あの一人と一匹に出会った日。雪空の下、少年は儚い出会いを体験した。  〜〜  真っ白  〜〜 少年はどこにでもいるポケモントレーナーだ。街から街へと旅し、ジムバッジを集めて回る旅。 当時、手持ちポケモンは総勢五匹。 来たるポケモンリーグに備え六匹揃えたいと思い始めた頃、彼はその街までやってきた。 そのポケモンと出会ったのは、その街に着いた次の日。 ポケモンセンターに設けられたトレーナー専用宿泊施設の一室。 その隅を陣取ったベッドの上で、少年は掛け布団をふっ飛ばしながら起き上がった。 「んんん……んあ! ……あ〜よく寝た……」  いつも通りの朝に違いなかった。 未だ残る眠気を無視し、寝癖が立ちまくった黒髪を適当に直して身なりを整え、 腰のボールが揃っていることを確かめて引き払った。 食堂で朝からご立派に働くウェイトレスに簡単に注文し、窓際のテーブルに突っ伏す。 朝はこうやってその日一日のプログラムを組むのが日課だ。 他のトレーナーたちの談笑もこうやっているとなぜか聞こえなくなる。 (とっとと必要なもの調達して……すぐに街を出るか。他に用事もないし……それに……) 運ばれてきた朝食を胃に収めつつ、少年は窓から外の様子を眺めた。 綺麗な街並みに白い世界が覆い被さっているのが必ず視界に入ってくる。 この街の建物の屋根は急傾斜になっており、その上を白い塊が崩れながら滑り落ちていく。昨日と変わらない白い世界だ。 (寒いのは……苦手だしな) 地元じゃ雪は降らなかった。多少降ることはあっても、この街のように何センチも積もったりはしない。 空からしんしんと降り積もり、白い世界をさらに真っ白に染め上げていく。 街へ繰り出した頃には、白い世界はさらに白く染まることを止めていた。 雪の排出を止めた雲は未だ空を覆いつくしたまま。 やや暗めな白い街はすでに人の往来が多くなっていた。 「……やべ、迷った?」 商店街に向けて歩いていたはずが、いつのまにか街の外れまで来てしまっていた。 街同様に白く染まった小さな森が姿を現し、積もった雪は街以上に歩きにくそうに感じる。 振り返ると建物がポツポツと点在してあまり活気がないが、中に妙に人気の引く建物があった。 物静かな郊外に一つ、白い世界の中にさらに白く染まった大きな建築物が一軒。 「何だろ、あれ……。病院か?」 一応健康体の少年には関係のない場所だった。とっとと引き返して商店街を探そう。 ……その一瞬。視界に入ってきた妙な物体に、彼は訝しげに視線を白い森に戻した。 真っ白な森の真ん中に、辺りの風景と溶け込むどころかむしろその存在を主張しているような気がする物体が一つ。 森と街の境目ともいえるその場所に、『彼』は何もせず直立していた。 無視しちゃいけないような気がして、少年は『彼』の目の前に立って顔を覗き込んでやった。 「……お前、何してんだ?」 「……ロロ?」 疑問符に疑問符で返してくるそいつ。 白い森の中に一本だけある『緑と茶の樹』は、かすかに首を傾げた気がした。どこが首なのか微妙だが。表情に変化は見られない。 縦に細長い茶色の胴と足。同色の腕の先、三本の指の先端が緑色の球体になっている。 胴が樹木の幹に見えなくもないし、緑の球体は生い茂った葉っぱに見えなくもない。 頭頂部に生えたYの字型の触角のようなものが気になってしょうがない。 どちらかといえば樹木よりも岩石に近い身体を持つポケモン、ウソッキーだ。 「お前、周囲に馴染んでると思うか?」 「…………」 今度は答えすらなかった。それどころか少し移動して少年の視界から外れていく。 ウソッキーといえば、その姿を利用して森の中に溶け込んで姿を隠すポケモンとして有名だ。 だがそれは春季、夏季に限ることで、秋季や冬季はほぼ百パーセント見つかるので忽然と姿を消す。 少年の記憶に間違いがなければ、こんな冬真っ只中に森の端に佇むウソッキーなどかなりの間抜けということになる。 視界から強引に外れた挙句こちらに視線も向けないウソッキーに、少年は多少ながら苛立ちに近いものを感じ始めた。 「おい、お前何やって――」 ……まただ。