういうつもりだ、ネス! あんなものを持ってきて!!」 少年は激怒していた。目の前でヘコんでいるガーメイルに激怒していた。 真っ白なシーツとふかふかの掛け布団。寝巻き姿の彼は、窓の淵にとまっているガーメイルを睨みつけている。 叱咤されているガーメイルの元気の無さ。いつものネスとは思えない。 限りなく黒に近い青色の頭をくしゃくしゃと掻いてから、 「……悪かった。お前は僕を元気付けようとしてくれたんだよな?」 「ビビ……」 「でもな、ネス。僕はもうポケモントレーナーは……」 そこまで言ってから。彼はふとあるものに気付く。どう見たって在り得ない光景。 少し深く考えてから……いや、深く考えるだけ無駄だと気付いて。とりあえず、少年は率直な質問をぶつけた。 「……おい、そこのお前。そこで何やってる?」 「…………。あ、バレた。あ〜あ、チリの所為じゃねーの?」 「チチッチ! チチ!!」 「じゃあフカ?」 「ギグゥ!?」 病院の三階の窓に現われた三つの影。パチリス、ガバイト、そして自分と同い年に見える男の子が一人。 ガバイトと少年は窓にぶら下がる形で……当然窓の外側に身体がある。とんでもない光景だ。 「とりあえず言わせてもらうと、ここは三階なんだけどな」 「ロッククライムで頑張れば登れないこともねぇ!」 ビシィ! と親指を立てるそいつに、深い群青色の髪の少年ははぁ、と一つため息を付いてから。至極冷静な口調でその奇妙な闖入者に告げる。 「何のつもりかは知らないが、とっとと出て行ってくれないか? 本来なら――」 と言いかけて、闖入者が見覚えのある物体を取り出していた。銀色の薄いケース。 先ほどガーメイルが持ってきて、窓の外に投げ捨てた物だった。……どうやら持ち主が直々に文句を言いに来たらしい。 「悪かったな。僕のネスが迷惑をかけた」 「いやまぁぶっちゃけそれはもうどうでもいいんだけど」 一々目の前に突きつけておいてから、窓にぶら下がったままの少年はとりあえずこんなことを言ってきた。 「入っていい?」 「……勝手にしろ」 んじゃお言葉に甘えて、と付け加えてから入室。窓から。恐ろしく常識的なものが欠如した人間にしか見えない。 病室内に置いてあったパイプ椅子を引っ掴んで腰を下ろしてから、 「俺クウヤ。お前は?」 「何でお前に――」 「バッジケース」 「……。リクだ」 完全に弱みを握った人間と握られた関係だった。 バッジケースを一時的にだが奪われたクウヤは、 一時的に奪う形になったリクに対してあらゆる要求をすることができる。クウヤの気が済むまでだ。 「で、何でお前のガーメイルは俺のバッジケースを盗んでいったんだ?」 「……それも言わないといけないのか?」 バッジケース、と言いかけるとリクは手を突き出して制止する。 こいつ、どうやら自分が気になっていることは全て聞き出すつもりらしい。面倒な。とは口には出さないでおく。 何故か無駄にわくわくしているクウヤに対し、リクは至極静かな口調で答えた。 「僕は……ポケモントレーナーとして旅をしてたんだ。以前までな。  ちょっとした事故に遭ってから、ずっと病院暮らしを続けてる」 「事故?」 「病院の中庭にサイドンがいただろ。あいつはランドル、僕のポケモンだ」 中庭にばら撒かれたバッジ。行方不明となっていた最後のバッジを見つけて手渡ししてくれたあのサイドンか。 確かにリクのポケモンならこの病院の周囲でウロウロしていても不思議じゃないし、人間慣れしているのも理解できる。 「あいつがまだサイホーンだった頃、僕はランドルの背に乗って荒野を走っていた」 「……へ? ちょ、ちょい待ち。サイホーンってお前――」 「そうだ。サイホーンは走り始めて勢いが付いてくると、曲がれもしないし止まれもしない」 サイホーンというポケモンは強靭な岩の鎧で身を固めた非常に頑丈なポケモンであり、 生半可な物理攻撃では傷も付かないポケモンだ。 