アヤマチ




 左腕の血管が悲鳴を上げているのを感じて、隼(しゅん)は目を覚ました。
 薄暗い部屋に濃いベージュのカーテンと化粧品で散らかった小さな棚。そして規則的な寝息を音を立てる乱れた髪の後頭部が、ぼやけた視界に入りこんだ。掛け布団から少しだけ覗く滑らかな肌が呼吸に合わせて膨らむ。
 首を捻って背後の白い壁に掛った時計を見ると、まだ深夜の二時を過ぎたばかりだった。カーテンの隙間からは街灯の明かりが僅かに見えるだけ。時折自動車のエンジン音が静かな夜の街を不躾に掻き混ぜる。すぐそばの車道は、この辺りにひしめく戸建て住宅やこの賃貸アパートの隙間を縫うように通っている。国道と国道を結んでいるので、ドライバーにとって都合のよい近道になっているらしい。そのせいで、深夜でも中型のトラックが唸り声を上げてこのアパートの真横を通り過ぎる。慣れるまでは夜中に何度も目を覚ましてしまい本当にうんざりしていたと、昨晩奈緒(なお)は自分の部屋の窓の外を睨みつけながら話していた。
 小さなベッドのシーツの上で、隼の左腕は奈緒の頭に押し潰されていた。枕と入れ替えるようにしてそっと腕を抜き取る。不機嫌そうな唸り声を上げて奈緒は寝返りを打った。
 奈緒とは、先週あったコンパの後、初めてセックスした。その時は、その一回で止めにするつもりだった。

 隼や奈緒がアルバイトをしている市内のレジャー施設は各セクションごとに社員のチーフが就く。先週はこの九月度で新たに移動してきたチーフの歓迎会と称して、同じセクションのメンバー十人ほどで居酒屋とカラオケをはしごした。最後に駅の前で解散した後、奈緒の方から自分の部屋に誘ってきた。明日はお互いシフトが入っていないしまだ飲み足りないから――そう言いながらの上目遣いが思いのほか魅力的で、隼は変に感心してしまった。もともと女性の多い職場で、その中でも普段からよく話していた奈緒だったから、そのときは特に下心もなく、隼はその日初めてこの部屋を訪れた。
 お互いに一缶ずつ空にした頃、奈緒はおもむろに隼の首に腕を巻きつけ、キスをしてきた。カシスオレンジの淡い酸味が残る彼女の舌がすぐに入ってきて、いつの間にか両手は隼の着ていたシャンブレーシャツのボタンに伸びていた。

「風邪ひいちゃうといけないから」

 奈緒にそう言われながら、ボタンを全開にされた隼は誘われるままにベッドに腰を下ろした。彼女の唇はそのまま下へ流れ、首筋や鎖骨をついばみ始める。隼の頭には否応なしに麻酔がかかってゆく。

「奈緒、だめだって――おれ彼女いるし」

 隼はお互いに自明のことをただ口にした。ささやかな理性の抵抗。奈緒は陶酔した表情を隼に向けた。

「悪者は私でいいから。だから今日だけ、隼も間違えて」彼女の右手が隼のデニムのファスナーがあるところにそっと触れた。「お願い」

 ある程度アルコールが回っていたことも、このまま肉欲に流れてしまえば言い訳にしかならないだろう。そんなことを考えられるほど隼はこのとき冷静だった。しかし結局、理性は麻酔の効き目を抑えることはできなかった。隼は奈緒を抱きかかえてベッドに押し倒し、激しくキスを返した。長いブラウンの髪を両手で掻き回し、絡み合う舌と彼女の不規則な呼吸を存分に感じた。白いシーツと胸の開いたワンピースがしわになり、乱れていく。

「ん、はぁっ……ああっ」

 奈緒の声が艶を帯びるほどに隼の欲望が内側から膨れ上がっていった。自分の手のひらや指の動きに彼女の身体が反応するのに充足感を覚える。その充足感が罪悪と共にあっても、この瞬間は少しも気にならなかった。ただ、お互いの生温かい熱に触れて、求めて、求められるだけだった。

