――――――――     カチ コチ カチ コチ 時計の針の音、そして僕がそこに存在しているという証の音。 薄汚れた壁と床、天井、扉。もう誰も存在していないように見える空間で、僕はじっと息を潜めていた。  誰もいない、誰もいてはいけない、誰も触ってはいけない。 その時間、空間。その全てが僕の存在と共に色褪せていき、その中で黒い記憶がぐにゃりぐにゃりと呼吸を続けていた。  ザザ、ザザ。ザザーーーー―――― 僕はいつも見ていた。そう、いつも見ていたんだ。誰も知らないはずのその時間を僕はいつも影の中から見つめていた。 屋敷はいつも静寂を保ちながらも絶叫を上げている。 悲鳴と共にあらゆる恐怖とあらゆる殺意をその身に秘めて、更なる犠牲者を求めて大口を開けていたんだ。 『記憶とは、思い出すことに意味があるのだ』  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜      ナイトメア  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 僕がこの屋敷にやってきたのは、ただの気紛れ、ただの悪戯だったんだ。 僕の身体は霊体ながらにいつも電気を帯びていて、人間でいうところの電化製品という奴の中に入るのが好きだった。 とある町の外れにあるその大きな屋敷。 建てられてかなり時間が経っているように見えるその屋敷に僕は迷いなく滑り込んで、二階にあったテレビの中に潜り込んだ。 真新しい大きなテレビ。別にその大きさによって入りやすさや居心地に違いがあるわけじゃない。 だから僕はいつもの調子でテレビの中に潜み、付けようとした人間を脅かしてやろうと思っていた。 「わっ、何!? え、ポケモン? かわいー!」 その反応は慣れているものではなくて、逆に面を食らってしまっている僕。 その人間の女の子は僕をちっとも怖がっていなくて、逆に僕を抱き上げてしまった。 女の子の大きくて吸い込まれそうな目が僕をしっかりと見つめていて、逃げ出そうにも逃げる気が失せてしまった。 それが僕とこの屋敷の住人の出会いだった。古い造りの割りに綺麗な内装の大きな屋敷。 そこの住む女の子、男の子、そしてお爺さん。ただの悪戯でやって来たというのに、僕は何故か迎え入れられ、何故か家族の一員となっていた。 「なんか変わったオバケだよなぁ、こいつ」 「じゃあオバケ君だね」 オバケ。……もうちょっとぐらい捻ってほしかったけど、何度もそう呼ばれている内にどうでもよくなった。僕はオバケ。 僕自身ゴーストタイプだからほとんどオバケみたいなもの。一般的にゴーストタイプというのは受けが悪いのに、 三人は僕にオバケなんてニックネーム……いや、嬉しいのかどうかは微妙だけど。を付けてくれた。 何とかして驚かせてやりたい、そんなことを考えながら、僕はこの屋敷に居つくことになった。 僕はオバケ。僕はロトムのオバケ。僕はテレビに潜んでる。僕は全部見ている。 僕は全部、見てしまった。 『人やポケモンに限らず、誰もが黒い心を持つ。遅かれ早かれいつかは具現化する』 「うう、くっそ〜。どこに隠れた?」 人間に見つけられない場所には隠れない。ロトムの僕にはちょっとだけルールが追加されたけど、かくれんぼそのものは結構楽しかった。 人間には見つけられない場所には隠れていない。でも人間にはできない隠れ方はしている。 普通なら入れそうにない隙間にもするする入れるから、タンスの隙間に入ると男の子はなかなか見つけられなかった。 この屋敷はちょっと変わっていて変なところが幾つかある。 キッチンには何故か用途が同じゴミ箱が三つもあるし、三人と一匹しかいないのにテーブルが大きくて椅子が十一個もある。 