風の便り




 突然実家から電話があった。別になんということはない、家で育てている水葵が満開だとか、他愛の無い話。
 そんなことでいちいち電話をかけなくても、と思い苦情を呈すると、「いや、ね、ニュースもあるんだよ」と母が言う。

「あんたのフシギダネ、“ダネちゃん”って名前つけてたでしょ。あの子ねぇ、進化するとフシギソウになるらしいのよ。末尾が“ソウ”よ“ソウ”。どうするの、あんた。“ダネちゃん”じゃなくな……」
「切るよ?」

 ぼくも先日気付いたところであったことは隠し、なけなしのプライドを全消費して、とりあえずそう告げる。

    ●

 旅に出てから一月が過ぎようとしていた。最近は頑張って大人ぶろうとしているけれど、成功しているかは分からない。

 話は結局、“ダネちゃん”談義からさらにアサッテの方角へ飛んでいき、昨日のテレビ番組に関して曰く、お金持ちの家では遺産相続が恐ろしくもめるのだそうで、そのせいで旅に出られない子もいるんだってね、可哀想だね。あんたは凡人の家に生まれて良かったねぇ、云々。
 着地点が見いだせないまま何となく話が終わってしまった。切り際に、また近いうちに電話をくれと珍しく言われる。ポケナビをしまった後「ふむ」と思う。

 今は季節外れのビーチに居る。夏休みはとうに終わっており、空き家と化した海の家を除けば何もない。振り返ると、ぼくとダネちゃんの足跡が点々と続いている。そう言えば、ぼくの友人の女の子はケーシィに“ケーちゃん”と名前を付けていた。少し安心したけれど、根本的な解決策にはなってないような気がする。

 もう昼前だけど、少し肌寒かった。秋が来たのかなと思う。ダネちゃんが足元にすり寄ってきたので持ち上げてやる。形はカエルっぽいし、寒いのは苦手なのかもしれない。ダネちゃんは「ダネ ダネ」言いながらぼくの腕に収まる。
 波の音がダネちゃんの声をかき消していく。



 海岸沿いを歩いていると、突然ダネちゃんが「フッシ」と叫んだ。ニックネームを“フッシー”にしとけばよかったなと一瞬後悔しつつ、ダネちゃんが自慢の蔓で指し示す方角に目を凝らす。
 何か飛んできている。最初はよくわからなかったが、どうやらワタッコらしい。そう言えば、風に乗ってあちこちを旅行するワタッコの話は聞いたことがある。ほどなくしてワタッコはぼくらの足元に着地した。

 下からぼくを見上げる目線が可愛らしく、どこから来たのかと話しかけるが、返事が無い。まぁ「ワタシハ ジョウトカラ キマシタ」とか本当に答えられてもびっくりするけれど、完全に無反応なのもちょっと悔しい。ウンともスンとも言わないできょとんとしている。やはり人語は無理かと思いダネちゃんに任せる。
 いや、トレーナーのぼくが言うのも何なのだけれど、ダネちゃんは頭がいい。ぼくが道に迷っている時彼はいつも自慢の蔓で「フッシ フッシ」と行く先を指し示してくれるのだ。いや、ぼくが方向音痴と言う訳では決してないのだよ?

 しかし、ダネちゃんの様子がおかしい。どうしたのかと聞くと、首を振りながら残念そうに「ダネダメ〜」と言う。なんかダメそうだ。
 秀才の誉れ高いダネちゃんでさえ通訳できないほど遠くから来たのか。となると、かなり疲労しているのではないか。そう思い始めると元気が無さそうにも見える。何かしてやりたいが意思の疎通ができない。え、どうしよう。

 そこで、とりあえずしゃがんでポケモンフーズを見せてみた。一瞬臭いを確認したのち、ワタッコはぼくの掌に乗っているそれを一口で食べる。
 ダネちゃんと目配せした後、昼食の準備にとりかかった。

