いつか帰る その日まで




 ピシッ。

 艶やかな球体の表面に稲妻のような亀裂が走った。
 ついに生まれる。
 
 僕──岸本 歩(きしもと あゆむ)──の体が、緊張でぶるりと震えた。

「もうすぐ生まれるな」

 いつからそこにいたのか、僕の腰かけている椅子の横から頭を突き出して来宮さんが言った。曲がった背中が、今はなんだか頼もしく映る。
 顎の髭を撫でながら、「歩、中島を呼んできなさい」と静かに指示を出す。
 すっかり彼女のことを忘れていた僕ははっとして、椅子が倒れるのも構わずに乱暴に立ち上がって、彼女──中島 優(なかしま ゆう)さん──を呼びに行った。




 来宮 源五郎(きのみや げんごろう)。ここ、育て屋さんのオーナー。
 長い髭が特徴で、それを撫でるのが癖。
 近所の怖いお爺さんという印象を与える顔とは裏腹に、柔らかな言葉使いで周りの人たちの心を落ち着かせている、一生頭の上げられないような人だ。

 急にバイトを志願した僕のことも、長い目で見てやると、暖かくというほどではないが快く迎えてくれた。
 いつかは正社員になってみせる。……いや、なれたらいいなと思う。
 
 こうやって弱腰になってしまうところが、僕の駄目なところなのだろう。自分でも嫌になる。
 胸を張って堂々と自分に自信を持ちたい。
 中島さんに相応しい男なのだと自信を持ちたい。
 


 
 息を荒くした僕と、洗剤の泡で手を白く膨らませた中島さんが戻ってきた頃には、もうタマゴは干上がった地面みたいに亀裂でいっぱいになっており、触れたら音を立てて崩れてしまいそうだ。
 エプロンから出したタオルで、中島さんは泡を取り除いた。
 
「ついに、生まれるのね。どんな子が生まれるのかしら!」

 エプロンの上からもわかる胸の膨らみの前で、祈るようにして腕を組みながらぴょんぴょん跳ねる中島さんに、僕は少しの間、タマゴのことも忘れて見とれていた。たったの十秒だ。全然多くなんかない。
 こういう子供っぽいところもあるんだなあと、僕は中島さんの新たな一面を知る。
 悪くない。

「あっ!」という中島さんの声で僕は現実に舞い戻った。
 タマゴが揺れたのだ。ぱらぱらと殻がテーブルの上に落ちる。次第にタマゴの揺れは大きくなっていく。

「さあ、新たな命の誕生じゃ!」
 
 来宮さんのその声を合図にしていたかのように、一斉に殻が部屋中に飛び散った。

 


 二ヶ月ほど前だったろうか。僕が育て屋さんに勤め始めたのは。
 小さい頃からポケモンが好きだった僕の天職だと思い、面接に臨んだ。まあ、理由はそれだけではなかったけれど。
 
 ポケモンが好きなら、なぜトレーナーにならなかったのか。今や若い世代の半分以上の人たちがトレーナーになっているというのに、どうして。
 そんなことを聞かれたら、僕はこう答える。

「答えは簡単。同じく育て屋さんに勤めている、中島さんのことが好きだからだ」
 
 町を歩いていて、初めて育て屋さんの庭で働いている中島さんを見た時、身体全部を淡い光が包んでいるような美しさに目を奪われた。
 こちらを向いて、長い黒髪をふわりと風に乗せて微笑んだ愛らしさに、心を奪われた。
 
 一目惚れ。僕の目は二つだけれど、ってそんなことはどうでもいい。
 
 とにもかくにも僕はそんな中島さんに惹かれて、ここに勤めたいと思ったのだ。
 単純かつ浅はかなうえ、おまけに馬鹿が付いてくるような理由かもしれないけど、それでも僕は確かにそう思ったのだ。

 務め始めてから一ヶ月ほど経った頃、僕は中島さんに告白した。

 ずっと前から好きでした。
 そんなありきたりのことを言った。
 
 本当は全部伝えたかった。中島さんのことがどれほど好きで、どこが好きで、どんな風に好きなのか、全部。
 けれどそれしか言えなかった。うまく言葉にまとめることが出来なくて、結局喉越しのいいところしか出てこなかった。

 彼女はオーケーしてくれた。
 まさしく、天にも昇る心地とはこういうことをいうのだと思った。

 自信を持て、歩。僕は中島さんに相応しい男だ。
 

 

 生まれたばかりのヒトカゲを、僕は少し熱めの湯で洗う。炎タイプのポケモンだから、これくらいがちょうどいいのだと来宮さんが言っていた。
 僕はそのヒトカゲの夕日のような肌を、そっと撫でてみる。僕の手のひらよりも小さい頭がちょっぴり動いた。ちゃぷっ、と桶の水が跳ねる。

 なんだか、幸せだなぁ。

 美味しいものを食べた時、面接に合格した時、プレゼントをもらった時。
 そういう喜びとは全然違うものだ。もっとこう、暖かな気持ちになるんだ。嬉しいというよりも、幸せという感じなんだ。

 僕は湯船に手を浸しながら、来宮さんの言葉を思い出す。 
 このヒトカゲが生まれた時──ついさっきのことだけれど──来宮さんはこう言った。




「人生というのは、自分を大きくしていくものなんじゃ。大きく、大きく。そして大きくなってくうちに、周りが窮屈になる。
 ここから出たい。出なくてはいけない。
 その時、今まで培ってきたものを、周りからもらったものを、自分の中のものを、精一杯振り絞って、自分の周りの殻を破るんじゃ。
 そうして人は大きく、強くなっていく。