ウソッキーは少年が前に立つと即座に立ち位置を変える。 向いている方向を変えず、足だけクラブのように動かすその動きに苛立ち度が明らかに上がっていた。 また強引に目の前に立ってやろうかと考え……気付く。方角ではなく、とある一点を見つめている? 「? ……何見てんだ?」 ウソッキーの背後に立ち、少年はその視線を一直線に追ってみた。……あの、雪の中でもさらに白い建物だった。 「あの病院に何かあるのか?」 「…………」 答えられても無意味だろう。 少年は両腕を上げて樹木になりきっているらしいそのウソッキーの後頭部と病院を交互に見つめた。 「……どうも」 短く礼を言い、少年は手渡されたメモを頼りに受付をあとにした。 病棟が三棟あるその病院は、街の外れにあるくせに来院者で溢れている。 他に病院がないのかどうかは知らないが、 この雪の中集まってくる所を見るとよほど腕のいい医者がいるのかもしれない。 少年は当然病気になったわけでもなく、怪我をしたわけでもない。院内の簡単な見取り図を手に階段を二つ登った。 結局、すぐに次の街へ向かおうという計画はあっさり却下した。 どうもあのウソッキーのことが気になり、センターでいろいろ聞き込みをした結果、いくつか情報を得ることに成功した。 あのウソッキーは昔からこの街の周辺に生息している野生のポケモン。 だが一ヶ月ほど前からあの場所に現れるようになり、決まって病院を見つめているとか。 雨が降ってもその場を動かず、半月前からの降雪にも逃げずに立ち尽くしているらしい。 ウソッキーが見つめている病院の東側の病棟。 さらにその東側の部屋で、約一ヶ月前から入院している人物は一人だけ。 名札も見ずに少年はその部屋のドアをノックした。返答は少し遅れ、か細く震えるような声で返ってきた。 「お、お母さん……?」 当然少年は誰かの母ではない。可能性があってもせいぜい父だ。 その問いに対する答えは決まりきっていたが、初対面の相手に対して何と言ったらよいかわからず困り果てる始末。 ……その時思いついた方法は一つ。強行突破という奴だ。 強行といってもわざわざドアを蹴破る必要はなく、少年は恐る恐るちょっとだけ開けたドアの隙間から顔を突っ込んだ。  ――また、雪? いや、雪じゃない。 ベッドの上に雪が積もっていると勘違いしてしまうほど白い肌と銀の髪で、白いシーツに溶け込んでしまっている。 十代前半であろうその少女は、目に見えて怯えていた。それはそうだろう。 見知らぬ怪しい少年が一人部屋に入ってきたのだから。 ……知人いわく、少年は相当目つきが悪いらしい。これもプラスされて恐怖レベルマックスに違いない。 「だ、誰……?」 「あ〜……、いや、怪しいもんじゃないから。人は見た目だけで判断しちゃいけないぞ?」 自分でも何言ってるんだと思いつつ、とりあえず後ろ手にドアを閉める。怯えまくって死にそうな少女から一瞬だけ視線を逸らした。 窓の外では、空への扉を閉ざした雲が再び雪をちらつかせ始めている。 ゴクリ、というあまりに大げさなほど唾を飲み込む音が聞こえた。少女は決意を固め、か細い声を頑張って振り絞り、 「あ、あなた、誰なんですか……!? 人を呼びますよ!?」 「ちょちょ! ちょっとだけ待て! 聞きたいことがあるだけだから!」 「……? 聞きたいこと……?」 その通り、と呟く。少女がさっきより少しは落ち着いた様子を見せてくれたおかげでこちらも落ち着いた。 「え〜と……。この街の外れに妙なウソッキーがいること、知ってるか?」    ―その瞬間、先程よりもさらに大きな声で叫んだ。 「え……!? ウェイトが何かしたんですか!?」 「へ? ウェイト?」 「あたし、ポケモントレーナーになる……はずだったんですよ」 少年よりも年下の少女は、俯きながらそう呟いた。 消え入りそうではないが、それでも音を立てると一瞬で掻き消えてしまいそうな。 少年は椅子から音を立てぬように立ち上がると、窓から森の様子を眺めた。 真っ白な絨毯のように広がるその外れで、一つだけ緑と茶の樹がブルブルと揺れた。 