こちら側の半生




 画面の中の俺は惚れ惚れするほどのイケメンであるのだが、画面に映る俺は世に恥ずべきブサイクなのである。
 折り畳むことが出来るコンパクトな携帯ゲーム機、その二つの画面は電源を入れるとまばゆく輝く。バックライトに照らし出された其処については皆さんもご存じであろう、夢と冒険とポケットモンスターの世界は俺を魅了して止まない。
 しかし電源を切るとどうだ。つるりとした真黒い平面で起こる、入射角反射角共に零度の鏡面反射を経て俺の網膜に飛び込んでくるものは悲しいかな、画面の中の世界に生きるモンスター達よりもよっぽど化け物じみている。

 風呂無しトイレ共同、物の溢れる六畳の真ん中。ニャースの額の如き空間にどっかりと尻を下ろす一人の男、俺、である。ニャースの額には小判があるだけマシであると言えよう。部屋に設置されたぼろいエアコンは冷房機能がいかれており、破けた網戸からりりりりと秋虫の声が騒がしい。
 体だけはやたらと丈夫で、まるで防御のステータスだけ飛び抜けているようである。否、HPであろうか。特性はあついしぼう、しめりけでも良かろう。要するに腹が出ており汗っかきなのである。世間はそれにたった二文字の呼称を与えた。ご明察、デブである。せめてあくしゅうを放たぬよう銭湯に通う日々だ。
 猫背で画面を覗き込むと嗚呼、無情にもぼったりと垂れ下がる頬の肉! ええい重力め! 俺はこんなにも、母親に似ていたであろうか。好物は鶏腿肉の唐揚げであるが、これは俺が肥えた原因の筆頭であると言えよう。焦ると一本立てた人差し指をぐるぐる振り回す癖を持つ。周囲からは気味が悪いから止めろと大好評である。

 対して画面の中。俺の名を冠する少年はつい先日、伝説のドラゴンを従え英雄となったなかなかイカしたニューヨーカーである。
 画面の中の俺はニューヨーカーの俺だけでは無い。ある俺はマフィアのボスと対峙し、またある俺は異常気象を解決し、またまたある俺は宗教団体じみた組織を解散に導いたスーパーヒーローだ。更にどの俺もチャンピオンとの激闘の末最強のトレーナーとなっているときたもんだ。
 初めて画面の中の俺が生まれたのは、俺がまだ平均的な体重を持つ六歳児だった頃のことである。もっともその俺が冠していたのは俺の名ではなかったが、その理由は後ほど記すとしよう。
 さて、俺の最初の一匹は種を背負った蛙でもなければ水を吹き出す亀でもなく、尾に炎を灯した蜥蜴でもなかった。
 くるりと巻いた毛と尾、控えめな翼を持つ――ピッピだったのだ。

 種明かしをすると、俺は幼稚園生活最後の夏休みに訪れた叔母の家で、いとこの兄ちゃんから電池の蓋を失ったゲームボーイごと赤バージョンを譲り受けたのである。否、不用品を押し付けられたと言うべきか。当時小学二年生だった兄ちゃんはやっとの思いで一人目のジムリーダーを倒したは良いが、二人目で心が折れたのだろう。主人公「タカノリ」は中途半端にレベルの上がった一匹のピッピを連れ、ほぼ無一文の状態でハナダシティのポケモンセンターで立ち尽くしていた。だれかのパソコンにぽつんと置き去りにされた可哀想なヒトカゲが発見されるのはもうしばらく後になる。
 この施設で回復が出来る、とレクチャーを受けたのみで説明書を貰えなかった俺は馬鹿正直にピッピ一匹でハナダのジムリーダーに挑んだ。しかし一匹目はどうにか倒せるのだが二匹目がべらぼうに強いのである。攻撃技と変化技の違いがいまひとつ理解出来ず、なきごえばかり指示していたのが主な敗因であろうが、当時の俺はそいつが最強のポケモンであると信じて疑わなかった。さっさと攻撃していれば良いものを、もたもたと鳴いている隙にかたくなるを積まれ手も足も出せなくなっていたのだ。幾度と無く繰り返される攻防の中、ずらりと並んだ黒星の先でその時は訪れる。

