特急夜話




 がこんという音とともに特急は動き出した。ホームには鉄道員のほかに、コートやマフラー、ニット帽に包まっている人影がわずかにあるだけ。特急は鉄道員に送られながらホームをそろそろと走り始めた。
 特急はゆっくりと進みながら雨降る真夜中に進み出た。後ろをみれば、ビルをくりぬいたように作られたホームだけが輝いていた。ターミナルを出発した特急はポイントを通る度に右へ左へと揺れている。速度を出さないまま、特急は線路のつながる先へそろそろ歩いている。雨は窓を打ち、世界を濡らしている。車輪のこすれる音、車体の軋む音、車内放送の声、しとしとと窓を打つ雨音、客達の話し声、様々な音が車内を包んでいた。
 幾条も並んだ線路の向こうにはマンションの蛍光灯が輝いている。蛍光灯に照らされて、無機質な扉が上から下まで横並びに佇んでいるのが分かった。コンクリートで出来たマンションは影となっている。その影と、蛍光灯に当てられた部分が白と黒のコントラストを作り出していた。黒は鼠色のような黒で、白は鼠に染みたような白だった。線路はそんな染み返った白に照らされ、彼へと続く一線を作っていた。細長くそこだけ白い線分がいくつも平行に並ぶ。マンションへと続く直線だけが雨と鉄で輝き、段々飛びの道を作っている。マンションの明かりだけが、視覚的に線路のあることを認識させた。それがなければこの列車は、大都市の真ん中を貫く、広い高架を独占して走る特急にしか思えなかった。その特急はやがてこの霧雨になってしまいそうな雨の中、厚ささえもよく分からない雲の覆う空へと飛び出し、そのまま漆黒の天空へと消えてしまうのだ。
 だけれど高架には何本もの軌道が敷いてあって、特急はその線路を右へ左へと次々に渡っている。もう一度後ろを振り向く。かつては機関車の煙に満ち、見送りの多衆に溢れ、線路の続く先の全てが遠く、そして銀河鉄道につながっていたターミナルは、黒塗りの都市と煙雨(えんう)に溶け込もうとしていた。人もなく、旅立つ感慨や夜空へ飛び出す線路もないターミナルは遠くへと消え去っていた。

 ひょっこりとブラッキーが彼の太股に飛び乗る。ブラッキーは窓に鼻をつけて外を眺めはじめる。彼はブラッキーの頭に手を置き、一緒に外を眺めた。マンションはもうどこかへと消え去っていた。ウィーンというモーター音が車内に響き始める。それと同じくして、外の光景も少しずつ速くなりはじめた。赤ん坊のむずがる声が聞こえた。前の方だった。一番前に座っていた女性が立ち上がる。腕には声の主を抱えていた。お母さんはあやしていたが、赤ん坊は彼女がデッキへと移る前には既に大泣きを始めていた。
 彼とブラッキーは一緒に外を眺めた。道路の赤色灯、踏切、並んだ車のヘッドライト、屋根とホームだけの駅、コンビニ、マンション、ガラス張りの工場、出入り口が大きく開け放たれた倉庫、様々なものが過ぎ去り、様々なものが立ち現れていた。

 特急は速度を落としはじめ、駅に停車した。ホームは蛍光灯に照らされていたが人の姿はなく、降りる者はいても乗る者はいない寂れた駅だった。降りた者の中には、さっきの母子の姿もあった。雨はまだしとしとと降り続けている。
 特急はすぐに動き出した。ターミナルを出る時とは違って、列車はすぐに目一杯に加速し始める。ブラッキーはじっと窓の方を眺めたままだ。彼はブラッキーを揺らさないくらいにゆっくりと、深く座りなおした。まっすぐ前を向いてあくびをかみ殺した。車掌がやってきて車内改札をして回った。
 特急は街から離れはじめ、一駅を通り過ぎる頃には明かりは遠くになっていた。一瞬、線路の隣を何か輝くものが走り過ぎた。じっくりと追いかけてみれば、それはぽつんと立つ自動販売機だった。そしてもっとよく見てみれば、それは屋根も天井もない、無人の駅だった。無人の駅はすぐに途切れた。特急はぼやけた光の町並みは遠く、ブラックホールを見ているような草原を走り続けた。本当は草原ではなくて川や田畑なのかもしれない。それでも今この特急が走っているのは白とは正反対の黒の草原だった。
 少年の声が聞こえる。少年は隣の誰かに何かを語りかけていた。ブラッキーは構わず草原を眺め続けている。誰かがあくびをするのと一緒に、次の駅の案内が流れた。前の方で少年が立ち、隣にその母親らしき人が立ち上がった。特急は減速をはじめ、体がぐいっと前に追いやられる。ブラッキーは彼の肩に捕まった。それでもブラッキーはずっと横を向いたままだった。
 次の駅は分岐駅で、停車時間は長いとアナウンスがあった。ホームには大人とバスケットボールを持つ子どもがいて、誰かを待っていた。大人は小さな、幼いポケモンを抱えている。彼はブラッキーに教えられてそれを知った。特急は停まり、昇降口が開いた。さっきの少年と母親が降りて行った。少年と母親は待っていた二人の所に行く。少年は大人の方から顔を綻ばせ、何かを言いながらイーブイを受け取った。そして少年は、子どもの方からもバスケットボールを受け取り、子どもに何かを言う。イーブイは不安げな顔で大人を見つめていた。そして四人と一匹はホームからいなくなった。
 ホーム向かいの線路に別の列車が入って来た。出入り口が開き、何人かが降りた。ホームに残っていた数人がその列車に乗り込み、降りた内の一人だけが特急に乗り込んで来た。その一人は、さっきの子より五歳くらい年上の子だった。上着の間からモンスターボールを覗かせ、あどけないながらも大人びた顔を見せる子だった。
 隣に来た列車が先に出発した。ベルが鳴り、彼らの乗る特急はやっと動き出す。ホームにいた人を追い抜きながら、彼らはまた夜の軌道へと躍り出た。

