――――      死ぬ。そう、死ぬ。 私は心の中で何度も己の人生を呪った。生まれた場所も生まれた理由も、何もかもが憎くして仕方ない。 私と言う存在に果たして意味があるのかどうか問い正しくても、もう私の声は誰にも届かない。 私は汚れている。身も心も赤黒く、目的遂行のためならば手段を問わない世界で生きてきた。 牙を研ぎ爪を光らせ力が支配するその場所は、そこしか知らない私にとって居心地の良い悪いが左右する場所ではない。 血に塗れているんだ、私は。 だからシトシトと降り続ける雨はどこか心地よいものがあり、何もかも洗い流してくれるようだった。 動かない身体、雨に濡れた大地のぐにゃりとした感触。それが今の私にとって最期の感覚であると自覚する。 眠たいんだ、もう眠りたい。いや、これは楽になりたいというのが本音だろう。 霞んでいく視界に投げ出された左手。その先にある真っ赤に染まった爪。 これは私の罪の象徴。私がやらかした許されない確かなる証。 私は私自身が罪を犯したことを自覚しているし、それから逃げるつもりもない。 例え心優しい奴が「仕方なかったんだろう?」と言ったとしてもそれに甘える気もない。 今の自分が逃げるという行動から出来上がっているのも確かだが、もういい。疲れた。 だから、おぼろげな視界の中に大きな山のような何かが入り込んできた時。私はそれが迎えの死神だと認識した。  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜      真っ赤な居場所で  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 果たしてどうしたものか――彼は焚き火の向こうにいるそいつを見下ろしたまま、じっとそんなことを考えていた。 その巨体でも入れる大きな洞窟の向こうでは、未だに粘つくような雨が降り続けている。 降り出した雨は面倒なものでしかないし、何より嫌いだった。簡単に言えば、苦手だ。雨がというより水が。水分が。 別に無理に雨に濡れる必要もなく、彼は走ってねぐらまで帰ることにした。 この無駄に大きい足音もどうにかならないかと考えたこともあったが、 この身体になっちまった以上はもう戻れない。彼は走っていた。只管走っていた。 その道中だった。そのニューラを拾ったのは。 (この辺りにニューラなんていねぇし……) 太陽に照らされたような漆黒の身体。細身の腕の先には鋭利な爪。 本来ならピンと立っている羽飾りのような左耳も、濡れているためかへたれていた。 細い全身に傷を負っているニューラ。 だが彼の目からすればニューラは全身に一発、強烈な一撃を受けたかのように見えた。 (やっぱ……うん、無視はできねぇよなぁ) そしてもう一つ。傷の目立つ身体よりもそっちのほうが気になってしまう。 (血……だよな、やっぱ) そう、血。ニューラの前足、鋭利な爪にべっとりと付着していたのは確かに真っ赤な血液だった。 自分の鼻は臭いから何の血か判別する力はない。だから一体何を斬ったのかわからなかったが、 確実に相手は重傷を負っていることだけはわかる。 深く斬り込んだのか爪の内側にまで血がべっとりだった。 厄介なものを拾ったんじゃないか? 脳裏を不吉なものが駆け巡っていくがそれを全部無視し、 今になって焚き火で温めるってのはどうなんだろうかと不安になってきた。 雨に濡れていたからとりあえず温めるるべきだと思って火を熾したが、 よく考えたらニューラは氷タイプ。火や熱に弱いんじゃないのか? (……あー、どうすっかなこれ。死んだら俺の責任か? いや違うだろ。……違うか? やべ、自信なくなってきた)  ニューラが、静かに目を開けた。 (ん……) 死んだと思っていた。もうこの世に空気を吸うこともないだろうと思っていた。 温かな火が視界に飛び込んできて、ニューラの目が焚き火の向こうに見えた大きな影を捉えた。 ゴツゴツした緑の岩の身体。 鎧と称するに相応しいの身体は所々に物々しい突起物が幾つか見え、太く長い尻尾もあった。 ……思考が瞬時にしてその存在の正体を突き止める。 今まで沢山のポケモンを見てきたし、これでも結構物知りなほうだった。 故に、私は動かしづらい身体が確かに緊張していることにも気付いていた。 鎧ポケモン・バンギラス。破壊の暴君とまで称される、極めて凶暴性の高い野山の王者だった。 