 本当にお腹が減っていたのか単に食い意地が張っているだけなのかは知らないが、小さな体によく入るなと感心するくらいワタッコはよく食べた。お陰で心持ち懐かれたような気がする。現金なやつだ。3食分くらいのポケモンフーズを平らげた後、お腹一杯とでも言いたいのだろうか、自分のお腹をぽんと叩いた。



 今日はもともとリニアに乗るために次の町へ向かうだけの予定だったので、ワタッコを肩に乗せてそのまま進んだ。たまにふさふさの綿毛が顔に当たるのがくすぐったい。
 せっかく遠路はるばる来てもらったわけなのでなにか珍しいものでも見せてやりたいのだけれど、周囲には何もない。この浜と並走するアスファルトの道路はたまに駐車スペースがあるだけで一向に枝分かれする気配を見せず、道の向こう側には防風林が延々と続いている。結局夕方になって次の町に着くまで、ずっと同じような光景を見続けた。
 かわいそうなことをしたかなと思い、昨日見つけた木の実をワタッコにあげた。こう言うのを探すのは結構得意だ。
 ワタッコはやはり食い意地が張っているらしく、結構喜んでくれた。ぼくの肩の上で、こりこりと音を立てながら綿毛の彼は木の実を食べる。
 物欲しそうにしていたダネちゃんにも一個分けてあげた。


 道の終わりは唐突に訪れた。
 浜は消えて無くなり、代わりにコンクリートで舗装された港が現れ、豪華な客船が何隻もとまっている。摩天楼が夕日を受けて赤く染まっていた。
 リニアの町だけあって、駅周辺はかなりにぎわっていた。
 大きなCDショップには流行りの歌手のポスターが飾られ、電光掲示板には、新しくできた遊園地のCMと一緒に、良くわからない法律のニュースが字幕で流れている。
 ちょっと大きめのポケモンセンターでチェックインを済ませると外に出て、少し早目の夕食にした。ワタッコも、さすがに今回は3食分を平らげるわけにはいかなかったようで、ダネちゃんと同じくらいの分量だけを食べた。

 食事中もすこしそわそわしているなと思ったけれど、やはり食後は、言葉が通じないもののはっきりと『旅に出る』との意思表示をワタッコは示した。
 なんとなく予想はしていたし、引きとめる理由もないので頷くが、ふと思いついてもう一度ワタッコをポケモンセンターまで連れて行く。テレビ電話を貸してもらい、実家に連絡を入れた。

 また連絡をくれと言ったもののさすがに今日電話が来るとは思っていなかったようだ。少し驚いていたが、快く頼みを聞いてくれた。

 ぼく専用のパソコン端末にログインし、転送センターから贈り物を受け取る。
 紫色の花をたくさん咲かせた水葵を、ワタッコ右腕の綿毛に挿してやった。
 ダネちゃんがちょっと細工をしてくれたので、一輪ざしに入れるよりもずっと長くもつはずだ。ワタッコは最初しげしげと水葵を眺めていたが、こちらを振り向いてうんと頷いた。
 よく似合う、と言いたいのか、ダネちゃんも嬉しそうにダネダネ言う。

    ●

 あれから2週間がたった。やはり飛ぶなら高いところがいいのかなと思い高台に上がったころにはもうすぐ日が暮れようかという時間帯になっており、夕日に影を映しながらワタッコが飛んでいく様子がなんとなく思い出される。
 その町での所要は済ませ、今はずっと南の町に居る。いつものようにポケモンセンターでチェックインを済ませていると、若いバックパッカーの男が何やら自慢げに話していた。小耳にはさむと、どうやら少し北の町で、水葵を挿したワタッコが飛んできたのだと言っている。と思ったら、今度は紫苑の花を挿したワタッコがこのポケモンセンターに現れたらしく、水葵と紫苑、どっちが本当かと言いあっている。
 そりゃあ水葵が正解だよと思い手続きを済ませて話を聞きに行こうとすると、その青年はもういなかった。
 少しがっかりする。

 ふと見ると、パソコン横に紫苑の花が活けられている。その隣に手書きの説明書きが置いてあった。なんでも、旅をしているワタッコが持ってきてくれたものであるらしい。あれ、どっちが正解だったっけ?

