生まれゆく君へ




 やあ、目を覚ませ。もうじき夜明けのときだ。
 ううん、なんだか眠そうだな……なんたって日にそんな顔をしているんだよ、もっとしゃきっとできないのかい。まったく、先が思いやられる。僕にいらない心配をかけないでおくれよ。
 ついに、旅立ちの朝が来た。もうしばらくすれば、君は新しい世界へ飛び出していく。こうして二人でいる時間なんて、幾らも残されていないんだ。……言葉にすると、なんだか感慨深いね。
 だから、そうだな。今日はいままでにしなかった話をしよう。
 君の、これからの話だ。
 君が意思をもってこの世に落ちてきた日のことを覚えているかい。ぼんやりな君のことだから、初めて口を聞いたときのことも、忘れてしまっているんだろうな。僕は覚えている。君は僕に最初に、こんなことを言ったんだ。――ここは寒いよ。外は夜で、少し冷え込んでいたんだ。そうして少し体を丸めた。僕は、しっかり覚えているぞ。
 考えてみると早いもので、それからもうふた月が過ぎた。
 君には実感ないだろうけど、僕にはよく分かるよ。君はあれから、随分立派な姿になった。ともすれば翼にも見える大きなひれには、細いけどしなやかな筋肉がついていて、水の中をすいすい進める。まだまだやわだけれど、甲羅だって背負ってる。へなっとしてた鼻先も鋭く尖ってきた。目は、……まだしょぼしょぼさせてるのかい。これから独り立ちなんだぞ、いい加減自覚を持ってごらんよ。
 なあ、今の君は、とてもしっかりして感じるよ。小さいけれど、大人顔負けだ。そして……なんだか母親に似てきたな。君のお母さんだよ。
 さて君は、これから外へ駆り出していくわけだけれど、この先の毎日を海で暮らすことになる。
 海というのは、青くて、深くて、途方もなく広い世界のことだ。想像できるかい。見上げると、お天道さまが波に取られてちらちら舞って、一面ベールの輝きに包まれている。浅瀬には透き通ったエメラルドの林があって、そこを小魚たちが凄い速さで行き交っている。見惚れちゃうほど美しいサニーゴがいたりする。ぷかぷか浮いてるメノクラゲは毒を持ってて、刺されるとちょっと厄介だ。沖の方へ出ると、ずっと潜っていけるんだけど、深く深く深く目指し続けると、いつの間にか辺りはいっぱいの闇に喰われていて、とてもじゃないが目なんて利かない。海の底は、時々不穏な音がする。遠くに明かりが見えたとしたら、それはチョンチーかランターンだ。やつらは痺れる球を打ってくる。けれど、その明かりに照らされた深海では、マリンスノーっていううっとりしちゃうような光景が見えたりして……僕はやつらが好きだったな。他にも海には数えきれない生き物が住んでいて、それぞれの生活を営んでいる。
 そんな海の中を、君はその立派なひれで、はばたくように泳ぎ回るんだよ。ぼうと漂ってみてもいいし、ぎゅんぎゅん潮を追い越してもいい。とんでもなく広々した海の全部が、君の生きる世界になる。自由な日々が待ってるんだ。どうだい、わくわくしてきただろう?
 自由? 自由っていうのはそうだな、君のやりたいようにできるってことさ。じゃあ、例えばの話でもしようか。
 ……さっき君、お母さん、って言ったとき、少し嬉しそうな顔したろ。アハハ、言い逃れしてもだめだよ、僕は見てたんだから!
 そのお母さん、君の母親は、まさにそういう人だった。自分のやりたいように生きてるんだなって、僕には思えたね。もっとも、僕の知っているのは、壮年の彼女が僕らを抱いた、ほんのひとときの間でしかないけれど。
 彼女、アクアジェットが得意でね――アクアジェットっていうのは凄い速さで泳ぐ技、いつか君も使うようになるさ――、その水を裂いて進むさまはもう、夜空を流れる一筋の閃きのようだって言われてた。それは凄まじかったよ。誰よりも速くて、速さだけ言えば男だってちっとも寄せつけなかった。それは腹の中の僕たちにもまったく容赦なくてね、あんまりにも速すぎるから、僕なんて、圧力で潰れちゃうんじゃないかと思ったことが何度あったか分からないよ!