頭に積もっていた雪を落とし、再び両腕を伸ばして樹っぽいポーズをとる。 やはり、あのウソッキー……少女曰くウェイト……はこの窓を見つめていたらしい。 「なるはず……だった?」 一応復唱しながらも、少年はその言葉の意味を悟っていた。病院の世話になっている時点でわかりきっている。 少女は少年のそんな些細な呟きにも反応してくれた。 「一ヶ月前にはもうトレーナーになって、旅に出ているはずで……。  でも、いざ出ようとしたら……こんなになっちゃって」 「?」 「小さな頃からトレーナーに憧れてたんですけど、  身体が弱くて……何とか旅に出れるぐらい体力をつけたんですよ。でも……」 なるほど、だから少し顔色が悪いのか。 身体が弱い。つまり、いつまた調子が悪くなってもおかしくないということだ。 医学に無知な少年でも何となくわかった。 多くの少年少女がトレーナーに憧れ、旅立っていく。 それが世界の常識だった。でも、少年の前でベッドに横になっているこの少女にそんな常識はなかった。 「あたし、マシロっていいます。あなたは……?」 そうだ、よく考えたら初対面の相手に対する最初の過程をすっ飛ばしていた。 マシロ。真っ白。この街のように真っ白。 「……アッシュだ」 「アッシュさんですか……」 別に気に入っているわけでもなく、嫌いでもない名前。アッシュは自分の名前のことよりもこの少女を不便に思った。 旅に出たくても出られない。誰が妨害するわけでもないのに、 世界中の子供たちのようにポケモンと一緒に旅に出られない……。 「え〜と、つまり、あのウソッキー…ウェイトはマシロのポケモン……になるはずなのか?」 自然と行き着いた結果は間違っていないと思う。 あのウソッキーにニックネームを付けているのと、 ベッドの傍らに置かれた引き出しの上、一つだけプレミアボールが転がっているとすれば尚更だ。 「そうですよ。……あたしの、最初のポケモンになるはずなんです」 旅に出れたらの話ですけど。と付け加えるマシロの顔は先程より沈んでいた。 身体さえ丈夫なら、ウェイトと一緒にいくつもの試練を乗り越えていくはずだったんだ。 既に五匹のポケモンに囲まれた少年と、全く正反対の境遇のような気がしてならない。 「雪ばかり見ててつまらなくないか?」 アッシュの何気ない簡単な質問に、マシロはそんなことないですよと即答した。 「綺麗じゃないですか。空から降ってくる雪も、真っ白になった森も。  ……灰色の雲は、ちょっと嫌いですけど」 「…………」 正直自分にとってはかなりきつい入院生活だが、少女はさほど気にしていない様子だった。 「……何でだ?」 「え?」 「何でいきなり現れたオレにそんなことを話してくれた? 部外者以外の何者でもないぞ」 気になっていたことを正直にぶつけてみた。 いきなり現れた少年、加えて目つきの悪い怪しさ百パーセントの危なそうな少年相手に、 そんな自分の状況を隠すことなく喋るなんて。 マシロはこちらの質問の意味を理解するのに時間を要した。きっかり五秒で合点がついたように微笑む。 「アッシュさん、ポケモントレーナーですよね?」 頷いておく。隠すことでもないし、腰のモンスターボールが丸見えだったからだ。 「トレーナーで、あの子のことも気になって……それってつまり、  ポケモンが好きってことでしょう? ポケモンが好きな人に悪い人はいません」 ……どうにも掴めない女の子だった。あ、そういえばあたしの先輩ですね、とさも楽しそうに言う辺りが特に。 その微笑みが、自分を奮い立たせるためというよりももっと別の理由があるような気がしてならない。 ウェイトは待っているのだ。あそこでじっとマシロを見ている。 まだマシロのポケモンではないため病院に入れないから、ずっとあそこで待っている。 いつ退院しても自分の居場所がわかるように。例え苦手な雨が降ろうとも、雪が積もろうとも。 「よ。……少し休んだらどうだ? ウェイト」 「!」 昨日出会った時は大して反応しなかったウソッキーが、今日になって少年に大きな反応を示した。 突然名前を呼ばれてびっくりしているだけのようだが。 