だが反面、脳みそが小さく頭が悪くて咄嗟の機転が利かないという重過ぎる欠点がある。 そんなポケモンの背に乗って走ったりすればとんでもない大惨事になるだろう。 「バトルではそんな長距離を走ることもなかったし、まさか止まることすらできないとは思わなかった。  ……そして岩に激突、あいつは無事だったが飛んで来た岩の欠片に足をざっくりやられた」 リクの両足は、足としての原型がわからないくらい大きなギプスで固定されていた。 あまりに痛々しくてクウヤは直視することを止めてリクの顔へと視線を移す。 感情の起伏が乏しいような気がしてならない顔があった。 「僕の足は治らない可能性が高い。だから僕はポケモントレーナーをやめることにした」 「や……!? やめる!? 何で!?」 「お前はネスがバッジケースを盗んだ理由を知りたいんじゃないのか?」 うっと息が詰まる。そうだ、自分はあのガーメイルがバッジケースを奪っていった理由を聞いたんだ。 リクが何を考えようとそこに口出しできる身分じゃない。でも、 (トレーナーを……やめる……) 「僕がトレーナーをやめると言い出すとネスはしつこく食い下がった。  バッジまで盗んできてやめないよう縋ってくる」 うんざりなんだ、とその言葉通りうんざりした口調でリクはそう言い捨てた。 人のバッジケースを奪い、自分はまだ諦めたくないと意思表示するガーメイルのネス。 今も部屋の隅で大人しくしているが、心の中ではまたリクと一緒に旅に出たいと思っているに違いない。 きっとあのサイドン――ランドルもそう考えているに違いない。 「さぁこれで十分だろう。出て行ってくれ」 「最後に、もう一個だけ」 またうんざりした顔のリクだったが、クウヤのどこか真剣な目つきにたじろいでしまった。 病院の外壁をロッククライムで登ってくるような不審者ではない、別の目。 「何でトレーナーやめようなんて考えたんだ? 足が治ればまた旅なんてできるじゃねぇか」 そうだ、治らないかもしれないという可能性の問題。トレーナーをやめるなんて結論に達するには理由が浅い。 少し考えてから、クウヤとは目を合わさずに答えた。 「ポケモンに見限られたトレーナーなんて、かっこ悪いったらない」 「は?」 「ランドルは入院前はサイホーンで、入院後にサイドンに進化した。……見てないんだ、あいつが進化する瞬間を」 トレーナーにとって、育ててきたポケモンの進化は他に例えようのない喜びなのだ。 苦しい戦いをこなし、新たな身体と力を得る。その瞬間に立ち会えなかったことは寂しいなんてものじゃない。 「最近じゃ中庭に出てもいないことが多い。あいつは僕がいないところで進化して、僕がいないところに通っている。  ……あいつは、僕が知らないところに行こうとしているんだ」 歩けなくなったトレーナーに何の魅力があるんだ。 ランドルと顔を合わせるたび、彼がそう考えているような気がしてならない。 見限られたんだ、とリクは少し寂しそうにそう言った。 歩けなくなったトレーナーと、トレーナーの知らない場所へ行ってしまうポケモン。 『ポケモンがトレーナーの下から離れようとしている』ようにしか見えない光景。 だからリクはトレーナーをやめることにした。確かにランドルも勝手なところがあるが、 それでも信頼し信頼されるべきポケモンに見限られるとなると、トレーナーとして相当ショックな出来事だ。 「あいつが消えたら僕はあいつを探さない。あいつには別のトレーナーか野生のほうが合ってるんだ」 「じゃあ、何でそんなもの用意してんだよ」 クウヤの目に映っているのはベッドの脇に置かれた小さなテーブルの水差し。の近くに置かれた赤い奇妙な物体だった。 薄い長方形の板状の物体が、黒いロープのようなもので数珠繋ぎになっている。数にして五つ。 それはとても珍しい品物で、トレーナーとしても非常に有益な能力を持つ道具だった。 「それ、プロテクターだろ。ランドルに見限られたってんなら捨てればいいじゃねぇか」 プロテクター。