倉庫の棚をずらすと裏に更に倉庫があるし、玄関ホールのポケモンの像……種類は知らないけど、それの目が睨んできているような気がする。 壁に掛けてある絵の裏には人間が一人隠れられるぐらいのスペースがあって、女の子はそこに隠れていた。 見つからず別の部屋を探しに行った男の子と入れ替わりに、真っ白な髭を生やしたお爺さんが入ってきた。 しまった、突然出て男の子を脅かしてやろうと思っていたのに。 「これこれ、もっと見つかりやすい場所に隠れておやりなさいな」 まぁ確かに、人間の子供にはこんな場所は見つけられないかもしれない。お爺さんの言葉に従って僕は別のもっと見つけやすい場所に隠れることにした。 でもどこに隠れればいいんだろ? 見つけやすいように、だったらいっそのこと頭の角がどっかから突き出てるぐらいがいいのかな。 っていうか、女の子が隠れている絵の裏側っていうのはどうなんだろう。あれも反則級じゃないのかな。 「あーっ! オバケ見ーっけ!」 あ、見つかった。 それが日常。それが普通の光景。僕がいて、男の子がいて、女の子がいて、お爺さんがいる。それは崩れることのない世界なんだ。 『今あるものはいつか崩れ去る。それが常識なのだ、ロトム。形あるものは全て消え失せるのだ』 「……ですから、わしはこの家を手放すつもりはありませんって」 そんな声が玄関ホールから聞こえてきて、僕たちは二階の廊下からこっそりとそれを覗いていた。 吹き抜けになっているそのホールの真ん中で、お爺さんと見知らぬ誰かが喋っているのが見える。 「この家はわしが父から受け継いだ大切な家でしてな、今更引っ越す気はありません」 「しかしですな、この辺りに大きな病院がなく、いざ重い病気となればコトブキシティまで出向かなければなりません。  ここに病院が建てば、ハクタイシティに住む人々がお喜びに――」 「ほほう、こちらの意思は全て無視すると?」 「もちろんただとは言いません。今後の生活の保障――」 「つまり結局のところ、この家はなくなるということじゃな?」 横の二人はほとんど理解していない様子だったけど、僕は何となくだけど理解できた。説明する必要もない、今の会話で十分その現状が語られている。 確かにハクタシシティはそれほど大きな街じゃなくて、おっきな病院は見たことがない。 あのお客さんの言う通り何かあったらお隣のコトブキシティまで行かないといけないんだ。 そのコトブキシティに行くってのも簡単じゃない。途中にハクタイの森っていう広くて迷いやすい森を抜けなきゃいけない。 お爺さんのお父さんについては、お爺さん本人から教えてもらったことがある。 ただその人生そのものには多少興味がわかなくて、唯一記憶に残っているのは彼の死に様だった。 強風で開いた穴を塞ぐために屋根に登ったらしいんだけど、何故か落下して地面に赤い花を咲かせて死んでいた。 その顔は尋常ではない『何か』を見て恐怖したのか醜悪に歪んでいて、思わず一瞬目を背けてしまったらしい。 「いやしかしですね……」 人間には見えないものって奴が僕には見える。視覚的な問題じゃなくて、こう……説明しがたい何かが。 あのお客さんは平常心を保って笑顔を貼り付けているけれど、心の中ではどす黒い感情を露にしている。 何を考えているのかわからないけれど、何だか怒っているなっていうのはよくわかった。 渦巻く黒い感情が靄みたいにお客さんの周囲を取り囲んで、その中で作られた笑みを浮かべていた。 黒々した感情が一体何をしでかしてくれるのか、その時はまだよく理解してなかったんだ。 僕にとってこの屋敷は愛着があるわけじゃないけど、あの変なお客さんに取られるのは何か嫌だった。 黒々とした何かが渦を巻いて、この屋敷を取り囲んで冷ややかな絶叫を上げている。 それは僕の心の中までずかずか入り込んできてつんざくような奇声を上げてのた打ち回る。 