塀の外




 男の子が生まれたのは、塀の中でした。


 広い草むらを切り開いて作られたこの町は、周囲をぐるりと高い塀で囲まれておりました。
 外の世界と繋がっている場所はふたつ。町の一番南にある海と、一番北にある道路だけでした。道路といっても人の行き来で出来たもので、青々とした草むらが生い茂っていました。


 男の子は、生まれてから一度も草むらで遊んだことがありません。
 草むらには、凶暴な野性のポケモンがたくさん住んでいるからです。男の子が草むらに入ろうとすると、大人たちはみんな慌てて止めるのです。
 ポケモンは危険な生き物。草むらは怖いところ。そう言って男の子を叱るのです。

 だから男の子は、生まれてから一度も町の外に出たことがありません。高い塀の向こう側をのぞいたこともありません。
 塀は男の子の身長よりもずっと高く、一切のすき間もありません。町の外の世界を、男の子がその目で見る機会はありませんでした。


 ひとが作ったこの町は、草むらに囲まれていても、ポケモンが入ってくることはほとんどありませんでした。
 時々、空から飛んで来た茶色の小鳩や、どこからか迷い込んできたねずみの子供や青虫を見るくらいです。
 男の子の一番の親友は、そんなポケモンを見ると、いつも喜んで駆け寄りました。その度、ポケモンたちは怯えて逃げていきました。
 どうしてわざわざポケモンに近寄るんだろう、と男の子はいつも思っていました。

 男の子の親友は言いました。
 自分はいつかポケモンを持って、塀の外へ冒険に行くのだと。
 でも男の子には、塀の外に出る気はありませんでした。


 男の子は何人か、塀の外に出ていった人たちを知っています。
 お父さんは、男の子が小さな小さな時に町を出ていきました。
 男の子の親友のお父さんとお母さんも、町を出ていきました。
 今まで何人も、ポケモンを持った大人の人が、塀の外へ出ていきました。

 誰も帰ってきませんでした。
 誰も帰ってこなかったのです。


 親友のおじいさんは、有名なポケモン博士でした。
 研究所で見たことや教えてもらったことを、親友はいつも楽しそうに話していました。

 ここから少し行った草むらに、いろいろなものに変身できるポケモンがいるんだって。
 隣の地方に、未来を見るポケモンがいたんだって。
 遠い遠い場所に、夢を本当にしてくれるポケモンがいたんだって。
 いつもいつも、研究所には知らないポケモンがたくさんいるんだよ。

 親友は目を輝かせて話していましたが、男の子は特に興味が出ませんでした。
 近くの草むらも、遠くの地方も、みんな同じ。
 塀の中から出られない男の子にとって、いずれにしても行くことは出来ない場所だったからです。


 外は怖いところ。
 外は危ないところ。
 ポケモンは危険な生き物。
 それが、男の子の中では当たり前のことだったのです。


 塀の外に出られなくても、男の子は満足でした。
 町の中でも、親友とは楽しく遊べました。部屋に帰ればお母さんに買ってもらったゲームがありました。テレビもありました。本や漫画もありました。最新のパソコンもありました。

 男の子はそれで幸せでした。
 それで幸せだったはずなのです。



 ある朝、男の子は胸の上にずっしりと感じる重さで目を覚ましました。
 目を開けると、布団の上に黄色い塊が乗っています。よく見るとそれは、テレビや漫画でもよく見る電気ねずみでした。
 男の子と目が合うと、電気ねずみは布団の上から飛び降りました。行き先を目で追うと、電気ねずみは男の子とは違う人に飛び付きました。

 部屋の中にいたのは、男の子が知らない人でした。男の子より少し年上で、男の子のお気に入りの赤い帽子と同じものを被った少年でした。
 君はだあれ、と男の子が尋ねると、少年は何も言わず、男の子に向かって手招きして、部屋を出ていきました。
 男の子は慌てて着替えると、少年の後を追いました。


 少年は、男の子の家の前で待っていました。
 男の子が来ると、少年はまた手招きして歩き出しました。男の子も後を追いました。

 町の中心から外れた、人の気配がないところで、少年は立ち止まりました。
 目の前には、一羽の小鳩がいました。町を取り囲む塀を飛び越えて、迷い込んで来たのでしょう。
 少年は小鳩に近づきました。小鳩は逃げる様子を見せません。少年は腰を下ろして、小鳩の背を優しく撫で始めました。こわくないの、と男の子は尋ねました。少年は、怖くないよ、というように、笑って首を横に振りました。
 少年はそっと小鳩を抱えあげると、男の子の手に乗せました。男の子は身体を強ばらせましたが、小鳩は男の子の手の上でもぞもぞと動いただけで、逃げることも襲ってくることもありませんでした。
 男の子は、生まれて初めてポケモンに触りました。
 ふわふわとした羽毛の温かい手触りが、男の子の手に伝わってきました。


 それから毎日、少年は男の子の家へやってきました。
 少年はこの町のことをよく知っているようで、毎日違う場所へ男の子を連れて行きました。
 町の中にポケモンが迷い込んでいると、少年は必ずそこへ行きました。
 ポケモンがいないときは、少年は自分のポケモンを男の子に見せました。電気ねずみの他にも、大きな花を背中につけた緑のカエルや、大砲を背負った青い亀、翼の生えたオレンジのトカゲなど、少年はいろいろなポケモンを持っていました。
 少年のポケモンには大きくて怖そうなのもたくさんいましたが、ポケモンたちはみんな男の子や少年に優しく接し、少年もポケモンたちと触れ合うときは楽しそうな笑顔を浮かべていました。