あらゆる攻撃を弾く硬い身体を武器にして、強き敵を求めて山を彷徨い、容易く地形を変える腕力を持つ。そんなバンギラスが今、目の前にいる。 「おお、目ェ覚めたか。なんつーか、俺怪我の治療なんざ慣れてねぇから見よう見真似でやったんだ。平気か?」 何て返したらいいかわからない。目の前の破壊の暴君はその名とは正反対の気質を持っているようで、 とても穏やかな性格をしていた。少なくとも目の前の全てを破壊し尽くすようなバンギラスではない。 ただただ壊すことだけを考えるバンギラスが、木の実の汁を利用した適切な処置を知っているはずがないのだ。 バンギラスとしてはそれがただの常識でしかないのだが。 確実に効果がある薬となっている汁を擦り込まれた身体を見下ろし、ニューラはもう一度彼を見上げた。 「……ここは?」 「俺のねぐらだ。俺しかいねぇ」 「私を拾ってからどのくらい経っている?」 「んー、そんな経ってねぇよ」 「お前は誰だ?」 「…………なぁ、俺にも質問させてくんねぇ?」 ぼそっと抗議する破壊の暴君は、居場所をなくしてつまらなそうにしている人間の子供によく似ている。 人間の子供をじっと観察したことがあるわけじゃない。そんな境遇でもない。 自分にとって大事なのは自分が置かれている状況であり、相手に質問をさせる必要はない。 だが相手は一応自分を助けてくれたポケモンだ。一応だが。ニューラは一度軽く目を伏せてから、 「何だ?」 「お前どっから来たんだ? 名前は?」 「どこから来たかは言えない。名前もない」 「携帯獣刑務所からか?」  ――冗談でも言えないことだ。だからニューラは確信した。このバンギラスは自分が何者なのか七割方把握している。 携帯獣刑務所。その名の通り、犯罪を犯したポケモンの刑務所である。 自ら罪を犯した者、トレーナーの指示に従い罪を犯した者。 その全てが一時的にここに入れられ、その後の処遇が決まるのだ。 「……何故わかった?」 「雰囲気と、血」 たったそれだけで自分を犯罪者と決め付けたのが気に食わなかったのかもしれない。 いや、絶対に気に食わなかっただろう。彼女は暫し黙り込んでしまった。 間違っていないだけに反論できない、とニューラは自らの罪を恨んだ。洞窟の入り口付近に出来た水溜りに爪を突っ込み、血を洗いながら振り返る。 「ならばわかるだろう。私は罪を犯し、拘束され……看守の人間を斬り殺して脱獄した。  何故私を拾った? 何の利益もないだろう」 「うわっ、お前めんどくせーな。別にどうだっていいだろ。  お前が過去に何やってようが人間殺していようが、俺にとっちゃ関係ないっての。  あ〜あ、失敗だぜ。こんなめんどくせー奴なら拾わなきゃよかった」 他にもいろいろ愚痴りながらその巨体を横にして、ボリボリと鎧のような甲殻を掻くバンギラス。 特に大きな考えなんて持たず、その場の直感で動いただけに過ぎない。 ニューラには理解できなかった。何も考えずに動くなんて。ただの愚の骨頂でしかない。 「……それは何だ?」 「あ? これか?」 ふと目に入ったのは、バンギラスが腕に巻いた紐に括ってある奇妙な物体だった。丸みを帯びて尖ったそれは何かの牙のようにも見える。 「これはまぁあれだ、お守りって奴だな」 「お守り?」 「俺の仲間だった奴から貰ったもんなんだよ。もう死んじまってるけどな」 そんなことをあっさりと口にすることも、ニューラには理解できなかった。 形見を大事に持ち続けられるぐらい彼はその仲間のことをよく想っていたのだろう。 仲間――自分にそんなものがいただろうか。 いたのは偉そうに指示を出す愚かな人間と、それに悪態をつきながらも従う自分と同じ境遇のポケモンたちだった。 全員名前なんてない、倒すべき相手をただ倒すだけの存在。 だからニューラは、彼に興味を持った。自分にはない何かと、信じられる仲間を持っていた彼に。 「……お前、名前は?」 「俺ん名前? フェイクってんだ」 昨日の雨は今日まで続くのではないか思っていたが、意外にも晴れてくれた。岩タイプの彼にとっては雨ってのは鬱陶しい以外の何者でもない。 まだ水溜りも消えていない早朝だったが彼にはやらなければならないことがあった。食事の調達だ。 バンギラスのフェイクからすれば食事とは土とか岩石とかそういった類だが、一匹同居人がいる。 幸いニューラが食べる物についてはよく知っているため、うまい木の実が生る樹木にがっついていた。 