腕を競い合う友。……そんなものじゃない。 負けたくないライバル。……そんなものでもない。 越えるべき目標。……そんな甘いものじゃない。 倒し、息の根を止めるべき敵。……そんなものだ、理由なんてない。 そうだ、最初から理由なんてない。俺たちが戦う理由なんて存在しない。 その宿命は、先の代から延々と引き継がれる記憶だから―― そんなものだ。彼らの関係なんて。 その程度でしかない。彼らの“世界”なんて。 ―――読みきり作品 : 『緋白と紫黒』――― 晴れた空の下。自然溢れるその場所には似合わない甲高い音が聞こえる。 金属が――否、金属級の硬度を持つ何かがぶつかり合う音。互いを削りあう音。 そんな騒々しさに、二匹のジグザグマが茂みから顔を出して……慌てて引っ込んだ。 鬱蒼と茂る森の中。何者かが切り開いたかのようにその場所は、邪魔になるものがないうってつけの場所。 ……そう、邪魔なものは何一つない。その場所は彼らのためにあるように。 白い影と黒い影が、己の武器を光らせて踊り狂う。 傍らの小河が、戦場に似合わぬ透明さを保って流れていく―――― 『うぉぉおおおお!!』 『はぁぁあああ!!』 長く黒く鋭い爪が、敵の尻尾による斬撃をむりやり弾き返した。 生物の尻尾とは思えぬ甲高い音が響き、尻尾の主は脚のない身体で数歩後退する。息が上がっている。 弾き返した側も相当疲労していた。大きく鋭いその瞳は、戦意を失わずに燃え滾っている。 彼は戦闘時特有の二足歩行で、前脚の爪を構えた。相手も鋭い尻尾を持ち上げる。 次の一撃で最後―――語らずともお互いの考えを察して、……… 互いの武器が、互いの顔面を殴るように一撃した。  …………………………………………………… ――――互いの技にやぶれて何分経っただろうか。 仰向けに倒れて空を流れる雲を眺めるのにも飽きて、爪を持った猫が大声で罵った。 『だあああああ! まーた引き分けかよオイ! 何回目だ!?』 そんな猫に対し、蛇は対照的で物静かな声色で答える。 『……通算、126戦126分けだ』 『何でてめぇなんかと引き分けなきゃならねぇんだ! いい加減胸くそ悪ィ!!』 『それはこっちのセリフだ。……クソ』 四肢を伸ばして大の字になってぶっ倒れたのは白い猫。 目の上に稲妻のように赤い体毛が走り、それらは胴の至るところに発生している。 目つきは絵に描いたように鋭く、猫科全開の双眸。獲物を見つける捕食者の目。 しっかりした足腰と、戦闘時に役立つ前脚の爪は二本。ふさふさした尻尾は張りをなくしてだらけている。 全身の力を抜いてぶっ倒れたのは黒い蛇 仮面のような黄色い皮膚が顔に張り付いており、その中で猫と同じぐらい鋭い目が半開きになっていた。 上顎から生えた長く鋭い牙が二つ。その真中からチロチロと細い舌が覗いている。 最も独特なのは、長い胴の先にある尻尾。刃物のような形をした不気味な武器。 前者をザングース。後者をハブネーク。 遠い先祖の代から戦い続けてきた、永遠のライバル―――  ――――――――――――――――――――――――――――――― 東の森を見渡す一つの影。 樹齢千年は軽く越えているであろうその大木の天辺に、彼はいた。髪のように長い白い体毛を靡かせて。 その体毛とはかけ離れた身体。―…というか、それ以外に体毛はない。 かわいく飛び出た長い耳とは裏腹に、目は鋭いし口はでかい。体毛が髭のような形を成している。 彼はゲタのような形をした脚で平然と立って、どこまでも続く森を見下ろしていた。 視界に入った白い影を見つけて、 『……またか』 ぼそりと呟いて、飛び降りた。 『クソ!クソ、クソ!! 腹が立つぜチクショウ! 今日こそブチのめせると思ったのに!!』 ボロボロの身体で、ザングースは愚痴を零しつつ歩いていた。 説明するまでもなく、先ほどのハブネークとの戦いを振り返っていた始末。 結局126戦目も引き分けに終わり、とにかく彼は苛立っていた。ただただ怒っていた。 これだけ戦って未だ決着がつかないというのもあるが、いつまでもあのハブネークに苦戦している自分が嫌だった。 歩きながら、彼は自分の視界にチラホラする前脚を見つめる。 剥き出しの地面を踏みしめる前脚の先に二本の爪。ハブネークの刃と打ち合った自慢の爪。 刀でいう刃こぼれをしている爪。あとで研ぎなおす必要がある。 来たるハブネークとの再戦を考えている最中、東の森の中心に聳える大木の前に来ていた。 根元から見上げても天辺は見えず、自由気ままに生い茂まくった枝と葉が視界を遮っている。 ――不意に何かが着地する音が聞こえ、ザングースは彼に聞こえないように舌打ちした。 『………ヤベ、見つかっちまった……。ジジイの寝床に来ちまうなんて……』 『聞こえているぞ、ヒシロ』 重々しくもハッキリした声色でグサリと刺され、ヒシロと呼ばれたザングースは愛想笑いを浮かべて振り返った。 『よ、よおテンマじい! 久し振りだなァ!』 『今朝会っただろうが』 『あれ? そうだっけか? あ、俺ってば昼飯まだだから、この辺で……』 と言いつつ振り返り、ダッシュで逃げようと準備を整えて。 風が舞い起こり、目の前にテンマの顔面がなかったら、とっととトンズラしているつもりだった。 『うおおおお!?』 『そんなに驚くなバカモノ。軽く傷つくわ』 長い鼻と葉でできたうちわ。それがテンマの特徴だった。 あのうちわが舞い起こす風に乗って凄まじいスピードで移動する。それがテンマの武器。 この森の長ともいえるダーテング、テンマに捕まった以上、彼はボロボロボディの理由を吐かざるを得なかった。 『こんのバカモノがァァァァ!!!』 怒声と共に巻き起こった突風が、ヒシロの身体を簡単に吹き飛ばした。 吹っ飛ばされた以上どうすることもできず、彼は運悪く樹木の幹に顔面からブチ当たる。 ズルズルと顔面と樹皮を擦り合わせながら地面に突っ伏すと、すぐさま起き上がって罵声を上げた。 『この……クソジジイ!! いきなり何しやが――』 『西のハブネークと戦りあいおったからに決まっとるだろうがァァ!!』 綺麗な跳び蹴りだった。高齢のくせに相変わらず動きが速い。 立て続けに顔面に打撃を受けて、ついにヒシロは倒れた。これぞまさしく戦闘不能。 顔面に残ったゲタの跡を摩りつつ、彼はよろよろと起き上がる。 『くそ……仕方ねぇだろうが。俺はザングースでヤツはハブネーク! 顔を合わせたら戦う以外にゃ何もねぇ!』 『だった顔を合わせるなっつーかお前元から戦いに行っただろうが! いい加減にせんか!』 ヒシロの額をテンマの長い鼻が突付きまくる。それはもうドスドスと。ドスドス、ドスドス……。 痛打を与えつつもテンマはそのでかい口でまくし立てた。 『お前らの先代からの因縁は知っておるわ。ザングースとハブネークの関係ぐらい百も承知!  だからこそ…。お前のことだ、どちらかが息絶えるまで戦うつもりだろう!!」 『ああその通りだよ。俺とヤツはそういう仲だ。  出会ったら最後片が付くまで戦りあうしかねー……ってかいつまでどついてんだコラァァ!!」 お返しとばかりに爪で薙ぎ払うが、すでにテンマは爪の効果範囲から飛び退いていた。 樹の枝に器用に立つと、右手のうちわを横薙ぎに振るい、 『とにかく、もう西のハブネークと戦うことを禁ずる!  森の年長者として、森の仲間が意味のない戦いに身を投げ出すことなど黙って見てられるものか!!』 それだけ言い残し、軽快な身のこなしでテンマは大樹の天辺へと戻っていった。 噂によるとテンマはそこから森で起こった全ての出来事を見下ろしているとか。盗み見もいいとこだ。 彼はテンマの大樹をぼんやりと見上げていたが、不意にどさりと座り込んだ。大樹を背もたれにして。 『くそ……。どいつもこいつも腹が立つ…。テンマのジジイも……シクロの野郎も……!!』 ハブネークの斬撃に喰らいつかれて負傷した左前脚の傷を舐めつつ、毒づいていると、 『あ〜あ、あんたまたシクロと戦ったの? こりなわねぇ……』 『うるせぇ! 俺が何しようが勝手だ! ……っておおおお!??』 いつのまにか覗き込んでいた顔に、ヒシロは必要以上に仰天しつつ後ずさり。 ……なんとなく傷ついたような気がして、突然の訪問者は機嫌悪そうに、 『そんなにびっくりしなくてもいいじゃない。軽くヘコむわ』 『いや、普通驚くわ! 何しにきやがったネネ!!』 紫色の毛玉のついた尻尾を揺らしつつ、そのエネコロロは機嫌の悪さをそのままに、 『何しにって、普通に散歩中なんだけど。ここは森の真中なんだから通りかかっても普通じゃない』 『う……、まあ確かにそうだけどでもそのなんつーか……ごめんなさい』 なぜだか、謝りたくなった。しかも敬語で。 『いい加減飽きない? ま、人生の九割をケンカにつぎ込んでるあんたに言っても今更ってカンジだけど』 『……お前張り倒すぞ』 呆れるくらい蒼い空は、こんな気分じゃなければのんびり眺めていたかもしれない。 太陽が真上に来る少し前、西のハブネーク・シクロと戦って引き分けになった以上、今日一日は最悪気分で過ごすことになる。 大体三日に一度のペースで戦っているが、引き分けに次ぐ引き分けであり………腹が立つばかりである。 しかめっ面なヒシロに、ネネは他人事とばかりに、 『そーだ。いい加減勝つなり負けるなりして決着つけちゃいなよ。  そうすればテンマさんの悩みも減るじゃない』 『決着はつけるが負ける気はねぇ。ハブネークに負けるくらいなら死んだほがマシだ。  ………つーかテンマに「さん」付けすんなよ。ただのジジイだろ』 『ただ単に負けず嫌いなだけじゃない。 それにテンマさんは一応この森一番の長寿さんなんだから敬わないと』 そんなもんか。そんなもんよ。と言い合う仲だ、ネネとは。 ヒシロが何かすると決まってちょっかいを出してくる。そんなエネコロロだ、ネネは。 