 いつものように一匹目を倒したピッピは新しい技を覚えた。
 早速その技を指示するとピッピはちちちと指を振り――その巨大な海星に破壊光線をお見舞いして見事勝利を収めたのだ。繰り返し繰り返し二匹目にノックアウトされ続けていた為に、一匹目の分の経験値が蓄積されてかなりレベルが上がっていたとはいえ、その破壊光線のインパクトたるや相当なものであった。
 俺が性別も知れぬピッピにめろめろになった瞬間である。最強のポケモンの座はピッピのものとなった。


 小学校に入学した俺は平仮名や片仮名の読み書きが完璧で――言わずもがなポケモンの御蔭である――満開の花丸をテストに咲かせ続けていた。足し算引き算も楽勝であった。さあ刮目せよ、俺の最盛期である。これは一年後、九九の出現により完膚無きまでに粉砕されるのだがその件はとりあえず置いておこう。
 さて、当時の俺は何故かピッピが宇宙人であると信じ込んでいた。どちらかといえばあの恐怖の二匹目のほうがよりエイリアンらしいが、その年に始まったアニメやコミカライズ版の影響が大きいのだと思う。
 二年後、ジョウト図鑑を読んだ俺はピッピ宇宙人説の決定的な証拠を得る。そこにはピッピの進化前、ピィが流れ星に乗ってやってくると記されていたのだ! やはりピッピは宇宙人に違いないと確信する。星々の写真集を眺めピッピに思いを馳せた。痩せた父親は、将来は天文学者かな、と呟いた。月曜日はおつきみ山へと足を運んだ。無邪気にアストロノートを夢見た。早く大人になりたいと願った。大人になれば、何でも出来ると思っていた。当時小学三年生である。可愛いものではないか。

 俺が白黒のゲームボーイを卒業したのは、俺の体重、大なり、小学校六年生男子の平均体重、となり始めた時期である。ポケモンの新作が出ると知り、俺は喜び勇んでゲームボーイアドバンスを購入した。
 金・銀までは友人と集まってはポケモンバトルに励んだが、その時はそうもいかなかった。ある友人は中学受験に忙しく、またある友人はサッカーに夢中であった。俺は一人ホウエン地方へと旅立つ。画面の中の俺は相変わらず、たとえ火の中水の中草の中砂嵐の中に海底まで、フルカラーの世界を縦横無尽に駆けずり回っていた。ああ、この町は種子島だ。元ネタを知っている町を発見し喜ぶ。テレビ中継で天に吸い込まれるロケットを見た、憧れの地である。母さん、ここ種子島だぜ。喜び勇んで肥えた母親に報告しに行くと、四年生まで同じクラスだったトモキくん、□□中に行くんだって、とどこか疲れたような声で言われた。ポケモンレポートにかきこんでいますでんげんをき、で電源を切るバグ技を教えてくれた友人だった。小難しい名前の私立中学校を俺は知らず、ふと、ジョウトのボックスで眠るトモキのキングドラのことを思い出した。
 漫画ばかりの本棚から引っ張り出したクリスタルバージョンは、続きから始める選択肢を持たなかった。
 紅いカセットを差し込み、電源を入れる。トクサネシティでレポートを書いた画面の中の俺は、じっとロケットを眺めている。海底まで制覇したんだから、次は。


 近所の公立中学校に進学した俺は、同じ小学校出身の友人からの誘いを受けサッカー部に入部する。肥えた肉体は敵を威圧し、更にゴールを塞ぐのにうってつけの壁となり、大いにチームに貢献した。俺のスポーツ面での最盛期である。対して画面の中の俺は再びカントー地方を旅する。
 今回は主人公「タカノリ」ではなく、ばっちり俺の名前を持たせた。殿堂入りまで一緒にいてやるからなと誓ったヒトカゲは序盤で鋼技を覚え、しれっと岩蛇にとどめを刺す。道中でメスのピッピも仲間にしたが、彼女が指を振って繰り出すのは地味な技ばかりであった。しかし一日一時間だけでも――ほんの一分でも一時間を越えると毎月の小遣いが百円ずつ削られてゆくシビアな家訓があった――画面の中の主人公とシンクロするひと時は、やはり楽しかった。画面の中のキャップの少年を俺は羨ましく思って、どこかで妬んでもいた。俺は主人公じゃない。チャンピオンにはなれない。画面の中の俺はキングドラの親の名を持ったライバルに勝利し、あっさりとカントーの頂点に駆け登る。