名前もない前科者のニューラだが、怪我をしているとなると世話をする役目が必要になる。 (やっぱ……似た者同士だからか……) あのニューラは同じ臭いがする。木の実を採りながらそんなことを考える。彼女が一体何をしてきたのか。 看守を斬り殺したことぐらいしか知らないが、それでも『その道』を辿った者の雰囲気で理解できる。 と、採ろうとした木の実に別の誰かの手が掛かっていることに気付いて反射的に手を引いた。 「あ?」 「む……すまん」 高い背丈を利用して木の実を採っているフェイクとは別に、直接枝の上に乗って採取しているポケモンがいた。 青と黒で彩られた犬に近い顔がこちらを見下ろしている。 「いや、別に横取りしようとしたわけじゃない。これが欲しいなら譲るが」 青を基盤とした身体、手や足だけが黒く染まったその姿。身長は人間の子どもくらいだろうか。 「いらねーよ。……なんだお前、見ねぇ顔だな」 「それはそうだろうな、この辺りは初めてだ」 木から飛び降りる時の身のこなしとか、目つきとか雰囲気とか。 その辺を全部ひっくるめた結果、彼が野生ではないと予想した。 両手に持てる限りの量の木の実を抱えた青いポケモン――ルカリオ。野生でないとなるとトレーナー所有のポケモン。 そんなポケモンが何で一人で木の実を? 食糧が尽きたか? (いや、違ェな……) このルカリオはかなりレベルが高いように見える。育てたトレーナーも相当なものだ。 そのトレーナーが食糧を切らすような真似をするはずがない。 「一つ訊きたいことがあるんだが、いいか?」 「んあ?」 「この辺りで、傷を負ったニューラを見なかったか?」 フェイクの予想は的中した。森のポケモンじゃない、しかもトレーナー所有の高レベルポケモン。 脳裏を駆け巡るのはニューラの傷。強力な一撃によって付いたあの大きな傷。 フェイクは一瞬だけ迷ってから、ルカリオの問いに対して首を横に振ることにした。 「いや、知らねぇな。そのニューラがどうかしたのか?」 ――ルカリオの雰囲気が明らかに変化して、フェイクは久しぶりに恐怖を感じた。 戦場に充満して晴れることのない、敵意と殺意が織り交じったあの嫌な感覚。一秒に満たない一瞬。 彼がその気になれば、自分は地面に頬を擦りつけていたかもしれない。 だがその感覚が自分そのもの対するものではなく、自分の何気ない質問に対するものだったから助かった。 「……とにかく、そのニューラには関わらないことだ」 短い別れの挨拶も付け加えて去っていくルカリオの後ろ姿を、フェイクは黙って見つめていた。 ニューラに傷を負わせたのはあのルカリオだ、そう脳みそが確定している。 ニューラの傷の具合から考えて、あれは格闘タイプの大技をくらったものだ。それも胸のど真ん中。 ニューラが人間一人斬り殺せるぐらいの技量と度胸の持ち主だとすれば、如何に素早い攻撃が来たとしても避けようとするはずだ。 ならばど真ん中に攻撃を受けるはずがない。 つまり、ニューラを襲った技は『絶対命中技』だったということ。 それもニューラに対して効果がでかい格闘タイプの技。 (波動弾はそんなほいほい覚えられる技じゃねぇ……。さっきのルカリオがニューラを探してる。だとすれば……) フェイク。それはつまり偽物を意味する言葉だ。自分が全く違うものであることを差すという意味でもある。 何故『偽物』なのかと訊いた時、彼は笑って誤魔化すだけだった。 (何なんだ、あいつは……) 洞窟の外は昨晩と違い空、雲、太陽の下で輝いていて、ニューラは思わず目を細めた。強い光は何故か苦手だった。 いつも闇の中で蠢いていた所為かもしれないが、その闇というのも実在の闇ではない。世間的な闇だ。 誰にも気付かれず、気付かれた時はそれを闇の中に葬る世界。だからこそ、なのだろうか。陽光が眩しいと感じるのは。 胸の傷はまだ完治していないが、痛みが走ることはなくなった。 昨晩はじっとしているだけで痛んだが、今では多少歩いても平気なぐらいだ。 (あと二日……三日か、これが治るのは) 治ったらすぐにここを発つ。そして逃げる。逃げ続ける。罪を犯し、そして罰から逃げ出してここにいる。 だが終着点はここじゃない。見えることのない終わりへと行き着くためには、常に万全の状態を維持する必要がある。 怪我をしたなら治るまでそこを動かず、治れば全力で駆け出していく。これからそういう生活が待っているのだ。 