変化のとき




 ポケモンのタマゴは、殻がとても硬いという。中で育つ命を守るために、硬い殻を持っているとのことだ。一度だけ科学館でタマゴの殻を触ってみたことがあったけど、たしかに硬かった。
 タマゴのなかのポケモンたちは、そんな硬い殻を割って産まれてくる。どんな勇気と力を持っているんだろうか。




 僕はいつも丸くなっている。
 同じ丸くなっているのならば、タマゴのなかで丸まっているポケモンたちのほうがずっとマシだ。僕はただただなにかから逃れようと、丸くなっているだけだから。僕を常に囲んでいるのは、どろりとした曖昧な不安と恐怖。ずっと側にありすぎて、恐怖という感情を感じなくなっているのかもしれない。

 昼間からカーテンをしめた部屋は薄暗い。さらに布団を頭までかぶっているから、目を開けているのか閉じているのかよく分からなくなってくる。ぐぅぐぅと鳴くフアの声だけが、自分が起きているのだと認識させるものだ。
 フアという名を持つコモルーは、くぐもった声で鳴いて、僕の手に頭を押しつけてくる。散歩にでも連れて行ってやりたい。けれど、今の僕には到底できないことだった。布団から手と頭をだして、フアの頭を撫でてやる。満足したらしい忍耐ポケモンは、くうくうと鳴き方を変えた。
「ごめんな……こんなパートナーで」 
 僕がつぶやくとフアは甘え鳴きをやめて、じっと僕をみつめてきた。感情を読み取れない目は僕を見つめ続け、やがてふいっとそれる。
「おまえより下だもんな……僕」
 フアの頭をはたいてから僕は、また布団の中に戻った。


 タツベイは空を飛びたいと願うポケモンだ。その願いを叶えるため、自分を変えることまでして、やがては大空へと飛び立っていく。
 自分を変えようとしない僕は、望みのために変化を恐れないコモルーをただ見上げるしかできないのだ。


 フアが側に寄ってきた。僕を押しつぶさないよう注意しながら、コモルーは僕の横で昼寝をしようと丸くなる。
 時計の音と僕の心音、そしてフアの心地よい重さと寝息が、僕を昼間の浅い眠りへと誘っていった……。




 ぼんやりとした頭が、誰かの声をとらえた。
「やっぱり……と……違うわね」
「……とねぇよ。兄ちゃんは…………だ」
 階下からかすかな声が聞こえてくる。布団をかぶっても、まだ聞こえてくる。母さんと弟の声だ。


 認識した瞬間、いつものアレが僕の身体を支配する。

 お腹のそこからわき上がる、溶けた鉛に満たされるような不快感。気持ちが悪い。気分が悪い。気管支が内側から圧迫されて、肺がうまく働いてくれない。タールのようなどろりとした不安が僕を包み込む。小刻みにしか息が吸えなくなって、丸くなる。

 フグァフグァッ、フグアァァッ!

 フアが騒ぐ。やめろ、やめてくれ。母さんが上がってくる! ばたばたと階段を上ってくる足音が聞こえた。
 発作が起きたとき、母さんはいつもイヤな顔をして僕の部屋のドアを開ける。
 しかし、今回、ドアをあけたのは母さんではなかった。いや、あけることすらしない。この声は、弟のもの。
「兄ちゃん? 大丈夫……じゃないよな。えっと、どうすりゃいい?」
「だ……じょぶだ、から…、水欲しい」
 弟は階段を下りてキッチンへ行ったらしい。母さんならこれ幸いと戻ってこないだろう。だけど、弟は違った。
 再び階段を上がってくると、僕の部屋の前で立ち止まり、控えめに声をかけてきた。
「兄ちゃん、あけるよ? 良い?」
 良いといっていないのにドアを開けた弟の手には、コップが握られている。
「あり……がとう」
 滅多にない扱いに驚き、僕の発作は少しずつではあるが落ち着いていった。