彼女がエネコのころからの付き合いだった。いつもいつもからかいにやってくる。 特にシクロと戦った日は確実に絡んでくる。どこから情報を仕入れてくるのかは知らない。 エネコのころは完全無視で通してきたが、偶然見つけた「月の石」とやらで進化して以来、やたらと態度がでかくなった。 態度と比例して頻繁に顔を出すようになった。迷惑以外の何者でもない。 『………あんたさ、あたしと喋ってる間もシクロさんを倒す算段考えてるでしょ』 『おおその通りだ。悪ィか? 俺の生涯はシクロをブチのめすために捧げられてんだ。どう使おうが俺の勝手だ』 ……唯我独尊というべきが。彼の頭の中はケンカのことでいっぱいらしい。 大体からしてシクロとまともに会話をした記憶もない。全ては爪と刀で語られる。 相手を罵る言葉しか吐いたことがなく、それ以外必要ないものだと思っている。 はあ、とため息をついて、ネネは付き合ってらんないと呟いて背を向けた。 うるさいヤツがいなくなってちょうどいいと考えていると、彼女は突然振り返った。 『うお! ど、どした?』 『何もそんなに驚く必要ないでしょ』 心の中を読み取られたような気もしたが、ネネにそんな力はないと言い聞かせて平常心を保つ。 ちょっと不満そうなネネは、エネコロロらしくころっと表情を変化させ、 『セナさんがまた予言してたよ。な〜んか不穏なカンジの予言』 東の森の外れに位置する大樹。テンマの大樹ほどではないがその背は他の樹を軽く凌駕する。 その大樹の天辺に、ネイティオのセナはいる。毎日毎日朝から晩まで微動もせず。 いつメシ食ってるんだと聞いてみたりもしたが、彼は『空腹を感じたら』としか答えなかった。だからいつなんだ。 彼らネイティオはその両目で過去を見たり未来を見たりしているらしい。どうもピンと来ないが、 たまに下りてきたとき、この森に関する妙な予言を残していく。それが全部当たるからさすがネイティオといったところか。 『お、久々だな。で、今度はなんて?』 あろうことかテンマの大樹で爪研ぎを始めたヒシロ。 あとでどうなっても知らないよと言ってから、ネネはセナの予言をそのまま復唱した。 ―――緑の世界にヒトの気配在りし時、緑は紅に塗り替えられる。    双方の獣が咆哮を上げ、その叫びは神の耳を貫き通す――― 『緑の世界ってのはこの森か……。紅なんて縁起悪ィ。火事でも起きるってか』 彼なりに解釈しつつ、ヒシロはセナの予言をもう一度頭の中で唱えてみた。 緑の世界にヒトの気配……つまりニンゲンが来るってのか。 前みたいにただ通り過ぎてくれりゃあいいのに…。ニンゲンなんてなんでいるんだろう。 中には自分を捕獲しようと機械の球からポケモンを出して攻撃してくるが、彼の爪の前じゃザコだった。 『…………』 『……オイ、どした?』 なぜか呆然と立ち尽くすネネに、ヒシロは怪訝そうに訊いてみた。 彼女は何かボ〜ッと考えている様子だったが、不意に合点がついたらしく、 『あ、そういう意味だったんだ! セナさんの予言!』 『いや、いまさらかよ!?』 『うむ……。セナの予言か。これは気をつけねばなるまい』  …………… 『こらジジイ。いい加減さりげなく現れるのやめろ』 『そうか? こっちとしては反応がおもしろくて病み付きになる』 かっかっかと威勢良く笑うダーテング。彼は音もなくヒシロの横に立っていた。 相変わらずでかい口は、その笑い声をより一層大音量にする。 『予言にあるヒト。……確かに最近ニンゲンの目撃例がある。  ………ヒシロ。わざわざケンカ売りに行ったりするなよ? これはわしが解決しておく』 『あんだよおもしろくねぇ。ニンゲンなんざ俺が追っ払ってやるって』 『追っ払うついでにシクロと戦いに行く気だな?』 『やや! あんな所に見たこともねぇきのこが!!』 見え透いたウソで逃亡を図るものの、即座に跳び蹴りが入って顔面を地面に陥没させた。 制裁とばかりにソーラービームが炸裂する。……そんな毎日だ。彼の人生は。 西の森は、東と違い緑一色ではない。 広い草原とその中心を流れる河によって左右に分断された。それが西の森。 所々に転がっている小岩大岩は、美しい森と似合うようで似合っていなかった。 まるで森と荒地が融合したかのような不思議な場所。ゆえに生息しているポケモンもごちゃごちゃだ。 森らしくアゲハントやキノココ。荒地らしくエアームドやサイホーンなども生息している。 そんな森だ。西の森は。 『…………』 激痛を送り込んでくる全身の傷に悪態をつくこともなく、彼は西の森を闊歩していた。 すれ違ったサボネアが慌てて茂みに引っ込んだ。その姿を確認して。 西の森のハブネーク。東の森のザングースと戦い続ける、毒の刀を持つポケモン。 ただ無言で歩き続ける彼に声をかける者などそうそういない。いればそいつは変わり者。 そう、変わり者。この森に、そんな変わり者が数名いる。 『イヤッッホオオイ! なんかご機嫌斜めだねぇシィクロぉ?  斜め? 斜め?? ご機嫌傾斜???』 その湖の前を横切ろうとしたその時だった。そんな声が聞こえたのは。 見渡す限り青い湖の真中。ぽつんと顔を出した岩肌の上に、ヤツはいつものノリで踊っている。 満面の笑みで踊りまくるルンパッパ。機嫌が悪そうなシクロに声をかける彼こそ変わり者。 『この身体を見て分からないか、パール』 『わかるよぉ? 傷だらけだもんねぇ、ヒシロと戦ってまた引き分けたんでしょお? 飽きないねぇ〜。  飽きない? 飽きない?? 商い??? 商売????』 『………』 軽く腹が立ってポイズンテールの準備に入る。彼は湖の真中にいるが、身体をしならせて跳べば届く距離だ。 得意の一撃でうるさいルンパッパを黙らせようと構えて、 『まあ落ち着けシクロ。…あいつに付き合っていたら身がもたないぞ?』 新たに現れた大きな影に行く手を遮られた。 シクロよりも巨大な図体を持つそのポケモンは、湖からのっそりと現れる。 『どけ、ラズー。私にはあのふざけたルンパッパを沈める義務がある』 『どんな義務だ。……まあとにかく、少し落ち着け。引き分けなんてよくあることだ』 大きな腕を広げているのはその苛立ちの小ささを示しているのか。 だがシクロからすれば、それはパールへの道を遮る邪魔なものにしか見えなかった。 だが正直な話、ラズーと戦って勝てる自信はない。属性的な相性もあるが、 西の森の中でトップクラスの実力を持つラグラージ、ラズーと戦って勝ったヤツは数えるほどしかいないのだ。 自分もその数える中に入りたいが、ヒシロに勝てない自分がラズーに勝てるはずもないと考え、今はケンカを売るつもりはない。 『いくら引き分けでも百を越えるとムズかゆくなるものだ。  お前も経験してみろ。毎日イライラしてくるぞ』 『あいにく、俺の戦闘経験において引き分けは一度もない』 『……とにかくどけ。あのルンパッパを――』 『シクロがイライラしてる〜! ヒステリーヒステリー!  イライラ? ヒステリー?? イラテリー???』 『パール! いい加減にしないか!!』 『あははは! ラズーに怒られちゃった〜!』 ラズーの背後でふざけた声が聞こえ、続けて水しぶきが上がるのが見えた。 水中に逃げられた以上は分が悪い。いかに相手があのふざけたルンパッパだとしてもだ。 舌打ちして踵を返すシクロに、ラズーが静止をかける。 『最近この辺りでニンゲンがうろついているらしい。気を付けろ』 『ニンゲンが育てたポケモンなど脆弱なヤツばかり。返り討ちにしてくれる』 『……武器を所持している可能性もある。ほら……えっと、なんだっけ。鉛の弾を飛ばすヤツ』 『銃か? その辺りは岩連中に任せる。それだけか? ならば失礼する』 『ああ……いや、ちょっと待て』 『?』 『今日は乾燥しているから、火の元に気をつけろ』 『ハブネークの私が火を使うと思うか?  あんたこそ、皮膚が乾燥しないようあまり陸に上がるな』 ニンゲンに関する記憶といえば、自分を捕獲しようと躍起になる記憶しかない。 ハブネークは生息地域が少ない稀有なポケモンらしく、こぞって赤と白の機械球を投げつけてくる。 割ったり斬ったりして防いだり、万一吸い込まれても中から自力で脱出できる。……だが、どうも弱っていると無理らしい。 実際、傷ついた仲間が球に吸い込まれ、中でもがいていたらしいが失敗して連れて行かれた。 貴重のハブネークを捕獲してうれしそうなニンゲンの顔面にポイズンテールを見舞った記憶。かなり鮮明に覚えている。 他にも、機械球ではなく妙な鉄の筒をこちらに向けてくることがある。炸裂音が聞こえ、目の前の草むらが剥げた。 危険だと察知して逃亡した際、判断は正しかった。迫ってきた鉛の弾が掠めると激痛が走った。 そんな程度だ。ニンゲンに関する記憶なんて。 住処に帰ろうと歩いていると聞こえてきた、忙しない足音。 あいつか、と呟いて振り返ると、面識のある顔が茂みから飛び出してきた。 『アニキ、聞いたっスよ! またヒシロさんと戦ってきたんスか!?』 いつの日からかアニキと呼ぶようになった。自分の舎弟にでもなったつもりらしい。 妙に馴れ馴れしいグラエナに、シクロは視線すら合わせず、 『誰と戦おうと私の勝手だろう。それともお前の許可が必要なのか?』 『別に必要じゃないっスけど……。あんまり無理すると身体に悪いっスよ?』 『無理などしていない』 それだけ告げて去ろうとするシクロ。そんな彼を遮るようにグラエナが回り込んだ。 『無理してるじゃないスか。最近傷が完治する前にヒシロさんと戦ってません?』 『条件は同じだ』 ポチエナの頃から自分にくっついてくる彼を、シクロは嫌そうに見えて結構楽しみながら相手をしていた。 親のグラエナの姿を見たことはなく、恐らく一人身であろう彼を弟のように面倒を見た。 彼もまたシクロを兄のように慕っていた。