美しきもの




 真っ白に塗られた壁があった。一つのゴミも欠けも剥げもない真っ白な壁。。#FFFFFFを画面いっぱいに出したような、壁。だが、この白はあくまでもトマトの皮のように薄く表面を覆っているものにすぎない。少しでも皮をむけばたくさんの落書きが現れるだろう。様々なペンキやスプレーで、ある落書きは薄汚い言葉、ある落書きはサインのような歪んだ文字。どの落書きも自分を一番目立たせようと激しい自己主張をし続けていた。主張、主張、主張。他のものを退けてまで自らを一番にみせようとする落書きのひしめく壁は、決して見ていて心地のよいものではなかった。だから、彼らは白に覆い隠された。

 犬の遠吠え。通り過ぎ去る車の音。上弦の月が輝く夜、その白い壁は静かにそこに佇んでいる。けれど、月の光を受け、発光しているかのようにさえ見えるその壁は、どんな建物より際立って美しく見えた。幾つかの光にライトアップされたビルよりも、派手で悪趣味な看板を掲げた飲食店よりも。そう。それは、まるで――色一つ置かれてないキャンバスのようだった。
 誰よりも早く色をそのキャンバスに置きたい……! 真っ白の中に自分だけの芸術を、他の誰にも邪魔されないその芸術を、その、キャンバスに……! 自らをアーティストと称する落書き魔達は、あるものはスプレーを持ち、あるものはペンキの缶を持ち、血肉に飢えたゾンビの如くその壁から目を離すことなくゆっくり、ゆっくり、と足を進める。熱にうかされたようなその瞳には、その壁に描かれる予定である自分の芸術が鮮明に映っているのだろう。ぺた、ぺた、ぺた……壁を取り囲む落書き魔たちは徐々にその輪を狭めていく。

 そこにもう一つの影が現れた。彼女はうっとりとその壁を見つめている。彼女もまた、その壁に惹きつけられたうちの一人だった。否、一人という言い方は正しくない。彼女の場合、一匹と言うべきであろう。その壁は人だけでなく、ありとあらゆるものを魅了する神秘的な美しさすら持っていたのだ。彼女は今にも外にあふれ出てしまいそうな興奮を抑えようと息を吐いた。その風音の様な呼吸音は夜の街に小さく響いた。だが、周りに立っている落書き魔は誰一人として彼女に気づかない。壁から目が離せない。確かにそれも一つの理由であろうが、完璧な理由ではない。誰も彼女に気づかない、もう一つの理由。彼女が極端に小さな体をしていたからではない。誰の視点も彼女の姿を見る高さに存在していなかったからだ。何故なら、彼女の体は落書き魔たちの体の半分ほどの高さしかなかった。

「うわ、うわあぁぁぁあああ!!!」
 一人が悲鳴を上げた。彼女は驚いて、声のした方向を見上げる。どきり。声を発した男は目を見開いて彼女を見つめていた。足元に大きな筆が落ちている。それを拾おうと視線を下に向け、彼女に気づいたのか。一歩、二歩と後ずさり、手に持っていたペンキ缶と筆を投げ捨て、男は闇の中へと走り去った。もう一つ、二つ、悲鳴が上がり、そしてまた彼らも最初の男同様に、彼女の姿を見るなり、後ずさり逃げ出した。からん、からんと投げ捨てられたペンキ缶が派手な音をたてる。金属音が反響し終わり、通りがまたもとの静けさを取り戻した時、その壁の前にいたのは彼女一匹だけであった。



 彼女は男達が何故逃げてしまったのか分からず、少し首をかしげたが小さくシュッと鳴いて考えるのをやめた。本当は皆で色塗りをしたかったけど、いなくなってしまったのならしょうがない。一人で塗るわ。彼女は、やっと静止したペンキの缶を集め、ラベルをじっくり見た。彼女は体の構造上一度に六色しか使えない。悩みに悩んで選んだ六缶は、いずれも彼女の好きな明るい色だった。レモンイエロー、スカイブルー、バーミリオン、ライトグリーン、ホットピンク、ブルーヴァイオレット。彼女は器用に蓋を開け、ゆっくり足をひたす。彼女の六本の足はカラフルに彩られ、まるで靴下を履いているかのよう。

 そして、その靴下を履いたまま、彼女は垂直な壁の上を歩き出した。彼女の足の先は小さな突起に覆われていて、どんなに平らな壁の上でも歩くことが出来るのだ。また、その突起は細かく毛のようでもあるため、彼女の足には見た目以上にたっぷりとペンキがついている。彼女がぺたぺたと歩けば、彼女の後に残るのはカラフルなドット柄。時にはその足でくるくると床をなぞってみる。また、ある時にはしゅっと勢いよく半円を描いてみる。そう。彼女は足で色塗るアーティスト。壁というキャンパスに、自らの足で色を置く。絵描くと言わないのは彼女は絵を描いているわけではないからだ。自分の気持ちを色で表現している、と言う方が正しいのだろう。
 