 でも彼女の泳ぎは、残念ながら長くは人を魅了しなかった。なぜかって、彼女はひとところにとどまりたがらない気質の持ち主だったんだ。めくるめくさすらいの旅さ、ある日誰かにもてはやされても、彼女はそれに固執せず、すぐに新天地を求めて海流に乗った。数えきれないほどたくさんの出会いがあって、彼女を待っていた。それでも彼女の好奇心は満たされるところを知らなかった。僕らも毎日暇をしなかったね。
 こうして振り返ってみると、彼女は君とは正反対、とびきりのお転婆だったんだな。仲間友達だけじゃなく、男だってとっかえひっかえだったんだ。僕らは今、百といくらの兄弟に囲まれているけれど、それが同じ父親の子供かなんて分かったもんじゃないよ。お隣はじゃじゃ馬か聞かん坊だから、内気な君とは別の男の子供だろうけどね。ん、そういえば今日は静かだね、一体何の話をしているんだろう。……別れがさみしくって、泣いたりするのかな。
 僕は君より長く生きてる。生きてるって本当に言えるのかは分からないけれど、少なくとも君より知っていることはたくさんある。だから僕はできる限りで、君に多く話をしたい。君に多くを伝えてあげたい。
 幸い君は、いつもより楽しそうに聞いてくれるね。君のルーツのことだからかな。
 ならもう少し、君の母親の話を続けようか。
 さっき、自由な人だと言ったね。彼女は自由な人だった。自由に、好きな生き方を選びとろうとする人だった。
 ……でもそれは同時に、彼女を縛りつけるものを象徴していたのかもしれない。
 自由だった。裏返すと、彼女は孤独だった。広い広い外の海洋をぶらぶら漂うとき、彼女はいつもひとりきりだった。強くて逞しい女だったから生きるのに不便はなかったけれど、潮の中を駆けるとき、獲物を狩るとき、それを食べるとき、それから眠るとき。彼女は望んでひとりになろうとしているかのようだった。実際にそうだったんだと思う。長く抱き合って、夜の峠を一緒に越えた男が目覚める前、彼女はそっと彼のねぐらを離れていくんだ。彼女がそうするたびに僕は、ああ、この人は本当にさみしい人なんだって、切なく感じたものさ。
 僕は考えていた。彼女の中でゆっくり形になりながら、どうして彼女がそうするのかを、ずっと考えていた。
 神様からのお告げだったのかな。ある日彼女はふいに知ってしまった。――腹の中に、僕らを宿していることを。
 彼女、どうしたと思う? 殴ったんだよ自分の腹を。何度も何度も殴った。それから海底の裸岩に、自分の腹を打ち付けた。何度も何度も。まるで、こんなもの欲しくなんてなかった、とでも言うようにね。それは笑い事じゃあなかった。この世の終わりみたいな震動の中を僕らはじっと耐えた。揺れて身がよじれて息苦しくって眩暈がした。そこでいくらも兄弟が死んだ。悲しみか怒りか憎しみか分からない感情がぐちゃぐちゃ入り混じって体に浸みた。それでも僕らは我慢するしかなかったんだ。
 やがてそれが収まったかと思うと、彼女の体は海の底からふわふわと離れはじめた。
 静かな時間だった。僕はもしかして、彼女が死んでしまったんじゃないかと思った。そのくらいしんとした長い空白だった。じんわり浮力に包まれている間、彼女の痛んだ腹は、それでも僕らに栄養を送り続ける。殺したいほど忌まわしい僕らを生かすために。体というのは無慈悲なものだ。持ち主の魂が願ったところで、大概が言う事を聞いてくれない。
 やがて世界が明らんできて、ざぶんとひとつ音が立って、彼女はすぱぁと息を吸った。その一瞬生きた心地がしたけれど、次の刹那には僕らは、息を詰めて黙りこむしか選択肢を持たなかったんだ。
 世界は夜だった。夜のこしらえた真っ暗闇のカーテンがドームの空に掛かっていた。海面から上げた彼女の皮の寄った頬を、冷やかな風がひたひたと叩いた。彼女は傍の岩礁に乗り上げて、そこから空を見上げたんだ。