 まぁ、こんなことも、あるんだな。
 思って一瞬、窓の外を見る。

 あのワタッコは、今どこに居るだろう。
 寒くなる前に、暖かい場所へたどり着いてくれるといいな、と思う。



    ●●



 静寂。
 それから、小さく冷たい声。

 この日記に、今日と明日の予定を書きなさい。
 なんて書けばいいの?
 自分で考えなさい。
 うんわかった。

 今日は明日の予定を考えます。
 明日は明後日の予定を書く予定です。

 わたしはそう書いた。
 新しいお母さんは満足そうな顔をしてわたしを家庭教師のおばさんのもとに預けた。お父さんは、そもそもここ数年間出会っていないからどんな表情かもわからない。

 1番目のお母さんは7年前死んだ。最近は、2番目のお母さんもわたしの前に現れなくなった。

    ●●

 生まれた順番が大事なんだって。
 家庭教師のおばさんがそう言ってた。

 お父さんは大分年を取ってから結婚したから、もうおじいさんになっている。それでも美人な女性と結婚したいって欲だけはあったらしい。お母さん以外にも若くてきれいな女性とたくさん付き合っている。
 家庭教師の先生はもう40をとっくに過ぎているけれど、先生の方が誰よりも美人だと、本当にそう思う。まぁ、ちょっとうるさいんだけど。

 それはともかく、遺産配分がどうとかいう問題があって、私はじゃま扱いされていた。
 難しい理屈はわからない。でも、わたしだってバカじゃない。新しいお母さんからバカだと思われていれば、書類のサインをのらりくらりとかわしていたら、とりあえずわたしは損しない。そう思って先生と相談しながら変な日記を書いた。

 それが、あの文章。

 あれを見て、わたしは一瞬背筋が寒くなった。これでいいって思ったからそう書いたんだけど、それでもやっぱりはっとする。
 それに、あの文章を見た時の2番目お母さんの顔が怖かった。「この子なら、大丈夫。簡単に手なずけられる」そう思っているのがすぐ分かった。
 お父さんの前では優しい女性に見えるようにふるまっていると、先生は昔ちょっと言っていたけれども、わたしは未だに信じられないでいる。

 いいんだ。わたしには、先生もいるし、ヒトカゲのミーもいる。皆でいればさみしくないし、2人はわたしのことを想ってくれている。

 それでも、たまに、不安になるんだ。
 これから一体、どうしようって。

 お母さんの要望は、簡単に言うとわたしに何もさせないことだった。それで、都合がいい時にサインを書かせることだった。だから、わたしは何もやることがない。
 今はだれがどう見ても“お嬢様”みたいになってるけれど、もっと小さい頃は、わたしは結構おてんばだったらしい。先生がそう言っていた。本物のお母さんは、何度もわたしとミーを山登りにつれてくれた。方向感覚がいいのはそのおかげかなと思う。
 けれども今はどこへも行けない。
 友だちになっちゃダメって言われた近所の子たちは、みんな10歳になったあと、すぐに旅に出た。
 わたしは11になったのに、旅には出ちゃいけないって言われてるから家にいる。なんか、家庭の事情があるらしいけど、私は知らない。教えてくれない。
 すごく大きなキャンバスが目の前にあるのに、絵具を全部持って行かれてしまった。そんな感じ。
 本当に、予定を書くしか予定が無いっていうのは、とても怖いことであるような気がした。
 今日の続きでしか、明日が来ないのだから。