サイドンが更なる進化をするために必要な特殊な道具だ。 他にプロテクターを使用して進化するポケモンは現在確認されておらず、 使わないなら宝の持ち腐れ、荷物の奥にでも突っ込んでおけばいい。 だからクウヤからすればそれはまだ諦めていない証拠に見えてしまう。 もう一度問い掛けようとした時、リクの何の予兆もない大声が炸裂した。 「もういいだろう! さっさと出て行け!!」 「……なんだかなぁ」 「チィ」「ググ……」 声だけで抓み出されるという経験は初めてだった。ただ単にリクの突然の大声に驚いて夢中で退出しただけだが。 クウヤ、チリ、フカの一人と二匹は病院の中庭の草むらに腰を下ろしてぼけっと青空を見上げていた。 トレーナー……をやめようとしているリクという少年。 そんな少年にトレーナーをやめないでくれと窃盗まで働くガーメイル。 自分が元凶でありながらむすっとした態度で中庭を徘徊し、時折姿を消すサイドン。 どこか奇妙に曲がった物語は追い出されるという形で干渉不可能となってしまった。 一人のトレーナーが静かで苦渋の決断をしようとも、青くそして高過ぎる空は何事もなかったように流れている。 「……なぁ。俺らはあれだよな、トレーナーとして天辺まで行くつもりで旅してんだよな?」 当たり前だろ、と大きく頷く二匹。そうだ、トレーナーとして旅に出た以上目指すは最強の座だ。 大会で優勝しまくって、全世界のその名を轟かせるトレーナーになりたい。 夢見すぎだなんて言われようが関係ない、自分たちの力が通用するその限界まで駆け上がりたい。 だから、リクの考えた方がわからなかった。 「そんな簡単に諦められるもんじゃねぇよな」 そうだ、自分からすれば足が動かなくなろうが腕を切り落されようが、目が見えなくなろうが口が聞けなくなろうが、 やろうと決めたことにチャレンジできるならとことん突っ込んでやる。 チリやフカが自分に失望しようが、なんとしてでもまた一緒に旅がしたいと思わせてみせる。 リクには、そういう心が欠けているんだ。 「お前だって諦めたわけじゃねぇんだろ? ランドル」 「…………」 忽然と存在していたそのサイドンに語りかけてみるが、返ってきたのはやっぱり沈黙だった。 一人と一匹を見下ろす灰色の岩獣は、口を横一文字に結んだままただそこに立っているだけ。 「ギグガウ?」 「…………」 「ギギグ。グギグウ」 「…………」 同じ地面タイプのフカが話しかけても全く何の反応も示さない。こいつ、実は寝ているとかそういうのではないのか?  立ったままな上、目まで開いたまま眠れる生命体がいるとも思えないが。 クウヤと同じようなことを語りかけているのかどうかはわからない。 このバカガバイトにはそういう面で期待はしていないが。 というかチリ、ランドルによじ登って遊ぶのはやめてくれ。 頭の上で踊ったり角の先端で逆立ちするのもやめてくれ。すごいけど。 「…………」 やっぱり何も言わずに去っていくランドル。今度は中庭の隅ではなく、塀の裏口部分から出て行った。 どうやらリクの言う通りトレーナーのいる病院から勝手に出て行ってどこかに行っているらしい。 遊び場を失ったチリがブー垂れているが全部無視した。 ランドルはリクが怪我したことを自分の責任であることを自覚しているのだろうか。 あの態度では全く自覚していないと考えるのが普通だろう。 (やっぱり、ランドルはリクの下からいなくなるつもりなのか……?) でも、何で? 何でランドルはリクを見限った? 歩けなくなったから? 治るかもしれないのに? ランドルは本当にリクを見限ったのか? リクはああ言っているがプロテクターを手放せない辺りどこかで信じているのだろう。 お前は信じられているんだぞ? ランドル。 反省の色を見せずともやたらといなくなろうとも、口が悪いが地味にお前のことを信じているんだ。 「ホルルル!」「ホルッ! ホルル!!」