月明かりの島で




 そのポケモンは、ひとりだった。彼、いや彼女だろうか。なにしろそのポケモンはひとりしかいないので、性別すらわからない。親はいたのだろうか。いや、もしかしたら創造神の気まぐれで突然生み出されたのかもしれない。とにかくそのポケモン、ルギアはひとりだった。
 ルギアが住んでいる島は、ほかの島とは遠く離れている。だから、めったに人が訪れることもない。
 島の周りの海にも、水ポケモンたちがやってくることは滅多にない。そこがルギアの縄張りだとわかっているからだ。彼らは、『海の神』ルギアの強大な力に対し、畏れを抱いていた。その翼のひと振りで、嵐をおこすことさえ可能であるほどだ。下手に機嫌を損ねるような真似をしてしまったら大変だ。その上、ルギアが何もせずとも持つ、その圧倒的な存在感。とにかく、周囲のポケモンたちはルギアを畏怖し、近づこうとしなかった。

 こうして、ルギアはひとりだった。だが、ルギアは、ひとりでいることは、嫌いではなかった。

 ルギアは、考えることが好きだ。だから、毎日毎日、自分やこの世界の存在について、考えていた。
 かつて、ここに来た人間は、自分のことを『海の神』と呼んだ。そう呼ばれるからには、自分はこの海を支配しているのだろう。しかし、自分はここでひっそりと暮らしているだけだ。ならば、私がここでひっそりと暮らしていることによって、神の力は果たされているのだろう。だが、果たして、『神』とは何なのか。ルギアは、ずっと考えていた。

 ルギアは、夜が好きだ。
 常にその存在を世界に知らしめようとしているかのように、まぶしく、いや、むしろまぶしすぎるくらいに激しい光を放つ太陽ではなく、時にしっかりと、時に朧気に、そして、ゆっくりと形を変えながら自らの存在を穏やかに主張する、月に会えるからだ。そして、月の光は、自身の存在の主張をするだけではない。寄せては返す夜の波をゆっくりと照らしていく。そして、それを受けた海は、きらきら光を乱反射させ、輝きわたる。この島から見える、一番美しい風景だ。
 ルギアは、この景色を全身で感じながら、問いかける。

 どうして君は、空にこんなに美しく輝いているのか。
 どうして君は、こんなにも美麗な景色を私に見せてくれるのか。
 どうして君は、たったひとりでいる私のことを気にかけてくれるのか。

 明確な答えが帰ってくることはなかったが、その凛とした光こそが、ルギアに答えをぼんやりと示してくれているようだった。
 そんな月は、ルギアの憧れであり、唯一の友達だった。



 その日も、ルギアはひとり、海辺で十六夜の月に語りかけていた。

 どうして私は、ここにいるのだろうか。
 ここに生きるとは、いったいどういうことなのか。
『神』として生きるとは、いったいどういうことなのか。

 月はルギアの問いに、優しい光で応えたようだった。海はいつものように万華鏡のようなきらめきを放ち……、しかし、そこに見慣れない輝きがあった。月光を反射しているものが、海の上にもう一つ。何だろうか。ルギアは、その物体のところまで、行ってみることにした。
 それは、丸くて小さなものだった。海のように透き通った青、そしてその中には、赤くて丸い何かが存在している。
 タマゴ、命のはじまり。しかし、このときのルギアには、それが何なのか、まだわからなかった。なにしろ、タマゴを見るのは初めてだったのである。その鮮やかなマリンブルーの球体を、ルギアは月――唯一の友達――からのプレゼントだと思い、大切に持って帰った。


 それからルギアは、毎日タマゴを眺めて過ごすようになった。毎晩、月の見える浜にタマゴを持っていき、感謝の気持ちを抱きながら、この贈り物は何なのか、何のために私にこれを授けてくれたのか、やはりルギアは問答をし続けた。

 時々、タマゴは動き出すようになった。日々変化を見せるタマゴに、ルギアは新鮮な驚きを感じていた。毎日同じ生活を繰り返していたルギアにとって、それは心躍ることだった。
 タマゴが動き出すようになってからも、ルギアは毎晩タマゴを海岸に連れて行った。そして、海をタマゴに見せて、綺麗だろと語りかけながら、タマゴが来た日より細くなっていった月と、時を共に過ごした。

 ある日、タマゴに、今までにない大きな変化が現れた。
 タマゴは大きく揺れ、そして、その水色の膜が一気に破れ……!
 現れたのは、一匹のポケモンだった。海と同じ透き通ったブルーの体。体の中心には、タマゴと同じように、赤くて丸いものが。頭からは長い触覚が二本伸びている。そして、大きな二つの瞳が、じっとこちらを見つめて……。

