よわむしかがみ




 鏡の向こうには反転した世界があるのだという。
 だとしたら、鏡の中のわたしはとても勇敢で、バトルが強いに違いない。
 そう思ったそのときから、わたしは鏡を見るのが嫌いになった。




 わたしには年の離れた兄がいた。
 兄とはとても仲が良く、わたしたちはいつも一緒だった。どこへ行くにも、何をするにも、わたしは兄の後をついて歩いた。ご飯を食べるのも、お風呂に入るのも、夜寝るときでさえも。
「おれはお前にミルクをやったことだってあるんだぞ」というのが兄の口癖で、他人とは違う見た目をしたわたしのことを、兄はとても可愛がってくれた。
 わたしは兄が大好きだった。いつだって一緒で、いつまでも寄り添っていられると思っていた。
 しかし、唯一わたしが兄の傍を離れるときがあった。
 兄がポケモンバトルをするときだ。
 町の広場で、兄はよく友人たちとポケモンバトルをした。兄は腰元のモンスターボールを放り、鍛え上げたポケモンを場に呼び出す。相手も同じように、自慢のポケモンを舞台に立たせる。向かい合うのは、好戦的な目をした二匹のポケモン。どちらも己のトレーナーに絶対的な信頼を寄せ、自身の能力を引き出すことに何の躊躇いもない。
 そして、ぶつかり合う力と力。
 炎が舞い、水流が渦を巻き、風がうねり、地が震える。
 兄は強かった。町の誰よりも強かった。バトルの後、兄と兄のポケモンたちはいつも誇らしげに笑っていた。そこには確かな絆があった。わたしはそれが羨ましかった。
 けれど同時に、わたしにはポケモンバトルが非常に恐ろしいものに思えて仕方がなかった。
 力が恐ろしく、戦いが恐ろしく、傷つくことが恐ろしかった。
 だからわたしは、兄がポケモンバトルをするときはいつも少しだけ離れた場所にいた。
 周囲のギャラリーに紛れぬ程度の、しかし隔絶的な距離を持って、身を竦ませながら兄と兄のポケモンたちを見つめていた。
 人はわたしのことを弱虫だと言う。
 その通りだと、わたしも思う。
 町の子どもたちは皆、幼い頃からポケモンと触れ合って暮らしている。人にとってポケモンは生活の一部であり、友人であり、家族であり、かけがえのないパートナーだった。物心ついた頃から自然とポケモンと共に暮らしてきた子どもたちにとって、ポケモンバトルは一番身近で、そして魅力的な娯楽なのだ。町の子どものほとんどがトレーナーを目指し、然るべき年齢に達するとパートナーとなるポケモンと共に旅立って行くのが常だった。
 しかしわたしは、どうしてもバトルをすることができなかった。
 いざトレーナーやそのポケモンと対峙すると、どうにも足が竦んでしまい、震えて声すら出せなくなる。
 兄が傍にいてくれても、それは同じだった。
 初めてのバトルで、わたしは負けた。引っ込み思案なわたしのために、兄がお膳立てしてくれた初めての舞台で、何もできずにただ一方的に負けた。後ろの方で兄がわたしの名前を呼んでいるのを、どこか遠い出来事のように聞いていた。
 初めてのバトルの後、わたしは兄に頭を撫でられながら泣いた。
 何もできなかったことが申し訳なく、それ以上にバトルというものの恐ろしさに圧倒され、大きな声でわんわんと泣き続けた。
 兄は優しく笑って「ごめんな」と言った。
「ごめんな、お前がバトル怖がってること、薄々気づいてたのに。怖かったろ、もう無理やりバトルさせたりしないからな」
 わたしは泣きながら首を横に振った。
 違う。悪いのはわたしだ。当たり前のことすらできない、弱虫なわたしが悪いのだ。兄は何も悪くはない。
 伝えたいことは言葉にならず、ただ涙と嗚咽だけが溢れた。兄はいつまでも優しく笑っていた。
 家に帰って、シャワーを浴びた。兄がタオルで拭いてくれている間、わたしはずっと目の前の鏡を見ていた。ひどい顔だ。まるでこの世の終わりでも見たかのような、情けない顔。
 しかしわたしには、鏡の中のわたしが、鏡の外のわたしのことを「弱虫め」と笑っている気がした。
 わたしはますます鏡が嫌いになった。



