偽りの鏡




 鏡が割れた鏡が割れた。
 割れたのは偽りの鏡。
 鏡が割れて何か生まれた?


 どうしてこの森は進みにくいように木が生えているのだろう。迷いの森というだけあって本当に迷って森から出られなくなりそうだ。まっすぐ進もうにも立ちはだかり続ける木のせいで思うように進めない。早くあの子のところへ行きたいのに。あの子の声はますます大きくなるばかりで、あたしの頭の中を酷くかき乱す。
 苛立ち始めたあたしをよそに右隣にいるバシャーモが呟く。
「あずさは泣いているだろうか」
 何を今更言うのだろうか、このバシャーモは。あの子は、あずさは。
「いつだって泣いていたじゃない」
 だからこそあの子はあたしたちのトレーナーであるというのに。
 
 そもそも、あの人間たちを見た瞬間に抱いた嫌な予感と突然痛みだした背中の痛みを信じればよかった。バシャーモにあの子を抱えてもらって人間たちから逃げてしまっていたなら。そうしたら、あの子は怒ったかもしれないけれど、あの子が傷つくことはなかった。

「サーナイト」
 不意にバシャーモに呼ばれる。
「何、バシャーモ」
「あずさの位置は分かるか」
 バシャーモがきちんとこちらを見たことを確認してからあの子のいる方向を指し示す。
 あの子に注意をやった途端、意識を持って行かれそうになった。脳内をかき回されるような感覚。思わずよろめくあたしを支えたのはバシャーモだった。
 バシャーモは大丈夫か、などという言葉は言わない。一言、「行くぞ」とだけ言葉を掛けてくる。
 歩き出すためにあの子の声を無理やり追い払う。代わりに頭の中を占めるのは古い記憶だった。



 あたしたちの共通点は人間が大嫌いなことだ。
 あたしたちが初めて出会ったとき、あたしは背中に酷い傷を負っていた。糞ったれな人間があたしの背中にナイフを深々と突き立てたのだ。その頃のあたしにはろくに抵抗をすることも出来ず、深い傷を負った。理由? そんなもの、あたしは知らない。
 血を流したまま草むらに放置されたあたしは、ひたすらに人間を呪っていた。周囲に生えている草が赤く染まるのを眺めながらただ一心に呪い続けていた。あの子が現れたのはそのときだ。気がつくとあの子にあたしは抱きかかえられていた。抵抗する間もなかったし、する気さえ起きなかった。なぜならあの子はあたしのために泣いてくれていたから。心の底から泣いてくれている相手を憎むことなんて出来はしなかった。ポケモンセンターに担ぎ込まれたあたしはあの子とともに行くことを選択した。
 今でもこの体に残る傷跡は忌々しい存在であると同時にあたしとあずさを引き合わせてくれたものでもある。この傷がなかったらあたしたちの絆は今のような強固なものにはならなかっただろう。だからといって、あたしが人間を許すことは決してない。
 バシャーモも人間に酷い目に遭わされた。そしてその結果、左目を失った。あたしがバシャーモの左側に立つのはそのためだ。
 だからあたしたちは人間が大嫌いだ。あの子だけは、あずさだけは違うけれど。


 あずさは人間が嫌いだ。けれどそう思うあずさもまた人間だった。そのことにあの子はいつも悩んでいた。
 あたしたちからすればあの子が人間であることは大した問題ではない。あの子はあたしたちのために泣いてくれたから。あの子はいつだって泣いていて、それは自分のためであり、あたしたちポケモンのためでもあった。心からあたしたちに寄り添ってくれたから、あたしたちはあの子が大好きなのだ。
 
 
 転機が訪れたのはシンオウに行ったときだった。南国育ちのあたしたちにとってシンオウは予想以上に寒く、あずさが風邪をひいてしまわないかがいつも心配だった。
 ミオシティにある図書館を訪れたときのこと。図書館にあたしたちは入れなかったから、実際にその時あの子が何を思い、どういう表情をしていたか知る術はない。宿であるポケモンセンターに急いで戻って来たあの子が、ボールから出してくれてからのことしかあたしたちは知らないのだ。そのときあの子は珍しく頬を紅潮させて早口で捲し立てた。始め、あの子が何を言っているのか分からなかった。あまりにも興奮しているものだから言っていることが支離滅裂過ぎたのだ。繰り返される言葉の中から必死に意味を探りだす。
 そうして分かったのが、シンオウ地方に伝わる神話だった。
 