「まま?」

 そのポケモン、マナフィが発した言葉に、ルギアは困惑した。
 ……『まま』とはいったい何だ。そもそも、この生命体は何だ。どうやって接したらいいのか。何しろ、他の生き物と接するのは、久しぶりのことだ、無理もない。

「まま! あそぼ! あそぼ!」

 しかし、何故だろうか。気がつくとルギアは、自分でもわからないうちに、この生き物に対して、すごく愛おしいという思いを抱いていた。

「…………遊ぶか」

 こうして、ルギアとマナフィの生活は始まった。


 月以外の誰かと時間を共に過ごすというのは、やはりルギアにとって初めてのことだった。産まれたばかりのマナフィは、ルギアにとっては見慣れたものであっても、全てが初めて見るものだ。初めての世界、そのひとつひとつに触れるたび、驚きと興奮を見せるマナフィ。そして、そのマナフィの姿がまた、ルギアにとっては、驚きと興奮、そして愛おしさという、初めての感覚をもたらすものだった。
 夜になると、ルギアはマナフィを月のよく見える海岸に連れていった。間もなく新月を迎えるであろう、細長い月は銀色に輝き、それに呼応するかのように、波もわずかにきらめく。マナフィは、ルギアが思ったとおり、その輝きに心躍らせ、海と月に負けないくらい瞳をきらきらさせていた。そんなマナフィに、ルギアは語りかける。

「満月になると、もっと綺麗なんだがな……」
「まんげつ?」
「月が丸くなる時のことだ。今は細長いが、時が経つにつれて丸くなっていく。その時の美しさは、今とは比べ物にならない」
「まま、つき、よくしってる! すごい!」
「…………お前が来るまで、私は月と共に過ごしてきたからな。……これからは、お前も一緒だが」
 明らかに照れた様子で、ルギアは小声で呟く。だが、マナフィはルギアの変化に気づくこともなく、嬉しそうに喋り続ける。

「ままとつき! ともだち! ともだち!」
「……『まま』はやめろ。何だか落ち着かない。ルギアと呼べ」
「るぎあ! るぎあ! るぎあとつきとまなふぃ、ともだち!」

 マナフィの無邪気な様子を見ているうちに、いつのまにかルギアの顔は綻んでいた。
 ルギアがこんな表情をするのは、初めてのことだった。
 逆三日月はそれを、優しく見守っているかのように、輝いていた。



 マナフィは、どんなポケモンとでも心を通わせる力を持つという。特に、水ポケモンとは仲がよく、マナフィを『蒼海の王子』と呼ぶ地域もあるらしい。だから、今までポケモンが全く寄りつかなかったルギアの島に、水ポケモンたちが集まるようになってきたことは、とても自然なことだった。
 初めに訪れたのは、一匹のパウワウだった。たまたま海流が島の方を向いていたのか。とにかく、島にやってきてしまったパウワウは、ルギアと遭遇し。
「う、海神様だ……」
 自分が来てはいけない所に来てしまったことを察したパウワウは、海神様を前に、あっという間に怖じ気づき、すっかり縮こまってしまった。

 が、ぴょこっと現れたマナフィが。
「るぎあ、こわくないよ!」
 そう言って、パウワウの元にやってくると、とたんにその体の震えは収まり、怯えた顔は、安心した表情になっていった。

「まなふぃとるぎあと、いっしょにあそぼ!」


 遊び疲れて、満面の笑顔で帰っていったパウワウが、その話を仲間に伝えたのか。それとも、風の噂で広まっていったのか。やがて、島にはたくさんのポケモンたちがやってくるようになった。初めはどう対処していいかわからなかったルギアも、マナフィの力のおかげで、ルギアの力を畏れていたポケモンたちとも、すぐに打ち解けることができた。
 いつしか、ルギアとマナフィの周りには、友達がたくさんできた。たくさんの友達、そしてマナフィと過ごす日々は、ルギアに今までにはなかったたくさんの楽しみを与えていった。
 ルギアの生活が変わりだしても、月は変わらず満ち欠けを繰り返しながら、ルギアを見守っていた。



 マナフィはどんどん成長していった。ルギアは、その成長に、日々喜びを感じていた。そしてそれは、島にやってくるようになったポケモンたちも同じだった。毎日のように彼らはやってきて、マナフィの成長を喜び、そしてマナフィとルギアと、くたくたになるまで遊んだ。新鮮で心弾む日々は、続いていった。
 そして、ルギアとマナフィは、毎晩、月の穏やかな光に包まれて、眠っていた。月の見えない夜でさえも、見守ってくれているような気がして、安らぎの中で眠りにつけた。
 たくさん友達ができても、やはり月は、ルギアとマナフィの、一番の友達だった。