別に悪くはない。 最近じゃあどこからかいろいろな情報を仕入れて自分に伝えてくれる。ヒシロの情報もよく持ってくる。 そんなポケモンだ。グラエナのグレイは。 『グレイ。シクロの動向は?』 『へ? 今は東に引っ込んでるっスけど……。なんで?』 『愚問だな。戦うためだ』 当然のようにさらりと再戦宣告をするシクロ。また戦うつもりらしい。 だがそんな彼をグレイはもちろん止めに入った。 『ちょ……! アニキ、今日の昼間に戦ったばかりじゃないっスか!  なんか今日中にまた戦うような口ぶりに聞こえるんスけど!』 『そう聞こえなかったか?』 またも当然のごとく。なんなんだ、このヒトは。 情報によればかなり激しい戦いをしてきたはずだ。なのに今日中に再戦? 『……アニキ。なんでそんなにヒシロさんと戦いたがるんスか?』 『それも愚問だ。私がハブネークでヤツはザングース。それ以上の理由が必要なのか?』 『………なんか悲しくないっスか?』 『何がだ』 ドスがきいたような声色だった。自然に出てしまったものだが。 だがグレイはビビってしまったのか、少し申し訳無さそうに、 『えっと……うまくは言えないっスけど。  ただ単に大昔の間柄ってだけで殺しあうのはなんか…。お互いに獲って食おうってわけじゃないんスよね?』 『あんなモノ食ったら腹下す』 『互いに顔合わせたら闘争本能が駆り立てるって前言ってたっスけど…。  アニキ、そんなもんに身体突き動かされるほど弱くないじゃないっスか』 確かに。たかが全身の細胞に刻み込まれた因縁に従う自分が嫌だった。 たかがハブネーク。たかがザングース。それだけなのに。 理由もなく生まれたときから宿敵と定められ、いつの日からか東のヒシロと戦うようになって。 森が西と東に分けられているのも、ハブネークとザングースが同じ場所に棲まないためだとか聞いたことがある。 親に教えられたのは生きる智恵とザングースの殺し方。たったそれだけだ。 ――何でだ。 何でザングースと戦わなきゃならないんだ。なんで――――― ―――今回でついに百戦目だ! 今度こそケリつけてやる! ―――上等だ。私の刀を前に地に伏すお前の姿が目に浮かぶ。 『……アニキ? どうかしたんスか?』 遠くから聞こえてきたような感覚だった。 半ば呆けたような顔を何とか元に戻して、シクロは怪訝そうにこちらを見上げるグラエナを一瞥する。 『いや、別に……』 『はあ……ってそうだ。アニキ、ちょっと情報』 『ん?』 『東の森付近で、ニンゲンを見たってヤツが何匹もいるんスよ。旅のトレーナーっぽくて、ガキの二人連れっス。  ヒシロさんと戦おうってんなら、中央の草原に行くだろうから、一応伝えとこうと思って』 『ん……そうか。わかった』 返事をしたような気がしなかった。 今更のように湧き上がった疑問が、彼の胸を掻き乱し続ける――― 『あ、ヒシロだ、ヒシロだ!』 『おお、お前らか。相変わらず一緒だな』 そのプラスルとマイナンに出会ったのは、住処に帰る途中だった。 いつも仲良く一緒にいるその二匹。……見方を変えれば、それは“自分たち”と正反対の姿だ。 互いの尻尾や頬の電機袋を擦りつけるコミュニケーションは、“自分たち”でいう爪と刃なのかどうかはよくわからない。 『ヒシロも相変わらず傷だらけだね、ナナン』 『そうだね、傷だらけだね、プララ』 いつものように仲良くケラケラ笑う二匹。日常茶飯事だ。 何が面白いのかよくわからないが、何となくバカにされているような気がした。 『傷だらけで悪ィかコラ。お前らみたいにのほほんと生きちゃいねぇんだよ』 『でもヒシロは自分から危ないことに首突っ込んでるよね、プララ』 『そうだよね、つまりバカってことだよね、ナナン』 『あ!?』 『わ〜い、ヒシロが怒った〜!!』 いつものようにプラマイコンビにからかわれて数分後。 地鳴りのような不気味な音が、ヒシロの耳に飛び込んできた。これも日常のようなものだ。 まるでドゴームの大声のようなでかい声だが、その主はドゴームではない。もっと別のポケモン。 ヒシロは両耳を倒すように塞いで、根源であるその木の根元を覗き込む。 多き目の樹木の根の下にできた空洞に、そいつはでかい図体を押し込んで寝息を立てていた。 カビゴンもびっくりのいびきを立てていたそいつに、ヒシロは声を荒げて叫ぶ。 『おいコラおっさん! いい加減うるせぇってんだよ! 近所迷惑だからなんかこう……蓋しろ蓋ァ!!』 『グォオオオ……オオオオオ……』 ヒシロの抗議を完全無視して眠りまくるケッキング。絶対聞こえてないよ、こいつ。 この窮屈な棲家の蓋になるような物がないか辺りを見渡したが、あいにくそんな物は見つからず。 今度来る時は何か大岩でも何でもいいから用意しよう。そうしよう。 または糞を練り固めて口や耳に栓をするとか。そうしよう、そっちのほうが楽だし。汚いけど。 「ああ! オニドリル!!」 地面に叩き落すと、そのオニドリルと呼ばれたポケモンはバウンドして気絶した。 その鳥ポケモンが例の機械球に吸い込まれていくのを、テンマは苦み潰した顔で見つめる。 東の森の外れ。出入り口とは違う――元々決まった出入り口などない――その場所で、テンマはニンゲンの子供二人と対峙する。 噂通りのポケモントレーナーで、この森にはポケモンを捕獲しに来たらしい。よくあることだ。 テンマは誰かが捕獲されてしまう前に追い出してしまおうと考え、自らニンゲンの前に現れた。 野生のダーテングなどなかなかお目にかかれないらしい、すぐさまさっきのオニドリルを繰り出してきた。 案の定、単調的な攻撃を繰り返すオニドリルを叩き潰すのに時間は要さなかった。 木の枝の上から突き刺さるテンマの眼光。 二人の内一人が小さく悲鳴を上げたが、もう一人は怖気づく所か凶悪に顔を歪ませ、 「くそ! 野生のダーテングなんかに舐められてたまるかよ! 行け!!」 懲りずに放たれた機械球からは、先ほどのオニドリル同様飛行可能なポケモンが現れた。 だがその姿はオニドリルと似ている部分を全く持たない。薄い幾枚もの羽が耳障りな音を響かせる。 黄色と黒の縞模様。赤く大きな目の上に二本の触角。そして、腕に大きな針と尻に小さな針。 「スピアー! 毒針だ!」 三つの針の先端から、小さな針が行く本も飛んでくる。一本一本は微々たるものだが、全て受ければ致命傷だ。 もちろんテンマは受けるつもりなどさらさらなく、その両手のうちわが巻き越す突風が全てを薙ぎ払う。 『その程度か……。笑止! 先刻のオニドリルと同じ末路を辿れ!!』 突風で怯んだその隙を逃さず、スピアーの目前にテンマが現れる。だが攻撃を与えず、掻き消えて……。 その背に強力な打撃を与えた衝撃を利用し、大きく跳躍。巨大な口を怯んだスピアーに向けて、 『これで打ち止めだ!』 放たれた闇色のエネルギー球が、スピアーを瀕死状態に追い込んだ。 バウンドして倒れ、痙攣しているスピアーをニンゲンが苦々しく機械球に戻す。 「騙し討ちから……シャドーボール!? 一介の野性ポケモンがこんな……!」 「もう止めようよ〜…。あのダーテング、めちゃくちゃ強いよ〜…?」 舌打ちして悔しがるニンゲンを、もう一人の気弱そうなニンゲンが撤退を申し立てる。 だが申し立てられたニンゲンは逃げる素振りすら見せず、新たなボールを手にとった。 「さっきも言ったろ! 野生のダーテングなんかに…!  負けてたまるかってんだ! マグカルゴ!!」 ニンゲンの言葉に信じがたい単語をあることと、機械球から現れたポケモンを正体を認めなくなかった。 聞き覚えのあるマグカルゴという単語。そのポケモンは確かに炎属性だ。 別に自分が草だからとか負けるとか、そんなことではなく。――単純に。 自分の背後に我らが母というべき広大な森が広がっているわけで。……そういうわけで。 隣のニンゲンが止めるのも聞かず、そのニンゲンはマグカルゴに指示を出した―― 「マグカルゴ! 火炎放射ァァ!!」 『……どうした、ヒシロ。いつにも増してご立腹だな』 自分を訪ねてきたザングースに、セナは視線すら向けず彼の心境を見破った。 その大樹は上まで上れば森一帯を見下ろせる。彼はいつもその天辺にいた。 森に予言を齎すネイティオ。名を、セナ。 『うるせぇ。あのプラマイコンビにからかわれたりケマのおっさんのいびき聞かされたりでむしゃくしゃしてんだ』 『そうか。だったらとっとと棲家に戻って寝ろ』 何とか彼のすぐ近くまで登りきる。セナが止まっている枝よりやや下にあった枝に腰を下ろした。 自分の体重を難なく支えきる枝に感心しつつも、下を見れば地上までかなり距離があることを自覚する。 ちょっと尻込みしつつも、彼はビビっていることを悟られないよう強きに、 『てめぇの妙な予言が気になったんだよ。ありゃどんな意味だ?』 『分からぬ』 きっぱりと言い切った。それはもうきっぱりと。 あまりにも清清しくて一瞬呆けていたが、 『……なんだそりゃ。てめぇが言った言葉の内容もわからねぇのかよ?』 『私は今まで自分の予言を解したことはない。ただ頭に浮かび上がった言葉を並べただけだ』 意味わかんねぇよ、と呟いて、ヒシロはいい加減メシにしようと大樹を下りようとして、 ………視界に入った妙な“色”。目に焼きついて離れないそれを、ヒシロは目を見開いて凝視した。 全身から嫌な汗が吹き出るようだった。逆にのどが一瞬で渇いていくような感覚。   森の一端が、赤い光を上げていた。 ―――――緑の世界にヒトの気配在りし時、緑は紅に塗り替えられる――――― 『いきなり当たりやがったぜ、セナ…! 火事だ!!』 『大変だアニキ! たいへんたいへんたいへんたい――』 食事中にも関わらず、グレイは騒々しく住処に突撃してきた。 小さな洞穴を加工して作り上げたその棲家は、お世辞にも広いとはいえない。 