 綺麗な夜だった。すんと淀みない黒塗りの宇宙に、恐ろしくなるほどたくさんの星が散りばめられて、ひとつひとつが身を焦がすように鼓動していた。近いのからうんと遠いのまであって、海よりももっともっと広大な世界がそこに息づいていた。僕らは震えた。手の届きそうな大きな月が浮かんでいた。そこから柔らかい明かりが霧になって、海をほんのり包んでいた。……ああ弱ったな、言葉ってのはちっともリアルがないね。なんて言うのかな、まさに銀砂の降りそうな夜だったんだ。朝日の中のサニーゴも、寄り集まって輝くヒトデマンも、ランターンのマリンスノーも、この景色には叶うまいと思った。僕はあの空が忘れられない。きっと、他の兄弟たちもそうだ。
 ――実は、ひとりだけ、本当に好きな人がいる。
 ふいに彼女は語り始めた。幼かった頃、コイキングの大移動に巻き込まれたことがあったのだと。世界の全てが真っ赤に染まるほどのコイキングの大群の中でひとり、彼女は身動きが取れずにいた。硬い鱗に揉まれてひれは傷つき目は開かず、幾度も幾度も体当たりをかまされて殆んど力も尽きていた。叩かれども叩かれども魚影は尻尾を現さない。意識は海の泡沫のよう、いつ弾け飛んでもおかしくなかった。気の強かったあの彼女が、ついに死をも覚悟したその時――潮の流れが急激に変わったかと思うと、その瞬間、彼女は誰かに抱きしめられていた。
 それはカブトプスだった。カブトプスは両の鎌で次から次へとコイキングをなぎ払うと、隙をついてその海流を抜けだした。二人はするすると海の底まで泳いでいった。カブトプスは彼女を彼の巣穴へ連れ込むと、そこで彼女を手厚く介抱してくれたんだ。
 それは有難かったけれど、同時に怖いことでもあった。そんなによくしてもらったことなんて、生まれてこの方なかったから。彼女は利かない視界の中にカブトプスの姿を探して、なぜここまでしてくれるのかと聞いた。すると彼はこともなげに答えたそうだ。もちろん君がかわいいからだ、それ以外に理由はない――まったくキザなやつだよね。彼女はまんまと乗せられたんだ。
 傷はすぐに癒えて、彼女は自由に泳げるようになった。けれど、二人はそれからも二人で過ごした。一緒に食べ物を探して、競い合うように泳いで、夜には星を数えて、海底で寄り添って眠る。彼はそこの海には詳しくて、ホエルコやマンタインの友達がたくさんできた。少しでも不安を感じた日には、彼は黙って抱きしめてくれた。自由気ままな旅は一端幕を下ろした。けれどそこにあったのは、温かくて満ち足りた、幸せな毎日だった――
 そこで彼女は言葉を止めた。僕らだって続きが聞きたいわけじゃなかった。声を発するたびに彼女の胸がずきずき痛むのを、腹の中の僕らだって自分のことのように感じていたんだから。
 別れは突然やってきた。頭上を行く竜のような群れを見たときに、二人は背筋が凍るようだった。その中に小さなタッツーの姿があったからだ。彼は当たり前のように、吹き荒ぶ嵐の魚影の渦へと飛び込んでいった。……バスラオというのは、想像以上に凶暴な生き物だ。彼女が彼の顔を見たのは、その時が最後だった。
 彼のことだ、きっと死にはしなかったろう。けれどもどこに流されたのか分からない。タッツーを助けられたのかどうかも分からない。彼女はそれから、あの時彼を止めなかったことを、共に行かなかったことを、猛烈に後悔した。そして恨んでしまった。彼を飲み込んだあの緑の竜巻のことを、それだけでなく、傍観していた海の仲間たちのことも、あのタッツーの子供のことも……。彼女は自分のことが、そして他人のことが、彼以外の生き物のことが、どうしようもなく嫌になってしまったんだ。ぽっかり開いた心の隙間を、どうすることもできなかった。それだから――彼女はひとりで海を泳いだ。そうすることで彼の帰りを待とうとした。それなのに彼女は自分を傷つけることで、恨めしい他人へ次々身を投じることで、延々と続く後悔と憎悪から、彼の亡霊からなんとか逃れようとしていた。
 私はね、あんたたちまで憎いのよ。話の最後に、彼女はそう言って。こっちが驚くくらい、優しい声でそう言って――そっとね、腹を撫でたんだ。
 それからしばらくのあと、彼女は潮の流れに乗って、この海岸までやってきた。それも冷える夜だった。満潮を待って砂浜に上がった。重い甲羅は、陸の上を進むのには適さない。彼女は自分を引きずるようにしてこの高台にやってきた。草地と砂浜の境目の、ほどよく湿ったとこまでくると、後ろ足で砂を掻いて、深い巣穴を作った。そうしてひとつ息を吐くと、次々と僕らを産み落としていったんだ。