アッシュはさらに計画を破棄した。自分でも何をしているのだろうと疑問が沸くくらい。 昨日の内に発つつもりが、いつの間にかセンターでもう一泊している自分。 普通ならば先輩後輩の関係になるはずだったからとか、そんな理由じゃない気がした。 昨日ほどじゃないが今日も雪が降っていた。申し訳程度に巻いたマフラーの位置を直しながら、アッシュは病院の例の窓を見上げた。 息が白く染まって視界を遮っていく。 「マシロにいろいろ聞いた。……お前、待ってるんだろう?」 「…………ロ」 頭に積もった雪を払い、再び樹木になりきる。 表情を変えずに窓を見つめ続けるウェイトの身体に付着した雪が、体温で溶けて水へと変わった。 それでもウェイトは動かず、その場で一心不乱にマシロを待ち続けている。 その日から数えて五日、マシロたちに出会ってから六日が経った。 結局明日で一週間も同じ街に滞在したことになる。 よほど大きな街ぐらいでしか観光などしなかった自分が、ごく普通の街に一週間もいたというのは異例だった。 ポケモンたちの特訓もしながら、マシロとウェイトの所に顔を出す毎日。 ウェイトはこちらに反応するようになったが、それでも大半はマシロの窓を見つめていた。 自分も同じように見つめてやった。さすがに樹の真似事はしなかったが。 マシロに至っては顔を出す度に明るくなっていったような気がして少し嬉しかった。 他の街の話や、トレーナー修行がどんなものなのか。 そんなことを聞いてきて一方的に説明しても、マシロはずっと真剣に耳を傾ける。 トレーナーになったらウェイトと一緒にいろいろ教えてもらうんだ、と勝手に約束されたが不愉快ではなかった。 一人で孤独に旅をしてきた自分にとって新鮮に感じる。 ウェイトとは小さな頃からの友達で、将来トレーナーになったら最初のポケモンにするんだと張り切っていたそうだ。 自分が覚えている範囲でウソッキーが覚える技などを説明すると、マシロはどんどんメモを取る。  何度かマシロの両親と会ったが、こんなことを言っていた。 「あの子、あなたの話ばかりするんですよ。最近じゃああなたに教えてもらったことを懸命に覚えてるんです。  ……これからも、あの子と仲良くしてあげてください」 何だかムズかゆくて曖昧な返事しか出来なかった。誰かにこんな風に感謝されたことは初めてだった。 自分はそんなに立派な人間じゃないのに。このままだと一ヶ月ぐらいここにいそうな気がした。 「今日も……雪か」 ついに一週間が経ち、アッシュは窓の外を上から下へすり抜けていく雪の雨を見つめた。 天気予報では今日一日大雪だとかで、この一週間では初めてのことだ。 最初に気になったのは……当然ウェイトのことだ。この大雪の中で立ち続けるのは無謀な気がしてならない。 「げ……何だこりゃ……」 センターから出て最初の感想がこれだ。除雪車が通ったおかげで何とか歩けるが、道以外は完全に雪に埋もれてしまっている。 足を踏み出そうものなら何十センチと足が沈んでしまいそうだ。 周囲の建物の屋根に積もった雪も昨日の比じゃない。 今にも建物ごと屋根を押し潰してしまいそうな巨大な雪が、屋根からずり落ちるギリギリの所で踏み止まっている。 余計にウェイトのことが気になって、アッシュは雪の中の道を辿って郊外まで走った。 「? ……あれ?」 自然と足が遅くなる。それほど大きくない建物の角を曲がればウェイトの姿が見えるはずなのに、今日は姿が見当たらなかった。 場所を間違えたかとも考えたが、あの病院がいつもの方角に健在している。 やはりさすがのウェイトもこの大雪ではどこかに隠れたのかもしれない。 「……ま、さすがに危なくなったら普通は引っ込むよな。マシロの所に行くか」  ――進路を変えようとしたその瞬間、アッシュの目に何かが飛び込んできた。 いつもウェイトが立っていたその場所の雪、何かに覆い被さったかのように不自然に膨らんでいた。 嫌な予感。冷たい感覚。血の気が引いていく感覚が全身を行き渡っていく。 雪の冷たさなんて関係なかった。