世界の終わりに果てる想い





『ポケモンが好きか?』

 ――そう聞かれた事が、少年には何度もあった。
 幼い頃から、同世代にはほぼ確実に。 顔も知らない年長者や、大きく歳の離れた大人達からも、折に触れて聞かれる事があった。

 そして勿論、彼の答えは決まっていた。

「好きだ」、と。

 何時も本心からそう答えていたし、その気持ちに偽りが伴った事など、一度たりともありはしない。


 ――しかし、それを聞いた相手の方は、誰でも必ず、こう切り返すのだ。

『ならば何故お前は、ポケモンを殺すのか……?』と――





 赤く燃える空の下、雪雲が去ったばかりの山道に、一組の足跡が続いていた。
 
 薄赤く焼け始めた東の空に向け、点々と続く雪上の痕跡。
 その先に位置する者の正体を、十分な経験を積んだ狩人などは、ただそれだけの痕跡で、的確に言い当てる事が出来る。
 ――種族、凡その年齢、体の重さなどは勿論の事。 性別や食事の有無、その時の対象の心理状態に至るまで、彼らがそこから知り得る内容は、素人からすれば信じられないほどに、多彩なものである。

 この世の中には、足跡から感情を読み取る『足跡博士』なる人物の存在さえ、確認されていると言う。
 それほどまでに、熟練者から見た足跡と言う奴は、様々な情報に富んでいるものなのだ。


 ……しかし、例えどれだけ多くの事が読み取れたとしても――そこに印されているものだけでは窺い知れないものだって、当然ある。
 降り積もる雪に覆い隠され無くとも、読み取る事の叶わないもの。 ……その意義を悟った時――その時人は一体、何を思うのだろうか――



 雪の降る夜



 奥山に向けて続く足跡の先端には、一人の少年がいた。

 まだ幼さの残る顔付きとは裏腹に、それには到底不釣合いな、年不相応とも言うべき鋭い光を放つ、二つの目。
 一目で獣の皮で作られたとわかる防寒具を身に纏い、腰の絞め帯に鞘入りの山刀を差している彼は、雪に埋もれないよう体重の掛け方を工夫しつつ、皮の長靴を履いた足をしっかりと踏み出しては、手に持ったコ-スキ(雪シャベル)を杖代わりに使いながら、足早に歩を進めていく。

 そして、時折立ち止まって後ろを振り返っては、後ろに付いて来ている相手が立ち往生していないかどうかを確認し、合わせて励ましの声を掛けていた。

 しかし、それを受け取る当のポケモンの方は、そんな彼には全く反応を示さないまま、ただ黙々と短い足を動かして、先に続いている少年の足跡を避けるようにしながら、淡々と近付いて来るのみである。
 少年の声かけを無視するミミロルのその足跡は、片足分が奇妙な楕円形をしており、一見するとどんなポケモンの足跡なのか、全く分からない。
 ……ミミロルの短い片足は、足首の辺りから途切れたように失われており、代わりに切り株のような形状の金属棒が、その代用を務めていた。

 反応の芳しくないミミロルの様子を確認し終えると、少年は再び背中を向けて、前方に向け歩き出した。
 空模様をチラリと見やり、天候変化の兆候が現れていない事を確かめつつ、昨夜に降り積もった雪に覆われた斜面の道を、ミミロルの小さな足でも進めそうな進路取りで、じわじわと進む。

 彼は祖父から、今年の冬が厳しいものになるであろう事を、予め聞かされていた。
「今年は森の獣達が騒がしいから、雪が多く降るだろう」―― そう口にした祖父の見立てが外れた事は、彼の経験上、まだ一度も無い。

 向かっている場所は、この辺りでも最も雪が浅くなる、山の南側手に位置した、林の中である。
 彼らが今住んでいる住居からは遠かったが、付いて来ているミミロルの背負っているハンディキャップの事も考え、彼はワザワザ歩きやすいように遠回りしつつ、そこへ向かっている。

 今後ろに付いて来ているうさぎポケモンを、住み慣れた故郷に送り返すために――




 彼の家は、小さな地方の田舎町である双葉の、そのまた外れに位置していた。
 しかもその上、彼がまだ幼かった頃は、両親は共働きであった為、少年は物心ついた時から、更にずっと山際の、心事湖の向かい側にある祖父母の家で育てられた。
 ――『距離があった』と言う理由により、保育園にも幼稚園にも行かなかった彼は、代わりに猟師である祖父の元で、人生の土台となるべき幼年時代を過ごす事となったのだ。

 他の同年代の子供達が、大勢で集まって遊戯や楽器の演奏などを楽しんでいた頃、彼は祖父から狩りの方法や山野での生活術を学んだり、囲炉裏端で祖母から聞かされる、昔話に親しんだりしていた。

 ユキノオ-に山刀一本で腕比べを挑む英雄の話。
 陸鮫一族と水竜一族との寓話。
 人に嫁いだアブソルやハクリュ-の伝説。
 身を以って戦を鎮め、風になった巫の物語など――祖母が物語ってくれる言い伝えの数々は、未だ幼い彼の手を引いて奥山に分け入る祖父の教えと同じぐらい、彼に大きな影響を及ぼした。

 そして、そんな中――同時に彼は、腕の良い猟師である祖父によって、山野を駆ける獣達―ポケモン達を捕らえる術を、極自然な形で、身に付けさせられて行ったのだ。




 黙々と付いてきていたミミロルが、不意に尻餅を付いた。
 健全な方の短い足を窪みに取られ、切り株のような義足では上手くバランスが取り切れないままに、よろけてひっくり返ったのである。

 気がついた少年は素早く振り返ると、これも短い両手を雪に突っ込み、立ち上がろうとしているうさぎポケモンに、「大丈夫か」と声をかける。
 ――しかし、彼は言葉の調子とは裏腹に、ミミロルにゆっくりと歩み寄って行くのみで、駆け寄って手を差し伸べるような雰囲気はない。

 実際ミミロルの方も、彼が近寄ってくる前に短い四肢を踏ん張って、器用に雪の中から足を引き抜き、立ち上がった。 ……微かに引き結ばれた口元が、本来温和な筈のミミロルに似合わぬ頑なさで、近寄ってきた相手の助けと気遣いを、無言の内に拒んでいる。
 そんな相手に対し、少年はただ一言だけ、「無理はするなよ?」、といたわりの言葉をかけてから、再び前を向いて、ゆっくりと歩き出す。
 むっつりと押し黙ったうさぎポケモンの方も、そんな相手の背中を見つめつつ、依然相手の足跡を避けるようにしながらも、雪を掻いて進みだす。

 少年の足取りを避ける余り、嵌らずとも良い穴に嵌り込んでしまったにも拘らず、彼女は一切の妥協を拒み続けるかのように、前を行く相手から軸をずらして歩むのを、止めようとはしない。
 その為にペ-スが上がらず、行程は全く捗らないままであったが、少年の方はそんな事は一切気にせずに、背後のポケモンがしたいようにするのに任せておいた。

 それでも、別に構わなかった。
 ……彼女が自分を拒む事で、前に進む事が出来るのであれば。




 少年が初めて狩人として獲物を仕留めたのは、まだまだろくろく雪の山道も踏破できない、6歳の頃であった。

 祖父に教えられた待機場所で、息を殺して2時間粘った末。
 風向きの関係もあってか、ふらふらと無警戒に茂みから歩み出てきた一匹のビッパを、引き始めて間もない、小さな半弓で射止めたのである。
 無論急所には当たらず、ビッパは慌てて逃げ出したが、伝統に則って濃く煮詰められ、松脂によって固定された数種の矢毒が、丸ねずみポケモンの自由を奪った。

 動けなくなったビッパに止めを刺す際に、まだ幼い少年の手が震えたのは確かである。
 しかし、逡巡して相手の苦痛を長引かせる事が、対象への最大の非礼であると教えられていた彼には、躊躇い続ける事は許されなかった。
 彼はビッパに不器用な手つきで引導を渡すと、続いて覚束無い足取りで準備を整え、相手の魂を送り返す祝詞を唱えた。

 内容の方は、彼自身ももう覚えてはいない。
 余りにもお粗末だったし、年齢的にも、言葉を選ぶなどと言う真似が、出来る訳は無かった。
 ……しかし、間違いなく心の底から思いを込めて語りかけた事だけは、今でもはっきり覚えている。

 その丸ねずみポケモンが、呼ばれてきた祖父によって解体され、その日の夕食の膳に据えられる事になった時、かの老人もまた万感の思いを込めて、鍋の中の客人に対し、謝礼の言葉を言上した。
 夏毛であった故に毛皮は使い物にならなかったものの、今でも山刀の釣り帯として名残を止めているあのビッパについて、少年がはっきりと記憶しているのは、その二つであった。