 弟の持ってきてくれた白湯を飲みながら、弟の話を聞く。僕の一番の危険ゾーンである弟の話をよく平常心で聞けるなと我ながら思う。
 話の途中で弟が「そうだ」と思い出したように部屋を出て行った。しばらくして、ちいさな紙袋を持って戻ってくる。「イッシュのお土産」と渡されたそれは、ちいさなタマゴの根付けだった。
「……根付けだけども」
「うん。そこがイッシュらしさだろ」
「なんでタマゴ? あっちじゃ、めずらしいポケモンたくさんいただろ」
「うん、いたよ」
 それから、弟はイッシュの話をする。楽しそうに、笑いながらたくさん話した。
 僕はそれを、ぼんやりとしか聴くことができなかった。



 弟はいつも、僕の一歩先を歩いていく。
 学校の成績も、母さんたちへの受け答えも、ポケモンも、なにもかも。
 フスベまつりでもらったタマゴも弟の方が先に孵ったし、孵ったポケモンも弟の方がよく育った。弟のフカマルがガブリアスに進化した頃、ようやく僕のタツベイがコモルーに進化した。
 弟の方が先に家を出た。カントー地方で旅をして、認定バッチを集めて帰ってきた。ホウエン、シンオウにも、同じように旅に出て、認定バッチを集めて帰ってきた。今度は海の向こう、イッシュ地方を歩いてきたようだ。
 僕は弟よりも劣っている。伯母も母も父も、皆がそう言っているように思いこんでしまった。自分で自分の周りに殻を作って、自家製タマゴのなかに引きこもった。
 
 学校を休みがちになって家に引きこもっていると、逃げ場がどんどん少なくなっていった。弱い僕は結果に逃げ場を作って、完璧な結果を自分自身に求めた。完璧な結果なんてできるはずもなく、あたりまえのように逃げ道はふさがれた。自分はクズだと思いこんで、それでもやっぱり結果を求める。結果は完璧にならない。
  どうすればいい? どうすれば逃げ出せる? この堂々巡りの自己矛盾。

  弟が帰ってきたとき、なぜか心の底からほっとしたのが記憶に新しい。



「イッシュじゃさ、タマゴには『無限の可能性』って言葉がつけられてるんだ」
 突然、弟の話がしっかり聞こえた。見ると、弟が真剣な顔をして僕を見ている。コモルーのような瞳に、僕はなぜか泣きたくなった。
「僕に可能性なんてない」
「そんなことない。兄ちゃんには兄ちゃんの可能性があるんだ。タマゴが持つみたいな無限の可能性が、誰にだってあるんだよ!」 
 僕に可能性? そんなのあるわけがない。だって、僕は人間のクズだ。
「俺がなかなか家に寄りつかないから、母さんや伯母さんの期待が全部、兄ちゃんにいっちまったから……だからっ」
 喉がしまる。目の前が点滅する。普段ならここで丸くなってしまうけど、だけど、今は。

「ポケモンバトル……しないか?」
「――うん、しよう」

 ありったけの勇気を振り絞って紡いだ言葉を、弟はすんなり受け流した。いつも交わすやりとりだと、思い知らされた。こんなにも弟はさきを進んでいると分かってしまった。
「兄ちゃん!?」
 弟があわてて僕の背中を支えた。それを振り払って、僕は弟をにらみつける。それでも弟は、僕を見つめ続けた。コモルーのような瞳で。
「僕はなんだっておまえに負けてた。スタートだって遅い。だから、ゴールするのだってきっと遅い。何をしてもダメな人間なんだ」
  そんなことない。弟は強い口調で言う。
「スタートが遅くたって、ゴールが遅くたっていいじゃないか。ゴールを途中で間違えるより、ずっと良い。兄ちゃんはいま、コモルーなんだよ。変わろうとしてる途中なんだよ。無理すんなよ!」 
 詰まった気管支で無理に息を吸って、僕は弟をにらみつける。変わる機会が欲しいと何度も願った。でも、行動に移せない。――いや、移さない。まただ、また逃げようとする。
  顔を上げると、弟の強い視線とぶつかった。
「だから兄ちゃん、バトルしようぜ」
「……しよう、バトル」
  僕の唯一の理解者でもあり、ライバルでもある弟はにかっりと笑って言った。
「ずっと待ってたんだ、その言葉!」