 それは痛みの伴う作業だ。辛かったに違いない。ましてや、望まない子供だったのかもしれない。それでも――僕の番が来て、僕が彼女の腹から滑り出た瞬間、ちらりと見えた彼女の顔は。命を繋ぐ使命に燃える、ひとりの女の顔だった。
 愛されるべき人だったんだ。愛される資格があった。望めば、誰かに寄り添うことだってできただろうに、彼女はそれをしなかった。それは自由な選択だと思わないかい。僕はそう思いたいよ。彼女は縛られていたのかもしれない。想い人も、僕らのことも、抱えて苦しんでいたのかもしれない。けれど、最後には選んで僕らを産み落としたんだ。別の方法だって、例えば僕らを海底に捨ててしまうやり方だってあったろうに。これはエゴなのかな。僕がそう信じたいだけなのかな。それでも願わずにはいられないんだ。彼女はあくまで自由に、自由な生き方を選んだんだ、って。
 ねえ、君は今、何を感じてる? 君が飛び立っていくのは決して夢の国じゃない。海には、世界には、たくさん楽しいことがあって、でも同じくらいの辛いことが君を待ち受けている。認めたくないこと、理不尽なこと、思いどおりにいかないことが、きっとたくさん圧し掛かってくる。それを目の前にして、君は何を思っているのかな。
 僕はね、こんなことを思っている。……この世界に、君はなぜ生まれていくのだろう。
 世界には幾億の命が次々と芽生えて、幾億の息吹が途絶えていく。ひとつの命はちっぽけだ。それに許された時間は短い。途方もない世界の渦中で、たいていが何もできずに終わってしまう。成し得ようと思える事がもし見つかっても、それが必ず上手くいくって保証はない。
 君には、何かあるかい? 何か生まれてやりとげたいことを、心の中に秘めているかい?
 ……実は僕は、君のこれからが恐ろしい。母親に望まれなかった君が世界に愛されるのかどうか、本当は凄く心配なんだ。
 でも、僕はやっぱり、君が生まれていくことには意味があると思うんだよ。
 いいかい。これからの人生で君が何をするかは、君が自由に決めていい。
 もしかしたら、何らかの束縛を受けるかもしれない。行き止まりにぶち当たることがあるかもしれない。全てが思いどおりにはいかないかもしれない。けれど、それでも、諦めに縛られる必要はないんだ。君は、君の生き方を選ぶ権利がある。ひとりで旅を続けてもいい。愛せる誰かを見つけてもいい。サニーゴやマリンスノーや、君の母親が、僕が見た、あの満天の星空を、君だって見たいと思えば、そうする権利があるんだよ。
 君がどっちに泳げばいいのか分からなくなったら、思い出して。これから君がどう生きるのか僕は教えられない。君がなぜ生まれていくのかを知っている人は、今この海には誰もいない。それは誰に教えられるでもなく、君がひとりでに知っていくことなんだ。だから焦らなくったっていい。今は分からなくても、君の生きるのには、きっと素敵な意味があるんだから。そして、君がいつか、生まれてきたのが正しかったと、笑える日が来るのなら……僕にとって、これほど救われることはない。
 ……いい目をしたね。それなら僕も、安心して君を送り出すことができるってものさ。
 さあ、夜が明ける。兄弟の動き始めた音が聞こえるだろう。ついに、このときが来たんだよ。
 これから君の、長い長い命の旅がはじまる。
 いいかい。今から僕が話すのは、君に僕が最後に教えなければいけないことだ。
 外へ出たら、そこも暗闇だけれど、ここよりかはずっと広い。周りの兄弟たちに従って、皆で上へ進むんだ。前ひれで砂を掻いて、崩れてきたら上って、また砂を掻いて崩して進む。砂粒の合間から明るい光が見えてきたら――光っていうのは、きっと見れば分かるさ。驚くんだろうなあ君は――しばらくそこで息を整えているといい。
 皆が動き出すのは、水平線の向こうから、一等の光がピカッと顔を出した瞬間だ。せーので天井を崩して、ついに広い世界へ繰り出していく。砂の上を行くのは億劫だろうけど、ちびの君には簡単なことだ。ひれの右と左をえっさえっさと交互に伸ばして、甲羅を持ち上げひれでぐいっと押し出して――わっ、今暴れるなよやってみれば分かるって!