 しかし――その忘れられない経験はまた、彼が周囲から孤立する決定的な要因にも、同時に発展する。

 その頃は既に、彼も小学生になっており、遅蒔きながらも周りの同世代と一緒になって、義務教育の洗礼を受けていた。
 長期休暇を終えた後、その間の体験談で持ちきりのクラスメ-ト達が、普段は殆ど話しかける事も無い彼に対して質問した時から、少年は自らが周囲とは異なった価値観を抱いている事を、否応無しに思い知らされる。

『ビッパ(ポケモン)を毒矢で射止めた ……そしてあまつさえ、止めを刺してバラバラに解体し、鍋で煮込んで食べてしまった』――

 その様な行為を夢にも思い描いた事が無かった周囲の人間にとっては、彼が言葉少なに語ったその体験談は、カニバリズム(食人行為)の告白にすら、等しかったのであろう。

 執拗な嫌がらせの末にワザとらしく絡んできた、町中育ちの体が大きいだけのガキ大将を、山歩きで鍛えられた腕っ節でなんらの問題もなく叩き伏せた所で、彼の周囲からの評価は、確実なものとなった。
 不気味な危険物として、同級生は意識して彼から距離を置き、複数の教員も、ある種の精神的な『発達障害児』として、職員会議で話題に上げる始末。
 少数の友人や、親身になってくれた一部の教師などと言った例外はあったが、基本的に少年は家族以外からは疎外され、様々な陰口や、偶に受け取る面と向かった不愉快な質問の中で、黙々と歳を重ねていった。


 ……しかし、それでも彼は、自分の意見や考え方を、揺るがせる事は無かった。
 少年は周囲からどう言われようとも、自らの考え方や行いを恥じる事無く、ただひたすらに、狩りの修練に勤しみ続ける。

 確かに彼には、生まれつき頑固な所があった。
 祖父の事も大好きであったし、何かと陰でひそひそとやる、周囲に対する反発もあった。
 ――しかし、ただ単にそれだけで意地を張っていたのかと言うと、断じてそんな訳ではなかった。
 彼は彼なりに思う所があったから、安易に周囲に靡いて自分の持っているものを手放す気には、到底なれなかったのである。




 やがて雪原を横切り続けていた彼らは、目指す南側の斜面に抜ける尾根の付近で、一本の倒木が、道を塞いでいるのに出くわした。
 少年の両手では2抱え半以上もある松の大木は、物言わぬままに雪を被って、狭い獣道を跨ぐ様に横たわっており、乗り越えるには少しばかり、難儀な代物であった。

 しかし、ボンヤリとしてもいられない。
 ……既に、雪が積もりだしたこの季節――余りトロトロと時間を使っていると、忍び寄って来る夜の帳が下りる前に、家に帰り着く事が出来なくなってしまうだろう。

 そう考えた少年は、藪漕ぎで時間の取られる迂回を諦め、コ-スキを大木の側の雪の中に突き刺すと、それを足場にして、身軽に倒木の上によじ登った。
 次いで、後に続くミミロルに対し、声をかけると同時に体をそちらに乗り出して、片手を差し伸べる。

 ミミロルはそれでも、尚も直ぐには動こうとはしなかったが……やがて黙然と近付いて来ると、彼とは視線を合わせないようにしながら、背を伸ばしてその短い片腕を、少年の褐色に近い利き腕に、無造作に委ねた。
 力を込めて引っ張ってやると、ミミロルの方も残りの腕と短い足を凍りついた樹皮に押し当てて踏ん張り、なるだけ早く事が済むように、雪を掻き分け這い上がる。
 ――あくまでも心を開こうとはしないミミロルに対し、それでも少年は一切、嫌な顔はしなかった。

 ……彼には彼なりに、この目の前のポケモンに対し、負い目を感じる理由があった。 ――彼女の片足を切り落としたのは、他ならぬ彼自身だったのだから。

 それをボンヤリと反芻しつつ、少年はそっぽを向き続けて雪を払うミミロルの横顔を、陰鬱な思いで見守った。
 ――如何に彼女がそれを望んだのだとしても、厳冬を間近に控えるこの時期に、家族もいない独りきりのポケモンを送り出す事は、同じ北国育ちの彼にしてみれば、到底肯んじ得ない行為である。

 ……しかし、もうこのポケモンが次の春まで待とうとする気が無いのは、誰よりも彼自身が、十分過ぎる程に承知していた。




 現実として、例え周囲がどう言おうとも――少年は同世代の誰よりも、ポケモン達と近しかった。

 彼の行いを非であるとし、『可愛いポケモンの命』を声高に叫ぶクラスメ-ト達は皆、野生のポケモンと最も近くまで歩み寄って、時には直接触れ合う事も出来る彼の行為を、真似する事は出来なかった。
 彼らは野生のポケモンに近寄る事を恐れるか、もしくは近寄ろうとした時に威嚇され、その場で竦んで足を止めるかのどちらかであって、言葉少なながらもゆっくりと近寄り、相手の警戒心を解きつつ対応出来る少年の姿を、不可思議なものでも見るように、目を丸くして見詰めるばかりであった。


 こんな事もあった。

 その日彼は、何時も通りに祖父母の家に向け、双葉北郊外の田舎道で、帰途についていた。
 道連れも居らず一人きりで、カバン代わりのボロリュックを背負い、時々空を横切る飛行ポケモン達を、横目で追いつつ歩いていく内――ふと少年は行く手の先に、一塊の人だかりが出来ているのに出くわした。
 ――徐々に近寄っていくに連れ、その人だかりの正体と、それを惹き付けている対象の姿が、はっきりと目に飛び込んで来る。

 そこでは、彼と同じぐらいの年齢の一人の少女が、片手にスプレ-式の傷薬を持って、地上に降り立ったムクバ-ドに向け、懸命に話しかけている最中であった。
 ムクバ-ドは片翼を折り曲げており、どうやら飛ぶ事が出来ない模様で、鋭い鳴き声を上げながら全身の羽毛を膨らませ、目の前で自分に向けて声を掛けてくる少女を、盛んに威嚇している。
 ……ポケモンの周囲には、投げ与えられたと見られる幾つかのオレンの実が転がっていたが、必死になって身を竦めているムクバ-ドには、それに手を付けるような余裕など、到底無いのだろう。

 様子を見ながら近付いていった彼が、漸くそこまで行き着いた時――遂に少女が意を決したように前に歩み出て、張り裂けるような鳴き声を上げ続けている椋鳥ポケモンに向け、ゆっくりと手を差し伸べた。
 しかし次の瞬間、伸びてくる手に合わせて身を引き、縮こまる一方だったムクバ-ドの首が、突然バネ仕掛けの玩具か何かの様に前に向けて突き出され、差し出された少女の掌に、鋭い一撃を加える。

 周りに出来た3人ばかりの友人達の垣根からは悲鳴が漏れ、火傷したように手を引き、傷薬を落として傷口を押さえた少女の指の間からは、赤い雫が一つ二つと、乾いた未舗装の路上に滴り落ちた。
 少女は尚も、自分を傷つけた椋鳥ポケモンを何とか宥めようと、懸命に言葉をかけてはいるが――やはり、先程の反撃で足が竦んでしまったらしく、ムクバ-ドの手前に転がっている傷薬に手を伸ばす事さえ、出来かねる様子だった。

 そこまで見た所で、少年はゆっくりと前に進み、怪我をした少女に歩み寄ると、無言で相手の前に出てから、口元を引き結んだままで、下がっているように目で合図をした。
 次いで、言葉も無く自分を見つめている相手から目を逸らすと、後ろに溜まっている他の連中にも、少し離れた所にある立ち木の辺りまで下がるように、声を掛ける。
 全員が下がったのを確認すると、彼は改めてムクバ-ドに向き直り、先ずは目一杯に姿勢を低くしてから、相手の方に向け、ゆっくりと近寄って行った。

 それでもやはりムクバ-ドは、当初は依然として甲高い声で鳴きながら、威嚇の構えを解こうとはしなかったが……それでも今度は、近寄ってくる相手に合わせて竦むような事は無く、やがて耳を突く鳴き声の程も、徐々にではあるが尻すぼみに衰えていき、彼が接近するのを止めたのを境に、ふっつりと途絶えた。
 既に、手が届くか届かないかの距離にまで近付いていた少年は、続いてその辺りに転がっていたオレンの木の実を二つ拾うと、片方を自分で齧りながら、ゆっくりとした動作でもう一つの方を掌の上に乗せて、ムクバ-ドの方へと突き出してやる。
 ……無論椋鳥ポケモンの方も、直ぐには手を付けようとはしなかったものの――やがて彼がついと顔を背け、尚も明後日の方向を見つめながら待ってやると、遂にムクバ-ドは、ここへ来て初めて自分から前に出てきて、彼の手に乗ったオレンの実を、静かに啄ばんで食べ始めた。

 余りの成り行きに、離れて見ていた少女ら4人が、呆気に取られて眺めている中……少年は木の実を食べ終わったムクバ-ドに対して改めて向き直ると、ゆっくりとした動作で転がっていたスプレ-式の傷薬を拾って、体力を取り戻した相手に向け、再びにじり寄って行く。
 ――そしてそのまま、落ち着きを取り戻して嘘の様に大人しくなった椋鳥ポケモンの手当てを完了すると、自分をじっと見つめている相手の頭を3本の指の先で掻いてやってから、そこで漸く立ち上がった。