だから彼女は待ち続けた。フェイクが持ってくる食事を。傷を癒すにはとりあえず中から調子を取り戻さねば。 「よ」 洞窟から顔を出した時、ちょうど目の前に現れた小山のような影。 食糧調達から帰ってきたフェイクの腕の中には色とりどりの木の実が輝いていた。 「そういやぁよ。木の実採ってる時、妙な奴に会ったんだ」 フェイクのその言葉に、ニューラは手に取っていた木の実を落としそうになった。 指先が冷たくなってまるでそこだけ凍結状態になっているような。 冷気がどんどん体表や内臓を侵食してその全てを凍らせてしまいそうな。 氷タイプのクセに我ながらアホらしいことを考えるが、次に突きつけられた言葉に本当に凍りそうになった。 「ルカリオがお前のこと探してたぜ」 知ってか知らずか。恐らくフェイクは自分の状況について半々ながら気付いている。 「……それはどこでの話だ?」 「こっからそこそこ離れた場所にあるでっかい木のとこだ。そいつにニューラには関んなって忠告された」 真っ赤な木の実を丸飲みにした彼の視線が食らい付いて来る。 傷が痛い。ギリギリの身体の中で暴れているような感覚だった。 自分が携帯獣刑務所から脱獄したあと、とあるトレーナーのルカリオによって重傷を負わされたこと。 そして今もそのルカリオとその仲間たちから逃げていること。フェイクは全て知っている。 「他に……何かいたか? トレーナーとか、ポケモンとか」 「いや、ルカリオだけだ」 ルカリオだけ。……そんなはずがない。自分を追っているトレーナーは六匹のポケモンを二匹ずつ三つに分けている。 その全てが索敵と戦闘の二つの役割を持っている。戦闘役のはずのルカリオがいるなら、近くには索敵役がいるはず。 逃げなければならない。そう考えた時、フェイクが奇妙なことを口走った。 「そういやぁ、また今夜は雨だろうな」 「?」 「今は晴れてるけど……ほら、向こうの空に雨雲が見えやがる。風向きからして今夜くるぜ」 確かに、風向きを考えれば今夜にもあの雨雲がここの上空を通過するだろう。 フェイクが何故そんなことを言ったのか数秒理解できなかったが、なんてことはない。彼は自分の背を後押ししたのだ。 雨というのは逃走に便利なのだ。視界は悪く臭いを残さず、足音も足跡も消してくれる。 今までだって長距離逃走は全て雨の夜を選び、全身ずぶ濡れになりながらも突っ走ってきた。 今回も果たして大丈夫か――この怪我ではいざあのルカリオと戦闘になった時、確実に負けるだろう。負ければ――…… 考えたくもない。 今夜にでも逃げろ。フェイクはそう言っている。  ―― みんながみんな、居場所を求めているんだ。  再び訪れた夜。ニューラを拾った昨日と同じ、雨の夜だった。 「……雷まで鳴り出してきやがったか」 雷は彼の予想以上だった。強めの雨が降ることはわかっていたものの、雷、更には強風が森の中で咆哮を上げていた。 雨、雷、風。ニューラが逃げるにはもってこいだが。 雨が身体を打ち続けているがその辺りは無視して、フェイクは柔らかくなった地面を踏み締めたまま獣道のずっと向こう側を睨み続けていた。 雨が臭いと足跡を消し、雷と風が足音を消してくれる。 空は暗い灰色の雲が覆い尽くし、その向こう側にうっすらと輝く月光だけが森を照らす灯りとなっている。 目は既に夜の闇に慣れ、月光の助けもあって十分に視界を確保できた。 追跡する連中も視界を確保できるということだが、ニューラだってそうだ。彼女は逃げ切る。絶対に逃げ切れる。だって彼女には―― (雨が強くなってきた……) 雨の中の疾走は慣れたものだった。ただ只管前を睨みながら速度を落とさず森を駆け抜け、絶対に振り返らないことを心に誓った。 フェイクに言われたからだ、絶対に振り返るな。これを持って逃げろと。 腕に巻いていたお守りの紐を短くして自分の首にかけたフェイク。 お前を絶対に守ってくれる、などと何の根拠もないことを言いながら仲間の形見を押し付けてきた。 大事なものなのだろう、何故私に? そう問い掛けると、フェイクはまた笑ってこう言った。 「俺も似たような状況になった時、こいつを握り締めてたら助かったんだ。だからお前も助けてくれる」 訊かなかった。こちらの事情を深くは聞いてこなかった彼に習い、ニューラも彼に何も訊かなかった。  空が光り、轟音が轟く。 「よぉ、やっぱ来やがったな」 この獣道に奴らが現れることはわかっていた。