正直な話、グレイが入ってきたらかなり狭苦しく感じると、シクロは顔に出さず文句を言っていた。 『ヘンタイだアニキ! 東の森が!!』 『東の森がどうした? ……いや、ちょっと待て。お前今なんかおかしな単語口にしなかったか?』 『と、とにかくヘンタイなん……あ、ヘンタイじゃなくて大変なんっスよ!』 間違えそうで間違えないミスを堂々と犯しつつ、グレイはなんとかノリで言い直して。 『東の森が……火事なんスよ! かなりでかいっス!!』 本当にでかかった。その炎は。 テンマの口といい勝負とも思えなかったが、その炎のほうが勝っていた。とにかくでかかった。 呆然と見上げるヒシロは、自分の無力さを呪った。火事に気付いてもどうすることもできず。 森の仲間たちに炎の存在を教えるべく、ただただ走り回ることしかできなかった。 西の森と繋がるその草原。西のポケモンたち全員がその草原で、自分たちの故郷が炎に嘗め尽くされるのを見上げていた。 東の森の西側。テンマ曰く、そこから出火したらしい。それもニンゲンの手によって。 ニンゲンたちは森に火がついた瞬間、とっととトンズラしてしまったらしい。そんな生き物だ、ニンゲンなんて。 火の手はそこから少しずつ、少しずつ。自らの身体を大きくしながら、広大な森を汚染していく。 まだ無事な草原側の木々の向こうに、巨大な炎が青い空を赤く染め上げていくのが見えた―――― 周りを見れば、見たことのある顔から見たことのない顔まで多数。一様に森を見つめていた。 火の粉を散らす紅蓮の炎。全てを焼き尽くす灼熱の舌。全てを灰に変える焔の手。 森という場所で育ったポケモンたちにとって、炎を操るポケモンと接した経験は皆無に近く、自分たちと炎は無縁なものだと考えてきたわけで。 膨れ上がって勢いを増した炎は、もはや止めることができないほど肥大していた。 傍らのセナは『これも運命か』と自然の流れに身を任せる始末。 一介のザングースであるヒシロも、触れる者全てを焦がす高温の炎を前に成す術もなく、 『………ふざけんな』 セナにも聞こえないほど小さな声で、罵った。 『ジジイ!』 テンマが複数の水ポケモンと共に森から這い出たのはそれから数分後。 水ポケモンでも根を上げる炎を前に、さすがのテンマも草タイプゆえに疲労の色を隠せなかった。 全身すすに塗れたように汚れ、片方のうちわも炎に巻かれて欠けてしまっている。 『ギリギリまで行ってみた…。逃げ遅れた者はいないはず……』 『ったく無茶すんなよ! 草タイプの上にジジイなんだからよ!』 半ばバカにするように。半ば元気付けるように言ってみたものの、 テンマは片膝を着いたまま、顔を上げようとしなかった。訝しげに覗きこむと、 『わしの責任だ。……この火災は防げるものだった』 『!』 『あの時……火炎放射を避けなければ、木々に火がつくこともなかった…』 こんな時、どんな言葉をかけたらよいか分からない。 中途半端な慰めはかえって逆効果。――ヒシロの頭では、テンマに顔を上げさせる言葉を構成できなかった。 そんなヒシロの傍らに、黙って聞いていたセナが立つ。 『テンマ老。現状に後悔は無意味なもの。今はこの火災をどうするかが問題だろう』 『セナ! てめぇ少しはジジイの気持ちも――!』 掴みかかっても、そのネイティオは表情を変えず。 声色すら変えず、だがその言葉にも何かしら後悔が混じっていた。 『後悔で状況を打破できるならば、私は最初に炎が見えた時に後悔している』 水ポケモンたちの消火活動も成果を上げず、炎は少しずつ、少しずつその威力を上げていく。 炎の侵食を受け続ける森から聞こえる木々が倒れる音。それが、森の悲鳴にすら聞こえた――― 西の森のポケモンたちも、その大火事を見上げていた。 彼らにもその炎をどうにかする術を持たず。対処の仕様がない。 何もかも燃やし尽くす赤い牙。勢いを失わず、全てを飲み込んでいく……。 『……? おい、セナ…』 『なんだ』 ふと、妙なことに思い当たり、ヒシロはセナに一応確認を取ってみた。 まさか……。いや、そんなはずあるまい。セナはきっと首を縦に振るはず……。 『いや、見ていないが』 ――――テンマの耳に、その報告が遅れて届く。 プラマイコンビが教えてくれた。彼らの他にも、それを見たものがいる。 エネコロロのネネと、ケッキングのケマがいないこと。そして。 ……ヒシロが単独、二人を助けに行ったこと。そして――― その話を聞いた黒蛇が、そのあとを追ったこと――― 慣れ親しんだ森。その中を突っ切る獣道を、ヒシロは全速力で駆け抜ける。 いつもと違う高温の空気を無視して、全身から滲み出る汗も無視して。 前方に見える炎の壁は、必要以上に自己主張していた。その目前に来ても、炎は勢いを失う様子を見せない。 木々や茂み、草むら。それら全てを焼き尽くしながら、一歩一歩範囲を広める炎。 『くそ……こっから炎の領域ってか…』 なんだか炎に見下されているような気がしてならなかった。この炎が生き物なら速攻で殴り飛ばしているところだ。 だが炎に意志などない。可燃物がある限り、炎がどこまでも広がり続けるのだ。 ―――つまり、時間が経てば経つほど炎の範囲は広がり、脱出が難しくなる。 『ビビってられっか! 炎なんて無視だ無視! ぜってぇ熱いって言わねぇぞ!!』 炎の隙間にできた細い道に突っ込み……あまりの激しさにすぐさま叫んだ。 『あっつぅ!!』 『ネネのバカ野郎…! 定住しろってんだ、見つけずれぇ…!  まさかと思うけど、あのおっさんまだ寝てたりしてねぇだろうな……!!』 炎に包まれた森は、いつもの様子を一変させていた。 至るところに炎の牙が燃え滾り、道だった場所に居座って進路を塞いでいる。 あまりの熱さにやられた木々が倒れて、そこから火の手が上がって完全に壁と化す。――地獄絵のようだった。 ――ずっと前に誰かが言っていた。テンマだった気がする。炎は空気を吸って燃えているとか。 だとしたら、この森の空気は極端に薄くなっているということになる。なるほど、だからさっきから息苦しいのか。 ――ずっと前に誰かが言っていた。セナだった気がする。空高い場所は空気が薄いとか。 だとしたら、鳥ポケモンってのはすごいってことだ。いつもこういう場所を飛んでいるのか。 『はぁ……はぁ……』 身体が重い。理由は酸素が薄くなったせいだろう、全身の自由を奪われていくのような気がしてならなかった。 ネネはともかく、ケマならすぐ見つかりそうだ。なんてったって彼はケッキング。余計に動こうとしない怠け者。 つまり、火事に気付いて逃げ出していたとしてもあの住処の近くにいるはずだ。あのノロさならありえる。 ケマの住処である樹木の根元。その空洞を覗き込んで……彼は絶句した。 確かにそこに彼はいた。だが、その巨体は全く動かない。――まさか。 この炎の森にずっといたせいで、酸素不足で………。 『おっさん……おい、冗談じゃねぇ――』 『グオオォォ……グオオォォ………』 『……………』 その時、彼の頭に浮かんだのは二つの後悔。 一つ、こんなおっさんの心配して損したこと。 一つ、糞栓を用意し忘れたこと。まあ二つ目はどうだっていいが。 ヒシロは何となく、このぐうたらおっさんを殴り飛ばしたい衝動に駆られた。 『コラァ!! いつまで寝てんだこの超絶的ぐうたら野郎ォ!!  火事だぞ火事! この森始まって以来の大事件だとっとと起きろォォ!!!』 わざわざ彼の耳元で叫びまくり、彼の反応を見てみる。 ―――なかった。清清しいくらいに。 まだこの木は火がついていなかった。ほとんど奇跡だろう。いっそのこと放っておいてもいいが、 さすがに見殺しにしては後味が悪い。たとえこんな怠け者でも。 制裁方法をメガトンキックとブレイククローで悩んでいる、その時だった。そのぐうたら野郎がのそりと半身を起こしたのは。 『ぬあ………朝か?』 『昼過ぎだこのタコ!!』 ケマはその場で起き上がろうとして、――上には幹の天井があるわけで。 したたかにぶつけて痛がって、そしてやっとこちらに顔を向けた。 『ああ…ヒシロ? なぁにやってんだ??』 『あんたもうマジほっとくぞ!!?』 ぜえぜえと息を切らすヒシロ。そんな彼をケマは首を傾げながら見上げて。 その背後が赤く染まっていることに気付き、ケマはついに……というかやっとのことでその現状に仰天した。 『火事!?』 『………もうツッコまねぇぞ』 住処の出入り口はケマの巨体がやっと通れる程度の大きさだった。 半分寝ているような目で炎で巻かれた紅蓮の森を見渡し、 『……なんだこりゃ。なまらエライことになってんな』 『ああそうだよ。…ったく、俺が起こしに来なかったならあんた死んでたぞ! わかってんのか!?』 『まあ過ぎたことをほじくり返しても何にもならねぇべ。気楽に行こうや』 『気楽に行けるかこの状況でェェェェ!!!』 どうにもツッコミまくりの一日だ。というか最悪の日だ。 視界に必ず入ってくる炎はもう見飽きてきた。暑っ苦しいだけの自己主張が激しいヤツらだ。 『……で、どうすんだ? 俺を起こしにきただけじゃねぇんだろ?』 『あったりまえだ! あんた同様、ネネもこの森のどっかで道草食ってんだよ!』 『……ネネ?』 『エネコロロのネネだ! ああああもうヤダ! あんた先に逃げてろ!』 妙に自分のペースなケマを、ヒシロはもうやってられないとばかりにその場に残し。 どこにいるかも分からないネネを探し出すべく、とにかく走りまくるべく前脚を地について。 いざ走り出そうとした時、頭上で妙な物音がした。メキメキと、何かが砕けるというか折れるというか、そんな音。 嫌な予感がして見上げると、ちょうど破砕音が終了した。――炎で強度を失った……。 太い、火の手を上げる木の枝―― 『ヤベ…!?』  どん! バキィ…!! 