「ホルゥオオオ!!」 そうだ。ほら、あいつらもホルホル鳴いてお前に気付かせようとしているぞ。あの空を飛んで―― 飛んで? 飛んで……そう、飛んで。 「……フカ、お前今日の晩飯抜きな」 ――白い。そうだ、白いんだ。 それが夢の中であると、年齢的に反してかなり落ち着いた性格のリクは即座に判断した。 前も上も下も右も左も全部真っ白で、感覚はプールか何かの中で力を抜いたようにふわふわしている。 何もない、まっさらな空間だった。 足はなかった。太もも辺りから半透明になって膝から下は完全に消失している。僕は夢の世界ですら歩けないのか―― (あ……) 空間に汚れがあった。それは徐々に巨大化し、とある物体の形を取り始める。ゴツゴツした巨体、岩すら砕く鋭い角。 どこをどう見たってそれはランドルだったが、それは自分の脳に記憶として強く残っているサイホーンの姿であり、捕まえて間もない姿をしていた。 「何なんだ。そんな姿で夢に出てきて、僕に一体何を伝えようっていうんだ?」 「…………」 問い掛けてもランドルは何も喋らない。喋られても理解できないが。 捕まえた時からそうだがランドルは一度も鳴いたことがない。 突進を繰り出す時だって、ロックブラストを撃つ時だって、一度も何も口に出したことがない。 それが何を意味するのかわからないが、ランドルの目はじっとリクの目を直視していた。 「僕は……お前にとって何なんだ? ランドル」 「…………」 ガクン、となった。ふわふわ浮いて何かに固定されていたはずの身体が、突然その支えを失って降下を始めていた。 悲鳴が悲鳴にならず、真っ白だったはずが蠢く真っ黒になっている下へと落ちていく。 黒い世界へと飲み込まれた身体がずぶずぶと沈み、生き物みたいにぐにゃぐにゃ動く闇に取り込まれていく。 何を見せたいんだ、ランドル。お前は一体何がしたいんだ。お前は一体―― 直後、どんどん落ちていた身体が不意に止まり、何かに押し上げられるように浮上を始めた。 自由の利かない身体は何も抵抗なんてできるはずがなく、そのまま再び真っ白な世界へと連れ戻されて。 そこで初めてリクは自分を押し上げてくれたその物体を目に捉えた。 灰色の巨大な身体は見覚えもなく、ただぼけっとその姿を眺めるだけで。 ……ふと、その正体に気付いた。 「お前――」 天井。真っ白で色気のない天井。潔癖なまでに消毒されていると思われるそれは、やはり病院の個室の天井だった。 あのクウヤとかいう奴が出て行ってから、妙にどっと疲れて眠ってしまっていた。 根元まで辿ると奴がここに来たのは自分が原因なのだが、とにかく変な奴だった。 いや、後半はただ単に質問してくるだけだった。問題は登場シーンだ。 幾らガバイトのロッククライムとはいえ、こんな凹凸の少ない病院の壁をよく登ってこれたものだ。レベルの問題か?  爪を壁に食い込ませたか? あとで確認する必要が出てきてしまった。  ―― や……!? 止める!? 何で!?  ―― 何でトレーナー止めようなんて考えたんだ? 足が治ればまた旅なんてできるじゃねぇか。 確かにそうかもしれない。だが、ダメなんだ。 (怖いんだ……) もうトレーナーはやらない。正確に言えばこれ以上仲間を増やすつもりがない。 拒絶されるのが怖い、もうネスだけで十分だ。だからトレーナーはやめる。 (僕はもう……) 「ぬおおおっ! ちょ、チリはチャージビーム! フカは突っ込んでくる奴をアイアンヘッドで叩き落せ!」 (ぼ、僕は……) 「チチィ!」「グガガ!!」  何かが切れたような気がする。 「おい! さっきから何やってるんだお前!」 車椅子で玄関から飛び出ると、そこは病院の中庭とはちょっと思えない光景が広がっていた。正直目を背けたい。 簡単に言えば、クウヤがあのパチリスとガバイトを使って奇妙なヨルノズク軍団とバトルを繰り広げているという光景だ。 さっきまで散歩していた患者や看護師たちはみんな既に避難済み。