 少年が立ち上がるのと同時に、傷の癒えたポケモンの方も翼をはためかせて空へと飛び上がり、手当てしてくれた相手の頭上を二度三度と旋回してから、近くの森に向けて消えていく。
 ムクバ-ドの姿が見えなくなり、彼が背中から下ろしていたリュックを拾って、もう一度背負い直した時、離れて成り行きを見守っていた少女が、友人達の輪からゆっくりと抜け出して、彼に対して礼を言って来た。
 彼は適当に返事を返すと共に、同時に自らの不備を尋ねて来た相手に対して、椋鳥ポケモンがどうして彼女を受け入れようとしなかったのかを、簡単に説明してやった。

 ――ポケモンに限らず、鳥という生き物は全般的に、自分よりも高い位置に存在する者に対し、強い警戒心を抱くものである。 ……しかも、元より生き物と言うものは皆、自分よりも大きな体格の相手に、本能的な恐怖を感じるものだ。
 オマケにあのムクバ-ドは、本来群れで行動するポケモンであるにも拘らず、たった一匹で孤立して、自分よりもずっと大きな人間に、周囲を囲まれていたのである。
 ……これでは、幾ら感情を込めて呼び掛けた所で、怯えきった椋鳥ポケモンの恐怖心を和らげる事など、出来よう筈も無い。

 それに、ただでさえ体力的に弱っている野生のポケモンにとって、明らかに自分より大きな相手にじっと見つめられる事は、大変な恐怖なのだ。
 獣達は皆、相手の挙動には非常に敏感である。 ……彼らは常に、相手の様子を良く窺っており、危急の際は自らに注意を向けられているだけでも、極端な程にそれを嫌がる。

 だから少年は、出来るだけ姿勢を低くしてムクバ-ドに近付いた後、オレンの実を自分でも齧りつつ、別の奴を相手に差し出してから、ワザとに視線を外してやった。
 ……こうする事で、彼は自らが空腹では無く、獲物を必要とはしていない事を相手に向けて分からせつつ、臆病な椋鳥ポケモンが安心して木の実に手を付けられる様、敵意が無い事を直接的に、証明して見せたのだ。

 ――これらは全て、彼が実際に彼らポケモン達と直接触れ合いながら、肌で感じ取り、身に付けて来た知識に基づいたものである。
 一方でその頃の彼は、自分にとっては日常的とも言えるこの手の知識を、何故周囲の連中がこうも理解出来ていないのかと、何時も疑問に思ってもいた。

 周囲はやたらと彼の事を不思議がり、時には立派な大人のトレ-ナ-達が、そのノウハウを訪ね掛けて来たりもしたが、彼に言わせれば、そんな事に一々驚かれる事自体が甚だ奇妙で、また不可解極まりない事であった。
 ……大体、彼自身ノウハウなどと言う物を語るにはまだ若過ぎたし、それを聞いて来る彼ら大人達の方が、自分なんかより遥かに詳しく、ポケモン達について学んでいるのだ。


 彼はただ、野生のポケモン達との間に『適正な距離』を置いて、付き合っているだけである。
 ――単純に、ポケモン達と諍いを起こさないよう気をつけながら接しているだけの事であって、自らに特別な才能や能力が備わっているとは、毛頭思っていない。

 祖母が話してくれる聖伝の英雄達の様に、野生のポケモンに認められるような飛び抜けた実力は持っておらず、伝承の中で活躍する巫達の様に、彼らと会話が出来る訳でも無い。
 ただ単に、普通に『隣人』として適正な距離と気配り、そして意思表示を欠かさないようにしながら、自分の持っている知識の範囲内で、最も適切と思われる振る舞いを、こなしているだけの話なのである。

 ……元々野に生きる獣達は、自らの負担を最小限に止めて置く為に、無意味な争いや騒動事は、起さない様にしているものだ。
 普段は食う・食われるの関係にあるムクホ-クとポッポでも、ムクホ-クが満腹の状態であるならば同じ木に止まって羽を休めるし、小さなポッポが同じ岩の上で好物の虫を探して啄ばむ事だって、別に躊躇わない。
 ――例え相手が危険な捕食者だったり、主食としている小動物であったりしても、その必要が無ければ無闇に警戒したり騒ぎ立てたりしないのが自然界の常であり、掟である。

 少年は単に日頃から、それに則って自らの振る舞いの程を、彼らポケモン達のそれに、出来る限り合わせているだけなのである。
 ……寧ろ彼は、自らが極自然な形で身につけたその感覚を、周囲に暮らす誰もが全く理解しようともしていない事に、常々驚きを隠せなかった。


 町に暮らしていた人々の目には、山中で彼らと血を分け合って生きて来た自分とは、また違った風に、ポケモン達が見えている――彼は常々幼い頭で、そう思わざるを得なかった。




 雪に覆われた倒木の上から、行く手に広がる残りの行程を見渡しつつ――少年は、傍らで口をへの字に結んで、自らの足に括り付けられた金属製の義足の結び目を直しているミミロルとの出会いを、何時とは無しに思い出していた。
 ――今でこそ、こうして自ら義足の調整もこなし、彼が隣に位置を占めても、暴れだそうとはしなくなったものの……これまで過ごしてきた二年間の経緯は、決して平坦なものではなかった。


 彼らが初めて出会ったのは、少年が9歳の頃――丁度今時分、雪が降り始めた前後の出来事であった。

 その日、彼は自力で山に入れない時期に差し掛かる前に、もう一度猟場にしている辺りを一巡りしておこうと、今日の様に積もりかけた雪の獣道に足跡を残しながら、ゆっくりと山の南側にある林に向け、弓を背負って歩いていた。
 時刻はまだ早朝であり、照り返しによって目を眩ませない様に慎重に歩を進めていた彼は、やがて林の入り口辺りで、一匹のポケモンが倒れているのに出くわす。
 ……倒れ込んでいたのは、美しい毛並みを朝の日差しに輝かせている、立派な大人のミミロップであった。

 彼が音を立てないように弓を取り、しっかりつがえつつ近寄ってみると、倒れているミミロップは既に力尽きており、今しがた息を引き取ったばかりであるらしく、まだ体温が残っている状態であった。
 ――思わぬ収穫に、彼が喜んだのは言うまでも無い。

 早速この獲物を我が手にすべく、その場で近くの枯れ枝を雪の中から掘り出したり、自分の道具を引っ張り出して並べたりして、手早くも厳粛に、死者の魂を送り出す祝詞を上げた後――さてこそはと山刀の鞘を払って、物言わぬ骸に刃を入れた所で、それは起こった。
 冬に備える為の、新しい防寒具に使えるだろう上等の毛皮を確保できた事に、内心躍り上がらんばかりであった少年は、刃を滑らせ始めた獲物の下側から、突然くぐもった鳴き声が聞こえて来たのに、文字通り飛び上がらんばかりに驚いた。

 慌てて山刀を構え直し、恐る恐る冷たくなりつつあるポケモンの体を、反対側の手で押し転がして見た所――彼はそこに見たものに、思わず寸時の間固まって、同時に言葉を失ってしまった。

 そこには、片足をワイヤ-で作られた輪によって締め上げられ、身動きの取れなくなってしまったまだ幼いミミロルが、小さな体を精一杯に縮めて横たわっており、恐怖と悲しみに縁取られた円らな瞳を、真っ直ぐ彼に向けて来ていた。
 ……血に濡れた刃を構えた狩人を、涙を溜めた目で見上げつつ、瘧の発作の様に震えているその小さな体には、彼によって流された母親の血が、赤黒い染みを形作っている。

 うさぎポケモンの置かれている有様を、ショックに打ちひしがれた頭で、何とか理解した時――少年はそこで漸く、手に持った山刀を取り落とすように雪の上に転がして、母親ミミロップの体を脇に押しのけ、ミミロルの脇にひざま付いた。
 怯えて暴れるミミロルの、強烈な両耳による一撃を警戒しつつ――鋼鉄の輪に噛み付かれたその足の状態を調べながら、彼は何故ミミロップがそこで力尽きていたのかを悟って、暗澹たる思いに表情を歪ませる。
 ――彼女は、その場から動けなくなった自分の娘を、容赦の無い寒波から守る為にそこに留まり続け、結局自然の猛威に抗い切れぬままに、命を落としてしまったのだ。
 足に絡んだ罠を外そうにも、ミミロップやミミロルは『不器用』な種族であり、それは叶わなかったのだろう。 ……また鋼鉄製のワイヤ-は、頑丈な顎や鋭い牙を持ち合わせていない彼女らには、引き千切るには余りにも手強過ぎた。

 この手の『括り罠』と言う奴は、現在は固く禁じられている手法であり、仕掛けて行った人物は、間違いなく余所からやって来た、密猟者であった。
 ……身を捩じらせて泣き喚くミミロルを押さえ付けつつ、完全に変色してしまっている、うさぎポケモンのその足先に絶望しながら、少年は顔も知らない相手に対し、激しい憤りを覚えていた。