 そして、一番肝心なところだ。光の眩しい海の方へ、全速力でダッシュする。全速力だぞ! 絶対に力を抜いたらいけない。なぜだか分かるかい。生まれたての君は、卵黄スープの栄養たっぷりで、肉は柔らかくて上質なくせして、甲羅はちんけでへにゃへにゃで、技もろくに使えない。つまり格好の獲物なんだ。君たちの走りだしたのを聞きつけて、右から左から上から下から、クラブキングラーヘイガニシザリガーキャモメペリッパーにニャースチョロネコアーケオス、次々敵が襲ってくるぞ。やつらは凶暴な牙やハサミを持っていて、君めがけて振りかざしてくる。生まれたての君にどうこうできる相手じゃない。君は逃げるしかないんだ。
 覚えておいで、どんなことがあっても立ち止まってはいけないよ。ついさっき協力して巣穴から這い出た兄弟が、運悪く喰い殺されるかもしれない。目の前で死にかけているかもしれない。でも絶対に立ち止まっちゃだめだ。罪悪感なんか感じることはないよ。ここから命はひとりなんだから。仕返ししたいと思えば、成長してから来ればいい。とにかく生き延びることだけ考えろ。
 波に乗ることができたら、あとはひたすら泳ぐんだ。波の動きに逆らって、ひたすらひたすら泳ぐんだよ。海の中にだって君のことを狙ってるやつが潜んでる。なるべく速く、遠く遠く外洋へ、敵の少しでも少ない沖の方へ進んでいくんだ。お天道さまが空をぐるりと一周して海の底をめぐる間も、ただただ泳ぎ続けるんだ。
 お天道さまがもう一度空へ顔を見せたら、今度は深く深くに潜っていく。真っ暗の海の底の、しんと暗いところで、何の音もしないのを確認したら、そこは安全だからぐっすり眠っていい。次目覚めたときには、おめでとう、君はもう立派な海の住人のひとり。そこからは何をしてもいい。腹が減ったら食べればいいし、眠たくなったら寝たらいい。君の自由な旅が始まるんだよ。
 ……ちゃんと行けるか、不安かい? 大丈夫、君はあのアクアジェットの子供なんだ。自信をしっかり持って、君はきっと生き残れるさ!
 一段と周りが騒がしくなってきたね。なんだか暑くもなってきた。皆、生まれる準備を始めたんだ。
 ――そんな顔するなよ。お別れなんだ。長く一緒にはいられないっていうのは、ずっと言ってたことだろう?
 君が生まれるとき、僕の役目はそこで終わる。
 この世で形になってから、僕はずっと君のことを考えていた。君を守ることが僕のすべてだった。君がこれから生きていくために必要なことを全部全部してあげたいと、ずっと思ってここまできた。
 僕は、きちんと務めを果たせているかな。君は弱虫で、ちょっときついことを言うと、すぐにすねたりふてくされたりする。言い合いになったり、ケンカして殴られたりもしたっけ。出せ出せって泣かれたこともあった。こんなんでいいのかなって不安になったことは、口にしたよりうんと多いよ。――それでも、君の芯の強さは、本当によく育ってきたって思うんだ。こんなこと言うのは照れくさいけれど……僕は心から信じてる。そして確信してる。君ならきっと、うまくやっていける。だから自信を持って。自分で可能性を潰さないで。
 ああ、生きるってことは、生まれるってことは、こんなにも素晴らしいことなんだね。君はどうして生きていくんだろう。これから君はどんな出会いをして、どんな海を泳ぐんだろう。安い言葉かもしれないけれど、君にはそれこそ無限の未来がある。僕は本当に楽しみだよ。なあ、君だって楽しみなんだろう。どんな美しい景色を見るのか、胸を高鳴らせているんだろう。……それを見届けることができないのは、少し残念だけれど。
 僕のことは、そのうち忘れたらいい。生まれる前のことなんて、覚えちゃいないほうがいい。君が広い海洋を泳いで、たくさんのめぐりあいをして。懐かしい水の匂いを嗅いで、この砂浜に戻ってくるときに、そのときにはちょっとだけ、僕のことを思い出してよ。この海に生まれてよかったって、僕にそれだけ伝えてくれよ――もっともそのとき、君のちっぽけな脳みそが僕を覚えているかなんて、誰にも分からないけどさ。
 さあ、いつまでも別れを惜しんでいるわけにはいかない。出発だ。ぐずぐずしていると、兄弟たちに遅れてしまう。怖いからって泣くんじゃないぞ、僕に恥をかかせるようなことはしないでおくれよ!
 やり方はもう分かるだろう。君の尖ったくちばしで、僕を――目の前の殻を突き破るんだ。今までみたいなつつきじゃだめだぞ。力いっぱいやるんだ。力いっぱい、やるんだよ。
 僕の話は、これで終わりだ。今更ありがとうもさよならも言わない。君の花道を、そんなしょっぱい言葉で飾りたくなんかないからね。
 どうか、光を恐れないで、生き残ることをためらわないで。歯を食いしばっていけよ、命を賭けた戦いが、すぐに始まるんだから!
 ハッピーバースデー、プロトーガ。
 君の人生という冒険が、幸多きものでありますように!




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