水跡




 目の前を流れるのは、清流だ。空の色を映した水を湛える池や泉には、子ども達の声が賑やかに響く。清い水が流れ込む水田には稲が風に細波だっていた。今では、全国清水百選にも選ばれるような清水の里。
 もとから、こんな美しい水に囲まれていたわけではない。いや、もともとは清らかな水に護られた村だった。しかし悪夢のような時代もあった。
 池は嫌な臭いを放つ泥池と化し、清流は灰黒色にさかいまいて轟々とした流れにかわった。目を背けたいほど、不気味で、嫌な光景だ。
 清水の里と呼ばれた名残は、もはやどこにもない。年寄りたちは力なく嘆き、若者は里を捨てる。文明、便利という名の魔術は、清らかな里を変貌させてしまった。その魔術を好んで使ったのは、他ならぬ村人だ。
 ひとは強欲だ。他の命の存在を忘れ、自己の利益へと走った。ここ十年ほどで、里の生活は驚くほど便利になった。
 だが、その便利の代償は余りにも大きい。かつての清水は、生き物の住むことを許さない毒の水と化した。
 嘆くばかりの年寄りでもなく、里を捨てていく若者でもない私は、変貌しきった里を見続けるしかなかった。
 ふと、ある考えが浮かぶまでは。