 ――そして、やがてその双眸が、逃れられぬ現実を悟って光を失い……次いで、再び生気の戻って来たそれが、覚悟と決意を秘めて、鋼の如き冷徹な光を帯びた時――うさぎポケモンの体を押さえていた利き腕が、脇に転がっていた血染めの刃物をしっかりと探り当て、握り締めた。




「何故ポケモンを殺すのか?」――この質問を受け取る度、何時も彼は、同じ言葉を返した。 ……即ち、「食べる為」であると。
 ――同時にこの答えは、彼が常に抱いていた疑念に対する、痛烈な皮肉でもあった。


 彼は何時も、疑問に思っていた。
 町の食料品を扱っている店舗には、何時も様々な種類の肉や魚が、所狭しと並べられていた。 ……それらは皆、決まった期間が過ぎると『ゴミ』として廃棄され、透明なビニ-ル袋に放り込まれて一顧だにされぬまま、他の塵芥や汚物などと一緒に、処分されていく。

 そこでは、嘗て生きていた筈の者達に対する尊厳が、完全に失われていた。
 値札を付けられたそれらは、既に単なる『モノ』でしかなく、付けられた数字に見合う条件を失った時点で、その価値を失ってしまう。
 ゴミとして処分されていく彼らには、最早誰も関心を示そうとはしない。

 直接手を下す立場を経験していた少年にとっては、正直実体も定かではない数字上の価値だけで、まだまだ利用可能なそれらが『モノ』から『ゴミ』へ変化する論理が、どうしても受け入れ難かった。
 弔われる事も無く、顧みられる事すらないそれらの存在を、周囲は全く拘泥しようともしないし、それを指摘する彼に対しては、一様に眉を顰めるのみで、突っ込んだ議論もなそうとはせず、その場を離れる。

 ……必要に応じて命を奪う事が理不尽な罪であるならば、何故最初から『モノ』として捉え、嘗て生きていたと言う事実に対して目を背ける事が、正当だと見做されるのか?


 確かに、そこにあるのは『モノ』であった。
 商品として陳列されているそれらには、最早生命は宿っておらず、魂の抜けた抜け殻が『モノ』としか受け取れない事実は、彼もその経験上、良く分かっていた。

 しかし、その一方で――同時に彼は、彼らが『モノ』に変わるその瞬間をも、非常に良く理解してもいた。
 ――生きている者が『モノ』に変わる瞬間は、『命』に対する厳粛な感情や観念とは裏腹に、余りにも短く、呆気ないものである。

 命を絶つまでに味わう苦悩と痛苦は、獲物を目前にして高揚する勝利の喜びを以ってしても、到底拭い難いほどに重く、深い。
 けれども、いざ止めを刺した後に訪れる対象への意識の冷却は、場馴れした少年ですらその都度戸惑わずには居られないほどに、急激なものだ。

 実際に己の手を血で汚し、仕留めた相手の鼓動が止まる様を見届けた経験があるのであらば、その急変に対しても、心を流される事は無いであろう。
 事実、彼は仕留めた相手への気遣いを失った事はなかったし、それ故にどんな時でも、そこから得られる物を、無駄にしたりはしなかった。

 解体の方法を教わった時も、常時ならば体調をも崩しかねない凄惨な有様の中、動ずる事もなしに手順を覚える事が出来たし、自分がそれを実践する時も、ヘマをしたりはしなかった。
 仕来たりは忠実に守り、撃ち止めた時には必ず相手を送る言葉を添えたし、無事に解体を終えた後には、同じ森に住んでいる他の者達の為にも、幾許かの取り分を残して行く事を忘れなかった。


 全ては、自らが日々行わなければならぬ業をしっかりと認識し、それを贖わざる事を固く戒めた、祖父の言葉によるものだった。

 彼を連れて山野に分け入る時、常にその理を言い聞かせてきた老人は、木の実を拾う時も樹木に挨拶をしたし、取ってきた魚を調理するにも、先ずは俎板に据えられたそれに対して来訪の謝意を述べ、礼を尽くした。
 獣を取った時と同様、収穫から幾分かの分け前を残していくのは礼儀であったし、何の関係も無い小さな虫や蔓草についても、無闇に踏み潰したりはしない。 ……老人の感覚では、彼らは獲物も含めて全て隣人であり、それに適った礼を用いるのが、彼らと共に生きていく上での、最低限の節度であると言う。
 ――それは同時に、彼がまたその祖父や父から、代々受け継いできた生き方でもあった。

 それ故にか祖父は、腕利きの猟師であるにも拘らず、弓矢や猟銃を持たずに山に分け入った時には、不思議なほどに獣達―ポケモン達からは、警戒されなかった。
 陽気の穏やかな春であれば、歩く側からビッパやコロボ-シらが様子を窺いに来たし、夏場に木陰に入れば、離れた岩場にはアブソルが姿を見せた。
 実りの秋には、木の実を拾う彼らの側で、ムックルやパチリス達がせっせと冬に備えていたし、冬の雪道では、好奇心旺盛なユキカブリ達が、物珍しさに寄り集まってくる。

 獣達同士と同じ様な感覚で、互いに距離を保ちながら存在を受け入れあっている祖父の傍ら、少年は極自然な形で、彼らと適正な距離を保つ感覚を、独りでに身に付けていった。
 ……知らず知らずの内に、周囲の世界と自らとの間に、大きな溝を育んでいっているのにも、全く気が付かないままに――


 そう――自ら対象の命を奪う事で、初めてそこから得られる心の揺らめきと心情の変化とを、知る事が出来ると言うのなら。 命を奪い、生きて行く事それ自体が、彼らとの距離を離す直接的な原因ではないと、悟る機会がなかったのであらば――
 それならばもしも、最初から――彼らが『モノ』の状態であったのならば、どうなるだろう……?





 敗血症を防ぐ為、既に使い物にならなくなっていた片足を切り落としたミミロルを、彼は山の反対側にある祖父の狩小屋まで運んで行き、それから更に容態を落ち着かせてから、祖父母の家に連れ帰った。

 連れ帰った当初は、ミミロルは全く食物を受け付けず、最早生きる事を拒否しているかのように、頑なな姿勢を崩そうとはしなかったが――少年がある言葉を与えた事を切っ掛けに、少しずつではあるが、出された木の実に手を付けるようになっていった。
 ……彼はミミロルに対し、ただ一言、「母親の思いを無駄にする気か」と、無表情で呟いたのだ。

 そうなると、ポケモンの生命力は非常に強く、切り口を包み込めるよう、骨が短くなるように切った彼の手腕も相まって、一月もしない内に、彼女は体調を常の状態にまで回復させる事が出来た。
 うさぎポケモンが、もう何の支障も無く、彼に向かって技を繰り出せるぐらいにまで回復した時。 ……次いで彼は、敵意を隠そうとはしない彼女の足に、ずっと製作に当たっていた、一個の棒切れを括り付ける。

 ――それから二年間、彼は決して心を開こうとしないミミロルに対し、敢えて徹底的な形で、様々な訓練を施していった。
 当初は歩く練習から始まったそれは、次いで走る訓練を経て、跳躍の鍛錬となり――やがて最後に、最も種族的に困難な作業である、義足の『自作訓練』へと、繋がって行く。

 ミミロルは、進化系のミミロップ共々、非常に『不器用』な種族なのである。 ……しかしその一方、もし野外に自立した暁には、破損や磨耗、それに進化による体形の変化などで、使っている義足が使用不可能になる可能性は、常に付き纏う事となる。
 ――彼を含め、凡そ人には一切心を許そうとはしない彼女の生涯を全うさせるには、その生まれ持っての特性を克服してでも、自らの必要とする物を自力で生み出す術を、身に付けさせてやら無ければならなかった。

「これを覚える事が出来たら、お前は故郷に帰れる」――少年のその言葉を受けたミミロルの方も、決して彼に対して、態度を変えようとはしなかったものの、与えられた課題をこなす為に、歯を食いしばって努力し続けた。
 そしてその甲斐あって、遂にここ最近に至り――ミミロルの製作能力は、どうやら自力で自らの体の一部を削り出せるぐらいにまで、漕ぎ着ける事が出来た。


 ……彼がその様に振舞った背景には、彼自身が抱いていたうさぎポケモンへの負い目以外に、自らも含めてニンゲン全てが、彼ら野に生きる獣達―ポケモン達の隣人足り得なくなっていく事への、堪え切れぬ贖罪の思いがあった。

 共に同じ森で営みを送っているにも拘らず、ただ一方的に搾取を繰り返すばかりで、隣人としての礼を逸し、互いを思い遣る心を忘れようとしている自分達。
 祖父達が代々受け継いで来た信頼関係を、呆気なく飽食と利得のシステムの中に埋没させ、失っていく事への面目無さ――

