孵化の鏡




 ほっぺたを触るとふよふよ。マシマロみたい。お人形さんみたいな小さな顔。細い腕に、小さな手。繋ごうとして手を出すと、キュっと握り返してくる。にっこり笑ってこちらを見る顔。かわいい。連れ子の、四歳の弟が、僕にはかわいくてたまらなかった。スナオ。と名前を呼ぶと、「なあに?」と甲高い声で返事をする。スナオ。「なあに?」スナオ。「なあに?」……僕は無意味に続ける。弟は決して文句を言わない。ただ純粋に、透き通った声で、「なあに?」を続ける。ああ、かわいいかわいい僕の弟。初めての弟。血はつながっていないけど、そんなことは関係ない。僕はこの子がいてくれて、感謝だってしているんだ。

 お母さんが再婚した。新しいお父さんとの生活は、あまり好きではなかった。微妙にギクシャクしていて、どこか噛みあっていない。もっと言うと、居心地が悪い。大きな家ではないから、新しいお父さんと一緒にいることが多くて息苦しい。新しいお父さんが嫌いなわけじゃないけど、ただ笑顔で近づいてくるお父さんが、どうしても信じられなかった。この人が本当に僕のお父さんになるということが、飲み込めなかった。そんな居心地の悪いうちの家族の中で僕の逃げ場となったのが、スナオだ。スナオがいると、スナオに逃げられた。スナオをかわいがって、スナオと遊んで、スナオとご飯を食べると、僕はうちの中に感じていた居心地の悪さが少しなくなったような気がした。スナオを介して、新しいお父さんとも馴染めると思った。
「なあ、マサシ君。スナオと山に登ろうと思うんだけど、一緒に行かないかい?」
 ある休日の朝食後、新しいお父さんはいつもの笑顔で僕にそう言った。スナオのおかげでちゃんと馴染めたような気がしていたから、僕はゆっくりと頷いてみた。いつもはお母さんも一緒なのに、今日は違うらしい。妙な緊張感を覚えた僕は、準備してくる、と言い訳をして二階のスナオと共同で使っている部屋へ逃げ込んだ。扉を背にし、腰についているモンスターボールを手に取って、その開閉スイッチを押す。光とともに現れるのは、デリバード。
「……ねえ、僕は新しいお父さんと仲良くなれるかな」
 デリバードは少し間を置き、僕をじっと見てからにこりと笑った。何故だかわからなかったが、僕は少しだけすぐに部屋を飛び出す勇気が出た気がして、そのまま後ろ手でドアを開ける。にこりと笑ったデリバードを抱き上げ、僕は階下に下りた。
「このデリバード、僕の一番の友達なんだ」
 スナオと手を繋ぎ、玄関で待っていた新しいお父さんに向かって、僕は言ってみた。こんな風に僕から話かけるのは初めてで、さっきよりも緊張した。新しいお父さんは、少しだけ驚いて、いつものように笑んでから、口を開いた。
「僕にも紹介してくれるかな」
 いつもの笑みだけど、いつもより少しだけ嬉しそうな顔。今さっきデリバードが僕に向けた顔と、同じような匂い。
「マサシ兄ちゃん、行くよ」
 うん、と頷いて、僕は二人の元へ駆け寄った。