 線と点で表現された彼女の世界。直角に折れ曲がった線。のびやかにはらわれた線。急ブレーキをかけたかのように止められた線。Uターンした線。丸い点。四角い点。今日の彼女は至極ご機嫌。彼女は小さく笑い声を漏らす。誰もいない通りの小さなビルの壁に色を置く彼女。輝く月が、星が、彼女の背中を照らしている。

 幾度かペンキを付け直し、色を置き続けて、数時間。空の黒が薄くなり、星がぽつぽつと消え始めた頃。彼女はようやく足を止めた。そして、少し離れたところからじっくりと壁を見て、満足したように大きく頷いた。さぁ、最後の仕上げ。彼女はビルの一番上まで歩き、白いレースをその上にかけた。色鮮やかな彼女の色の上にレースのカーテンのような糸が揺らいでいる。朝陽がそれを照らし始めた頃、彼女は陽を避けるように、自分の場所へと戻っていった。彼女の足についたペンキはすっかり乾ききっていた。



 彼はすっかり困っていた。彼の持つビルは多くの落書きがされていたため、真っ白に塗ったところまたもや落書きをされてしまったのだが、その落書きがあまりに素敵だったためどうしようか困っているのだ。街の人たちは一目見ようと通りに群れになっているし、彼の机上にある電話はひっきりなしに音を鳴らしている。情報社会ともいわれる現代、情報は瞬時に世界中を駆け巡る。電話の主は、名高い美術家や美術品のコレクター、絵画コンクールの審査員などさまざまな人たち。彼らは皆一様に壁に絵を描いた主は誰かと問いたてた。彼が知らないと言うと、皆一様に憤慨した。それほど、その絵はすごいらしい。
 彼はもしかしたらサインがあるかもしれないと、壁をくまなくチェックしたが見つからなかった。だから、彼の机上にある感謝状の名前の部分はぽっかりと空いたままである。
「名無しの絵描きさんってところですかね……」
 彼は途方にくれ、ぼんやりと窓の外を眺めた。人々は皆、その絵を見て微笑んでいる。彼は芸術家でなければ美術家でもない。絵を描くことを趣味としているわけでもない。それでも、分かった。この絵は、非常に美しい。六色の明るい色で描かれた線と点。そう。ただの線と点だけなのに、人を笑顔にしてしまう力がこの絵にはあった。楽しい、嬉しい。そんな感情がこの絵全体に深く染み込んでいて、誰にでも伝わる。そんな絵だ、と。
 おや? そのとき彼は気づいた。窓ガラスについたペンキ。それは単なるドット柄としか見ていなかったがよく見てみると、ほぼ等間隔にあり、細長く、そして奇妙な形をしていた。それも、一つだけではなかった。いくつも、いくつも、同じ形をしている――。
「あし、あと……?」
 もしかすると、この点は――この絵は足跡なのではないか。それならこの足跡を――。そう思いかけて彼は考えるのをやめた。名無しの絵描きさんが誰であろうと探るのは、何だかあさましいような気がしたのだ。彼は一回ため息をついて、そして笑顔で部屋を出て行った。
 残された感謝状。その真上で、切れた白い糸がわずかに風に揺らいでいる。



 そんな騒ぎをよそに彼女は自分の場所にいた。暗く、狭く、奥まった路地。レースのカーテンのように白い糸が張り巡らされ、糸の集まる中心で彼女はまどろんでいる。そこに、一匹の小さなイトマルがやってきてきぃきぃ、と鳴いた。彼女の呼び名は、ほとんどその種族名のままだ。だが、その種族名とのたった一文字の違いは、特別な雰囲気を醸し出していた。それは、たゆんだ白糸のような艶やかさ。きぃきぃ。もう一匹イトマルが現れた。彼女は彼らの報告を聞き、そうとだけ小さく頷いて、また夢の世界へと落ちていった。きぃきぃ。きぃきぃ。きぃきぃ。彼女の周りに何匹ものイトマルが集まってくる。きぃきぃ。きぃきぃ……。そして、彼らも互いに体を寄せ合って寝息をたて始めた。

 彼らの女王はアーティストなのだ。足跡で、自分の気持ちを表現する。それは簡単に見えて、非常に難しい。自らの足跡だけで、しかも、その気持ちを自分でない他者に伝えられるほど完璧に表現できるとくれば、彼女を偉大なアーティストと言わずして、誰をアーティストと言えよう。
 六本の足を駆使し、自分の気持ちを表現するアーティスト。それは――


 女王、アリアドネ。
 彼女の『足跡』はどんな絵よりも美しい――。





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