最良の選択だ。 「何やってるって、このヨルノズクたちに襲われてんだよ! 見てわかんねぇ!?」 「それぐらいわかってる! 何で襲われてるんだ!」 「…………。過去にいろいろありまして」 「お前の所為かよ!」 「ば、違ェよ! フカの所為だよフカの! ってこら逃げんなフカァ!」 何とか責任転嫁して逃げようとしていたバカ鮫を引っ掴んで連れ戻す。あ、チリ。ごめん、一人で戦わせてた。 幾ら相性的には勝っていようとも、この数が相手ではまるで話にならない。 しかもチリが使える電気技は一体を対象とするもののみで、放電などの技は覚えていない。 地道にチャージビームで狙い撃ちし、撃っている暇がない時はスパークで対抗する。 (やっぱフカを狙ってやがる……!) 水汲みの時に一体何をしたのかわからない。飛んで来るエアスラッシュの殆どはフカを狙っており、 時折思念の頭突きまで放ってくる。一体何をやったんですかフカさん。 攻撃を回避しながら病院の壁をロッククライムで駆け上がり、まるで翼でも持っているかのように空へと飛び出した。 呆気に取られた一匹に向けて硬化した頭を打ちつけ、怯んだその瞬間に竜の怒りを叩き込んで地へと落とす。 ……ああ、そうか。またやりやがったのか。 「フカ、お前……自分から喧嘩売ったろ。ヨルノズクたちに」 「……どういう意味だ?」 「ガバイトは空を飛べねぇけど、進化すれば飛べるようになる。あいつは空を飛ぶことに憧れてるからな」 だから、というかなんというか。早く空を飛べるようになりたいのか、フカはよく野生の飛行タイプに喧嘩を売ったり、 トレーナー戦で相手が飛行タイプの時は自分から出てくることが多い。 空を飛べる相手を倒せば早く飛べるようになるとでも思っているのかどうかは知らないが、そういう面ではやたらと頑張る奴だ。バカだけど。 (そんなことで早く飛べるようになるはずがない……) 成長の過程で進化するガバイトにとって、飛行タイプを倒せば進化できるというわけではない。 例えそれがただの自己暗示だとしてもリクからすれば不毛な行動に見えてしまう。 わかっているのかわかっていないのかは知らないが、自分の目指す場所へ突き進もうとする姿はリクの目には痛かった。 もうやめたことだ。もう夢なんて追いかけないと決めたんだ。 「くっそ、なんだよこの数……! おいリク! ちょっと手伝ってくれよ!」 「…………」 もうやめるんだ。もうトレーナーなんてやらないんだ。バトルもしないんだ。だから、やめてくれ。 そんな目をしないでくれ、ネス。僕にどうしろっていうんだ。 「ビビ……」 嫌だ。……ネスの目はそう言っていた。 トレーナーをやめることも、バトルもしないことも、全部ひっくるめてネスは否定している。 ミノムッチだった頃から弱いくせに頑張る奴で、体当たりと目覚めるパワーだけでよくあれだけ奮闘したもんだ。 今だってネスはクウヤの加勢に行きたくて仕方ない様子だった。 相手は飛行タイプのヨルノズクだっていうのに何を考えているんだ。 「リク!」 「……今回だけだ。ネス、サイケ光線!」 「ビビ!」 嬉しそうに飛び出したネスの触角が輝き、あらゆる色に輝きながらヨルノズクたちを圧倒する。 相手は飛行タイプ、接近するだけ意味がないと判断した結果だ。 「勘違いするなよ、ネス。本当に、今回だけだ」 一応釘を打っておくもののネスはやたらと笑顔だ。 久しぶりにバトルができるからか、それともまたトレーナーとしてやる気が出たと勘違いしているのかわからない。 ネスのこんなに嬉しそうな顔は久しぶりに見た。 ヨルノズクのエアスラッシュに対して自らのエアスラッシュで相殺、思念の頭突きは守るで防御。 「すげぇじゃんリク! お前やっぱトレーナーやめるのナシな!」 「お前が勝手に決めるな!」 「何言ってんだよ! 迷ってるから俺が後押ししてやってんだろ!」 迷ってなど――そう言い切れるのか? 迷っていないと言い切れるならあのプロテクターはなんだ? 