 いつしか、男の子は少年と出かけるのが楽しみでしょうがなくなっていました。
 少年は毎日いろいろなところへ連れて行ってくれましたし、いろいろなポケモンを見せてくれました。男の子の知らないことを、たくさん教えてくれました。



 町の中で、男の子が行ったことがないところはすっかりなくなった頃でした。
 いつものように、男の子は少年に連れられて歩いていました。今日はどこへ行くんだろう、今日は何と出会うんだろう、と男の子はわくわくしていました。

 着いたのは、町の一番北にある塀の切れ目でした。
 男の子がぽかんとしていると、少年はざくざくと草むらを超えて、道へ出て行きました。

 塀の外で、少年は男の子に向かって手招きしました。
 男の子の心臓がどきんと跳ねました。それはとても魅力的なことに思えたのです。何より、男の子は少年にずっと着いて行きたいと思っていました。

 しばらくじっと考えた後、男の子は首を横に振って、行けないよ、と言いました。
 どうして? というように、少年は首をひねりました。

 外に出ると、帰ってこられなくなるもの。

 男の子がそう言うと、少年は悲しそうに笑いました。

 気がつくと、少年の姿は消えていました。
 淡い桃色の煙が、うっすらと周りに漂っていました。



 次の日、男の子の家に少年は来ませんでした。
 次の日も、その次の日も。
 少年が男の子の前に現れることは、二度とありませんでした。


 少年の足跡をたどるように、男の子は毎日町の中を歩き回りました。
 一緒に行ったところ。野生のポケモンと出会ったところ。ポケモンを見せてもらったところ。
 場所をたどれば、いつか少年に会えるんじゃないか。男の子はそう思いながら、毎日毎日少年の影を探していました。

 町の中を歩いていたある日、親友に出会いました。男の子が少年と一緒に出かけていて、しばらく一緒に遊べなかったので、親友は少し怒っているようでした。
 何やってたんだよ、という親友に、男の子は、電気ねずみを連れた人と遊んでた、と言いました。親友は首をひねって、そんな人間この町で見たことない、と言いました。
 そんな話をしていると、どこからか迷い込んできたのか、小さな紫色の子ねずみが二人の前を横切りました。親友がとびかかるより先に、男の子は子ねずみの近くへ行き、そっと抱きあげました。
 ポケモンは嫌いじゃなかったのか、と驚いた親友が聞いてきました。男の子は、前は興味なかったけど今は好きだよ、と子ねずみの頭を撫でながら言いました。
 親友はぽかんとした顔で、男の子と子ねずみの顔を何度も見比べました。


 それからもずっと、男の子は少年の足跡をたどりました。
 でも、どこへ行っても、赤い帽子の少年の姿も、黄色い電気ねずみの姿もありませんでした。
 それでも毎日、男の子は少年を探し続けました。


 ある夜、お母さんが男の子に、親友のおじいさんが呼んでいたわよ、と言ってきました。何か渡したいものがあるそうです。明日行くよ、と男の子は答えました。

 テレビをつけると、昔の映画をやっていました。男の子より少し年上の男の子が4人、線路の上を歩いていました。
 それを見ていると、お母さんは男の子に、ポケモンは好き? と聞いてきました。町に迷い込んできたポケモンを撫でていたのを、男の子の親友から聞いたようでした。
 男の子はうなずきました。すると、お母さんは寂しそうに笑いました。その顔は、少年が男の子に最後に見せた顔と少し似ていました。
 テレビの話だと思っていたんだけどね、と言い、お母さんは男の子をぎゅっと抱きしめました。

 そうね……男の子は、……。

 男の子に話しかけるお母さんの声は、少し震えていました。



 男の子は、柵の切れ目の前にいました。
 この町でたどった少年の足跡は、もうすべて行きつくしてしまったのです。残っているのは、もうここだけでした。
 青々と茂った草むらは、入ろうと思えばすぐに入れました。しかし、男の子はずっと決心がつきませんでした。


 男の子はわかっていたのです。

 本当は、町の中での生活に満足していなかったことを。
 本当は、外の世界にずっと憧れていたことを。
 本当は、いろいろなポケモンと仲良くなりたかったことを。
 本当は、この塀を乗り越えて、広い世界へ旅立って行きたかったことを。

 そして、あの少年が、自分が夢に見ている、憧れの未来の姿だということを。


 男の子は怖かったのです。
 もうこの町には戻れないかもしれない。お母さんにも、親友にも、二度と会えなくなるかもしれない。周りは知らない人ばかりだ。ポケモンに嫌われたらどうしよう。けがや病気をしたらどうしよう。自分は外の世界のことを何も知らない。
 塀の中では、何の不安もありませんでした。塀の中にいれば、きっといつまでも幸せに暮らすことはできたのです。

 でも、自由はありませんでした。


 男の子は塀の外を見ました。先には草むらが広がっています。何人もの人が通ってできた道が、遠くの方にぼんやりと見えます。

 あの道は、たくさんの人が通った足跡。
 自分も、あの道に足跡を残すことができるだろうか。


 男の子は、草むらに一歩足を踏み入れました。初めて踏んだ草むらは、思ったより柔らかく、さくり、と心地よい音をたてました。

 その時、突然大声で男の子を呼ぶ声が聞こえてきました。男の子のところへ駆け寄ってきたのは、親友のおじいさんのポケモン博士でした。そう言えば呼ばれていたなあ、と男の子は思い出しました。
 怒られるかな、と男の子が思っていると、博士は笑って言いました。



「こちらもポケモンを持っていれば戦えるのだが……そうじゃ! ……ちょっとわしについて来なさい!」






 そうね……男の子は、いつか旅に出るものなのよ。
 行ってらっしゃい、塀の外へ。




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