 あんた、中学生にもなってポケモンばっかり。もう子供じゃないんだからちょっとは受験とか、現実のことを考えなさい。益々肥えた母親の叱咤で画面の向こうが色褪せたような気がした。画面の中の俺が黙り込む。ステータス画面のピッピがお決まりのポーズを作る。現実のことを考えるたびにただでさえ遠かった宇宙が、更に遠のくのを感じた。宇宙なんて、ガキかよ。野球少年がメジャーを志すより厄介じゃないか。ピッピだって、いないし。もっと現実的なことを考えろ、もう子供じゃないんだから。トモキの通う□□中は偏差値が天に振り切れた中高一貫の進学校だったと知ったのは、数カ月前のことだ。電源を切る。音も無くピッピが消える。色を失った画面に映る俺はどんな顔をしていた?
 俺はその時、人生の半分の間大事に抱えていた夢を捨てる。
 学習塾に入れられた俺は勉学に励む。キーパーの座は後輩に譲った。約一年後、私立高校の横に長い掲示の中にめでたく自分の受験番号を発見する。
 面接では夢を問われた。予め飲み込んでおいたお手本を消化もしないままに吐き出した。


 場面は高校一年生の初夏、放課後の教室で行われた進路相談へと飛ぶ。
 進路相談と銘打ってはいるものの、担任と一対一で高校生活には慣れたか、部活は充実しているか、勉強に行き詰まって無いか等、取り留めの無い会話を交わすだけのものであった。特に厳しい校風でも無い上に一年生なのでのんびりしたものである。当時の俺の担任は、まだ若いんだから、が口癖の中年の地学教師で、力の抜けた雰囲気が生徒に好まれていた。その担任に進路の話なんて大袈裟なものではなく、戯れにこんな質問をされた。
 まだ若いんだから、でっかくなァ、辿り着く所を考えとけ、何か好きなもの、目指すものはあるか?
 唐揚げ、と言う言葉を飲み込んだ。のらりくらりと誤魔化してきた夢を、問われている。ほんの数カ月前、二人の大人を相手に俺は何と答えた? 記憶の深みを浚っても見つからず、焦る。
 宇宙、咄嗟に出た回答がそれだった。些か心許無い髪の生え際をお持ちの担任は目尻に皺を寄せて、そうか、俺もアポロ十一号に憧れたもんだ、と笑った。皺の目立つ手が傍らの地球儀を叩く。目指すは宇宙、良いねェ、宇宙開発なんてどうだ、ロケットはロマンだな、ロマン。ペシペシと地球儀を叩いて回しながら、ロケットについて、人工衛星や宇宙船について、アストロノートについて、地球外生命体について滔々と語る担任の姿は新鮮ではあったが、俺は何より、自分が宇宙への憧れを捨て切れていないことに驚いていた。

 宇宙に憧れたのはあいつのせいだ。あいつ、ピッピは現実じゃない、画面の、向こうの俺の、相棒である。そういえば長いことポケモンの世界を歩いていない。現実では、草むらから野生のコラッタが飛び出して来ることも、湖でコイキングを吊り上げることも、病院でラッキーが働いていることも、ありっこないのだ。だから宇宙にもピッピはいやしない、そんな事はとうに気付いていた。早く大人になって宇宙飛行士になるのだと、無邪気にピッピに焦がれた自分を、懐かしんだ。しかし中途半端に大人になった俺は、何処か諦めに似た気持ちを覚えていた。自然と宇宙からも距離を置いた。
 俺は馬鹿か。
 ピッピは現実で無くとも、宇宙は俺の真上に広がっているではないか。
 宇宙と距離を置いたと思い込んでいたのは俺だけだった。宇宙は常に俺を包囲していた。その事実に今更気付いた俺は、震えた。潰えたと思った夢が再び質量を取り戻し、ゆらりと首を擡げるのを感じた。人差し指を一本立て、緩やかに降ろした。破壊光線のエフェクトが脳に湧き出た。まだ若いんだから、諦めるのは早すぎた。大人になったつもりでいた。ぼんやりと、目の前で宇宙を紡ぐ中年もかつては、無邪気にそれに憧れていたのではないか、と考えた。口を開く。先生、俺、どうしたら宇宙に、届きますかねえ。声に出す途中でこっ恥ずかしくなり、無理やりに語尾を戯けた調子に弾ませた。
 僅かに担任の顔が歪む。嬉しげにも悲しげにも思えたが、どんな表情だったかは思い出せずにいる。
 視界の隅で静かに回る青がやけに記憶に鮮やかである。