 そんなことがあってからも、わたしは変わらず兄が大好きだった。
 兄もわたしのことをいつも連れて歩いてくれた。
 わたしたちはいつも同じところへ行き、同じことを知り、同じ景色を見ていた。
 そして、ついに時がやってきた。
 兄が、ポケモンリーグに挑戦するため、この町を出るのだと言った。
 父と母は兄を応援した。自慢の息子なのだから、当然だ。兄は強い。きっとリーグの頂点まで行ける。父と母はそう言って、わたしも勿論そう思っていた。
 その旅に、わたしもついていくことになった。
 周囲はとても反対した。バトルを怖がる幼いわたしを連れて行ったところで、足手まといになるだけだと。本気でチャンピオンを目指すのなら、わたしを連れて行くべきではないと。
 しかし兄は頷かなかった。
「おれ、こいつには才能あると思うんだ。今は無理でも、旅に出たらそのうち何かが変わるかもしれないだろ? もちろん、無理にさせようとは思わないけどさ」
 そう言って兄は笑った。その笑顔を見ると、不思議と何でも出来そうな気がした。
「お前はどう思う?」
 おれと一緒に行きたいか? 尋ねられて、わたしは頷いた。「行きたい」と答えた。兄と一緒なら、ポケモンバトルも、ポケモンリーグを目指す旅路も、何てことないように思えた。