森の外へと続く獣道の中で一番最短なのがこの道だし、ニューラでもわかりやすい。 つまり、ニューラが走っていったこの道で張っていれば連中の道を塞ぐことができる。 林の中はここが初めての連中には移動しづらい。絶対に獣道を選ぶ必要性が出てくる。  空からの閃光が輝く中、目の前に現れたのは予想通りのルカリオ。と、予想外の鳥ポケモンが一羽。 「……やはり、あのニューラと関わっていたか」 昼間、フェイクと同じ木から食料を調達してたルカリオ。 あの時の声色とはちょっと違う、暗がりの奥底から響くような重い声。 フェイクは心の中で頭を振った。一体何を――何を今更。何に恐怖するって? 「俺の予想通りだったな、ホルン。やはりこのバンギラスを見張っていればすぐに済んだ。お前らしくない」 フェイクからすれば、ルカリオよりもホルンとかいう鳥ポケモンのほうが怖かった。 この目は嫌いだ。何でもかんでも見透かすような嫌な目が、角みたいな羽毛の下でギラギラとこちらを睨みつけてくる。焦げ茶の翼は微動すらしない。 例えタイプ的には勝っているとしても、フェイクはどうもそのヨルノズクが好きになれなかった。 「例えこのバンギラスがニューラを匿おうとも、結局は同じこと。夜になって動き出すまで捕らえることは難しい」 ホルンの首が何度も左右に回転を繰り返しているのは、何か考えてるのか考えていないのか。 表情一つ崩さずにホルンは言葉の向きをフェイクへと向けた。 「私の名はホルン。こちらはルカ。お前の予想通り、私たちは警察機関に依頼された主の命により、あのニューラを追っている」 言葉は多少やわらかいが目が笑っていない。やはり嫌いだ、こういう奴は。 相手に静かに問い掛けておきながら、心の中ではこちらの全てを探ろうと根を張って待ち構えている。 「お前の名を教えてくれないか?」 「……フェイクだ」 「そうか、フェイク。質問を幾つかさせてくれ」 質問させろ。ホルンの目はそう言っている。フェイクの首が横にも縦にも振れる前に次の言葉を突きつけてきた。 「一つ目。お前があのニューラの味方をしている。これに間違いはないかな?」 「……だったらなんだってんだ」 あくまでふてぶてしい態度を取るフェイク。ホルンは全く構わず続けた。 「二つ目。お前はニューラが一体何をしたために収容されていたのか知っているか?」 「知らねぇな。別に興味もねぇ」 「そうか。ならば三つ目。これで最後だ」 その瞬間、ルカリオの時以上に恐怖を感じた。月光と雨、風、雷が支配する空間の中、ホルンの目は更に危険な光を放っている。 再び稲妻が森を眩く照らす瞬間、落ち着いているが確かに敵意を含んだホルンの声が聞こえた。 「貴様にそこをどく気はない。そうとっても結構か?」  「!」 後方から聞こえた轟音に、ニューラは思わず立ち止まった。 雷ではない、強烈な一撃が何かに炸裂したような、そんな音。首にかけた牙のお守りが揺れる。 このお守りを押し付けたフェイクは森から最短で脱出できる獣道を教えてくれた。 連中はまだ目標が森の中にいると思い込んでいる。今の内に脱出すれば逃げ切れる。ただ逃げる。そう、逃げるだけのはずだ。 だがもし、フェイクが自分の逃走経路に居座っていたとすれば?  追跡者たちと遭遇し、そのまま戦闘に突入したとすれば? 間違いなくフェイクは負ける。 相手はあのルカリオのルカ。ルカの戦闘力は並みのレベルではないのだ。 (引き返す……!?) 一体何を考えている。今から引き返しして一体何をしようというのだ。 それにもしその予想通りだとしてもフェイクが勝手にやったこと。自分が頼んだ覚えはない。 私は一人、これからも一人。一人で戦い一人で逃げ一人で生きていく。そのはずだ。 (私、は……) 一体何に迷っているのか。自分で自分が理解できなかった。 「……いきなりぶちかますたぁなかなかいい野蛮っぷりじゃねーか」 フェイクの荒々しい視線がルカへと突き刺さる。ホルンの言葉の直後、有無を言わさず技を放ったルカ。 今の一撃で沈めるはずだったルカからすれば、防御されたことはあまり気に食わない。 食らいついてくるフェイクの眼光とルカの鋭い眼光が交錯する。 再び同じ技を――掌の間で青白く輝く球体を作り出す。 これこそ、ニューラに一撃で大怪我を負わせたルカリオならではの技だ。 体内を流れるエネルギーを球体に変え、敵にぶつける技。それもオートで追尾するという超高性能技。 