 そして結局二回目も、奈緒がバイト上がりに隼を誘って、あっけなく訪れたのだった。この低い天井も、見上げるのは二度目。
 隣りで奈緒が立てる寝息に耳を傾けながら、隼はぼんやりと考えた。由里のことだった。 
 今月でちょうど付き合い始めて半年になる由里はポケモンブリーダーの専門学校に通っている。大学の友達の紹介で知り合った彼女の第一印象は、穢れた世界などこれっぽっちも知らないミミロルみたいな子――おおよそそんな感じだった。初対面の時から「すみません」が口癖で、今でも敬語が抜けて「ごめん」になっただけである。経験は、全くなかった。初めてのセックスは痛がってとてもじゃなかったし、隼のベッドのシーツには赤いしみが残った。その時も由里は泣きながら「ごめん」を連発した。
 隼は昨日届いていた由里からのメールに返信していないことを思い出した。確か週末の予定を訊かれたような気がしたが、生憎土日はどちらもバイトでスケジュール帳が埋まっている。
 ここ二週間ほど、由里とはメールのやり取りしかしていない。付き合って半年も経つのだからと、隼自身は会えなくても何も思わなかったが、由里の方は違うようだった。メールの文面から会いたくてしょうがないということが伝わってくるのだ。そして同時に、それをしつこく言ってくるような「面倒な女」にならないように細心の注意を払っているということも分かる。直接「遊ぼう」とか「会いたい」とは言わず、最近の映画の話題を持ち出したり、昨日のメールのように隼の予定を訊いてみたりして、こちらからのアプローチを待っている――そう気付いていながら、隼はそれを無視していた。
 隼は由里に対して可愛さとか愛おしさとか、そういうものを感じなくなっていく自分にも気付いていた。なにか決定的な理由があるわけでもなければ、全く理由がないわけでもない。付き合い始めて間もない頃の魔法は嘘みたいに解けてしまった。あんなに愛おしかった由里の全てが、今では疎ましく感じてしまう。
 隼は天井に向かって大きくため息をついた。

「ため息はだめだよ。幸せが逃げるもの」

 突然言われて、隼は飛び上がった。いつの間にか奈緒が目を覚まし、こちらに微笑んでいる。

「なんだよ起きてたのか。びっくりした」

「今日は静かだけど、なんでかな、起きちゃった」

 珍しいことに、隼が目を覚ましてからは一度もトラックのエンジン音は聞こえていない。部屋はずっと静かだった。

「悪い、さっきおれが起こしちゃったか」

「ううん、その時にはもう起きてた――」

 奈緒は身体を起こした。掛け布団がはだけて、暗がりの中その胸の膨らみと乳頭がぼんやりと見える。彼女はベッドの下の衣装ケースから黒いTシャツを引っ張り出し、頭からかぶった。

「どうしたの? ため息なんて漏らして」

 Tシャツの中からくぐもった声がした。

「別に大したことじゃないよ。こっちの話」

 服で肌色が覆い隠されていくのを見届けながら、隼は適当に答えた。

「大したことじゃないなら聞かせてくれてもいいじゃん」

 再び奈緒は布団の中に潜り込み、隼の隣りに収まった。図々しいところのある奈緒だが、隼はあまり嫌いじゃなかった。由里の固い仕草よりも奈緒の方がずっと会話がほぐれる。

「――彼女のことだよ。最近冷めてきて、どうしようかなって思ってた。てか多分別れる」

 そう言って隼は大きなあくびをした。

「大した話だよ。恋人同士だった男女が別れるなんて」

「よく言うなお前」

 奈緒は笑って小さく舌を出し、隼に身を寄せてきた。温かい息が首にかかり、シャンプーのシトラスが香った。

「これでもしあたしたち付き合ったらさ、完璧隼のこと寝盗ったことになるね。『この泥棒ニャース!』って言われちゃう」

 隼の胸の中で奈緒はとても褒められたものではないことを無邪気に口にする。隼の心臓が小さく波を打った。
 想像したことがないわけではない。自分の恋人は奈緒で、二人仲良くベッドに入ることが当り前になる。耳に心地よい声で猫は鳴く。自分の前だけで、快楽に酔って。
 由里とこのまま付き合っていても、空回りが長引くだけだ。多分、お互いに何をしていても楽しくない。ベッドの上でも、今の隼と奈緒ほど燃え上がることはない。