 冒険は、素晴らしかった。

 生まれて初めて見る風景、知らない町並み、すれ違う人々。
 見るものすべてが新しく、風の匂いすら鮮やかに思えた程だった。
 兄は道すがらたくさんのトレーナーと出会い、彼らひとりひとりと手を合わせた。誰も兄には適わなかった。どんなエリートトレーナーも、どんなジムリーダーでさえも。
 兄は順調に、リーグへの道を歩み続けた。
 わたしはいつも、その背中を見上げていた。誇らしくもあり、悲しくもあった。見上げる背中が、どんどん遠く離れていってしまうような気がしたからだ。
 旅に出ても、わたしのバトル恐怖症は治らなかった。劣等感ばかりが募る。兄と共に町を歩く、ショーウィンドウに映り込む自分の姿が忌々しかった。弱虫なわたし。臆病なわたし。兄の期待に応えられないわたし。その現実を突きつけられるのが嫌で、わたしは頑なに自分の姿を見ないようにしていた。
 ある日兄とバトルをしたボーイスカウトが、敗れたポケモンをモンスターボールに戻すと兄の背後に控えていたわたしの姿を見てこう言った。
「なぁ、きみ、どうしてそんな子を連れているんだい?」
 きみは強い。きっとリーグへ挑戦できるだろう。しかしチャンピオンロードは長く険しい。そんな子を連れていたって、ただの足手まといじゃないか。
 わたしは目の前が真っ暗になった。
 兄が怒って何かを言っていたが、よく聞き取れなかった。わたしは自身の足場が急になくなってしまったかのような、得体の知れない恐怖感を覚えた。寒くもないのに体が震える。
――足手まとい。
 それは、事実だ。目を逸らしようのない、確固とした事実だった。
 きまりの悪そうな顔をして、ボーイスカウトが去っていく。その姿が見えなくなって、兄はわたしを振り返った。その瞬間、怖いと思った。兄がどんな顔をしているのか、見たくなかった。
 薄暗い洞窟の中を、周りも見ずに駆けだす。兄のデンリュウが放つフラッシュの光が遠くなる。兄がわたしの名を呼んだ。それにも構わずわたしは走る。涙が溢れた。ひどく悔しかった。他人にそうまで言われてなお、自分の弱さひとつ乗り越えられない自分が恥ずかしかった。
 右も左もなく走り抜き、気づいた頃には辺りは一面の闇で、わたしはひとりだった。
 群れて潜んでいるズバットの羽音がそこかしこから聞こえる。何者かの息遣い、小さな唸り声。
 彼らの縄張りを侵す闖入者は、わたしだ。四方八方、品定めをするような視線が突き刺さる。見られている。恐怖が雪崩のようにわたしを飲み込む。闇から浮かび上がるいくつもの目、目、目。
 ぶるぶる震える体を小さく丸め、わたしはその場に蹲った。必死で息を殺す。そうしないと、何かとてつもなく恐ろしいものに見つかってしまうような気がしたからだ。しかし全力疾走し荒くなった息は一向に収まらない。わたしはパニックになった。どっと汗が噴き出す。かたかたと歯の根が鳴る。
 ずしん、と大きく地鳴りがした。
 目の前の壁が動いている。
 いや、これは――ゴローンだ。
 野生のゴローンがわたしを見下ろしていた。
 目が合う。わたしの体はぴくりとも動かない。ゴローンは地響きのような唸り声を上げた。歯を剥き出しにして唸るのは、敵意の証拠だ。
 しかしわたしの体は動かなかった。まるでフーディンに金縛りにでもかけられたかのようだ。
 ゴローンがぐっと両足を踏ん張った。体当たりの予備動作。わたしはばちんと音を立てて金縛りが解けるのを感じた。
 そこから世界はまるでスローモーションだった。
 ゴローンの巨体がわたしを押し潰すように迫る。わたしは逃げる。しかし思うように動かない。ゴローンは既に前傾姿勢でわたしに覆いかぶさろうとしていた。わたしは身を翻し、横っ飛びに飛ぶ。岩肌が眼前に迫る。避け切れないと体を捻る。迫る、迫る、迫る、大きな体。飛距離が足りない。もっと速く、もっと飛ばなきゃ、逃げ切れない。
――逃げ切れない!
 ドゴォと大きな音が洞窟の中に響いた。次いで、岩の崩れるガラガラと言う音。
 びりびりと空気が震える。ズバットたちが慌てて飛び去っていった。キィキィ鋭い泣き声が遠くなる。もうもうと上がる砂埃の中、わたしは咳き込みながら周囲を見回した。避け切れたのだろうか?
「大丈夫か?」
 声が聞こえた。
「何とか間にあったな」
 兄の声だ。
 わたしは驚いて顔を上げる。兄が笑ってこちらを見下ろしていた。
 わたしは兄に抱きかかえられる形で、地面に横たわっていた。
 声が出なかった。あまりに驚きすぎたせいだろう。
 兄が、わたしを助けてくれたのだ。
 呆然としているわたしを抱え、兄は素早く体勢を立て直した。洞窟の壁に体当たりしたくらいであのゴローンは倒れない。ふるふると頭を振り、砕いた岩壁の欠片を振り落としながら今にも立ち上がろうとしていた。
 モンスターボールを取ろうとさっと腰元に伸ばした兄の手が、しかしすかっと空を切る。
「あれっ?」
 焦る兄の声。モンスターボールを引っ提げていたベルトが無い。
 先ほどわたしを助けるためにゴローンの前へ飛び込んだとき、ベルトが千切れてしまったのだ。
「まじかよ」と兄が呟く。ゴローンは既に立ち上がって、臨戦態勢を整えようとしていた。
 唸り声がますます低く響く。
 ごくりと兄が息を飲む。その音がやけに鮮明に聞こえた。
 野生のポケモンから、しかも怒りで興奮状態のゴローンから、戦えるポケモン無しに逃げ出せるとは思えない。
 もうだめだ。どうしようもない。このままでは、やられる。
 わたしは不意に、ぶるりと体が震えるのを感じた。
 恐怖ではなかった。
 何かが背筋を駆け上がったのだ。それが何かは分からない。しかしわたしには、あるひとつのことが強く頭に浮かんでいた。
 “守らなければ”
 身を捩り、わたしを守る兄の腕から出る。
 兄が驚いてわたしの名前を呼んだ。
 地面にしっかと足をつけ、兄の前に立つ。自分より遥かに大きなゴローンを見上げる、否、睨みつける。
 守らなければ。
 誰を?
 そんなことは決まっている。
 今まで散々、守られて生きてきたのだ。
 バトルが怖い。傷つくのが怖い。そんなこと、言ってられない。
 ここに鏡はないはずなのに、ふと頭の中に声が浮かんだ。
――ねぇ、弱虫なわたし。そんなことが本当にできると思う? 今だって足が震えている。今にもこの場から逃げ出したいと思っている。怖くて怖くてたまらないのに、「守る」なんてことが本当にできるとでも?
 わたしは声に「うるさい」と答えた。
 うるさい。弱虫なんて、そんなものは鏡の向こうにくれてやる。
 体は震えている。吐きだす息すら怯えているようだった。恐怖だ。身を占めるのは恐怖しかない。けれど目だけはしっかりと、相手を見据えて逸らさない。逸らしてはいけない。それはあの日、あの生まれて初めてのポケモンバトルの日、兄に言われていたことだった。
 兄のモンスターボールはどこかへ行ってしまった。しかしポケモンならもう一匹、ここにいる。
「バトル、するのか」
 出来るのか、とは、兄は言わなかった。
 わたしはわずかに振り向いて、こくりと頷く。兄は眼を見開いて、それからきゅっと口を引き結ぶ。「……分かった」声には喜色が混じっていた。
「俺がサポートするから、おもいっきりやってみろ。大丈夫、出来るよ。お前には才能がある。絶対に出来る」
 もうひとつ頷いて、わたしは再び前を見た。
 ゴローンは姿勢を低くして、今にもこちらへ飛びかかろうとしている。
「――行け!」
 兄の合図と共に、わたしの二度目のポケモンバトルは始まった。