突き出すようにして放たれたその技が、真っ直ぐにフェイクへと伸びていき。身体を回転させるように放たれた尻尾の一撃がその球体に炸裂して沈黙する。 「アイアンテールによって硬化した尻尾に防御に使う、か。避けられぬ以上はそれが得策だろうな」 あのバンギラスは予想以上にいい動きをする。 ホルンの知識としてはバンギラスは高い攻撃力で有名だが、動きは鈍重のはず。 ルカの不意打ち波動弾を即座にガードできるとは思っていなかった。 「ルカ、奴もなかなかできるようだが……行けるな?」 「当たり前だろう」 「よし、手早く潰せ。私は上空からニューラを捜索――」   できない。そう、今この一瞬で出来なくなった。   突然吹き荒れ始めたのは茶色の風。   自然現象として吹いていた風に乗り、更に勢いを増すその奇妙な風の真ん中でフェイクがニヤリと笑った。 「別に行ってもいいぜ? 見つけられるもんならな」 「砂嵐か……」 確かにこの砂嵐の中では上空からの捜索は難攻する。如何に闇に優れているヨルノズクの目でもだ。 しかもこの砂嵐はバンギラスの特性『砂起こし』で発生させたもの。 フェイクが自分から解除するか、それともフェイク自身が倒されない限り止むことはない。 「厄介なことをしてくれる……。ルカ!」 「ああ」 飛び出したルカの右足が火炎に包まれる。雨の中でも衰えない灼熱の蹴撃がフェイクの腕を捉えた。 「火ィなんか効くかっての!」 「そうだろうな」 違う。このブレイズキックに殆ど威力なんて乗ってはいない。 つまりは囮――ルカの左手に先ほどと同じ技が展開していた。 「波動弾」 至近距離で放たれた青白い球体がフェイクの胴体にめり込んでいく。 キックを受けた状態となると波動弾の発射位置も恐ろしく近くて、当然尻尾の防御も間に合わなかった。 変な息が漏れて視界がブレる。内臓も変な悲鳴を上げてありえない形に捻じ曲がっていくような感覚。 片膝をつくがまだ倒れないフェイクにホルンがほう、と興味津々に呟いた。 「意外だな。いや、流石は岩タイプといったところか。大した防御力だ」 「だが、もう終わりだ」 波動弾の直撃。岩と悪の属性を併せ持つバンギラスに格闘タイプの波動弾は通常時の四倍の威力を発揮する。 如何にバンギラスの強固なボディとはいえダメージが大き過ぎる。 ギリッと歯軋りさせながら立ち上がろうとして、何故か立てないことに気付いた。 内臓の変な悲鳴は続いているが立てないほどではない。 足もまだしっかりしている。だが、立てない。 「二発。お前が俺の波動弾を尻尾で受けた回数だ。  尻尾を持つポケモンは無意識に尻尾でバランスを保っていることも多く、お前のように太い尻尾ならば尚更だ。  その尻尾が使い物にならなければ必然的に立てなくなる。ダメージが来るのが少し遅かったようだがな」 ルカの言う通りフェイクは自分の尻尾に感覚がないことを自覚する。 まるで切断されてしまったかのように何の感覚もない尻尾は、力も入らず地面に転がっているだけだった。 「一つ訊こうか、フェイク。お前があのニューラに肩入れする理由はなんだ?」  今まで逃げ続けてきた。振り返らずに、只管逃げ続けてきた。 (今だって……逃げればいい……) そんな単純なことなのに足を止めてしまっている自分がいる。 何でだ。何で足を止めている。たった一日一緒にいたバンギラスに一体何を考える。 だがそれでは刑務所から逃げ出した時と同じ理屈になってしまう。 あの時自分以外の全てを見捨てたのはそれら全員を仲間だと思っていたわけじゃないから。 中にはその境遇を楽しんで受け入れている連中も多い。 だから一人で逃げた。自分がいるべき場所はここではないと信じて。 (私の居場所……) それが果たしてどこにあるのかわからない。 あらゆる罪を犯した自分が身を置ける場所なんて限られているのに、それでも居場所を求めている。 自分がいていい場所。それが既に自分から手放してしまっていることに気付いていない。手が自然とフェイクがくれたお守りを握っていた。 「あのニューラはとある地方で暗躍していた犯罪組織、その幹部の所持ポケモンだった。  様々な罪を犯したあのニューラを庇うメリットなど何もないぞ」 ホルンの嘴が紡ぐ言葉がずかずかと耳に入ってくる。 あのニューラが犯罪組織のポケモン。それも幹部ともなれば、一通りの罪は犯してきているだろう。 