 祖母の語ってくれる物語の世界は彼方に過ぎ去り、本来隣同士に位置している筈のポケモンとニンゲン達との溝は、意識的にも無意識的にも、ただ深まっていくばかり。
 それがこの時代に生を受けた少年には、如何にも残念な事であったし……また同時に、堪らなく寂しかった。




 不意に頭の付近に感じた震動と物音に、少年はビクッとして目を見開き、淡い境目を彷徨っていた己の意識を、赤く染まりつつある、夕暮れの雪山に覚醒させた。
 ……枝から崩れ落ちて来た雪の塊が発したそれにより、彼は自分が束の間の間、疲れと消耗からまどろんでいた事を悟る。

 意識がはっきりしてくるに従い、体が既に冷え切って、石の様に重くなって来ている事と、それにも拘らず焼けるような痛みの感覚は、全く衰えていない事も自覚する。
 体を起そうとしつつも果たせず、復活した痛みの信号に小さく呻いた彼は、上半身を起こす事を諦めて、体の上にかけてある雨除け布を凍えた利き手で少しはぐり、自らの自由を奪っている苦痛の根源を、もう一度己の目で確認した。
 ――そこには、冷え切った流血に赤黒く塗れ、立ち枯れた若木の株によって太腿の辺りを串刺しにされた、無残な有様の彼の右足が、ぞっとするような悪寒と非現実的な感触を伴って、横たわっていた。

「痛い……」

 そう一言呟くと、再び少年は持ち上げていた首を落として、既に足早に暮れかかっている紅の空を、乱れつつもゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、虚ろに見上げる。 ホンの一時間程前までは綺麗に安定していた空模様は、彼が朦朧とした意識の中で過去を廻っている内に怪しく変化し、山の向こうから黒い雲の塊が徐々に広がって、茜色の虚空を占領し始めていた。

 ……彼は知っていた。 痛みを感じると言う事は、まだ自分が死ぬまでには、相応の時間が残されていると言う事を。
 しかしその一方で、このまま行けば先ず間違いなく天候が崩れ、彼は生きたまま孤独に耐えつつ、やがては降り注ぐ雪の中で、力尽きてしまうだろうと言う事をも。

 それを理解している少年は、もう一度何とか体を起そうと努力してみたが、やはりそれは、徒労に終わった。
 体は冷え切って力が入らず、串刺しになっている足の傷口は、突き刺さった株に肉が巻き付いており、痛みに耐えながら懸命に動かそうとしても、ビクともしない。
 ……仮に抜けた所で、出血多量によって力尽きるだろう事を十分に弁えている彼は、程なくして体力を消耗するだけに終わるその悪足掻きを、小さな溜息と共に切り上げた。

 同時に、既に感じ始めていた耐え難い喉の渇きを癒す為、手元の雪を一掴み掴み取ると、手の内で圧縮するように握り固め、密度の高い氷状にしてから、一口二口と口に運ぶ。 ……雪をそのまま口にするだけでは、得られる水分が奪われる熱量と到底引き合わず、ただ体力を消耗するのみに終わってしまうからだ。


 次いで雪片を捨てた後、力なく視線を向けたその先には、彼の持ち物の山刀が、半分雪に埋もれたままで、釣り帯をこちらに向けて転がっている。
 ――手が届きさえすれば、少なくとも心理的には、まだ幾らか楽になれる所なのだが、残念ながら此方に向けて伸びている釣り帯の先端部分ですら、彼が指先まで最大限に伸ばした所で、まだ腕一本分程届かなかった。

 やがて手を伸ばす事を諦め、オレンジ色に光を反射している雪の上に横たわっているそれを、じっと見つめている内――ふと少年は、痛みによって歪んでいる表情を微かに緩めて、こんなにも近い位置にあるにも拘らず、どうしても手が届かないそれに向け、穏やかな口調で語りかけ始めた。

「……悪いなぁ…… ……どうやら俺、ここで死ぬかも知れないよ」

 口を閉じた彼の目には、痛みを通り越したその先にある物が、しっかりと浮かび上がっていた。
 ――初めて射止めた、丸ねずみポケモンの面影。 それを瞼の裏に思い描きつつ、少年は静かに息を吐いて、遠い思い出を振り返る。


 少年が慣れない手つきで、ビッパの遺してくれた物を裂いては繋ぎ、それを完成させた翌日――彼は祖父に小さな船を出して貰って、綺麗に磨いた丸ねずみポケモンの骨を、早朝の鏡の様に凪いだ心事湖の真ん中に、手厚く葬った。
『捕まえたポケモンを食べた後の骨を綺麗にして、丁寧に水の中へと弔う。 ……そうすると、ポケモンはやがて再び肉体を付けて、この世界へと戻ってくる』―― ……それが、彼が祖父から教えて貰った伝承と、正しい弔いの方法だった。

 青い蒼い水の底に向け、一晩かかって磨き上げた客人の名残が、ゆっくりと沈んでいくのを見守った時――彼はまだ幼かった心の内で、湖に還したポケモンに恥じぬような狩人になる事を、固く誓った。


 それを改めて反芻した時、彼はもう一度目の前の相手に向けて、小さく謝罪の言葉を述べた。
 ……遠い日の誓いを果たせぬままに、こうして雪の山道で動けなくなっている自分の運命を、ただ呪うでも嘆くでもなく、不思議な思いで見つめながら……

 決して、恐ろしくない訳ではなかった。
 苦悩もあったし、悲しさや人恋しさ、未練や後悔だって、少なからずあった。

 けれども不思議と、彼は冷静だった。 『このままでは死ぬだろう』――そう理解しているにも拘らず、何処か自嘲にも似た、不可思議な笑みが零れそうにすらなっていた。
 ……何故そう感じられるのかは、自分でも良く分からないままに――彼の意識は、ここに転がり落ちてきた当初の光景を、何時とも無しに振り返る。




 大体あれは、2時間程前であろうか……?

 普段使っていた森の中の獣道が、樹上からなだれ落ちた雪に埋もれて使えなかったのが、そもそもの発端だった。
 急遽進路を変更して選んだその切通しは、崖際に続く一本の隘路であり、その辺りの風の通り道にもなっている事から、厳冬期でも比較的積雪が少なく、一年を通して通行が可能な場所であった。

 けれども無論、問題が無い訳では、断じてない。
 切所ゆえに道幅が狭いのは勿論の事、積雪が少ないと言う事柄に関しても、それはあくまで、他の場所に比べたらの話。 ……歩くのに支障が出ない程度とは言え、やはり足元は雪に覆われており、しかも崖際ならではの危険な要素も、当然あった。

 その内最も恐ろしいものが、崖際に生じる雪の張り出し―雪庇である。
 雪庇は風によって飛ばされた降雪が、崖際に吹き付けられて出来る天然のトラップであり、本来の道の端に偽りの大地を形作る、大自然が織り成す幻影だった。 ……一見すると雪に覆われた地面と見分けが付かないが、一度足を乗せれば立ち所に崩れ落ち、犠牲者はあっという間に平衡を失って、雪煙と共に谷底へと転げ落ちる事となる。
 雪の状態によっては、それを切っ掛けに雪崩が起きる事もあり、うっかり踏み抜いてしまったら最後、例え人間だろうがポケモンであろうが、命の保障は無きに等しかった。

 ――今から思えば、それは予め予想して然るべきだったであろう。
 狭い隘路を慎重に吟味しつつ、嘗て歩んだ秋口の記憶を頼りに、用心深く進み行く内――不意に後ろを歩いていたミミロルが、雪に隠された道際から足を踏み外し、木枯らしと牡丹雪(ぼたゆき)によって築かれていた、厚い雪庇を踏み抜いたのだ。 ……恐らく、血の通っていない義足では、小石が多くて不安定なガレ場の地面の感触が、上手く掴めてはいなかったのだろう。
 うさぎポケモンの驚いたような鳴き声に、彼は慌てて振り向いて――彼女の体が大きく傾いているのを見た瞬間、どうした事か自然に体が動いて、勢い良く後ろに向けて踏み出すと同時に、ミミロルを突き飛ばすようにして道側に押し戻し、代わりに自らもまた雪で出来た天然の罠に足を取られて、体勢を立て直す暇も無いままに、遥か下にあるこの場所まで、一気に転げ落ちた。

 幾度もバウンドして地面に叩き付けられ、遂に下の端にまで達した時、恐ろしい衝撃を右の太腿に感じると共に、強烈な異物感と喪失感が、彼の理性の中枢を狂わせる。
 次いで襲って来た火の様な感覚と、自らの目に映った、信じ難い光景。 ……太腿を貫かれているのを見た瞬間、その一瞬彼は、現実への拒絶感から、激しいパニックに襲われた。

 呼吸が異常に苦しくなり、鼓動が早まって、どこかに闇雲に駆け出したくなるような衝動が、体の奥底から突き上がって来る。 ……しかし現実には、彼は一本の枯れ木によってしっかりと地面に縫い付けられており、駆け狂う事は愚か、立ち上がる事すら出来なかった。
 ……結局彼は、「はひっ、はひっ……」と発作のような息遣いを繰り返しながら体を起し、手元の雪をガ-ディが穴を掘る時の様に掻き散らし、荒い息遣いの合間に顔を横向け、雪の中に突っ込んでは、冷たく手応えの無いそれを力一杯噛み裂いて、奥歯を砕けるほどに噛み鳴らすしかなかった。