 行き先はお月見山だった。ハイキングをするつもりらしい。ニビシティに住んでいる子ども達が遊びに行くところと言えば、町の公園かトキワの森、あとはお月見山のふもとくらいなのだが、今日はふもとを越えてお月見山へ登るそうだ。子ども一人ではお月見山を抜けたり頂上に登ることは禁止されているため、なかなか登る機会もないのだが、今日は新しいお父さんが一緒なので登ることができる。僕を誘う前から用意しておいたらしいリュックの重みを感じながら、僕は少しウキウキしていた。
「マサシ兄ちゃん、お月見山のてっぺんまで行ったことある?」
 スナオを挟んで三人でなだらかな山道を歩いていると、スナオが突然そんなことを聞いてきた。
「うん、あるよ」
 口に出してから、ハっとする。高揚した気分が、霧散していく。僕は、新しいお父さんとは、まだ一緒に登ったことがなかったからだ。ハナダシティへと続く洞窟を皆で抜けたことはあるが、まだこのなだらかな山の頂上へは一緒に行ったことがなかった。行ったのは、前のお父さんとだ。
「へええ、いつ行ったの?」
 真っすぐなスナオの言葉に、僕は口をこもらせる。なんだか凄く悪いことをしたような気がして、ちらと新しいお父さんの方を覗いてみる。思わず軽はずみなことを言ってしまった自分に苛立った。僕達の話が耳に届いていないのか、ただ気まずいだけなのか、新しいお父さんはただ黙々と足を進めていた。
「ずっと前だよ、ずっと前」
 そう言いながら、誰と? という質問が来ないことを祈る。ふうん、というスナオの透き通った声が、僕を見透かしているようで怖い。無理に微笑んだ僕の顔が嘘だって言われている気がする。そんなことを考えながら、僕は新しいお父さんのことを思っているより好きでいるのかもしれないと思った。軽はずみなことを言って傷つけたかもしれないと、悪いことをしたと思っている反面、ただ新しいお父さんに嫌われたくないだけなのではないかとも思う。
「今日、晴れてよかったね」
「うん!」
 スナオが凄くかわいくて、少しだけうらやましい。そんな風に感じるのも、このお月見山のせいだ。この山の頂上に登ることは、ニビシティの子ども達からするとちょっと特別なことだから、こんないつもは感じないことを感じてしまうのだ。
 曲がりくねった山道が、まるで僕のように感じられる。なんだか今日は、変な日だ。

 山の中腹の差しかかると、小さな山小屋とお店が並んでいる。ひとまず休憩ということで、僕達は座りにくい石に腰を落ち着けた。小さな土産物屋やベンチもあるが、山に来てベンチはないだろう、という三人の意見が合致したのだ。スナオは少し疲れたようだったが、まだ楽しさが勝っているようでにこにこ笑っている。新しいお父さんも、そんなスナオを見て笑っていた。それなのに、何故か僕は笑うことができず、なんとなく居辛い。「トイレに行ってくるね」なんてまた言い訳をして、僕はその場から離れた。歩いて、速足で、最後は走って僕は離れた。やっぱり、今日の僕は少し変だ。トイレに行くふりをして、僕はそのまま山小屋のトイレを横切り、その先の獣道へと入った。人はほとんど入らないような、荒れた道だった。一人になりたくて、僕はそのまま足を進めた。デリバードが入っているモンスターボールを握りしめ、家を出る前に見たあの顔を思い出す。やっぱり、無理なのかもしれない。馴染むなんて、そんなの、無理なのかもしれない。そう思うと、なんだか悲しくなってきた。涙が出そうだ。
 ……涙? おかしいな、なんで涙が? いよいよおかしくなってきたかな。涙なんて、流さなくていい。僕は、もうすぐあの家を出るんだ。十歳になるから、旅に出るんだ。デリバードと一緒に、まだまだこれからいろんな仲間を集めて、世界を周るんだ。そうだ、居辛いところからは、出ればいい。簡単なことじゃないか。
「そうだ……僕は」
 ――あれ?
 立ち止まって、辺りを見渡す。木。僕の視界に入るのは、木、土。林。それにちょっと、うす暗い。茫然。僕の中で、随分と時間が長く止まっているような、空間が固まったような。次には、あたりが騒ぐ、ざわめく音。体がピクリと反応し、僕は足を元来た道へと戻らせる。しかし、僕は自分が本当に戻れているのかわからない。いつの間にか、どこもかしこも木になってしまった。心なしか、道がずっと登っているような気もする。このまま進んでいいのかどうか、不安は募っていくばかり。でも、僕はまた振り返る気にもなれなくて、そのまま足を進める。土を踏む感触と、少しずつ疲労をつのらせる足。でもだめだ、止まれない。僕は進む。ひたすら進む。
 無心で進んでいると、目の先に終わりが、光が、見えたような気がした。僕は嬉しくなって、足を速めた。新しいお父さんの元へ戻れる。そう思う自分を、僕は不思議と、素直に受け入れることが出来るような気がした。