視界の端から炎より自己主張が激しそうな巨体が現れて。 そこから伸びた太く長い腕が、炎の枝を一撃した。炎が掻き消えるほどの風圧。そして威力。 原型を残さず、炎の枝が砕け散った。巨体が視界の隅に消え、反射的にそれを追う。 ……一匹のケッキングが、脚ではなくその太い腕で着地していた。 『お、おっさん……!』 『今のが必殺、燕返し。……その内おめぇにも教えてやるから、そん時な』 とにかく走った。炎の壁に遮られた道は避け、できるだけ安全な道を走り続ける。 時折、背の低い炎は跳び越えた。ケマほど高く跳べず、尻尾に何度か火がついた。 何でついてくるのか訊くと、ケマはお前じゃ危なっかしいとのこと。実際のところは恩返しだろう。 一応ヒシロはケマを助けたことになる。だがヒシロもついさっきケマの燕返しで命拾いしている。お互い様のはずだ。 『森の仲間がやべぇってのに、……自分よりちっこいヤツが炎ん中走ってんのに、見捨てるわけにゃいけねぇだろう』 『悪かったな小さくて』 それから会話は弾まなかった。ヒシロの記憶を頼りに、ネネがいそうな場所を駆け巡る。 二つ目の当てが外れた時だった。彼がケマに背を向けて訊いてきたのは。 『……燕返しって、鳥連中が使える技だろ。何であんたが使えんだ? 教わったのか?』 『教わったさ。……人間にな』 ――一瞬、脳みその機能が停止したようだった。ケマの言葉が信じられず、何度もその言葉が木霊する。 ニンゲン? ニンゲン?? ――――ニンゲン!!? 何かが切れる音がしたのは、自分でも確認できたような気がした。 彼は憤怒の形相で振り返ると、その爪に溢れる気合いを込めて殴りつける。 ……その大きな掌で防御されて、弾き返された。 『ブレイククローか……。解せねぇな。気に食わなかったか?』 『あったりまえだろ!! ニンゲンはこの森に火ィつけたんじゃねぇか! そんなのに――!』 『俺が人間と一緒にいたのはもう数十年前だ。……立ち止ってる場合じゃねぇだろ』 走りながらの会話はスピードが落ちる。だが、こんな火の海の中じゃ全力疾走するのも無理があった。 でも、――でも、どうしても許せなかった。仲間の中に、あのニンゲンと一緒にいたヤツがいたなんて。  ――俺がナマケロの頃からその人間と一緒だった。ポケモントレーナーってヤツだな    いろんな場所を旅した。いろんなヤツに出会った。  ――……………。  ――俺以外にもポケモンがいた。みんな仲間だった。    俺が一番の古株で、いつの間にか六匹になっていた。  ――…………。  ――ポケモントレーナーの大会ってのがあって、俺らも出場した。 一緒に笑って、一緒に泣いて。……とにかく楽しかった。  ――楽しかった? ニンゲンと一緒にいてか?  ――おめぇにはわからねぇだろうが、みんながみんな今回火をつけた連中と同じってわけじゃねぇ。    心の優しいヤツだっている。俺のトレーナーもそうだった。ニンゲンだって俺たちと同じ生き物だ。  ――……優しいニンゲンなんているわけねぇ。で、そのヤサシイニンゲンとはどうなったんだ?  ――死別したよ。病死ってヤツだな。………あっけねぇもんだ。心臓が侵されて逝っちまった。  ――…………。  ――あいつ、死ぬ間際に礼を言ったんだ。今までありがとうってな…。  ――………胸くそ悪ィ。 『ちょっとー! 誰かいないのォ!?』 力いっぱい叫んでも、当然のように返事はなかった。 狭く暗いその空間の入り口を真っ赤に燃える巨木に塞がれて、出るに出られないこの状況。 森に隣接した崖の下。ポッカリと開いた小さな洞窟で昼寝をしたことが最大の間違いだったに違いない。 それも、炎に寄生されて巨木が倒れたあとにやっと目が覚めた。――かなり、後悔した。 『……どうしよ。ホントのホントにヤバイんだけど』 巨木と入り口の間には隙間がある。だがそれは物理的な話で。 巨木から燃え上がる炎がそれを邪魔して、ネネの退路を完全に塞いでしまっているのだ。 ……妙な心細さ。それ以上の、死の恐怖。叫ばずにはいられなかった。 『ねえええ! ホント誰かいないの!? ヒシ――』 巨木の胴を引き裂くように、亀裂が走った。狂いのない綺麗な両断。 一瞬、あの喧嘩っ早いザングースを思い浮かべ……。 真っ二つになった巨木の向こう側に、ある意味有名な黒蛇がいた。 『シ、シクロさん!? え、ええええ!?』 『……うるさいエネコロロだ。助けなければよかった』 もう完全に興味を失ったらしく、シクロは刃状の尻尾を翻して去っていく。 その背後にさっきのエネコロロがついてきていることにも気付いていたが、気にはしなかった。 自分としては早くヒシロを見つけたかった。早くヒシロを―― 『ね、ねぇ。あんたこんなとこで何やってんの? 逃げ遅れ……なワケないよね。  じゃまさか、あたしを助けに――――』 『勘違いするな高飛車猫。私はヒシロを助けに来ただけだ』 『へ?』 その言葉を理解できず、ネネは立ち止って呆然となった。 高飛車も気になったが、それ以上に妙に不可解な言葉。 ずるずると炎の森を歩いていくハブネークの後ろ姿を見つめて――置いていかれそうになって走った。 『な、何で助けるの? 敵同士でしょ!?』 『私の望みはこの手であのザングースを屠ること。こんな火事で死んでもらっては困る』 それから、何も喋らず歩いていく。 方角からして森から出るつもりはないらしい。やはりヒシロを探しているのか。 彼の話によれば、ヒシロはネネの他にケマを助けに森に入ったらしい。無謀というか何というか。 ネネを助けたのも計算の内なのか、彼女にヒシロが行きそうな場所を尋ねてくる。 ぼそりと呟いたシクロ。聞き逃そうになった。 『……珍しいな。ヒシロが冷静なんて』 『え? どういうこと?』 『私はヤツのことなどほとんど知らない。だがたった一つだけ、知っていることがある』 『………?』 『あいつはニンゲンを憎んでいる。放火の犯人がニンゲンだと知っていながらよくお前たちの助けに回ったものだ』 『ヒシロがニンゲンを? 何で?』 『……ウチの噂好きから聞いた。ヒシロは昔、ニンゲンに――――』 『撃たれたんだよ。ニンゲンに』 あまりにもあっさりと言い切るヒシロ。ケマは表情を変えず彼と平走を続ける。 ネネがいそうな場所。その最終候補地点に行こうとしている最中だった。 『知ってっか? ニンゲンがその妙な物体を動かすとな、筒の中から鉛の塊が飛び出してくるんだ。  見切れもせず防げもしねぇ。…あ、岩や鋼連中は防げたらしいけど』 自分の酷な過去を話しているにも関わらず、ヒシロの口調は全く変わらない。 もう慣れたのか。それとも、割り切ったのか―― 『嘲笑うニンゲンを、思いっきり睨みつけてやった。そしたら蹴られた。  ほとんど感覚もねぇ。こいつァさすがに死を覚悟した』 『……でも、生きてるな』 『皮肉にもニンゲンに助けられた。撃ったのもニンゲン、助けたのもニンゲン。  ………俺にとっちゃ、ニンゲンって生き物はワケのわかんねぇ存在だ』 『……………』 何が悪なのかわからない。何が原因なのかわからない。 ポケモンを捕まえるニンゲン。ポケモンを利用するニンゲン。ポケモンを殺すニンゲン。ポケモンを助けるニンゲン――― この火事の犯人がニンゲンだと聞いた時、まずはネネやケマを助けるのが先だと判断した。 今になってそれが正しい判断だったと思う。ニンゲンを追いかけてぶん殴るって考えもあった。止めといてよかった。 もう、関わらない。全てのニンゲンを知らん振りする。……そう、決めた。心のどこかで。 『あ、ヒシロとケマ!』 『あぁ…やっと見つか――』 『おいコラァ! 何でてめぇがいるんだこの蛇野郎!』 『チ、生きていたか。性悪猫』 合流していきなり噛み付きあう二人は、完全無視の方向で決めておく。 ヒシロがケマを、シクロがネネを救出し、やっと互いを見つけることに成功して。 ――唯一の誤算が、シクロが森に入ったことをヒシロが知らないことだった。顔を合わせて取っ組み合いになることぐらい予想しておくべきだったかもしれない。 ネネが軽く後悔する中。背後で大きな物音が響き渡った。何かが倒れるような、そんな地響き。 『……あれ? おっさん、こっちに道なかったっけ?』 『あったな。……数秒前まで』 複数の樹木が倒れ、ヒシロたちが来た道を塞いでしまったのだ。――同時に、その反対側でも同じような出来事が。 『……閉じ込められたな。呑気にだべってなければこんなことに……』 『あ!? てめぇ、俺のせいだっていいてぇのか!?』 『やめとけ二人とも、ケンカしている場合じゃねぇべ。このままじゃ全員丸焼けだぞ』 『丸焼けぇ!? いやああああ! こんなとこに死にたくな〜い!』 『あ〜……うるさい。助けに来てみればお前ら、何か楽しそうだな。邪魔だったか?』 ギャーギャーわめいていた二匹と、この状況では気持ち悪いくらい落ち着いている二匹。 そんな彼らに静かに割り込んだ五匹目は、倒れた大樹を持ち上げた姿勢で立っていた。 『ラズー…? お前…!』 西の森のラグラージ、ラズー。確かにラグラージほどの怪力でなければああも簡単に樹を持ち上げるなど不可能だ。 コロコロと態度を変えて喜ぶネネと、やっとここから出られると安心しているヒシロとケマを尻目に、 シクロは、ラズーの顔色が悪いことに気付く。皮膚が……。 『皮膚が乾いているぞ…。大丈夫か?』 『ああ、平気だ。大丈夫だ』 絶対大丈夫じゃない。これはシクロの勘に過ぎなかった。……そして。 再び妙な音が聞こえた。それに逸早く気付いたヒシロは慌ててあたりを見渡して……。 彼らを取り囲んでいた“全て”の樹木が、炎の中で悲鳴を上げながら倒れ掛かっていた―― 『ケッキング! 受け取れ!』 『うお!?』『きゃ!?』 シクロの長い身体がネネの身体を絡め取り、強引にケマに投げつけて。 