何を期待しているんだ? 脳みそが働かない。迷っているのかどうかに迷っている。自分が果たして一体何をしたいのか、何を考えているのか。 そういうことに気を取られているからか、死角から突っ込んできたヨルノズクに反応し切れなかった。 それもネスではなくリク自身に対する攻撃。 車椅子ですぐに動けない以上、身体をよじって避けようとした時。 割って入ったフカのアイアンヘッドがヨルノズクの顔面を捉えた。 「大丈夫かリク!」 「あ、ああ。助か――――」 ってないことに気付いた。身をよじって避けようとした時、 よじりすぎて車椅子の車輪が浮いてしまい、そのまま倒れ始めていた。 身体も既にその方向へと傾き始め自力では立ち直れないこと、位置的にクウヤもチリもネスも、 アイアンヘッドを放ったばかりで体勢が整っていないフカも間に合わないこと。 オマケに玄関先にある階段に向かって倒れていること。 何から何まで嫌な条件が重なったその状況はあまり嬉しいものではない。 世界が真横になる。走り寄ってくるクウヤが蹴った小石が額にぶち当たる。ダメだこいつ、あとでしばくことにしよう。 何故だかわからないがやたらと時間が遅く感じてしまうのは、それが自分の生命体としての活動がもうじき終わってしまうからだろうか。 ここで見るべきは走馬灯という奴ではないのか? ふっと身体が軽くなる。それはついさっき見たあの夢と似たような……いや、同じ感覚。 直後に硬い感触に身を委ね、灰色の腕の中でリクは彼の顔を呆然と見上げていた。ゴツゴツしたその岩獣は、進化前と似た表情でじっと見下ろしている。 「ら、ランドル……?」 飛来するエアスラッシュをリクを抱えたまま即座に回避するランドル。 尻尾に当たったが岩の皮膚のため殆どダメージはなく、攻撃してきたヨルノズクに向かって口を大きく開く。ゴゥン、といつか聞いたあの音が口内に響く。 だがそれは記憶にあるロックブラストとは違い、小さな石の連続発射ではなく、尖った岩の連続発射だった。 「す、ストーンエッジ……!?」 岩タイプの大技、ストーンエッジ。やや命中率の悪い技だが威力が高く、急所に当たり易い高性能な技。 三羽ほどまとめて倒し、思念の頭突きを放とうとするヨルノズク五羽に向かって今度は左腕を振り上げ、三羽同時に殴り倒す。 更に残った二羽に向かって光り輝く角を振り翳し、一撃で戦闘不能に追い込んだ。 気になるのは、ストーンエッジもアームハンマーもメガホーンも、全部自分が知らないところで覚えてきたというところだった。 前までは角で突くや乱れ突き、突進しかできなかったのに。 (お前は……やっぱり……) 「リク、ボケっとすんな! チャージビーム!」 連発しているおかげで特殊攻撃力が高まっているチリの一撃が一羽を貫く。 その向こう側で、ランドルに抱かれたリクはじっと彼の顔を見上げていた。 灰色の岩獣は無表情を貫いていたが、その時初めて技以外で口が開いた。 何かを喘ぐように何度も口が空気を取り込むが、結局何も喋らずに再び閉ざしてしまった。 その様子が今までにない、ランドルの違う部分を見せていた。 「お前……まさか、声が出ないのか?」 「…………」 その沈黙が肯定なのか否定なのかわからない。催眠術の予兆を感じ取って放ったストーンエッジ。 その最後の一撃で、暗き夜の狩人たちは逃げ去って行った。 「やっぱランドルも諦めてなかったんだな」 「……何の話だ?」 車椅子に落ち着いたリクの目が、屈託のない微笑を浮かべるクウヤへと喰らいつく。 だがクウヤはそんな目など全く気にした様子も見せず、仏頂面のランドルを指差した。 「だってお前を助けたじゃねぇか。あれだろ?  ランドルは止まれなかったからお前を怪我させた。だから進化したんだろ。そうすりゃ走っても止まれるからな」 「……!」 そうだ、確かにサイホーンなら止まれずとも、サイドンに進化して知能が発達すれば走り出しても止まることができる。 