 そんなときに、なんか変なのが家の屋根にひっかかっていた。

    ●●

 今日は、先生は用事があるとか言って出かけていた。天気もいい昼下がり、何もやることが無いなと思って窓の外を見ていると、白い綿毛が風見鶏にうまいことひっかかって身動きできなくなっていた。
 なんであんなところに引っかかるかなぁと思いつつ、とりあえず助けてやることにした。
 ミーはちょっと手足の長さが足りないので、仕方なくわたしが窓から屋根の上までよじ登って、綿毛を解放してやった。こう見えても意外とバランス感覚はある方だ。下から心配そうに見ているミーに軽く手を振りながら屋根を降りる。

「ミー。やっぱりワタッコだったよ。でも、あんた腕に何挿してるの?」

 わたしは腕に刺さった紫色の花を指さして尋ねる。
 ワタッコは何も反応しないできょとんとしている。

 沈黙。

 お互い1分くらい完全に静止した。
 ミーはたまりかねたようでワタッコの頭をコンと小突いた。もちろんすぐやめさせたけれど、綿毛君はもう涙ぐんでいる。ごめんね。

 綿毛君は右手の花をとても大事にしているらしく、ちょっと見せてと言って抜き取ろうとすると、すごく必死で嫌がった。
 その後もずっと、わたしがなんとかコイツに反応してもらおうと努力していると、ミーがいったん家に引っ込んで、ポケモンフーズの袋を引きずってきた。
 仲直りするつもりかもしれないけれど、まさかそんな手は通じないだろう……と思っていたら、ワタッコはいともあっさりとミーに懐いてしまった。
 ……現金なやつ。
 まぁ、懐いてるのはいいことかもしれないけれど、しっぽの炎で綿毛が燃えないかちょっと不安だ。

 ワタッコは綿毛に刺さった花を自慢したいのか、右手をあげてくるくる回り、ミーがそれを追いかける。
 せっかくだから、作り置きのお昼ご飯を外に持ってきて、その様子を見つめながらサンドイッチをほおばった。
 ワタッコが物欲しそうにするものだから少し分けてあげた。本当食い意地が張っている。でも、手渡しでご飯を食べてくれたのは、ちょっとだけ嬉しかった。

    ●●

 わたしには、嫌いな場所がある。
 一つは遊園地のアトラクション。もう一つが、部屋の中。
 だって、あそこにいても、決められたこと以外何も起こらないんだから。

「ねぇ、お願い。もうちょっと一緒にいてよ」

 日が西に傾き始めたころ。最後はもう、泣きそうになりながら必死に頼み込んでいた。

 突然ワタッコがそわそわし始めた。なんとなく意味は分かっていたんだけれど、気付かないふりをしておいた。無視しきれないことは分かっていた。でも、認めたくなかった。
 せっかく、外の住人に会えたのに、すぐいなくなるなんていやだ。また昨日の続きが始まるのは、いやだ。

「ねぇ!」

 そう半ば叫びながら綿毛を引っ張っていると、頭にぽんと手を乗せられて、聞き覚えのある声が、わたしを諭した。
 振り返ると、左手に大きな紙袋を提げた先生が立っていた。放してあげなさい、と先生は静かに言った。
 わたしは無言でそれに従った。

 助けてもらったと思ったのか、ワタッコは先生の肩の上に飛び乗った。わたしは小さく、ごめんなさいと謝る。

「せっかく、いい便りを持ってきたのに、泣くのはやめなさい」
 先生が、ワタッコの綿毛をふわふわと触りながら、そう言った。

「いい便り?」
 わたしがオウム返しに尋ねると、先生は紙袋から紫色の花を取りだした。

「ジャーン。紫苑の花。花言葉は『良き便り』ですよ」
 時期的にはそろそろ終わりなんだけど、たまたま道沿いに咲いててねぇ、採ってきちゃった。可愛いよねぇ、紫って好きなんだよね、だって私に似合うと思わない? 思わないって、あ、そう。あ、紫苑って言ってもシオンタウンの幽霊とは関係ないんだよ、云々。