真っ黒な手で心の壁をペタペタと触っているような、そんな感覚。    キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ―― 『崩れるにはきっかけが必要なのだ。そう……どんなものであれ、きっかけがな』 おっと、これはまずい。かくれんぼのルールに反する行動になってしまった。 ゴーストタイプとは闇夜というものに非常に近い関係にあると思ってる。 だからその真っ暗な部屋には出入り口がないとすぐに理解できて、二人に怒られる前に早く出るべきだと思った。 でもよく考えてみたんだ。出入り口のない部屋。それって部屋とは呼べないんじゃないだろうか。 それになんだろう、この壁。僕が入ってきた辺りの壁だけ色が違う気がするし、材質も違うみたい。 あるのは部屋の片隅に置かれた古い椅子。あと地面に転がっている……なんだろあれ。 そもそもこの家ってどこか変な部分が多い。絵の裏の変な空間とか、倉庫の裏にあるもう一つの倉庫とか。 『からくり屋敷』とかって種類に分類されるのかもしれない。だから出入り口のない部屋だってあってもおかしくない。 僕はその椅子が置かれただけの部屋に疑問なんて湧くはずがなかったんだ。 どうせ人間の言葉を話せない僕の口じゃあお爺さんに聞くこともできないし、僕にしか見つけられなさそうだから意味もない。 だから僕は、部屋の中に変な物体が転がっているなんて事実は自然な光景として考えていた。 なんだろこれ。人? 人が寝てるのかな。こんな密閉された空間に人? ああ、死体だこれ。人の骨だ、人骨だ。 服を来た人間の死体が壁際に倒れ、眼球すら残っていない顔でじっと天井を仰ぎ見ていた。 なんでこんな出入り口のない部屋に死体が転がっているんだろう、と僕はじっと死体を見つめてみた。 そうしたら見つけたんだ、壁を削って書かれた変な文字を。人の文字だ。 これでも結構長く生きているわけで、野生だけど人間の文字はある程度読める。いや、『ヒラガナ』って奴だけだけどね。 え〜と、なんて読むんだったかな。あいつは……の……を……って……? ……の……に……れてはならない……? やっぱりこの『カンジ』っていうのも読めないと全然意味がわらかないな。 それになんだろ、これ。文字のすぐ近くに描かれてる変な絵。腕っぽいものが見えるけど足がない。 それになんだかふにゃふにゃした変なのが沢山ついてる。変なの。……いや、腕も足もない僕が言うのも何だけどね。 そこで僕は気付いた。長い文章や変な絵の他に、もう一つ短い文章があったことに。 その文章はたったの四文字、しかも全部ヒラガナだったから僕にも読むことができたんだ。え〜と、何々……? たすけて、だって。……助けてって、どういう意味だろ。  「オバケ君どこー? 降参だから出てきてよー!」 『黒き部分は深遠の底で具現化する。それはその黒き刃で抉られた愚か者の末路だ』  古い椅子が、風もないのに突然倒れた。  月の出ない夜のことだった。 「これわたしのー!」 「あー! それ俺んだぞー!」 「これこれ、喧嘩するでない。取り合わずともたくさんあるから」 お爺さんはとても親戚が多いのか、それとも知り合いが多いのかわからない。 お爺さんの誕生パーティにやってきた人たちはかなりの数で、僕は豪華な食事を取り合う二人を何とかして引き剥がそうと奮闘中だった。 わざわざコックさんがやってきて料理を作ってくれるぐらいすごい人らしい、お爺さんは。 一階の食堂も十分に大きいけれど、お爺さんの誕生日を祝おうっていう人が多過ぎて玄関ロビーにまで溢れている。 どうやら本当にすごいらしい、あのお爺さん。 気になったのはその中にこの前やってきたあのお客さんがいたことだった。 