立て続けにケマの背後に回ったヒシロが、勢いをつけてケマのケツを蹴り飛ばした。 『オラァ! ネネを頼むぜ!!』 『うが!?』 メガトンキック……ほとんどドロップキックが、ケマをラズーのすぐ側まで吹っ飛ばした。 ネネを両腕で抱きかかえた状態ゆえに、思いっきり顔面から地面に突っ込む羽目になった、 『ぐお……おいヒシロ! おめぇいきなり何しやが―――!』 振り向いて怒鳴ろうとして――首根っこを掴まれて、強引にその場から後退させられた。 乾いた青い手……恐らくラズーという名のラグラージだろう。わけもわからず引きずられて、 ……今の今まで彼がいた場所に、数本の樹木が炎の中で叫び声を上げながら倒れた。 ―――ラズーに引っ張られなかったらどうなっていたか。ネネと一緒に押し潰されただろう。 『くそ……おいシクロ! 生きてるか!?』 『ああ……大丈夫だ』 炎の壁によって向こう側が全く見えない。ラズーの問いかけにシクロの声だけが返ってくる。 『どういうつもりだ!? 何で――』 『自分の身を最優先にしたら、その鈍いケッキングとエネコロロが潰されていた。  ……それ以上の理由が必要か?』 『…………!』 『ねえ! ヒシロは無事!? 大丈夫!?』 『おお! 心配すんな、ピンピンしてるぞ!』 『ヒシロ、少し待ってろ。すぐに何とか助け出して――』 ケマはすぐさま辺りを見渡し、この炎の檻をこじ開ける方法を画策して。 ……飛んできた声に、己の耳を疑った。 『バーカ! 俺のことは気にすんな。お前らだけで脱出しろ!』 『は!? あんたちょっと何言って……!』 『おっさん! ネネ連れて逃げろ、頼んだぜ! こっちはこっちで何とかすっから!!』 『ラズー。二人に水をかけながら避難してくれ。ムリはするな』 『放して! 放してよ、ヒシロが!!』 ケマの太い腕の中。ネネの申し出は受け付けられず、ケマは全速力で駆け抜ける。 ラズーが時折かけてくれる水のおかげで、かなり楽ではあるが。 小さな歯で噛み付いて強引に解かせようとするが、ケマの意志は固かった。 『ヒシロは大丈夫だと言った。何とかすると言った。……それをおめぇは信じねぇのか?』 『…………』 炎が侵食範囲を広げたのか、その領域を脱出するのに時間を要した。 『……は〜あ、何が面白くててめぇ何かとツーショットなんだよ』 『それはこっちのセリフだ。……まったく』 火の粉がちりちりと空間を漂う。四方を炎の壁に囲まれたその場所は、暑苦しい監獄だった。 二人は珍しく、互いに背を預けて座り込んでいた。どこを見ても炎だらけの色気のない風景を眺めることしかできない。 空を見上げても黒煙だらけ。視線を下に移せば紅蓮の壁―― 『……腕は、平気か?』 『てめぇなんかに心配されたくねぇよ。てめぇこそ何嘘ついてんだ。思いっきりケガしてんじゃねぇか』 『私は生きているかどうか問われて大丈夫だと言っただけだ。お前こそ嘘をついたな?』 『ああでも言わねぇと心配するだろ、あいつ』 ――互いのケガ、右腕の火傷と尻尾の裂傷を罵り合って。 二人は何も話すこともせず、炎を見つめ続けた。獲物を狙ってじりじりと忍び寄る炎の指先だけを―― ……たまたま視界を落とした時だった。 『お、いいもん見っけ』 『?』 死と隣接したこの状況とはかなり似合っていない発言。 足元に転がっていた何かを拾い上げるヒシロを、シクロは訝しげにそれを見つめた。 『何だ?』 『マトマの実。俺辛い味好きなんだよ』 この非常事態にも関わらず、真っ赤に実った勝手に噛り付く。 先ほどの倒木に生っていたものだろう。よく炎に焼かれなかったものだ。 どんな神経してるんだと半ば呆然と見つめた。美味そうにマトマの実にしゃぶり付くヒシロはかなり幸せそうだ。 不意に、その幸せ顔が消え失せた。 『…こんな時だからだよ。死ぬ前に好物食えてよかったさ』 『……諦めたのか?』 『諦めるもくそもねぇよ。見てみろ、全く逃げ場ないだろ』 樹の実を持っていない手が、紅蓮の炎に包まれた森を指す。 炎は何処まで続いていた。少しぐらい熱いのを我慢すれば――なんていうのは夢のまた夢だ。 『もう100%無理だろ。……ほれ、辛いの好きか?』 『辛いのは好きだが、人の食べかけを食べる気は全く無い』 そう言って、シクロはヒシロとは別の樹の実を刀の切っ先で軽く刺す。 マトマの実より小ぶりの赤い実だ。 『クラボの実か……。できればノワキの実を食べたかった』 『ノワキ?』 『マトマより辛い実だ。たった一度しか食ったことがなかったが、なかなか美味いぞ。  噂によると、ノワキを越える辛さを持つチイラの実というものもあるらしい。食った者の攻撃力を一時的に上げるとか』 『ほ〜! 辛い上に強くなるのか。食ってみたかったな〜……』 なぜ、こんな状況でそんな他愛のない話をしたかわからない。 無性に話したくなった。もう少しで炎がその牙を自分に立てようとしている状況を無視したかったのかもしれない。 足元に草を少しずつ焼き尽くし、赤い化け物は歩みを進めてくる。 ふと、何かが切れた。吹っ切れたのとは違う。本能が告げてくる衝動。 『………死にたくねぇよ』 『私もだ……』 『まだいろいろやりてぇよ……。お前もぶっ飛ばしてねぇよ……』 『こんな炎に焼かれてたまるか……。こんな死に方など望まない……』 取り憑かれたように呟く。もはや脳が告げているのではない。 口が勝手に動く。それに呼応して身体も動く。 ゆっくりと身体を動かして……天を仰ぎ見た。赤い輪の中に不定形な黒い輪。中心が青く―― その青すら黒く染まり始めたとき、二人は―――  こんなところで……死んでたまるかァ!!! 『……ん! んんん!! いいねいいね!  来るよ! 来るよ!! どっさり来るよ!!!』 突然消火活動を止めたパールは、黒い空を見上げて楽しく叫んだ。 彼の周りには大量の水ポケモンたちがへばっていた。もう水は出ませんとばかりに干からびている。 『どうしたパール! 止めないで続けろ!!』 彼同様最後まで水を吐き出し続けていたラズーに叱咤されても、パールは空を見上げて踊り出す。 黒煙の塊。炎に焼かれた木々が、天に召されて帰っていくようにも見えた。 ――違う。アレは黒煙じゃない。もっと別の、別の……。 その黒い“何か”の正体に気付き、ラズーは乾いた身体をむりやり突き動かして走り出す。 テンマにこのことを伝えようとして…途中で心配そうに森を見つめていたケマと出会った。 一足先に朗報を手に入れて、ケマは嬉しさのあまり叫びだす前に、ラズーとは別の方向に走り出した。 それを聞いて、ヒシロの帰りを待つネネは――― 『え………ウソ。ホント!?』 『冷て…』 何かが、炎の真中の二人を叩く。 熱いはずのその空間に、ぽつりぽつりと、何かが――― 『雨……だ……』 緑の世界にヒトの気配在りし時、緑は紅に塗り替えられる 双方の獣が咆哮を上げ、その叫びは神の耳を貫き通す セナの予言が、自然と頭を過ぎっていった。 最初は小雨だったが、それは一気に勢いを増していく。全身を舐める炎が冷たい至福へと変わっていく。 黒雲から吐き出される自然の恵み。無限の滴。悪魔のような炎を沈める、神の涙――― ――――――――――――――――― 『………はは…は………』 自分の意志だったのかどうかわからない。 その笑いが何を意味しているのかどうかもわからない。目の前の現状は呆気なく変化していた。 自虐的な笑みなど、生まれてこの方一度もしたことがなかった。 ―――雨は止んでいた。恐らく通り雨だったのだろう。 『まったく……こんなオチとはな』 『ああ……ちっくしょ、セナの野郎……』 ヒシロの弱った眼光が、“真っ赤な世界”を力の限り睨みつけた。 『消えてないだろ…。まだ全然燃えてるじゃねぇか……!!』 『おめぇの予言はいつも当たったきたべ! どうなってんだ!?』 『…………』 全身ずぶ濡れ。……そんな彼らとは裏腹に、その炎は未だ健在だった。 自然の恵みにさらされても勢いを失わず、灼熱の世界はどこまでも広がっている。 ケマに問い詰められてもセナは答えなかった。……というより、聞こえていない。 炎の咆哮を聞きながら、彼は壊れてしまったように呟く。 『なぜだ……。なぜ消えなかった、なぜ予言は外れた……!』 一時的な雨に期待すらしたが、雨は炎を消し去ってくれなかった。 ネネは祈る。グレイも、プララも、ナナンも、テンマもラズーも、ややいい加減だがパールも。 誰でもいいから……二人を…!! 草原の中。妙な闖入者の存在に気付くのに、少し遅れた。 『……なあ』 『何だ。死に際トークはもう飽きたぞ』 もう立ち上がる力もない。炎の輪はまたその包囲を狭めていた。 もう二、三歩分しかない。炎の爪先が、あと数分で自分たちの身体を焼き焦がすだろう。 ヒシロは朦朧となる意識の中、耳をピクピクと動かして、 『何か……息苦しいぞ……』 『それはそうだろう……。炎は酸素を消費して燃え上がる。  酸素がなければ、私たちは呼吸できず、死に絶えるのだからな……』 『俺たち……このままだと死ぬんだな…?』 『その通りだ…。呼吸困難か、火葬か。どっちかだな』 『じゃあよ……こいつは幻聴か…? 何か聞こえるぞ……』 『そうか? 私は何も聞こえない―――』  おーい……。 『……?』 『声…』  おーい……。誰か……。 『声……だな』 『幻聴だろ幻聴…。しかもこの声……あれだろ…』  どこだァ…! 返事しろォ…! 『ニンゲンの…声じゃねぇか…。死に際に縁起悪ィもん聞いちまったぜ……』 『……幻聴……か……? 本当に……』 もうどうでもいい。このまま眠ってしまえば楽に死ねそうな気がする。 もうどうでもいい。炎に焼かれる前に死にたい。 もうどうでもいい。すぐそこまで炎が迫っている。もう半歩もない もうどうでもいい。どうでも………。 