 雨に濡れた落ち葉は、とてもよく滑る。ずるっと体勢を崩した私を支え、ルカリオは不安そうに私を見上げてきた。それに応える笑顔はすでになく、寡黙なともにかける言葉はひとつしかみつからない。
「すまない」
 森に入ってから、他の言葉をかけることができなかった。それでも、ともはほっとしたように私の手を離す。
「すまないが」
 謝罪ではない意味を込めて言う。するとルカリオは首を縦に振って目を閉じた。耳を澄まして、遠くの波動を探る。
 森のポケモンたちは黙り込み、木々のさわめきしか聞こえない。蒼の森は静かだ。オドシシもいないし、ポッポもいない。
 蒼の森には水の君がいる。蒼の森の王に遠慮して、他のポケモンたちは息を潜める。
 私たちの里で言い伝えられる言葉だ。スイクンというポケモンなのだと、すでに知られている。
 スイクンには、特別なちからがある。−−どんな泥水でも、一瞬で清水に変えることができる。
 里の毒水を昔通りの清水に変えてもらいたい。スイクンを探しに行く。そう言い出した私を、年寄りは命知らずと留め、若者は阿呆と罵った。
 ただのポケモンだ。そんな不思議なちからを持っているはずがない。
 幻の願いだとはわかっていた。それでも、私はルカリオとともに蒼の森に入った。
 何度も何度も立ち止まり、ルカリオに波動を探してもらう。そのたび、群青の犬は申し訳なさそうに首を振る。申し訳ないのはこちらだ。私の心は、すでにあきらめが多い。
 そんな私の心を知っているのか、いないのか。ルカリオはただ静かに波動を探し続けた。
 −−うぉん……。
 ルカリオが小さくほえた。ぱっと目を開け、私の手を握って走り出す。
「ルカリオ、どうしたんだ!」
 あまりの早さについていけず、私は思わず叫んだ。叫んだとたんに、足がもつれて、塗れた落ち葉の上に倒れ込む。
「すまない……」
 森に入ってから、なんど音にした言葉だろう。今度もルカリオは、心配そうな目で僕をみる。手を伸ばして「大丈夫だ」と伝えれば、ルカリオも私の手を取る。手を引き、ぐいっと私を引っ張り起こしたルカリオは、さきほどよりはゆっくりと、それでも急いで濡れた葉を踏んでいく。
「なにをみつけたんだ?」
 もちろん、私の問いに答えてくれるはずがない。ただただルカリオは、私の腕を引っ張って先へと進みたがる。
 濡れた落ち葉を踏んで、肩に木漏れ日を受け、腕をルカリオに引かれ、私は蒼の森を奥へと進んでいく。
 期待はしない。したくない。私の心が勝手に決めてしまったことだ。それでも、今度だけは、今回はと心が逸った。
 ルカリオに導かれて森を進んでいた私の視界が、急に拓けた。
 足下が濡れた落ち葉から、乾いた若草へと変わると、ルカリオは私の手を離した。
 丸鏡のような泉に、陽射しがさんさんと降り注いでいる。泉が湛える水は澄みきって、空をそのままに写し込む。その泉の中央にたたずむ一頭の獣が−−
「−−スイ、クン……?」
 里の清水を思い出させる青い体。いまにも、澄んだ泉にとけ込みそうだ。
 ルカリオが一歩、下がった。私が一歩、進んだのかもしれない。
 私が泉に近づいても、スイクンは逃げようとはしなかった。私はまほろびながらも泉に駆け寄り、子供のように泉をのぞき込んだ。泉に佇むスイクンなど、どうでもよかった。こんなに良いにおいがする水は、何年ぶりだろう。ぱちりぱちりと瞬く私の顔が、水鏡を通して私を見返す。
「あぁ……」
 子供のころの、里の清い水と同じにおいだ。手を椀替わりに水をすくい上げる。冷たい水を口に運ぶと、甘く陽の味が口内に広がった。
「子供の頃と同じだ。ルカリオ、おまえも」
 「飲めばいい」と言いかけて、私は動きを止めた。澄んだ息が私のつむじにかかる。ゆっくりと顔を上げて、息をのんだ。
 泉の中央にいたはずのスイクンが、音もなく私の目の前まで来ていた。あまりの近さに、私は待っているルカリオを振り返った。危険には過敏なルカリオが、平然と私とスイクンを見ていた。どうしようかと迷う私の胸を、堅いスイクンの鼻面が押した。
 撫でてくれと云わんばかりの仕草に、私は思わず近所のケンタロスにでもするように鼻面を撫でてしまった。ケンタロスのごわごわとした毛とは違い、スイクンの体毛は清流に生える水草のようだ。
 スイクンの大きな顔に額をつけ、私は紫水の毛を撫でた。撫でて、抱きしめて、泣いた。
「スイクン。助けてくれ。私たちを助けてくれ。おまえには、不思議なちからがあるんだろう? 私たちの里の水を、もとのように戻してくれ」
 スイクンからは遠い記憶のにおいがした。薄空色の池によく跳び込んだ。そのときの、全身を包む柔らかな水の圧とにおい。
 そんな懐かしいにおいをさせながら、スイクンはゆうらゆらと白い尾をゆらす。まるで隣の爺が飼っているガーディのようだ。
 結局はポケモンだ。人間の及ばない力を持ってはいても、ポケモンなのだ。空を飛んでいるポッポや地をかけるルカリオと同じようなポケモン。
 ――おのれの手で汚したものは、おのれの手で清めるがいい。
 私の胸に鼻面を押しつけるスイクンは、云わずとも語る。一際ぐいっと私の胸を押し、私を押し倒した。草のにおいと水のにおいが混ざり合う。
 ――ひとは強欲だから、それっくらいはした方がいいだろう。
 さすがに見ていられないと思ったのか、ルカリオが疾風のように動いた。
 ――時間をかければ、必ず戻る。かつてを想い出せ。
 音のない声を残してスイクンが泉へと跳び戻る。ルカリオの神速を避けたスイクンは、波紋を広げながら優雅に泉のうえを歩く。
「あぁ、大丈夫だ。大丈夫」
 スイクンに敵意を示すルカリオを押さえて、私は上半身を起こした。水のうえに立つスイクンと目があった。視線が交わったのはわずか数瞬。息をついた途端にスイクンは泉のうえを駆けだした。
「見に来てくれ。昔の清水に戻ったら、私の里を見に来てくれ」
 喉も裂けよと私は叫ぶ。その声に振り返ったスイクンが、ひとつ高く鳴いた。
 空の色を薄く映す清らかな泉に、のこった足跡がひとつふたつ。


 
 つらい日々を越えれば、もとのような水のにおいに包まれる村に戻った。年寄りは笑い、若者は戻ってきた。子供が増え、ついでに観光客も増えた。
 村で一番大きな貯水池は、村で一番綺麗な池でもある。その池には、なにもないのに波紋が生じることがあった。
 その波紋を、村人はこう呼ぶ。「スイクンの足跡」と。




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