「あ、あの、先生。それ摘むために町まで行ってたんですか?」
 延々と続きそうな先生の話を慌てて遮って、ちょっと滑舌がよいコダックみたいな声でわたしが尋ねると、先生はそんなわけないじゃないと明るい声で否定した。

「本命は、こっち」
 そういって、紙袋から分厚い紙束を出した。

「何、それ」

「書類」

「……何、それ」

 先生は満面の笑みでわたしに言う。

「ボールペンを持ってきて、これにサインしなさい」
 そして、続ける。

「これは、あなたを自由にしてくれる、魔法の文書ですよ」

    ●●

 先週、お父さんが新しい遊園地をオープンさせたのと同じ日に、ある裁判で画期的な判決が出たらしい。
 ようするに、わたしみたいな人は自由にならなければならないとした判決。
 自由になりたいって言った原告側の全面勝訴。
 子が、親から自立できるようにしたっていう結果。

「今は裁判の申し込みが殺到しているようで、完全解放からはもうちょっと時間がかかると思うけれど、でも解放されたことは、間違いありません」
 先生は続ける。
 裁判はちょっと長く続くかもしれない。でも、お金だけはたくさんあるんだから、優秀な人を雇って、わたしたちはもう丸投げしちゃいましょう。

 だから……
「だから、キミは、旅に出られるよ」

    ●●

「上手く別れる方法って知ってます?」
 先生が言う。
「早く別れることですよ。悲しくなる、その前に」
 そしてワタッコの頭をぽんとなでた。
 その意味は痛いほどわかったので、わたしは無言でうなずいた。
 日がもうすぐ沈もうとしている。
 ヤミカラスが淋しげに鳴き始めた。

「可愛い花挿してるのね、あんた」
 そう言ってワタッコ右手の花を抜き取ろうとすると、ワタッコはまたしても嫌がった。なにか思い入れがあるらしい。さっきも嫌がられたと教えると、先生は一瞬考えてから、こう言った。

「じゃあ、この花と交換しましょう」

 そういって紫苑の花を左手に挿してやる。「ガーゼを巻いておいたから、ちょっとくらいはもつはず」。
 ワタッコは左手の紫苑をじっと眺めている。そのすきに、先生はワタッコの右手から花をさっと抜き取った。ワタッコは一瞬びくついたけれど、まぁ許してくれたらしい。
 内心ちょっとドキッとした。

「あぁ、水葵ね」
 これもきれいな紫だ。そういって先生は目を細める。

「水葵の花言葉って知ってます?」
 もちろん知らない。
 そう言ったら、「これだから最近の若い子は」と先生は嬉しそうにうそぶいた。

「水葵の花言葉は『前途洋々』。前途洋々をもらって、良き便りを返信。悪くないでしょう?」
 前途洋々なんてあなたの旅立ちの前に縁起がいい。だから……

「だから、そろそろ泣くのをやめなさい」

 言われた途端に、わたしの涙腺は崩壊して先生にしがみつく。

    ●●

 結局その日の夜に、ワタッコは旅だった。
 ヤミカラスさえ鳴かない夜。わたしはミーを背中に乗せて屋根に上り、先生もワタッコを連れて屋根に上った。
 ミーの尻尾と大きな満月だけが明かりだった。

「ちゃんと紫苑は他の人に渡すんだよ。良き便りを『返信』したわけだからね。ちゃんと送ってもらわないと」

 先生はそう言っていたけれど、ワタッコはちゃんとわかったんだろうか。ちょっと怪しいと思う。でも先生は自信満々で「大丈夫」と請け合った。

 そうしてワタッコは、左手に紫苑の花を挿したまま旅立った。
 わたしたちは、ワタッコを見送った後も、なんとなく屋根の上でボーっとしていた。
 そして、先生が立ちあがる。