 どれくらいの間、それを繰り返していただろうか……?
 やがて彼は、必死に荒れ狂うその最中、不意に目の前に何かが現れた事に気がついて、血走っていたであろう両の目を、恐ろしい形相と共にそれに向ける。
 ――そこには、先程彼が転落するまで、ずっと後ろに付いて来ていた、ミミロルの姿があった。

 彼女の姿と、その顔に浮かんでいる表情を見た、その瞬間――彼は狂ったようにもがき回るのも忘れて、じっと佇んでいるうさぎポケモンのその顔を、唖然として見守った。
 ……その時のミミロルの顔には、今まで彼には見せた事の無い明確な感情の揺らめきが、はっきりと滲み出ていたのだ。
 ホンの短い間、少年とポケモンはお互いの目と目を合わせたままで、まるで凍り付いたかのように、一切の動きを止めていた。

 やがて少年の方が、再び込み上げて来た火の様な疼痛に、再び天を仰いだ時――ミミロルは再び表情を元の様に戻すと、静かに彼に背中を向けて、無機質な片足を機械的に動かし、その場から離れていった。
 彼女は一度だけ後ろを振り向き、歯を食い縛った少年の苦痛に歪んだ顔をチラリと見やったが、直ぐに前を向き直すと、最後まで何一つ声を発しないままに、雪に覆われた木立の中へと消える。
 ――彼が何とか波を乗り越えて、もう一度視線を向けた時。 その時は既に、うさぎポケモンの姿は視界の内には無く、雪の上に続いている足跡だけが、その足取りを指し示しているだけであった。

 ミミロルが目の前から姿を消して、もう一度独り取り残された時――彼は不意にある種の安堵に似た感情を覚えて、そのまま起した体を雪の上に横たえて、大きく一つ、溜息を吐いた。
 これで取りあえずは、当初の目的は果たした―― ……そんな場違いとも言える感慨が、何とも奇妙なタイミングで、彼の心を満たす。

 目的地だった林の入り口までは、もう残り僅かな距離であった。 ……後は、如何に片足が不自由な彼女と言えども、他のポケモンに襲われたりしなければ、無事に目的地まで辿り着ける事だろう。
 そう思うと、何故か襲って来ている現実が非常に希薄なものとなり、彼は一先ず体を休めようと、肩に斜めにかけている布袋の中から、ビ-ダルの毛皮を表側に張った、一枚の雨避け布を取り出した。
 ……兎に角、酷く疲れていた。 雨除け布を保温を目的として体にかけると、彼は背負った弓矢と、手から離れて飛んでいる山刀の位置を確認してから、大きく一度深呼吸して、目を閉じた――




 一通り、回想が終わった所で――少年は、何故自分がこれほど冷静でいられるのかが、何と無く理解出来ていた。
 ……どうやら自分は、今の所は生に執着するほどの未練と言うものを、持ち合わせてはいなかったらしい。
 それを理解した時、彼は改めて自らの無責任さに、はっきりとした自嘲の笑みを浮かべた。


 彼は何時も、心のどこかで孤独を感じていた。

 周囲の同級生達からは言うに及ばず、山に住んでいるポケモン達に対しても、自らが祖父とは違って、そこに完全に溶け込めてはいないと言う感触を、常に持っていた。
 ……自分が感じているその感触は、丁度二つの世界の狭間で苦悶している、彼自身の立場の投影であった。
 彼は『今』と言う時代に生きているにも拘らず、参加しているコミュニティの中では異星人も同然であったし、なまじ祖父達とは違って町中での暮らしも経験していたが為に、野に住まうポケモン達の世界にも、完全には溶け込んで行けなかった。

 彼はポケモン達を心の底から好いていたが、彼らをボ-ルに入れて行を共にするポケモントレ-ナ-にはならなかったし、またなろうと思った事も無かった。
 同様に、山野に伏して狩りを続けながらも、どうしても彼らの中に溶け込んでいると言う実感が持てず、祖父が何時も話してくれるような、野生のポケモン達との一体感も、持てた試しは無かった。
 ……何時だって彼は、自らが信じて疑わないと思い込んでいるその生き方の中心に、冷たく明確な形を保った、後ろめたさを感じ続けていたから。

 それは、いわば『偽善感』とでも言うべきものであった。
 彼はこの森の一員として振舞う祖父の傍らで育ちながらも、自らの中に一抹の異物感を、常に抱き続けてきた。
 ……祖父と同じ様に振舞い、教えられた作法や仕来たりを、きちんと守りながらも――彼はポケモン達との最後の距離を、縮める事が出来なかった。

 彼は祖父程には謙虚な姿勢を持ち続ける事は出来なかったし、仕来たりや作法の要所要所で、自らの内に立ち上ってくる疑念や徒労感と、戦わねばならなかった。
 祖父が受ける事の無かったその手の教育や豊富な知識が、彼の心の純粋な部分を曇らせ、それは折に触れて疑念や打算と言った形を取って、自己嫌悪の情を煽り立てていく。

 一心不乱に自分の信じる所を貫いている心算でも、実の所はただ見当違いの場所にすがり付いて、届かない物を目の前にあると、錯覚しているだけではないのか? ……自分の行いと信念は、単に自らの内にある穢れた物を覆い隠そうとしている、パフォ-マンスに過ぎないのであろうか……?
 そう思う事が、特にここ数年の間は、非常に多くなって来ていた。 ……彼がミミロルを自分の手元に置いて、生きて行く為に必要な知識や技術を教え込んだのは、この何処にも持って行きようの無い思いを、整理する為であった。
 ――もしもあれが祖父であったなら、一思いにミミロルの命を絶って、彼女の魂が無事にもう一度この世に還って来れるようにと、心を込めて送ってやった事であろう。

 ……だがしかし、彼にはそれが出来なかった。
 そして結局、彼はこの件についても人知れず悩み抜き、また自らが場違いな愚行を演じたのではないかと、ずっと苦しみ続けてきたのだ。
 

 そう――どうやら自分は、そう言った種々のイタチゴッコに、飽きてしまったらしい。
 答えの得られない悩みに始終脅かされ、中途半端な立場に日々苦悶して生きていくよりは、一度楽になって穢れを落とし、他者の生の一助として役立った方が、いっそ良いのではないだろうか――? ……祖父が話してくれた死生観と、自らの知識である自然界の循環機構をつき合わせた結果、彼はそう思ったのだ。

 少なくとも今は、抱えていた責務を一つ果たし終えたばかりであり、気持ちに余裕もあった。 ……しかも現実として、死は文字通り身近にまで差し迫った問題であり、寧ろそれを避ける方が、難しい有様である。
 ――今なら、笑って死んで行けそうな気がした。
 自ら生を否定する事は、確かに今まで犠牲となってくれた数々の命に対して、余りにも非礼な事ではあった。 ……しかし彼は同時に、この先も同じ様に犠牲を強いて重ねていく事の方が、よっぽど罪深い事だと思い始めていた。


 そこで彼は、取りあえずは成り行きに任せる事にして、傷の痛みに反発する余り足の付け根を思いっきり抓った後、仰向けに寝転んだままの体勢で、道具を入れた袋の中から干し肉を引っ張り出して、口に運んで噛み始めた。
 ……疼痛が酷くなる度、口の中の食物を力一杯に噛み締めて、それを堪えていく内に――不意に彼は表情を変えると、硬い干し肉を噛むのも中断して、近くに広がる木立の下生えの辺りに目を向け、じっと息を殺す。

 するとやがて間も無く、彼の視線の先の茂みが唐突に割れ、余り大きくは無い四足歩行のポケモンが、その姿を現した。
 冷たい雪の中、常に知られている姿よりは少し長めの、ふさ付いた冬毛を身に纏ったそのポケモンは、彼と目が合うや否や、白地に水色のストライプをあしらったその体をびくりと硬直させて、やや怯えた目付きで、少年の方をじっと見つめる。

「心配するな。 ……何もしやしないよ」

 そう彼が声を掛けると、そのパチリスは口振りと声の調子から、危険は無いと判断したのだろう。 尚も警戒しながらも、茂みの中からゆっくりと全身を抜き出して、彼に向かって数歩だけ、近付いてきた。
 ……しかしその動きは、彼の背中に見える弓矢と、彼の足に染み付いた生々しい血痕を目にした途端に、またもや雷にでも打たれたかのように、ピタリと止まる。 ……どうやら風上から現れた為に、彼がどういう状態でそこに転がっているのかについて、まだ理解出来ていないようだった。
 そんなパチリスの懸念に答えてやる為、少年はゆっくりと矢だけに手をかけ、引き抜いた三本のそれを脇に投げ出すと、両手を電気リスポケモンの目にはっきりと見える場所に置いて、苦笑交じりに口を開く。