 人生というものもまた、タマゴの中にあるんじゃ。ロシアの人形みたいに、何重にも重ねられて。
 苦難も困難も、ぜーんぶ、自分を強くしてくれる。それを忘れるな。

 どうしても辛くなり、耐えきれなくなったら、その苦しみをタマゴの中に入れることをイメージしなさい。
 その苦しみを受け入れることができるようになるまでの間、大事にしまっておくんじゃ」




 どんなに苦しいことがあっても、人はその苦しみという『殻』を突き破らなければ強くはなれない。
 その苦しみの気持ちを紛らわせることができたとしても、それを乗り越えない限り、決して消すことは出来ない。
 来宮さんはきっと、そんなことを言いたかったのだ。




 カゲマルが生まれて──カゲマルというのはあのヒトカゲの名前だ──もう一週間経つ。時間が経つのは早いなあ。
 僕は改めて時の流れの厳しさを思い知った。前にも感じたことがあるかは覚えていないけれど。
 ちなみに中島さんの誕生日は二月四日だ。

 いけない、話が逸れてきている。 

 今日はカゲマルを『庭』に入れる日なのだ。カゲマルはこの一週間で、すっかり他のポケモンたちと変わらない行動ができるようにもなったし、最近はちょっとした技なら使えるようになってきた。 
 この間も来宮さんの髭が火の粉で焦げたくらいだ。

 説明を入れておくと、庭というのは、育て屋さんの施設の一部である。
 トレーナーから預かっているポケモンや、怪我をして運ばれてきた野生のポケモンがきちんと野生に戻れるように、リハビリを行ったり基礎体力をつける、いわば自然公園のようなところだ。 
 
 カゲマルの親であるリザードンもそこにいる。ヒトカゲが生まれたから、タマゴの親がそのリザードンだとわかったのだが。
 ちなみに庭には、リザードンはその一匹しかない。

 そのリザードンは、シロガネ山で岩の下敷きになっているところを中島さんが助けたらしい。もちろん、中島さんが実は、リザードンすら動けなくなるほどの大岩をどかすことができる筋肉の持ち主というわけではない。
 育て屋さんで世話をして仲良くなったカイリキーの岩砕きを使ったのだ。

 ああ、それにしても、人にだけでなくポケモンにまで愛情を注げる中島さんってなんて素晴らしいんだろう。ワンダフルっ! 
 僕にも愛情をたくさん注いでほしいところだ。

「岸本さん、どうかしましたか?」
「い、いえいえっ。僕は真面目に仕事に励んでいます」

 しまった、声が上擦ってしまった。

「しっかりしてくださいね。今日の仕事はカゲマルくんを庭に馴染ませることと、他のポケモンたちのケアですからね」
「はい。わかりました!」

 張り切って僕は駆け出す。

 スキップみたいな変な走り方をしていた僕の背中を、風が強く押した。
 埃が目に入らないようにと、思わず目を閉じてしまう。
 
 
 むぎゅっ。


 僕の頭にはてなマークが浮かぶ。 
 なんだ、今の感触? なんか、踏んだ?
 足元に目をやる。ゴムのチューブみたいに細長いものに、筆の先の毛の部分がついたような茶色いもの。
 それが三本、僕の足の下。


 ケンタロスの尻尾。


 悲鳴、だったのだろう。
 しかしその野太い声は悲鳴というよりも咆哮で、大地を震わせて一気に走り始めた。尻尾を踏んでいた僕は勢いよく引っ張られ、思いっきり転んだ。
 十メートルほど走ったところで、くるりと茶色い怪獣はこちらに向きなおり、猪突猛進の勢いで僕の方に……いや、違う。
 転んで尻もちをついた所為で、ケンタロスの視界に僕は映っていない。映っているのは、両手で口を押さえて動けずにいる中島さん──。


 

 怪獣が、中島さんを襲った。




 次の日。僕は退職の有無を来宮さんと中島さんに伝えた。
 来宮さんは「わかった」と引き留めるような言葉は口にしなかった。部屋を出ようとする僕の背中に向けて、「お前は強くなれる」と言っただけだ。
 なんでだろう。涙が頬を濡らした。

 中島さんは「軽傷だからそんなに気に病むことはない」と言っていたが、僕はそれでも、退職する決意を曲げたりはしなかった。
 
 彼女に怪我をさせたのは僕の責任だ。
 今の僕じゃあ駄目なんだ。
 中島さんに、相応しくない。

 ふと、来宮さんが前に言っていた言葉を思い出した。


「どうしても辛くなり、耐えきれなくなったら、その苦しみをタマゴの中に入れることをイメージしなさい」


 僕は、旅に出る。
 彼女を守る力を手に入れるために。
 
 どれほど時間がかかるかは分からない。
 けれど今のままでは、自分が中島さんに相応しい男だとはとても思えない。
 思えるわけがない。

 軽々しい気持ちではいけないんだ。軽々しい気持ちで、人を好きになってはいけない。
 悲しさも、苦しさも、悔しさも、全部受け入れることが出来るくらい、強くならなければいけない。
 そしてその想いを糧に、さらに強くなっていかなければならない。
 
 自分で自分を認めることの出来た時、やっと中島さんにきちんと向かい合える。
 そんな気がするんだ。
 
 だから彼女へのこの想いも、しばらくタマゴの中に閉じ込める。




 いつか孵る その日まで。





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