 広い部屋だった。
 控え室と呼ばれるその場所の、大きな鏡の前にわたしは居た。
 昔と何ら変わらない、ちっぽけなわたしの体。人とは違う、忌々しいばかりだった体。
 わたしは鏡に歩み寄り、こつんと額を鏡につけた。鏡の中の自分と、至近距離で見詰め合う。わたしが 瞬きをすると、鏡の中もわたしもぱちぱちと瞼を上げ下げする。そっくり丸写しの、わたしの姿。
 わたしはゆっくりと瞼を下ろした。ひとつふたつ、深呼吸をする。
 これから兄は、ポケモンリーグ、その頂点の座をかけた戦いに挑むのだ。
 ぴりぴりと心地よい緊張感がわたしを包む。
 壁掛け時計の秒針が、カチコチと時を刻んでいた。この部屋の中で音を発するのは、あの時計とわたしくらいのものだろう。
 やがて扉が開き、そこからひとりの青年が現れた。
「ここにいたのか、探したぞ」
 兄はそう言って、やれやれと腰に手を当てた。わたしは鏡から身を離し、兄の下へと駆け寄る。
「もうすぐ大事な一戦なんだ。相棒がいないと困る」
 兄は苦笑し、わたしの頭をやや乱暴に撫でた。わたしはにこりと笑って兄を見上げる。
 そう、これから兄にとってもわたしにとっても、大事な一戦が始まる。
「何てったって、初めての防衛戦だからな。いつも以上に気を引き締めていくぞ」
 わたしが頷くと同時、廊下からひとりの若者が部屋の中に顔を突き入れてこう言った。
「チャンピオン、挑戦者が参ります。そろそろ会場の方へ」
「あ、今行きます」
 兄が振り返ると、若者はぺこりと頭を下げて廊下の向こうへ消えていった。
 そうしてこの控え室には、再びわたしと兄だけになる。
「もう呼ばれたか。あー緊張する」
 きょとんと首を傾げると、「おれだって緊張くらいするんだよ」と額を軽く小突かれた。
「さぁ、もう行くぞ。挑戦者を待たせちゃ悪いしな」
 兄がわたしに手を伸ばす。いつものように優しく微笑み、兄はわたしの名を呼んだ。
「おいで、チコリータ」
 わたしはひとつ鳴き声を上げて、差し出された兄の手に前足を乗せる。
 兄はそのままわたしを抱きかかえ、ゆっくりと控え室を後にした。
 長い長い廊下の先には、眩しい光の溢れる入り口が見える。
「――そういえばお前、」
 ポケモンリーグの挑戦者を迎え撃つ舞台へと向かいながら、不意に兄は言った。
「鏡、苦手じゃなかったのか? 前は近づくのも怖がってたじゃないか」
 不思議そうな兄の言葉に、わたしは微笑んで返事をした。
『弱虫は鏡の向こうへあげてしまったの』
 ポケモンの言葉が分からない兄は、当然ながら首を傾げて「まぁいいか」と言ったのだった。





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