だからランドルは進化した? もう二度と自分を怪我させないように? ……なんだよ、それ。僕が勝手に勘違いしていたってことか? ランドルもネスと同じだったってことなのか? いつ退院して旅に再出発してもいいように、腕がなまらないように自分を鍛えていた? 新しい技を習得していた? 一時でもその存在に近づこうと考えたならば、その時点でポケモントレーナーは成立する。 例え何度道を踏み外そうと、諦めない限り道が消えることはない。終着点に何もないとしても突き進むことに意味がある。 真っ直ぐに駆け上がり、その先にある栄光を掴むために。どれだけ転んでもどれだけ立ち止まっても、例え足が動かなくなっても。 「俺たちの歩む道は、障害だらけだけど確かに続いてるんだよ」 確証も保障もどこにない。そんなものがなくたって、何とかなると信じている。  そして、翌日。 いつも通り窓から眺める風景は変わらず、擦り寄ってきたネスの頭を優しく撫でる。 変わらない風景と同じように、足が動かないリクの境遇も同じだった。 旅に出ると決断すれば足が治るなんていう少しだけファンタジーなことを考えてみるが、無駄だった。 足は変わらない。相変わらずギプスに包まれたまま歩くことができずにいた。 入り込んでくる柔らかな風と優しい太陽に目を細めていると、昨日と同じように彼は再び現れた。 「よ」 だが一つ違うのは、窓枠にへばりついたわけではなく確かにそこに浮いていたということ。 どこからかあのパチリスが窓枠に飛び乗って小さく朝の挨拶をする。 クウヤの身なりと荷物から彼がもう出発しようとしているのは明らかだった。 「もう行くのか」 「おう。なんていったって、俺たちは天辺まで行くんだからな!」 「チチ!」「ギゴゥ!」 どこからか聞こえてくるフカの声。ああ、そうか。そうなると昨日の騒動も無駄じゃなかったということか。 選ばれたその天辺。トレーナーたちの頂点まで駆け上がるその姿勢。 それを少し羨ましいと考えていると、クウヤがこちらを指差していることに気付いた。 「リクも来いよ! 天辺までさ!」 「……え?」 「俺たちは飛んでいくけどさ、お前は走って来いよ! 俺たちは天辺で待ってるからよ!」 だから僕はもうトレーナーは――口がそう紡ぎかけた時、ネスの何故か奇妙なほど明るい顔が目に付いた。 いつもだったらこういう時、やたらと暗い顔をして落ち込むことが多いネス。だが今は目を爛々と輝かせて、まるで……そう、信じているみたいに。 言葉が喉の奥へと引っ込んでいく。……どうしたらいいんだ。僕は一体、どうしたら……。 「僕はどうしたら――」 「関係ねぇよ!」 どこからか看護師が飛んできて苦情を言いそうなぐらいの声だった。窓枠にガツンと足を乗せて、豪快に指差してまた大声を撒き散らす。 「足が動くとか動かねぇとか関係ねぇ!  要はお前がトレーナーを続けたいのか続けたくねぇのか、そのどっちかだろ!!」 「……ッ! つ、続けたいに決まってるだろ! でも僕の足は……」 クウヤに釣られたのかどうかわからない。いつの間にか大きくなる声と、それに比例して大きくなる心の奥底にしまってあった気持ち。 引きずり出されるみたいに口から出てくる言葉。理解できなかったんだ、自分の言葉を。自分の本音を。 「僕の足は動かない! 自分の身体なんだ、一番よくわかってるんだよ! 僕の足はもう――」          ――――――       イァ……ヒアゥ……ヒァァア……! 掠れたようなその声。空気を十分に取り込んでいるものの、傷付いた声帯で作られる声は全て逝ってしまっている。 シンオウ地方のコトブキシティが誇る巨大病院に轟く、その弱々しくも確かな意思が宿った声は確かにランドルのもの。 声が出ないはずなのに、それでも無理矢理捻りだし、彼は愛するトレーナーへとそれを告げている。   自分はここにいる、と。自分がお前の足になる、と。 