鳥籠の隙間




「最愛のパートナーが死ぬのって、どんな気分だ」
 図々しくもポケットに手を入れて、墓の前で帽子を脱ぐこともせず、陋劣な彼は不遜に言い放った。私は何かを言い返してやろうかと思ったが、墓前で口汚い罵りをしたくはなかった。
 私はそっと立ち上がり、場所を移した。雨が降りそうな空模様だった。手向けた花もすぐに萎れてしまう。一体何の意味があって、花など手向けるのだろう。彼女は、もう存在しないのに。
 私のあとをついてくる間、彼は何も言わなかった。近くに、屋根のある円柱型の休憩所を見つけ、私はすぐそこに入った。喪服代わりのスーツは息苦しい。ベンチに腰掛け、ネクタイを緩めた。
「煙草、吸っていいのかなあ」彼が呟いた。そして私の答えを待たずに、それを取り出す。「お前も吸ってみるか」
 私は静かに首を振った。
「十歳の誕生日にプレゼントされたんだっけな」
 彼は私のパートナーのことを言っているのだろう。
 私のパートナーはポッポという鳥だった。十年以上前の誕生日にプレゼントされて、それからほとんど一緒にいた。私は対戦を好まない。私は成長を求めない。だからポッポは十年経ってもポッポのままだった。そんな彼女が、つい一昨日に亡くなった。寿命ということらしいが、詳しいことは分からない。突然電池が切れたように動かなくなって、それきりだった。
「なあ、どんな気分だ」
 私はまた黙って首を振った。言葉を発する気分ではなかった。言葉を放てば、涙腺は耐えられない。
「俺には経験がないよ。何故って、それを回避しているからさ。相棒が死んだら悲しいだろう。俺たちは、生まれながらにして、両親とか、兄弟とか、そういう、死んで欲しくない存在を用意されてるんだ。だったらそれ以上、そういう存在を増やさないようにしようっていうのが、普通の考え方だろ。だから俺は、そういう経験がない。幸いにもね」
 紫煙が匂う。だが、肺に吸い込む煙も、既に暗くなった心には、むしろ心地良い毒素だった。
「いい経験だと言い切るのは酷かもしれないな。だけど、いい経験なんだよ。あいつら、とんでもない長寿なんだ。普通にしていれば、まず死なないよ。そんな生き物を看取ってやれたっていうのは、幸せなことさ。なあ、大概は、生涯を終える前に別れることが多いのさ。バグだったり、交換に出しちまったり、どこにしまったか忘れて永遠に会えなくなったりさ。人間の墓に比べて、数、少ないだろ。それが証拠さ。お前は、出会ってから死ぬまで一緒にいられただけ、幸せだ」
 私は何かを言い返したかったのだと思う。だが、どうにも言葉を構築する回路に異常が発生していた。上手く言葉を作ることが出来ず、結局何も言わずにいた。
 彼は私と同じように、何も言わなくなった。小型の灰皿を取り出して、そこに灰を落としていく。その動作はとても人間染みていて、やはり、一人で生きているただの人間であることを連想させる。彼女らは煙草の煙を嫌う。私たちのような、トレーナーとか、ブリーダーとか呼ばれる者たちは、決して煙草を吸わない。
「手に入らないんだな」
 私がぽつりと言うと、彼は少し間を置いて、「何がだ?」と訊ねてきた。その問いへの答えを考えるのに、私は八十秒を費やした。
「彼女の命は、もう手に入らない」
「そりゃあ、死んだからな。死んだ命っていうのは、どうやっても戻ってこないし、手に入らないよ」
「彼女は幸せだったんだろうか」
「常套句だな。いや、定型句か」
 彼は煙を大きく吐き出した。溜め息にも似ていた。
「なあ、死んだやつのことを考えて、どうなるんだ? お前は生きている。それが事実だろう。あいつが幸せだったかどうかってことを考えて、何か意味があるのか?」
 彼の言う通りだ。もう戻ってこない命の都合を考えて、どうしようというのだろう。結局、一人よがりの考え方でしかない。私は閉口する。
「お前にとっては初めての経験だろうから、辛いんだろうなっていうのは、想像出来る。だけど、それで分かっただろ、人生にはさ、かけがえのない存在っていうものがさ、確かにあるんだ」
 彼は煙草を捻り潰した。不快な匂いが消え、緑と、雨の降りそうな湿った匂いが充満する。それは墓標を連想させる、あまり好ましくない匂いだった。
「ポッポ……ポッポね。ポッポなんていう、どこにでもいる鳥が一羽死んだだけなんだ。事実はな。他のことだってそうだ。鼠だっていいし、そこらにいる虫だっていい。同じ形をしたやつらが何万匹もいるんだ。だけど、お前にとってはそれは特別な命だったわけだ」