「あたしは有りだと思ってるよ。隼と付き合うの」

「――めっちゃ軽い女じゃん、それ」

 隼は奈緒に覆いかぶさり、キスをした。右手をTシャツの中に入れ、その胸を優しく揉んだ。

「うん、よく言われる――んぁっ」

 静かな部屋が、シーツの擦れる音と荒い息で満たされた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「ごめんね、バイトで忙しいのにわがまま言って」

 隼は大学からほど近い喫茶店で、三週間ぶりに由里と会っていた。
 昼過ぎはいつも学生で満席になる店内は、今日も例外ではなかった。文庫本を読みふけっていたり、グループで席を占領中であったり、ガヤガヤと騒がしいこの喫茶店は流れているはずの音楽もほとんど聴こえない。女の子二人が隣りの席で他愛ない話に華を咲かせている。その八割が、誰が誰に告白しただの、あの子の彼がどうだの、といった話だった。
 午前中で講義が終わって暇になると、安いコーヒー一杯で長居できるこの店は大学生に非常に都合がよかった。そして、気持ちの離れた彼女とほんのわずかな時間だけ会う隼にとっても、都合がよかった。

「今日もバイトの時間までしかいれないけど」

 隼は煙草に火を点け、時計を見ながら言った。

「ううん、少しだけでも会う時間作ってくれて嬉しい」

 友達にはよく由里のことを羨ましがられる。清楚な顔立ちで、よく気が付く彼女は傍から見ればかなり高嶺の花なのかもしれない。事実、付き合い始めて間もない頃はこの笑顔に隼も魅了されていた。
 今はこの笑顔を憐れんで見てしまっている。由里が必死で笑顔を作っていることは分かっていた。隼の時計を見る回数や、由里と目を合わせる時間の長さが、そのまま彼女の心を大きく揺さぶるのだ。ただでさえ、音を立てて崩れそうなはずのに。
 由里が笑えば笑うほど、隼の胸は罪悪感で焦げ付いていった。まだ、別れ話は切り出せていない。

「この前やっと実習が終わったの。栄養バランスが整ったご飯を配合したり、一週間のトレーニングスケジュールを実際に組んで実施してみたりしたんだ。クーもいっぱい頑張ってくれたんだよ」

 いつものように、由里の通う専門学校の話から始まる。そして恐らく、話はそれで終わる。由里の口から「あたしのことどう思ってるの?」なんて切り出されることは絶対にあり得ない。そんなことをしたら、話の出口は決まってしまうのだから。
 クーとは由里のカメールのことだ。なによりもまず真っ先に「うちの子です!」とクーを紹介するほど、由里は無類のポケモン好きだった。

「隼はポケモン持たないの? なんかいっつも聞いてる気がするけど」

「うん、いっつも聞かれてる――そうだな、そんなに興味ないし、お金もかかるし」

 由里は笑顔こそ保ちつつも、ほんの少し目を伏せる。カプチーノを一口すすり、次の質問を繋いだ。

「じゃあ好きなポケモンとかいないの? これは意外と聞いたことなかったと思う」

 いないと答えれば今度こそ話が途切れ、重い空気の沈黙が流れると思い、隼は考えた。といっても、そもそも知っているポケモンが少ない。小学生の頃はもっとたくさん知っていたはずだったのだが。