 それは、人の皮をかぶるポケモンの話。

 
 あの子はこうして鏡を手に入れた。ポケモンこそが真実を映す鏡だと。ポケモンを鏡とすることであの子は心の安寧を得た。けれど、その鏡は偽りのものでしかない。
 
 
 あずさの精神はバシャーモにも分かるくらいに安定した。あたしたちは心の底からほっとした。本当は間違っていると知りつつも、あたしはあの子が良いならそれでよかった。歪んだものだとしても、あの子が幸せならよかった。
 
 
 
 けれど、鏡は割れてしまった。割れた方がよかったに決まっている。それでも割れないでほしいと願っていた。
 
 
 
 イッシュ地方へと渡ってきたのは最近のことだ。北の大地を一通り回ったあたしたちは新天地を求めてこの地に行きついた。船を利用して最初に訪れたのはヒウンシティ。驚くほど背の高いビルが立ち並んでいたことが印象的だった。
 各地のジムに挑戦する前にまずは観光がしたいと言ったあずさは、北にあるライモンシティに向かった。あの子にとって誤算だったのは、イッシュ地方は他地方に比べてポケモンの出し入れに厳しく大抵の施設ではあたしたちを外に出せなかったことだ。おかげで多数ある娯楽施設をほとんど楽しむこともなくライモンシティを早々に後にすることになった。東のホドモエシティはジムに挑戦する際に訪れるだろうということで西へ向かうことにした。ワンダーブリッジの向こうにある街へ行こうとしていたのだ。けれど、そこへたどり着くことはなかった。
 あたしが状況を把握したのはボールから出されてだから、そもそもの始まりは分からない。バシャーモとともに外へ出たあたしはすぐに顔をしかめることになる。あたしたちの目の前には灰色のフードをかぶり、見たこともないようなおかしな格好をした二人の人間。人間たちから伝わってくる悪意や感情が、あたしにあいつらがいかに屑であるかを教える。それはあたしの理性を吹き飛ばすには十分すぎるほどだった。けれどあたしの直感は危険を知らせていた。古傷はずきずきと痛んだ。それでも、あたしは止まらなかった。
 バトルの相手をすることになったポケモンたちには少々申し訳ない気持ちになるくらい徹底的にたたきのめした。あたしほどではないにしろ、あずさの様子からバシャーモも何かを感じ取ったらしく相手の力量を無視して戦っていた。何年も鍛えてきたあたしたちに勝とうとしたのがあいつらの間違いだった。
 けれど、本当に間違っていたのはあたしたちの方だった。バトルをしないで、たとえ敵前逃亡と言われようともあの子を抱えて逃げ出すのが正解だった。本当はそれすらも間違いで、はるか前からあたしたちは選択を誤っていた。
 