あんなに煙たがってたのに招待するとは思えないし、何より挙動不審だった。やたらとキョロキョロして落ち着きがないし、何だか徐々に移動している。 僕はお客さんが食堂から出て行ったのを確認してそのあとをつけてみた。 入ったのは食堂だった。コックさんは何かの用事か出払っていて、 運ぶ予定の料理が既にたくさん用意されている。あ、あれは確かお爺さんの好物だったな。 お客さんはその料理の前に立ってまたキョロキョロと周囲を見渡してから、 ポケットから赤と白で構成された掌大のボールを取り出した。……モンスターボールだ。 「ふん……大人しく渡せばいいものを……」 その声と顔はこの前と違って全然優しくなくて、僕はゴーストタイプなのにゾクっとした。 貼り付けた笑顔と平常心の裏側にあったもの、それを全部剥き出しにしてボールを開く。 中から出てきたのは僕と同じゴーストタイプのポケモンで、ガス状の身体を持つゴースだった。 「まぁ、あんな嘘では意味がないか……ならば実力行使するまでだ。  確か東から二つ目の部屋だったな、あれがあるのは。全部消してしまえば証拠も残らない……」 クク、と笑ってお客さんは更に嫌な笑みを浮かべた。……嘘。病院を建てるとかっていうあの話? どこからどこまでが? 全部? 出てきたゴースは目の前の料理を見つめ、その大きな目をギラギラと輝かせている。お客さんがそっとゴースに耳打ちした。 「さぁ、お前のガスを侵食させるんだ。教えた通り、無味無臭の奴をな……」 ガス。ゴースのガス。……なんだっけ、ゴースのガスって確か変な効果あったような。そもそもゴースってアレだよね。 そのゴースのガスを料理に侵食させるって……あれ。つまりどういうこと? だってゴースって……―― その瞬間、僕は意識を失った。ゴーストタイプはなんていうか、人の感情に敏感なことが多いんだ。 あの時、僕が当てられたのは狂気。 あのお客さんが全身から放ったその異常な狂気の所為で、僕は隠れていた戸棚の中で気絶していたんだ。 ふと気がつけば僕は女の子の腕の中にいた。お爺さんと男の子が心配そうに覗き込んでいた。 ……男の子の手に、そしてお爺さんのすぐ近くのテーブルの上に、食べかけの料理があったんだ。 僕はゴーストタイプの身体がぞくりと震えるような感覚を覚えて、すぐに周りを見渡した。   ……ゴースがガスを侵食させたあの料理を、その場にいた全員が口にしていたんだ。 「ああ、これかい? あれは私の好物で今日来てくれているコックの得意料理でもあってね――」 そこから先は聞いていない。もう取り返しの付かないことが発生している。 だから僕は自分が一体何を考えているのかわからなくなって、 視界に飛び込んできたあのお客さんが例の料理を食べながらニヤリと笑っているのが見えて。僕は動いた。 ひっそりと、だが確かにそれを実行した。 お客さんのポケットにあった小瓶。僕はそれをキッチンのゴミ箱に捨ててやったんだ。 ……冷え切った頭が状況を冷徹に分析してくれた。 僕の頭は少しでもその状況をよい方向に持っていくことよりも、可能な限りの『仕返し』というものに注目していたんだ。 僕はわざわざ、お客さんから奪った解毒剤の小瓶を割れる勢いでゴミ箱に叩き付けた。 それを使ってお爺さんたちを助けようとかそんなことは微塵も考えていなかったんだ。 ただ……殺したかったんだ。苦しめばいいって考えたんだ。真っ黒な感情に支配されて、僕は真っ黒な顔で小瓶を砕いたんだ。 すぐには効かない毒、自分も食べていれば怪しまれないと考えていたお客さん。そんなお客さんよりも黒い顔を僕は持っていたんだ。 そう、殺したかった。死ねばいいって本気で考えたんだ。 血みどろの毒に蝕まれて苦しみ悶えればいい、解毒剤がないことに気付いて無様に屍を晒せばいいんだ。 『誰にだってある黒い心。