「うーん、ヒトカゲとか」

 とっさにひねり出したポケモンが、奈緒の溺愛しているとかげポケモン、ヒトカゲだった。尻尾に炎が灯っていて物騒だが、鳴き声や仕草はとても愛くるしい。好きだと言っても、まあおかしくはないだろう。
 
「そうなんだ! 始めて聞いた。どうしてヒトカゲなの?」

「ああ、友達が可愛がっててさ。そいつ名前呼ぶと近寄ってくるんだよね」

「可愛い! なんて子なの?」

 そういえばヒトカゲの名前を聞いたとき、隼は奈緒のセンスを疑ったのを思い出した。

「――ラブ、だって」

 ラブの尻尾の炎は愛の炎で、ラブが生きている限りあたしは愛に満たされてるの――恥ずかしげもなく、この台詞を吐いた奈緒には驚愕したが、なるほど一応理由があるんだなと隼は頷いた覚えがある。由里には一般的な言葉に翻訳して説明した。

「なんだか、変わった人だね」

「まあ、そうだね。変わった奴だ」

 あまり由里と奈緒のことを話したくはなかった。「愛」だなんて、全く不謹慎な由来だと思った。
 バイトの時間まで二時間ほど喫茶店で過ごすだけなのに、まるで四講分の講義をぶっ通しで受けたように感じられた。早くバイトに入りたいなんて、始めて思った。由里は終始笑顔だったが、時々見せる疲れたような、凍った目つきに隼は首を絞められるような思いだった。
 別れ際、「じゃあ」と軽く離れようとした隼を呼びとめて由里はこう言った。

「隼――カメールとヒトカゲなら、どっちが好き?」

 一瞬、見つめ合ったまま沈黙が流れた。すぐに答えられない自分を呪いながら、無理矢理言葉を選ぶ。

「――カメールかな」

 由里は口元だけで笑みを作った。実際には笑っていない。

「そう――じゃあ、バイト頑張ってね」

 意図がある質問には思えなかったが、目を合わせた時自分の頭の中をのぞかれたような気がした。隼は笑って片手を上げ、由里に背を向けた。
 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 セックスフレンドから正式に付き合うところまで発展するのは、今まで想像したことがなかった。しかし、奈緒と一緒にいるとそれもおかしなことではなく、むしろごく普通なことのように思えてくる。恋愛はもともとこうやって始まるものだったとさえ、思えてくる。

「なんで? すごく良い名前じゃない!」

 奈緒はラブを撫でながら、隼がラブの名前の由来を侮辱したことに憤慨した。
 二人は都心からほど近い「豊川自然公園」に来ていた。この辺りでは唯一、広い敷地内で自由にポケモンを外に出して散歩ができる場所だ。並木道の両側に茂るカエデやコナラはすっかり紅葉し、いつの間にかすっかり秋用に衣替えしていた。厚手のジャケットを羽織らないと、外は少し肌寒い。珍しく一日中暇だった休日の今日、しばらく園内を散歩した後、空いているベンチを見つけ、二人は腰を下ろした。

「由来は百歩譲って良いとしてもさ、普通付けないよ。『ラブ』だなんて」

「――ラブ、火の粉」

「素敵な名前ですね、ラブって」

「分かればいいのです」

 はらりはらりとカエデが舞い落ちて、並木道に赤い絨毯を敷き詰める。公園にはカップルが多く、ちょうどドッグランになっている敷地の中心にはお互いにポケモンを持ち寄って日向ぼっこをさせたり、レジャーシートを敷きお弁当を広げたりしてる。ブリーダーと思しき女性がフリスビーを空に向かって投げ、それをデルビルが見事に空中で咥えていた。