「うん」
「今までさ、何かをなくしたり、壊したりしても、すぐに同じものが手に入ってきただろう? お前はそういう生活をしてきたんだよな」
 私はゆっくりと頷いた。幼い頃から、何不自由なく与えられてきた。望むものは大抵手に入ったし、与えられるそれらを私は受け入れることが出来た。人生は喜びだった。それに、私は人生の中で一度も阿諛したことはない。常に正直な気持ちを伝えていたし、常に素直な喜びを感じていた。
 そもそも私は、生き物に対して特別興味があったわけではない。だが、誕生日にポッポを渡された時、確かに私は幸せだった。立派に育てれば、美しい毛並みの大きな鳥になり、私を乗せて羽ばたくことが出来ると教えられた。結局、その夢は叶わなかった。私がそれを積極的に行おうとしなかったのだ。彼女との生活はとても素晴らしいものだったが、唯一それだけが心残りだった。
「楽しい人生だったんだろうか」
「だから、死んだやつのことを言っても……」
「僕がさ。僕は楽しい人生を送っていたんだろうか」
 彼はすぐには答えなかった。その沈黙は、私に思案の時間を与えてくれているようでもあった。
 彼女の姿を思い出す。とても小さな体躯だ。けれどとても大きな存在感があった。私が膝下を離れてからもずっと、彼女は一緒にいた。しかしこれからは、家に帰れば、一人だけの生活が待っている。それを想像すると、ひどく憂鬱になった。
「金でも力でも手に入らないものもある」
「もう分かったよ。彼女は生き返らない」
「そうじゃない。幸せだった時間と、それを幸せだったと思える時間を、お前はもらえたんだ。思い出とか、絆とかな……そういうの、羨ましいと思うよ」
 彼は今までとは少し口調を変えて言った。彼の大切な部分に浸したあとのように、優しい言葉だった。
「幸せだった時間、か」
「ああ。家族とか、愛玩動物とはさ、ちょっと違うんだよ。なんでだろうな……一対一なんだよ、あいつらとの関係。人間一人に対して、一匹の関係がある。家族全員で愛でるとか、複数人がお互いに愛し合うとか、そういうのじゃないんだよな。一対一の関係がある。それは、誰も理解出来ないし、誰とも分かち合えないものだろう。それって、幸せだろうなと思うよ」
「ああ」
 私は彼の言葉を聞いて、小さく呻いた。彼女が死んだ時、家族の誰もが私の悲しみを完璧に理解してくれないのがどうしてか分からなかった。でもそれは、私と彼女の関係は、私と彼女のものでしかなかったからなのだ。人から見れば、彼女は、いくつかのうちの一匹でしかないのだ。そこにあった私たちの物語を、誰も知らない。
 あなたでさえ、ポッポというありふれた存在に、特別性を感じてはいないのだから。
 けれど私には掛け替えのない、大切な一匹だった。
「鳥はな、必ず天国に行けるそうだ」
 彼がふと言い放った。私ははっと顔を上げる。
「彼女も天国に行ったのかな」
「それを確認するには、これから真面目に生きることだ」
 彼はまた煙草を取り出したが、自分で吸おうとはせず、それを私に投げて寄こした。上手く膝の上にのったそれを、私は拾い上げる。
「僕は吸わないよ」
「お守りだ」彼は煙草の箱をスーツにしまった。「パートナーを看取ったやつは、もう二度と違うパートナーを作らないって聞いたことがある。お前もきっとそうなるんだろう。だから、その覚悟が出来た時に、吸うといい。決別出来るだろう」
 彼はすっと立ち上がり、私の肩に手を置いた。
「雨が上がったら帰ろう」
 彼は小さな車に向かって歩いて行った。まだ雨は降っていなかった。言葉の意味を知った時、彼はなんて優しい男なんだろうと思った。
 優しい温室で育ってきた私は、定位置から動くことなく、その檻の隙間から、たくさんのものを与えられてきた。玩具、食べ物、お金、そして彼女を。
 しかし彼女は飛び立った。
 ならば私も、この檻を抜け出すべきなのだろうか。
 隙間から与えられるだけだった人生が、特別な一対一を経て、私の血肉へと変わる。愛玩動物や家族の喪失では得られぬ特別な感情を、彼女は確かに私に与えてくれた。
 立ち上がり、煙草を胸ポケットに秘め、休憩所の隙間を縫って、彼の待つ車へと向かった。
 もう、雨は上がっていた。





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