「これでいいか? ……まぁ、見ての通りの有様でな。 動こうにも動けないから、お前を撃とうとする理由だって無いのさ」

 語り終えると目を瞑り、微かに顔を俯け、彼はゆっくりと首を振って、自らの情け無い様を、自嘲気味に鼻で笑って見せる。
 ……しかし、直後に唐突に襲って来た痛みの波が、そんな彼の余裕を木っ端微塵に打ち砕くと、束の間の苦悶と呻き声とを、暮れかかった雪の原に晒させた。

 やがて痛みの波が引き、荒い息を吐いた彼が視線を戻すと、件のパチリスはまだその場所にじっとしており、心なしか哀れげな目付きで、少年の方をじっと見つめている。
 そんな相手に対し、彼は強いて穏やかに苦笑して見せると、ふと思いついたように道具入れに手を入れて、中から幾つかの萎びた塊を、その手の内に掴み取った。
 苦痛を無視して、ほぼ痩せ我慢と意地だけで上半身を起し終えると、戸惑っているパチリスに向けて、手の内のそれをゆっくりと差し出す。

「食べてみな? 結構いけるぞ」

 そう口にすると、自らもまた手の内にあるそれを一つ頬張り、片手の肘で半身を支えたまま、ゆっくりと咀嚼してみせる。 ……口の中に優しい甘みを運んできたそれは、オボンの実を甘い蜜で煮込んで作った、彼ら狩人が重宝して使っている、携帯菓子である。

 恐る恐る寄って来て、それを受け取って齧ってみたそのパチリスにも、この伝統的な保存食は、好ましい味がしたのであろう。
 目に見えて緊張が解れたらしい電気リスは、やがて彼の直ぐ傍まで近寄ってくると、枯れ木に貫かれた彼の右足を一頻り眺めた後、小さな顔を彼の方へと真っ直ぐに向けて、痛々しげな表情を浮かべた。
 そんな相手に対して、彼は尚も笑いかけて見せた後、もう直ぐ日が暮れるから、早く帰った方がいいと言い添える。
 ……一方のパチリスは、「お前はどうするんだ」と言わんばかりの表情で、不安そうに顔を曇らせていたが――やがて彼の再三の勧めに諦めたように、もと来た茂みに向けてくるりと向き直り、二三度振り返りつつも、黄昏時を前にした林の奥へと去っていった。

 パチリスの背中を見送った後、彼は改めて干し肉を引っ張り出すと、再びそれを齧りながら、時折襲ってくるズキズキと脈打つ痛苦を紛らわしつつ、時が過ぎるのを待ち始めた。
 既に空模様は、はっきりと天候が崩れる事を示唆しており、黄昏時を迎えた空は急速に光を失って、夜の帳を張り巡らせ始める。


 そして更に、夜の闇が近付いた頃――今度は大きな羽音が頭上に響いて、ウトウトしていた彼の冷え切った意識を、現実の世界に引っ張り戻した。

 すると同時に、頭上を通過しかかっていた羽音の主が、急に向かっていた方角を転換して、やがて彼の直ぐ近くの雪の上に、騒がしい音を立てて着地する。
 ……闇が迫る白い大地に降り立ったそれは、真っ黒い体色に白い胸元の鮮やかな、立派な体格の鳥ポケモンだった。
 相手の姿を確認できた時、彼は今度ばかりは、背筋に冷たいものが走ると同時に、素早く上半身を持ち上げ、身構えた。 ……目の前に翼を畳んで佇んでいるポケモンは、この森でも生息数はそう多くは無い大ボスポケモン―ヤミカラスの進化系である、ドンカラスである。

 少年は確かに、現在観念に近い感情を抱いて、訪れる運命がどの様なものであれ、受け入れる心算であったのだが……その大烏の姿を目にした途端に、そんな殊勝な大悟の情などは、文字通り跡形も無く吹き飛んでしまっていた。
 ――ドンカラスは好戦的な種族であると同時に、その一声で数え切れないほどのヤミカラスを呼び集める事が出来る、深夜の森の支配者である。 ……しかも彼らは雑食性であると同時に、相手が弱っていたり抵抗出来ない場合、腹の空き具合によっては、そのまま数に任せて『料理』する事さえある。

 流石に幾ら少年でも、生きたまま無数の烏共に突き殺されて喰われる様な最後は、断じて願い下げであった。
 そこで彼は、油断無く抵抗出来るよう頭の中にイメ-ジを描きつつ、目の前で黙って彼を見つめている鳥ポケモンに向け、静かな口調で切り出した。

「……もし腹が減ってるんなら、もう少し待って貰いたい。 ……どうせ俺は、明日の朝まで持たないだろうから……それまでは、何とかこれだけで我慢しておいて欲しい」

 そう口にすると、彼は道具の袋から干し肉をありったけ取り出して、目の前の大烏に対して差し出した。 ……更に、他にも仕舞い込んでいた食べられる物は、全て洗いざらい引っ張り出して、相手に向けて示した後に、手を目一杯に伸ばした先に並べていく。

「これで全部だ。 ……もしこれで満足出来ないと言うのなら、もうこっちとしてもどうにもなら無いよ」

 全く身じろぎもしない相手に対し、彼は静かにそう締めくくると、いざと言う時に備えて背中の弓を構える心積もりをしておきながら、黙りこくっている相手の瞳を、正面から見返した。

 ……するとドンカラスは、彼が自分を真っ直ぐに見据えたと見るや、ゆっくりと雪の上に足跡を残しつつ、翼を使わず足だけで重い体を運んで、彼の方に向け歩み寄ってきた。
 今までそんな動きを見た事が無かった少年が、呆気に取られて眺めている内――ドンカラスは無事に彼の隣まで辿り着くと、足元に散らばる干し肉を嘴で拾い、それを少年の手の内に、そっと落とす。

 思わず言葉を失って、相手の両の目を覗き込んだ彼は、目の前の大烏の瞳の中に、敵意が無い事を見て取った。
 更に、その鋭い大ボスポケモンの双眸に、ある種の予想もしていなかった輝きを、彼が見出したその時――不意にドンカラスは片翼を高く差し上げると、闇の中へと良く響く声で、力強く啼いた。

 少しの間は、何事も無かった。
 ……しかし、やがて夥しい羽音があらゆる方向から立ち上って来ると、更にホンの数分の後には、その辺りは呼び出されたヤミカラスの群れで、一杯になってしまった。
 集まってきた烏達は、整然とそこ等中に羽を休めると、逐次呼び出した大烏の指示に従って、倒れ込んでいる少年の体を覆うようにして、翼を広げて蹲ってゆく。

 彼らが何をしようとしているのかを理解した少年が、傍らに位置しているドンカラスの姿を、信じられない思いで見つめ直した時――大烏が横を向いた拍子に、首の横にある古い傷跡が、唐突に目に飛び込んできた。
 それを目にした瞬間、彼の脳裏に古い記憶が、まるで昨夜の出来事の様に、鮮明に浮かび上がってきた。


 ……もう、4年も前の事であろうか?

 彼はその時、久方振りで手に入った獲物を解体し終えて荷造りし、祖父の狩小屋に向けて、家路を辿っていた最中であった。
 肩に食い込む荷物の重みを堪えつつ、帰心矢の如しの言葉のままに山を下っていたまだ幼い彼は、その途上で、一匹のヤミカラスと出会った。
 ――力無く岩陰に翼を休め、彼が近寄っても逃げる気配も無い暗闇ポケモンの首筋には、恐らく同族と争った際に付いたものだと思われる、深い傷があった。

 既に諦めきったような表情で、黙って彼を見つめていたヤミカラスに対し、彼は持っていた干し果実を与えると共に、ありあわせの道具で出来る限りの手当てを施し、背負っていたその日の収穫を、そっくりそのまま、暗闇ポケモンに向けて差し出したのだ。

 ……それは別に、特別な事ではなかった。 同じ森に住んでいる者同士として当たり前の気遣いを、彼は行っていたに過ぎない。
 背負っていた戦利品に関しても、まだ幼い彼は全て背負い切れた訳ではなかったので、下ろした側からもう一度現場に戻って、取り置いて来た分を背負い直せば良かった。

 彼がもう一度山道を登り直し、再びしこたま荷物を背負ってそこを通る頃には、もう既に件のヤミカラスは姿を消しており、数枚の濡れ羽色の羽根と、食べ切れなかったのであろう幾つかの肉の塊が、置き忘れたように転がっているきりだった。


「お前、あの時の……」

 そう口にした少年に向け、ドンカラスはくるりと向きを変えて彼の方を見やると、その鋭い目付きを僅かに和らげて、確かに束の間の間、微笑んだかのように見えた。
 ……しかしすぐに、大ボスポケモンは別の方向を向き直し、先程の揺らめきがまるで目の錯覚であったかのように、再び翼と啼き声を駆使し、尚も集まってくるヤミカラス達に指図をするばかりで、再び彼の方を振り返ろうとする事は、もう無かった。