 その年の秋、画面の中の俺はギンガ団と名乗るいかにもな組織と対決することとなる。キンパツの女性チャンピオンを撃破した画面の中の俺は、その後暫く沈黙を保つ。
 次はお前がチャンピオンに立ち向かう番だと言わんばかりであった。

 宇宙はいつでも、真上で待っていた。



 さて画面のこちら側、一浪して大学に合格し、未だポケモンの舞台とならぬ生まれ故郷を離れた俺が足を踏み入れたのはここ、リアル・カントー地方である。夜には月以外ろくに見えやしない大都会、リアル・タマムシシティ。リアル・主人公「俺」の現在の倒すべき敵は中途半端な野生のレポートだ。八つどころでは済まぬ単位を集め、チャンピオン「シュウカツ」を倒すべくレベル上げに勤しむ日々である。
 いつかはリアル・トクサネシティで……これ以上は語るべきでなかろう。なんとも厳しい世の中だ、下手に大言壮語するのはよろしくない。不言実行とでも言えば格好も付くか。
 一日一時間の縛りこそ無くなったが正直、画面の向こうの世界に費やす時間が増えたとは言い難い。忙しいのだ。勉学にバイト、家事や「リアヂウ」的活動に励む合間に俺は画面の向こうの世界へと旅立つ。

 地下鉄に揺られながら、考える。
 もしも主人公「タカノリ」がヒトカゲを選んでいなかったら。
 もしもピッピを捕まえていなかったら。ピカチュウに遭遇していたら。タイプ相性を理解していたら。ハナダジムを突破出来ていたら。ほんの気まぐれで、俺にゲームを譲る気にならなかったら。
 もしもあのとき、ピッピが破壊光線で俺のハートをぶち抜かなかったら。
 俺はまた別の道を歩んでいたのであろう。
 アポロ十一号に憧れる世代でもない俺を宇宙へと駆り立てたきっかけは恥ずかしながら、紛れもなくポケモンなのである。ゲームに人生を左右されるだなんてこれだからゆとりは、とゲンダイのワカモノに対してのお決まりの文句を自らへの揶揄としようか。しかし鷲鼻の名探偵に憧れて探偵を志すのも、三年B組の担任に憧れて教師を志すのも似たようなものであろう。
 やはり胸を張って言おう。俺はピッピに憧れて宇宙を目指したのだ。

 輝くディスプレイの奥の英雄はたとえ秘伝技を駆使しても、別の道を目指すことは出来まい。画面の向こうにあるのは、チャンピオンへと続くまっすぐな一本道だけだ。しかし画面のこちら側の俺はどうだ! 俺にはあらかじめ定められた、世界中を虜にする神シナリオなんて関係無い。俺だけのストーリーを創ってゆける訳だ、と勝ち誇った気分になる。ゲーム相手に寂しい男である。しかしこのブサイクっぷりはハンデとしては大袈裟すぎやしないだろうか。まあ些細なことだ、今の俺はポジティブなデブなのだ。担任の口癖を思い出していた。
 ニューヨーカーな俺の、電波なライバルの最後の台詞がリフレインする。お前なぞに言われずとも叶えてくれるわ、俺の人生の主人公は他でもない俺自身なのだから……なんて、どこかで聞いたようなクサい台詞でこのやたらと長い独白を締め括るのも悪くないだろう。

 画面の中の俺はものの数秒でレポートを書き終え、画面に映る俺は大風呂敷を広げてしまったレポートにどう収集をつけたものかと頭を抱える。窓際にはミニチュアの地球儀が佇み、網戸の向こうでは黒一色の空に月だけがぽっかりと穴を開けている。
 指を振る。何も起こらない。エンディングはまだまだ、見えない。




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