 ルギアは、マナフィや、そしてマナフィがやってきてから出会ったたくさんのポケモンたちとの日々が、嬉しくて愛しくて仕方がなかった。こんな日々がずっと続くことを願っていたし、思慮深いルギアにしては珍しく、こんな日々がずっと続いていくだろうということに、何の疑問も持たなかった。ただ、マナフィと出会えて、世界が変わったことを、タマゴを届けてくれた月に感謝するばかりであった。
 月はそんなルギアを、相変わらず優しく見つめていた。



 そんな日々の終わりは、突然のことだった。


「僕ね、この島を出ていくよ」


 ある夜、いつものように、いつもの浜にいたマナフィは、何てことないような感じでその言葉を放った。
 しかし、ルギアにとっては、あまりにも突然のことだった。

「出ていくって……、どういうことだ!?」
「僕はね、産まれた海に帰らなきゃって。そう思うんだ」

 マナフィは、タマゴから産まれてしばらく成長すると、タマゴが産まれた海に帰ろうとする、帰巣本能を持つ。だから、マナフィにとって、この発言は、何となくではあったが、とても自然な感覚で発せられたのだ。
 しかし、物心ついた頃から長い長い間、この島で育ってきたルギアにとっては、信じがたい言葉であった。

「どうして……、どうしてだ! おまえはこの島が嫌いなのか!?」
「そんなことないよ。僕、ルギアもみんなも、この島も大好きだよ! でも、帰らなくちゃって思ったから。僕が産まれた場所にね。でも、またきっと、ここに帰ってくるよ! だって、ここには大好きなみんながいっぱいいる、大事な大事な場所だもん!」

 そうやって、自分の思いを言葉にして紡いでいくマナフィが、次にルギアに対して放ったのは、思わぬことだった。


「ルギアは行かないの?」
「行く……? どこにだ?」
「友達のとこ! だってルギア、いっつもここから動かないじゃん。みんなここに来てばっかりで」
「……それは、みんなおまえと遊ぶのが楽しみなだけだろう。それに私が動かないのは、私が『海の神』たる所以だからだ」

 ぼそぼそと呟くルギアに、マナフィは、その言葉を笑顔で否定する。

「ううん。みんな、ルギアのことが好きだから、会いに来るんだよ。だから、ルギアも、大好きな友達に会いに行こうよ!」

「……だが、私は『海の神』だ。私がここに存在するのは、『海の神』として私が生み出されたからだ。そうである以上、私はここに留まらなくてはならない。それは、神が神たる所以だからだろう」

 ルギアはいつもの調子で、淡々と尊大に神とはいかなるものかを語る。
 しかし、そんなルギアに、マナフィは全く別の言葉を浴びせかけた。

「どうして? だって、ルギアは『海の神』じゃなくてルギアだよ!」

 その言葉に、ルギアははっとした。何か、忘れていた大切なことを思い知らされたようだった。
 そして。

「ほら、おつきさま、ルギアのこと呼んでるよ! 会いに来てって!」

 月と海を背にしてマナフィと話していたルギアは、振り向き、そして大きな驚きを味わった。


 水平線の上に現れた満月。その光が海に反射する。引潮になっている海には、たくさんの潮だまりと、白い砂浜。そして、潮だまりは月明かりを受けて、輝きわたる。
 光の帯のように輝く潮だまりと、真っ白な砂浜、それが交互に月まで続く。
 まるで、月への階段がかかっているかのように。


「………………」

 月光に照らされた海は、いつも美麗だったが、こんなにも美しい姿を見るのは初めてだ。まるで、神からの贈り物のような。

 ……神?

 そうか。ルギアの中で、何かがすっと腑に落ちた。
 そんなルギアを見て、マナフィはいよいよ旅立ちの体制に入る。

「絶対、絶対また会いに来るからね! マナフィ、ルギアのこと、ずっとずっと忘れないよ!」

 マナフィの目に、涙はなかった。また会えることを、確信していたから。
 そして、マナフィはそのまま海へ飛び込み、迷わず目指す先へ泳いでいった。



 マナフィを見送り、ひとりに戻ってしまったルギアは、考える。


 私は、神ではない。ルギアなのだ。
 だから、私が思うことをしてみてもいいのだろう。
 会いたいと願っていた尊敬する友達に会いに行っても、きっと悪くない。
 これは私の、ルギアの意志なのだから。

 呼ばれているのなら、行ってみよう。
 憧れの、私の初めての、友達の元へ。


 ルギアは、その翼を広げ、初めて島を離れ。そして月への階段を上っていった。




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