 そして更に、それから直ぐ――不意に群れの端の方に位置していたヤミカラス達が、何かに驚いたように騒ぎ立て始め、次いでそちらの方で、ざわざわと多くのポケモンが動き回るような気配が、漆黒の翼に包まれた少年に、伝わってくる。
 何事かと顔を動かした彼の目に、群れ集っている烏達の隙間から、幾匹かの電気リス達が円陣を作るようにして、集まっている暗闇ポケモン達に相対している姿が、飛び込んできた。

 それを見た彼は、思わず声を上げると共に、群れに対して指示を出そうとしていたドンカラスに向けて、攻撃を差し止めて貰えるように訴える。
 一瞬此方を向いた後、改めて向き直った大烏が一声啼くと、ヤミカラス達は一斉に左右に分かれ、その合間を通ってパチリス達が、彼の方へと集まってきた。
 ……彼の隣にずらりと並んだリス達は、手に手にオボンの実やオレンの実などの様々な木の実を持っており、彼の周りにそれを置いては、その大きな尻尾を彼の体に乗せ掛けて、烏達の間に場所を見つけて、蹲っていく。

 ドンカラスが最後にもう一度啼くと、分かれていたヤミカラス達は再び一塊になり、パチリス達ごと少年の周りを覆い尽くして、崖際の雪の原を、漆黒の翼で一杯にした。


 ゆっくりと降り始めた雪片が、群れ集まる烏達の濡れ羽色の翼を、白い綿毛の様に覆っていく中――少年の瞳は何時しか、込み上げて来た思いで一杯になっていた。

 瞬きする度に零れ落ちる、熱い雫の感触を自覚しつつ、彼は今まで自分が感じてきたものが、単なる妄念であった事を噛み締めていた。
 ――そう……別に彼は、異端な存在では無かったのだ。

 彼が勝手に独り、そう思っていただけで――彼の周囲に息づいていた者達は、時折この森で命を交錯をさせる一人の少年を、疾うに受け入れてくれていた。



 ……自分達に最も近い位置に住んでいる、一人の『隣人』として――









 月並みなやり取りと共に家を出てから、早二月が過ぎようとしていた。


 道端で手持ちのポケモン達と昼食を取りつつ、少年は時折空を見上げながら、次は一体何処に向けて歩こうかと、雲行きを見定めつつ思案する。

 ……彼の隣では、ポッタイシが木の実を持ち逃げしたパチリス目掛けて猛進しており、それを眠そうな目で見つめているイ-ブイの背中で、こちらは楽しそうな表情を浮かべたチルットが、走り回る二匹のポケモン達に向け、盛んに美しい啼き声で声援を送っている。
 少し離れた場所では、世話好きのビ-ダルがまめな手つきで、仲間達が使い終わった自然の食器類を、せっせと穴を掘って埋めていた。

 抜けるような青空に、天候変化の兆しが無いことを確信した少年は、ふと何かを思い出したように、自分の右足の太腿の辺りに手を触れて、次いで遠く離れた故郷の方を、眩しそうに振り返る。
 ……既に13になっていた彼には、同年輩の友人達に比べたら、些か遅すぎた出発ではあったが――それでも今はまだ、出て来たばかりの故郷を思う気持ちが、折に触れて自然な形で、炙り絵の様に滲み出てくるものだった。




 ――あの雪の降る夜から、既に二年。

 あの後、彼はそのまま深い眠りに落ち、翌日の朝になってから、漸く目を覚ましたものの――既に周囲には誰一人として残って居らず、ただ幾つかの痕跡が、溶けかけて形を崩した雪の上に、置き忘れられているきりだった。
 狐に抓まれた様になっていた彼は、それから直ぐに迎えに来た祖父によって応急処置を受け、何があったのかを察した老人から、事の次第を告げられる。


 ……何でも昨日の夜遅く、彼と共に出て行った筈のミミロルがものすごい剣幕で狩小屋の戸を叩き、呆気に取られている老人達を尻目に、その節くれだった手を自ら掴んで、まるで何処かへ引っ張り出そうとするかのように、闇の中へと誘ったのだと言う――
 急いで支度をして、雪の降る中出発した老人に対し、彼女はまるでその歩みの遅さが苛立たしいとでも言うかのように、進んでは待ち、待っては進みを繰り返して、全く落ち着こうとはしなかったらしい。

 そして、漸く明け方―何時しか降りしきっていた雪も止み、行く手の東の空が澄み切って、赤く燃え立ち始めた頃――ミミロルは急にスピ-ドを上げて、老人の視界内から消え失せてしまい、足跡を追って進む老人の遥か前方で、夥しい数の黒い翼が、まるでその役目を終えた花弁か何かの様に、空に向けて散っていくのが見えたのだとか。


 祖父の言葉を聞きながら、少年は改めて周りを見渡して、彼らが残していった痕跡―あの幻のようだった一夜の出来事が、夢ではなかったと証明するもの―を、夢から覚めたような目付きで、静かに瞼に焼き付けた。

 ……そこには、様々な物が残っていた。
 例えそこに、一匹のポケモンの姿も残っていなくとも、彼らが残していった痕跡は、此処かしこに散らばっていた。

 無数の濡れ羽色の羽根に、様々な種類の、食べ切れなかった木の実。 ……昨日彼が道具袋から取り出した食料は、ただ干し果実の蜂蜜煮だけが、まるで夢を見させて貰った代償ででもあるかのように、そっくり消えてなくなっている。

 そして更に、何よりはっきりと残っているのは、そこ等中至る所に記された、種類も大きさも様々な、無数の足跡だった。 ……それらは互いに重なり合い、もみ合いもたれ合って、まるで全体が一つの絵画であるかの様に、白く穢れの無い雪の大地に、揺ぎ無い存在感を示していた。

 昇りつつある旭日に照らされるそれらの痕跡は、小さな個々の印しを数える事がまるで無意味な事ででもあるかのように、孤独から解放された少年の眼前一面に、物言わぬまま広がっている。 ……それは同時に、様々な命が互いに隣り合い、共に寄り集まって暮らしている、この小さな山の縮図でもあった。
 ――小さくとも掛け替えの無い、彼のもう一つの故郷。 ……その内懐へと続いている一塊の足跡達は、帰って行くに従って徐々に分かれ、再び個々の存在へと立ち返って、それぞれの日常に戻るべく、林の奥へと散っていった――




 昼食を終えた少年の一行は、彼が手早く荷物を纏めるとそれぞれの居場所に戻り、再び前に向けて進み出した。
 ……歩き続けながら少年は、あの時最後にチラリと見た、うさぎポケモンの小さな茶色い背中を、湧き上がる郷愁にも浸りながら、懐かしく思い出す。


 あの時、祖父に背負われて家路に着いた道すがら、雪の上に残された彼女の足跡を辿りつつ、彼はいつか再び両者が見える日が来る事を願いながら、黙したままで淡々と、彼女との思い出に心を馳せていた。

 ――新たに雪の降り積もった山道からは、彼が行きの際付けて来た足跡は、勿論の事……後について来ていた彼女の足跡もまた、跡形も無く消え失せていた。 ……そこに残っているのはただ、倒れた彼の居場所を教える為に、ここまで不自由な足を懸命に伸ばし、助けを呼んで来てくれた際に残された、一筋の痕跡のみ。

 それを見つめている内に、不覚にもまた少年は、こみ上げて来たものに耐え切れないまま、老人の逞しい背に、静かに自分の顔を埋める。 上気しているその体を、ひんやり冷たく感じたのは、熱が出てきているのだろうか。
 ……彼の脳裏には、彼らが初めて出会った時の光景と、こんな別れ方をしなければならなかった事への、やり切れない思いが渦巻いていた。


 一体どうすれば、次に出会った時――彼らは互いに余計な障壁を抱く事無しに、歩み寄る事が出来るのだろうか? ……そう思った時、唐突に彼の脳裏に、今まで考えようとはしなかった生き方が、もう一度明確な形を伴って、浮かび上がって来た。

 ポケモンと共に歩む事それ自体を、己が天職と心得る生き方。
 ……今年の初め、機会があったにも拘らず見向きもせずに、次々と旅立っていく仲間達を見送った彼。 その彼が改めてその世界に身を投じ、住み慣れた故郷を離れてみる気になったのは、その瞬間であった。



 ――時は全てを押し流すが、それは何時も悪い事とは限らない。
 彼女も何時かは母親となり、凍える我が子を優しく包み込んで、共に夜空を仰ぐのだろう――

 ……そしてその時彼は、果たしてどうしているのだろうか――?


 取り止めの無い思いを振り払うと、少年は改めて前を見据えて、空に浮かぶ見えない標識を見定め、意識して胸を張り、足取りを速めた。
 ……彼女や、その他の多くの隣人達に与えて貰った、もう暫くの猶予――今はそれを、少しでも有効に使うことこそが、彼の全てだったから。


 今も昔も、彼は独りでは無い――それだけで、彼には十分であった。




参考書籍:『熊を殺すと雨が降る』『アイヌの昔話』





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