 抜けた。確かに獣道から抜けることは出来た。でも、僕はその先へ進むことができなかった。進もうものなら、死んでしまう。落ちて死んでしまう。僕の目の前は、崖。そして、その切り立った先に、一つの巣。僕は、その巣に目を奪われた。
 まだ小さなオニスズメ達の巣の中の卵が、今にも孵化しようとしている。卵を割り、その小さな体で懸命に外へ出ようとしていた。とても小さく、とても弱い力なのに、僕にはそれがとても大きな力のように思えた。自分の殻を破り、外へ出ようとする力。この力は、僕にはない。
 やがてその殻は破られ、中から一匹のヒナが現れる。
「あれ、ポッポ?」
 ポッポが産まれたことに対する疑問より、その光景の方が僕には魅力的だった。小さい小さいその体。まだ生まれたばかりで、何もすることは出来ないだろうけど、僕なんかよりもずっとずっと強く見える。もう少し近づこうとしたけど、崖の下から何かが来るのが見えて、慌てて近くの木に隠れた。
「……オニドリル?」
 まずい、どうしよう。あのポッポ、どうなるのかな。捨てられるか、いじめられるか、でも、なんでポッポが? 僕は一瞬だけ怖くて躊躇するが、モンスターボールを握り、ぐっと前に一歩を踏み出す。
 でも、僕はそれ以上進むことが出来ない。進む必要がなかった。
 オニドリルは、その小さなポッポやオニスズメ達を大きな翼で包み込み、安心した顔をしてそこに居た。まったく違う種類のポケモンが、小さなポッポを守っているその光景に、僕は魅入った。しばらく黙りこんだままその光景を見ていたが、僕は思わず「凄い」と声をあげてしまう。その瞬間、オニドリルの目がキラリと光ってこちらを睨む。僕は竦み上がって、そのまま木の陰で震え続けた。新しいお父さんも、こんな風にしてくれるだろうか。僕を守って、あのオリドリルのようにしてくれるだろうか。スナオを見るみたいに、僕を見てくれるだろうか。
 オニドリルの視線を感じながら、僕はずっと、そんなことを考え続けた。

 オニドリルの視線に震え続け、やっとそれから解放されたとき、僕は一目散に駆け出した。今までの疲れなんて忘れたかのように足が動く。頭の中にあるのは、殻をやぶったポッポと、そのポッポを優しく包み込むオニドリルの顔だけ。あの顔は、僕にとって衝撃的な顔だった。僕でも、あんな風になれるのかもしれないって、思えた。
 スナオのように僕も笑える。僕だって、ちゃんと家族になれる。
 僕は走る。
 今はスナオに会いたくて、新しいお父さんに会いたくて仕方がない。
 走っていると、そこまで遠くへは行っていなかったことに気付いた。少し道をそれてしまっただけで、元いた場所に戻れなくなったわけじゃない。僕はまだ、手遅れじゃない。素直になれば、僕はすぐに戻れた。
 獣道を抜け、トイレを横切る。ベンチから腰をあげて何かキョロキョロしている新しいお父さんを見つけ、僕は駆け寄った。
「心配したよ、どこに行っていたのだい? 随分探したよ」
 そんな声を聞きながら、膝に手をついて、肩でしていた呼吸を少しずつ整える。
「ごめん。お父さん」
 汗を拭いながら、僕は顔をあげて言った。
 緊張して、心臓はバクバクとなっている。ぎこちないかもしれない。でも、僕はきっと、スナオのように笑えている。
 お父さんは少しだけ面食らったような顔をしたが、すぐに微笑む。出かける前に見た、あの顔だ。
「よかった。このまま君がトレーナーとして旅に出たらどうしようかと思ってたんだよ、マサシ」
 こんなに真っ直ぐにお父さんの目を見たのは、初めてだ。
「二人でなに笑ってるの?」
 寄ってきたスナオが不思議そうに、僕とお父さんの顔を交互に覗きこんでいた。





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