全て曝け出してしまえば楽になれるのだ。殺意と敵意、そして狂気に塗れれば新たな世界が見える』 あのパーティが終わって、僕はじっとテレビの中で呆然としていた。何も考えたくない、何も見たくない。 お爺さんの誕生パーティは何事も起こらず終了したんだ。 数人が残って片付けをして、最後の些細な部分はお爺さんがちょろっとやるだけになってみんな帰っていった。女の子と男の子はかくれんぼに夢中だ。 「オバケ君はやらないの〜?」 僕は首を横に振った。する気が起きなかったんだ。だって僕は……そう、見捨てたんだよ? 男の子が右から二番目の部屋の……そう、あの裏側に隠れられるスペースがある奇妙な絵の部屋だ。 女の子に隠れられて全くわからなかったのがちょっと気に食わなかったのか、絵の秘密を知った男の子は早速そこに隠れたんだ。 「ここなら見つからないだろな」 女の子はそのカラクリの存在に十分過ぎるくらい気付いているというか活用しているんだけど。 僕は何も言わなかった。言ってもわからないけど。 自由にさせてあげようって思ったんだ。だってさ、もうできないかもしれないじゃないか。 絵に開いている穴からこちらを不思議そうに見つめている男の子と目があった。 「なんだよ、やっぱりやりたいのか?」 僕はやっぱり遠慮してその部屋を出て行った。振り返らないように、……何も、聞こえないように。 全部全部否定したくて一番端にある部屋に入ってみると、女の子が男の子を捜していた。 かくれんぼなんだから普通の光景なのに、僕は女の子をじっと見つめていたんだ。……目に焼き付けるように。記憶に刷り込むように。 「う〜ん、ここじゃないのかな」 僕は女の子が振り返る前に部屋を出て行った。同じなんだ、全部同じなんだ。 何もかも全否定したくて、僕はパチパチと小さな稲光を走らせながら一階の食堂へと下りてみた。 お爺さんが片付けを終えて、ゆっくりとしながらお茶を啜っている。 「ん、なんじゃ。飲むかい?」 僕はまた首を横に振った。飲めない身体だからだとか、そんな理由じゃない。 僕はお爺さんの幸せそうな顔を頭に捻じ込んで、二階の西から二番目の部屋、大きなテレビの中に潜り込んだ。  震えていたんだ。僕はただの黒い存在でしかないって。 『そうだ、お前は黒い。あの毒を盛った男も黒いが、お前もまたその暗黒の中にいる』  だってあのお客さんは、みんなを殺そうとしたんだ。だったら―― 『助けられるものをお前は見捨てた。その時点でお前は真っ黒なんだ』  僕はどうしたらいいんだ。僕は……。 『見続ければいい。思い出し続ければいい。お前の中に眠る悪夢を……終わりのない悪夢をその身に刻み続ければいい』  ――――――――     カチ コチ カチ コチ               カチ コチ カチ コチ               カチ コチ カチ コチ               カチ コチ カチ コチ               カチ コチ カチ コチ               カチ コチ カチ コチ               カチ コチ カチ コチ 時を刻む音など僕にとっては最早どうでもいいこと。流れる時は無意味となり、僕は砂嵐が流れるテレビの中で屋敷を見つめていた。 あの日以来、もうこの屋敷からは意味そのものが消えていた。いつしか屋敷はハクタイの森に飲み込まれて街の一部ですらなくなって。 そういえば、あの時キッチンに捨てた解毒剤はどうなっただろう。『毒々』によって蝕まれたこの屋敷に、最早吐息などありはしない。 時計が無駄な時を刻む音と、僕の身体から流れる電気を得て動き続けるテレビの砂嵐。 それだけ、もう何も聞こえはしない。ただ時計の音やテレビの音はいつしか耳から消えていくけど、あの音だけは聞こえ続ける。  ……違う、これは声だ。 