 特急は前と同じように目一杯の加速をして、すぐに巡航しはじめる。ブラッキーが今度は車内を観察しはじめる。
 車内にはいすを倒している人もいれば寝ている人もいた。ごそごそと何かを探す音がすると思えば、くしゃみの音もする。本を読んでいる人もいれば、手持ち無沙汰に風景を眺めている人もいる。携帯の音が鳴り、すぐに止まった。
 雨は未だ、向かいの窓に当たり続けていた。雨降る世界は、寒く静かなのだろうと思った。
 車内は暖房が利いて乾燥している。コートや上着、マフラーを巻いているのは暑苦しくて誰もが少し楽な格好をしている。明かりの下で、様々な人がいた。様々な人が様々なことをしていた。外に人の姿はなく、明かりは遠くに見えるばかりだ。入れ物の中と外では全てが違った。
 入れ物はずっと走り続け、その音が車内を支配していた。入れ物の中で、世界と隔絶したように自分達だけがいて、その入れ物の中で彼とブラッキーは誰にも声をかけられずにいた。静かではないけれども、誰も語りかけてくることはない。ブラッキーは彼の膝の上で丸くなった。彼はペットボトルの口を開けて、少しだけお茶を飲んだ。
 線路のすぐ右隣に街灯の続く道路が来た所で、不意に、特急は速度を落とし始めた。次の駅はまだだ。じっくりと速度を落とし、特急はカーブへとさしかかった。体がぐっと外に引きつけられる。金属と金属の擦れ合う音が響いた。最後尾の車両が見えた。ブラッキーは窓の桟に足をかけそれをじっと見つめる。
 そこにあるのは、大曲線だった。行き先を大きく変えるターニングポイント。線路は右に大きく半円を描いている。道の明かりに照らされ、線路が浮かび上がった。その上を彼らが走り過ぎていた。大曲線は何のひずみもなく、完璧だった。美しく、雄々しい。盛り土の上でどっかりと、そこを通る全ての列車を受け止めているのだ。銀色に光輝く線路は前にも後ろにもしっかりと続いていて、全てのものを、間違いなく世界へと繋げているのだ。ぐいっと体を外に引きつけ、そして前後に続く線路で人と物を運び続けているのだ。
 特急は傾きを緩め、音は小さくなりはじめた。線路に沿う街灯に照らされ、ターミナルを出た直後のような、銀色の反射が見えた。雨はまだ降り続いている。だから、その大曲線は染み込むように遠くへと消えていく。だけれどその姿は、いつまでも目の奥底に残っていた。
 彼もブラッキーも、その様子をずっと眺め続けていた。

 特急は5つ目の停車駅を出発した。雨は止み、様々な色の明かりが手前から奥から輝いていた。
 彼はブラッキーと一緒にずっと世界を伺い続けていた。雨の無くなった夜は綺麗だった。雲は残っていて空も星も分からない。けれど家や道、車の明かり、山の輪郭、田畑の影、それらは何の押しつけもなく、何の過剰もなく、世界の容姿を教えてくれている。
 踏切を通り過ぎる時、人とポケモンの姿が見えた。
 ふと、ブラッキーが少し顔を上げた。その視線の先を追っても何もなかった。考え込んで少し離れてそれを見てみる。
 そこには、彼自身の顔があった。鏡になった窓が映す自分自身の顔だった。


 彼らだけを置いて、特急はせわしく行ってしまった。青年はブラッキーを連れてホームの端に立つ。来た方の線路をずっと見つめていた。線路は遠い所で小さく曲がっていて、そこから先は遠く、暗くてよく分からない。
 振り返ってみれば、特急が走り去った方のホームの端すらも遠い。それでも蛍光灯で照らされているホームの端はまだ見える方だ。そこから先に続く軌道が本当はどこに向かっているのか、彼らには分からなかった。二条の鉄の棒と、架線だけがずっと続いていることだけしか分からなかった。
 もう一度来た線路を一瞥する。ずっと続いてきた線路が、そこにはある。大曲線があって、分岐駅があって、漆黒の草原があって、自販機だけの駅があって、そしてターミナルへと続く線路だ。ターミナルの先にも線路はある。どんな線路か通っていないから分からないにしても、話には聞く線路だ。
 一人と一匹は歩き始めた。コンクリートのホームにそれは残らない。だけれど、それはこれまでもずっと続いてきて、これからもずっと続くものだ。
 線路は過去から未来へ繋がっている。線路という足跡は、明日へと続いている。




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