最後の意識の中。身体が紅蓮の舌に舐められ始めた時。 ………突き抜けるような“何か”。冷たい何かが、自分たちの身体をさらっていくのを感じた。 ――――――――――――――――― 『………!?』 目が覚めた瞬間、彼は一気に跳ね起きて、 ……全身に襲い掛かってきた激痛に顔をしかめて寝床に突っ伏した。 顔面が突っ込んだ“それ”は、森とは別に匂いがした。少し不愉快なのに、どこか落ち着くいい匂い。 わかっていることは唯一つ。ここは自分の知らない世界だということ。 『ヒシロ! よかった、目が覚めたんだ!』 『んあ…? ネネ? それにおっさんも……』 側にいた見知った顔に安心感を覚えたのも束の間。 ケマの頭の上にいるネネ。その後ろに、白い“壁”と四角い“透明な壁”があって、 その透明の壁の向こう側に、……この世で一番大嫌いな、“ニンゲンの集落”があった。 一気に目が覚めたようだった。同時にいくつもの疑問が沸き上がっていく。 『……!? おい、ここはどこだ。何で俺は生きてんだ!?  森は!? 火事はどうなったんだ! 俺はどのくらい寝てたんだ!?』 激痛と全身に巻かれた“白く薄っぺらい妙な物”のせいで身動きできず、彼は顔だけ何とか二人に向ける。 ヒシロとは対象に、ケマはゆっくりとした口調で、 『少し落ち着け、慌てんなや。……まず最初に言っとくぞ。火は“あの直後”に消し止められた』 『そっか……。ふう…』 一番心配していたことが解決し、胸がスゥッと軽くなる。 『おめぇは人間に助けられたんだ。火もその人が消してくれた。  ちなみにどのくれぇ寝てたかってぇと、丸一日だ。…ネネに感謝しろ。ずっと付き添ってたんだ』 『………おう、ありがとな』 えへへ、と笑うネネに微笑すら浮かべるものの、心の中は複雑だった。 ニンゲンに助けられた。雨も消せなかった火をニンゲンが消した。ニンゲンに……。 昔の記憶がチラホラし始めるが、どうも納得しきれない。あの妙な筒で撃たれたあの記憶。 視界を巡らせる限り、やはりここはニンゲンの世界にある箱のような場所だった。 ケマ曰く、ポケモンセンターとかいう場所だとか。そういえば、撃たれた時もこんな場所に運ばれたような気がする。 ニンゲンもザングースとハブネークの関係を承知済みのため、シクロは別の場所だとか。あのグラエナも一緒らしい。 自分が寝ているのは“ベッド”で、身体に巻かれているのは“ホータイ”だとか。その下に薬が塗られた“ガーゼ”があるとか。 とにかく安静にしている限り、死にはしないらしい。まあそれはよかったとして。 『………俺はどのくらいここにいなきゃならねぇんだ?』 『さあな。普通に考えれば、完治するまでだろ』 『どのくらいで完治する?』 『その辺は知らねぇべ。何でンなこと訊くんだ?』 身体の自由が利けば立ち上がっているところだが、身動きできないので満足な姿勢もとれない。 弓なりに身体をしならせて顔を上げて、 『こんなとこにいたくねぇんだよ!! お前らも知ってんだろうが、俺はニンゲンが嫌いなんだ!!  ニンゲンの匂いだけでも胸くそ悪ィってのに、こんなとこにいたらどうかしちまう!!』 『ヒシロ……』 ちょっと哀れそうな目で見つめられ、ネネを直視することができなくなった。 その時だった。箱の中に一匹のポケモンと、……ニンゲンが入ってきたのは。 そこは開く仕組みになっているらしい。色が違う壁がこちら側に動いて、そいつらは入ってきた。 ポケモンの方は……確かライチュウとかいうポケモンだ。長い尻尾を翻して、ヒシロのベッドに跳び乗った。 『やあ。具合はどーだい?』 『…………』 ケマはともかく、ニンゲンとつるんでいるポケモンなんかと話したくもなかった。 人懐っこそうな顔を見せるライチュウ。……少なからず、ニンゲンの匂いがするライチュウ。 『ニンゲンにへーこらしてるライチュウなんかと話したもねぇ。帰れ』 『うっわ、冷たいねぇ…。僕がキミを運んできたのに』 『は? 俺より小せぇヤツに俺が運べるはずねぇだろうが』 『む〜! キミ信じてないな〜!』 不満そうに頬を膨らませるライチュウ。ヒシロはそっぽを向くばかり。 ……ケマが何か言いたそうだったが、とりあえず無視した。視線が、自然とニンゲンに移った。 ニンゲンはケマが言う“イス”に腰かけ、背もたれを前にしてこちらを見つめてくる。 「よっ。見つけた時はもうヤバイかと思ったけど、元気そうだな」 『………ケマ。なんつってんだ?』 数年前の因縁以外、ニンゲンとの関わりなど一切なかった。 当然のように忘れ去った人語を解する知識もなく、結局ケマに訳してもらう。 「お前らあんなとこで何やってたんだ? 炎のど真中で」 『…………』 ケマに訳されたニンゲンの言葉。……答える気もなく、というか答える方法もなく。 仏頂面を決め込んだヒシロに、ニンゲンは一つため息をついた。 「ま……答える気がねぇなら別にいいけど。いや、答えられねぇか。  とにかく、助かったんだから少しは喜んだらどうだ?』 『…………』 「シカトかい」 ヒシロに負けじとニンゲンも仏頂面で対抗してみる。特に意味はない。 何やってんだと呆れ顔になるケマ、ネネ、ライチュウを無視し、ニンゲンはいろんな顔でヒシロを見つめてみた。 時に怖い顔。時に面白い顔。……飽きたらしく、普通に見つめ始めた。 ―――突然、ニンゲンは真顔になって、 「右足の付け根。銃弾の痕があった」 『!』 古傷を触れられた感覚。 「そいつが原因で人間の俺とは話したくもねぇ、目も合わせたくねぇってか。  ………一応、言っとくけどよ」 ガタリと音を立て、ニンゲンが立ち上がった。 ニンゲンの足元に、あのライチュウが当然のように仕える。 「確かに人間は悪ィヤツばっかだよ。正直救いようがねぇ。  でも、これだけは忘れるな。人間も悪人ばっかじゃねぇ。イイヤツや面白いヤツ、優しいヤツ、バカなヤツがいるってことを」 日が落ち、その部屋に明かりになるものはない。 言うだけ言って、ニンゲンとライチュウが出て行った。全部無視するつもりだったのに、逆に全部耳に残ってしまった。 助かったのだから少しは喜べ。普通に助かったのならまだしもニンゲンに助けられたのなら話は別だ。 撃たれた時に記憶が蘇り、いつも脳内を支配してくる。嘲笑うニンゲン。自分をセンターに運ぶニンゲン。 ―――何が正しいのかわからない。ニンゲンは信頼できる? できない? どっちだ?? 月明かりが窓から差し込んできて、ベッドの上の彼を照らしてくる。包帯で巻かれた無残な身体を。 不意に思い出したのは、ニンゲンが去り際に言っていた言葉だった。 「あのハブネークと戦りあってるみたいだけど、ほどほどにしとけ。  ケンカ好きみたいだからやめられねぇだろうけど、少し視野を広げてみろ。お前はまだまだ小さい」 『………くそ、あのニンゲンすげぇムカつく』 ニンゲンの顔を思い浮かべては舌打ちし、ヒシロはゆっくりと起き上がった。毛布が落ちる。 “約束”と、“疑問”――― ――は!? 脱走するって!? ――こんなとこにいたらイカれちまうって。じゃ、今晩決行するから森に帰ってろ。 ――で、でも………。 ――やめておけ。痛い目見るぞ。 ――傷ならすぐに治る、大丈夫! ――別に傷のことなんか気にしちゃいねぇ。お前は恐らく、脱走できない。 ――あ? ――十中八九だが、あのライチュウに止められる。 ――な〜に言ってんだ。ニンゲンといつも一緒にいるポケモンなんざザコ同然だっての。 ――………あのライチュウは、恐らく……―― 『俺よりも強ェ…? 冗談じゃねぇ。あんなネズミ野郎に負けるはずねぇっての』 傷が押し戻してくるような感覚だが、そこは全力で無視して。 ケマに習った通り窓を開け、辺りの様子をよく確かめる。夜の街。ポケモンセンター横の窓など誰が気にするものか。 ひらりと窓を乗り越え、目の前に広がる雑木林を突っ切ろうとして、 ………乗り越えた時に着地さえ成功すればの話。草むらが、まるで雨水で濡れているかのように滑った。そういえば昼過ぎに少し降ったような。 『ぐべっ!?』 ……違う。草が滑ったんじゃない。草の上にあった“何か”の上に着地して、それが突然横滑りしたのだ。 ものの見事にすっ転んだヒシロは、悪態をつきながらそいつを見た。 『やあ』 『てめぇ……ケマの言ってた通り待ち伏せしてやがったな!』 月光に照らされて翻る尻尾。稲妻を模したその尻尾は、シクロの刀に似ているような気がした。 あのニンゲンと一緒にいた、ライチュウ。滑ったのはこの尻尾のようだ。 『やっぱり逃げ出すんだ。無理しないほうがいいよ?』 『完治するまでおとなしくしてろってか? 冗談じゃねぇ。俺ァシクロをブチのめさなきゃならねぇんだ。  とっとと帰って特訓すんだよ。それに、森の状態も見ておきてぇし』 『森なら大体三分の一ぐらい焼けちゃったよ。中心の大樹から東側が焼け野原。  僕たちが来るのが少し遅れたら、あの大樹も燃えてただろうね』 『………』 少し黙る。 『…てめぇらがあの火を消したって……マジか?』 『僕は何もしてないけどね。仲間の水ポケモンが消してくれた』 ニンゲンがポケモンを所持する際、最大六匹だとテンマが言っていた気がする。 つまり、このライチュウを引いてたったの最大五匹。森の水連中が揃っても消せなかったのをたった五匹以下で? ネネやケマの様子からしてウソではないようだが、未だに信じられない。 『で、てめぇはこれからどするつもりだ? 帰す気はないんだろ?』 『キミがキライな人間に言われてるんだよね。  あの二匹のためにも、完治するまで絶対に帰すなって。……だから』 またも尻尾が翻る。黄色い尻尾が銀色の光沢に包まれると、それを頭部を守るように据えた。 後方から打ち下ろされた毒々しい斬撃を受け止めると、易々と弾き返す。 