白い世界を掻き分けて突っ込み、膨らんだその場所を掘りまくる。  ――すぐに、ぐったりとしたあの茶色い身体が顔を見せた。 「クソ……おいウェイト! しっかりしろ!」 文字通り冷たくなっているウソッキー。その冷たさが剥き出しの手を通して伝わってくる感覚。 どんな雪よりも冷たく感じてしまい、アッシュは迷わずウェイトの身体を背負う。 岩タイプの割にはそれほど重くはないが、この雪の中をウソッキーを背負って走れる自信はない。 オマケにこの降雪ではどんどん危険になっていく。 「……ウェイト、少しだけ我慢しろ」 考えている暇はないアッシュは腰からボールを一つ取り、雪の中に投げつけた。 閃光が走り、クリーム色の大きな影が現れる。紺の体毛が背中を覆い尽くし、 首の周りに小さな丸が並んでいた。気性が荒そうなように見えて温厚なポケモン。 「マグナ! 背ェ借りるぞ!」 反射的に身を屈めたマグナにウェイトを抱えて騎乗する。 バクフーンのマグナの背から送られてくる熱気が、アッシュとウェイトの身体を温めてくれた。 「ポケモンセンターまでだ! ……全速力で突っ走れ!」 「ヴァア!」 暖かな旋風が雪の舞い落ちる街を突き抜けていく。マグナの咆哮が風と同化して掻き消え、道端の雪を水に変えていく。 道とはいえない雪で覆われた場所すら熱気で溶かし、最短距離で突っ走る。 ブレーキをかけながらセンター前に滑り込んだ時には、ウェイトの身体は十分に温まっていた。が、意識はない。 迷惑と知りつつもマグナに騎乗したまま自動ドアを潜り、アッシュは大急ぎでウェイトの身体を持ち上げた。 そのまま受付に突っ込み、荒々しく突き出す。当然受付の看護士の女性が驚いているのも無理はない。 「こいつ……! ええっと、オレのポケモンじゃないんだけど……! とにかく、雪の中にぶっ倒れてたんだ! 助けてやってくれ!」 ただのトレーナーの彼ができるのはここまでだった。 搬送用のベッドに寝かされ、奥の部屋に運ばれていくウェイトの姿を黙って見つめた。 肩を突かれ、アッシュは肩越しに振り返った。 他人事ではないのだろう、マグナがウェイトが消えていったドアをしきりに気にしている。 「ヴァァ……」 「大丈夫……だと思う。身体が冷えただけだから。  でもあいつ、岩タイプだからなぁ…その辺…はわからない。  オレたちができることはした。それに、まだ終ってないだろ」 「?」 踵を返し、センターの自動ドアに向かって歩いていく主人に慌ててついていく。 マグナが理解できずにいるのを感じて振り返った。 「オレたちがウェイトを運んでいったのをマシロも見ていたはずだ。あの窓からは丸見えだ。なんとか説明して……」 「ヴァ?」 「何て説明すりゃいいんだ……」 「は……?」  最初は部屋を間違えたのだと思った。  だが何度確認しても、マシロの個室はその部屋に間違いなかった。 いつもアッシュが入れば、真っ先に彼の名を呼ぶ。 それが日常だったはず。真っ白な少女がベッドの上で微笑んでいるはずだった。 アッシュは自分の目を疑った。ベッドは布団が全て片付けられ、骨組みだけがそこにあった。 ウェイトが入るはずだったプレミアボールも消えている。 少しだけ開いた窓から流れ込んでくる風に真っ白なカーテンが靡いていた。何でだ?   何で何もない? 何で……?  ――身体が弱い。つまり、いつまた調子が悪くなってもおかしくないということだ―― 初めて彼女に出会った日、自らが考えた文句に殺意が沸いた。まさかそんなはずはない。 だって昨日まであんなに楽しそうに喋っていたじゃないか。何で……。  ――いつまた調子が悪くなってもおかしくない……―― 通りすがりの看護士に聞いた事実は予想と全く同じだった。 そんな予想をした自分が憎くてたまらず、拳が震える。 それでも自分の脳が、その予想を少しずつ修正していく。 朝食が戻ってきそうな感覚を押し止め、彼は誰もいないその個室をあとにした。 ドアの横の名札は消えていた。窓から吸い込まれてくる冬の風の音が、聞こえた気がした。 行き着いた結果が頭の中で嫌味なくらい響き渡っても、彼は足を止めなかった。  ――いつ、何が起きてもおかしくない。突然病状が悪化しても、不思議じゃない……―― 「ヴァ?」 病院の傍ら。野生のウリムーと戯れていたマグナは、自分に気付かず歩いていく主人の姿を認めて立ち上がった。 新たに友達になったウリムーに別れを告げ、アッシュと並んで雪の街を歩いていく。 説明しに行ったにしては早い帰りだった。不思議に思い、何かあったのかと自分より少し背の低い主人の顔を覗き込む。 「ヴァア?」 「いや……何でもない。何でも……」 自分に嘘をつくのは、どう頑張っても慣れないものだと心から思う。 こんな感覚も、生きている上でそう何度も体験するものではないだろう。 たった一週間でこれだ。もしこれが長年一緒にいた……例えばマグナなら、どうなっていただろう。 雪は勢いをなくし、疎らに降り注ぐ。灰色の雲が自分の気持ちそのもののような気がする。時には白いが、時には灰色の雲。 灰色の雲は徐々に徐々にその姿を分散させ始める。雲の隙間から久しく見なかった丸いあいつの姿がちらついた。 まるで行き場を失った彼女を受け入れるように、雲という名の門を開けつつあるようだった。  ……灰色の雲は、ちょっと嫌いですけど………。 不意に頭を過ぎったのは、少女がさらっと口にした言葉。 いつまでも頭の中で響き渡るあのか細い声。 「オレも……この雲が嫌いだ、マシロ」 マグナが一つ鳴いて、少しずつ明るくなっていく空を見上げた。 灰色の空をこじ開けて、見慣れたあの灼熱の塊がその身を晒し始めている。 「マシロ、お前は太陽が好きか?  ……オレは好きだ。落ち込んだ気持ちを吹っ飛ばしてくれる。それぐらい、太陽はデカイ奴だ」 端から見れば小さなもの。だが、それはこの世界で最も偉大な自然の光。 灰色の雲を白く染め上げ、雪の街を神々しい光で包み込んでいく。 「……マシロ、見てるか? 雪もいいけど、太陽もいいもんだろ……」 久々に陽光に照らされる街を、マシロは見ているだろうか。輝かしい光が雪に反射して、いつもの美しさとは全く別の美しさを奏でていた。 太陽と雪が両立して初めて見られる街並みを、一人のトレーナーと一匹のポケモンは歩いていく。  ――その夜、ポケモンセンターから一匹のウソッキーが失踪した。 「……なぁマグナ」 「ヴァ?」 いつものあの場所。あの病院が見える、街と森の境目。 今日は珍しく朝から舞い落ちる雪とご対面することはなく、あの陰気な雲も姿を見せていない。 まだ少しだけ続きそうな冬と白い街。いつもと同じ。変わらない日常がそこにある。 雪が降り積もった枝を重たそうにもたげている樹の下。樹の幹に背を預けたアッシュは、目の前の茶色い背中を見ながら呟く。 「もしかして、ウェイトは待ってるだけじゃなくて……」 相変わらず雪の中で緑の樹になりきっているウェイト。彼は未だ、あの病院を見つめていた。 センターから抜け出して、朝の厳しい風の中でも、彼はじっと耐え、待ち続ける。 「励ましてるっていうか……アレだ。『自分も頑張るから、マシロも頑張れ』ってことじゃ……」 「ヴァア……」 だから彼は雪の中でも、雨の中でも、倒れるまで立ち続けた。 マシロの退院を願って。マシロと一緒に旅に出たくて。いつかきっと、一緒に笑える日を願って。 ……彼はもう知っているのかもしれない。だからこそその現実を否定すべく、彼はいつもの日常に戻ったのだ。 「……これはオレの独り言だから。無視してくれていいぞ」 突然そう呟いても、ウェイトは振り返りもしなかった。アッシュは構わず続ける。 「マシロの親御さんから手紙を受け取った。  マシロが書いたオレ宛てのな。……その最後の部分がお前宛てになってる」 「!」 ピクッと反応し、ウェイトはゆっくり振り返った。 いつもののっぺりとした顔が、変に歪んでいるように見えたのは気のせいということにしておく。 「『もう待たなくていいから。もうここで寒い思いをしなくていいから。  もうキミを縛るものは何もないから。アッシュさんと仲良くね』……だとさ」 「…………ロロォ……」 アッシュは手紙を上着のポケットに突っ込むと、代わりに腰から空のボールを取り出した。 