「ねぇ隼?」

「――ん?」

「早く隼のこと独り占めさせて」

 相変わらずラブの頭を撫でながら微笑んでいる奈緒はさらりとそう口にした。ラブは機嫌が良いようで、一日中ずっとパタパタ尻尾を振っている。先端の炎が大きく揺らめいた。
 先週喫茶店で会ってから、由里と顔を合わせていなかった。メールも交わしておらず、当然、未だ別れを切り出せていない。
 平和な公園の風景を眺めていると、自分がそういう状況下にいることを忘れてしまいそうになる。今視界に入っている人々全員が、隼のしていることを知れば口を揃えて非難するだろう。しかし、隼は今罪悪感さえも薄れていた。世の中には三又も四又もかけている男だっている。それに比べれば――

「最低な男だよな、おれ」

「うん。そう思う」

「このままだと、奈緒のこと傷つけちまう」

「そうだよ。結局別れてくれないんじゃないかって思ってすごく不安になる時あるもん」

「――別れるよ。もう由里に気持ちは残ってないから」

 冷たい風が吹いて、また赤いカエデがひらりと舞い落ちた。奈緒はラブの尻尾の炎に手をかざした。

「そろそろ、帰るか?」

「由里さんには気の毒だけど」奈緒はもう一度ラブの頭を撫で、立ち上がりながら言った。「隼は私の彼氏だからね」

 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 由里とは喫茶店で会って以来しばらく会っていなかった。ほとんど連絡さえ取らなくなった。少し前なら毎日メールが来ていたのに、ここ二週間ほどぱったりだ。こちらからメールを送る気にもなれなかった。心のどこかでこのまま自然消滅を期待している。ちゃんと切り出して、一日だけ修羅場をくぐり抜ければ済む話ではあるのに、それがなかなかできない。バイトや講義にかまけて、由里のことを頭から閉め出していた。
 対照的に、奈緒とは毎日絵文字付きのメールを送り合い、デコレーションの多い奈緒のメールのせいで受信ボックスがどんどん賑やかになっていった。古い由里からのメールが受信メールの数量制限を越えて、日に日に押し出されていく。

 講義が午前中で終わった日の午後のことだった。バイトの時間まで大学の食堂でだらけていると、ポケットの中で携帯電話が震えた。
 奈緒からの電話だった。

<隼? ごめん、今大丈夫?>

 切迫した声が携帯電話から鳴り響いた。

「ああ、どうした?」

<ラブがいなくなっちゃったの! ちょっと目を離しただけなのに――どうしよう! 隼――>

 奈緒は明らかに動揺し、後半はほとんど涙声になって聞きとれなかった。

「わかった、大丈夫だから――奈緒、今どこだ?」

<――豊川自然公園>

「おれも今から向かうから、公園の中で待ってろよ?」

<うん>

 豊川自然公園は大学からタクシーで飛ばせば十分ほどで辿り着ける。荷物をまとめ、隼は食堂を飛び出した。
 この時はまだ、すぐに見つかるだろうと事態を楽観的に見ていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 公園の門で、携帯電話を握りしめながらそわそわしている奈緒を見つけた。タクシーから降りた隼を見つけると、奈緒は泣きそうな顔をして駆け寄ってきた。

「隼! ねえどうしよう! 全然見つからないの!」

「落ちつけって。どこで見失ったんだ?」

 奈緒の話は言ったり来たりで、おまけに涙声なので聞きとりづらかったがおおよそ状況は掴めた。ちょうど前に隼と二人で休んだベンチの辺りで散歩をしていたらしい。用を足そうとトイレに入ったほんの三分ほどの間にラブはいなくなってしまったのだという。

「一人で勝手にふらついたりする子じゃないの。良い子で大人しいのに」

 そう言ってから、奈緒の頬を涙が一筋伝った。目を離したあたしの責任だと、自分を責め始めた。

「とにかく探そう。誰か見かけたかもしれないし、な?」

「――うん。ありがとう」

 二人は公園の中に戻り、すれ違う人に尋ねながらラブを探した。公園は相当広さがあるし、半分以上は森になっているので小さなとかげポケモン一匹探すだけでもかなり困難だった。十五分もしないうちに、秋空の下、隼は汗だくになった。公園には休日と打って変わって人が少ない。見かける可能性のある人もそれだけ少なくなる。実際、公園の中心の広場までたどり着くまでにカップルが二組と老人二人にしか会わなかった。皆、ヒトカゲは見ていないと口を揃える。