『鋼タイプのアイアンテールの前に、毒タイプのポイズンテールは無力。覚えておいた方がいいよ? シクロ君』 『チ……』 別の窓から脱走を図ったのか、ヒシロ同様全身を包帯で包んだハブネーク、シクロ。 完全に隙をついたはずだったのに、音を殺したはずなのに。目も向けずに受け止められた。 『ついておいでよ』 『あ?』 『キミたちの脱走を、途中まで手伝ってあげる』 わけもわからず着いてきた。その場所は、ニンゲンの街からさほど離れていない平原。 ここを突っ切れば、あの故郷である二対の森がある。ライチュウを先頭に、三つの影が平原を走りぬける。 さっきは帰さないと言ったはずだ。なのになぜこんなことを? 二人が微妙な顔で困惑している。――と、ライチュウが脚を止めてこちらを振り返った。 『手伝いはここでおしまい』 『?』 『ここからは邪魔をする。……戦うなら、広い場所がいいでしょ?  僕が認められる一撃を入れることができたら帰っていいよ。できずにへばったら大人しくセンターに戻ること』 『…そういうことかよ。じゃ、まず俺から――』 意気込んで爪を振り、いざ飛び掛ろうとして、 『ああ、ダメダメ。二人同時でね』 『は?』 『でないと……何日かかっても無理でしょ?』 ――半ば、頭に血が上ったのは確かだった。 月光が怪しく照らす平原。邪魔するものは何もないその場所。 ヒシロとシクロが、よく戦う川原の平原に似ているその場所。 ブレイククローとポイズンテールを振りかざし、ほぼ同時ライチュウに襲い掛かった。 『いっ!?』 『消えた…!?』 爪と刃が地面に食い込んだ。目標の姿が消えている。 『こっちだよ』 『やろ…!』 いつのまにか回り込んでいたライチュウに再び飛び掛った。 ブレイククローではなく、素早い突進――電光石火。 宙に舞う紙のようにヒラリと避けたライチュウに、ヒシロは身体を回転させて爪を振り上げた。 また、消える。 『ほらほらこっちこっち! 全然当たってないよ!』 『クソ……ならば!』 闇雲に攻撃しても無意味。シクロの口から、大量の黒煙が噴出した。ヒシロの抗議を無視し、黒い霧はあっと言う間に三匹を丸呑みにしてしまう。 むせる声……ヒシロだろう。だがライチュウからは何も聞こえない。息を止めているのか、それともその場を離脱したのか。 ――または、こういった状況に慣れているのか。 (関係ない……叩っ斬る!!) 何かが聞こえた。草むらを滑る足裏の音。 ライチュウがいた場所目掛け、暗黒の刃が突き抜けていく。霧を引き裂き、……地面を抉る音が聞こえた。 また、消えた。 『キミたち、何やってんの? 僕はもう霧の外だよ?』 ……届いてきた声を信じられず、だが状況を理解すべく霧から抜け出た。 二人の目に、傷一つないライチュウが飛び込んでくる。その目は少し失望しているようも見え、 心機一転、わくわくしているように輝いた。 『キミたち面白いね』 『?』 『ザングースとハブネークなのに、一緒に戦ってるでしょ? 結構息も合ってるし』 『うるせぇ。ノリだノリ』 『偶然と言って貰おう。例えノリでも貴様などと馴れ合いたくはない』 『ああ!? 俺だっててめぇなんかと馴れ合いたくねぇよ!!』 なぜか勝手にケンカを始めた二人。口ゲンカに始まり、武器を光らせ始めたり。 もう少しで取っ組み合いになろうとした時、ライチュウがゆっくりと、だがはっきりとした声で、 『キミたちは小さいよ』 殺気に等しい視線を向けられても、ライチュウは全く臆さない。 『目の前のことばかりに捉われて、視野が狭い。  キミたちのいざこざなんて、全世界の中じゃ豆粒にも満たない』 ――少し視野を広げてみろ。お前はまだまだ小さい―― 『チ……あのニンゲンと同じこと言うか』 セリフを横取りされた気がした。 口を開きかけたて硬直しているヒシロを尻目に、シクロの刃が地面を荒々しく打つ。 『私たちが小さいだと? このケンカ猫はまだしも、私が小さいだと?』 再び、毒の刃が地面を打つ。分泌された毒が草を枯らす。 ポイズンテールの構えに入った刃が、月光の下で怪しく光った。 『私が小さいならば、お前は大きいとでも言う気か!?』 長い身体がしなる。飛び上がった黒蛇が、暗黒の刃を全速力で振り下ろした。 今度のアイアンテールは防御ではなかった。勢いをつけて振られ、衝撃となって襲い掛かってくる。 『僕も小さい。でも、キミたちよりは大きい自信がある』 ………刹那。 シクロを吹っ飛ばしたライチュウの姿が掻き消えて、それを必死に追う自分が少し恥ずかしくて。 自分より小さなポケモンの拳が、的確に自身の腹にめり込んでいた。気付くのが大分遅れた。 その打撃が原因だろう。ヒシロの視界が揺らいだ。敵の攻撃で昏倒するのは初めてかもしれない。 薄れ行く意識の中、同じように鉄拳を受けて倒れるハブネークの姿が見えた気がした。  …………………………………………………………………………………………………… 半分以上残ったのは奇跡かもしれない。 東の森はまだ生きていた。まだまだ健在だった。だが、その祝いよりも大きなイベントがある。 二つの森の中間点。森を分断する小河が流れるその草原で行われる、森の住民注目のイベント。 ―――因縁の仲であるザングースとハブネーク、ヒシロとシクロが決着をつけるらしい。 なあ、シクロ。提案があるんだけど 何だ。 俺さ……ちょっとやりてぇことができたんだ。 奇遇だな。私もだ。 へぇ……じゃ話は早ェな。今度の戦いでケリつけようぜ。 そうだな、いい加減貴様とのケンカも飽きてきたところだ。 野次馬だらけのその草原。誰が仕切ったのか知らないが、彼らは大きな円を作っていた。 野性ポケモンたちでできた闘技場。東と西、全ての住民たちが集まっている。 ヒシロはその円に近づきながら、その中にテンマの姿を見つけた。何も言わず、視線を背けた。 これ以上のケンカは行わないという約束のもとに行われる戦いだ。さすがのテンマも口出ししてこなかった。 ざわざわと群集がざわめき、ヒシロの到着が知れ渡る。ネネが何か言いたそうだったが、何も言わず彼女の前を通り過ぎた。 円の中に入る直前で、ケマの姿を見つけた。 『……やるのか。本当に』 『男に二言はねぇ』 ――そんな会話を聞きながら、ネネは思う。男は不思議な生き物だと。   小さい。確かに俺は小さいだろう。   シクロの息の根を止めることだけに執着して、周りのことに全く目を向けず、   この森の中で過ごす日々を不憫だと思ったこともない。でも……。   新たにできた大きな目標。それを前にしたら、立ち止ってなどいられない。 『あ、シクロだシクロだ!  戦う? 戦う?? 本気でやっちゃう??』 『愚問だ』 意味不明な踊りを横目に、シクロが輪を突っ切るように闊歩する。 ………ふと、疑問が沸いた。シクロの目が鋭さを増して、 『まさかと思うが、お前が噂を広めたわけじゃないだろうな?』 『ううん。僕じゃないよぉ』 『俺っス』 森一番の情報通、グラエナのグレイ。確かに彼ならこれぐらいの情報すぐに仕入れているかもしれない。 入手経路が気になったが、それは置いておいて。噂を広めたことを咎める気も起きなかった。 『アニキ、ガンバっス! 応援してるっス!!』 『ああ……』   あのライチュウの言うとおり、私の視野はかなり狭い。   ヒシロとの戦いだけが生きがいだった。それ以外に必要なものなどなかった。   だが、あいつは教えてくれた。世界は広い。あのライチュウの強さが物語る。   この刃を、曇らせておくつもりはない。 『よお。逃げなかったか』 『当たり前だ』 二人の会話が、ざわついていた周囲を静寂で包み込んだ。 南風にさらされた草原が小さな波を描いていく。どこからか飛んできた木の葉が風に舞う。 『言っとくけどな、てめぇはもう眼中にねぇ。てめぇは小さいからな』 『私のセリフを奪うな。……貴様の方が小さいだろ。背丈的に』 『いや、今それ関係ねぇだろ!!』 二人の顔に笑みが浮かんだ。一時の安息のような笑み。 同時に掻き消え、ヒシロが地面を踏み鳴らし、シクロが細い舌をチロチロとちらつかせ始める。 ―――始まる。 誰もが、そう予感した。 『あのライチュウを倒すのは俺だ…! てめぇに譲る気はねぇ!!』 『貴様に譲る気などさらさらない! 貴様はこの森で留守番でもしていろ!!』 その怒号が合図だったのか。 それは殺し合いではない。遠い場所に見つけた新たな目標への踏み台に過ぎない。 『『勝負だ!!!』』 東と西の中心を陣取る草原。その草原が、沸きあがる―――― 「チュア?」 「ん? どうした?」 本日晴天。旅路を遮るものは何もない普通の街道。 脚を止めた小さな相棒が、何かに吸いつけられるように南方の空を眺めていた。 少年はズボンのポケットに手を突っ込んだまま、相棒と同じ空を眺めてみる。 街の方角……じゃない。確か、火事があった森がある方向だ。 強い風が吹いた。少年の髪が、突風に煽られて暴れ始める。 強引に手で押さえつけていると、風が弱まった。強すぎる風が、一変して優しい風へと変わっていく。 「……いい風だな」 「チュウ!!」 長い尻尾を翻して見上げる相棒。それを見下ろしてニッコリ笑う。 後押ししてくれるような風。荷物越しにそれを受けつつ、少年とライチュウは歩き出した。 「あの二匹、どうしてっかな…。また会うかもな?」 「チュウ? ライラァイ!」 道はどこまでも続いていく。空ももちろん続いていく。 世界の広さを示すように、どこまでも、どこまでも―――― 「行こう。……この風が止まない内に」 「ライ!」 目の前に広がるものだけが世界じゃない。 きっとある。きっと見つかる。自分が求める世界が。 ヒシロにも、シクロにも、森の住民たちにも、少年にも、ライチュウにも。 きっと見つかる。この世界のどこかに、自分が求める世界が――――