手紙と一緒に受け取った、マシロのプレミアボール。 何かの記念として使用されるそのモンスターボールは、マシロと同じで真っ白なデザインだった。 「オレ、手持ちが一匹空いてるんだ。……んで」 アッシュは立ち上がりながら、そのプレミアボールを地面に置いた。雪がしっとりとボールに付着して少しだけ沈む。 「どうする? オレは別に構わない」 「…………」 しばしそのプレミアボールを見つめて。彼は何も見なかったかのように、そっぽを向いて再び樹になりきる。 アッシュはそんな彼の背を見つめつつ、プレミアボールを腰に装着して樹の幹にもたれかかる。  喉から這い上がってきた言葉は、自分で言うのも酷なものだった。 「……これ以上そんなことをして、何の意味があるんだ」 「…………」 返答なし。構わず続ける。 「そんなことで日常が戻ってくるはずがない。……マシロはもういない。マシロは――」 言葉が途切れて――喉と、心臓が痛んだ。最初に心臓が今までない痛みを発して、 それに連動するように喉が締め付けられる。 結局は自分もウェイトと同じ。現実を認めず抗っている。 ヒリヒリする喉を隠して、立ち上がる。 ウェイトの横を素通りして歩いていく主人をマグナは慌てて追った。 が、ウェイトからそこそこ離れた場所で立ち止まる。ぶつかりそうになって踏み止まったマグナ。 彼の耳に聞こえてきたのは、いつもの主人とは少し違う声色だった。 「……マグナ、ウェイトを強制的に連れて行くぞ」 「ヴァ!?」 「このまま放っておいたら、あいつはいつまでもあそこで樹の真似事を続ける。冬が終わるまでにあと二、三回は倒れるな。  ……今回はオレたちがいたけど、次回誰かが助けてくれるなんて保障はない。次に倒れるまで見守ってやる気もない。それに」  首だけ振り返り、未だ樹っぽいウェイトを見つめる……否、睨みつける。 「あいつ、ここ数日飲まず食わずであそこに突っ立ってる。元々細身の身体だからわかりにくいけどな。  凍え死ぬのが先か、餓死するのが先か。……どっちにしろ、ダメだろ。そんなの」 マグナはそりゃそうだと頷き、哀れなウソッキーを見つめた。大切な者を失った事実を受け入れない姿勢。 もしアッシュが自分より先に逝ってしまったら、自分も彼のように否定し続けるかもしれない。 「いくぞ」 その言葉がこの場を去ることではなく、もっと別の意味を持っていることも知っていた。 首の周りから、自然と火山のような炎が吹き出る。 「電光石火。……回り込んで肩口から吹っ飛ばせ」 即座に指示を理解し、俊敏な速さで動く。 クリームと紺の閃光と化したマグナがウェイトの背後に回りこみ、反転すると同時に肩から突っ込んで吹っ飛ばす。 岩タイプの割には軽いウソッキーの身体は軽々と浮き、飛んだ。  ――わあ、ウソッキーだ! 面白〜い!―― 何でこんな時に、彼女の声が聞こえたのかわからない。 それも彼女がまだ小さい時、初めて出会った時のこと。 視界が白から黒に変わって、気がつけば白に戻っていた。顔面から雪の野原に突っ込んだだけだが。 かなりのパワーで飛ばされたのか、アッシュよりもさらに森から遠い場所で転がっている自分に気づく。 「……マシロは戻ってこない」 諭すような呟き。立ち上がったウェイトの背に、追い討ちをかけるような声が飛んだ。研ぎ澄まされた氷の刃のように。 「お前が待っても……応援しても。迎えにくる奴はいない……頑張る奴はいない!」 衝動的な何かが自分の中を駆け巡るのを感じた。 振り返ったウェイトの顔は、いつもの呆けた顔ではなく、怒りの断片がちらほらする危険な顔になっていた。 我武者羅に腕を振り回して突進し、割って入ったマグナに押さえつけられると、今度は力任せにマグナを押し返し始めた。  ――あたし、将来トレーナーになるの―― 自分を見上げて微笑むマシロ。それを見下ろす自分。 小さな銀髪の彼女を肩に乗せたり、一緒に遊んだり。 約束したんだ、彼女と。いつか一緒に旅に出ると。  ――あたしがトレーナーになったら、ウェイトがパートナーだね!