確かにそんな犯罪ポケモンを庇ったところで何の特もないに決まっている。  だから、どうした。 「は……なるほどな。だから似たような臭いしてやがったのか、あいつ」 「……何?」 首を傾げるルカを他所に、フェイクは何とか強引に立ち上がる。 波動弾を二発受けて動かない尻尾だが、慣れれば立てないこともない。 三発目の直撃が相当効いているがそれも全て無視した。 「俺ァあいつと同じだ、居場所がねぇんだ」  ――ニューラと同じように犯罪組織のポケモンで、ニューラと同じように罪を重ねた経験がある。 だからよくわかっている。一つしかないどす黒い居場所から抜け出したとしても、真っ白な世界に居場所が見つからない。 汚れた手はいつまでも後を引いて消えてくれない、だから逃げ続けるしかないんだって。 一緒に逃げたあいつ――お守りをくれたあいつも死んでしまって。それでも逃げ続けた。 居場所を見つけるために、汚れた自分を偽るという意味からフェイクという名まで名乗って。 「居場所がないと安心できねぇ。居心地のいい居場所を見つけられなかった俺と同じ道を歩かせる気はねぇ。  だから立ちはだかってんだよ、あいつがあいつの居場所に辿り着くその時間稼ぎのためになァ!!」 動かないはずの尻尾を無理矢理突き動かし、フェイクは二匹の前に壁として立つ。 ニューラが逃げるための時間を、少しでも得るために。 「撃ってこいよ、波動弾」 「!」 「幾ら撃ち込まれようが俺は倒れねぇぞ。この砂嵐も絶対に解除させねぇ」 満足に立ってすらいないフェイク。 前のめりになったその姿はいつ倒れてもおかしくなくて、ホルンは一度大きく首を回した。 「例えお前が過去に何を体験していようとも、私たちの脱走したニューラを捕らえるという任務には何も影響を与えない」 「ホルン……」 「撃て、ルカ。目の前の障害を排除しろ」 一瞬だけ躊躇するものの、ホルンの言う通り波動弾の準備に入る。フェイクに体力は残っててはいない。アイアンテールによる防御も不可能。 青白い光がルカの手の中で神々しく輝く中、ホルンの呟きが聞こえた。 「お前はバカ者だ、フェイク。お前は何もわかっていない」 球体となった光が一直線にフェイクへと飛来する。 いつの間にか肩膝までついてしまっている身体、得意の近接技で防御しても意味がない。 だったら、波動弾が当たる前に潰せばいい。 ガパッと開かれたフェイクの大口。その中で輝く闇色の渦。 青白い光の向こうではっきりと確認できるそれは、波動弾と同じように球体を成して振動音を奏でる。 波動弾と全く真逆の性質を持つ、波動。 「闇の波動!!」 波動弾に対抗できる唯一の技、闇の波動。それが放たれる瞬間奇妙な眩暈を感じて、フェイクは己の負けを悟った。 突っ込んできた波動弾が顔面に炸裂して、重く動かなくなってきた身体が頭に釣られて後ろに吹っ飛んで。フェイクは仰向けに倒れていた。 「誰もが皆、心地よい居場所に行き着くわけではない。今ある居場所に妥協することも大事なのだ」 催眠術か。悪の波動が放たれる瞬間、催眠術をかけて思考を鈍らせた。 これにより悪の波動が不発に終わってしまった。 負けた。もう壁にはなれない。砂嵐も消えた。 「居場所がないというのなら、お前だって探しにいけばいい」  懐かしい、声。 「お、お前……!」 「私もヤキが回ったものだ。引き返してきた理由が未だにわからない」 割り込んできたその小さな影。 フェイクはその影が現れた理由が理解できなくて、ただ呆然と影を見つめていた。扇みたいな襟巻きがやたらと目に付いてくる。 「すまんな。お前がくれたあのお守り、失くしてしまった」 ニューラは既にニューラではなかった。フェイクが持たせた牙……ではなく、爪の効果によってその姿を変えていた。 マニューラ――そうだ、彼女と同じだ。フェイクにお守りを持たせてくれた、あのマニューラと同じなんだ。 「お前何で戻ってきてんだよ!? 俺がどんだけ頑張ってここで壁になってると……!」 「だからわからないと言っただろう。大体壁だと? 寝転がっているのにか?」 「う、うるせぇ! またこれから立って壁になるつもりだったんだよ!」 マニューラに対して犬みたいに吼えながら立ち上がるフェイク。 今までのダメージを考えれば立てないはずだ、だが何故フェイクは立ち上がれた? ルカには理解できなかった。  だが目標が目の前に現れたことは好都合。 「ホルン!」 