「……僕は歩かない」 「おい!」 「車椅子とランドル。この二つで地べたを這いずり回ってやる」 一度は見かけた夢。トレーナーを目指した以上、どこまでも駆け上がってやると誓って進んだ道。 ……もう歩けない。でも歩いてみせる。歩けないけど歩いてみせる。 あいつがその道を示してくれたのだから。声が出なくても、仏頂面でも。あいつは常に先の先を見つめ続けていたんだ。 「言っておくが、ランドルたちの意思を尊重しただけだ。お前の誘いに乗ったわけじゃない」 「……お前って、全然素直じゃないのな。リク」 「うるさい黙れ、とっとと行ってしまえ。クウヤ」 空を飛び、地を走り。時には海も越えてポケモントレーナーは突き進む。 ただ只管に夢を見つめ、夢を語り、夢を鷲掴みにする。 血みどろになろうが諦めずに、その中で歩み続ける自分に更なる可能性を見出す。 ポケモンを助けてポケモンに助けられ、そんな関係の中で更に自らを昇華させる。 地べたを這いずってもいいじゃないか。足が動かなくてもいいじゃないか。 だからこそ見えてくるものだってたくさんあるんだ。かっこ悪い? 知ったことじゃない。 車椅子で外に出ると、ランドルはいつも通り仏頂面でそこに立っていた。 声が出ず、他のポケモン以上に意思の伝達が難しい境遇にあるサイドン。ネスが彼の頭の上に止まって小さく鳴いた。 リクはじっとランドルを見上げる。ランドルもじっとリクを見下ろす。程なくしてから、リクの口が静かに開いた。 「……すまなかったな。お前のことを疑った」 「…………」 「僕はトレーナーをやめない。ネスはもちろん、お前の力も貸して欲しい」 ランドルの顔をここまでじっくり見たことはなかった。意外にも優しい目をした彼は、綺麗な相貌を持ってこちらの姿を映している。 勝手な勘違いを押し付けられて、さぞ嫌な思いをしただろう。だから、というわけでもないが。 「ランドル、お前にプレゼントがあるんだ」 走ろう。あの時みたいに失敗しないで、どこまでも走っていこう。誰も追いつけないくらいの速度で、ずっと、ずっと向こうまで。 ランドルの激しい足音と共に、もう一度大地を蹴りつけていこうじゃないか。  クウヤが待っている天辺まで、迷わずに全速力で―― 風と空。その中を突き進む群青色の影の上で、冷たく強い風を受け続ける。 そのガブリアスはようやく飛べるようになったことが嬉しいのか、人が乗っているにも関わらず規格外なスピードでぶっ飛んでいた。 マッハポケモンと呼ばれるだけあって進化したてでもかなりのスピードが出ている。 テンション高めなフカの上で、クウヤはふと思う。フカさん、もうちょいスピード落としてくれないと顔面が変形するんですが。 「なぁ! あいつらなら来れるかな!」 「チッチチ!」 「っていうか、俺らがそこまで行かないといけないけどな!」 「ギグ!」 飛行中のため喉を痛めながらの会話。……フカさん、マジでスピード落としてください。 真っ青な世界はどこまでも広がっており、どこまでも飛べそうだ。 渦巻く雲がまるで壁みたいに立ちはだかってその道を塞いでいるようにも見えたが、関係ない。今の自分たちなら貫いていける。 思い切り吹き付けてくる強風の中で、クウヤは当たり前のように言った。 「よし、行くか! 天辺まで!!」  誰もが願うその領域へ、全速力で。立ち止まらずに、ただ夢中に駆け上がっていけ。  大地でも大空でも、そこに道がある限りどこまでも走っていけるのだから。  知らない大地も、知らない大空も。どんどん駆け上がって新しい大地と大空を見つけよう。  その先にあるはずの天辺に手を伸ばせ。そして掴み取れ。  約束したその場所で、またいつか―――― 「あ……ちょ、フカ? なんかフラフラして……おいめちゃくちゃ傾いてってあああああああ! 落ちるぁぁあ!!」 「ギゴォォオオォウ!?」「チィィィ!?」  「……何か聞こえなかったか? ネス、ランドル」 「ビビ……?」「…………?」