いつも僕に囁きかけていたあの声。あの変なカラクリの絵の中から、何に例えたらいいかわからない……そう、黒い声で語りかけてくる。 『悪夢は終わらない。この固定化した悪夢はいつまでも続きお前を蝕む』 誰もが狂い猛り黒い意識を露にする。僕はその真っ黒な海に溺れて抜け出せず、ただ次の目覚めを待つしかなかったんだ。 ……僕が一体何をしたっていうんだ。 『違う、お前は何もしていない。……呪われているんだ』 意識の中を冷たく轟くその黒い声。呪い? 何が? 『この屋敷だ。この屋敷全てが呪われている。とある一端から呪いがあふれ出し、瘴気となって屋敷に充満している』 意識の中、目の前の闇がぐにゃりぐにゃりと蠢いている。 その中で形作られていくその存在は、じっと僕を見つめていた。 真っ黒な世界の中で輝く血色の瞳があらゆる方向に線を引いている。 一端? ……どこから? 『絵だ、ロトムよ。伝承の中に紡がれる私を模した絵に私の悪夢が染み込んでいる。私の悪夢に当てられた者共がこぞってこの絵を欲しがり……』 死んでいくっていうのか。それが屋敷に充満して、屋敷に関わった人間は死んでいくっていうのか。 お前の言う悪夢ってのは、全部全部殺さないと気がすまないっていうのか。 この悪夢は、終わらないのか。 『結局のところ人の業だ。ロトムよ。人の業はあらゆる制約を解き放つ。  例え他の誰かを殺すことにも戸惑うことがなくなる。目的のためならば人はどこまでも黒くなれる」 だったらアレもなのか。お爺さんのお父さんの話。あれも人の悪意? あれも誰かが殺した? 絵の悪夢に当てられた誰かが突き落として、地面を赤く染めたっていうの? 『お前に呪いの席は用意されていない。お前が立つのは悪夢の舞台。  役者は座れない、舞台の上で踊り狂うのが仕事だ』 食堂に並べられた椅子。呪われ悪夢に犯され、ただおぼろげに存在し続ける“彼ら”が死んだ目で何かを睨み続けている。 呪われた人たちの椅子。つまり、これだけの数の犠牲者がいたということ。 ……いや、違うかな。犠牲者なんかじゃない。この人たちだって、黒いんだ。 自分の欲望のままに黒い部分を剥き出しにして、悪夢の中に飛び込んでいったんだ。 この人たちは犠牲者じゃない。……あれ、どうなんだろ。加害者、じゃないし。 唯一言えることは、 「見せてくれ、最高の恐怖に歪んだお前の顔を……』 僕もまた、違う形で悪夢に犯されているんだと思う。  ――――――――     カチ コチ カチ コチ   全部全部消えていく。でも一人じゃないんだ、みんないるんだ。みんなこの屋敷にいるんだ。   一階の食堂にはお爺さんがいるし、一番東の部屋には女の子もいるし、その隣には男の子がいるんだ。寂しくないし怖くもない。   例えお爺さんと女の子の足が動いていないとしても。どっちも虚ろな目をしているとしても。   僕は気にしない。男の子は絵の中でずっと目をギョロギョロさせているけど、やっぱり気にしない。誰も息なんてしちゃいないけど、気にしない。   ああ、もう一人いた。   もう何もありはしない。全て冷え切った刃によって紡がれて、冷たい掌の上で踊り狂う。   ここが僕の世界。僕のいる場所。僕の、ぼくの、ボクノ――――     例え悪夢だったしても、構わないんだ。     吼えろ、苦しめ、もがけ、そして朽ちろ。それが悪夢の望む畏怖のシナリオだ。 『これは悪夢だ、ロトム。終わることのない、永劫の黒い世界……』  求めるものは、壮大な悪夢だ。  椅子の数は現在、十五個。半透明の椅子が、一個。更なる恐怖と死をここに――     ボロボロに朽ちた玄関の扉の向こう側。何も知らない新たな犠牲者さん。     ようこそ、黒い悪夢の中へ。     一緒に、呪われよう。  ザザ、ザザ。ザザーーーー――――