「ああ」 どこか気乗りしていないような気もするホルンの返事に多少違和感があったが、とにかく目の前のマニューラを捕まえる。 それが主から下された指示だ。だが構えを取るルカに対し、ホルンは何も行動を起こさない。それどころか、 「帰るぞ」 「……は? 何を、言ってる?」 じっとフェイクとマニューラを見つめるホルンと、その明らかにおかしな発言に狼狽するルカ。 「帰るぞ。私たちの任務は完遂不可能となった」 「いや、だから何を言っている!? 目の前に目標の……」 ――ああ、そうか。と額に手を当てて項垂れるルカ。 そうだ、ホルンは真面目で冷徹な性格を顔に貼り付けているクセに、時々やたらと人間臭くなる。 そんな自分も彼と長くいるためか、随分と人間臭くなってしまった。 「俺たちの目的は、脱走したニューラの捕獲。だが目の前にいるのはマニューラであり、捕獲の対象ではない」 ルカからの進言。 どこか微妙にズレているというかなんというかよくわからないその言葉に、マニューラが当然くらいついた。 「どういうつもりだ、そんな理由で今までの苦労を――」 「私たちはお前を凶悪な脱走ポケモンとしか聞かされていなかった。居場所を求めているなんて聞いてはいない」 まぁ当然だろうがな、と付け加えておく。今度はフェイクがくいついた。 「同情したつもりかよ」 「……そうだろうな。同情に近い」 マニューラの爪がギラリと光ったがそこは何とか押し留めておく。 同情だろうがなんだろうが見逃してくれるならありがたい。 変なプライドも何とか心に奥底にしまったマニューラが顔を上げる。 「居場所を見つけた者を捕まえる気なんてもう失せた。早く行け。お前を追っているのは私たちだけではないぞ」 「……後悔しても知らねぇぞ」 ホルンが頭に乗り、踵を返して歩いていくルカ。 もう敵意なんて微塵も感じなくなってしまった彼らを、一体どういう顔で送っていったらいいかわからなくて。 振り返ったホルンの目はフェイクを映していた。 「居場所がない? 立派な居場所がすぐ近くにあるというのに、何を言うか」 「……?」  気付いてないだけで、誰もが自分の最高の居場所を見つけている。  居場所がないことなんてない。落ち着ける場所に辿り着くのに少々手間取るだけ。  ただそれが場所ではなくて。誰かの隣だっていうこともありえる。  誰かと一緒にいることが『居場所』だということもある。  どんな過去を持とうとも居場所を求めるのは至極自然なことだ。  よく晴れた空の下、何もない草原で仰向けになるような。  それぐらい居心地のいい場所が常に自分の隣にあるってことに気付いていない。 「お前、これからどうすんだ?」 「逃げる……かな。幾らマニューラになったとはいえ、追ってくる者がいなくなったわけではない」 「そうか。じゃあ俺も行くかな」 「……は?」 「は? じゃねーよ。お前言ったじゃねーか。居場所がないんなら探しにいけばいいって」 本当の居場所というのがどこなのか、まだわからない自分がいる。 一度は諦めた、だがそれでも心のどこかは未だに粘り続けている。 真っ赤な血で汚れたこの身体でも受け入れてくれる、そんな居場所を探しに行きたい。 「怖かったんだ」 「何がだ?」 怖いなんて言葉をホルンが使うなんて思わなかった。 月光だけが照らす森の中で、弱々しい風の中にホルンの声が頭上から降ってくる。 「居場所がないという恐怖を想像してみて、怖くなった。それだけだ、マニューラを逃がした理由は」 「……そうか」 居場所がないなんて考えたくもない。 自分たちの置かれた居場所、それは確かに強固な場所だが、絶対に崩れることがないというわけではない。 何かしらの影響を受ければ脆くも崩れてしまうかもしれない。 その恐怖が脳を侵食していき、やがてニューラを追わずに済む方法を探していた。 「主は……怒るだろうか」 「さぁ、どうだろうな。だがまぁ、いいじゃないか」 きっとそれは素晴らしいことなんだ。他の誰のものでもない、自分たちだけのものなのだから。 「帰る場所が……居場所があるだけいいじゃないか」  風が止む。雨が止む。綺麗な月光の下、二組の二匹のポケモンが歩いていく。 「ってか、あいつらが言ってた居場所ってどこのことだ?」 「さぁ?」 「ホルン。前から言おうと思っていたが、結構重いぞ。首にくる」 「……普通にショックだな」  温かな日の光が指す場所で、思い切り寝そべることを願って――――