「じゃあ、キミの旅立ちの準備もしないとね」

 先生はとても元気よく言う。わたしは小さく頷く。



 翌朝。大きなリュックを背負い、わたしは広い庭を横切って、もっと広い世界へ旅立つ。
 わたしはまだちょっとめそめそしていたけれど、先生はとてもうれしそうだった。
 先生は悲しくないのと聞くと、だって40過ぎのおばさんが泣くのはかっこ悪いでしょうと、あっけらかんと言う。

「私もね、小さい頃は色々あったんですよ。私は、恥ずかしいけどキミの逆で、貧乏だったんだけれどもね。
「でも、私は、ここの家庭教師になったことは正しいことだと思ってるし、キミへの教え方も、まぁちょっと厳しいことも言ったかもしれないけれど、絶対正しかったって信じてる。だから、今ここでキミを送り出すことも絶対正しいし、だから、少なくとも今日は絶対泣かない」

 彼女は一息で言い切った。最後のところは一瞬声が震えていた。
 わたしは涙をこらえて、慌てて話題を変える。

「先生は、このあと、どうするんですか?」
 先生はねぇ、と彼女は答える。

「先生はね、塾を経営するよ。個人塾。私がオーナーの塾」
 すごいでしょ? 楽しそうでしょ? と私に聞く。
 わたしはブンブン首を振って同意した。
 先生は、嬉しそうにけらけら笑った。

 そして、私の背中を押す。

「いってらっしゃい」
 先生が言う。
「いってきます」
 わたしが答える。

 ミーは、ちょっと場違いな声で「ミーミー」と鳴いた。先生は顔をくしゃくしゃにして、笑った。
 門の上に活けられた水葵がこっちを向いている。



    ●●●



 あれから3カ月。わたしはもう旅にも慣れてきた。結構こういう生活が向いているのかもしれない。
 ミーはリザードに進化して鳴き声が「ガウガウ」に代わってしまった。そう言えば最終進化形のリザードンになってもミーって名前なんだなと思って一瞬噴き出した。
 ごめんね、ミー。でも、こう言う名前の付け方してる人ってきっとたくさんいるよ。まぁ、だからと言って何の解決策にもならないんだけど。



 トレーナーは誰しも通らなければならない森に、わたしはいる。ジムに行く前の一種の試練みたいなものかなと思う、
 日の光はほとんど届かず、ミーのしっぽの炎が頼りだった。やってくる虫ポケモンも、自慢の尻尾がなぎ払ってくれる。

 そんな時、一人の少年と出会った。
 彼は、フシギダネを抱えながら、不安げに森の中をうろうろしている。

 あ、この子はきっと方向音痴だ。
 直感的にそう分かった。
 そんでもって、あんまり頼りがいもなさそうだ。
 でもきっと、いい人だと思う。

「助けてあげよっか?」

 わたしはちょっと大きめの声でそう言ってみる。遠くからでも聞こえるように。
 フシギダネを抱いた彼は、顔を真っ赤にしながら頷いた。


    ●●●


 最近はずっと、2人と2匹で旅をしている。
 ミーはどんどん強くなるのに、ダネちゃんはなかなかレベルが上がらない。でも、彼らは意外と賢いみたいで、毒に効く実なんかを一目で見分けてひょいひょい集めてくれる。わたしの過去については恥ずかしくてまだ教えてないけれど、結構いいコンビになるんじゃないかなと密かに思っている。


 今朝、絵葉書が一通ポケモンセンターに来ていた。家庭教師のおばさんが、念願の塾を開けたって。
 年中温暖な町の一角、見覚えのあるワタッコと一緒に笑顔で写真に写っていた。
 そっと、手紙を胸に抱く。

 また忘れたころに、はがきが来るといいなと思う。


「あれ、キミもこのワタッコ知ってるの?」

 ダネちゃんを抱えた彼がそう聞いた。
 あれ、なんで彼がワタッコのことを知ってるんだろう?





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