 近所の公園に移動した僕と弟をてらすのは、オレンジ色の夕日。僕が落ち着くのを待っていたら、こんな時間になってしまった。
「制限はなし。お互い、一体ずつの勝負でどう?」
「うん、それでいい。よっしゃ、じゃあ……」
 弟が放り投げたボールから、大きなポケモンが現れた。
「頼むぜ、カブちん!」
 弟のエース、ガブリアスだ。気の抜けた名前は、僕がつけたもの。
「まだその名前なんだ」
「あたりまえだろ? 兄ちゃんがつけてくれたんだからさ」
 もったいなくて変えられねぇよ。弟が笑って言う。その背後では凶悪な目つきの陸鮫ポケモンが僕をにらんでいる。
 僕の後ろではフアがぶるぶる震えていた。


「じゃあ、お先に行くぜ。――カブちん、ドラゴンクロー!」
 ガブリアスは目にもとまらぬ早さで動いた。鈍いツメを振りかざし、コモルーめがけて走り来る。あわてて僕はフアに指示をだす。防御しなければ、倒される。
「てっぺきっ、てっぺきだ!」
 ガブリアスの強力な一撃にも、てっぺきの効果でフアは少し押されただけだった。雄叫びをあげたガブリアスにフアはじっとして動かない。
 押され気味のバトルだった。攻撃を仕掛けまくるガブリアスに対して、コモルーは防御にまわる。ずつきなんてガブリアスにはあまり効いていない。
 攻撃がぐーんとあがったガブリアスのドラゴンクローが、コモルーを襲おうとする。
「フア!」
 僕が叫んだ瞬間、フアが一声だけ咆えた。ガブリアスの咆哮に比べれば、まるでデルビの吠え声程度のものだが、物静かなコモルーの鳴き声とは思えないものだった。
 吠え声とともに空をみあげたフアは、口を大きく開く。そしてもう一度、吠える。今度は腹の底からわき出したような、渾身の咆哮。思い切り開いた口はまぶしい光をくわえ、いまだ続く咆哮とともに光はさらに大きく、さらにまぶしくなっていく。


 フアァァァァァァァァッッ!!!


「フア!?」
「え!?」
 僕も弟も自分の目を疑った。
 

 コモルーの口からまばゆい光がはじけるとともに、ガブリアスが倒れこんだのだ。声もなく見守るしかできない兄弟の上に、蛍火のような星の残光が降ってきた。
「りゅうせいぐん、なんてありかよ……」
 弟がひらひらと手を振った。倒れたガブリアスをボールに戻し、お疲れ様と軽くボールを撫でる。
「負けたよ、兄貴」
「僕が、勝った?」
「うん。兄貴の勝ち。りゅうせいぐんで一撃だったなぁ、俺のカブちん」
 ガブリアスの巨体を襲ったのは、フアが放った力の塊。ドラゴンクローを寸前でかわしたフアは、ドラゴンタイプ最大の攻撃を放ったのだ。僕のもとへ戻ってきたフアは、とてもふらふらしている。だが、その物言わぬ瞳にはいつもと違う光が宿っていた。
「兄貴なら、大丈夫だってばよ。それにさ」
 芝生の上に座り込んだ弟が、僕の腰を軽く叩いた。そして、ごろんと寝ころんで、ガブリアスを倒したコモルーを示した。
「ほら、フアが変わっていく。それは兄貴が変わろうとしたからだろ」
「僕が変わる……。フアが進化」
 気づけば、まろやかな光がフアを包んでいた。まろい光のなかで、フアは新しい姿を得ようとしている。



 空を恋い、願ったドラゴンは、やがて身体を変えてまで空へと向かっていく。
 淡い光が霽れたとき、そこに居たのは忍耐ポケモンではなく大きな青い身体のドラゴンポケモンに変わっていた。
 コモルーは変わった。空を飛ぶ事のできる身体に。
 なら、僕も変われるだろうか。コモルーが与えてくれたきっかけで。


 僕の中で、なにかが割れた音がした。


 ――おや、タマゴのようすが……





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