「はあ――見つからないな。公園から出たのかも」

 公園の反対側まで来て、隼は目の前を通る国道をにらみながら言った。交通量が多く、何台もの車が勢いよく通り過ぎる。

「どうしよう、車にひかれちゃったりしたら――」

 奈緒はモンスターボールを握りしめながらしゃがみこんでしまった。

「大丈夫だよ、きっと見つかる。交番にも届け出を出して――」

 その時隼の携帯が鳴った。メールの着信音だ。
 由里からだった。
 こんな時にと、心の中で舌打ちしながら隼は携帯を開く。二週間ぶりのメールだった。
 異変に気付いた。普段からそこまで絵文字が多いわけではない由里だが、そのメールには句読点すら付いていなかった。

<愛なんて 嘘だもんね こんな気持ち消えちゃえばいい>

「なんだ? これ――」

 そのメールには画像が一枚添付されていた。ゆっくりと画面をスクロールし、追加受信を行う。
 バーが緑色に埋まっていく僅かな間、隼は恐ろしい予想が頭をよぎった。
 この画像が何なのか、分かるような気がした。何が送られてくるのか、言い当てる自信がある――
 ディスプレイに映しだされたものを見て、隼は絶句した。

「――悪い、ちょっと電話してくる」

 涙に濡れた顔を持ち上げるだけの奈緒を置いて、隼は一人公園の中に戻った。奈緒には声が届かないように、小走りで奥まで。
 由里は呼び出しになかなか応じてくれなかった。三回目に掛け直した時、やっと電話が繋がった。向こうも外のようで、時々車の走り去る音が聞こえる。

「おい、由里か! どこにいる?!」

 返事は、しばらくなかった。一度だけ鼻を啜る音が聞こえた。

「なんとか言え! 由里!」

<ごめんなさい……隼、あたし――>

 その声は、いつもの由里だった。急に遊べなくなってしまった時とか、勝手な罪の意識を抱え込んだ時にいつも聞いていた「ごめんなさい」だ。
 あの頃は、全部許してあげていた。そのまま彼女の身体を抱きかかえていた。
 今は、話が違う。

「お前がさっき送ってきたあれ、本物なのか?」

<――ごめんなさい。あたし、とんでもないこと……>

「本物なのかって?!」

 隼は怒鳴り声を上げた。「ひゅっ」と、勢いよく息を吸い込む音がした。

<うん、そう――>

 隼は力が抜け、天を仰いだ。事態は最悪の結末を迎えていた。
 画像は、ラブの亡骸だった。尻尾の炎が消え、水浸しで、土の上に横たわっていた。半開きの目が黒く輝いていたが、何も映していなかった。

<だって、どうしようもなくて! 隼がどんどん離れてって、もう頭の中ぐちゃぐちゃになって――>

 隼の中で罪悪感が広がる。由里に対するものではなく、奈緒に対するものだった。

「――悪いのは、おれだ。けど、やって良いことと悪いことがあるだろ」

 どうしようもない事実が隼に重くのしかかり、もう怒鳴る気も失せてしまっていた。
 反対に、由里の声はみるみる興奮を帯びる。

<分かってる! そんなの分かってるもん! けど――その、隼の近くにいる人が……に、憎くて仕方なくなって、それで後をつけてたの……。途中からはもうわけわかんなくて――も、もう、止まんなくてっ! ああっ、あたし酷いこと……!>

 由里はそれからはずっと、むせび泣くだけだった。電話越しに、声にならない声が響く。

「――ねぇ、何? 何があったの?」

 気付くと、奈緒が目の前にいた。
 隼は電話を切り、息を吸い込んだ。

 送られてきたものは、憎しみに蝕まれ、消えてしまった愛の炎だった。




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