―― 思い出が蘇り、再び虚空へ消え去る。脳内を駆け巡る少女の言葉はどこまでも懐かしく。  ――今はちょっと身体が弱いけど……いつかよくなるから! ホントだよ!?―― 灼熱の火炎が喰らいつく。岩の身体が少し焦げたが、気にせず捨て身タックルを繰り出した。  ――ごめんね、やっと旅に出られるはずだったのに……――  ……謝るなよ。心の中で自分の声が震えた。 いつか一緒に旅をして、どんどん戦ってどんどん強くなって。 いつかは彼女を誰もが知っているトレーナーにしてやろうと、大きな目標すら掲げた。 わかっているんだ、マシロが戻ってこないこととか、一緒に旅をすることなどできないということが。 ……アッシュについていけば、それを認めてしまうことが。 エネルギーの強大さに拳が言うことを聞かない。腕ごと目一杯後ろに引いて、来たるバクフーンの攻撃に備えた。 爆裂パンチ――マシロを驚かせようと密かに特訓した、とっておきの技。 自分とは違うマグナの眩い火花が散る拳――雷パンチ。この一撃で勝敗が決する。 目の淵に浮かぶ涙を払い、走る。マグナも走る。雷パンチと爆裂パンチが衝突する瞬間、確かに聞こえた。 記憶の中を彷徨う思い出のものではなく。はっきりと、今、彼女は言った。  ―一緒に旅に出られなくて、ごめんね――  ……だから謝るなよ。マシロは何も悪くないじゃないか―― 「手間をかけさせてくれたな…」 六つ目の白いボールは腰に良く馴染んだ。まるで何年も前からそこにあったかのように違和感なく。 やはり彼がウソッキーだからだろうか。馴染むのが得意らしい。 お前だけじゃないんだよ、悲しいのは。認めたくないのは。 「さてっと、早速次の街に……じゃなくて、ポケモンセンターか。お前もこいつもボロボロだ」 「ヴァア…」 雪の中に残る戦闘の跡を背に歩く。真っ白なプレミアボールの中で、ウソッキーは微かに泣いていた。 新たに枝を放り込むと、焚き火は少しだけ息を吹き返した。冷たい風は弱く、それでも彼らを鋭く追い立てる。 不細工な岩が転がるだけの色気のない荒野の真ん中。 どこからかデルビルの遠吠えが聞こえ、荒野の彼方まで響き渡っていく。 冷たい風に煽られて小さな砂煙が地面を滑っていく。 アッシュの脳裏に蘇った、あの一週間の記憶。一人の真っ白な少女と、雪の中に佇むウソッキー。 あれから数ヶ月経った今でも、彼の前にはあのウソッキーがいた。その横にはバクフーンの姿もある。 降り積もる雪、微笑む少女、頭に積もった雪を払うウソッキー……。もう何年も前の記憶のような気がした。  不思議な出会い、儚い出会い、新たな出会い――― 「……ロ?」 「ヴァ?」 「ん?」 不意に夜空を見上げるウェイト。彼の視線を追うと、そこには珍しく星空が見えた。 大きな街などではほとんど見られない、無限の星屑がそこにある。 だがウェイトが発見したのは、そんな夜空よりももっと珍しいものだった。 夏の星空から細かな何かが舞い落ちてくるそれは、 一つ一つがとても小さくて、ウェイトの触角状の頭に付着して溶けていく。 「……雪? 今は夏じゃなかったっけ……」 それは確かに、あの一週間でも見た冬の象徴だった。 疎らに降る雪に、今にも眠りそうなほど瞼を半開きにしていたマグナも跳ね起きた。 「ヴァウァア!」 「ああ、綺麗だな。あの時以来だ。  ……また機会があったら、あの街に行こう。ウェイト、成長したお前を見てもらおう」 「ロロォ!」  見てもらう相手は当然決まっている。きっと彼女は誉めてくれるに違いない。  だって彼女は真っ白だから。雪のように真っ白で、それでも暖かい。  今度の冬が待ち遠しい。雪が降ると、彼女がいつも横にいてくれる気がするから。  真っ白な思い出は彼女以外の色で染まってしまったけれど、後悔はしていない。この色は紅い。  朱色のそれは少し冷たい所もあるけれど、真っ白に負けないくらい優しい。  情熱の色のように激しくはないけれど、どこか熱いものがある。そんな色だ、新しい思い出の色は。  雪が降る。降り積もって溶けて、春が訪れて。一周したら、また雪が降る――――