 バトルに負けたあいつらが放った負け惜しみは偽りの鏡を割り、そしてあの子を傷つけた。
 


 ポケモンを解放しろ。ポケモンを虐げるのはやめろ。人に使われて可哀相だとは思わないのか。
 あいつらが言った言葉は大体そういった感じだったと思う。他にも喚いていたけれどよく覚えていない。あずさが次々に発せられる言葉たちに傷ついていく方に気を取られていたから。所詮は負け犬の遠吠えだと侮っていたけれど、徐々に顔面蒼白になっていくあの子が心配になりあの子に近寄ろうとしたとき。
「お前もその辺の人間と同じだ」
 その言葉が引き金となった。
「ち、がう。私は、人間じゃ……」
 あずさの顔から一気に血の気が引いたのが分かった。それを見て、調子に乗ったあいつらは続けてこう言い放った。
「いいや違わない、お前はその辺の残忍な人間と同じだ」
 あの子が走り出すのとバシャーモがあいつらに襲いかかるのは同時だった。あたしはあずさを追いかけたかったけれど、咄嗟にバシャーモをサイコキネシスで抑えつけた。おそらくこうしなければ、今頃あいつらは物言わぬ存在になり果てていただろう。
 なぜ止めるのだと、人間たちに向けられていた殺気があたしに向けられた。人間どもは恐怖のあまりへたり込んで動けなくなっていた。
「あずさが駄目って言ってるじゃない! このバカ!」
 あずさは人間が嫌いだったけれど、常々人間を傷つけないでほしいとあたしたちに言っていた。それは糞ったれでどうしようもない人間どものためなどでは断じてない。あたしたち、それからあずさのためだ。
 もし人間を傷つけたなら、人間はあたしたちを危険な存在としてあずさから引き離した揚句、あたしたちを殺そうとするに違いない。人間はそういう存在だ。だから、どんなに人間が憎かろうともあたしたちは人間を傷つけてはいけないのだ。
 それは命令でもなければ強制されたことでもない。けれど、あずさの傍にいたいなら守るべき事柄だった。バシャーモも分かっていたはずなのに、怒りで我を忘れたのだろう。本当はあたしもあいつらを八つ裂きにしたいけれど、必死で堪えている。気持ちはよくわかるけれど、駄目なものは駄目だ。
 全力で抑え込んでいるのにそれを振り切り、今にもあいつらを肉塊に変えてしまいそうなバシャーモへあたしは叫ぶ。
「あずさを探しに行くんだからやめなさい、バカ!」
 こう言えばきっと我に返るだろうという読みは的中し、バシャーモはふっと体から力を抜いた。罰の悪そうな顔をしている。
 このままあずさのところへ行こうとしたけれど、こそこそと逃げ出そうとしている人間どもに再び怒りが込み上げてきた。だからサイコキネシスで地面に縛りつけた後、バシャーモに脅しをかけてもらう。
「いつかコロス」
 バシャーモの言葉が通じるわけもないけれど、殺気は感じたのだろう。そのままの姿勢で気絶していた。
 どうやら悪夢にうなされているらしいそいつらを尻目に歩き出した。ざまあみろ、一生あたしたちの幻影に怯えていろ。
 
 
 
 木という木が立ちはだかり続ける森をやっとの思いで抜けた。その先には拍子抜けするほど広い空間が広がっていて、すぐ見える場所にあずさはいた。
 たった一人でうずくまっているあずさはいつもよりも小さく見えた。出会った時はあんなにも大きく見たのに。いつの間にこんなに小さくなったのだろう。
 本当は知っていた。あずさは弱い人間だと。ぼろぼろに傷ついたその心は未だに癒えていない。
 
 
 あずさは決して語らないけれど、あの子には両親がいない。しばしば悪夢にうなされるあの子に触れるうちに知ったことだ。
 よくある話だった。親戚中をたらい回しにされて、学校でもいじめられて。大人は誰もあの子を助けなかった。果たして、両親を失った子供がいきなり親戚とは言え他人を受け入れられるだろうか。答えは否。当たり前のことを、大人たちは受け入れられなかった。一体、どちらが子供なのか分からない。厄介者扱いされて学校でも輪に入れなかった。先生は面倒くさそうにして取り合ってはくれず、あずさが早くいなくなれと願う。
 味方はどこにもいなかった。いつしか人間を憎むようになった。助けてなどくれない人間に期待することをやめて、あの子は人間を捨てた。
 
 
 あずさを見つけるとバシャーモは何の躊躇いもなくあずさを抱き上げた。対してあたしはどうしたらいいか分からなくて立ち尽くしていた。それでも何かしなければとあずさの頭をそっと撫でる。途端、流れ込んでくる感情の激流。突き付けられた真実に戸惑う弱い人間のあずさがそこにいた。
 どうあがいても、あずさが人間であることには変わりはなかった。人間を捨てることは出来るわけがなかった。
 あずさが人間であろうとそうでなくともあたしたちはあずさが好きだ。あなただけは特別なのだ。
 この気持ちが伝わればいいのにと願いながら呟く。
「あずさが人間でも、あたしたちはあずさが好きだよ」
 偽りの鏡なんていらないでしょう? あたしたちはずっとそばにいるから。


 あずさは泣きやまない。
 いつまでも、いつまでも泣いていた。


 割れた鏡はその破片であずさを傷つけて何も生み出さなかった。




(5056文字)